【写真】気仙沼の港を背景に微笑むあさのみわさん

「片耳難聴」という言葉を聞いたことがありますか? 

これは文字通り、片方の耳が正常聴力で、もう片方のみが難聴であること。医学的診断名では「一側性難聴」といいます(この記事では「片耳難聴」という表現で統一します)。

ただ、「片耳が聞こえない」ということがどんな困難さを引き起こすのかは、あまり知られていないように思います。

例えば、オフィスで聞こえる側の耳を受話器に当てて電話をしているときに、遠くから呼びかけられたとしたら……。あるいは、カフェで会話しているときに、聞こえない方の背後から話しかけられたとしたら……。

片耳難聴の人には、その声が聞こえないことが多くあります。話しかけた人が無視されたのかと勘違いしてしまい、ときには人間関係に不要な行き違いが生じることも。また、中には難聴に伴う症状として、めまいや耳鳴り、小さな音が大きく響いて聞こえてしまう補充現象といった症状がある人もいます。

一つひとつは些細なことに思われるかもしれませんが、コミュニケーションや人との関わりは常に私たちの周りにある欠かせないもの。こういった日々の困りごとが積み重なっていくことで、つらい思いをしている当事者が少なからずいるのです。

【写真】傘を持ちながらこちらに笑顔を向けるあさのさん

申し遅れましたが、私は「きこいろ」事務局の麻野美和です。「きこいろ」というのは、私たちが2019年に立ち上げた、片耳難聴の当事者コミュニティのことです。私自身も片耳難聴の当事者で、左耳の聴力がありません。私が片耳難聴になったのは10歳の頃。今はまちづくりコーディネーターの仕事をしながら、ボランティアで「きこいろ」の運営をしています。

片耳難聴の困り感は人それぞれで、ほとんど不便を感じないレベルの人もいれば、生活の中で困りごとを抱えて強いストレスを感じている人もいます。片耳は正常に聞こえ、いつも困るわけではないという特徴があり、身体障害者福祉法の定めた「身体障害者」の基準に該当しないため、公的支援のほとんどを受けることができません。目に見えない障害であるために、困っていることが理解されにくい障害のひとつです。

もしかしたら、みなさんの身近にも、人知れず悩んでいる片耳難聴の当事者がいるかもしれません。

【写真】髪の毛を右耳にかけ、耳を手で軽く触れるあさのさん

今回は片耳難聴のリアルと、どんな思いから「きこいろ」を立ち上げ、運営しているかをお話しします。

悲しいで終わらせない「それで、どうするの?」と考える

飼っていた金魚が死んでも泣かないのに、人が亡くなると深く悲しむのはなんでだろう?

幼なじみが病気で亡くなったとき、幼稚園児だった私の中で悲しみとともに浮かび上がってきたのはそんな疑問でした。親によると、私は幼い頃から好奇心旺盛で、大人から見れば当たり前のような事柄についても、「なんで?」と深く知りたがる子どもだったそうです。

成長するにしたがって、私の目は社会に向くようになっていきました。

なぜ街角で募金活動をしているのだろう?
なんで社会は募金活動をしなければならないような仕組みになっているんだろう?

社会への関心が深まれば深まるほど、世の中には目を覆いたくなるような問題がたくさんあることが見えてきます。

小学校高学年になる頃には、それらの問題に対して「悲しいで終わったらしょうがないじゃん。それで、どうするの?」と考えるようになっていました。例えば、南極のシロクマが死んでいく映像を見て、「かわいそう」で終わるのではなく、どうすればシロクマを救えるのかと自分なりに考えるという具合です。あれこれ考えた結果、シロクマを救うためにエアコンを使わない生活を実践するような小学生でした。

【写真】小学生の頃のあさのさん。ピアノの前に座り、両手でピースサインをしている。

ピアノの前でピースサインをする麻野さん(提供写真)

片耳が聞こえているから大丈夫!?それってどういうこと?

そんな私が片耳難聴の可能性を指摘されたのは、小学校4年生のときに学校で受けた健康診断でした。

親によると、片耳難聴だとわかる少し前から、布団に横になって「こっち(=聞こえている右耳)を下にすると静かになるのでよく眠れる」などと言っていたそうです。そのときにはすでに左耳が聞こえていなかったのでしょう。

健康診断のあと、学校から「病院で耳の詳しい検査を受けるように」という通知を受け、まずは近くの病院を受診しました。検査をして確かに左耳が聞こえていないということはわかったものの、その病院では詳しいことまではわからないと言われて大学病院を紹介されました。

車で往復1時間ほどの隣町の病院に予約をとり、診察やいくつもの検査を受けて、日を改めて検査結果を聞きに行く。深刻そうな表情の両親に連れられ、周りの患者さんも大変そうな雰囲気の院内、検査自体も苦痛で、待ち時間を含めたら丸1日……。そんなことを何度も繰り返すのは、小学生だった私にとって、なかなか厄介なプロセスでした。

検査の結果が出揃うと、医師は耳のしくみの図を見せながら私の親に向かって淡々と説明を始めました。内耳という耳の奥にある聴覚や平衡感覚をつかさどる部分が機能していないために聞こえなくなっているということ、原因ははっきりしないがおたふく風邪の合併症であるムンプス難聴が考えられるということが告げられました。

そして、医師は説明をこう締めくくりました。

今の医学では治療法はありません。でも、片方の耳は聞こえているので大丈夫ですよ。聞こえている方の耳を大事にしてくださいね。

「大丈夫」という言葉で、医師は私を安心させようとしたのかもしれません。しかし、私の中にはさまざまな疑問が渦巻きました。それも当然です、そもそも耳の仕組みなんて初めて目にしたし、わからないことだらけでした。

片方の耳は聞こえているから大丈夫ってどういうこと?困ることはないのかな?
もう片方の耳まで聞こえなくなることはないの?

しかし、大学病院の短い診察時間の中では、私が納得できる答えを得ることはできませんでした。

【写真】気仙沼の港を見つめるあさのさんの後ろ姿

私としては検査で指摘されるまで片耳が聞こえないと気づいていなかったくらいだったので、具体的な困り感があったわけではありません。

それまで私は学級委員などのリーダー役を任されることが多く、先生や親がどうしてほしいかを敏感に読み取って行動するようなタイプの子どもでした。そのため、片耳が聞こえていないという事実に自分自身がショックを受けたというよりも、ショックを受けて涙を流している親の姿を見たときの「親を泣かせちゃった……」という罪悪感のような気持ちの方が強かったように思います。

耳が聞こえないことは悪いことなの?聞こえなくなったとしても、私が損なわれることはないし、大事な身体の一部ではあることに変わりはないのに……。

そんな気持ちを抱いたことも覚えています。

また、落ち込んで口を閉ざす親の姿を見て、「親がなんでも解決してくれると期待しちゃいけないんだ」とも感じました。私は、泣いていても状況が変わるわけではないので、片耳が聞こえなくなってしまったことを嘆くだけではなく、これからどうすればよいのかを考えよう、そのことを親にも相談できたらと思いました。でも、親とはそんな話ができる状態ではありませんでした。その後も今に至るまで、親に片耳難聴のことを相談したことはほとんどありません。

このとき、私は人と自分とはまったく違う存在で、親だからといってわが子のことがすべてわかるわけではないことを知りました。

自分でなんとかしなければ……。

そう思うことで自分で考え、創意工夫する力がついたようにも思います。

幸いにも、私の場合は工夫をすることで対処していける環境にありました。学校生活を送る上では、自分で先生に「左側の耳が聞こえなくなったので、一番左端の席にかえてください」などと伝えて、聞こえない左耳側から話される機会を最小限にする工夫をしていきました。

当時、クラスでは手紙のやりとりや交換ノートが流行っていて、仲のよい友人に「実は片耳が聞こえないってわかって。びっくりした。どうしよう……」と不安な気持ちを打ち明けたこともありました。すると友人は「大変だね」と私の話を受け止めてくれて、安心したのを覚えています。

ただ、会話の中で人の話を度々聞き返さなければならない場面もあり、そのことを同級生にからかわれたことも。「やめて!」と言い返すことはできたものの、「私はこう思うからやめてほしい」と言えるほどには、まだ私の中で言葉が熟していませんでした。

片耳が聞こえないのをからかわれることは数日でおさまりましたが、それで傷ついたことには変わりありません。

【写真】テーブルの上で両手の指を軽く重ねているあさのさん

とはいえ、今振り返ってみると、片耳難聴に対する周囲への対処法を自分なりに考えていく過程で、コミュニケーションのスキルが磨かれていったように思います。

さまざまな経験を通して小学生の私が学んだのは、片耳難聴について理解してもらうためには「どうしたら受け取りやすいか、イメージがしやすいか、相手に応じてわかりやすく伝えることが大事」ということ。また、「一度伝えただけでは人はすぐに忘れてしまうので、不便を感じたらその都度改めて伝える」ということでした。

片耳難聴の自分にとっては当たり前のことを、両耳が聞こえる人にいかにイメージしやすく伝えるのか。また、いつでも誰にでも同じように伝えればよいというわけでもありません。自分と相手との関係性や、そのときの状況やタイミングによっても変わります。片耳難聴であることを伝えるかどうかさえも、ケースバイケースであると気がつきました。

例えば、学校で下級生と行事のときだけ関わることがありました。そのときは「聞こえないから、こちら側から話かけて」とは言いませんでした。ただでさえイレギュラーなことへの対応に精一杯になっている下級生に、それを言っても難しいかもしれないと思ったからです。そういったときは、周りの同級生に「聞こえないことがあるかも知れないから、気づいてなかったら教えて」とフォローをお願いしていました。

片耳難聴とわかって涙した親でさえ、しばらく経つと私の片耳難聴のことを忘れ、家庭内で配慮されることもありませんでした。ならば他人が覚えていないのも無理もない。伝えるのに勇気が必要だったり、面倒だなと思うこともありましたが、言わないで困るのは自分。一瞬のネガティブよりもその先のメリットを考えて開示するようにしていました。

また、耳で聞こえない分、目で見ることが自然と身についたおかげで、クラスメイトのちょっとした変化に気づけたり、「あ、困ってるかも」と周りに気を配れるように。

でも初めからすべて上手く対処できたわけではありません。少しずつ試行錯誤や気持ちの揺れ動きの中で、徐々に自分なりに片耳難聴の私で過ごすことを覚えていったのです。

そうやって片耳が聞こえないならどうすればよいかと考えて前向きに取り組んでいましたが、ときには言いようのない不安に襲われることもありました。

当時、ピアノを習っていたので、もしこのままもう片方の耳まで聞こえなくなってしまったらどうしようと心配したこともあります。そんなときは「ベートーベンも耳が聞こえない中で名曲を残したのだから」と思い出して、自分もきっと大丈夫だと思うことができていました。

迷いに迷った進路 スタート地点は「人」だった

片耳難聴だとわかったのと同時期に、市内で募集していた福祉ボランティアに参加し始めました。たまたま教室にチラシが貼ってあったのをみて、私にもなにかできるかもと思い、「きっと楽しいよ!」と仲の良い友達数人を誘って始めました。

ボランティアセンターでの最初の面談でのことです。コーディネーターさんと話をしているうちに、私はずっと自分の中でくすぶっていた疑問を口にしていました。

なんで障害のある人は“かわいそう”っていう目で見られなきゃいけなんだろうって思うんですよね。“かわいそう”ってなんか違いませんか?

身近に障害がある子がいた経験があった私は、その子が周囲から「かわいそう」と言われることに違和感を感じていたのです。

面談を担当してくれたのは50〜60代くらいの女性で、彼女からどんな答えが返ってきたかということまでは覚えていません。でも、私の疑問を否定せずに、ひとつひとつ丁寧に受け止めてもらったことで、心が落ち着いていった感覚は今でも覚えています。

その後、数年にわたって募金活動やゴミ拾いなどの活動を続けました。

【写真】手振りをまじえながら笑顔でインタビューにこたえるあさのさん

そうこうしているうちに高校生になり、進路を決める時期が近づいてきます。片耳難聴であることは、けっして私の進路の幅を狭めることはありませんでした。それよりも、私の前に立ちふさがっているように思えたのは、社会問題という大きな壁でした。

実は高校に入って間もなく事故にあったのをきっかけに、嫌な思いをすることが続いて「死んでしまいたい」と思うほどの気持ちから抜け出せなくなった時期がありました。

死にたい私がいるけれど、生きたくても生きれてない人たちも世界にいる事実を勝手に自分で背負い込んだ気分になって、苦しくなっていたのです。

そんなとき、素敵な美容師さんに出会ったのをきっかけに「人を笑顔にできる仕事かも」と美容室でアルバイトを始めました。また、世界を見たら何かヒントが得られるかもしれないと海外のワークキャンプのボランティアに参加したことも。

ただ、人を笑顔にしたくて美容室で働いても、そこでお客さんからこぼされた悩みの元がなくなるわけじゃない。どんなに目の前のゴミを拾い続けてもゴミはなくならない。途上国の現場でどんなに頑張っても国の体制が腐敗していると何も変わらない……。

その現実に直面したときに思い当たったのは、自分ひとりの行動や目の前の小さな何かを変えるだけでなく、社会全体にアプローチする必要性があるのではないかということです。例えば、悩みや理不尽な構造がなくなるような環境やゴミが減るような仕組みなど、それを実現するためのよい「政策」を考えるのが大事なのではないかということでした。

また、人の気持ちを変えたり努力をしてもらうだけでなく、よい行動がしやすくなったり促される仕組みや環境をつくることが大事なのではという思いから、社会の仕組みや制度にも関心を持っていました。

けれど、そんなことを考え調べる中で周りを見渡してみると、みんなが目の前のことに追われていて余裕がないように感じました。政策が大事だと言っても、そんなことを考える余裕もなく悪循環が起きている。声を上げている人がいても、その人たちの声は国に届いていないかもしれない……。

今の社会では一人ひとりが大切にされているのだろうか、それぞれの人は「大事にされている実感」をどこまで持っているのだろうか。

そう考えるとスタート地点は、「人」なのではないかと思い至ったのでした。人にフォーカスしつつ、より広い視点で社会を見ていくことができるソーシャルワークを大学で学ぼうと、福祉学部への入学を決めたのです。

大学卒業後は精神保健福祉士として地域の公益社団法人に入り、地域の障害のある方の支援に携わりました。

その後、結婚を機に気仙沼に移住し、今はまちづくりコーディネーターとして高校生の探究学習や若い世代のチャレンジを支援しています。

【写真】まちづくりコーディネーターとして働くあさのさん。スタッフ2人と話をしている。

まちづくりコーディネーターとして働く麻野さん(提供写真)

遅発性内リンパ水腫になって気づいた、片耳難聴であることの困りごと

社会人として働きはじめた私に転機が訪れたのは、25歳のとき。遅発性内リンパ水腫になったことがきっかけでした。

遅発性内リンパ水腫とは、内耳に原因のある難聴を発症した数年から数十年後に、ぐるぐる回るめまいや吐き気などを起こす病気です。重症度によっては指定難病となっています。はっきりとした原因は分からず、完治させる治療法もありません。

私の場合は、突然、回転性のめまいが起き、吐き気に襲われました。そのひどいめまいは前後左右が保てず歩けなくなるほどで、しかも何時間も続きます。当初はそれを見た周りの人が驚いて、救急車で搬送されました。また、初めてめまい発作が起きてから診断されるまでには、半年もかかったんです。

というのも、私自身、難聴が原因でそのような病気があるとは知りませんでしたし、大学病院でさまざまな検査をしたものの、異常を見つけられず「ストレスだろう」と言われたから。ならば仕方ないと仕事の量を減らしても症状は変わりませんでした。困り果ててめまい専門医にかかったところで、遅発性内リンパ水腫と判明し、治療をすることで症状が落ち着いてきました。

今でも服薬は続けていて、めまいのために生活にいくらか制限があります。例えば、発作はいつ起こるかわからないため、車の運転は最低限に(ドクターからは症状がなければ運転してよいといわれています)。仕事で他の人を乗せたりはせず、遠方に行くときはほかのスタッフに同乗させてもらったりしています。また、疲れや寝不足が症状に良くないと聞くので、仕事のスケジュール調整をさせていただいています。

私は地方に住んでいるので移動手段が限られるのはとても不便だし、仕事ももっと頑張りたいのに頑張れない悔しさはいつも私の中にあります。自分の体さえままならない不自由さ、嘔吐しているときの苦しさと惨めさ、身体の記憶から消えない発作への恐怖。周りの人たちの元気な姿をみて、「どうして私は……」と嘆くこともあります。

でも、同時にこの体験から学ぶことも多く、この体験をして良かったとも思うし、そう思えるようにあろうと過ごしています。

片耳難聴当事者の話を聴いて気づいた、日常生活での困りごとの多さ

遅発性内リンパ水腫になったことは、きこいろを立ち上げるきっかけにもなりました。

当時、改めて片耳難聴についてネットで調べるみると、私の予想以上に片耳難聴によって日常生活で困っている人が多いことに驚いたのです。

それまで、私は片耳難聴を自分の中で大きくは捉えていませんでしたが、もちろん困りごとがなかったわけではありません。片耳難聴を理由にからかわれたり、何度も周囲に伝えなければ症状を理解してもらえなかったり。ただ、そういった困りごとが出てくるたびに、「困っているならどうすればいい?」と自分なりに考えて解決することができていました。

でも、それができたのは私がたまたま周囲に手助けしてくれる人のいる環境にいて、困ったことに対してどうしたらいいかを自分で考えて行動に移すことができたから。誰もが手助けしてもらえる環境にいたり、自ら考えてすぐに行動できる状態であるとは限りません。

私は福祉の仕事をしているんだし、「私が大丈夫ならそれでいい」とは思えない。困っている人がいるのにそのままにはできない。

そう考えて、現在きこいろの代表を務めている岡野由実さんに相談を持ちかけました。岡野さんは言語聴覚士であり、片耳難聴の当事者でもあります。

さまざまな当事者を取り巻く現状について話をしているうちに、情報が届いていないゆえに困っている当事者がいる確信を強め、また相談できる機会がないゆえに困り感が強まっているのではないかと考えるようになります。

片耳難聴の当事者に情報を届け、悩みを相談できる場をつくりたい。

そう思って、私たちは一緒に活動をはじめることを決意しました。

【写真】微笑みながら、窓から気仙沼の港をながめるあさのさん

ないならつくるしかない!そんな思いで立ち上げた片耳難聴のポータルサイト「きこいろ」

2019年に、私と岡野さんほか全国各地から集まった有志の当事者数名で立ち上げたのが、片耳難聴のコミュニティ「聞こえ方はいろいろ」略して「きこいろ」です。

きこいろでは主に、ウェブサイトでこれまでは当事者が知らされてこなかった専門知識の解説や、片耳難聴当事者の方へのインタビュー記事や役立つツールなどの情報発信をしています。また、当事者同士の交流会(片耳難聴Cafe)や勉強会の開催、学校や企業での講演・研修なども行っています。

きこいろを立ち上げて驚いたのは、片耳難聴で困っている人は、設立前に予想したよりもずっと多かったということです。

実際に取材やイベントで当事者の方々にお話をうかがうと、片耳難聴のために就きたかった仕事を諦めたという人も少なからずいました。日常生活の中でも、会話が聞き取れないために相手に不快感を与えていないかという不安を抱いていたり、話に入っていくのを諦めたりするという人もいます。

また、「今は聞こえている耳まで難聴になったらどうしよう」という不安は多くの当事者が抱えています。

【写真】きこいろのウェブサイトに掲載されているトップ画像。目を閉じ、左耳を出している方のイラストが描かれている。

「きこいろ」のウェブサイトのトップ画像(提供画像)

立ち上げた当初は、「100人が使ってくれる活動になったらいいな」と思っていました。ただ、サイトを立ち上げてイベントを開催したときに申し込みが殺到したことや、いただいた感想の熱さなどから、きこいろへの期待の大きさが感じられました。

イベントの参加者からは「イベントをやっていただいてよかったです!」という熱のこもった声や、「ずっと困っていて……」と心情を長々と綴られた感想が寄せられて、一歩踏み出してみてよかったと強く思いました。私に見えていなかっただけで、こういう機会が切実に求められていたのです。

どんどん協力してくださる方も増えていて、2023年1月現在では月間で約1万人がサイトを利用してくれています。交流会への参加者は累計で400名を超えました。

その一方で、「期待にどれくらい応えることができるだろう」という思いもあります。当事者の人たちに「きこいろが自分の片耳難聴のことを代わりに解決してくれる」と思わせてしまうのも違うのではないか、と私は思っています。

私たちは、役立つ情報を発信したり、啓発活動をしたりといった間接的なお手伝いや「聞こえ方はいろいろである」という社会の土壌・環境づくりへの寄与はできるかもしれません。でも、周りの人に助けてもらうことを含め、困りごとを解決したり、自分なりに片耳難聴と折り合いをつけられるのは、最終的にはその人自身にほかならないからです。

そういった意味で、「問題解決は私たちにお任せください!」というのではなく、「どうしたらよいのかを一緒に考える」というスタンスでいることが大事だと考えています。

【写真】テーブルに座り両手を重ね、少しうつむき加減のあさのさん

また、きこいろを利用してくださる方のなかには、当事者だけでなく家族の方々もいます。

2000年以降、新生児聴覚スクリーニング検査が導入され、生まれてすぐに片耳難聴も検査でわかるようになりました。少なくとも1000人に1~2人は片耳難聴の赤ちゃんが生まれているそうですが、それに伴うフォロー体制はほとんどありません。

たとえ「片耳が聞こえるから、言葉の発達には大きな問題はないですよ」と医師から言われたとしても、産後間もない母親をはじめとする家族の不安はきっと消せないでしょう。先天性ゆえに「自分のせいで」と責めるお母さんもいます。

それでも、きこいろの情報や交流会を通して大人になった片耳難聴の私たちと出会い、「こうしていけばいいのか」「うちの子もきっと大丈夫だ」と安心してくれる方もいて、その様子を見るときこいろの活動をやっていて本当に良かったなと思います。

きこいろでは片耳難聴のことを話すだけでなく、その人の背景を知ることで人生をちょっとずつシェアしているようにも思います。なぜなら、片耳難聴だけが単体で存在しているわけではなく、今生きているその人の一部として片耳難聴があるから。

片耳難聴がなければ出会わなかったであろう人たちと、片耳難聴をきっかけに知り合うことができた。そういう人との出会いや関わり方が私は好きです。そのつながりは片耳難聴による不安を和らげるだけでなく、きっとみなさんの人生そのものを豊かにしてくれるのではないかと思っています。

【写真】片耳難聴Cafeの様子。麻野さんと3人の参加者がテーブルを囲み、話している。

片耳難聴Cafeの様子(提供写真)

【写真】片耳難聴のオリジナルマークで作られたステッカーとキーホルダー。

片耳難聴のオリジナルマーク。デザインはきこいろメンバーや当事者のデザイナーだけでなく、公募でも募った。

わからなくてもいい。ただ、「わかろうとする」ことが大事

きこいろは、これまで事業を運営した経験がない私たちが、手探りで続けてきた活動です。だからこそ、自分たちで試行錯誤しながらつくっていく過程で自信がつき、それがやがて自負や誇りになっていくのを実感しています。

与えられたものではなくて、自分で獲得していく。

片耳難聴の当事者自らがきこいろの運営に関わっているのは、きこいろで活動していること自体が自分たちをエンパワーメントするからだと思っています。

【写真】きこいろの運営メンバー6人と一緒にうつるあさのさん

きこいろの運営メンバー(提供写真)

また、運営する上で私たちが大切にしていることのひとつに「中立性」があります。片耳難聴は人によって困りごとの幅が広く、どう対応するかも人それぞれなので、当事者のコミュニティにおいては特定の人の考えに偏るのではなく、みんなにとって中立でいた方がより多くの人の場になれるのではないかと考えるからです。

もちろん、何かに特化させて“とがらせる”ことのよさもあります。しかし、とがらせていく過程で、どうしてもノイズとなる部分は取り除かれてしまうでしょう。その結果、少数派の意見を取りこぼしたり否定してしまったり。片耳難聴者同士だからこそ、なおさら「おなじ」である圧力が強くなってしまう可能性があります。

両耳が聞こえる人が多数派の世界で、片耳難聴の人は聞こえに関してどことなく所在なさを抱えている人もいます。そんな中で、片耳難聴のコミュニティを見つけて「ここでなら悩みを話せる!」と期待した人が、そこでもまた否定されて「自分の居場所はどこにもないんだ……」というつらい思いをすることが決してないように。そう考えながら、私はきこいろを運営しています。

全ての人の声を聴くのは大変なことですし、お互いに完全に「わかりあう」のも難しいと私は思っています。私自身は「わかる」というのはなかなか不遜な言葉だと感じます。誰かと「おなじ」である必要もないし、あなたと違う自分の気持ちをすべてわかってほしいとも思いません。

それでも、「わかりあいたい」と思えたなら、わかり合う努力を少しずつ無理なくやっていけたらいい。

わからなくてもいい。おなじ、だけど、ちがう。それが当たり前。ただ、「わかろうとする」こと。

それこそが大事なのだと私は思います。

すべてがつながり、循環している社会の切り口のひとつになりたい

世の中にはもっと大変な思いをしている人がいるのだから、片耳難聴くらいで困っているなんて言えない……。

きこいろの活動をしていく中で、ある片耳難聴の当事者の方がそう胸の内を話してくれたことがあります。

でも私は、「片耳難聴くらい」とは思いません。

その人が困っていれば「困っている」でいいですよね。周りの誰かが決めることじゃない。たとえば、片耳難聴の私たちは法律上の区分では障害者手帳をもらえないけど、法律で認められなければ「困ってない」なんてことはないでしょう。私たち聴覚障害は「見えない障害」とも言われますが、目には見えないからと言って、ないことにもならない。

大事なのは、本人の言葉をちゃんと聞くことだと思うんです。もちろん、言葉にもならない「わからなさ」があると想像しながら。困りごとの全てを解決できなくても、「じゃあどうしようか」と一緒に考えられる存在でありたいと思います。

【写真】屋外でやや上の方を見つめて微笑むあさのさん

私は、きこいろで片耳難聴に関する知識を広めていくことだけを目指しているのではなく、根っこにある「人を大切にする」を当たり前にしたいと思っています。

もしきこいろを通じて、目に見えないところで困りごとを抱えている人がいると知れば、目に見えない別の障害で困っている人がいるかもしれないと思いを馳せることもできるようになるはずです。それは障害と名のつくものだけではありません。たとえばコミュニケーションが苦手な人がいたときに、コミュニケーションの苦手さにもいろんな種類があるかもしれないというように、人それぞれが抱えている背景への思いの馳せ方が変わっていくのではないでしょうか。

障害のあるなしにかかわらず、目の前の人に大切に関わること、その範囲を“世界”まで広げたら、きっと世界の平和につながっていきます。

そうやって、すべてがつながり循環している社会の切り口のひとつに「きこいろ」がなれたらいいなと思っています。

小さな頃から「どうしたら理不尽な思いをする人が減り、皆が幸せになれるんだろう」と思ってきた私にとって、その願いを実現するための一歩をきこいろの中でやらせていただいているとも感じています。

まずは自分を大切にすることから。それが、他の人を大切にすることにもつながっていくと信じています。

自分を大切に思い、目の前の人と向き合う余裕を持てる社会。そんな社会であれば、困難さをもつ人も過ごしやすくなるはずです。それは万人にとって過ごしやすい社会でもあるのではないでしょうか。

私のこれまでを振り返ると、たくさん悩んできたんだなと思います。でも、いいんですよね、別に悩んでも。それが私にとっては「自分を大切にする」だったし、きっとそれが「生きている」ということなのだと思っています。

【写真】階段の踊り場に立ち、手すりに寄りかかりながら笑顔をみせるあさのさん

関連情報:
きこいろ ウェブサイト 
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(執筆/松山史恵、写真/志田ももこ、編集/工藤瑞穂、企画・進行/小野寺涼子)