【写真】壁に寄りかかりカメラを見て微笑むたかはしめいこさん

はじめまして、髙橋芽生子です。

現在、病院付属の健診センターで保健師として勤めています。

私はわずか7歳のときに「クローン病」と診断されました。クローン病とは、食道や腸などの消化管に炎症や潰瘍が起こる原因不明の病気です。今のところ根本的な治療法がなく、難病に指定されています。

入退院を繰り返しながら何度も手術を行いましたが、排便コントロールがうまくいかなくなったことなどを理由に、23歳のときにストーマ(人工肛門)を造設し、オストメイト(排泄が難しくなり、人工的に腹部へストーマを造設した人をいう)になりました。

Instagramで、“障害者ママ”の一面を生かして、私の患っているクローン病やオストメイト、育児方法について発信しています。

今回は、私なりのクローン病やオストメイトとの向き合い方、人工肛門という元に戻らない体の変化を、どのように受け入れながら自分らしい人生を歩んできたのか、をお話したいと思います。

楽しく暮らしていた子ども時代。激しい痛みで手術をすることに

私は、愛知県の田舎町で生まれ育ちました。8人家族で暮らしており、仲のいいにぎやかな家族。私自身は、いつも活発で兄妹や友達、従妹など、人と遊ぶのが大好きな子どもでしたね。

小学1年生になり、平凡に楽しく暮らしていたある日、お尻の痛みを自覚しました。

肛門付近で、触ると少し腫れていて、赤く熱をもっていたと思います。立っていればマシでしたが、ズキズキ、ジクジクするような痛みで、まっすぐには座れなくなるくらいの痛みでした。

【写真】インタビューにこたえるたかはしさん

その後皮膚科など近くの病院を転々とし、地域にある総合病院に行ったところ、肛門周囲にトンネルのような通路ができて膿が溜まる「痔ろう」と言われ、切除する手術を行いました。

ですが、すぐに再発し、結局3回同じ手術を行いました。

手術後、1年ほどは調子がよく元気に学校生活を送っていましたが、小学2年の秋ごろ、夕方になると発熱し、だるさとお尻の痛みも出てきて、再度大腸カメラを受けることに。そして、クローン病と診断されました。

クローン病とは、大腸や小腸などに原因不明の炎症や潰瘍ができる炎症性腸疾患のひとつです。

診断された時のことは、私自身あまり覚えていません。「また手術か、嫌だな」という感じで、手術が終わったらまたいつもの元の生活に戻るんだろうなあ、くらいにしか思っていませんでした。

母は、当時のことを目の前が真っ暗になったと言っていました。「これからどうしよう」という不安、「変われるなら変わってあげたい」と、自分を責めていて、誰より心苦しかったと思います。

友達と同じように給食を食べれない。食の制限につらさを感じる日々

その後は大学病院に移り、クローン病の本格的な治療が始まりました。

入院中は絶食をしなければならず、栄養剤を鼻からチューブで注入する生活を1ヶ月以上行いました。小学2年生の私にとってお菓子だけでなく、食事や飲み物すらも制限されていた入院生活は、とても悲しく、寂しく、周りの患者さんの食事時間が一番苦痛でした。

しかし、その治療のおかげで、直近1年間で1㎝も1㎏も大きくならなかった私の身長と体重が、わずか1カ月の間に5㎝伸びて、5㎏も増えました。実はなかなか体が大きくならなかったのも、クローン病の症状のひとつだったようです。

【写真】微笑みながらお話するたかはしさん

こうして、1ヶ月半ほど治療を行い、その後退院しました。退院後は一変した食生活となり、母が私専用の食事メニューを作ってくれました。腸への刺激を抑えるため、低脂質で、食物繊維の少ないものを中心とした食事でした。

お菓子もパッケージに「動物性油脂」と書いてあると食べられなかったため、他の子がチョコレートやポテトチップス、クッキー、ケーキを食べているのを見ると、泣けてくるほど羨ましかったです。そんな中でも、クローン病や潰瘍性大腸炎の患者向けのレトルト食品もあり、低脂質だけど美味しいシフォンケーキやラーメンなどをフル活用して、気を紛らわしていました。

退院後の日常生活では、やはり食事面が一番ネックでした。小中学校は毎日給食だったのですが、食事制限のある私はみんなと同じ給食が食べれなかったので、給食費は毎月返金。毎日母が作る私専用メニューのお弁当を持参して食べていました。

当時、友達からは、お弁当をうらやましがられたこともあります。お弁当は運動会や遠足などイベントのときに食べるものだったので、「いいな〜弁当」と言われ、私は心の中で「全然よくないぞ」と思っていたけど、言えなかったです。

友人の前で気持ちを吐き出せない分、家では泣きながら「私もみんなと同じ給食が食べたい」と言って母を困らせたこともあります。

母はメニューを工夫してくれて、その日の献立表を見て近いものを作ってくれていました。プリンがつく日はゼリーを持たせてくれたり、肉料理の日はささみで似た味付けにしてくれたり、フルーツのイチゴがつく日には、イチゴの種のつぶつぶを取り除いた状態でお弁当に入れてくれていました。今思えば手のかかることばかりを毎日してくれていたんです。

「この病気は、一生付き合っていかないといけないんだ」

小学校5、6年の間は症状が落ち着いていたので、私は「もう元気だし、そろそろ通院しなくてもいいんじゃないかな?治ったのでは」と感じていました。

月に1回の通院の日、その道中で、私は母に「いつまで病院に通うの?」と聞いてみました。そこで母からは思いもよらない言葉が。

「治らないよ」

と言われたんです。

一瞬時が止まるような感覚で「えっ?」と衝撃を受けたのを覚えています。この時初めて、自分がクローン病という治療法が確立していない病気で、一生付き合っていかないといけないんだと認識しました。

その後、続けて母から、「お母さんも、看護師さんから、この病気は今はもう死ぬことはない病気だから、よかったねって言われたよ。そんな風には当時思えなかったけど、今なら分かる」と言われ、頭の中は多少混乱しながらも、「そうだよね…生きていられるだけありがたいんだよね」とは思いました。それでも「一生なんて…嫌だな…」という気持ちは明確でした。

【写真】たかはしさんの両手。テーブルの上で重ねている。

ずっと付き合っていかなければいけない病気だ、とわかっていても、友達にはなかなかそれを話すことができませんでした。

食事制限があったので、友達には「腸の病気があって」というくらいは話していましたが、「どう話していいか分からなかった」というのが本音です。

病気のことを話されたとしても、友達は「かわいそう」とも言えないだろうし、変な気を遣わせてしまうな、と思ってしまって。見た目ではわからない病気だったからこそ、私は“普通の子”を装っていたし、その方が気持ちが楽でした。

また、病気があると、どうしてもか弱い子という印象を与えてしまう気がして、弱く見られたくないという思いもあったと思います。

病気のせいで、結婚も出産もできないかもしれない。そんな不安でいっぱいだった

高校1年(16歳)の夏、それまでずっと症状がなかったのに再びお尻が痛くなりました。病院にいったら、シートン療法(溜まった膿を出すために、お尻に管を入れて膿を出すルートを確保する治療)をすることになり、留年しないよう単位を確保するために、高1と高2の2回、夏休みを利用して入院・手術を行いました。

お尻に管が入っていることに対しては、やっぱり「最悪」でした。すごく受け入れがたかったです。

周囲からは見えないし、カミングアウトしない限りは分からない。でも、「将来結婚もしたい、子どもも産みたい」と強く思っていた私にとっては、「そんなところに管が入っていたら、結婚も出産もできないかもしれない」という絶望感が付きまといました。

なので、そのことは言っても笑い飛ばしてくれるくらい仲のいい友達数人と、交際していたパートナーにしか話しませんでした。あくまで私は“普通の子”に見られたいという思いが強くあったからです。

【写真】かんがえながら話すたかはしさんの横顔

その後に交際を始めたパートナーには、お尻の管について話し、「それでもよければ」という形で交際を始めていました。話さずに交際を始めてしまって、バレて振られるのは悲しかったし、クローン病と一生一緒に生きていかないといけないことは私が一番分かっているからこそ、持病も含めて私として受け入れてほしくて。

病気のことをわかってくれていたとしても、パートナーに対して「ごめんなさい」という気持ちは強くありました。「人間誰しもが健康第一、健康に勝る願いはない」と思う部分があり、私にはそこが欠けているから。その時点で、劣等感を心の底で感じていたように思います。

永久的なストーマを造設し、オストメイトになることを決意

様々な経験を経て、23歳のときに、ストーマ(人工肛門)を造設することを決意しました。

もともと、ストーマを初めて勧められたのは高校生のとき。高校生で始めたレミケード療法という点滴で行う治療の副作用によって、排便コントロールが難しくなり、一回のトイレに1時間以上もトイレにこもることもあったんです。

「嫌だな、もうこんな生活をしたくないな」と思っていた時に、主治医からストーマを勧められました。

そのときは「絶対に嫌だ」と断わりましたが、最終的にストーマを決意したのはいろいろな理由がありました。

大学生のころ、仲のいい友達と時間が過ごせないのが嫌で、お尻に管が入っていながらも、温泉や岩盤浴に一緒に行っていました。その時に、シートン療法の管を見た方がタンポンだと勘違いし、「タンポンが出てるわよ。ちゃんとしまいなさい。そんなときに来ないで」と怒られたんです。

事情を説明し、「ごめんなさいね」とは言ってもらえましたが、自分や友達は気にならなくても周囲にはよく思わない方もいるよなあと、反省したことがありました。

【写真】街路樹の近くで右の方を振り返るたかはしさん

排便コントロールのしんどさ、シートン療法の管の煩わしさもありますが、私は7歳の時から痔ろうを何度もくり返していることもあって、医師から「痔ろうがんになる可能性が高い」と言われ、癌を避けたかったことも理由のひとつです。

このようなことが重なり、ストーマの造設を決意しました。自分でストーマにすると決めて、オストメイトになったので、急に病気などになってオストメイトになる方よりは、事実をスムーズに受け入れられているとは思います。

最初は、肛門を残して一時的に造設する回腸ストーマにしました。ストーマにすることは受け入れていたものの、うまくいかなかったときに元に戻せなくなるのが怖かったのです。

しかし大腸に便が流れてしまい、症状が再発。一度ストーマの生活を経験したことで、今までのつらい日々が嘘のように生活が楽になったこともあって、永久的なストーマに作り変えました。

「笑顔が一番の薬だよ」母の言葉が私の人生のモットー

ストーマをつくりオストメイトになって、最初はパウチ(排泄物をためておくストーマ袋)の管理などがうまくできませんでした。パウチ交換中に便が出てきたりして、交換に1時間以上かかっていたこともあります。

交換のやり方に慣れて来たり、食事で排便をコントロールできたりするようになってからは、コツがつかめてきて「ストーマをやってよかった」と思えました。

それは、生活の質が確実にあがったからです。便が出ない心配やお腹やお尻が痛くもならないし、排泄に関して費やす時間も減って、やりたいことをやれる時間がすごく増えたので、行動範囲がうんと広がりました。

実は以前、この病気のせいですごくショックだった出来事がありました。

私は何度もお尻の手術を繰り返して筋肉が弱くなっていたので、便を出したいからと下剤を飲むと、逆にすぐにトイレに行けないときは我慢ができないこともあって…実はパートナーの前で、便をもらしたこともあったんです。

心から消えたいと思いました。それくらい、私が生きてきた中で、一番精神的ダメージが大きかった出来事でした。

本当につらかったですが、今思えば、大変なことがたくさんあったから、ストーマの受け入れがスムーズになり、「もっと早くストーマにしてたらよかった」と思うほどの今に繋がっていると思います。

私は今、オストメイトになってからも、自分らしく生きれている実感があります。それは、家族や友達など、周囲の人に恵まれているからです。

私の数々のつらい話を笑い飛ばしてくれる友達や、ありのままを受け止めてくれるパートナー、家族の存在。「自分を受け入れてくれている」という安心感が、私の心の安定につながっていて、そんな周りの人たちの存在が、私が私らしくいられる要素だと思っています。

昔、母に「笑顔が一番の薬だよ」と言われたことがありました。どうしても、つらいことがあるとずっと泣いていたり、ふさぎこんでしまいがちですが、落ち込んでいてもよくなることはなくて。

楽しいから笑うんじゃなく、笑っているから自然と楽しいことが起こってどんどん楽しくなるんだ。

母からこの言葉を言われたときに、本当にその通りだと実感しました。なので、つらいな、しんどいなと思ったときこそ、ほんとに些細なことでいいから、面白いこと、楽しいこと、嬉しいことなんかを探そうとしています。

【写真】笑顔でお話するたかはしさん

たとえば、笑える映画をみたり、楽しい思い出に浸ったり、わくわくするような旅行の予定を入れてみたり。

もちろん、それでも落ち込むときはひたすら落ち込みます。泣きたいだけ泣いてスッキリできるまで発散したら、切り替えるから、「それまで愚痴を吐かせて」って気持ちで、とことん落ち込んで…。最後は、自分が笑えたら流れが変わる。

こんな風に、気持ちの切り替えが得意になれたのは、もちろん性格的なものもあるかもしれませんが、7歳からクローン病で、「治らないのが当たり前」というなかで育って。駄々をこねても何も変わらない、現状で楽しくやるしかないことを嫌というほど痛感してきた部分があります。

だから、ひたすらマインドセットを切り替えて、楽しいことを探して生活をしてきた。これが私自身の、メンタルを保つ方法だと思っています。

笑顔が一番の薬。母にいつ言われたかは覚えていないけれど、ずっと心に残っていて、私の人生のモットーになっています。

体調をコントロールしながら、保健師の仕事に励む日々

今私は、病院付属の健診センターで保健師として働いていますが、看護師になるのが、小さいころからの夢でした。長期入院を何度も繰り返してきた私にとって、看護師さんの存在が救いだったのが影響していると思います。

なので、看護師と保健師の資格を取得し、「自分が病気を経験をしているからこそ、痛みに共感してあげられる」と思って、病気と闘っている人の支えになるために卒業後は病院で看護の仕事に奮闘していました。

【写真】アスファルトの道を歩くたかはしさんの足元

しかし体調の問題で、健診センターへ異動し保健師として勤務することになってみると、病気になった人を支える看護師も素敵だけれど、そもそも病気にさせないように働けることも、とても素敵なことだと実感できて。今はとても楽しくやりがいを感じながら働けています。

仕事の中では、保健師の仕事は夜勤がなく、デスクワークも多いため、体力的な負担は大幅に減りました。また、体調が悪い時は早めに帰らせてもらったりして、十分に休息時間を取れるようにコントロールするようにして日々生活しています。

クローン病はいかに寛解期を長く保つかが大切で、体調をコントロールしながら働くために、私の大腸はいまイレウス(腸が詰まる、動かなくなる)を起こしやすい状況にあるので、食事面では食べるものに気をつけつつ、我慢ばかりでストレスをためないよう心がけています。繊維質なものもよく噛みながら味わって楽しんだり、脂質の多いものも量を調整して少しだけでも満喫するなどが私なりのコツです。

病気を理解してくれる夫に出会い、娘も授かった

私は、25歳のときに結婚しています。夫は、大学の同級生。病気のことは直接伝えたわけではないけれど、友人同士の会話の中で自然に知られていた気がします。

「こんな病気持ちの女、よく好きになったよね」なんて言ったことがあります。私自身も不思議で仕方なかったからです。

でも当時の夫は、「そんな背景があってもそれを見せない笑顔で、毎日こんなに楽しく過ごしている姿を見て、そこに惹かれた」と。昔、「笑顔でいたらいいことがある」と言ってくれた母に、改めて感謝しました。

しかし、お付き合いの段階で、夫のご両親から初めは反対されていました。私が直接なにか言われたわけではありませんが、夫に対して「病気のある子を本当に支えられるの?」と言われたそうです。

それに対して夫は「勝手に決めつけるな」と怒ってくれたそうで…夫の本気がご両親にも伝わり、その後は、私のことを本当の娘のようにいつもよくしてくださって、無事に結婚にも至りました。

【写真】インタビューにこたえるたかはしさんの横顔

結婚後は「子どもがほしい」と思って、妊活をするもなかなかうまくいかなくて。不妊治療を経て、30歳のときに念願の子どもを授かりました。

様々なリスクを考えて、ストーマをつくった大学病院で出産したのですが、産科の医師だけでなく、消化器外科の医師までも私の出産に立ち会ってくださったんです。何かあってもすぐに対応できる、そんな安心感の中で出産することができて、この時も本当に多くの方に支えられたと思います。

今、娘は2歳になりました。「これ何?」とストーマのパウチを触ってきたり、「この袋、邪魔」と言ってきたり、パウチを交換しているときはじっと見たり。

まだ彼女にストーマのことをなんて伝えるのが正解なのか、私自身よく分かっていませんが、隠すことはせず、「ママ、ここからうんちが出るんだよ」と事実を簡単に伝えています。

私の経験が誰かの力になれば。クローン病、オストメイトの発信を始めた理由

私は今年の6月ころから、Instagramで病気のことを発信しています。

もともと私は、昔から同じ病気の方の支えになりたいと思っていて、それが看護師という夢へ繋がったんですが、保健師として働いていると同じ疾患の方と関わることはほぼありません。

しかし、看護師時代にこんな再会がありました。

私が小学生の時に入院していた同じ病気の10個年上の友達が、私が勤めている病院に入院してきたんです。その人は、大腸がんを発症していて、末期でした。

私は毎日、仕事終わりにその人の病室に通って、他愛もない話をしたりしていました。

そんな中で「あなたは本当に毎日明るくて話していて元気になるよ。あなたもつらいのにほんとすごいね」って。

私なんかより何十倍もつらい思いをして苦しんできているのに、そんな風に私を励ましてくれる言葉をいつもくれていました。

たしかに私って、味わいたくても味わえない、貴重な体験をさせてもらってるんだよなあ。しかも私は、「ストーマにしてよかった」とも思えていて、これほどまでにこの状況をプラスに捉えている人って少ないのかもしれない。

その言葉を聞いて、そんなふうに思うようになりました。

【写真】笑顔で話すたかはしさん

また、長年の友人にも「あなたはきっと自伝が書ける。それくらいの経験をしてきてて、それは他の誰にも真似できない、あなたの強みだよ」って言ってもらいました。

そういった周囲の人たちの言葉は、私の経験を伝えることが、だれかの励みになるのかもしれないと背中を押してくれたんです。

よくよく考えてみると、オストメイトになって、つらい思いをたくさんしてきました。排泄というデリケートな部分が関わる病気でもあるからこそ、患者のリアルな声がなかなか聞けず、情報を得ることに苦労もしました。

看護師だから知識があるのでまだ自己流でなんとかなっているけど、もし何も知識がない人が急にオストメイトになったら、どれほどの絶望感なんだろう。

そう思ったら、私がSNSで発信することで、同じ境遇の誰かの助けになれるかもしれない。私が幼いころに看護師になって叶えようとした夢は、そんな形でまた新たに叶えられる。

周りの人のおかげでそう気付き、インスタでの発信を始めることにしました。

クローン病やオストメイトであることによる経験談を綴ったり、「オストメイトあるある」と題して食事や排泄など日常生活の悩みと対処法を語ったり。写真や動画、文章などで、伝わりやすいよう工夫して発信をしています。

私の投稿を見てくれているのは、クローン病や潰瘍性大腸炎、現在もしくは過去のオストメイト当事者の方や、ご家族、中には患者と関わっている医療や介護職の方もいらっしゃいます。

「こんな失敗したことあります」と投稿すると、同じ経験されている方が共感してくださったり、私がパウチで肌荒れしてしまったときにはアドバイスをいただくこともありました。

持病を持つことでの将来の不安や根拠のない劣等感など、様々な感情も、感じているのは私だけじゃないんだなあって。発信を始めたことで、日々とても温かいDMやコメントを頂けています。

同じくらいの世代でも当事者の方がこんなに多くいることにも驚きつつ、フォローしてくれる方の存在が、私自身の励みにもなっているんです。

些細なことでも笑ってほしい。自分だけじゃない、一人じゃないんだ。当事者本人にそう思ってほしくて、そんな想いから、少しふざけた投稿もしていますが、「クスっとわらえました。元気になれます」「前向きになれます」というコメントが多くて、本当に嬉しく、ありがたくて。発信を初めてよかったですし、日々応援して下さる方へ感謝しかありません。

周囲に自分のことを、ちゃんと言葉にして伝える。それが私らしく生きるコツ

私が私らしく生きるために意識していること、それはちゃんと言葉にして伝えることです。

今まで、病気のことを伝えることで、相手を嫌な気持ちにさせたり、困らせてしまう気がしてあまり言ってきませんでした。しかし、いつもの対人関係と同じで、やっぱり相手に理解してほしかったら、ちゃんと伝えないと理解はしてもらえない。

まずはオストメイトだと話せる人に話したことで、とても気が楽になりました。友達とは温泉旅行にも行けたり、パウチから排泄の音が漏れてしまっても「あ、ごめん」で済んだり、体調が優れず休みたいときも言いやすくなったりと、今までの生きづらさを払拭できたんです。

もちろん誰にでも言うわけではありませんが、言うと楽になることもたくさんあることを、身をもって実感することが出来ました。

そしてそれは、私だけじゃなくて、相手にとっても同じだと思います。

長年の友人ならなおさら、私のことを病気も含め理解したいと思ってくれている。それなら、私が伝えることで、お互いに付き合いやすくなるのではないかと感じます。

オストメイトは、排泄部分の障害であり、どうしても人に言いにくい、理解はしてほしいけれど、知られたくない、という矛盾した感情が伴う部分だと思っています。

なので、もちろん言いたくなければ言わなくていいと思うし、オープンに言うことが正解というわけではないです。

【写真】ベンチに座り左の方向を見つめるたかはしさん

しかし、今普段の生活、行動範囲の中で生きづらさを感じている部分が大きくあるのであれば、少し勇気を出して、まずは安心できる関係値のある人に打ち明けてみるのも今の状況から抜け出す一歩になるんじゃないでしょうか。

言ってみることで、助かることは多いし、自分らしく生きるという意味では、言った方が自分らしくいられる。それは障害に限らずどんなことでもそうだと思っています。

私は深く考えすぎずに勇気を出してみたことが、今の私に繋がったと感じています。

また、自分らしくいるため「自分がやりたいことをやる」のも大切にしていることです。病気、障害、育児などを理由に諦めるんじゃなくて、まずはやってみること。これも自分らしく人生を楽しめることにつながってると思っています。

私がやりたいことをやらなきゃと思った理由のひとつに、大学生の時に手術後、傷口からの大量出血で意識が遠のき、「死ぬかもしれない」と感じたことがあります。

それで、誰しも今を生きてることって奇跡だと思ったんです。明日が来る保証はないから、今やりたいことは今やる。そんな思いが私の行動力につながっている気がします。

今の自分に誇りと自信を持って、笑顔で精一杯生きていきたい

私は、今後も保健師としての仕事を続けながら、クローン病やオストメイトの情報発信をしていきたいと思っています。

人生で起こる全てのことに意味がある、と私は考えています。私は病気がなかったら、すべてを当たり前だと思って、日常に感謝できずに過ごしていたかもしれません。

きっと私がクローン病とオストメイトという障害を抱えたことは、私がこの経験をしないことには得られない何かがあったのかな。この経験を生かして人の役に立つことができたり、何か与えられた役割があるのかな。そう思うのです。

そんなふうに捉えて、今、情報発信以外に私にできることは何だろう、他にも何かに挑戦したいとずっと考えてきました。その中で、障害者モデルという形もあることを知り、実は現在、障害者が所属する芸能事務所のオーディションを受けている最中です。

私自身、おしゃれしたり、メイクしたりすることで、気分が上がったり、前向きになれることがたくさんあって、美容の力にいっぱい助けられてきました。持病持ちの子=弱い子、可哀想な子と思われてしまってる気がして、それが嫌で、弱そう、可哀想と見られないように、と思っているときに、生きる力になったのが美容だったんです。

障害があると、ついつい美容は諦めがち…でも美容を諦めなかったら、もっともっと私は私らしくいられたので、モデルの仕事は障害を持つ自分を、表現する最適の場だと考えて新たな夢に挑戦することを決めました!

今は1次、2次審査を通過することができ、最終面接を目前にしています。きっと記事が出る頃には、最終審査も終わって、結果が出ていると思います。

結果はどうなるかわかりませんが、結果がどうであれ、挑戦する勇気を持って行動に移したこと、そしてそのために私にできることを全力でやれれば、後悔はありません。

この挑戦した経験がまた私自身を強く大きく成長させてくれたものだと思って前に進み続けたい。もし障害者モデルになるという夢を掴むことができていたなら、そのまた次の夢へと、挑戦を続けたいです。

最後に…クローン病を患い、オストメイトである私が、今ここまで前向きに人生を楽しく新たな挑戦もできているその背景には、母の言葉と、家族、友達はじめ周りの人の存在があるからです。決して一人では、今のようには生きられませんでした。

そして、病歴が長いからこそ、今後癌を発症するかもしれない不安もあります。でも、昔に比べて医療は進歩し、新しい薬が開発されてきているのも確かなので、長い人生で見ていけば、クローン病院も治る時代がくるのではないかと希望を持っています。

持病があること、障害を持つことは、決してマイナスばかりではない。向き合い方次第で、私だけの個性・強みにもなる!私は今の自分に誇りと自信を持って、これからも笑顔で精一杯、生きていきたいです。

【写真】振り向いてカメラに微笑むたかはしさん

関連情報:
髙橋芽生子さん Instagram

(撮影・編集/工藤瑞穂、企画・進行/小野寺涼子、協力/金澤美佳