【写真】新宿の街中を白杖を持って歩くいしいけんすけさん

何かを「諦めた」、「手放した」。そんな経験が、誰しもあるのではないでしょうか。

私もここ数年で、いくつかのことを諦め、手放しました。ふとした瞬間にそれが頭に浮かぶと、そのたびに心がきゅっと痛むような感覚になります。

でも、こう感じるのはもしかしたら、私が過去の経験のネガティブな面しか見ていなかったからかもしれない。むしろ本当は、手放したからこそ得たものがあるのではないか。

その人とお話をしながらそんなことを思ったのです。

2016年4月、36歳のある日、突然視力を失い視覚障害者になった石井健介(いしいけんすけ)さん。石井さんの今の視力は、近くのものであればシルエットや光が見える程度だといいます。

石井さんにインタビューをさせてもらえることになったとき、一番最初に浮かんだ質問は「見えていた時の自分や見えている他者と比べてしまうことはありませんか?」というものでした。インタビューを終えた今、改めて考えると私自身、無意識に目が見えないことを「ネガティブなこと」だと捉えていたのだと思います。

でも、石井さんは、「死にたい」と考えていた時期がありながらも、今は見えていたときとは違う、新しい世界を味わいながら生きていました。

病気や障害、また予想できない困難な出来事に直面すると、何かが欠けている、不足している状態だと思ってしまうことがあります。でも、それは本当にそうなのか…?石井さんとお話をするなかで私の中にそんな考えも生まれました。

現在、石井さんはマインドフルネスや瞑想を組み合わせたセラピーやワークショップの企画、「見えない世界」にまつわる講演活動などを精力的に行っています。そんな石井さんに、突然視力を失ったその日から、どんなふうにその事実を捉え、どんなふうに自分や他者、社会と向き合ってきたのかをお聞きしました。

雑踏のなかから、白杖をついて颯爽と現れた石井さん

【写真】白杖を持って道路を歩いているいしいさん

石井さんとの待ち合わせは、いつもたくさんの人で混み合う新宿駅前。約束の時間ぴったりに「到着しました」とメールが届き、顔を上げてみると、石井さんは雑踏の中から、白杖をついて歩きながら颯爽と現れました。

私にとって、視覚障害者の方と街なかで待ち合わせをするのはこれが初めての経験。私は事前に写真を見ているので、歩いてきた人が石井さんだと分かるけれど、石井さんは私たちのことは見えないはず。どんなふうに声をかけて、どんなふうに挨拶したら良いのだろう…と、私は少し緊張していたのです。

そんな心配をよそに、石井さんとの対面は“ごく普通”でした。「石井さんですか?」と声をかけて、それぞれ名前を名乗って「はじめまして」と笑う。私の緊張がすっと溶けた瞬間でもありました。

【写真】新宿駅近辺を歩くいしいさん

そこからインタビューを行うスペースまで、私たちと変わらないスピードで歩く石井さん。基本的には、白杖をつきながら点字ブロックをなぞって歩きますが、その上に人がいたり、向かっている方向に点字ブロックがない場合は、歩行用の通路を歩いていきます。

石井さんが駅からスペースまでの道をよく知っていたこともあり、方向を伝えると道順を教えてくれたので、新宿の街を詳しく知らない私たちは石井さんを頼もしく感じました。

母や兄の後に隠れてしまうような、引っ込み思案だった少年時代

スペースに到着して、みんなで自己紹介をしたあと、石井さんのインタビューが始まりました。

くすんだ紫や青、薄いピンクの毛糸で編まれたカラフルなカーディガンがとてもお似合いの石井さん。石井さんがすごく気さくに笑顔で接してくれるので、向かい合って話していると、目は合っていなくても、しっかり私に意識を向けてくれているのがわかります。

【写真】笑顔で話をするいしいさん

そんな石井さんですが、実は子どもの頃からずっと人見知りだったといいます。

子どもの頃は、母親や3歳上の兄の後に隠れているような子どもでした。引っ込み思案で、“人見知り”というのが当時の自分を表す言葉です。今は自分のことを人見知りだとは思っていませんが、改めて考えてみると、本当の意味でそこから脱却できたのは、見えなくなってからなのかもしれません。

千葉県に住んでいた小学生の頃、東京に住んでいたおしゃれないとこの影響でファッションに興味を持つようになった石井さん。当時からお年玉やお小遣いを貯めては、自分の好きなバッグや洋服を買っていたのだとか。

高校生になるとアルバイトに明け暮れ、バイト代を握りしめて東京に洋服を買いに出かけました。「ファッションが好き」という気持ちがより強くなった石井さんは、高校卒業後は、ファッションの道に進みたいとも考えるように。雑誌などで、“業界の花形”として取り上げられていたバイヤーを目指して、文化服装学院に進学することを決めました。

ファッションの花形“バイヤー”を目指して、イギリスに留学

専門学校でファッションを勉強した後、石井さんはとあるブランドの販売員として働き始めます。その後さらにファッション業界で邁進するためにイギリスに留学。そこで感じたのは、“真の自由”でした。

イギリスの出る杭は打たれない、自由な雰囲気が一番印象に残っています。ファッションも日本ではみんなが同じような洋服を着ていましたが、イギリスでは自分が本当に好きな服を着るというのが主流なスタイル。自分を表現する方法のひとつがファッションなんだな、と改めて知ることができました。

1年半ほどをイギリスで過ごし、帰国。その後はアパレルブランドの営業として仕事を始め、少しずつやりたいことができるようになってきました。この頃から石井さんは、「買い手よし、売り手よし、世間よし」という意味の江戸時代から伝わる言葉「三方よし」を意識して仕事をしはじめたといいます。

僕の仕事はとにかく、「人が好き」というのがベースになっているんです。自分だけ儲かっていても、取引先の人はそうではないとやっぱり気になってしまいます。だからずっと「三方よし」は意識し続けていますね。好きな人たちと気持ちよく仕事をしたいと思っているんです。

様々な経験を積んだ後、石井さんはフリーランスとして働くことに。ファッションの仕事はもちろんですが、幅広い内容の仕事をするために独立することにしたのです。ちょうど娘が生まれた時期でもあり、子育てをしっかりしたいと思ったのもフリーランスに転向した理由のひとつ。

フリーランスになってからは、ファッション関係の仕事はもちろん、編集や執筆関係、セラピストなど、多くの仕事を精力的にこなすようになり、公私ともに充実した時間を送っていたのです。

ある日突然視力を失い、パニックに。原因不明のまま入院

【写真】インタビューに応えるいしいさん

フリーランスとして仕事を始めて数年が経ったある4月の金曜日、石井さんは喫茶店で打ち合わせをしていました。メニューを見ていたとき、視覚のほんの一点だけ抜けているような違和感を目に感じたのです。

自宅に帰って看護師の妻に相談したところ、「念のため、明日病院に行ったら」と言われ、翌日の土曜日に眼科で検査を受けることに。結果は大きな異常はなく、“疲れ目”という診断でした。

しかし、その翌日の日曜日、朝目覚めると全てが滲んで見え、はっきりと見えるものは何ひとつなくなっていたのです。

あの時はパニック状態でした。隣で寝ているはずの娘の顔すら見えないんです。妻はすでに起きていたので、「ちょっと来て!何も見えない!」と泣きながら訴えました。

ある日突然、見えていた世界がみえなくなる。それは一体どんな感覚だったのでしょうか。

妻は冷静な人なので、すぐに前日に行った眼科に連絡して、受診できるように手はずを整えてくれました。目覚めてから眼科に到着するまで、時間にすると2〜3時間だったと思います。その間にも、見えていた光がどんどん見えなくなっていきました。

再度眼科で検査を受けましたが、眼球にはやはり異常がないという診断を受けます。神経の方に問題があるのかもしれないため、その後、近くの大学病院で診察を受けることになりました。その待ち時間、石井さんはひたすら恐怖に震えていたといいます。

昨日まで見えていた目が今日突然見えなくなるって、恐怖以外の何ものでもなくて。診察を待っているあいだ、ずっと自分の太ももをつねっていました。痛みがないと、自分が本当にここに存在しているのかも分からないような感覚だったんです。足をつねって、ただひたすらその痛みにすがっていました。

ようやく検査を受けられたのは、待合室での時間が3時間ほど経った夜10時頃。なぜ突然視力が落ちてしまったのか、その日は原因が分からなかったので、検査のために石井さんはそのまま病院に入院することになりました。

目の見えない自分が父親でいられるのか。視力を失い、死を考えたことも

身振りを添えて話をするいしいさん

その晩、個室に入院した石井さんは布団を被って声を上げて泣きました。これからどうなってしまうのか、視力は戻るのか、何も分からない状態がただただ恐怖だったのです。入院から数日間は絶望的な気持ちで、「死にたい」と考えることも多かったといいます。

あのとき、娘は3歳で息子はまだ生まれて数ヶ月でした。子どもたちにとって、見えない自分が父親だったら不幸なんじゃないか。自分が死んで、妻は他の誰かと再婚して、子どもたちはまだ小さいうちに他の人を父親と認識できた方が幸せなんじゃないか…とまで考えていましたね。

しばらくパニック状態だったという石井さんですが、人間はずっとそんな状態ではいられないということにも気付いたそう。

ふと気持ちが落ち着いたときに「この部屋はどうなっているのだろう?」という好奇心が湧き、手探りで部屋の様子をさぐってみました。その感覚に覚えがあり、気付いたのです。「あ!これはダイアログ・イン・ザ・ダークだ!」と。

ダイアログ・イン・ザ・ダークとは、完全に光を閉ざした“純度100%の暗闇”のなかで、特別なトレーニングを積み重ねた視覚障害者にアテンドされる形で、視覚以外の感覚を広げ、さまざまな対話をするというソーシャルエンターテイメントのこと。石井さんはダイアログ・イン・ザ・ダークを見えていたときに体験していたので、「まさにこれはあの世界だ!」と感じたのだそうです。

その感覚が、一番最初に突然視力が落ちて、絶望していた状態から少し浮上するきっかけとなりました。

そして当時はピンときていなかったそうですが、妻の「居てくれるだけでいい」という言葉も大きな力になっていたと石井さんは振り返ります。他にも妻からは「目が見えなくなったとしても、話をすることはできるし、子どもたちの父親だということには変わりはない。その存在は大きいんじゃない?」といった言葉をもらったことも。

見えない世界への恐怖を感じたり、逆に好奇心が湧いたり、石井さんの心は大きく揺り動かされながら最初の数週間が過ぎていきました。

かっこつけるのはもうやめる。病棟で同室だった人の行動に教えられたこと

【写真】インタビューに応えるいしいさん

個室で過ごした数日間を経て、石井さんは脳神経外科と眼科の病棟がある大部屋に移動しました。そこでは、60歳から70歳くらいの数名の患者さんたちと同室に。みんな看護師とも仲が良くとても明るい人たちで、消灯時間になっても、まるで修学旅行の男子学生のように楽しそうにおしゃべりをしていたといいます。

大部屋に移動したばかりの石井さんはまだ気持ちが安定していなかったため、カーテンをひいて、ベッドに引きこもっていました。「出ておいで!一緒に話そうよ」と話しかけられても「自分、人見知りなんで大丈夫です」と、他者を完全にシャットアウトしていたそう。

何日か経った夜、勇気を振り絞って夜のおしゃべりに加わってみたんです。会話に混ざれたことが僕自身も嬉しかったのですが、同室の皆さんもすごく心配してくれていたみたいで、僕がカーテンを開けてみんなの輪に入ったことを喜んでくれました。

そのうちの一人は、毎朝病室でインスタントコーヒーを飲んでいました。ある朝、「石井くんも飲む?」と声をかけてくれましたが、「インスタントコーヒーは飲まないので」と断ります。実は石井さんはコーヒーが大好きで、家では豆を挽いてコーヒーを飲んでいたのです。

インスタントコーヒーを勧めてくれた方は、毎朝病院内のリハビリ室に通っていました。ある日、そこから部屋に戻る途中に院内の売店で、缶コーヒーを「これ美味しいから」と買ってきてくれたのです。それでもやっぱり石井さんは「缶コーヒーも飲まないので」と断りました。

そんなことを繰り返すうちに、ふと「自分はものすごく失礼なことをしているんじゃないか。なんでこんなにカッコばかりつけているのだろう」と思ったんです。

それは、突然降ってくるように湧いた感情でした。そこで石井さんは「やっぱりあのコーヒー飲みたいので、買ってきてもらえますか?」とお願いしたのです。その方は大喜びでそのコーヒーを買ってきてくれました。

よく冷えたアイスコーヒーだったのですが、そのとき「こんなあったかいコーヒーは今まで飲んだことがない」と涙が溢れました。そのときの一連のできことが、後から振り返ると、目が見えなくなってからこもっていた“自分の殻”を破れたひとつのきっかけだったように思います。もうカッコつけるのはやめよう、と素直に思えた瞬間でした。

それから同室のその方は、毎朝病院内の自動販売機で自分の分と石井さんの分、2杯のコーヒーを買ってきてくれるようになり、一緒にコーヒーを飲みながらおしゃべりする時間を楽しむようになったそうです。この方は、片腕が麻痺により動かないため電動車椅子に乗って生活をしていました。ご自身も大変な状態であったにもかかわらず、4階の病室から1階の自動販売機まで朝一番で石井さんのためにコーヒーを買ってきてくれていたのです。

こうして根気強く自分に関わり続けてくれた人の存在が、頑なだった石井さんの心を少しずつ溶かしていきました。

「かわいそうだね」それは当時誰も言ってくれなかった、悲嘆に共感する言葉

石井さんは、入院中はとにかく自分と向き合う時間だったと振り返ります。

泣きたいときは泣いて、絶望や恐れ、怒りにも近いような感情が湧いてきたときには「どうしてこんな気持ちになるんだろう?」と考えるようにしていました。

「なんでこんなことになったんだ!」と神様を呪ったすぐ後に、もらったお守りにすがって「神様、どうか見えるようにしてください!」と祈ったり。そんなバラバラな自分の感情を否定せずに、掘り下げていったんです。

このプロセスはめちゃめちゃ苦しかったんですが、入院中にやりきったなと思えました。

そんななかで、石井さんは妻に頼んで自分の現状をSNSで伝えることにしたのです。すると、驚くほどたくさんの応援や心配のメッセージが届きました。その言葉がダイレクトに心に届いて、一つひとつのメッセージに涙したそうです。

【画像】当時Facebookにて公開した投稿。以下文章が書かれている「夫について 先週金曜日、左眼の一部が見えない状態となり、徐々に両眼の視力が低下、日曜日の朝には、ほぼ視力がない状態となりました。唯一感じられていた左眼の濃い霧がかった景色も、昨日には見えなくなってしまったそうです。精査し、一昨日から治療を始めましたが、視力がいつ回復してくれるか…個人差があるようで、先生もはっきりとはわからないようです。 このような状況のため、本人が携帯を操作する事が出来ないので、着信やメッセージを残して頂ければ、私から夫へ伝え、折り返しの連絡をさせて頂きます。折り返しに、多少お時間を頂くかもしれません。 急な事で、皆様にもご迷惑、ご心配をおかけします。 写真は笑顔ですが、精神的にはかなりの動揺、不安、落ち込みがあります。現状を受容するには、まだまだ時間がかかると思います。でも、子ども達のために、頑張ろうと気持ちを奮い立たせてくれています。妻 石井朋美」

また、病院にもたくさんの方がお見舞いに来てくれました。何時から何時はこの人、その後はあの人、とかわるがわるやってくるお見舞い客の数に、病院のスタッフも驚いていたのだとか。

メッセージやお見舞いは本当に嬉しかったし、力になりました。でも、やっぱり強がっちゃうんですよね。「落ち込んでいると思ったけど、いつもの石井くんで良かった」なんて言われたりもして。自分が落ち込むと周りも落ち込んで、今まで通りだと周りも今まで通りなんだなということもわかって、とにかく明るく接していたような気がします。

そんななかで、お見舞いに来てくれた人の一言で石井さんが“素の自分”をさらけ出せた瞬間があったといいます。

その人は病院にお見舞いに来てくれたとき、一言目に「意外に元気そうじゃん」と、そして二言目に「かわいそうだね」と言いました。「この前まで見えていたのに、急に見えなくなって。子どもだって生まれたばかりなのに、自分がその立場だったらやっぱり自分のことをかわいそうだって思うはずだ」と。

「かわいそうだね」って、その時点では誰もかけてくれなかった言葉で。でも実は一番言って欲しかった言葉だと気付いたんです。

「かわいそう」という言葉は、相手に同情しているようで、あまり使いたいとは思えない言葉のような気がします。でも、このときの石井さんの気持ちにしっくりきたのはなぜだったのでしょうか。

「大丈夫だよ」「きっと良くなるよ」「乗り越えられない試練はないよ」など、みんな優しい言葉をかけてくれて、そのどれもが宝物なのですが、今思うと当時はその言葉が腑に落ちていなかった気がします。入院していた時期はまだ悲嘆にくれている「憐んでいた時期」だったので、それに共感してほしかったのかもしれません。

その後も週一ペースでお見舞いに来てくれたその人は、石井さんと時間をかけて対話をしてくれました。これからどうやって生きるか、命を輝かせるにはどうしたらいいか、どういう道に進んだらいいのか…。石井さんは、その人には不思議と自分の本当の気持ちを話すことができました。

それまで自分をさらけ出すことが苦手だったんです。自分の本心を相手に知られたくなかったし、相手のことも「この人は今にこにこしているけど、心のなかでは何を考えているだろう」って思うこともよくありました。

見えなくなった早い時点で、全てをさらけだして言葉にするというプロセスを経たことで無邪気な状態になれた気がします。相手のことも、あるがままを捉えられるようになりました。

入院生活を送り検査や治療などを行うなかでわかったのが、視力が落ちた原因が「多発性硬化症」だということでした。

多発性硬化症は、脳の中枢神経が炎症を起こし、全身にさまざまな症状が出る病気。石井さんの場合は、視神経に炎症が出たため、眼球には全く異常がないのにも関わらず視力の低下が起きたのです。再発を繰り返すことが多いものの、一般的には視覚障害は数週間以内に視力が回復することが多いと言われています。

石井さんは、「また目が見えるようになって退院する」という未来をぼんやりと描いていました。だから入院生活が1ヶ月半ほど過ぎたある日、症状が変わっていないにもかかわらず「来週退院しましょう」と言われたときには、再び崖から突き落とされた気分になったといいます。それは、“見えないまま”が日常になるということだったからです。

「笑っているパパがいい」娘の言葉に変わることを決意

【写真】インタビューに応えるいしいさん

光がぼんやりとしか見えないくらい視力が落ちたことについて、入院中に嘆ききったと思っていた石井さん。でもいざ家に帰ってみると、決して広くないアパートの中で迷ってしまったり、家の中に落ちている物に気付かず踏んでしまったりするなかで、惨めで悔しい気持ちが湧き上がってきました。

小さなことでイライラして、いつも眉間にしわを寄せているような状態でしたね。自分に対する苛立ちを家族にぶつけてしまったこともありました。「なんでこんなところに物が置いてあるんだよ」「そんなこと言われても分からないんだよ」と。

自分にも家族にもどうしようもならない気持ちを抱えながら、1週間ほどが経ちました。ネガティブな感情でいっぱいだった石井さんが変化するきっかけとなったのは、娘さんのある一言だったそうです。

ある日娘がまだ目が見える頃に描いてもらった家族の似顔絵を指さして、妻にこう言っているのが聞こえたんです。

「私、あの時の笑っているパパがいい」

それを聞いて、本当に自分は何をやっているんだろうと、ショックでした。その言葉を聞いたときには入院初日のように、布団をかぶって声をあげて泣きました。

【画像】左から妻、娘、いしいさんの笑顔が描かれた似顔絵

(提供)娘が指をさした家族の似顔絵(C)笑達

目が見えなくなった当初、石井さんが一番悲しかったのが、この先娘と遊べないかもしれない、一緒に出かけることができないかもしれないということ。

大切な娘との距離ができてしまっている。娘を悲しませてしまっている。…ということに衝撃を受けて、心の底から変わりたいと思いました。

でも、石井さんも娘さんも、すぐに気持ちを切り替えられたわけではありません。二人のあいだには、こんな出来事が起こっていたそうです。

まだ目が見えないことをはっきりとは理解していなかった娘が、「これ読んで」と本を持ってきたときには、以前は読んであげることができた本を今は読んであげられないことに涙がこみあげてきて…。そんな僕の様子を見た娘は「パパを泣かせちゃった」と落ち込む。そんなことが度々ありましたね。

そんな二人を見守っていた妻が、「それでいいの?」と石井さんに問いかけました。「どんな状況でも工夫して娘を楽しませるのが得意なんじゃなかったの?」と。そこから石井さんは、どうしたら娘と楽しい時間を過ごせるだろうと考え始めます。

目が見えなくても音楽を聴くことはできる。それに合わせて体を動かすこともできる。娘と手を繋いで一緒に楽しむこともできる。

そう思った石井さんは大好きな曲をかけて、娘と手を繋いで体を動かし、踊ってみたのです。そんな様子に娘も大喜びでノリノリでダンスをしていたそう。初めてその遊びを試した日には、汗だくになるまで踊り続けたといいます。

一緒にできることを増やす過程では、もちろんできないことにぶつかることもあります。石井さんはこの頃、家族の前で泣くことに対して躊躇をしないようにしていて、「泣きたいという感情を我慢する」ことを手放していたそう。そのため「できないこと」に直面すると悔しさやみじめさで涙が溢れることもありました。そんなときに娘がティッシュを持ってきて、石井さんの肩をぽんぽん叩きながらこう言ったのです。

「泣きたい時は、泣けばいいんだよ」

その言葉は、目が見えなくなる前にいつも僕が娘にかけていた言葉でした。泣いている娘に「泣かないの」と言ったことはなくて、「泣き終わるまで待っているから、泣きたいときは泣けばいいよ」って声をかけていたんです。それを4歳になった娘がきちんと理解して、僕にそう声をかけてくれたんだろうなって思っています。

ゴミ捨てをしようとアパートの部屋から駐車場に出ようとした石井さんに、娘が「パパ!道路は危ないよ!」と声をかけてくれたことも。見えていた頃は、石井さんが娘を守る側でした。でも、だんだんと時間を重ねるうちにお互いを守り合う、新しい関係が築くことができたといいます。

白杖訓練を4回で終了。妻が信頼してくれたからこそ、今の自分がある

【写真】駅で白杖を持って立っているいしいさん

退院して少しずつ気持ちを切り替えた石井さんは、白杖の訓練を受けることにしました。白杖を持たない、という選択肢ももちろんあります。先天性の弱視でも、なかには白杖を持たないという選択をしている人も。

でも、家族でスーパーに出かけ、通路で家族を待っていたときにこんなことがありました。前から歩いてきた人が、石井さんに「どけよ。邪魔だな」と舌打ちして去っていったのです。

その時に、「ああ、白杖を持っていないと僕が目が見えないということは、周りに分かってもらえないんだな」と気付いたんです。周りに目が見えないことをわかってもらわないと、自分の安全も担保できないし、周りに危害を加えてしまうこともあるかもしれない。じゃあやっぱり白杖は持とうと決めました。

通常、白杖の訓練は半年から1年ほどかけて行われることがほとんどですが、歩行訓練士に「石井さんは覚えるのがものすごく早いので、もう大丈夫です」と4回で終わってしまったのだとか。

これでどこにでも行けると確信した石井さん。以前自身でも体験したことがあった、ダイアログ・イン・ザ・ダークの総合プロデューサーと繋がり、そこでアテンダントとして仕事を始めることになりました。石井さんは、自分の世界をまた再びぐっと広げていきます。

そんな様子を妻は、過剰な心配をせずに見守ってくれたそうです。

もしパートナーが心配性だったら、白杖を使い始めてすぐに一人で出かけようとする夫を「やめなよ」と止めることもあるかもしれません。でも、妻は僕を信頼して「いってらっしゃい」と送り出してくれたので、今の自分があると思うんです。だから、妻にもとても感謝しています。

視覚情報にとらわれることなく自由になった。見えなくなって楽になったことも

【写真】インタビュアーと会話をするいしいさん

白杖を使い、また再び外を自由に出歩いたり、仕事を始めたりするなかで、以前はなかった感覚が石井さんの中に芽生えます。

見えないから当たり前なのですが、視覚情報にとらわれなくなったんです。仕事にするくらいファッションが好きだったし、当時の僕にとって、外見はとても大切なものでした。以前は正直、人を見た目で判断してしまっていたんですよ。それで見誤ったことが何度もあるのに…。

だから見えなくなって楽になった面もあるんです。相手の顔や表情が見えないからこそ、常にオープンでニュートラルにいられるようになって、子どもの頃からの人見知りも、本当の意味でなくなったと思います。

石井さんのその言葉は、見える私にとっても大きな疑問を投げかけるものでした。私自身も人や物事を見た目だけで判断していないだろうか。見えるからこそ、その本質を見ないようにしていることはないだろうか、と。

「見た目の呪縛にとらわれなくなった」と話す石井さんですが、子どもの頃からのファッション好きは変わることはありません。見える時から持っていた服は色などをしっかり記憶しているので、服は今も自分でコーディネートしています。ただ、洋服の買い物の楽しみ方については、以前と少し変わりました。

洋服を触っているうちに、触るだけで「カシミアだ」とか「ウール100%だ」と分かるようになったんです。基本は古着屋さんで買い物をするんですけど、触った感じで決めてお会計の前に妻や娘に色やダメージがないかを確認してもらいます。一人で洋服を買うときは色が分からないので“ガチャガチャ”のような気持ちで楽しんでいるんです。

視覚障害者当事者だからこそできる、障害についてのユニークな発信

【写真】点字ブロックの上を白杖をついて歩くいしいさん

視力を突然失ってから7年が経った今、いろいろな視点で世界を見つめることができるようになったと石井さんは話します。それは、見えていたときの正眼者の視点と、見えなくなってからの視覚障害者の視点の両方が石井さんの中にあるから。

世界を見えない視点で捉えられるようになったので、見えなくなったことがラッキーだなと思っているところもあるんです。

障害者手帳を持つということも、当初は石井さんも躊躇していました。それは、障害者である自分を認めるということだから。でも、それによって優遇されること、免除されること、受けられる福祉サービスがあることなどから、手帳を持つことを決めます。でも、世の中には、自分の障害を受け入れられずにいる人も多いと石井さんは知りました。

高齢になってから目が見えなくなった人のなかには、白杖を持たないという選択をする人も多いそうです。白杖を持っていたとしても、「知っている人にはバレたくないから」と家に近づくと白杖を隠してしまう、という人もいます。

それは、もちろん本人が悪いのではなく、障害に対する差別や偏見を、社会のなかで感じたことがあるからこその行動なんじゃないかなと思うんです。

中途視覚障害者であり、見える視点、見えない視点の両方を持つ石井さんは、見える人の行動についてどういう言葉をかけるのがベストなのか迷うこともあるといいます。たとえば、点字ブロックの上に立っている人。そういう人に対しては、「すみません。ここは点字ブロックなので避けていただけますか」と声をかけることが多いそうです。

僕は、近くまで行けば、シルエットで人がいることは分かります。だから避けて歩くということもできるのかもしれませんが、それが自分にとって、ひいては他の視覚障害者にとって良いことなのかどうか迷うことがあるんです。

点字ブロックの上に立っていた人も、きっと悪気があって立っているわけじゃないはず。だからこそ、僕がそう声をかけることで次からは意識してくれるようになるかなとも思うんです。

石井さんは、視覚障害者の立場からの視点を発信をすることにも力を入れています。

たとえば、白杖を持って歩いていると、スマホを見るのに夢中になっている人たちが、石井さんの存在や白杖に気付かずに白杖を蹴ってしまうことがよくあるそう。そんな経験から、「無駄づくり」というサイトやYouTubeでいろいろな発明品を発信している藤原麻里菜さんと、ぶつかられるとタッチセンサーが反応して泣き叫ぶ「痛がる白杖」を作ったこともありました。

実際に使ってみると、石井さんが歩くために白杖をどこかに当てるたび白杖が泣き出してしまったそう。このような、人に「面白そう!」と関心を持ってもらえるような、ユニークな方法で発信することを心がけていると石井さんは話します。

笑いやエンターテイメントに昇華できるような形で発信していければと思っています。たとえば、僕はSNSで、見えないことをネタにした「ブラインドジョーク」を発信していて。不謹慎だと思う方もいるかもしれませんが、これはあくまでも、僕が僕自身の経験をネタにしているんですよね。

たとえば、とある自治体の市役所前にある点字ブロックを歩いているときに、「突然なくなった」と思ったら、実は道路に点字ブロックの絵が描かれているだけだった、というエピソード。もちろんこれは自治体が改善すべきことではありますが、それを厳しい言葉で指摘するのではなく、見た人に発見や気づきが生まれるようなジョークで伝えているところが、なんとも石井さんらしいなと思います。

自虐とはまた違う、視覚障害者にしか分からないある種シニカルな表現をしたいんです。それって当事者じゃないとできないことだと思うので。何かの気づきのきっかけになれば良いなと思って発信しています。

障害ではなく“その人”の本質を見るのが相手を理解する近道

【写真】笑顔で話をするいしいさん

石井さんは視力を失ったことで、改めてひとくくりに“障害者”といわれるなかにも、いろいろな人がいるということを知りました。障害があっても性格は人それぞれ。石井さんと同じ視覚障害者でも、本当にさまざまなキャラクターを持った人がいると話します。

たとえば障害があると、それが前面に出てきてしまうような気がします。それでその人の障害しか見ないと、たとえば視覚障害者だったら「見えない人にはこうしたらいいんだよね」みたいなステレオタイプな対応しかできなくなってしまう。

でも視覚障害者も性格はもちろん、見える度合いも、置かれている状況も、それぞれ全く違います。だから、僕はまず障害のあるなしには関係なく、目の前の人がどんな人なんだろうって考えることから始めるのが結局は相手を理解する近道なのではないかなと思ってるんです。

サポートをする人、サポートを受ける人、その双方がもっと気楽でいいのではないかというのが石井さんの持つ考え。それは、かつて滞在していたイギリスでよく見た光景にも繋がっています。

イギリスでは、バスや電車で車椅子の人やベビーカーを押している人が乗り降りしていると、日本のように駅員が手伝うのではなく、周りの人が自然と手を貸していました。サポートされた側も恐縮したりせずに、「ありがとう」と言って颯爽と去っていく…というのが日本と少し違うなと印象に残っているんです。そんなことが当たり前の社会が、どんな人にとっても生きやすい社会なんじゃないかなって思っています。

見ることはエンターテイメント。ちゃんと見ればいろんなことに気づけるはず

石井さんはインタビューの終盤、こんな話をしてくれました。

「見る」っていうのはいろんな意味がある。目で見る、心で見る…。見ることって、すごくエンターテイメントなことだと思うんです。自分も見えているときにはそうだったかもしれないけど、みんなスマートフォンだったり、SNSだったり、情報ばかりを追いかけている気がするんです。

見えるんだからもっといろんなものを見なよ、ちゃんと見ればいろんなことに気づけるはずだから…と見えなくなった立場からは思います。

その言葉に私はふと気付いたのです。私は物事をある面しか見ていなかったかもしれないな、と。だからこそ、手放した物にしか目がいかず、いつまでもそれを引きずっているのかもしれません。その裏で、本当は手にしたものがあっても、見ようともしないから、私はそれに気付いてもいないのです。

インタビューを終えた帰り道、石井さんと新宿の街を歩いているとき、私も石井さんのようにもっと“見たいな”という思いが芽生えました。見えるからこそ、本質を見ないふりをするのではなく。もっと純粋な気持ちで。

もし、それを続けられたら。石井さんが視力を失ったことで新しい世界を築けたように、私もまた新しい世界を見られるのではないかと思うのです。

石井さんと出会ったことで、今まで見えていなかったものの存在に気付くことができた。そんなふうに思える時間を過ごせたことに、心から感謝したいと思います。

【写真】笑顔でこちらをみているいしいさんとライターの秋定

関連情報:
石井健介さん ウェブサイト Twitter Instagram

(撮影/川島彩水、編集/工藤瑞穂、企画・進行/松本綾香、協力/山田晴香)