その日は会社の飲み会の帰りでした。
ほろ酔いで電車に乗っていると、久しぶりの大学時代の友達からFacebookのメッセンジャーで連絡が届きました。「尚子、大丈夫?」「〇〇のこと、聞いてる?」胸がざわざわします。
「〇〇、死んじゃったって」
さっと血の気がひいていくのがわかって、それから涙があふれてきました。友人との思い出が頭の中を駆け巡り、私は電車の中で泣いていました。
その頃は実家に住んでいて、家に着いたとき、母に泣きはらした目を見られて「どうしたの!?」と驚かれたのを覚えています。
20代の終わり頃、大切な友人を失いました。事故だったとも、自死だったとも言われていて、未だに亡くなった理由について詳しいことはわかっていません。
しばらくは思い出してはどこに行っても涙がこぼれ、会いたくて会いたくてたまらなくなりました。
私が一緒にいたら、友人は死ななかったのではないか。そんなのは傲慢な思い込みだとわかっていても、そう思わずにはいられませんでした。友人にしたことを、しなかったことをたくさん後悔しました。
友人のお母さんとも何度か顔を合わせたことがあったので、お葬式のとき私のことを見るとすぐに「尚子ちゃん…」と声を掛けてくれて、一緒に泣きました。友人の名前を呼んで棺桶に駆け寄っていた悲痛な姿が忘れられません。
「落ち着いたら連絡をください」と手紙を渡したところ、しばらくしてお母さんからメールで連絡をもらい、一緒にお墓参りをしました。
あれから10年。退職をして、留学をして、フリーランスとして働き始め、結婚をして、子どもが産まれました。友人のお母さんとは未だに連絡を取り合っています。友人の誕生日、命日、クリスマスやお正月などのタイミングでメッセージを送り、お互いの近況を報告し合う仲です。友人のお母さんが旅行に行ったり、習い事をしたり、元気にしている様子をとても嬉しく思っています。
友人の死は今でもとても悲しかったできごととして記憶していますが、もう思い出して涙することはなくなりました。一方でこの10年で、祖父や、まだ若い身近な友人や友人のパートナーの死に遭遇することも。生きていたら、どんな形であれ、必ず大切な人の死に出会うことはあります。それは避けては通れないことなのかもしれません。
そんなことを考えていたとき、岡田和美さんを知りました。岡田さんは、2度もパートナーとの死別を経験しながら、現在その経験と向き合い、グリーフケアカウンセラーとして活動しています。
大切な人を失うのは一度だってつらいこと。しかもパートナーとなると、自分自身の人生も大きく変わってしまうだろうと思います。それを2度も経験されているということに、素直に驚きました。
拠点にされている大阪から東京まで足を運んでくださった岡田さんは、とても明るく朗らかな方。「今日はあなたたちのこと全部話させてもらいますよって、仏壇に手を合わせてきました」と冗談めかして笑いました。
大切な人の死を経験しても、触れられたくないこととして胸の奥にしまっておく人もいる中で、岡田さんはグリーフケアカウンセラーとして、自身の経験をオープンにしています。
それでも2、3年前までは、なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないのって思いの方が強かったんですよ。
そう語る岡田さんは、パートナーの死をどのように受け止め、ここまでの人生を歩んできたのでしょう。岡田さんの経験や思いをお聴きしながら、大切な人を亡くした悲しみとの向き合い方について、私も考えてみたいと思います。
なりたい自分への自己変革。「人が大好き!」が自分の原点
岡田さんは、大阪の出身。怒るとちゃぶ台をひっくり返すような厳格なお父さんの元、4人姉弟の2番目として育ちました。ハキハキとしたお姉さんと「長男」という看板を背負った弟さん、その間でお父さんのご機嫌を伺いながらいたと言います。
引っ込み思案な性格だったのに加えて、お肉も牛乳も嫌いだった岡田さんは給食が苦手だったため、小学校1、2年生の頃はほとんど学校に通っていなかったそうです。けれど、3年生になって「嫌いなものは無理して食べなくていい」と言ってくれる先生が担任になったことで、登校ができるようになりました。中学校時代も引き続きおとなしい性格だったと話します。
みんな休み時間は外に出て遊ぶけれど、私はおとなしめの子が集まった4人グループで固まって、教室の片隅で本を読んでいました。でも本当はそんな自分がすごく嫌で、「もっと遊びたい!はじけたい!」って思ったんです。
岡田さんが自己変革を試みたのは高校生のとき。小中学校時代の友達がほとんどいない、家から遠い高校をあえて選びました。自分を全部さらけだし、これまでとは真逆のキャラクターへと生まれ変わったんだそうです。
中学までは人と関わるのに苦手意識があったし、登校していなかった時期があることにもコンプレックスを感じていたんです。でも、高校で自分を出してみたら「人が大好き」「しゃべりたい」ってなりました。今の原点ですよね。
岡田さんは「なりたい自分」になることで、自分のことが好きだと思えるようになりました。
職場の労働組合で出会った、1人目のパートナー
高校卒業後は、昼はアルバイトをして学費を稼ぎ、夜は夜間コースのある短期大学で英文学を学びます。短期大学を修了してからは、人が好きだから接客の仕事を、と大手スーパーに就職しました。
1人目のパートナーに出会ったのは、就職して2年目のこと。
岡田さんは労働組合の役員をしている上司に連れられて、メーデーのパレードに参加しました。そのパレードにたまたま参加していて知り合ったのが、他店舗の担当をしていた1人目のパートナーでした。
岡田さんが20歳でパートナーが28歳。猛アタックを受けましたが、結婚したら退職するのが当たり前、という風潮だった当時、まだまだ仕事が楽しい岡田さんは交際の申し出を断り続けていたと言います。
3回断ったんですけど、それでも諦めないから4回目にもうしゃあないなってお受けして、付き合い始めました(笑) 今から考えると、彼は生き急いでたんと違うかな。休みの日も私に全部合わせてくれて、日本国内いろんなところに車で連れて行ってくれてましたね。
その後24歳で結婚。仕事が楽しかったため未練を残しながらも、退職後しばらくした後でも復職することができるという会社の「復職制度」にエントリーし、職場を去りました。家庭に入り、子どもを望んでいたところ、すぐに妊娠。
「このまま二人ぐらい子育てをして、いずれ子どもが大きくなったら私も働こう」。そんな未来をぼんやり描いていた矢先に発覚したのが、パートナーの病気でした。
長女を妊娠して4ヶ月くらい経ったときに「胃の調子が悪い」と言うのと、背中にプツプツと蕁麻疹みたいなのができていたんです。検査に行ってみて病気が見つかりました。
妊娠中に始まった看病の日々
物流センターに務めていたパートナーは仕事が忙しく、ストレスも多かったのではないかと岡田さんは当時を振り返ります。病気が判明すると、すぐに入院することになりました。
パートナーの病気は、血液のがんである白血病でした。症状としてはがん化した白血球系細胞が増殖し、正常な血液細胞が減少することで、貧血、出血症状、肺炎などの重症感染症症状などが起こるといわれています。
しかし、本当の病名は医師から岡田さんの家族、パートナーの親戚のみに伝えられ、岡田さんと本人には伏せられていたのだそう。「本人もショックだろうし、妊娠中の岡田さんにも身体に障るから」と親戚が配慮したようで、二人には嘘の病名が伝えられました。
夫は「骨髄機能不全」という病気だって言われたんですよ。その時点で夫は余命2年と診断されていたみたいですが、私は何も聞かされていませんでした。
病室で夫はテレビのトーク番組を見ていて、出てきた俳優の渡辺謙さんの病気の症状が自分と全く一緒だったから、「俺、渡辺謙と一緒の病気ちゃうんか?」って先生に詰め寄ってたらしいです。先生は全否定したみたいですけど、症状がひどいので、私も夫はただならぬ病気にかかったんだなというのはわかっていました。
入院してすぐに闘病生活が始まり、岡田さんは大きなお腹を抱えて毎日病院に通院しました。
妊娠7ヶ月のある日、岡田さんのお母さんが友達に手紙を書いて出しきれずに置いていたのを、たまたま発見してしまいます。そこには「娘の旦那が白血病って言われた」と書いてあり、岡田さんはそこで夫は白血病だと確信しました。
ただ、手紙を読んだことを告げるとお母さんは自分を責めてしまうだろうと思い、追及することなく、自分の胸の中にしまっておいたのだそうです。
自身の感情に目を向けている時間がなかった。1人目のパートナーとの別れ
夫の闘病生活に寄り添いながらも、岡田さんは無事に出産を迎えます。その頃、パートナーの病気はちょうど「寛解」の状態だったそうです。
白血病細胞が一定量より少なくなると「寛解」になって、そこから5年経つと「治癒」になるんですよね。1度は「寛解」の状態になることができて、娘の出産の直前に退院したので出産に間に合いました。一旦は家に帰って、半年くらいは親子3人での暮らしができたんです。でも風邪をこじらせて、すぐに病気が再発してしまいました。
再び岡田さんはパートナーの看病が生活の中心になり、娘さんは保育園に預けることに。
自営業の両親やパートナーのお姉さんにも看病や子育てをサポートしてもらっていましたが、その中で摩擦も多かったと振り返ります。
岡田さんは様々な出来事に耐えながら看病を続けていましたが、パートナーの病状はなかなか回復しませんでした。
娘さんの1歳誕生日を、病室でお祝いをした直後、パートナーは大量出血してしまい、危篤状態に。2〜3週間持ちこたえたものの、為す術がないままパートナーは亡くなりました。岡田さんが27歳のときでした。
1歳児を抱えてシングルマザーになる不安、今後パートナーの親戚と関わる大変さ。岡田さんは目の前のことに精一杯で、自分自身の「悲しい」や「しんどい」という感情に目を向けている時間がなかったと当時を振り返ります。
死別後は、引き続き娘さんを保育園に預けながら、実家の仕事を手伝ったり、パートに出たり、遺族年金を受け取ることで生計を成り立たせていました。
親は自営業なので頼ったらあかんと思っていたし、夫の兄弟ともあまり関わりたくなかった。その中で行政の遺族年金に頼れるのはありがたかったです。あとは近所の人がご飯持ってきてくれたり、声をかけてくれたりしましたね。娘と2人だけになってしまうのでどこかとつながらないとだめだ、と思っていて。孤独にならないように、近所付き合いは意識的にするようにしてました。
「誰か力になってくれる人がほしい」2人目のパートナーとの再婚
母子二人での生活は順調でしたが、やがてふつふつと「再婚したい」という思いが湧いてきました。婚活サイトを使うなどして相手を探しますが、そこで出会った相手とはなかなかうまくいかなかったそうです。「これはもうシングルで行こう」と決めた直後の1995年、阪神淡路大震災が起きます。
すごく揺れて、タンスの上にあったものが全部娘の足元に落ちてきたんです。「私はこの先、娘を抱えて、人生の重大な決断を全部一人でしないといけないのか」と思ったときに、「怖い」と感じて。誰か私たちの力になってくれる人がほしくて、やっぱり再婚しようと思いました。家族で川の字になって寝るという、前回叶わなかったことに憧れてもいましたね。
その後、婚活サイトでご縁があり出会った人と結婚が決まり、当時住んでいた大阪から相手が住む京都に移り住むことになりました。31歳の頃です。
結婚したときに夫に「これだけは言うとく。おかぁは人好きやし、すぐ友達もできると思うけど“ぶぶ漬食べて帰り”って言われたら、即刻帰ってこい」って言われたんです。「ぶぶ漬けって何?」って聞いたら「大阪で言うお茶漬けや」って。
「お茶漬け食べて帰ってきたらあかんの?」「それはな“帰れ”って意味や。おかぁは失敗すると思ったから先に言うとく」って。この話が本当なら大変なところに来てしまった、と思いました(笑)それ以来、私はこういう事は一度も言われたことがないので、昔の風習だったのかもしれないですね。
同じ関西圏とはいえ文化の異なる京都で暮らし、2年経つ頃には男の子が生まれました。転職を繰り返し、なかなか安定して働くことができなかったパートナーとは喧嘩が多く、何度か離婚の危機もあったそう。娘さんが「おかん、そんな嫌やったら結婚は無理せんでええで」と声をかけてくれることもありました。
あるとき、私と喧嘩した主人が「もう出ていく」って言って、荷物をまとめていました。でも私が、「私とあなたは、所詮他人同士やからいいよ。でもあなたは子どもたちの親やし、親の務めは果たしてくれる?」って言ったら、出ていくのを止めたんです。
そこから夫は必死で職を探しました。ずっと私が転職先をお膳立てしていたのですが、やっと自分で仕事を見つけてきたので、それで離婚危機は少し収まりました。
転職した職場で、パートナーは順調に仕事を続けることができました。岡田さん自身も「夫に遠慮なく物を言い、冷たく当たっていたかもしれない」と自分の振る舞いを反省したのだそう。これからはもうちょっと夫に優しくしよう、家族としてここから頑張ろう、と思っていた矢先、パートナーは突然倒れてしまったのです。結婚から9年目、岡田さんが42歳のときです。
今思うと、倒れる3日前くらいに「コーヒーを飲むとキーンと頭痛い」って言ってたんですよ。「病院に行く?」と聞いたんですけど、薬を飲んで寝てました。翌朝仕事に行くときに「大丈夫?治った?」って聞いたら「治った」と言うので、そのままやり過ごしていたんですよね。
その日は日曜日で、岡田さんが息子さんをスイミングに連れて行く日でした。12月初旬の京都は紅葉が見頃で渋滞するため、いつもは昼からのスイミングの時間を朝に変更し、家を出たと言います。「お父さん、今日は朝にスイミング行ってくるわ」「気をつけて行ってこい」というやりとりが、最後の会話になりました。
14時前に、家にいる娘から「お父さん、息してない」って電話がかかってきて。夫は突然倒れて、それを発見したのは娘でした。救急車で運ばれたようですが、私は訳がわからないままで。息子のスイミング教室からどうやって移動したか覚えてないくらい混乱していましたが、とにかく急いで病院に向かいました
パートナーは即死に近い状態でしたが、医師は岡田さんが到着するまで、ずっと心臓マッサージをしてくれていたと言います。亡くなった後に検査をした結果、くも膜下出血だったことがわかりました。
病院で待っている間に娘が「お母さん、私できたで!」って言うんですよ。「何ができたん?」って聞いたら「心臓マッサージできた」って。救急車に電話して待っている間に「娘さん、心臓マッサージできますか」って言われたらしくて、「やってみます」って言って、できたみたい。
突然のパートナーの死去で混沌としていましたが、岡田さんは頼もしい娘さんと支え合いながら、困難な状況を乗り越えてきました。
4人家族から、再び母子家庭へ
楽しいエピソードも交えながら話を進める岡田さんですが、二度の死別体験は、どちらも私たちの想像を越える苦労があっただろうと思います。1人目のパートナーは長患いの末の別れでしたが、今回は突然の別れとなりました。
「どちらが大変かと聞かれたら、多分2回目だと思う」と岡田さんは話します。
1回目は闘病生活が長かったんで、病状が悪くなっていく過程が見れていたんですよね。亡くなる3日前、夫は自分でももう命が短いとわかっていたのか、私に「お母さん、ありがとう」って言ったんです。「何言ってんの」ってあしらったけど、ちゃんとお礼も言ってくれたし、私も心の準備ができていました。
2回目は、なんの心の準備もなく生活が一変しました。12時半までは普通だった人が14時半にはあの世に逝っている。たった数時間の出来事です。でもお医者さんは「この人恐らく一瞬で逝ってる、倒れた瞬間は痛かっただろうけど、多分苦しんでない」って言っていて、苦しまずに済んだのはよかったかな。
2人目のパートナーは日曜日に亡くなって、月曜日にお通夜、火曜日に葬式を行いました。「心の準備ができていないから葬式は一日延ばしてほしい」と言う岡田さんに、葬儀屋さんは「絶対あかん!奥さんが倒れてしまう。早くやらなあかんよ」と言ったそうです。
結果的に、葬儀屋のアドバイスは大正解だったと岡田さんは振り返ります。空白をつくらず忙しくしていなければ倒れてしまうような、追い詰められた精神状態だったからです。
パートナーが亡くなったことで、4人家族での生活から2人の子どもがいる母子家庭へ。とはいえ、一度経験していたため、母子家庭になることへの不安はなかったと言います。遺族年金の受取手続きなど、事務的な作業も自分で進めたそうです。
ただ、当然のようにパートナーを失ったことは精神的に大きなダメージがあり、体重が5キロも落ちてしまったのだそう。もともと痩せ型だったところから更に体重が減り、「地に足が着かないような状態になってしまった」と岡田さんは話します。苦労は重なり、翌年には自身が病気を患います。
甲状腺に腫瘍ができたんです。医師には「甲状腺がんは一部のタイプを除いて比較的タチが良いから5年間位は経過観察しても大丈夫だと思う」とも言われたのですが、「5年もややこしい腫瘍を持っているのは嫌なので取ります」と言って取りました。「私が病気になったらあかん。子どもたちどうするの」と思って。
取り除いた腫瘍は幸い良性でした。岡田さんは、「ショックで痩せていたからこそ、ぽこっと出ているのがすぐに発見できたのかなって。むしろ旦那が早めに見つけてくれたんだ、と思いましたね」とポジティブに振り返ります。
2人目のパートナーが亡くなった当時、高校1年生だった娘さんと小学1年生だった息子さんは、それぞれ父の死をどう感じていたのでしょうか。
娘は、自分が見つけたから多分心の中ではかなりショックやったと思うけど、それを見せずにわりあい淡々としていて冷静でした。
息子はたぶん、最初は夫が亡くなった事実を理解していなかった。だけど時が経って彼なりに感じるものがあったのか、5年生のときに授業で「俺のお父さんはお酒で持っていかれたから、俺はお酒飲めへん」って言ったらしくて。夫はお酒をものすごく飲んでいたので、そのイメージが強かったんでしょうね。
娘も息子も、父親と過ごしている記憶はおそらくあまり残っていないんです。娘は思春期だったし、息子はまだ幼かったから。
それぞれに異なる子どもたちの思いを受け止めながら、岡田さんは必死で家庭を守ってきたのです。
社会に対する意味・意義として、グリーフケアと出会う
2人目のパートナーの死後、岡田さんは会計事務所等で正社員として働きながら、社労士の資格取得を目指して勉強しました。
生前に社労士の資格を取りたいと話したとき、夫は理解をしてくれたし、すごく応援してくれたんです。1度試験に落ちたときにも、「次、また頑張ったら良いやん」って。そこから8年ぐらいかかりましたね。
仕事と子育てをしながら勉強を続け、50歳で社労士の資格を取得。すぐに事務所を開業しました。現在は、社労士、キャリアカウンセラーとして働きながら、グリーフケアアドバイザーとして活動も始めています。
グリーフとは、日本語では主に「悲嘆」や「深い悲しみ」と訳され、特に愛する人と死別した際の悲しみを指す言葉。グリーフケアとは、そうした悲しみを抱える人をサポートすることです。
グリーフケアに関心を持ったきっかけは、3年ほど前にポジティブ心理学を知ったことだったんです。私はもともとポジティブ思考やけど、仕事をやっていると凹むことも多くて。自分の力だけでは無理やなってくらいメンタルが下がっていた時期に、「自分の気持ちを平穏に保つ講座はないかしら」って探していたら、「ポジティブ心理学」がパーンって出てきました。ちょうど職場の仕事が終わって行けるぐらいの場所でやってはって。
講座を受講してみて「これは面白い!」と思った岡田さんは、本格的にポジティブ心理学を学び始めます。その中で「自分の意味・意義を探す」というワークに取り組みました。
社会における私の「意味・意義」ってなんだろう?と考えたときに、自分の死別経験が思い当たりました。多分、「配偶者と一回死別」はいらっしゃると思うんですよ。ただ、再婚して10数年の間に、もう一回死別という憂き目に遭う人はなかなかいないだろうと思って。「これって何か意味があるんじゃない」と思ったところから歯車が回り始めました。
2回の死別経験を世の中に還元したい、と周りの人に伝えたところ「私もそう思ってました」という反応が返ってきたそう。「こんな経験している人はなかなかいないから、このことに対して岡田さんが活動すべき」と、周囲に背中を押してもらったと言います。
ポジティブ心理学の講座を受講するまでは、それまでは「もうこれ以上のことが起こらないように生涯を過ごせたらいいな」と思っていたんです。「再婚も絶対に嫌。再婚したらまた見送らなあかん。ただ平和に暮らしたい」って。60歳を過ぎてまさか自分の死別体験に関わる活動を始めようとするなんて、思ってもいませんでした。
この経験を活用するものはなんだろう、と調べているときに、グリーフケアという言葉に出会います。その後、グリーフケアについて知識を学ぶ講座を受講。さらに専門的に学びたいと「一般社団法人日本グリーフケア協会」で、グリーフケアアドバイザーの一級を取得しました。
30年以上の時を経て溢れ出す、蓋をしていたグリーフ
グリーフケアを学ぶプロセスでは、自身の経験を振り返る機会があったため、ある講座で30数年前のグリーフがフラッシュバックする場面もあったといいます。
講師が大病を経験した方で、自身の体験談として「自分は多分亡くなるんじゃないだろうか」って恐怖に怯えていたというお話をされたんです。その方が言った「私は命朽ちていく人間だから良いけれども、残される主人とかお母さんのことを想うと切なくて」という言葉が、ガンって心に引っかかりました。
私は残された側の人間なので、「亡くなる人が、残される人のことを考えてくれている」と思ったら、30数年前のことが走馬灯のように蘇ってきて。蓋をしていた感情がブワァーっと開いて、大号泣しました。
講師が残される側の人間に想いを馳せてくれた、ということがすごく嬉しかったんです。
受講しているオンライン講座のメンバーは、画面越しに「泣いていいよ」と涙を流す岡田さんを見守ってくれました。そのおかげで岡田さんは、思い切り自分自身を解放することができたと言います。
30数年前のことでこんなに大号泣するとは予想だにしてませんでした。仲間が見守ってくれていて、すごく貴重な時間でした。悲しみよりも、蓋をしていたことが、今発散できたっていう安堵感が強かったように感じます。
このときに1人目のパートナーのことを思い出したのは、死別後の過ごし方が2人目のときと異なっていたからではないかと岡田さんは語ります。1人目のときは、パートナーの親戚との付き合いや生活を成り立たせることに精一杯で、ほとんど泣くことができていなかったと岡田さんは振り返ります。一方で、2人目のときは家族と一緒に悲しむこと、泣くことができていました。
2人目の夫を亡くしたときは息子と娘の前でも泣いていたし、「頑張ろうな。お母さんこんな感じやけど、ごめんやで」って抱き合いました。突然だったので、感情に蓋をすることもなかったんでしょうね。
比べたらしんどいのは、突然別れが訪れた2人目の方なんです。でもその後の過ごし方として、子どもや周りの人にSOSが発信できていたのかなと思います。だから、グリーフケアとなると、思い出すのは1人目のときのことなんですよね。
背中をさすって「また来るね」が一番のケアだった
死別後の過ごし方は、その後の心の回復に大きく関わってくるのかもしれません。これまでの経験を振り返りながら岡田さんは、感情を外に出すことの大事さを感じていると話します。
感情を出したいときは出す、泣きたいときには思い切り泣く。そして周りにいる人は、それを止めないことが大切なのかもしれません。
岡田さん自身は、周囲からかけられた励ましの言葉がつらかった経験もある、と話します。
「いつまでもクヨクヨしてたら、亡くなったご主人が浮かばれへんのちゃう」って言われたときは、傷がえぐられるように感じました。もちろん相手の方は良かれと思い励ますつもりだったとわかっているのですけどね。でもそう言われると「私元気にならなあかんのや」って無理して元気になるから、すごくしんどいんです。
「思ったより元気そうで安心しました」「わかるよ」こうした声掛けにも、反発を感じたそう。
言葉には強い影響力があるがゆえに、相手を力付ける可能性がある一方で、逆に傷つけてしまったり、無理をさせてしまったりすることもあります。受け取る相手によっても異なり、どんな方向に作用するかも検討がつかないため、ケースバイケースではあるけれど、言葉だけで相手に寄り添うのは難しいのではないかと岡田さんは考えているそうです。
では、岡田さん自身がパートナーを亡くしたとき、支えとなったのはどんなことだったのでしょうか。
2人目の夫が亡くなったとき、しんどくて病院から車を動かせなくなったんです。友人に電話で「助けてくれ。車を病院に停めて動かせないから、家まで運んでもらっていいかな」ってお願いしたら、すぐに来てくれて、車を動かしてくれました。
それから家に戻って2〜3時間ずっと泣きじゃくっていた私に、友人は何も声かけないで、横に座って背中をさすってくれましたね。落ち着いた頃に「また来るね」って一言だけ言って帰っていって。今になって思うと、あれが私の心の支えでした。いろんな人にいろんな言葉を掛けてもらったけれど、彼女の「また来るね」が一番のケアだったと思います。
言葉で励まそうとするよりも、ただそばにいる、ということ。そして「私はあなたを気にかけているよ」としっかり伝えることがケアにつながるのかもしれない。そう感じながら、岡田さんの話を聴いていました。
また、もしも今つらい状況にある相手を支えたいと思っているとしたら、「待つこと」を大切にしてほしいと岡田さんは話します。
その人がただ話したいだけなのか、それとも何か具体的な助けを求めているのか、見極めなあかんと思っています。「何かしてあげたい」って気持ちは大事だけど、空回ってしまうこともあるから。思わず自分の経験に当てはめて何か言いたくなってしまうのですが、まずは聴く、ということが大事かなと思っています。
そして「待つこと」はグリーフを抱えている本人にとっても大切だと、岡田さんは自身の経験から感じています。
自分で立ち直れる時期ってどこかで必ず来ると思うので。亡くしたばかりのときは「永遠にこないんじゃないんだろうか」と思うのですが、絶対来ると思う。だから待ってあげるのも、大事かもしれませんね。
喪失体験をしたときに、頼れる場所とは
大切な人を亡くす、というのは誰にでも起こり得ることです。喪失体験をしたときに、気持ちを吐き出すことで気持ちを整理できたり、誰かと分かち合うことで心が安定したりします。では、具体的に頼れる相談先はどんなところがあるのでしょうか。
私がお世話になっている一般社団法人日本グリーフケア協会は、悲嘆回復のプログラムを設けていて、ホームペ-ジのお問い合わせから相談も出来るようです。
またグリーフ専門士協会は、グリーフケアの資格を持った方が「わかちあいの会」を開いているそうです。死別を経験された方がお互いの気持ちをわかちあうための集まりで、私が以前参加したときは、「親御さんと死別された方」や「配偶者やパートナーと死別された方」など対象を分けて行っていました。
お話を聞くと「一人じゃないんだ、私のほかにもこんな風に感じてる人がいたんだ」と思えましたね。本当にしんどい思いで来た人が、帰るときに表情が変わっていることがあります。
公的機関で言うと、地域の保健センターや福祉事務所等がありますね。役所に行くと紹介してもらえると思います。行政は物理的なサポートもしてくれるので、ぜひ一度扉を叩いてみてほしいです。
あとは個人で私のように活動している人もいるので、頼っていただけたらと思います。
現在岡田さんは、社労士やキャリアカウンセラーの仕事を続けながら、2024年1月よりグリーフケアカウンセラーとしても活動を行っています。
内容としては、個別面談や社労士としての知識を活かした社会保険手続きの支援、再スタートへ向けた長期的な伴走支援などのサポートをしてくれるそう。今後は自助グループとしてわかちあいの場を開くことや、講演活動などもできたらと考えているようです。
よく「旦那二人も亡くしてるのに何でそんなに明るいん?」と言われます。何でなのかは実際のところ自分でもよくわからないんですよね。ただがむしゃらに生きてきた。「生きてたらなんとかなる」と思えたからかもしれませんね。
お寺の住職さんに「ある日は喜び、ある日は悲しみに暮れる、それは自然なこと。そうやって残されたものがしっかり歩いていくのが、最大の供養になりますよ」とお話くださったのが、支えになったかなと思います。
グリーフは誰もが経験すること。もちろん、怖い、悲しい。でもそれを受け止め共に歩んだ先に今があるから。そんな気持ちで、日々過ごしてもらえたらなと思います。
自身の体験や感じたことを、惜しむことなくたっぷりと話してくれた岡田さん。感情を解放することが早い回復につながることもある、というお話を伺って、私が喪失体験をした当時泣けていたことも、友人のお母さんが泣いていたことも、当時は辛かったけれど、必要な過程だったのだと振り返ることができました。これからもしも身近な人にグリーフが訪れたときにも、感情が溢れるのをとめずに、寄り添っていたいです。
この先も私は、生きている限りグリーフに出会うと思います。そして出会うだろうと思っていても、いつも準備ができないものでもあるはずです。
岡田さんが紹介してくださった、住職さんの「残されたものがしっかり歩いていくのが、最大の供養」という言葉は、この先よろけそうな私をそっと支えてくれる杖になる言葉だと感じました。
きっとまた悲しみに出会う、回復したと思う、それでもまた悲しみが溢れる。それはきっと自然で、たしかに私が生きて、歩みを進めていることになるのでしょう。
2023年11月、旦那さんの命日を前にした岡田さんのXのポストにこんな言葉がありました。
今は自分の気持ちに上手く折り合いがつけられるが、自分がどういう立場になっても、喪失後の辛かった経験は忘れてはいない。哀しみを背負うのではなく、調整しながら共に生きてる感じかな。
いつも前を向いて朗らかでなくてもいい。私たちを襲う悲しみも、調整しながら生きていけたらいいのだと、背中をさすってもらうように感じました。
(撮影/野田涼、編集/工藤瑞穂、企画・進行/松本綾香、協力/樫本実夏)