こんにちは!梅津絵里と申します。私は難病当事者として情報発信を行いながら、パラダンススポーツにも取り組んでいます。
私は2005年、26歳のときに全身の様々な部位に炎症を起こし、発熱や倦怠感、関節痛などの症状を引き起こす「全身性エリテマトーデス(以下、SLE)」の診断を受けました。6年間にわたる寝たきりの生活と長期入院を経験。そこからのリハビリと回復を経て、現在は車椅子生活を送っています。
2019年に、病気についてとそれまでの私の歩みをsoarで取材してもらいました。
その後2024年1月からはパラダンススポーツ(以下、パラダンス)を始めました。
パラダンスとは、障害のある人とない人が同じ舞台に立ってダンスをする芸術的スポーツです。そこで気づいたのは、私にとって「自分を表現すること」は生きがいで、かけがえのないものであるということでした。
今回は私の人生や病気のこと、そして入退院を繰り返したのち、新たな挑戦を始めた今の私についてお伝えしたいと思います。
6年間の入院生活を経て、難病当事者として活動をすることに
私は昔から体を動かすのが大好きで、エアロビクスのトレーナーをしたり、その後は幼稚園の先生として働きながら、休みには夫とサーフィンを楽しむ生活を送っていました。「元気が取り柄」そう思っていた私が、体調の変化を感じたのは26歳の時のこと。

サーフィンをしていた当時の梅津さん(提供写真)
最初の症状として気づいたのは、皮膚がかゆくなり、あざができたり変色するようになったことでした。だんだんと倦怠感や手首の痛みも出てきてペンを持つだけでも痛みが走るように。
皮膚科で塗り薬を処方してもらいましたが、塗ってみても症状は治りません。整形外科に行っても病名はわからず、処方された鎮痛剤で半年間ほど痛みに耐えていました。そのうちに食欲減退、体重の減量、強い疲労感、関節の痛み、皮膚の変色などさまざまな症状が出るようになってしまいます。
その後、内科で膠原病(関節の腫れやこわばり、痛みなどの症状がある、関節リュウマチ、全身性エリテマトーデス、シェーグレン症候群などの病気の総称)の可能性を伝えられ、大学病院に入院して精密検査を受けたところ、「全身性エリテマトーデス(SLE)」であると診断を受けます。さらにSLEの合併症として、関節痛、発熱、皮疹などの症状がある腎障害「ループス腎炎」、目・口などの粘膜が異常に乾燥してしまう自己免疫疾患「シェーグレン症候群」も併発していることがわかったのです。
最初の入院はステロイド治療で次第に回復し、退院し自宅で過ごすことができていましたが、28歳の誕生日に急に体を動かせないほどの高熱を出した際、症状が治らず再度入院することに。
SLEが重篤化したときに合併すると言われている「中枢神経ループス」を発症していることがわかりました。中枢神経ループスとはうつ状態や妄想などの精神症状と片頭痛、てんかん発作、けいれん、脳血管障害などの症状がある状態のこと。
集中治療室(ICU)での治療を経て、一年間は意識が朦朧とした中で体を動かすこともできず、起きてもすぐ寝てしまうといった状態が続きました。後から脳と脊髄に炎症が起きていることもわかり、結果的に28歳から34歳までずっと、病院で入院生活を送りました。
当時支えになったのが、仕事帰りにお見舞いにきてくれる夫の存在です。意識がほとんどなく話ができない時も、毎日欠かさず会いに来て、変わらずに優しく笑顔で接してくれました。
私は夫に対して、病気になってしまって申し訳ない気持ちを感じていましたが、夫はとにかくいつも前向き。「絵里に希望を与えて、元気になってもらいたい」と仕事を頑張り目標を叶えていく姿を見せて励ましてくれて、本当にありがたかったです。
リハビリを続け、なんとか退院した後は、しばらくは専業主婦として過ごしていましたが、偶然にも障害や難病のある女性のためのフリーペーパー「Co-Co Life(ココライフ)☆女子部」に出会い、サポーターに登録。
その後積極的にCo-Co Life☆女子部のイベントに参加し、車椅子ユーザーの友人もできて、友人と一緒に障害や病気のある30歳以上の女性の集う場として「Handicapped Womenオトナ女子」の活動を始めました。
そして2017年、活動を通して仲良くなった小澤綾子さんと中嶋涼子さんと、誰もが違いを超えて楽しむ社会をめざす車椅子チャレンジユニット「BEYOND GIRLS(ビヨンドガールズ)」を結成。

ビヨンドガールズの活動の様子(提供写真)
イベントで歌やダンスを披露したり、講演会を開催したり、マルチタレントとしてさまざまな活動をしました。
腰の治療、不妊治療を始めるために活動を休止
soarでは2019年に、私の人生について取材をしていただきました。当時はコロナ禍以前でしたし、東京オリンピック・パラリンピックに向けて、BEYOND GIRLSとしてイベント出演やライブなどの活動を活発にしていた頃。
病気になって6年間の寝たきりを経験し、人生がガラリと変わってしまった私は、自分がもう一度社会に出るなんてできないと思っていました。ましてや表に出る活動ができるなんて夢にも思っていませんでした。そこからBEYOND GIRLSを結成し、たくさんの経験をさせてもらって、本当に幸せな時間だったなと思います。
ちょうど記事公開後あたりから、やり残したことはもちろんあるけれど、自分の役割をある程度やり切ったなと感じるようになりました。
そう思った理由としては大きく2つあります。
一つは病気の症状による腰の痛みが悪化していたこと。これ以上頑張り続けることは難しく、長期的に身体を休ませて治療する必要性がありました。
もう一つは、出産して子育てがしたい気持ちを諦められない自分がいたことです。
子どもがほしい思いは昔からあったので、どうしようかとずっと気になってはいたものの、体調の不安定さや活動の忙しさなどから、なかなか行動に移せずにいました。夫や家族も私の体を心配をしてくれていたからこそ、あまり前向きではなかったこともあり、具体的に子育てをするための環境を整えることもできていませんでした。
どこかで「病気がある自分は子育てすることはできない」と決めつけていた部分もあったのかもしれません。
もう諦めるつもりで過ごしてきたけれど、再度相談してみたところ家族のサポートを受けられることがわかり、覚悟を決めて不妊治療に踏み出そうと思ったタイミングが、2019年、43歳のときでした。
その後、メンバーとも話し合って、2019年夏頃からBEYOND GIRLSの活動は頻度を落として行うことになりました。すでに決まっていた仕事には取り組みつつ、腰の治療と不妊治療を進めていた矢先、コロナ禍に突入してしまいました。
全身性エリテマトーデスの再燃、意識不明の状態で2週間ICUで過ごすことに
当初は2020年4月に腰の手術をする予定でしたが、コロナの影響で8月延期になり、その間に腰が急悪化して、座ることができなくなるほどに。ずっと横になっていないと生活できず、あまりにも痛みがひどかったため緊急入院となり、2020年7月に緊急オペをしました。
オペは無事成功したので、退院後はリハビリ病院へ行きましたが、そのリハビリ中にSLEが再燃。症状の急悪化により意識不明の状態になって、ICUで過ごすことになりました。
意識が朦朧としていたため、その時の記憶はほとんどありません。
後日夫から当時の話を聞きましたが、夫が毎日声をかけてくれたり、姉が様子を見にきてくれたり、家族が懸命に支えてくれていたそうです。
意識がない中でもずっと声をかけていた夫は、私が目を覚ました時はものすごい喜んでいたんだと言っていました。
でも「誰だかわかる?」と聞くと、私は「わからない」って。その時の夫は、意識が戻ったことがうれしい反面、「忘れちゃったのかな」とすごくショックだったと思うんですね。姉から聞いたのですが、それでも夫はこう伝えてくれたんだそうです。
「忘れちゃってもいいよ、今は覚えてなくてもいいよ。また1から思い出作って、また1から楽しいことしようね」
それを聞いた時に、夫はすごく私を受け入れて、見捨てずにいてそばにいてくれたんだなって、安心感とともに、夫の器の広さを改めて感じました。
ICUで2週間を過ごした後は、一般病棟に移ることに。ですがこの頃はコロナの影響で、家族であってもお見舞いに来ることができなかったんです。
そんな中でも夫は、外の風景や日常の様子を動画に撮って毎日ビデオレターのように送ってくれたり、独学でピアノを始めて、私の好きな曲を演奏している動画をサプライズで誕生日に送ってくれたり。「なんて素敵な人なんだ」と感動しましたし、本当に励みになりました。
ドイツの詩人クリストフ・アウグスト・ティートゲの「喜びを人に分かつと喜びは二倍になり、苦しみを人に分かつと苦しみは半分になる」という言葉にあるように、エリが苦しい時は俺もその負担を一緒に背負うから大丈夫。
オペの前不安な気持ちがあった時に夫がこう伝えてくれたことも印象に残っています。安心しましたし、頼もしく感じました。そして今はできないことも多いけれど、元気になったら私が彼を精神的にサポートできる存在になりたいと強く思いました。

ICUにて、目覚めたばかりの梅津さんと夫さん(提供写真)
20代で寝たきりになった時は、「なんで私だけ?」「本当だったら今頃あんなことがしたかったのに」と自分の人生に悲観的になり、絶望する気持ちもありました。当時は生きてる意味がないとか、死にたいとか、普通に思っていたんです。
でも入院中の6年間があって、いろんな人の支えのおかげで這い上がることができたので、結果的にこの経験は「目標に向けて頑張れた」という成功体験になりました。
今回病気が再発したことで、また人生に絶望はしたんです。
でも、ここで以前の成功体験が私を助けてくれました。希望や目標を、自分の中で絶やさなければ、光って絶対見えてくる。いつになったら希望が見えるか不安だけれど、生きてたらきっとまた楽しいことがある。それを知っていたので、一生懸命、淡々と粛々と、もしかするとあまり深く考えないようにしていたのかもしれませんが…「今この状態でできることをやろう」と自分を信じることができていたとも思います。
その後も、「また手術だよ」と言われる度に「ああ、なんで…」と落ち込んではいたんですけど、少し時間が経つと「まあしょうがないよね」と受け入れられるようになっていました。
そうして、合計5回のオペを経験。ステロイド治療なども続けて、1年半の入院生活を過ごしました。
入院中もSNSでの発信は続けていて、オンラインでのライブ配信をするようになりました。
「またオペだ…」という落ち込む気持ちも、「ちょっと聞いて〜」と見てくださる方に配信でぶちまけたり(笑)。何とかして感情を表現し解消するというのを身につけたのもこの頃。以前だったら自分の中でモヤモヤを貯めて思いつめてしまっていたんですけど、今はオンラインでも表現ができて、フォロワーの方から反応がもらえるので、そのコミュニケーションにとても助けられました。
同じ症状がある方も、そうではない方も、いろいろな人が心配の声をかけてくれたり、「頑張って」と応援してくれたりするので、「みんなが待ってくれてるんだ、じゃあ頑張んなきゃ」とモチベーションになって、治療も頑張れたと思います。
入院生活は、自分一人ではなくてたくさんの人に重い荷物を持ってもらったような期間でした。夫、家族、友人、仲間、フォロワーさん、そして病院の先生や看護師さん、リハビリ担当の方、部屋が近い入院患者さん…みなさんに背負ってもらったし、誰か1人欠けてたら多分乗り越えられなかったんじゃないかなって。
本当は1人1人顔を見て「ありがとうございます」って握手しながら周りたいくらい(笑)、そのぐらいパワーをいただいて、本当に感謝しています。
退院後、ミュージカル出演をきっかけにパラダンスに出会う
2021年11月に退院後、1年ほどは自宅療養というかたちで、主に家で家事をしながら、たまに外出する日々を過ごしていました。
コロナの様子を見ながら少しずつ電車に乗ってみたり、友人とご飯を食べたりもし始めましたが、最初は1人で出かけることに精神的に不安があり、夫や介護タクシーの方に連れて行ってもらうようにしていました。
その後徐々に、病気に関する講演会やBEYOND GIRLSの仕事を受けたりして、少しずつですが体調が安定して日常が戻っていっているのを感じました。
そんな中で2023年ごろ、「車いすモデル役としてミュージカルに出ないか」と相談をいただき、2分ぐらいの出番で出演させてもらうことに。プロのダンサーの方からダンスを教えてもらって、出番は少なくても全体の稽古が2ヶ月ほどあったので、毎週のように稽古に行ったのですが、それが私の中ですごく楽しかったんです。
BEYOND GIRLSでの活動もそうですが、今までずっと、歌とダンスが好きでした。ただ腰の手術をしてから、「やりたいけど、どこまでできるかな」と自分の中でブレーキをかけていたというか、我慢してたところもあって。ミュージカルにチャレンジすることで、「私、けっこうできるんだな」と自信が生まれました。
表現するって楽しいな、踊るって生きがいになるな。やっぱり継続していきたい。
そう思っていたら公演終了後、ミュージカルを通して出会った方に「絵里さんの踊りすごく素敵なので、車いすでできるパラダンスっていうのがあるからやってみない?」と誘われて、今所属している一般社団法人日本パラダンススポーツ協会(JPDSA)という団体に出会いました。
日本パラダンススポーツ協会は、国際競技大会に選手を派遣するための取り組みをしていて、国際基準の指導員、審判員などの育成を活動方針としている団体です。
体験レッスンに参加しただけですごく楽しくて、すぐに本格的に取り組むことに決めました。
「アスリート」としてパラダンスに取り組む刺激的な日々
パラダンスとは、障害のある人もない人も同じように舞台に立ってダンスをする芸術的スポーツ。車椅子競技者のことを「ドライバー」、ドライバーと組んで踊るパートナーのことを「スタンディング」と呼び、ドライバーの障害に応じてにクラス分けされ、以下4つの競技カテゴリーごとに決まった競技種目を踊り、審判の採点で順位を競います。
・コンビ:車いすドライバーとスタンディング男女2人が一緒に踊る
・デュオ:男女二人の車いすドライバーが一緒に踊る
・シングル:ドライバーが一人で踊る
・フリースタイル:ドライバーがコンビ・デュオ・シングルのスタイルを自由に選択できる
(参考:一般社団法人日本パラダンススポーツ協会 ウェブサイト)
踊るときは一般的な車いすではなく、車輪がハの字になっている、パラダンススポーツ用の軽めの車いすを使用します。進むのもスムーズで早いし、回転もできて面白いんですよ、目が回って気持ち悪くなっちゃうんですけど(笑)。
パラダンススポーツは、パラスポーツだけれどダンスで、芸術性があり、スポーツとアートの要素を併せ持っています。フィギュアスケートのように、技術や表現を競うだけでなく、衣装や曲にも個性が出るんです。そして障害者と健常者が一緒に取り組めることも魅力だと思います。
私はバレエやエアロビをしていた経験があるんですが、車いすで挑む競技ダンスは初めて。自分が知らなかった踊りの基礎を学ぶ日々ですが、新しいことを学ぶのって、なかなかこの年で得られない経験なので、すごく刺激的です。
車いす操作は慣れるまでは複雑で、1回転はできても2回転、3回転と連続でのターンをするのはけっこう難しくて。一般的なダンスと同じで一点を見つめて、首を最後まで残して回る、というのを繰り返し練習します。
一般的なダンスのステップのように、車いすで踊るときにもある程度基本のステップがあります。その中で上半身をどう使うか、全体の振りに合わせた表現ができるかなどは、試行錯誤が必要です。私の場合は病気の影響で手に力が入りにくかったり、麻痺があったりするので、それを考慮して振り付けを調整しているんです。
ワルツ、タンゴ、サンバなどさまざまな種目がある中で、自分が今できる動きでジャンルごとのルールを守り、曲に合った表現をすることに気を配っています。
私がお世話になっている日本パラダンススポーツ協会の関東のチームには、学生の方から70代の方まで幅広い世代の方が10名ほど所属しています。(2025年2月現在)
メンバーには健常者の方も、障害のある方もいますが、障害のある方でも先天性の方、中途障害の方など、それぞれ症状や障害の度合いもさまざま。大体週に1〜2回ほどレッスンがあり、みなさんいろいろなお仕事や活動がある中で、可能な日に参加をしています。
パラダンスをはじめて変わったことの一つが、「アスリート」としての意識です。今までも人前に出る活動をしてきましたが、個人主義というか、自分のことをメインで考えていましたし、「自分を見て!」という思いが強かったんです。
今はチームで動くことも多いので、メンバーのことを考えるようになり、「みんなで一緒に頑張っていこう」という気持ちが湧くようになりました。
そして、アスリートにふさわしい人格でありたいという思いもあります。礼儀正しく振る舞うこと、競技のために体を整える自己管理など、できていないことが多いので、もっと意識していきたいです。栄養を摂ることや睡眠など生活にも気を遣い、病気がある中でも自分の体をもっと大切にして、日常にメリハリを持って過ごしていきたいと思っています。
体調の波は今でもあり、大きな不調を感じることもあります。体がしんどい時はレッスンをお休みしますが、団体の方々が「休養に専念して、回復に努めてください」と快く言ってくださることが、すごくありがたいです。パラダンスを長く続けていくためにも、無理せずやっていきたいと思っています。
車いすになってから初めての海外で、パラダンス大会に初出場
パラダンスの練習に励む日々の中で、私は「大会出場」が一つの目標になっていきました。
パラダンスは大会出場の前に、車いす競技者を障害の種類や程度によってカテゴリー分けする「クラス分け」を受ける必要があります。
・クラス1 (上半身、下半身に障がいあり)
・クラス2 (下半身のみ障がいあり)
(引用元:一般社団法人日本パラダンススポーツ協会 ウェブサイト)
上記の通り2種類のクラスがあり、どちらかに該当しなければ大会出場ができません。
私の病気、SLEは過去の出場者の中に同じ病気の当事者がおらず前例が全くないため、クラス分けの判断材料のために、私自身の診断書を提示することが必須です。
2024年10月の台湾での大会出場を目指して、半年ほど前から担当医の協力のもとその準備を開始。ただSLEは人によって症状がさまざまで、私のケースは重度で今後も症状の改善はあまり見込めないため、それをどのように詳明するかで、とても難航しました。検査を受け、医師の診断書を用意し、できる準備は全て行いましたが、それでも私がどちらかのクラスに該当する保証はないので安心はできません。
クラス分けは大会開催地にて、大会の前日に行われました。私はクラス2に入れるか、もしくは認められず出場ができない可能性もありましたが、まずは現地に行ってみることになり、車いすになって初めての海外に。結果、後から追加で検査結果を提出する条件付きではありましたが、クラス2の方で無事大会に出場させていただくことができました。

台湾での大会出場時の梅津さん(提供写真)
こうして迎えた大会当日、私はクラス2で、女子シングルコンベンショナル5種目と、女子シングルフリースタイルの2種目に出場。
5種目の方はワルツ、タンゴ、ルンバ、サンバ、ジャイブの5種類のダンスを、フリースタイルの方では自分で選んだ曲で自由な振り付けで踊りました。
本当に緊張しましたが、ずっと近くで気にかけてくれたコーチや、協会のスタッフの方々、応援に駆けつけた姉のサポートが力になり、楽しんで踊ることができました。結果は5種目の方は15人中7位、フリースタイルは12人中6位で、6位は入賞として賞状もいただけたんです。今回は強豪国が参加していなかったのでそのおかげではありますが、初参加にしては嬉しい成績を収めることができました。
大会を通して世界中の選手たちと出会い、パラダンスを通して繋がることができたことに何よりも感動しました。言語が通じなくても、選手のみなさんそれぞれが歩んできたストーリー、そして「パラダンスが好きだ」という気持ちを、踊っている姿から感じたんです。
これからも大会に出場して経験を積んでいきたいです。また、パラダンスについて学ぶイベントやパラダンス体験会を開催するなど、みなさんにパラダンスやパラスポーツの魅力を知ってもらうことにも取り組んでいきたいと思っています。パラダンスがもっと身近な表現の場になると良いなと願っています。
自分自身の“心のよりどころ”でもある、オンライン交流の場「オトナ女子会」
2017年に私が車いす生活になった直後、障害のある人や車いすユーザーをはじめとするさまざまな人たちが集まる場としてはじめた「オトナ女子会」も、形を続けて継続しています。
当初はランチやアフタヌーンティーなど、非日常的な場所にお出かけをしたり、クリスマスやお花見などのイベントごとを楽しむ場を開いたりしていましたが、コロナ禍になってからは直接会うことが難しくなってしまいました。
多くの参加者は病気があって、感染リスクも高いので外出は難しい。それでもみんなの顔を見て話がしたい。
そこでzoomを使ってオンラインでの集まりを開催するようになりました。それまでは「Handycapped Women オトナ女子」という名前で活動していましたが、オトナ女子会を省略して「Otojo(オトジョ)」という呼び方に変更。夜の時間帯にオンラインでの会を開催することが多いため、「Otojoナイト」という名前で、月1回オンラインで交流会を行っています。

オンラインでの交流会の様子(提供写真)
回によって変わりますが、参加者は20代〜60代くらいの人たちで、10人ぐらい。誰でも参加できる場なので病気の当事者の人だけでなく、家族や知人に当事者の方がいるという健常者の方もいます。
よく参加するメンバーと、不定期での参加者や初めての参加者、割合としては半々くらいです。3〜4時間くらいずっとzoomを開けていることが多くて、出入り自由にしています。病気がある人も多いので気軽に参加してほしくて、寝ながら参加も、顔出しなしの参加も、チャットでの参加もOK。参加費は無料です。
近況報告したり、情報交換したり、質問や相談をしあったり…いろいろなことを自由に話してますね。さまざまな病気の人が参加しているので、お互いの病気のことを知る機会にもなっています。
患者が集まると、「私はこんなにつらい」「こんなに何度も治療をしている」など、つらさを競い合ったり、自分と他者を比べてしまったりする場合もあると思います。
でもこの場では病気のつらさを比べることはあまりなくて。参加者の方々同士が「こういう症状もあるんだね」とお互いを尊重し合っていて、そんな考え方も素敵だなと感じています。
運営メンバーが数名参加して場の雰囲気に気を配っていることもあり、楽しい雰囲気の回がほとんどではありますが、でもやっぱり、どうしても悲しい話になってしまうこともあるんです。
病気の当事者で、悩んで、辛くて、思い詰めてしまって……と。そんな時は参加者のみんなで「大丈夫だよ」と受け止めています。私や運営メンバーだけの知識だとどうしても足りないので、参加者の人たちの力を借りてわかる情報を伝えたり、どうにかして支え合う。お互いにカウンセリングし合っているように感じることもあり、私にとっても大切な場です。
病気のことだけじゃなく本当くっだらない日常のこともたくさん話すんですよ、病気を忘れるぐらいみんな楽しく、盛り上がる時は深夜まで、日にちをまたいで盛り上がったり(笑)。私が入院中も参加者のみんながそれをしてくださってて、心のよりどころとしてすごく支えられました。

ビヨンドガールズの活動の様子(提供写真)
そしてBEYOND GIRLSの活動も、すごくのんびりとですが進めさせてもらっています。私だけでなくメンバーが出産し子育てがはじまったり、活動の幅を広げていたり、それぞれ変化がある日々。
今はそんな3人のライフスタイルに合わせて、できる時に集まって活動する、というやり方にさせてもらっています。現在は2025年3月21日まで、オリジナルソング「Beyond Everything」をCD化する夢のために、クラウドファンディングに挑戦中です。3月20日にはこれまでの活動の集大成として、CD発売記念イベント、1日限りのバリアフリーコンサートを開催。今はこの日に向けて練習に励んでいます。

ビヨンドガールズの活動の様子(提供写真)
子どもを持たない人生で私は何をしたらいいんだろう。その先に行き着いた表現への思い
今の私は基本的には家で家事をしていて、週1〜2回ぐらいのパラダンスのレッスンに行ったり、用事がある時に出かけるという生活をしています。
日々で最も気をつけているのが、体調管理です。通院するだけでなく、3カ月に1回は看護師さん、月1回はケアマネさん、月に2回は医師の訪問が。そして介護でヘルパーさんやリハビリ担当の方にそれぞれ週に1回きていただいています。
今はSLEの症状は落ち着いていますが、腰の痛みや、神経の圧迫、痺れなどは日常的に強い状態。コントロールが難しいため、服薬をしています。
あとはなるべく体が固まらないように、座っていても頻繁に体勢を変えたり、捕まり立ちをしたり、リハビリやストレッチをしたり。倦怠感もありますが、これは休むと治まるので意識的に休息を取ったり、日々体の声を聞いて調整をしています。
パラダンスを始めてからは、体はもちろん疲れますけど、気持ちの上では張りがあって、楽しく過ごせています。
前から楽しさをその都度見つけながら過ごしてはいたんですけど、私はやっぱり生きがいや、目標みたいなものがあったほうがいいタイプみたいで。出かけるきっかけがあったり、誰かの役に立ったり、そういう他者との関わりがあると毎日の充実度が違いますね。
それを見つけるまでは苦しみました。自分に何ができるんだろうってずっと悩んでる期間は、私にとってはすごく生きにくかった。常にモヤモヤしていた、迷っていた時期だと思います。
実は、BEYOND GIRLSの活動休止後に進めていた不妊治療は、結局SLEの悪化や入院のため継続できなくなってしまいました。妊娠、出産を諦めなければいけない状況に、最初は「じゃあ次私は何をしたらいいんだろう」と悩んだのですが、その結果「生きがいがほしい」と思ったんです。
その先にパラダンスに出会えて、自分に合っているなって実感が得られたので、今はこれに賭けたい。せっかく得られた命、燃焼して生きていきたいと思って、今はパラダンスに向き合っています。
大人女子会やBEYOND GIRLSの活動、SNS発信、そしてパラダンス、それぞれ私にとっては自分を表現する手段のようにも思います。私は子どもを持たない人生になるので、生きた証みたいなものを本能的に残したい思いが多分あって。今は表現することが、生きがいになっているような…自分の生きてる証を残すというか、自分を証明することにつながっているのかもしれません。
挫折することもあるけれど、希望を捨てない。諦めず、地道にやっていけばいい
2005年に病気が見つかって入院して、6年間寝たきりになって、退院して大人女子会やBEYOND GIRLSなどの発信活動を始めて…また病気が悪化して入院して、今はパラダンスに打ち込む日々。自分でも、色々なことがあったなと思います。
私は落ち込む時はすっごく落ち込むんですけど、落ち込んだら、絶対底に当たるじゃないですか。そしたらもう上がるだけだなと、いつも思っていて。ある程度光が見え始めたな、動けそうだなと思える時までぐっとこらえる、自然に浮上するのを待つんです。
そしてちょっと動けそうになったらやりたいことをリスト化して、できそうなことからやっていく、というふうに行動を積み重ねてきました。
やりたい気持ちがあってもできなくて、挫折することもいっぱいあって、その度にもう1回最初からになっちゃうんですけど、諦めず、ねちっこくしつこく、地道にやっていけばいいかなって思っています。ダメ元で、でも希望を捨てないというか(笑)。
私はSLE発症前、サーフィンをやっていたんですけど、サーフィンって大きい波が来るたびに飲まれるんです。でも、波に飲まれて、ジタバタしてもがくと、逆に浮上してこれないんです。
「そういう時ってどうしたらいいんだろう」とサーフィンが上手い友人に聞いたら、「なんにもしなくていいんだよ。ただ体を丸くしていると、自然に体は浮いてくるから」と教えてもらいました。
波に飲まれると、光がなくなって視界が真っ黒になって、どこが上か下かもわからなくなります。それでもじっと待っていると、太陽の光が入ってぱって明るくなる瞬間がある。「見えた」と思ってその光に向けて身を任せていると、自然に浮上して波から出られるんです。
これって、人生と似てるなと思っていて。つらくて動けない状況になったとしても、そういう時はじっと堪えている。いつか光が見えるので、ジタバタするのではなく、その時に向けて体力を温存しておく。起き上がれるタイミングでパッと出られるように考えておく。次の波に向けて、うまく乗りこなせるように備えておく。私はそういうイメージで人生を歩んでいると思います。
もうひとつサーフィンから学んだことは、苦しい時は周りにいる仲間が絶対助けてくれるということ。
私は1人では海に入らない、絶対仲間と入る、というのをルールにしていました。例えば沖側にパドル(ボード上で腕で水をかいて移動をすること)しているつもりが、違う方向に流されて気づけば全然違う方向にいて、「動けない、戻れない」という大変な状態になるときがあります。でも、いつも仲間が気づいて絶対に引き戻してくれるんです。
これは今も変わらなくて、苦しい時こその仲間。夫や家族、友人や知人など、ずっと周りの人に助けてもらいながら生きてきました。苦しい時にこそ、大切な人たちのことを思い出してここまできました。
お世話になった身近にいる大切な人たちへの恩返しとして、これからは私がみんなを笑顔にしていきたいと思います。
私は病気が再燃して1からスタートになって、絶望する時期も過ごしましたが、その先でまた素晴らしい景色を見ることができました。これはサーフィン中波に押し流されても、パドルして前進して、次の良い波に乗ることができることに似ている気がしていて。何度も波に乗れるように、人生はきっと諦めなければ何度もやり直せる、今はそう思っています。
辛いことがあったからこそ感じる命の大切さ。日常のなんでもない時間が愛おしい
入退院を繰り返して生死をさまよい、家族や仲間に助けられつつ、こうして新たな挑戦を始めた今は、これまでの大変だった経験も、きっと私に必要なことだったのかもしれないなと思っています。
多分病気にならなかったら自分の足りない部分に気づけなかったから、自己成長のために、必要な時間だったのかなって。そう思わないとやっていけないというのもありますが(笑)。
そして、辛いことがあったからこそ、命の大切さを感じますし、日常のなんでもない時間が愛おしくて、ささいなこともありがたいなと思うようになりました。足りていないところも、できないことも、やれなかったこともいっぱいあるけれど、今あるものに幸せを見出す力や、ポジティブに物事を変換できるような力が身についたんじゃないかって。
少し前、家を掃除している時にすごく汚れているところがあったんです。以前だったら「汚いな、嫌だな」とか思っていたんですけど、「汚れを磨ける喜び…!」と家事ができるありがたさを感じたりして。マニアックな喜びかもしれないですね(笑)。
あとはふとしたときに、私と夫の分で箸が2つ並んでいるのをみて「ああ、また一緒のところに帰ってきたんだな。一緒に暮らせているんだ、今」と心が和みます。日常の中でも、ほんのささいなことだけど、幸せだなって実感することが増えたんです。月がきれいだなって思ったり、風のにおいや四季の移り変わりを感じたり。入院していた時は全然そんな瞬間はなかったので、こういう体験ができるのがありがたいなって思うんです。
何かできないことに出くわした時は「できない自分がムカつく」とか思うけれど、それすらも経験できること自体がありがたいし、できた時には「すごい」って自分を褒めるようにしています。何もできなかった時間があったぶん、何かができることの喜びを実感できるんですよね。これからも、「できない悲しさ」よりも「できた喜び」を大事にしたいなって思います。
病気を患った私だからこそ味わえる幸せが、人生にはたくさんあります。ゆっくり、手探りでもいいので、自分のペースを大切にして、これからも大切な人と共に歩んでいきたいと思います。
関連情報:
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梅津さんが所属する車いすチャレンジユニットBEYOND GIRLSは2025年3月21日まで、オリジナルソング「Beyond Everything」をCD化する夢のために、クラウドファンディングに挑戦中です。詳細は以下をご覧ください。
https://camp-fire.jp/projects/814900/viewまたBEYOND GIRLSがCD発売記念イベントとして3月20日に開催する、バリアフリーコンサートのチケットは以下よりご購入いただけます。
https://beyondgirls.base.shop/
(編集/工藤瑞穂、撮影/加藤壮真、協力/宇都宮雪代)