イラストを描くわたなべすがこさん(提供イラスト)

こんにちは!初めまして。わたなべすがこです。

20代から絵と文の仕事や、野良仕事から介護までさまざまな仕事をしてきましたが、現在は大学の研究所で、あるプロジェクトの広報スタッフをしています。

私は2003年に30歳を目前にして、「重症筋無力症(MG)」という難病を発症しました。自分の体の一部である神経と筋肉の接合部に対して、それを攻撃する「自己抗体」ができてしまう自己免疫疾患で、筋力が低下して体のあちこちの力が入りにくくなる病気です。

見た目ではわかりにくいので、周りの人からの理解を得ることが難しくもありますが、その症状や、病気との生活をイラストと文にしたコミックエッセイを描いてきました。

2007年に『重症筋無力症-MG-とほほ日記』(三輪書店)として初版が出版され、2019年には改訂版を再出版していただきました。

現在は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、8年間通い続けてきた職場も在宅で勤務していますが、高齢の母と二人で用心しながら生活しています。

病気になってできなくなったこともありますが、自分が元気な時には見えていなかったこと、聞こえていなかったこともたくさんあり、病を得てからの自分は「発見の連続」でした。

そんな私が、病との共存生活を通して願ってきたことを、お話しさせてください。

人見知りで、絵を描くことが好きだった子ども時代。流れ 流され、なぜだか流浪の20代。

私は、生まれた時こそ股関節に脱臼があったものの、特に大きな病気にかかることもなく、健康に育ちました。3歳上の姉や幼なじみと外遊びもよくしました。

ただ、運動は苦手な方で、引っ込み思案だったため、1人で黙々と絵を描くことや、何かを作っているのが好きな子でした。子ども心に「絵を描いていると心が落ち着く」と思っていたかもしれません。

中学生の頃、忘れ物には厳しいのに、試験では誰でも100点が取れるクイズのような出題をする美術の先生がいました。早く解答できてしまった私は、答案用紙の裏に退屈しのぎでクラスメート数名の似顔絵を描いたのですが、花マルがついて返ってきたのです。

先生は私を呼び出して、「真面目にこっちの勉強をしてみたら?」と言ってくれました。いたずら半分に描いた落書きでしたが、先生に褒められたことはやはりうれしく、自分を尊重してもらえたような気がしました。

それがきっかけか、何となく美術方面に進むことを考えるようになり、高校卒業後は美大でも専門学校でもない、「セツ・モードセミナー」という小さな美術学校へ通うようになります。学費もウンと安く、授業時間も短いので、アルバイトをしながら通うことができました。

ここでは絵を描く技術や知識というよりも、「本当に美しいものとは何なのか」というような、大きく言えば「生きる上で大切なこと」を教わったように思います。

20歳前後からの私は、デスクワークから肉体労働まで、実にさまざまな仕事をしました。

当初は広告代理店や編集プロダクションで働きながら、イラストや文を描く仕事をもらったりしていたのですが、24歳のとき、縁あって車椅子ユーザーの成田正雄さんという方が営む沖縄の民宿へお手伝いに行きます。

さらに、琉球藍の農家でもあり、染色家でもあるご夫妻の家に長らく居候させていただいたことがきっかけで、その後は地方で暮らすことを望むようになります。

20代後半は南房総に住み、農業体験施設で働きましたが、食べ物や着る物がどうやってできるのか、何も知らなかった私の目を見開かせてくれたのがこれらの経験でした。

もう自分が一体何者なのか、何屋さんなのか、わからなくなっていましたが、ただ、日々の出来事を絵に描いたり、何かのレポートを発行したりということは、どこで何をしていても、ずっと続いていたように思います。

重力に逆らえない…?まさに“脱力系”、「重症筋無力症」を発症

そんな私が自分の体の異変に気づいたのは、29歳9ヶ月頃。農業施設の管理人の任期を終え、老人ホームで介護の仕事を始めて1年が過ぎた頃でした。

MGは大きく分けて、症状が目に限られる「眼筋型」と、全身に及ぶ「全身型」がありますが、いずれも目の症状から始まることが多いと言われています。

私も、異変は目からでした。朝はあまり感じないのに、夕方になるにつれて目を開けているのがつらくなり、瞼が下がってくるのです。太陽の自然光にしろ、室内の電気にしろ、明るい光がとても眩しいと感じるようになり、洗髪時にはシャンプーが酷く目に滲みるようになりました。

この頃、友人から「アレッ?!右目と左目の焦点が合ってないよ!」と指摘されています。最初は目の病気を疑い、眼科の受診を考えましたが、あっという間に症状は全身に広がりました。

それまでかきこむように急いで食べていたご飯がうまく噛めず、口からこぼれそうになったり、ゴクンと飲みこめなくてむせやすくなったり。また、会話をするとフニャフニャした鼻声になり、次第にろれつが回らなくなりました。

普段持っている鞄や鍋も岩のように重く、腕の上げ下げや、太腿を持ち上げるのもつらく、全身を鉛のように感じるようになっていきます。

そんな症状が続いたある日の夜勤、与えられた休憩時間で横になると、底無し沼に沈み込むような感覚になり、体を起こせなくなりました。私の様子がおかしいことは周りの目から見ても明らかで、ホームの看護師さんに勧められ、隣接する町立病院を受診して帰りました。

そこから3日間で3つの病院を回ることになりましたが、最初の2つの病院では、脳のCT画像に異常もなく、病名もはっきりしなかったものの、3つ目の病院ではすぐにMGが疑われました。体の異変に気づいてからここまで、2~3週間の出来事です。

MGの症状の現れ方は人によってさまざまで、長い期間をかけて全身におよぶ人もいますし、何ヶ月も何年も診断がつかなかったという人もいます。私は入院して精密検査を受けた結果、「重症筋無力症(MG)」と診断されました。

またMGによく見られる合併症の胸腺腫も見つかり、これを摘出する手術を受けることになりました。

重症筋無力症の症状の例(提供イラスト)

家族と私の病気が重なる中、助けてくれたのは友達。でも、自助・共助には限界がある。

「重症」などという冠がつく病名をもらった私は、その病名や、30歳目前という年齢で、自分が原因不明の希少な疾患にかかったことにも驚いていましたが、何よりショックだったのは、そのタイミングの悪さでした。

その年の2月、実家では父にも癌が見つかっており闘病中であったことから、「何でよりによってこんな時に」という気持ちが大きく、両親に何と伝えるかが大問題でした。手術も必要で、長期に渡る疾患であるとわかってきて、親に内緒にしておくわけにもいかず、自分の不甲斐なさに落ち込みました。

しかし、私の病気を知った父は、電話口で私にこう言いました。

お前、まぶたが下がって、変な顔になっているんだって?ダメじゃないか、オレとお前は顔だけが取り柄なのに!

子どもの頃から単身赴任が多く、一緒に生活することが少ない父でしたが、別々の場所にいても、どちらかを知っている人からは親子とわかってしまうほど、私は父と瓜二つ。団子鼻で人を笑わせることが好きな三枚目の父は、こんな時も私を笑わせてくれました。

その後の私の手術には友人たちが立ち合ってくれましたが、私は独身で1人暮らしだったので、退院後も日常生活を友人たちが助けてくれました。買い物や通院などの具体的なサポートだけでなく、精神的な面でも私を支えてくれた友人たちには感謝しかありません。

しかし、いつまでも友人の厚意に甘えているのは心苦しいものです。常に自分が誰かの世話になっている立場に、肩身が狭いと感じることや、卑屈になってしまうこともありました。

親や子どもや配偶者など、身内の援助などが得られない者にとって、家族や地域で支え合うことを大前提とした制度の元で生活するというのは、非常に困難です。

みんな、自分で何とかしたいに決まっているし、本当に困っている人は、すでに自助も共助も尽きている。そこを、行政は考えてほしいなと願っています。

私の父は、私の手術から3ヶ月後の2003年9月、61歳で他界しましたが、父が亡くなる前、久しぶりに顔を合わせた時には、私にこんなことを言ってくれました。

お前、前よりいい顔になったな。人の情けが身にしみているからだな。前よりずっといい。これからお前の本当の良さが出てくるよ。

私は父の最期に自分も大病をするという最大の親不孝をしてしまいましたが、父とはお互いが病と共にある中で、深く心を通わせることができたと思っています。

“せっかく” 病気になったのだから、症状や生活を絵に描けばいい。

私の心を軽くしてくれたのは、父の言葉だけではありませんでした。

せっかくあなたみたいな人が病気になったのだから、絵に描けばいいんじゃないの?

そんな友人の一言もその一つ。退院後、とにかく見た目ではわかりにくい、だけど喋って説明するのも大変というこの病気を、どう周りに理解してもらえばよいだろうと思っていましたが、「そうだ、描けばいいんだ!」。私はすぐさま絵と文で描いてみることにしました。

MGは症状が脚に出ることもありますが、立ったり歩いたりできる限り、一見普通の人にしか見られません。黙っていれば、重い荷物でも何でも運べるように見えますし、何でも食べられるように見えます。

電車の中でつり革に掴まっていられなくても、席を譲られることはなく、優先席に座ることも憚られます。

しかし、あれこれできないことはあっても、道具を工夫したり、休憩をとりやすくしたり、状態を知ってもらって環境を整えれば、できることもあります。

私にとって、身の回りの出来事を描いて表現することは、発病前からずっとやってきたことなので、ごく自然な成り行きでした。

やがて、それをまとめたものが三輪書店から『重症筋無力症-MG-とほほ日記』として出版されたのですが、それもまた、別の友人が出版社に原稿を運んでくれたことが始まりです。

ここで大事なのは、“せっかく” 病気になったのだから、という点。幸いなことに、私の周りには、病気を単に「悪いもの」とか「不幸」として捉えるのではなく、何か経験値が上がったか、新しいパターンが出てきたかのように捉えてくれる人たちがいました。

前述した沖縄の車椅子の成田さんは「すがやん、障害者になったんだって?僕と一緒だよ、おめでとう!」とメッセージをくれました。この台詞はこの方だからこそ言えるのであって、誰もが言えるわけではありませんが…。

僕ね、障害者になってから、人生が開けたの!

成田さんは、車椅子の人でも誰でも気軽に泊まれる民宿を作り、自分も旅を楽しみ、病院のベッドの上でも発信し、周りの人を巻き込みながら皆を元気にしてくれる存在でした。そして、「大丈夫だよ、困ったらお母さんといつでも来なさいね」と言ってくれたのでした。

私には以前から、さまざまな難病や障害を持つ友人恩人がいました。自分が発病するまで、あまりそのことを意識することもなくお世話になってきた方々ばかりですが、あらためて、そうした友人たちに励まされ支えられました。

もちろん、良いことばかりではなく、周りの元気な友人や、旧友たち、社会の人たちに対して、自分はまるで状況が違うと感じ、疎外感を持つこともありました。

特に同世代の30代と言えば、仕事を頑張ったり、結婚・出産や子育てをしたり、さまざまな経験をしてキャリアを積んでいく世代です。30代の自分は、なかなか病状が安定せず、入退院を繰り返していましたから、「自分の人生は一体どうなってしまうのか」と思っていたことも事実です。

しかし、大変な状況も絵と文で客観的に表すと自然とコミカルになり、それを周りの人に見てもらうことで、何かが開けてきたような気がします。

同じMG患者の仲間が喜んでくれて、リハビリの先生を目指す学生さんや、製薬会社の方や、さまざまな人の前で漫画を使ってお話しする機会なども増え、“せっかく病気になった”、の意味も、だんだん増してきたのです。

人間は、生きているだけで素晴らしい。「生」の重さを感じたクリーゼの体験。

発症から2年が過ぎた2005年5月、私は実家に帰り、母と2人の生活を始めましたが、この年の秋、MGでは最も進行した深刻な状態である“クリーゼ”になりました。

“クリーゼ”の語源は“クライシス(危機)”、呼吸不全のことですが、これに至るはさまざまな原因が考えられます。

私の場合は、実家とは言え引っ越し後の新しい環境になれなければならず、心身ともに疲れがたまっていたのでしょう。

あっという間に全身の力が落ちて、喉の力も急激に弱ってしまった私は、ある朝、薬も飲み込めずにむせ込んで、吐き出すこともできなくなり、救急で運ばれることになったのでした。

入院後に人工呼吸器を挿管することになりましたが、これは鼻から気管にかけて管を通して呼吸を管理するもので、声を出すこともできません。

この時、私はベッドに寝たきりのまま、意識ははっきりしていて周りの会話もわかるのに、自分は声も出せず、寝返りも打てず、痰の吸引をしてもらいながら、数週間ひたすら天井を見続ける、という状態を経験しました。

ただこの時の私は、自分では何もできないにも関わらず、自身の中にもの凄いエネルギーがあることを感じていました。あちこち管に繋がれて、声も出せない、赤ちゃんより何もできない状態なのに、紙一重で生きている自分の存在が奇跡のように、重みを持って感じられたのです。

うまく言えませんが、命の塊というか、純粋なエネルギーとしてそこに存在していたような感覚があり、「人間って、生きているだけですごいんだ」と思いました。

もちろんそれは、一過性の出来事で、助かったから言えることだと思いますが、この経験は後から思うと、非常に貴重なものだったと思っています。

入院直後は、看護師さんや面会に来た母とも意思疎通がうまくできず、イライラが募っていました。この時活躍したのも描いてきたコミックエッセイで、担当看護師さんからナースステーションで回し読みが始まると、状況が変わってきました。

例えば、私の頭上は常に電気を消してもらって、診察の時には一声かけて点灯してもらえるようになったり、体位変換や、痰の吸引のタイミングを合わせてもらったり。筆談や文字盤を使い始めたのも、コミュニケーションの助けとなりました。

病院のあらゆるスタッフのお世話になって一命をとり止めた私ですが、体を起こして初めて外の景色が見られた時の感動は、今も憶えています。

この時の入院では、自分以外のさまざまな病気や障害の人と自分の状況を勝手に重ね合わせ、想像をめぐらせました。みんな頑張っているのだなあと、尊敬の念がより深まりました。

重症筋無力症との生活に役立つグッズ(提供イラスト)

人はみんな、誰かの役に立ちたい。でも「役に立つこと」が生きる価値や意味ではない。

クリーゼを脱してからの私は、さまざまな治療によって症状が次第に落ち着いていきました。症状が再燃して治療を1からやり直すなど、一筋縄ではいきませんでしたが、自分の体の運転の仕方を少しずつ覚えていったように思います。

仕事の方はというと、2006年頃から、昔なじみの編集プロダクションへ週に数日通って、編集補助として働くようになりました。

それと合わせて、『重症筋無力症-MG-とほほ日記』を出版させていただいたご縁で、他の病気や障害がある人などを取材するお仕事もいただきました。

2012年からは研究所のスタッフとして働き始めましたが、入って間もなく調子を崩して入院してしまったり、再度胸腺の手術を受けることになったりと、ここでもずっと平穏無事に過ごせたわけではありません。

しかし、この時支えになったのは、「自分を待っていてもらえる」という安心感や、「仕事を成し遂げたい」といった責任感でした。

勤務を始めて間もなかった時は、「まだ何もしていないのに大変な迷惑をかけている、辞めなくてはならないだろうか…」と落ち込みましたが、当時、私を採用してくださった広報室長は、「苦しみながら続けるとしたらつらいから、つらかったら辞めてもいいし、続けてもいいのですよ」と選択肢を与えてくれました。

当初、私は持病のことを伝えて採用されていたのですが、やはり見た目ではわかりにくい病気ですし、自分はどんなことが大変で、どうすればできる、といったことを周囲にちゃんと伝えきれず、遠慮や緊張もしていたと思います。

しかし、我慢して体調を崩して仕事ができなくなるよりも、できるだけ伝えるようにすることが重要と考え、少しずつではありますが、伝えるようにして仕事をこなしながら、周りの方々との信頼関係もできていったように思います。

その後の手術入院の際は、上司も、「よく治して、帰ってきて下さい」と言ってくれたのですが、この時はそれまでの入院とは精神的な安定感がまるで違いました。

MGは治る病気とは言えないのですが、「よく休んでね。でも帰ってきてね」と言われたことで、「自分はここにいていい」、「居場所がある」、「頼りにされている」と感じられたのです。

ここであらためて思うのは、人はみんな「誰かの役に立ちたい」と思っていて、誰かに頼りにされたり、喜ばれたりすることが、生きる支えになっている、ということです。自分を助けてくれる存在も必要だけれど、自分が誰かの力になれた時に、喜びを感じるものなのではないかと。

それは必ずしも、働いてお金を稼いだり、何かを生産したりという「労働をすること」や「生産性」云々を言うのではないし、「役に立つ」ということが生きる価値だとも思いません。

人間は、生きているだけで素晴らしい。ただ、自分が誰かに見守られていると同時に、自分も誰かを気にかけ、地域や社会の中で居場所を感じられること、「あなたがいてくれてよかった」と存在を認められている実感が持てることが、生きる力になるのだな、と思うのです。

ところで、高校卒業後に通っていた美術学校の校長先生の言葉で、印象的なものがあります。

世界の中から特定の個人を選ぶ愛を「恋愛」と言うならば、世界そのものと直接に関わる愛を「仕事」と呼んでいる。(長沢節 著『大人の女が美しい』草思社)

当時の私は、その言葉の意味を本当には理解していませんでしたが、「世界そのものと直接に関わる愛」…、今の私には、その言葉が深く胸に刻まれています。

人は、親子や夫婦、恋人、という限られた個人との愛のやりとりだけではなく、社会の中の愛のやりとり、これがなければ生きていけないのだと思います。

個人と交わす愛、社会と交わす愛。そのどちらも大切(提供イラスト)

弱さを共有して、「とほほ」でも一緒に生きよう

MGになってからというもの、私はしばしば、「急におばあちゃんになっちゃったみたい」と思っていました。

私よりもずっと筋力があってお元気な高齢の方はたくさんいらっしゃいますから、こう言うと語弊があって、叱られてしまうかもしれませんね。しかし誤解を恐れず言わせていただくと、重症筋無力症の症状は、高齢者の特徴とよく似たところがあると思うのです。

加齢によって自然と筋力は衰えるので、重たい物を持つことが大変になったり、疲れやすくなったり、喉につかえやすくなったり、噛めなくなったり…共通点が多々あります。

超高齢化社会に突入している日本において、私は “少数派” ではなくなるかも…?

実は最近、そんな期待さえ出てきました。やがて更に高齢者が増えて、私のような脱力系ニーズ(?)を持つ人が増える。病気や障害の1つや2つ抱えながら仕事をする人も、めずらしくなくなる。とすると、「もはや私は、時代の最先端を行っている?!」

すぐに調子に乗る私ですが、あながち絵空事でもなく、これからは小さなエネルギーを出し合って、より多くの人が働くことができる社会とか、省エネでも回っていく、そういう社会にしていかなければならないと思います。

ならば私は、なおさら自分の経験を伝えたいし、他の人の経験を共有して、それぞれの人に合わせた働き方や社会の仕組みを作れたら、どんなに良いだろうと考えます。

このコロナ禍で、多くの人の働き方に変化が起きていることも、今はしんどい過渡期であっても、何とか良い方向にできないものかと日々思っています。

私の病気は、日本全体で言えばおよそ1万人に1人程度という希少・難治性疾患ですが、生物の多様性において、誰もが発症しうる可能性があると聞きます。

そして、誰もが死ぬ前には、自分で自由に体を動かせなくなり、誰かの手を借りて、生まれた時のように、誰かにお尻を拭いてもらって死んでいく。ならば互いの弱さを認め合って、助け合っていこうよ、と私は思っています。

「健常者」という言葉がありますが、そんな人、本当にいるのだろうか?何をもって「健やか」というのか?そう考えてみると、私は難病患者ではあるけれども、心は案外「健やか」かもしれない、と思う時もあります。

「障害」とは、むしろ社会の中にあるもので、多数派の物差しだとか、構造や仕組みが障壁になっていることを言うのであり、個人の問題ではないのでは…。病気や障害があっても、幸せに生きていくことはできる気がします。

ウィークポイントはチャームポイント。弱さがあるから、人は引き寄せあって、つながることができるのではないかしら…。

この記事を書くにあたって、もし、過去の自分に声をかけるとしたら、あるいは、同じ病気になって間もない人にどんな言葉をかけるか、と尋ねられたときのことを思い出しました。

再び考えてみましたが…、「まあ、なんとかなるよ」でした。同じMGでも、症状の現れ方や経過はそれぞれ違うので、簡単に言えない面もありますが、私が多くの先輩に助けられたように、「1人じゃないよ」と言ってあげたいです。

ただ、けっして我慢しないで。私は、マスコミなどが「笑顔を絶やさず前向きに」とか「弱音もはかずに頑張った」などと発言することに違和感を持っています。本当に苦しんでいる人の問題を、覆い隠すことになりかねないからです。

今、健康で元気な人に対しても、私はやっぱり、「お互いの弱さを助け合って、共に生きましょう」と伝えたいです。それが、みんなが「とほほでも幸せ」と感じられる道だと思っています。

関連情報:わたなべすがこさん著書『重症筋無力症-MG-とほほ日記』(三輪書店)

(編集/工藤瑞穂、企画・進行/木村和博、岡本実希、イラスト/わたなべすがこ)