【写真】ヘルプマークをつけたカバンを見せながら笑うおざきさん

訂正:記事掲載時に病名を「骨髄異形性症候群」と記載しておりましたが、正しくは「骨髄異形成症候群」の誤りでした。また、病名の略称を「MSD」と記載しておりましたが、「MDS」の誤りでした。訂正してお詫びいたします。(soar編集部)

こんにちは、株式会社オアシス代表の小﨑麻莉絵です。

私は、2012年から名古屋市でホームページの制作会社を経営しています。設立してから2年経った頃、健康診断を受けたことをきっかけに「骨髄異形成症候群(MDS)」と診断されました。

「骨髄異形成症候群」は、細分化すると多種にわたるので説明が難しいですが、あらゆる血液細胞のもととなるDNAに傷がついたことによって生じる病気です。骨髄が、異常な形態の血液細胞を作り出す一方、正常な血液細胞が減少してしまうのです。また、病名と同時に「余命5年」との宣告も受けました。

現在は退院し、制作会社の経営を行っています。また東海地方で、外見からは分からない病気である人が、周りの人へそれを伝える「ヘルプマーク」の普及活動を行なっています。具体的には、ヘルプマークの認知度を上げるためにイベントや講演会の開催をしたり、インターネットを通してヘルプマークの重要性を発信しています。

今回は、私が骨髄異形成症候群と診断されてから感じたことや、ヘルプマークの普及活動を行う上で経験したこと、そして「余命5年」と言われた今、どのような思いで活動しているのかを、お伝えしたいと思います。

28歳のときにホームページ制作会社オアシスを設立

幼少期の小﨑麻莉絵さん

幼少期のころの私は、読書が好きで、あまり積極的に深く人付き合いをするほうではありませんでした。たとえば、学校でいじめを受けたことがあったのですが、両親が心配していても、「別に他の子としゃべればいいからええやん」と気にする様子もなかったようです。そして、淡々と学校に通う様子に両親が驚くような、ネガティブなことを深く考えることのない性格だったのだと思います。

三重県四日市出身なので、三重県内の大学を卒業。複数の会社を経て、28歳のときに名古屋市でホームページ制作会社を設立しました。会社では、webサイトやチラシを作成する仕事を行なっています。

家族の誰にも経営者はおらず、なんとかこの会社を大きくしたくて必死に出張してセミナーを開催したり、休みもあまり取らずに多くの方との会合に出席したりしながら仕事をしてきました。

誕生日の前日、骨髄異形成症候群という病名と5年の余命を宣告される

29歳の時、4年ほど健康診断を受けていないことがふと気になり、健康診断を受けることにしました。会社の近くで受診した健康診断から3日後、すぐにクリニックから連絡が来て、「小﨑さんの血液の数値がおかしいのですぐに総合病院に行ってください」と指示を受けました。

診断を受ける前後で体の不調を感じたことはなく、何の自覚もない中で受けた指示だったので、仕事の予定をキャンセルして行く訳にも行かないし…。迷っているうちに1ヶ月ほどたってしまい、それから総合病院にいきました。

しかし、その頃にはすでに、白血球、ヘモグロビン、血小板など、血液成分のバランスの数値が完全におかしくなっていたのです。

すぐに検査入院することになったのですが、日に日に体力が減退すると共に、不正出血がひどくなっていきました。めまいや過呼吸も徐々に出始め、自分でも少しずつ病気を自覚することのできる状態に。

そして、8月の誕生日の前日。医師から呼ばれて宣告されたのは「骨髄異形成症候群」という病名と、「余命5年」という命の限りの目安でした。

【写真】真剣な表情で語る、おざきさん

診断を受けたときには、「この先どうなるのだろう」と不安が胸に溢れました。一人で宣告を受けたので、それと同時に「両親にどう伝えれば良いのか」を真剣に考えた記憶があります。どんな風に伝えれば両親の悲しみが軽減するのか、必死に考えていました。

余命宣告を受けてからはじめに、主治医の先生がこんな風に言ってくれました。

泣いても笑っても5年の月日は流れていくから、たくさん笑いましょうね。僕もフォローしますから。

会社のことや家族のことも含めて、将来を思うと不安や恐怖はありました。でも先生の言葉のおかげで、「同じ5年を過ごしていくなら、悲しいことや辛いこと、イライラした気持ちを少なくしていこう」と思えるようになりました。

すごく優しい先生で、今でもちょっとした体調の変化やこれからのことを相談しています。先生はとても客観的に私のことを見てくれているので、仕事の量や食事制限の按配まで、疑問や不安をなんでも話せてとても心強いですね。

振り返った時、「楽しかった!」と思えるような人生を過ごしたい

私が入院していた血液内科では、規則として病棟に入ったら院内のコンビニにも行けなくなるため、すごく退屈で、暇な日々を過ごしていました。そのような中での、私にとっての大きなサポートは、毎日誰かしらお見舞いに来てくれることでした。

入院中、たくさんの友人がお見舞いに来てくれて、近況報告や楽しい話をしてくれました。他にも、食事制限があった私に配慮しながらお土産を持って来てくれる友達も。特に、両親は毎日お見舞いに来てくれて、毎日話し相手になってくれていました。

自分の人生では、病気を宣告された1日も大事な1日なんだ。
毎日お見舞いにきてくれる人がいて嬉しい。私は家族に守られているんだ。

入院中に書いていた日記を読み返すと、当時の不安な気持ちだけではなく、そんな嬉しい感情なども綴られていました。

この後の人生が長くても短くても、振り返った時に「あー、楽しかった!」と思いながら人生が終えられるように生活すること。この思いは、病気になってからの私が、ずっと大切にしていることです。その一心で日々を過ごしたいと思っています。

【写真】笑顔を見せながら話すおざきさんの横顔

外見も中身もありのままの姿でいいよね、と思える出会い

また、少し病気が落ち着いた頃、お見舞いに来てくれた中学時代の恩師から紹介してもらったことがきっかけで、現在の夫とも出会いました。

出会った当時は恋愛関係になるとは思っていませんでした。ただ、私は療養中で暇だったのと、夫は一人暮らしをしていて夕食を食べる人がいなかったことから、時間が合えば一緒に夕食を食べるように。

同じ時間を過ごしていくうちに、夫の優しく暖かい雰囲気に惹かれていく自分に気づきました。振り返れば、私は会社の経営者でもあるため、「人の前ではきちんとしないといけない」と考えて生きていたように思います。なので、「病気になってもしっかりしないと。弱音を見せないように」と気を張っていました。

でも、夫の前では、「なんでもいいかな、ありのままの姿でいいや」と思えるようになっていたのです。

そして、夫からの告白を受けたとき、「この人とならこの先の私の人生、笑って過ごせるかな」と思い、結婚を決めました。

【写真】満面の笑みを浮かべるおざきさん

夫は私を笑顔にするために、「1日に1回、麻莉絵を笑わせるぞ!」と毎日面白いことを披露してくれています。最近では「太りすぎて脂肪肝で麻莉絵より早く死ぬとあかんで、痩せるわぁ」とジムに通い始め、運動で14キロのダイエットに成功してくれているほどです(笑)。

この人は私が骨髄移植をして、毛が全部なくなって、まつげも無くなって、ツルツルになったとしても、毎日お見舞いに来てくれるのだろうな。

出会ったころと変わらず、今でもそんな風に思っています。

【写真】パートナーと一緒に笑顔を見せるおざきさん

外見では分からない骨髄異形成症候群という病気

入院と自宅療法を経て、1年4ヶ月後。私はなんとか職場復帰をしました。

職場復帰をする際は、体調のこともあり主治医にも止められました。しかし、経営をはじめてから自分の会社として名乗れる形になった、とても思い入れの強い会社です。闘病生活中もずっと職場へ戻りたい思いがあり、どうしても諦めることができませんでした。

「残りの人生、笑って過ごすためにやりたいことをする!」と決め、1年以上、じっとベッドの上での生活をして、ようやくかなった社会復帰。

通勤で歩くこともふらふらしながらでしたが、会社に戻れる喜びやまた社会に出ることができたのだという幸せは、健康なときには感じたことのない感情でした。

余命5年だと医師に言われた私が、「その通りに死ぬかも知れない」という思いの中で過ぎてゆく一日一日。そんな一日は私にとって朝起きてから寝るまでが、とても大切に感じていました。

【写真】真剣な表情を見せながら語るおざきさん

社会復帰を果たして浮かれていた私でしたが、すぐに試練が訪れます。

私は、体力がすぐ消耗するので、疲れやすく、家から徒歩5分圏内の駅に行くにもやっとの思いで通っていました。通勤ラッシュを避け、できるだけ遅い時間の電車で通勤を考えていても、午前中の電車はそんなに席が空いていません。

優先席が空いていたら座って通勤していましたが、そこに座っている私はとても病人には見えませんでした。

実際に、「あんた、若いのによう座れるな!」と高齢の方から声をかけられたこともあります。私自身の病気についてきちんと説明して譲れないことを伝えても、周りの人で高齢の方に代わってくれる人はいません。そうするとお断りした高齢の方が、降りるまでずっと私の目の前に立っているのです。

言葉で伝えたとしても、高齢の方も疲れているから、気まずくなってしまう。

席を代わりたいけど代われないもどかしさをずっと感じていました。私は死ぬまでの一日一日をこんなに大切に感じているのに、なぜ朝からこんな切ない気持ちにならなければいけないのだろう。このままでは、通勤だけで毎日疲れてしまう、と思いました。

こうして、疲れやすい体調になったり、具合が悪くなりやすい中で、「目に見えない病気」に対してどうすれば生きやすくなるか考えるようになりました。

目に見えない病気を伝えるヘルプマーク

【写真】ヘルプマーク。十字架とハートが描かれている

そんな中で、会社の社員が教えてくれたのがヘルプマークです。ヘルプマークは、「周囲の人が、外見からはわかりにくい障害や病気を持つ人に気づくためのマーク」として、東京都発祥で、2016年に作成されたものです。

当時の東海地方では、ハートプラスマークを付けている人はいましたが、ハートプラスマークは「内部障害・内臓疾患を示すマーク」として作られているため、私が使用した際は、血液病であるということが伝えづらいなと思っていました。

ヘルプマークの存在を知った時、「このようなものがすでに存在しているんだ、病気の人たちが守ってもらえるものがあるんだ、私も持ちたい!」と嬉しくなったのを今でも覚えています。

当時は、私の顔の横幅よりも大きいプレートに大きく「病気です」と書き、クリップでカバンにつけていたのですが、ヘルプマークを付け始めてから、私の日々はガラッと変わりました。

【写真】とても嬉しそうな表情を見せるおざきさん

電車でヘルプマークを見た高齢者の方は、私のカバンをじっと見て、「病気なんか。がんばれよ」と声をかけてくれましたし、別の日には隣の席に座っていた男性が私の代わりに席を譲ってくれました。どちらもきっと、健康な人がちょっとだけ気を配ってくれただけの事なのでしょうが、私の大切な一日にとっては、明るくて嬉しい光となりました。

署名活動・イベントをきっかけに、東海地方でヘルプマークの啓蒙活動を開始

その後、インターネットを介して、ヘルプマークの重要性や広めたい思い・エピソードの発信を始めました。すると、日々を大切に過ごしている一方で、大変な思いをしている人がたくさんいることを知ります。

次第に「私と同じような思いをしている人のために、少しでも自分ができるようなことをしたい」と思うようになりました。

ヘルプマークは、マークの規格を守り、東京都に申請すれば作成することが可能です。それを知り、東海地方でのヘルプマークの認知度を増やそうと、私は啓蒙活動を始めます。

【写真】「助けてほしい心の声を形にしたい」と書かれた、ヘルプマーク啓発のリーフレットやステッカー

はじめに名古屋でヘルプマークを普及する際、市長さんにも関心を抱いてもらうために、署名活動を行いました。2017年4月から開始し、締め切りは6月末までと決めて、目標100人集まればいけるだろうと思っていました。

しかし、友達数人に相談したところ、「バカじゃないの?100人じゃ足りないやろー!」と、お叱りをもらい(笑)、目標人数を1万人に変更しました。残り1ヶ月ちょっとで1万人の署名を集めるとなると、私一人の力では到底叶えられません。友達からアドバイスをもらっているうちに、「ヘルプマークの認知度を上げるイベントを開催しよう!」という計画が立ち上がりました。

イベント企画中に仲間が仲間を呼んできてくれて、新聞社やバルーンアートや看板屋、飲食店の経営者さんも仲間になってくれました。ある人はお祭りの出店でポップコーンメーカーを持ってきてくれたり、ライオンズの経営者様方と街頭アンケートを行ったり、時にはクラブイベントにも出店しました。本当に多くの人の助けがあり、イベントは成功!

締め切りが迫るにつれ、毎日信じられないくらいの署名が届き、お手紙も届き、本当に幸せで暖かな気持ちになりました。こうして、署名活動は6月末までに1万人を達成することができました。

ヘルプマーク啓発イベントでの様子

名古屋市長さんに署名を提出した際、「これは早く取り入れて広めなければ!」と快諾していただけました。現在、名古屋では2017年10月10日から「ヘルプカード」というかたちで配布されるようになっています。

名古屋市長に署名を提出する様子

当事者もそうでない人も、気軽にヘルプマークを知ってほしい

ヘルプマークは、作成されただけでは、当事者の生きづらさの解消には足りていないと考えています。当事者もそうでないひとも含めて、周りの人に知ってもらう必要があります。

東海地方では、まだまだ今も普及しているとは言えません。しかし、交通広告や優先席にもヘルプマークについて貼ってもらえるようになってきて、少しずつ一般の人たちの目にも留まるようになってきています。啓蒙活動を始めた1年前は行政の担当者様も見たことがなかったヘルプマークが、徐々に認識されるようになりとても嬉しいです。さらに、SNSで繋がった人たちが、掲示された広告の写真を撮って知らせてくれるので、なおさら嬉しく思います。

現在は、少しずつ新聞やテレビに取り上げていただき、週に数度の講演活動や休日のイベント活動を行なっています。行政にヘルプマークの導入をお願いしたりと、当事者・健常者関係なく多くの方々に知ってもらう活動へと広がっています。

【写真】ヘルプマークアンバサダーの委嘱状

特にイベント活動では、当事者が治療後に初めて外出する機会として参加してくれたり、子どもたちが自発的に自分のできる啓発活動を考えてくれたりします。このように、老若男女問わず多くの人たちのアクションで支えられています。

こうして、私がヘルプマークの普及活動を行えている理由の根本には、「私の人生は何事も楽しみながら行動したい」という思いがあります。ですので、ヘルプマークについても、みなさんにはイベントなどを通して、楽しみながら気軽に知ってもらえると嬉しいです。

また、活動している中で、ヘルプマークをお守りとして持っている学生に出会ったことがあります。その子はヘルプマークを出すことは少なく、いつもはカバンにしまっています。普段は使用していなくても、カバンにしまっているヘルプマークを思い出すことで、安心して生活することができるようです。

「もし何か困ることがあっても、ヘルプマークを持っていることで周りの人に助けてもらえることができる」と思える力があるのだと思います。

【写真】ヘルプマークをつけたおざきさんの鞄

目に見えない病気がある人も生きやすい社会に

病気については、この1年でかなり元気になりました。しかし、1日イベントや講演に出かけると、途中で体調を崩すことも正直無いわけではありません。その分、会社の社員にも、私が調子を崩したときの対応をきちんと周知できるように前もって準備しています。

働き方についても、働く日数や仕事のやり方をガラッとかえることで、なるべく無理をしない働き方を考えています。家事については、甘えと不調の境目が分かりやすいようにと、できる限りは自分でも行うように決めています。

それでも以前に比べ、今日が何事も無く終わる日が多くなっていて嬉しいです。

【写真】ヘルプマークを持って笑顔を見せるおざきさん

「余命5年」と宣告を受けた私ですが、笑って還暦を迎えるという夢があります。でも、もし叶わない夢だとしても、それはそれでいいんです。

その代わりに、「目に見えない病気がある人も生きやすい社会に」と活動しているヘルプマークの理念が、いろんな人に受け継がれてほしい、と思います。

ヘルプマークの存在が、その人の生きづらさに気付きやすく、みんなで助け合える社会に近づける一歩になればいいなと思うんです。

「世界には、難病でも一生懸命頑張っている人がいるんだ!」と知ってもらうことで、誰かの生きる力になることがあると思っています。私の活動を通して、その姿を伝えられるように頑張っていきたいです。

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株式会社オアシス ホームページ

(写真/六鹿宗光)