「挫折」という経験があるひとは、きっといっぱいいると思います。
失敗してしまった、人に非難された、とても恥ずかしくて消えてしまいたかった。私にも、今だからやっと話せるような、そんなつらい失敗がたくさんあります。
そこから立ち上がりもう一度挑戦することで、人はどんどん強くなり成長していきます。でも今の日本では、たった一回の失敗を責めて責めて、もう一度立ち上がることを許さないような空気があるのも現状。
今井紀明さんも、実は自身が対人恐怖症で引きこもっていた経験があります。でも今井さんは、自分のなかにある「絶対によくなりたい」という強い意志を大切に、様々な人のつながりのなかでもう一度歩き始めました。
だからこそ、誰よりも人の可能性を信じ、それに全力で懸けることができるひとなのです。
現在通信制の高校に在籍している生徒は約18万人。生徒のうちの約7割が高校中退者、調査によっては約4割が中学時代の不登校経験者といわれています。彼らのうち、4割強の高校生たちが進路が決まらないまま卒業している現状に対して、人とのつながりを生み出すこと、成功体験を獲得する機会をつくるキャリア教育でアプローチをしているのが、「ひとりひとりの若者が自分の未来に希望を持てる社会」を目指す認定NPO法人D×P(ディーピー)。
その代表をつとめているの今井さんの想いは、見ている周りが胸を打たれるほど力強いもの。いつも人の輪の中心にいて、みんなを楽しませてくれる今井さんは、自身の生き様で軽やかに社会を変えていく頼もしいリーダーです。
たくさんの人の想いを束ねて突き進む今井さんは、なぜこれほどまでに若者に懸けることができるのか。これまでの人生のストーリーと、事業の源となる想いについて聞いてみました。
正義感が強くて、おかしいと感じるものを見過ごせなかった
工藤:今日は今井さんのことを、子供時代からいろいろと聞いていきたいと思います。いっぱいメディアに出ている今井さんですけど、D×Pのことだけでなく今井さん自身の人生や考えてることを。
今井:子供時代かあ。あんまりしゃべったことないかもしれない。今は大阪にいるけど、もともとは札幌で生まれ育ったんだよね。記憶があんまりないんだけど、ゲームが大好きで、小学校6年生まではゲーム三昧で一日8時間とか10時間とか余裕でやってた(笑)。桃電とかドラクエとかファイナルファンタジーとか、全部誰よりも早くクリアするみたいな!
工藤:意外ですね!スポーツ少年のイメージでした。
今井:基本的にはゲームばっかりに熱中してたから普通の子供だったと思うよ。全くもって特殊な感じではなかった。いつも特殊に見られるけどね、「どうやって育ったんですか?」って。
工藤:その頃から人の輪の中心にいたんですか?
今井:小学校のときからかも。学校の先生の不正とかを見つけると正す、みたいなことをしてた。小学校4年生のときの担任が、今はすごい良いおじいちゃんなんだけど、クラス全員に謝らなきゃいけないことを謝らなかったことがあって。それを俺が代表して「それはおかしいんじゃないですか。」って言ったんだよね。そしたら先生も「わかった。すまんかった。」って謝って。
工藤:そういうのは今の今井さんのイメージどおりですね!
今井:正義感が強かったのかもしれない。でも、そうやって素直な大人を見てるから僕らは「あ、そうなんだ、良い先生やな。」って結局まとまったんやけど、そういうのがよくあったかな。いじめとか見過ごせないタイプで、クラスでいじめがあったときは腹がたって、その生徒を守ったり「ほんとにやめろよ。」って言ったりしてた。
環境問題をなんとかしたくてしかたなかった
工藤:そんな小学校時代を過ごして、中学校はどうだったんですか?
今井:中学は吹奏楽部で全国大会までいったんだよね。練習がすごく忙しくて、夏休みだと12時間あったりする恐ろしい部活だったので、すごい頑張ってる子供だったと思うね。プラス生徒会長をやってた。学祭でみんな楽しんでるのに先生が「もうやめろ!」みたいなのを言ったときに、反抗して「このまま続けて良い!」みたいなことをやったら先生にぶちキレられたけど、あとで学校の先生方も悪いって認めて謝ってきたりしたなあ。そういう変な子供だった。
工藤:中学校では何か目指す職業はあったんですか?
今井:学校の先生か総理大臣か、どっちか忘れたけどそう書いてた記憶がある。正義感がすごく強かったからかな。中学3年生で生徒会が終わった受験勉強の時期に、きっかけは忘れたけどごみ拾い活動みたいなのを始めたんだよね。勉強せずに環境の問題を勉強したり、毎日清掃して用務員さんと仲良くなったりして。
工藤:それってよくある「みんなで掃除しよう!」っていうような活動じゃなくて?
今井:いや、一人で。ごみ袋もって登校して。
工藤:一人で!(笑)それは誰かに褒められるのが嬉しかったとかでもなく?
今井:いや、そういうのじゃなかったと思う。環境の問題がとにかく深刻だってことがわかって、家の近くにたまたま通りすがりで見たNGOの勉強会に出たんだけど、それで関心を持ってブックオフ行って本を買って読み始めて。
職員室のとなりに緑色の大量にごみが入ってるでっかい収集ボックスみたいなのがあったんだけど、そこから生ごみを取り出して校長先生に「これを土に変えましょう。」と提案して、生ごみを土に変えるようなコンポーズをその辺の土地を借りてやったり。あとは近くにある森のごみ拾い活動とか、不法投棄のゴミを片付けたりしてた。学校の先生方も大変だったと思う(笑)。
社会を変えなければいけないという危機感があった
工藤:ゲームにはまったり、音楽にはまったり。興味あることにはのめり込むんですね。
今井:そうだね、ハマることに対してはハマってたかもな、昔から(笑)。環境問題もすごい深刻な問題だし、お金貯めてなにか動こうと思って、それで高校入学前に「昼ご飯を食べずにそのお金を貯めよう」って決めたんだよね。一日一食で生きてみようって、それを3年間貫いた。
工藤:なんですかそれは!
今井:お昼代で一日500円もらうでしょ、そしたら週2500円貯まるでしょ。それを母親にばれないように貯めていって本を買ったりして。高校の3年間で1回しか昼ごはんは食べてないから、学食に行った記憶がないんだよね。1回食べたのも、学祭かなにかで「今井ちょっとくらい食べろよ。」って、ハンバーガーを友達が渡してくれただけ。昼間は水だけで暮らしてたから。体育の成績が激落ちして。夜ご飯は強烈に食ってたらしいんだけどね。母親にばれなかったのは、高校の先生とか友達に家に来させて「今井は食べてます。」って言わせたりして。
工藤:ちょっと意志が揺らぐ時とかありませんでした?
今井:なかったね。学食の前は通らないようにしてたし。(笑)
工藤:すごい。。。それで本を買って勉強をしていたんですね。
今井:そう、それで高校二年生の時はインターネットでたまたま見つけたネットワークに入って、慶応とか早稲田の高校の人たちと一緒に環境問題を考えるフォーラムを一人で北海道から乗り込んでやったり。とにかく猪突猛進型。当時SNSもなかったから、メールやインターネット使って、いろんな社会人を引き連れてNGOの集まりに参加したり、地元のメディアに記事を書いたり。すごい孤立した、よくわかんないやつだったかもしれない。
工藤:誰の影響でもないけど自分がやりたいからやっていたんですか?
今井:そうそう。紛争問題に興味が出たのは、911のアメリカのテロが俺の高校一年生の時にあったから。世の中ってなんであんな法律が守られないんだろうって思ったんだよね。あの後アフガニスタンの空爆が始まって、なんで大国がなんにも関係ない国をつぶそうとするのか、空爆するのかって怒りがあって、そこからだね。
工藤:なんでそんなに熱中していたんでしょう?
今井:危機感かな。誰も行動しないし、誰かが行動しないと同じ世代の人たちに気づいてもらえない。だから「時間がない時間がない。」っていっつも思ってた。で、それでめっちゃ本読んで、写真集も集めて、いろんな高校生に見せたり。
工藤:学校に行く暇がないくらい忙しく活動してたんですね。
今井:そう、学校にはあんまり行ってなくて高三の時に数学の単位が落ちそうだったんだけど、全校のトイレ掃除をして単位もらった記憶がある。いろんな大人から話を聞いてたりするのが楽しすぎて、学校がつまらなかった。NGOも自分で作ってたから、その活動に没頭してたんだよね。。。思い出してきた。事件の前の話って、あまりしてないんだよね。
世間からの圧力で対人恐怖症に
工藤:私も詳しくは聞いたことなかったけど、人質の事件ですよね。
(今井さんは2004年、18歳のときにイラク人質事件の被害者となりました)
今井:事件前の記憶がね、取り戻せなかったんだよね。そうだ、だから子供の頃の話をあまりしてないんだ。あの事件後って自分の昔の記憶が飛んでるとこがあって、それを今自分で話しながら気がついてきたな。
工藤:何が記憶を失わせてしまってたんでしょう。
今井:恐ろしい圧力だったからね。
工藤:そうなんですね。事件があって日本に帰ってきてからは、世間からの「自己責任で迷惑をかけた」というものすごいバッシングがあって、数年間引きこもっていたと聞きました。
今井:街を歩いてると、おばあちゃんとかにじーっと顔を見られて、「あ、人質や!」って言われて。当時は1時間歩いていると必ず何人にも声をかけられてたんだよね。「今井くんもっと頑張れ」って言われる時もあれば、「今井くんは死んでくれたらよかったのに」って言われたり、殴られることもあった。
工藤:そんなことがあったんですか・・・。それで対人恐怖症になってしまったんですよね。
今井:正確に言うと対人恐怖症で引きこもってた時期もあったり、鬱病っぽい時期、PTSD(心の強いダメージから、その経験に対して強い恐怖を抱き続けること)の時期があったり。4年間はそれが混合されていて、突然フラッシュバックして泣いたり、パニックになってた。
工藤:それはとてもつらい。
今井:事件から6ヶ月後に、もともとイギリスの大学に行きたかったから結局行けなくて。それで潜伏してるみたいにイギリスでバイトしながら暮らしてたんだけど、結局あっちにいる日本人からとやかく言われたりして全然精神的に回復しなかった。当時孤独感がすごすぎて、しばらくはバイトはしてたけど日本人にほとんど会いたくないみたいな時期があって、すごくよく泣いてた。ニュースで人質事件が起こるのを見るたびにパニック障害みたいになって、全然動けない時期だった。
工藤:そういう状態のとき信頼して話せる人はいたんですか?
今井:一人か二人。友達みたいな人はいたけどあまりちゃんと話せてなかったかな。人の話を聞ける状態でもなかったと思うし、あのときは相当病的だったかもしれないね。
前に進むために、自分への批判と向き合った
工藤:そういう時期を過ごしてイギリスから帰ってきて。そこから今の活動に至るまでの経緯はどんなものでしたか?
今井:帰ってきた後に一ヶ月間くらいは引きこもって何やってたかと言うと、批判の手紙を全部タイピングしてた。
工藤:タイピング?
今井:そう、55,000字あるんだけど。それを見て、なんで批判されてたのか一回考えようと思って。すげえ苦痛を伴う作業で、でもあのときはそれをしないと精神的に回復しないと思ってたから、タイピングしながら一個一個自分でなぜこういうことになってるかって考えて。
工藤:そんなことをしていたんですね。
今井:うちの母親が相当心配してて。その作業をしてるときに。ずっと泣きながら苦しそうにやってたらしいんだよね。やっていくうちに、住所があるやつが出てきたからまず手紙を送ってみようとか、この人たちに会ってみようとし始めて。なんで批判されてるのか考えてみようって思ったんだよね。あのとき誤報もすごい多かったから、整理しながら自分の思いをちゃんと伝えていこうと思って。
工藤:それはものすごくつらいし他の人はしようとしない行動だと思うんですけど、どうしてそういう考えに至ったんですか?
今井:あまり実は覚えてないんだよね。感覚的には、そこから自分で抜け出して前に進むためにはその作業をしなければいけないってなぜか思ったんだよな。どうやったらここから解放されるんだろうって。なぜだろう。
工藤:乗り越えたい意志はあったんですね。
今井:うん、むしろ乗り越えたいしか考えてなかったかもしれない。
自分を批判する人は、本当は味方になってくれる人たちだった
工藤:そうして自分を批判する人に会ったり、連絡を取ったりしてわかったことってありますか?
今井:わかったのは、この人たちは俺の味方になってくれる人たちだってこと。
工藤:味方、ですか。
今井:批判の手紙の記録をブログに載せたときがあっただんけど、急激に炎上して。アクセスが1日30万件、2週間で批判のコメントが6000件くらいあったんだよね。今もたぶん1件も消してないから見てもらえば、まあまあ凄まじいよ。でも誤報に基づいた批判がけっこう多かったから、1件1件ちゃんと丁寧に返していってたら、インターネット上での批判っていうのが消えてきて。
工藤:こういう風に炎上したときって、みんなブログを閉鎖したりとかするじゃないですか。しかもこの人たちの言うことに答える義務って今井さんにはないのに、なんでそれでも答えようとしたんですか?
今井:ちゃんと交流したいからですね。
工藤:交流したいというのは?
今井:その人たちが何を考えてるのか知りたかった。コメント1個1個丁寧に返していく。当時、人質は自作自演とか言われてたんだけど、やりとりしていくうちにだいぶ明らかになって、自作自演はたぶんもうないって話にまでなったんだけど。
工藤:批判する人たちが味方になってくれるひとたちっていうのは、どういうことなんですか?
今井:電話番号を公開してて時期、すごい批判の電話が殺到したんだけど、話聞いてたら俺の味方になってくれたりして、みんなある程度こちらのことを理解してくれたらそうなるんだなってことがわかってきたんだよね。
工藤:その思考回路すごいなあ。
今井:基本的には、「対話をしたかった」っていうのがすごい強い。
工藤:ネットで誰かを批判する人は、まず自分自身が問題を抱えてることがあると思うんですが、そういったことは感じましたか?
今井:めっちゃ感じた。「人質にとられたお前のせいで休日も働かされたけど、そのときお金が出なかったから払え」みたいな、お金を返せって言う人がけっこういて。でも一時間くらい話してたら身の上話になってきて、「なんで今井ってこういう対応するん?」って言われて。「いやあ一応みんなと話してみたかった。」って話してくうちに、逆に「俺が悪かった。」て謝られた。たぶんその人もいろいろ大変な事情を抱えてたんじゃないかなと思うんだけど、最終的に「これからお前のこと応援するわ。」って言われたんだよね。
工藤:対話していくうちに、批判していたひととも深いところでつながれたんですね。
今井:でもひとつ僕も最初わかんなかったのが、応援してくれる方のひとが自分が連絡できなかったことなんだよね。つまり「今井くんはよくやってきた」っていう手紙も大量にあって、そっちの方が向き合えなかったな。当時は「今井くんの本を読みました」って言われると冷や汗をかいて喋りたくないと思ったり、「今井くんを応援してます」って言われると勘弁してくれって思って逃げたりとか。批判の方がまだ向き合えたかもしれない。
工藤:それはどうしてなんだと思いますか?
今井:応援される方が嫌いだったんだろうと思う。嫌いっていうか、「何もしてないのに何をみんな頑張れって言うんだろう」と思ってたかも。当時何もせずに帰ってきたのは事実だし、何も頑張ってなかったし。応援されるよりも批判されるのが楽だったな。思い出すと、あの頃はしんどかったと思う、やっぱり。
人と本音で向き合えることが心を回復させていく
工藤:18歳から批判と向き合う引きこもりの時期が続いて、そこからどう抜け出したんですか?
今井:運が良かったのは、20歳のとき、卒業して1年以上経ってからうちの高校の担任が大学の願書を持ってきてくれたんだよね。すごい嬉しくて!21歳のときに大学入ったんだけど、あれがなかったらたぶん俺大学行ってなかったと思うんだよね。あと記憶として持ってるのは、親が見守ってくれてたんじゃないかな。待ってくれてたんだと思うね。
工藤:親もよくなろうとする意志を信じてくれていたんですね。
今井:親は待つ力があったんだと思うし、すごく精神的に強かったんだと思う。あんまりとやかく言われた記憶がないからね。自分のことにそんなに口出してこなかった。それもあったから状況的には改善されてったんだと思うね。
工藤:大学ではどんな生活をしてたんですか。
今井:大学の時はすでに顔が割れてるから、もう「あの人質のニュースの今井が来る」みたいになってて。よく「あのときの今井さんですよね?」って声かけられたんだけど、「いえ、違います。高橋です。」みたいに言ってしまうくらい、あんまり人としゃべりたくなかった。特にブログが炎上した後だったから、リアルのコミュニケーションがすごくきつくて、逆にもっとへこんだ時期だったんだよね。学校の単位もあんまり取れてなくて、1、2年生のときは特にしんどい時期だったかもしれない。友達っていう友達はいたけど、しゃべると泣いてしまったりして。積極的に何かしようとも思わないし、バイトだけしてた。
工藤:不思議なのですが、なぜリアルなコミュニケーションはしたくないのに、大学に行こうと思ったんですか?
今井:それは、回復したいっていう意志かな。何とかしないと自分でもまずいっていうのはあって。大学の友達は、俺がこんなにしゃべるってことは学生時代を振り返ると信じられないと思う。あのときは全然違ったよねってすごく言われる。もともと大学時代はリーダータイプじゃなくって、存在感薄くて静かにすみっこにいるみたいな感じだったかな。
工藤:今はいつも人の輪の中心にいるから、考えられないですね!大学3、4年からは変わったんですか?
今井:そうだね、友達っていうか後輩のおかげで変わって来て。2年生の最後くらいに、今はもうD×Pを退職したんだけど、朴くんっていうもともとの共同創業者と会ってからかな。朴くんの存在は大きくて、彼は俺の事件のこと知らないんだよね、ほとんど。だから等身大の自分に関わってくれた。
昔、俺が「お前なんて俺みたいな国民の半分から死ねって言われた気持ちなんかわかるか!」って愚痴を言った時があって。そしたら朴くんに「いや全然わからないけれども、確かにそうかもしれないけれども、やっぱり自分でそれは乗り越えていかないとだめなんじゃない?」って言われて、ほんとにその時「そうだな。他人のせいばっかりにしてるな」って思ったな。
工藤:本音で今井さんに向き合ってくれたんですね。
今井:そこからもう一回海外行こうと思ったり、自分の経験をちゃんと話そうと思ったり。なんか「逃げないでいよう」と思ったんだよね。「またなんかあったらどうしよう」っていう気持ちはあったけど、一人旅で東南アジア行ったりし始めて。最初足が震えててね、飛行機から降りるときは本当に。それくらい怖かったんだけどね。
工藤:でも、行かれたんですね。
今井:そう、ショック療法くらいしないともうダメだと思って。
工藤:今井さんはなんだか、漠然とした「もっとよくなりたい」っていう力が強いような気がします。
今井:そうなんだと思う。振り返ってみると当時はやっぱり、なんか「もとの自分に戻りたい」っていうのがものすごい強かった。ずっとマイナスな状態で、以前の自分と同じだと自分でも思えてなかったし、行動力がすべて削がれてるような状態だったんだよね。
自分のことは「今井紀明は死ね」と思ってたからね。自殺願望も強くて、実際試みた時もあった。でも死ねないし、そこから立ち直るためになにかをしなきゃって思いはずっとあったから、動き始めたんだと思う。
大学3年になって、少しずつ自信を取り戻してきて、やりたいことはないけどとにかく、「大学生活してるし、生きてるんだから楽しまなきゃな」って思い始めてきたんだよね。それで友達が主体となるプロジェクトで一緒にギネス記録作ったりとか。(笑)
工藤:なにかでその情報見ました!(笑)サウナでしたっけ?
今井:サウナサウナ!「サウナ風呂に一度に何カ国の人間が同時に入れるか」ってギネスに挑戦して、結局57ヵ国。ちょうどリーマンショックがあった年で、「別府から世界平和を願います」みたいな(笑)。そうだね、なんにも目標なかったけど動き始めたってのが大学3年生のときかな。今考えたらびっくりするけど、本当になんにもなくて。自分の中が空っぽで、とりあえずゼロにはなったけどこれからどうしよう?みたいな。大学3年生の夏はインドに行ってたり、そのへんをプラプラしてたんだけど、ゼロだったね。
工藤:それでも友達となにかしようとは思った?
今井:友達のことを友達と思うようになったんだよね。今までは信用してなかったんだけど。
工藤:信頼できたのはなぜですか?
今井:やっぱり朴くんの存在が大きかった。彼に会って「人を信じていいんじゃないか」と思い始めて来たんだよね。その前がすげえ大変だったから。だからすごく感謝している。
若者たちの夢は否定されるべきではない
工藤:そこから、徐々に何かしたいという思いが生まれてきたんですね。
今井:空っぽだったけども就職活動はけっこう真剣にやってて、でも全然最初通んなくて。通んなかったのは自分の身元を明かせなかったから。最初の3、4ヶ月間くらいは、事件の話を一切しないで嘘ついてたから、「なんでこんな自分を偽ってんだろう」って気持ちがずっとあって。自分のことを全然喋れないわけだから、就職のエントリーシートも書けないし、面接も通るわけなくてさ。最初はそれですごいしんどかった。
工藤:嘘ついてても受からない、と。
今井:だけど、「もういいや。とにかく自分のことさらけ出してやろう」って踏ん切りがついたのが、4ヶ月経った頃。で、そっからはもうバンバン内定通って!これが自信になったんだ。自分のこと話すようになってきたし、落ちるとこは落ちていいやって思ってきて。なんで、あのとき吹っ切れたんだろうなあ。理由はあんまり覚えてないんだけど、自分で決めたんだと思う、とにかく「このままではだめだ」って。それでたまたま大阪の会社に決めたんだよね。
工藤:大阪!それはどういう理由で?
今井:ベンチャー企業で働きたいってのがあって、社員6人の商社に入ったんだよね。内定とったのが大学4年生の春ときなんだけど、もう一度海外の現場に戻りたいと思っていて、2ヶ月ですべての単位を取って、8月から家を撤去してアフリカに旅立った。
工藤:すごい(笑)。アフリカでは何を?
今井:ザンビアでたまたま学校を作ってる人たちと出会ったんだよね。青年海外協力隊と、あともう一人佐藤慧っていう詩人というかジャーナリスト。それで学校を増築するプロジェクトをやったあと、「もう一回絶対帰って来るわ。」って一回日本に戻って、内定先の社長に「頼むから貸して!」って直談判してお金借りてさ。
工藤:うわあ。
今井:30万くらい借りて速攻ザンビアに戻って、佐藤慧に言われたのは「え、ほんとに戻ってきたの?ここまで。」ってセリフ(笑)。それで1ヶ月で学校の増築のプロジェクトを完成させて、また日本に戻った。そのとき、「日本の子どもたちの方がまずい」と思ってて。ザンビアでは子どもたちに英語を教えてたの。国の展望とか自分のこととかすごいよく語るから、「この子達の方が日本の子供たちよりすごいなあ」って思ってたんだよね。そういう問題意識が出てきて、帰ったときに「何か日本の若者たちのために仕事をしたい」と思ったことが、今のNPO法人D×Pにつながってる。
内定先の社長には感謝だよね、金貸してくれなかったらあの時無理だったからさ。今の仕事の原点っていうのは、イラク人質事件の4年間のすさまじい否定の時期とザンビアの経験の2つがつながってるんだよね。
工藤:日本の子どもたちの方がまずいっていうのは。
今井:大学4年生の時に、大学1年生や高校生と関わったりする機会があって。毎週1回水曜日は、40人くらい大学1年生を呼んで夢を聞くっていうのを深夜までやってたんだ。それが今のD×Pのプログラムの一部になってるんだけどね。「大学の先輩はそれを絶対に否定するな、聞け!」っていうイベント!最後は俺の8畳くらいの部屋に50人くらい集まって(笑)。
工藤:50人って!大学1年生たちの夢を聞いて、今井さんは何を思ったんですか?
今井:「絶対にこの子たちのやりたいことは否定されるべきではない」と思った。だから、僕らがその実現のためにやれることをしたいってずっと考えてたね。俺がもともとすごく否定されてきた人間の一人だったから、後輩に絶対そんな思いはさせたくないって。
工藤:だから否定せずにただ聞くっていうイベントなんですね。
今井:そうそう。
工藤:参加した若者たちは自分のやりたいことや意志を持っていたんですか?
今井:そうだね、だからそれをちゃんと言葉にしていくっていう場を作ろうと思ったんだよね。
たくさんの人が集まる家から生まれた決意
工藤:そんな大学時代を経て、大阪の会社に就職して。
今井:大阪は最初は縁もゆかりもない土地だったから、仲間を作っていくために家をゲストハウスにしたんだよね。イベントをずっとやっていきながら年間300人くらい泊まっていって。それがD×Pの最初の始まりだよね。俺の髪がもじゃもじゃしてるから、勝手にモジャーハウスって名前つけられて、表札までモジャーハウスになっちゃって(笑)。
もう毎日いろんな人が泊まりにくるわけ。鍵も一応置いてるから知らない人がたくさん来てて、一種の住み開きみたいなもんかな。仕事から帰ってきて扉を開いたら10人くらい知らない人たちが飲んでて「お前誰?」みたいな話になって「いや、俺ここの家主だぞ。」ってことも多かった(笑)。
工藤:なんでそんなに家を開放してまで人を呼ぼうとしたんですか?
今井:大阪に全く知り合いがいなかったっていうのと、若者の話をすごく聞きたいと思ってて。
工藤:そこからどう今のD×Pの活動につながっていったんですか?
今井:若者のために何かしていこうと思っていくうちに、自分たちのやりたい方向性が見えてきて。知り合った通信制高校の先生方の話を聞いてて、通信制の高校の仕組みがニートを生み出してるんじゃないかって言われたんだよね。先生達は頑張ってるけども課題があるっていう聞いてたから、学校現場の事業を始めてみようと思ったんだ。
工藤:それで仕事を辞めたんですね。
今井:悩んだ末にもう腹くくってやろうかなっていうふうに思って、お金になるかわかんないけど「俺は営業マンとしての腕はあったから、まあとにかくやろう」と思って。別に失敗しても食っていけるだろうし。それで2011年の7月下旬に起業を決意して退職を決めて、NPO法人D×P設立総会をしたんだよね。その後、給料もまだ出ないだろうから生活レベルを下げる覚悟をして、2畳半の家に移って。
工藤:2畳半って!(笑)
今井:自分の給料は5万からスタートして、最初の3年間は自分のお金を全部持ち出して。去年まではそんな感じだね(笑)。
工藤:すごい決意ですね!そうまでしてやらなきゃいけないって思ったのは、どんな課題意識があったからなんですか?
今井:私立の通信制高校って、学校というかビルの一室にキャンパスがあったりして、週数回や年数回のスクーリングの通いをしていくと卒業資格が取れるんだよね。それで、進学も就職もしないまま卒業する子が全体の40%強。定時制も30%を超えているけど、定時制より、そういう子が多いのが通信制。通信制の高校生は増加傾向にあって、経済困窮家庭が多いから、中学のときから夜働いている子もいたりする。
工藤:普通高校に比べて、シビアな環境の子が多いんですね。
今井:もともと不登校やいじめを受けていたたり、本人が発達障害や学習障害があったりして、人の縁がない子が多いんだよね。孤立化しちゃって、インターネットしか居場所がない子もいるし。
大人が若者の夢ややりたいことを引き出す
工藤:シビアな状況にいる子たちをなんとかするために始めたのが、高校生が大人と出会うっていう機会だったんですね。
今井:そう。「ひとりひとりの若者が自分の未来に希望を持てる社会」がD×Pのミッションなんだけど、事業の核になってるのが「クレッシェンド」っていうキャリア教育のプログラム。18-39歳までの大学生や社会人が、自分の過去のことや仕事のことなど高校生に語ります。大切にしている姿勢は、否定しない、年下からも年上からも学ぶ、様々な職業やバッググラウンドから学ぶってこと。中退率や進路未決定を学校側ももちろん避けたいので、8コマ以上の授業時間をもらって長期の授業にしてる。
工藤:なぜ学校の授業でそれをやることが必要なんですか?
今井:20歳以上でひきこもってしまったりすると、なかなか接点がないけれど、10代で学校に通っている子たちならば、接点を持つことができる。そして、様々な社会的な困難を持っている子たちが通信制や定時制には多いから、通信制と定時制に絞ってるんだよね。高校中退者っていうのは、アプローチできるような集団にはならないでしょ。だから不登校経験者や高校中退経験者が来てる通信・定時制で授業をすれば、授業には必ず来るから、その後も彼らに関わるっていう仕組みをつくることができる。
うちのプログラムを課外授業にすると、生徒が集まらないかもしくは元気な生徒しかこないんだよ。それだと意味ないから、状況がしんどい生徒でも来るようにちゃんと単位が出る授業をもらうんだよね。出席率は6〜9割だから、ある程度の生徒には参加してもらうことができてるかな。
工藤:そこではどんな授業をするんですか?
今井:授業の内容は、前半はコンポーザー(大学生や社会人のボランティアスタッフ)に自分の失敗や挫折体験、仕事の話やありたい姿について話してもらうんだ。そうすると、後半は信頼して生徒も自分の話をするようになるんだよね。
工藤:それで高校生たちに、変化が出てくるんですね。
今井:たとえばコンポーザーの社会人が、「昔は夢は真っ白で、やりたいことがわからなかった」とか「僕が不登校の時、悲しんで親は一緒に死のうといった。でも通信制の高校で少しずつ自分を取り戻していった。」みたいな自分の話をする。自分と同じ通信制に通っていたっていう話が生徒に響いて、心を開く。そうやって誰か一人でも信頼して話せる人ができると、先生に対してとは違う話ができるようになるんだよね。普段は話さないけど、高校生たちは「ゲームをつくってみたい」とか「美容師になりたい」とか将来の話をし始めたりする。
工藤:本当はやりたいことがあるのに、あきらめていた子がきっと多いんですね。
今井:ある高校でアンケートをとってみたら、「高校卒業後にやりたいことがある」という項目に「とてもそう思う」「まあそう思う」と回答した生徒は、授業前は29%だったのが、授業後は70%になっていて。
工藤:ちゃんと生徒たちの心の変化を生み出していますね!
今井:そうだね。自分たちは、高校生が何を考えているかの引き出し役でもあると思う。それは全日制の高校でもあり得る話で、先生に話せない課題を抱えている子はいっぱいいるんだよね。だから先生と協力して、生徒にサポートしていくのは大事だと思う。そして授業を受けたあとに、チャレンジプログラムがあって、それが第二段階なんだよね。
工藤:第二段階ではどんな活動を?
今井:それは学校の枠を超えた部活動みたいな感じ。ITスキルの取得講座があったり、企業へのインターンもあれば、写真部なんかもある。写真部ではアート展や写真展を開催したりして。その後、プロになりたいってカメラの専門学校で勉強して、今はウエディングのカメラマンやってる子もいるよ。成功体験の獲得って言ってて、やりたいことに挑戦できる機会なんだよね。
工藤:やってみたいことに挑戦することで、将来の道ができていくんですね。
今井:そうだね。2015年度関わってる高校は、年間16校かな。2015年度は800人くらい生徒たちと関わっているんだけれども、それは全部スタッフに任せてて。最初は俺も現場出てたけど、今は生活保護の現場しか出てない。
工藤:生活保護の現場?
今井:生活保護家庭に関わる現場もあって、それを俺は率先的に今やってる。
工藤:そうなんですね!生活保護家庭へアプローチするって、みんな必要だと思ってるししたいけど、とても難しいことだと思います。どうやって関わるんですか?
今井:生活保護を受けてる経済困窮家庭は、不登校だったり女の子だと夜働いてる子もすごくいて、かなり問題抱えてることが多いから、行政にうちのプログラムを導入してもらえないかというところから始まって。2015年からいくつかの行政で始まったんだ。
工藤:どうやって子どもたちを集めるんですか?
今井:行政にはケースワーカーがいて、生活保護家庭がどの家庭か知っているから、そういう子たちに「こんな集まりがあるよ」って声かけてもらってる。それって行政しか持てないネットワークなんだよね。めっちゃ課題も多いけど、今はすごくそこを頑張ってる。生徒たちは状況がすごい大変な子たちが多いから、挑戦できる場や大人と関わる場をつくっていって、進学や就職に結び付けていこうと思ってる。
大人として厳しく接する、でも最後は頼ることができる存在に
工藤:今井さんはどうしてそんなに一生懸命、状況がつらい子たちに関わっていこうとするんでしょうか?
今井:つらい子と関わるっていうか、だって可能性がある子たちだから。いろんな人たちと関係性を持って彼らがやりたい方向性を見つけてほしいって思ってるんだよね。
工藤:可能性がある子たちだから。
今井:たとえば20歳以上の引きこもりのひとは、7,8割くらいは本当は働きたいと思ってたりしてるそうなんだよね。10代の子たちも同じで、すごい大変な状況で卒業していく子たちもいるけど、本来はみんな何かしたい、このままではまずいって思ってる子が大半。「その状態を僕たちがサポートしないでいいの?社会が見捨てていいの?」って思う。特に今、都市部は生徒が孤立してて、親と学校しか縁がないとか、もしくは親がいない。その状態で、不登校やいじめがあったりして、10代の時に挫折した子たちを放っといていいのって思うよね。
工藤:本来なら大人みんなでサポートしなければいけないですもんね。今井さんは子どもたちにはどういう気持ちで接しているんですか?
今井:普通に接するんだけど、やっぱり大切なのは否定しない、年下・年上から学ぶって、様々なバックグラウンドから学ぶっていうことかな。その姿勢があって仲良くなって、人間関係ができたらちゃんと真面目な話をする場を用意するみたいな。「お前、それは駄目だ。」って駄目なときは言うし。
でも子供から学ばされることがあってさ。ずいぶん前に夜の仕事を先生に内緒でしていた子がいたんだけど、後から本人に「否定してほしかった。」って言われたんだよね。俺は「そういうこともあるんやなあ」みたいに話を聞いてたんだけど、「のりさんにはダメだって言われたかった」って。親に「お前金のために働け。」みたいに言われてるケースもあるわけじゃん。先生には話せないけど俺らには話せるんだから、ちゃんと関わっていかないといけないなあと思った。
工藤:最初は仲良くなるっていう関係性を作って、その後深い話をするようになって、駄目なときは駄目って言うと。
今井:そうだね。だから生徒によっては俺すごい厳しいキャラになってる(笑)。ほんとはもっといろんな話したいんだけどね。
工藤:友達として話をしたいけど、厳しく関わっている。
今井:そう、厳しく。「お前ここまでちゃんと用意したか?」みたいな。「学校行ってきたか?」とか、「生活福祉課にも行ってきたか?」とか話をしながら、ちゃんと様子を見てる。でも最終的に困ったときは、ちゃんと話しに来てくれるように関係をつくって。
工藤:今井さんは、若者たちにどんな風になってほしいって思っているんですか?
今井:うーん、どんな風になれば成功とかはないかな。みんな楽しく生きていってくれればなあと思ってるよ。
俺でも復活できたんだから、どんな子もみんな可能性がある
工藤:これまでの人生や事業を作ってきた話のなかで、「僕決めたんですよ。」っていう言葉を何回か言ってる。
今井:そう、いつも決断はしてきたと思う、かなり。これをするって決めることは、言われてみたら自分の強みかもしれないね。
工藤:今井さんってどんな状況でも「よくなりたい」っていう意思があるひとだなと思います。そして、それがほかの人にもあるって信じている。
今井:そうだね、全員が可能性を持ってると思ってる。だって俺でも復活できたから(笑)!あの対人恐怖症の4年間って、通常では信じられないくらい負荷がかかってると思うんだよね。それでも復活できたってことは、人間の可能性ってある程度あるんだと思うし、人との関係性次第によって復活するんだと思う。俺はけっこう、人の可能性をあきらめないよね。
「人の可能性をけっしてあきらめない」
若者たちの希望ある未来を本気で夢見ることができるのは、きっと今井さんにこの強い意思があるからだと思います。
目をそらしてしまいたいつらさや失敗にも正面から向き合い、それを乗り越えたからこそ、「みんな大丈夫」だと信じることができる。今井さんの歩んできた人生そのものが、周りのひとにメッセージとして伝わり、心を動かしているのでしょう。
D×Pは今、様々な企業から協力を受け、2016年度は大阪、京都、滋賀などの20校ほどで授業を展開し、どんどん若者サポートの輪を広げています。
どんなひとも「明日も楽しく生きたい」と未来に希望が持てる社会を目指して、走り続ける今井さん。そんな今井さんのように、私たちsoarも「誰もが可能性を持っている」と信じていきたいと強く思いました。
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今井さんは現在、世界最大級の砂漠サハラ砂漠を7日間約250kmを走る「今井紀明サハラ砂漠マラソンチャレンジ」へのサポートを募っています。
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