こんにちは!soar編集長の工藤です。
「介護の仕事」
こう聞いたときに、どんなイメージを抱くでしょうか。
私の祖父は、寝たきりになってからも自宅で家族からの介護を受けながら暮らしていました。最期は病院で亡くなりましたが、お別れするときにとても穏やかな表情をしていたことは、今でも忘れられない思い出です。
いつか自分も年をとり、誰かに介護してもらわなければ日常生活ができなくなるかもしれません。
その日がきたら、私は祖父のように最後まで周りのひとに愛され、大切にしてもらえるんだろうか。そして体を自由に動かせず、昔のようにうまくしゃべれなくなっても、同じように自分の好きなことはできるだろうか。
自分の親もどんどん年を重ねていくなかで、介護について考えるようになり、ふと「なかなか知る機会がなかったけど介護ってどんな仕事なんだろう」という疑問が浮かびました。
そんなとき友人に紹介してもらったのが、作業療法士として介護の仕事をしている高栖望さん。初めて会ったときに、望さんは仕事のこと、自分の関わるおじいちゃんおばあちゃんのことを生き生きと語っていました。
今回は高栖望さんに、介護の仕事をとおして感じていることを綴ってもらいました!
介護の仕事を始めて1年、そんな私が伝えられること
はじめまして!神奈川県藤沢市にある小規模多機能居宅介護「ぐるんとびー駒寄」で働いている高栖望です。
こんな風に自分の仕事について綴るのは初めてで…ましてや新卒でぐるんとびーに就職し社会人になって1年ちょっとの23歳の私より、もっとたくさん伝えられるすごい先輩方がいるのでは?と恐縮ですが、人生1度きり。
めったにできない体験なので、このご縁に感謝し、私なりに介護の仕事について一生懸命書いてみます!
私は知識や技術はまだまだ未熟です。それよりも、1人の人としてどんなことを仕事や日々の中で感じているかを、みなさんに伝えられたらと思います。
心に違和感が積み重なり、発症してしまった拒食症。
私は実は、高校に入学してから「神経性無食欲症」、いわゆる「拒食症」を発症し、今も治療中です。
私は中学までは何事も、一生懸命やれば自分の思うような結果がついてきました。第一志望校に合格、高校生活で1番の目的の吹奏楽部で希望のトランペットのオーディションにも受かり、クラスの子とも仲良くしていて…。
きっと周りからは上手くいっているように見えていたと思います。私自身も当時は上手くいっている思い、ストレスに気づいていませんでした。
でも高校入学後は頑張っても達成感を得られず、新しい生活にもストレスを感じていたのかもしれません。
もともと誰かに相談することが苦手な私は、心に違和感を抱えても自分の中に溜めてしまっていったのだと思います。
自分でも分からないモヤモヤが溜まっていくうちに、自分に自信が無くなり、人に嫌われるのが怖くなりました。周囲の目が気になり、友達との会話で無理に話を合わせるようになっていって。自分を見失い、どう生活していけば良いのか分からなくなりました。
そんな中、なんとなくしていたダイエットだけは、「食べない分だけ体重が減る」という、自分がしたことの結果がはっきりと数字として目に見えるものだったんです。いつしか達成感・安心感を得ることができるダイエットは、私にとって不安を何とかするための手段となりました。
しかし、だんだんに「変化」そのものが怖くなっていきます。毎日同じように過ごすために、食事以外にも生活でルールを作り、そのとおり毎日変化のない生活でないと暮らせなくなりました。
その頃は何を言われても耳には入らないし、楽しい事もない。ただルールをこなすために生かされている感じでした。家族もそんな私のことを理解できなかったようで、その孤独で病気はどんどんひどくなり、入院したこともあります。この入院生活を思い出すと自分でも恥ずかしいくらい、わめいたりしていました。
病気を理解してくれる人のおかげで、毎日が楽しいと感じれるように
この入院中に「焦らなくてもいい「拒食症」「過食症」の正しい治し方と知識」という本に出会ったことで、拒食症に対する考え方が変わり、とても救われました。自分が弱いから病気になったんだと自分を責めてはいけない。そして、大切な相手に病気の事を打ち明けて、頼ることが必要なんだと感じました。
それ以来、病気の事をカミングアウトするようになりました!もちろん、全員が理解してくれたわけではありません。
ですが、母や高校の担任、クラスメイト、幼なじみなどたくさんの人が、それでも私と関わりたいと言ってくれたのです。そして私がルールを守りながら、安心して学校生活や遊びを出来る環境を整えてくれました。それは今も変わりません。
前よりよくなった部分もありますが、今も症状には波があります。でも、病気をカミングアウトする事で理解してくれる人も増え、安心してなんでも挑戦できるようになりました。そしてその中で、対人関係に自信がついて、毎日が楽しいと感じられるようになったんです。
日常はいろんな”作業”のつらなりでできている
作業療法士になろうと思ったきっかけは、ちょうど摂食障害で入院していた時期のできごと。
私は入院中ずっと部屋で引きこもっていたんですが、たまたま病室を出たとき、共有スペースでレクリエーションをしているのを見つけました。ばあちゃんとスタッフが誘ってくれたので、私は思い切ってそれに参加してみました。
入院しているのはばあちゃん、じいちゃんばっかりで若い人はいません。だから、みんな私をすごく可愛がってくれたんです。もともと物を作るのが好きだったのもあり、何しても「上手だねー」って褒めてくれて!
レクリエーションの中で好きな事をして、いろんな人と話しているうちに、私は今まで「無」だった世界から「楽しい!」を少しずつ感じられるようになったんです。
退院して作業療法士という職種を知って、「もしかしてあの時、レクリエーションをしてくれた人はそうだったのかも」と興味を持って調べてみました。(結局レクリエーションをしてくれていた人は臨床心理士さんだったのですが…。)知っていくにつれて、私は「作業療法士」という仕事にすごく惹かれていったんです。
作業療法士のいう”作業”って、日常のこと全てなんです。ぼーっとしている事も料理・着替えるとか日常生活の事、スポーツだったり、アートだったり趣味とかも全部作業。
ひとはみんな、いろんな作業の連続で1日が成り立っています。たとえばある人は浴槽につからないと入浴とはいえないけど、ある人はシャワーでいい。その作業がなくても生きていける人と、その作業がないと落ち着かいない人がいるんです。つまり、大事な作業は1人1人違うということ。
作業療法士という仕事は、病気や何かのきっかけでその作業が出来なくなってしまったとき、どうしたらできるのか、どうしたらもっと充実した生活になるのかを一緒考えていく仕事です。
私自身、摂食障害になったとき、自分にとって大事な「作業」をすることで元気になる実感がありました。周りのみんなが、どうしたら病気のルールの範囲内で遊べるか話し合って、私と一緒に遊んでくれました。周囲の人に、作業療法っぽいことを自然にしてもらっていたんですよね。
いろんな人との出会いのなかで、自分に”OK”が出せるようになった
作業療法士を目指して学校に通いはじめた私でしたが、実習では減退した運動の機能を回復するための機能訓練ばかり…。機能訓練は1つの手段でしかないのに、「何のためにしているんだろう」と思うことが何度かありました。
そんなとき、学校の先生のつながりがきっかけで、神奈川の藤沢にある高齢者施設「あおいけあ」に、1日だけ実習に行く機会がありました。
訪れてみると、そこにいるじいちゃんばあちゃんはとても生き生きしていたんです!自分たちで食事の盛り付けをしていたり、洗濯を畳んでいたり、スタッフに染物を教えていたりして。私にとってはディズニーランドより楽しい場所でした!
そして同時に作業療法士がいるわけではないのに、作業療法のような事が出来ている事に悔しさを覚えました。
あおいけあでの実習中、あるスタッフの方に「お前、細いな~」と言われました。
「わたし、実は拒食症で…」
いつもはこう言うと、「好きなものでいいから食べなね」など言われることが多いです。でもここのスタッフは、「そうなんだあ」くらいに受け止めて、すぐに「今日楽しめてる?」と言ってくれました。
その日の実習が終わって帰るとき、あおいけあ代表の加藤忠相さんと知り合ったことで、私は世界が広がりました。さまざまな勉強会やイベントに誘ってもらい、そこでいろんな人に出会えたのです。
障害がある人、仕事を何回も変えている人、自分の夢や未来について熱く語り合う人、自分の意見を持っている大人たち。こんなにいろんな人がいるんだと思ったら、私は少し自分にも”OK”が出せるようになっていきました。
誰もが生き生きするために、地域のつながりを
そのつながりのなかで、今働いている「ぐるんとびー」の社長である菅原健介さんに出会ったんです。当時まだぐるんとびーはなかったのですが、菅原さんはマンションの一室を借りて小規模多機能居宅介護施設の管理者をしていました。
そこでは骨折して歩けなかった、ばあちゃんがプールに行ってから歩けるようになって、そこから大好きな宝塚を見に行けるまで回復していたり。
麻痺がある元一流シェフの男性が、怪我をするリスクも話し合ったうえで、それでも「料理を作りたい」とみんなに料理をふるまっていたり。そして熱が入りすぎて理学療法士さんにむかって、「お前はそれでもシェフになる気はあるのか!」と言っていたり…(笑)。
そこにいる人たちもみんな、すごく生き生きしてました。
菅原さんは東日本大震災の被災地支援に行ったとき、平時から困ったときに助け合える地域のつながりが大事だと感じたのだそうです。そして、「地域の繋がりをつくるツールとして介護施設をつかいたい。団地をぐるんと家族に!」など他にもたくさん一時間以上学生の私1人のために熱い思いを語ってくれました。
私は小さい頃から両親が共働きで、日中は親がいなかったけど、同じアパートに住んでいる他のお父さんお母さんから、いろんなことを教えてもらったし一緒に遊んでもらいました。アパートに住んでいる子たちとは、まるで兄弟のような関係。その中でたくさん楽しい事や学びがありました。拒食症になった後もいろんな世代の人と関わったことで、回復することができました。
なので、「団地ぐるんと家族に!」という未来にワクワクしたのです!そして学生のころからアルバイトをし、新卒でぐるんとびーに就職をしました。
介護の仕事は、その人がよりよく生きるため、生活のすべてをケアすること。
ぐるんとびーは「小規模多機能居宅介護施設」という介護施設です。通いも訪問も泊まりもできる場所で、だいたいは朝に来て、夕方帰っていく通いの方がほとんど。私たちがおうちに訪問することもありますし、みんなで昼食を食べに一緒に外にでることもあります。
私は今、ぐるんとびーが入っている団地と同じ団地で、一人暮らしをしています。この地域で働くからには地域の事を知りたいし、つながりたいと思ったんですよね。今は自治会役員もさせてもらい地域の人も交えたイベントも先輩に手伝ってもらいながら企画しています。
仕事では、いわゆる「介護」でイメージされるような、おむつ交換や入浴介助などもします。
でも、そんな日々のケアはもちろんですが、ぐるんとびーでは「その人がより良く・楽しく生きられること」を目標にしています。だって楽しく生きるって心地いいし、人生1度きり楽しくないと!ワクワクがないと!
ここで仕事をしていると、「介護って何だろう」とたまに思います。おむつ交換とかそんなんだけじゃないんですよ。私たちがケアしているのは、じいちゃんばあちゃんの生活全部なんです。
認知症である前に、じいちゃんもばあちゃんもみんな「人」
認知症には、あまりよくないイメージを持っている人が多いと思います。認知症になると、「できない」っていうレッテルを貼られてしまう。「危ないから動かないで」と言われてしまう。
でも私にしてみたら、じいちゃんばあちゃんが認知症であることなんて、その人のほんの一部。
認知症の前に、じいちゃんばあちゃんは「人」なんです。
じいちゃんばあちゃんの過去の話を聞くと、想像できないくらい壮絶だったり、私の知らないことたくさん経験してきてるんです。私よりできることだっていっぱいあります。
たとえば料理…私の方が包丁持たせたら危ないです(笑)。
でもばあちゃんたちは、包丁持ったらキャベツの千切りとかあっという間。物が置いてある場所とかわかんなくなっちゃったり、火の消し忘れあるかもしれないけど、料理自体は覚えてる!最高においしいです!
裁縫だって、私は縫い目がガタガタだけどばあちゃんはまっーすぐ!少し見守ったり声掛けするだけでできることが増えたり、環境を調整してあげることでばあちゃん1人でできたりするんです。
だからぐるんとびーでは、できることに目を向けて、どうしたらその人がやりたいことが出来るかを意識しています。
もともとフラの先生だったこのばあちゃんは、フラのサークルに行ったりします。フラを踊りはじめると、おばあちゃんは普段と表情が変わります!
私たちの生活って毎日毎日ちがいますよね。なのでここにきて決まった同じプログラムをするのではなく、毎日違う1日を過ごします。外食場所も直前で場所が変わったり。どうしたらばあちゃんじいちゃんたちがもっと生き生きできるか、常に考えています。
私はじいちゃんばあちゃんと会話して、もっと過去の話を聞きたいし、何を大事にしているのか、何が好きなのかを知りたい。その「好き」を集めてみんなで共有して、居心地のいい環境をつくっていきたいんです。
”大変”だけど”大切”なのは、信頼を築くこと
この仕事をはじめて大変だったのは、「信頼関係を築くまで」です。もちろん今も大変です。
学生のころ、経験がほぼゼロにもかかわらず、初めての夜勤。ばあちゃんは「部屋に入ってこないで」というけど転びそう。近づきすぎると「やめてください」って言うんですが、私は「まだ触ってないのに・・・!」とショックな気持ち。
そんな時、ある先輩がばあちゃんが夜ベッドから降りたとき、声をかけず豆電球のままそーっと近づいて後ろで見守っていました。ばあちゃんはトイレで排泄をして、ズボンを上げるのに苦戦していたんです。そこに何にも言わず、そっとズボンを上げる。それだけ。
無事トイレが終わって、ばあちゃんそのまま眠りにつきました。私にとってそれは、すごく驚きでした。
ばあちゃんは自分でトイレがいけると思ってるんです。だから起きてトイレにいくんです。それなのに私は、「どうしました?」って声をかけてしまって・・・。
トイレに行くのに声かけられるなんて、きっと恥ずかしいことですよね。反省しました。
できるところまで自分でしてもらう。できないとこだけそっと介助。そしたら、ばあちゃんは「ちゃんと自分でした」感がある。介護者は黒子のような存在でもあるんです。もちろんその介助の仕方が常に正解ではないと思いますが、そのばあちゃんにとってはそれがベストだったんですよね。
そのあとばあちゃんとは夕ご飯を食べたり、一緒にばあちゃんが好きなパンを買いに行ったりするようになり、徐々に距離が縮まっていきました。そのうち何となく私が危険な人じゃないように思ってくれたみたいで、ばあちゃんから「すみません。ちょっと足上がらないからこっちの靴下おねがいします」と声をかけてくれたりするようになりました。
実は私は以前に、ばあちゃんの介助中に大きなミスをしてしまったことがあります。でもそのとき、ばあちゃんの旦那さんが社長に向かって「なにとぞ穏便に」と言って私をかばってくださったんです。ばあちゃんも逆に私のことを心配してくれて…。
私だけじゃなくて、先輩方が毎日毎日のケアでばあちゃんたちと信頼を築いてくださっていたからこそ、ミスが起きてしまったときに、許してもらえたのだと感謝しています。
他にも、車いすに乗っている男性の方を、ベッドから車いすに移乗するのに力がなくて最初はうまくいかず、痛い思いをさせてしまっていたことがありました。「痛い!」と怒らせてしまい、私は申し訳ない気持ちを伝えながら、自分なりにはなんとか頑張っていました。
でも努力をつづけているうちに、徐々に「うまくなったじゃん」と褒めてくれるようになったんです。最初は無視されるときもあったけど、少しずつ話をしてくれるようになり、そこから映画鑑賞という共通の趣味も見つかって、私たちは打ち解けていきました。どこがよくないかを教えてくれるようになり、ちょっとずつ息も合ってきて、「今日はうまくいったね」と喜び合えるようにもなりました。
最初はよく無視をされたり怒鳴られたりしていたけれど、今思えば私はその人にたくさん学ばせてもらったと思います。
よりよく生きることって、信頼や安心できる環境がないとできないと思うんです。なので、私は「信頼関係をつくること」を意識して仕事しています。もちろん、まだまだなんですけどね(笑)。
じいちゃんばあちゃんは「ありのままでいいんだよ」と私を認めてくれる
この仕事をはじめてじいちゃんやばあちゃんに関わるようになってから、私にはたくさんの変化がありました。
私は摂食障害になってから、感情が「無」になりました。でもばあちゃんじいちゃんと関わる中で「おいしい」とか「寒い」「暑い」「いい匂い」「綺麗な花」とか、「この色好き」とか。だんだんといろんなことを感じられるようになっていきました。
それに以前私はパーソナルスペースが広くて、逆に人との距離感がすごく遠かったんです。誰かの隣に座るのもなんか違和感があったし、怖かった。
でも、ばあちゃんじいちゃんと過ごしていると、ばあちゃんたちが優しーく手をつないでくれるんです。あったかいんですよ。
私はだんだん、おばあちゃんの隣に座りたいとか手握りたいとか思うようになりました。
じいちゃんばあちゃんは、いつだって私のことを「ありのままでいいんだよ」と認めてくれます。
私は、なんにでも正解や答えを求めちゃうことが多いなって思います。でも人にはいろんな生活やいろんな生き方があって、どれが正しいとか間違ってるとかなくて…。ばあちゃんじいちゃんの人生もみんな違うし、どれも正解なんてない。
日々、なんで私はそうしたか考えること。相手がどうしてこういう状況なのか考えること。それがよりよく生きることにつながると、今は思います。
「いろんなひとの人生に関われる」ことが喜び。最期の瞬間まで、人生を充実させたい
私がこの仕事をしていて感じる一番の喜びは、「いろんな人生の人に関われること」です。じいちゃんばあちゃんの人生ってすごいんですよ。話を聞いていると、みんな波乱万丈です!
そして私はじいちゃんばあちゃんの日々の生活に密着してるからこそ、みなさんを看取るときもあります。
私は最初、「死って怖い」って思っていました。でも、この仕事をとおしてだんだんに考え方が変わっていきました。
看取りのとき、家族は特に不安です。本人だって不安じゃないわけがありません。
死は怖い。
でも当たり前のことだけどみんな死んでいくんです。
私がまだ学生のアルバイトだった頃の、忘れられない思い出があります。
先輩方が関わっていたあるじいちゃんは、どんどん脳が変性して言葉も発せなくなっていきました…。じいちゃんはしゃべれないけど歩けるので、毎日毎日歩きまわる。家族がそれに付いていけなくなり、ぐるんとびーを利用し始めるようになりました。
職員は毎日毎日じいちゃんと一緒に歩き回りました。でもその様子を見ているうちに、「何かを求めて探して歩いているのでは?」とみんな感じたんです。
じゃあなんで歩くのか、何か探してるのかと考えていたら、家族の方が「もしかしたら今の季節は毎年墓参りに行ってたから、故郷のお墓に行きたいんじゃないか」って。そこで家族が故郷のお墓まいりへ連れて行くと、その日からじいちゃんが歩き回ることはなくなったんです。
じいちゃんの病気は食べ物を食べれなくなる方も多い病気だったのですが、看護師さんのサポートのおかげで、量は少ないけど最後まで大好きな奥さんの手料理を食べることができました。私たちは、じいちゃんだけでなく、横にいて不安な奥さんの事もみんなでケアしました。
そしてじいちゃんは亡くなりました。
本来あまりないことらしいですが、エンゼルケアのとき、介護職の私たちも呼んでもらえたんです。先輩たちが介護と看護の役割を果たしつつお互い出来ない時、出来ることは助け合っていたからかなと思います。
最期にみんなでじいちゃんを囲んで、「お疲れさま」って言えたことが、本当によかったなってわたしは思います。
家族もだんだん死に向かう姿を見るのは辛いに決まっています。でもちゃんと今までの人生を見たら、「こんな素敵な人生送ってるならよかった、お疲れ様」と言えるんじゃないかなと思うんです。
死は誰でも迎える。私もいつ死ぬかわからない。もしかしたら明日死ぬかもしれない。
でも、死ぬ日以外、私たちは生きてるんです。
だったらたった1日の死じゃなくて、それまでの生きている時間にフォーカスおきたい。いつ死んでも後悔しないくらい生きてる時間を充実させたいんです。
それに体は死んじゃっても、みんなの記憶にはその人は残りつづけます。せっかくじいちゃんばあちゃんはすごい人生歩んでるんだから、私はそれを未来に紡いでいきたい。そしたらその人は、「いつまでも死んでない」と、私は思います。
得意なこと苦手なことを共有して、助け合える社会に
今自分がしてることは、”介護なのかなあ”という疑問があります。そもそも自分が介護をしたいのかもわからないです。
でもこの仕事をしていて、人の役に立つことやありがとうって言われることって本当に嬉しいことだなと思います。私は作業療法士なので、いろんな人の得意不得意を見つけて、その人のすごいところを伝えてあげたい。
人ってみんな、得意不得意があってみんなすごいと思うんです!じいちゃんばあちゃんだけでなくスタッフのことも、それぞれの得意でそれぞれの苦手を補えたり助け合えたら最高の家族になれると思います。
認知症だってそうです。家族だからってじいちゃんばあちゃんのケアを抱え込んじゃうけど、家族が面倒みないといけないわけでもなく、みんなで見ればいい。困ったら助けてって言っていいんです。
それって高齢者に限らず、どんな人にでも共通することでもありますよね。完璧な人なんていない。どこか苦手なところがあるから、みんなが助けてくれるんです。
私はこの仕事をとおして、みんなの得意なこと苦手なことを共有して、助け合える社会をつくりたいなと思います。
人が“よりよく生きる”ために
戻ってきました!工藤です。
私たちは望さんの職場であるぐるんとびーにお邪魔して、数時間のあいだ、望さんのお仕事風景を見学させていただきました。
介護の仕事というと、どうしても“高齢者の身の回りのお世話をする”という認識で捉えられがちです。でも望さんの働く姿を見て、介護は“人がよりよく生きるためのお手伝いをする仕事”なのだと、私は感じました。
人は年を重ねれば、どんどんできないことが増えていきます。
そのなかでも、できることや得意なこと、好きなことに目を向けていく。
何気ない日々のなかに“喜び”がある生活をつくっていく。
こんなかたちで介護という仕事があるのならば、年をとることは怖くないかもしれない。
この取材を通して、私はそんな風に思うことができました。
soarとなんら変わりなく、きっと「人の可能性を広げる」ための介護の仕事はあるのだと思います。私たちも望さんのあり方から学んだことを糧にして、どんな人も最期の瞬間まで可能性を活かして生きることができる未来をつくっていきたいです。
関連情報:
小規模多機能ホーム ぐるんとびー ホームページ
(写真/川畑里菜)