【写真】なおちゃんを抱いて笑顔を見せる、かなざわさん

こんにちは!非営利型社団法人CARE LAND代表理事の金澤裕香です。

私のもうすぐ4歳になる娘は、重度の障害があり自力で生きていくことが難しいため、様々な医療機器に助けられて生活しています。

しかし、娘の病名は未だに分かりません。私たちは現在も、大学病院で検査を続けています。

病名が不明なことではいくつかのデメリットがあります。発達や病気の経過に関してモデルとなる人がおらず、本当に娘に対する対応が合っているか不安になる。福祉制度が受けにくいし、病気のある子どもの親の会などにも入りにくいなどです。

でも、今は支えてくれるたくさんの医療関係者や施設のおかげで、自宅で家族と楽しく生活できています。

今回は私となおちゃんのこれまでを、ぜひみなさんにお話できたらと思います。

私の大切な一人娘、なおちゃんが生まれた日

【写真】笑顔を見せるなおちゃん

一人娘の菜生(なおちゃん)は、4年前に産まれました。

私は当時26歳。初めてのマタニティライフは不安ながらも、これから生まれてくる赤ちゃんとの生活への期待が膨らんでいました。

新しい家族の誕生を前に、出産後も仕事を続けるために会社の人事と相談をしたり、子どもが小さいうちから一緒に英語を習おうかなとワクワクしたり、ごくごく普通の妊婦としての生活を送りました。

出産は予定日ちょうど。破水から始まり、パパも付き添っての普通分娩でした。パパのフォローが絶妙で、助産師さんを押しのけてパパに腰を押してもらったことを覚えています(笑)。

【写真】誕生日の飾り付けが施されたベッドの上で撮影された、家族3人の写真

娘を初めて抱っこした時は、陣痛や出産の痛みが全て吹き飛ぶくらい、大きな喜びを感じました。

2500gと他の赤ちゃんより小さめだった娘はよく寝て、沐浴が大好きで、ミルクを飲むのに少し時間がかかる普通の新生児でした。退院後の1ヶ月検診でも特に問題はなく、帰り道で初めて笑ってくれた笑顔が可愛くて、思わず立ち止まって「可愛い!」とつぶいてしまいました。

ミルクを飲んでくれない。どんどん募っていく不安

でも、ちょうどこの頃から娘の様子に「あれ?これって普通なのかなぁ?」と思う部分が出てきたんです。

まず、なんとなく体がフニャフニャでした。新生児用の抱っこ紐に何時間かけてもきちんと収まらず、私はよく用事に遅刻していました。そしてよく泣く子ではあったのですが泣き声もか細く、とにかく大人しい赤ちゃんでした。

そして深刻だったのがミルクを飲まないこと。当時私は1回の授乳に90分くらいかけていて、あまりに授乳に時間がかかるので、訪問にきた保健師さんに「30分で切り上げてね」と言われたこともあるくらいです。

当時の私には「赤ちゃんはミルクを飲む生き物」という思い込みがありました。助産師さんからも赤ちゃんは本能でおっぱいを飲むと聞いていたので、ミルクが飲めない赤ちゃんがいるなんて想像もしていなかったんですね。

母乳は十分出ていたので「私の授乳のし方が下手なんだ」「ミルクを飲むのが苦手な赤ちゃんなんだ」と思い、母乳指導をしてくれるマッサージ教室に通い始めました。

そこではありとあらゆる手段を試しましたが、ほとんど意味はありませんでした。

【写真】上の方を見つめるなおちゃん

一日中ミルクをあげ続ける。そんな生活の中で私の神経はだんだんと擦り減っていきました。

小児科や区の電話相談などにも相談していましたが「個人差があるからあまり気にしすぎないように」と言われ、自分が神経質なママなんだと感じて落ち込むことも…。

そして生後3ヶ月のとき、たまたま親子で参加したイベントで体重測定があり、娘の体重が1ヶ月検診の日から全く変わってないことを指摘されました。

そのとき、「こんなになるまで何故放置していたんだ」と言わんばかりに質問攻めに合い、「気にするな」と言われて続けていた私はとても混乱してしまったのです。

なかなか確定しない病名に不安が募る毎日

【写真】人工呼吸器をつけて眠るなおちゃん

そして、娘は家の近くの病院に検査入院することになりました。2週間の予定の検査入院でしたが、検査が予定よりもどんどん増え、気がつけば入院期間は3ヶ月に。

この検査入院中も母乳をあげても、一向に体重は増えず、ついに医師の指示により、鼻からチューブで胃に直接ミルクを注入してみることに。その時、言葉にできないつらさがあり、私はひとりで悔し涙を流しました。

ひたすら授乳と検査の日々。私は心身ともに疲弊していきました。

生後5ヶ月のとき、なおちゃんは誤嚥性肺炎を起こしてしまいました。誤嚥性肺炎は喉元で上手にご飯や唾液の処理ができず、気管に入ってしまうことで起こる肺炎です。

はっきりとは責められませんでしたが、私が無理やり飲ませ続けたことが原因の可能性もあると分かり、娘に対して申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

その時初めて、全ての検査結果が説明されました。脳の重度障害、血液検査の異常値、神経障害、目が見えていないこと…

初めて見るレントゲンやCT画像と聞きなれない説明を受け、最後に言われたのは「筋ジストロフィーで間違い無いでしょう」という一言でした。しかも筋ジストロフィーの中でも、1歳まで生き延びることができないタイプだと告知されました。

告知された時は、とてもショックでした。でもその一方で、ほっとした自分もいました。

これまでミルクが飲めない娘に対して、「ここまでミルクが飲めないなんて病気なのでは?」「いや、そんなはずはない。娘は健康なはずだ。」と自分の中でずっと葛藤していたからです。はっきりと病名を言われたことで、つらい結果だったけど、もう悩まなくていいんだと肩の荷が下りたような気持ちでした。

【写真】頭部に包帯を巻くなおちゃんが笑みを浮かべている

そして遠方の親に電話してなおちゃんの障害のことを話したとき、普段あまり自分の思いなど口にしない義父がこんな風に言いました。

みんなで育てたらいいんや。

私はその一言で、私も娘も、なんていい家族に恵まれているんだろうと心から思いました。

奇跡的に娘の誤嚥性肺炎もどんどん回復しました。でもその後、「筋ジストロフィーではない」という、以前の検査結果を覆すような診断がおりたのです。

これから娘はどうなるの?

たくさんの疑問が湧いてきましたが、当時の主治医は「今のところ、他に可能性がある病気はない」「みんな、だんだん病名にはこだわらなくなるもの」とこれ以上の病名追求に後ろ向きでした。

当時、娘は「点頭てんかん」という小児特有の珍しいてんかんも発症していたこともあり、小児てんかんに強く、さらなる病名追求の可能性がある大学病院に転院することを決めました。

当時、娘は1歳になったばかり。転院先の病院ではさらに2年間、入院生活を送ることとなりました。

つらさに押しつぶされそうだった、3年間の入院生活

【写真】ベッドの上で眠るなおちゃん

娘と私は、合計3年ほどの入院生活を送りました。その中で私は、様々な心境の変化がありました。特に娘が2歳の頃の1年間は、気持ちの整理と付き添い入院のつらさに押しつぶされそうになりました。

人生初の付き添い入院、ある日急に始まっていつ終わるかも分かりません。健康な体でずっと病室にいなければならないのは、かなり大変でした。

私は仕事も辞めざるを得ず、人間関係もどんどん薄れていきました。夫とも暮らせず、家にも帰れない。私がこれまでの人生でコツコツと積み上げてきたものを一気に奪われた気がしました。

また、病院では私は「なおちゃんのママ」なんです。私自身の名前はほとんど呼ばれることはなく、医師や看護師との話題も娘の体調のことばかり。

娘が体調が良ければ「ママ頑張ったね」と言われ、娘の体調が悪ければ「ママ頑張って」と言われる。もちろん娘の体調は、私にコントロールできません。なので、その期待に応えられず苦しい気持ちがしました。

【写真】かなざわさんの指を握るなおちゃん

しかしもともと能天気な性格なのと「明るい母親でいたい」という想いもあって、明るく振舞っていた私は、周りからは「元気で前向きだね」とよく言われていました。

人との出会いのなかで、「自分」を大事にすることを取り戻して

ICUでの治療があり、そこから何とか一般病棟に戻ることができた数日後。私は病棟のトイレで立ち上がれなくなってしまいました。

慢性的な疲労に加え、緊張感と疲労が癒えていなかったこと、一晩中娘のケアで眠れていなかったことが原因でした。そこからは1ヶ月ほど、付き添い入院のお休みをもらい自宅で療養することになりました。この時初めて、「私やばいかも」と自分に目を向けて強い危機感を覚えました。

そしてなぜか、「とにかくいっぱい人に会おう」と思ったんです。このままじゃいけない、そんな思いでできる限り外に出るようにしました。

相変わらず体調不良だったし、お見舞いにも毎日通っていたので寝不足の日々が続いていましたが、無理をしてでも気になる人や紹介された人に会いに行くことを大切にしました。

【写真】笑顔を見せるかなざわさん

この期間に娘と少し離れて過ごせたこと。そしていろんな方に「私自身の気持ち」を聞いてもらったことで、私の気持ちはだんだんといい方向へと変わっていきました。

そして、付き添い入院が再開してからも、その時の感覚を大切にしました。土日に大した用事がなくてもパパに交代してもらう、無理を言ってでも一人で散歩の時間を取る。隣のママや看護師さんと子ども以外の話題を話す。

こうしたことを意識するうちに、「自分」という感覚を取り戻していったのです。

同じ立場のママたちと一緒に、少しでも入院生活を楽しく

それからは大きく振り切れて、今までとは逆にすごくアクティブになりました。

私は2人部屋だったので、お隣さんは3日から、長くて3ヶ月ほどで退院して行きます。なのでずっと入院していると、必然的にたくさんの付き添いママの入院から退院までに関わります。

少しでも入院生活を楽しくしようとした私は、「毎回お隣のママから趣味を一つ教えてもらう」というマイルールを決めて実行するようになります。あるお隣のママとは、「娘の誕生日パーティに向けて病室を飾りつけしよう!」と盛り上がりました。

これには2人ともすごくハマって、誕生日が終わってもハロウィンやクリスマスなど季節に合わせた飾りつけをしているうちに、「うちにもやって」と他のママから声をかけてもらい、交流が広がっていきました。

【写真】ハロウィーン用の風船と一緒に、たくさんの料理が並んでいる

【写真】ハロウィーンパーティの飾り付けを進める様子

そしていろんなママに会っていると、だんだんと共通の悩みや体調を崩す前兆が分かるようになっていきました。子どもが退院前のママは、不安でいっぱいです。特にNICUから出て初めて在宅に帰る親子はわからないことだらけ。

そこで、歴代の退院ママで似た病状のお家に声をかけ、お話を聞いてもらったり、お家見学に行かせてもらったりするようになりました。

一人一人、不安や悩みは深刻だけど、実は悩むポイントは似ていることが多い。ちょっと先輩や仲間に出会うだけで解決できることがたくさんある。ママたちの表情や言動が明るくなったり、お礼のお手紙をもらったりする中で、この経験が私の大きな発見につながりました。

ITをつかって、病気を抱える子どもと親の力になりたい

なおちゃんはその後も入退院を繰り返していましたが、そのなかでも私はママ会やパーティを定期的に開催していました。

でも「来たい!」と言ってくれる人は多くても、イベントの開催は、主催者にとって気苦労が多いものになってしまいます。

医療行為が必要なお子さんなので、10人のママを呼ぼうと思ったら10人の医療行為ができるお留守番人員の都合を合わせないといけません。家族で参加できるイベントでも、ママ一人では子どもを連れての移動は大変ですし、体調も安定しないので当日のキャンセルもあります。

そんな経験を繰り返すうちに私はある日、「オンラインでママ会ができたらいいのでは?」とひらめきました。簡単にアクセスできて安全な場を、インターネットサイト上に作れたら素敵だな。そう考えて、いろんな人にそのアイデアを話すようになりました。

そうするとお友達が「似たようなことを言っている人がいる」と、IT企業を経営している一人の女性を紹介してくれました。旦那さんがうつ病で弟さんに発達障害があり、その経験からITの分野で当事者や家族のために新しい仕組みを作りたいと考えているとのこと。

私たちは意気投合して「ITの力で、苦しみを抱えている全ての家族に、新しい居場所を提供したい!」と動き出しました。そのうち、お互いの家族も力を注いでくれるようになり、今では2家族が一丸となって実現に向けて走っています。

疾患特化型SNS『CARE LAND』のスタート

【写真】ケアランドのオンラインコミュニティ概要

こうしてCARE LANDは、病気・障害を持つ方とその支援者が「大切な仲間」と「必要な情報」を得るための場所としてスタートしました!

何か大きな問題に直面したとき、きっとみんな初めはただただ不安でどうすればいいのかわからないはずです。でも、情報と仲間を得ることによって、少しずつ前に進むことができるようになると私は思っています。

しかし、病気・障害に関しては、まだまだ日常の中で話題にすることがタブー視されているように思います。医療機関で対処するものと思われたり、専門性が高かったりと、情報を得て選択することも、孤独を感じずに生きることも難しい。

CARE LANDでは、安全に守られたオンラインコミュニティの中で「仲間作り」と「情報共有サポート」を軸に、様々なコンテンツを展開しています。主なコンテンツは日々の記録がつけられる日記や、利用者が情報交換や悩み相談ができるコミュニティ、掲示板など。

2017年9月26日にβ版がオープンになり、たくさんの方からメッセージをいただきました。そこから生まれる発見や交流が、私にとって大きなやりがいになっています。

実際に利用者の方に会ったときには、「改めて話してみると、私頑張ってたじゃんって思えた」という声をいただきました。ヒアリングで伺った内容をまとめたものをお渡しした際に、「家に飾ってる。読んでくれた訪問看護さんやおばあちゃんが泣いていた」などと聞いた時は、大変だけどやってよかったなと心から思いました。

凄まじい努力や素晴らしい体験を胸にしまったままの人が多いのは、とてももったいないことだと私は感じます。

もっと体験をオープンに語り合える場所が増えることで、聞き手が感動したり勇気付けられたりすることはもちろん、話すことで癒されたり、前向きに捉えたりできる部分も多いはず。この事業がそれを実現する一つの手段となってくれればいいなと思います。

たくさんの医療機器に支えられながら過ごす、なおちゃんとの日々

【写真】かなざわさんの自宅の様子。なおちゃんのベッドが置かれている

なおちゃんは今年の2月に退院し、私たちは半年ほど落ち着いて在宅で生活を送っています。

4歳にしては小さめで首がすわらず、寝たままでの生活なので、今でもベビーベッドがなおちゃんのお部屋です。目も見えませんし、会話することも難しいですが、最近は喃語のような声を出すことが得意になってきました。

お家では、生きていくのに必要な食べること・呼吸することなどが苦手なので、それを補うための医療機器に助けられながら生活しています。

【写真】大きく口を開くなおちゃん

大きな問題としては、以下のようなことがあります。

まず、お口から栄養が取れないため、胃に直接栄養を入れるための「胃ろう」を装着していなければなりません。

突発的に呼吸を忘れてしまうこともあるため、「パルスオキシメータ」という機器で常に状況を管理し、必要な場合は人工呼吸器などで酸素を送らなければなりません。

【写真】ベッドの横に置かれたパルスオキシメータ

痰や分泌物を自分で処理できないため、吸引機でときどき取り除いてあげる必要もあります。

【写真】なおちゃんに吸引機を使うかなざわさん

てんかん発作もあるので、緊急時には対応が必要ですし、場合によっては救急車を要請することも。

このように様々なケアが必要なため、まだ気軽な外出は難しく、平日は2人で家の中で過ごしています。訪問看護の方が毎日90分来てくれるので、買い物や外の用事はその間に済ませます。まとまった外出は、週に1回の通所の日や土日にパパに交代してもらって時間を捻出します。

【写真】なおちゃんの足の親指からはチューブが伸びている

家では決まった時間にミルクを交換したり、お薬を注入したりとルーチンでこなすものと、突発的にこなすお世話があります。

突発的に起こることで一番多いのは、酸素アラームの対応です。娘は24時間、血中酸素濃度を測っており、特定の数値を下回るとアラームで教えてくれます。

【写真】ベッドの上に置かれた酸素アラーム

下がる理由は様々で、分泌物が喉や肺に詰まったり、本人が呼吸するのを忘れてたり、てんかん発作だったりします。その都度状態を見ながら合った処置をしていきます。

私の一日の運動量はすごく少ないですが、やはりずっと気を張っていることにいつのまにか疲れていることがあります。

【写真】ベッドのそばに置かれた、なおちゃんの処置のための数々の道具

この間お友達が泊まりに来てくれたのですが、アラームの音が鳴ると料理中でもすぐにキッチンを飛び出して行ったり、目覚ましの音には全然反応しない私が、夜中のアラームにすぐ起きることにびっくりしていました。

そのときはお友達が酸素アラームの数字を見てくれることで、家事に集中できたり、少し荷物を持ってくれるだけで作業が楽になるという大きな発見をしました。

医療ケアが必要な子どもだと、どうしてもプロでないとサポートできない…と思いがちです。でもそれが、家族に負担がかかる大きな原因になっていると思います。医療免許を持っていなくてもたくさんサポートしてもらえる部分はあるはずなので、みんなが気軽に手を貸し合える社会になればいいなと思います。

この撮影の日は、soar編集部のみなさんと散歩に行きました。一人で娘を外出に連れていくのは、時間がかかったりトラブルも多く週末に家族で出かけるのが定番です。

【写真】なおちゃんの乗ったバギーを押すかなざわさん

【写真】バギーの上で、リラックスした表情を見せるなおちゃん。かなざわさんが笑顔で見守っている

この日も、サプライズな外出にバギーに乗せてもらっただけで、ワクワクした笑顔を見せていました。撮影を頑張ったご褒美に、優しいお兄さんとお姉さんとお出かけできて、お家に帰った後もご満悦でした。

私が娘を大好きなことに、理由なんてない

娘を4年間育てて、私が気づいたことや変わったことはたくさんあります。一番大きいことは、「愛情を持つことに理由はない」という気づきです。

娘を産む前の私は結果主義の人間で、社会の役に立っているかが大きな判断基準でした。なので、重い障害がある娘を心から受け入れるまで大きな葛藤がありました。娘の生命維持のために行われる様々な医療行為や先生たちの努力・お見舞いに来てくれる人などに、何となく申し訳ない気持ちになっていました。

病名を追求する裏には、娘が生まれてきた理由を見つけたい気持ちもあったと思います。

【写真】満面の笑みを見せるなおちゃん

でも、辛い時期を乗り越えた時に「理由なんてなくても、娘のことを好きでいいんだ」と気がつきました。考えてみれば当たり前で、健常の子のママだって「うちの子は足が速いから愛してる」、「ひらがなが早く描けるから好き」なんてことはありません。

愛情を持って接する中で、その子の個性に気づき、またそこも含めて愛する…。なのにどうして私は、娘を愛する理由を探し続けているんだろう。

そう思った時、気持ちがすごく楽になり、人にお願いしたり頼ることがより気軽にできるようになりました。それと同時に人に対して優しく接することができるようになったんです。「迷惑かもしれないし」という同じようなお母さんに「そんなことない、やってみようよ」と心から言えるようになりました。

【写真】ベッドの上のなおちゃんに優しく触れるかなざわさん

自分にとって大切な人も含めた場合に、「人生で本当に健康で過ごせる時間は案外短いのかもしれない」と、今は思います。

他人にはわざわざ言わない事情を抱えながら、一見普通に仕事をしたり子育てをこなしている人はたくさんいます。実は長年通院してる、奥さんがうつ病、親が交通事故で身体が不自由、子どもが発達障害がある….

みんな「実は」を抱えてる。だったらそれをもっと当たり前に気軽に話せる空気にした方が、生きやすいのではないかと思うのです。

特に病気や障害は長い期間、もしかしたら一生付き合っていかなければいけないものです。それを自分の一部として気軽に話せて共有できる。そしてその先に、当たり前のようにお互いをサポートしあえる社会が実現することを願っています。

【写真】なおちゃんの乗ったバギーを押す、かなざわさん

娘の医療機器もまだまだ一般的には珍しく、電車に乗るとジーっと見られたり、お手伝いを断られることもあります。

でも、そんなことは関係なく、私が娘を大好きでいること。そして娘とたくさんお出かけをしたり楽しみながら社会と関わっていくことが、その実現の小さな一歩になると感じています。

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2019年1月、医療的ケア児に特化した専門メディア「アンリーシュ」を立ち上げました。
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(写真/加藤甫)