【写真】腕を伸ばしてストレッチをするちばさん

こんにちは!千葉豊です。私は体を動かすことが好きな会社員です。

34歳の時に突然、若年性脳梗塞を患い倒れた経験があります。脳梗塞とは、脳の血管に血流障害が起きてしまう脳卒中の一つで、脳の血管が詰まり、脳の一部が死んでしまう病気です。

そのため、一度脳梗塞が起こると、身体の右または左半身に麻痺が起きたり、言葉がうまく話せなくなったり、意識がはっきりしなくなったりすることがあります。命を奪われることもありますし、治療後も後遺症が残ることが多いともいわれています。

私は脳梗塞により、一時は生死をさまよっていました。今はおそらくぱっと見ても、そんな経験はわからないまでに回復をしています。

ですが、細かいところや目に見えないところに、後遺症が残りました。まず、右半身に麻痺があり、手足は少しだけ内側に向いています。左右で感覚の違いがあり、力の入れ具合や触感はわかりづらいです。

他にも温度感覚が過敏ですし、両眼とも視界の右下1/4は見えていません。気圧に弱く台風が近づくと、立ち上がることがつらいほど体調が悪化することもあります。

私はこんな症状と付き合いたくないと思っていました。でも、少しずつ考え方を変えたら、わたしにとっての糧になると気づきました。

今はマラソンや講演活動にもチャレンジしたりと、日々挑戦を続けています。今回は私のこれまでの経験をお伝えしたいと思います。

34歳。ある日突然、トラックの運転中に脳梗塞に

【写真】椅子に座り、真剣な表情でインタビューに応じるまのさん

脳梗塞になる前、私は大型トラックで配送をする仕事をしていました。長距離配送が多い部署で、北は青森、西は九州まで行ったことがあります。遠いところに行くのが好きだったので、適職だと感じていました。

そして、忘れもしない2012年6月9日の早朝。当時私は34歳で、岩手県から栃木県に荷物を運んでいる途中でした。

突然、視界が上下左右に揺れはじめたのです。今までに感じたことのない強烈なめまいとでも言ったらいいでしょうか。あわてて停車できるところを探してトラックを停めました。最初は「疲れが抜けていないんだ」と思ったので、シートのリクライニングを倒して休憩していました。

しかし、時間が経つにつれ今度は気持ちが悪くなってきて気を抜いたら気絶しそうでした。ただごとではないと思い、まずは会社に連絡しました。

すみません、とんでもなく気持ちが悪いので、もう運転できません…

続いて連絡したのは、救急車の手配。現在地と、今私に起きている症状を伝えました。そうしている間に今度は右手に痺れまででてきました。

このまま死ぬかもしれないが、やれることはやった。

私はこの時そんな気持ちだったと思います。運転を続けていたら、大事故は免れなかったでしょう。一番無難な形で会社への連絡と、救急車の手配ができたことで、プロとしての役割が果たせたのかな…痺れと気持ち悪さのなかでうっすら達成感もあったかもしれません。

数分後、救急車が到着したとき、自分の体を動かすことはできませんでした。救急隊員に担がれて救急車に乗り、数分後に病院に到着。病院の建物に入ったところで気絶したようで、そこから数日の記憶はありません。

脳梗塞になって、生き残った意味を考えた

目を覚ましたのは数日後でした。

とりあえず命は助かったようだ。そしてここは、どうやら病院らしい…?

視界は右下1/4がキラキラして見えず、視界全体が二重三重に重なっていました。ベッドのそばにいた姉に話しかけましたが、通じません。右半身と、顔の半分も痺れていてどう動かせばいいかわかりません。

しばらくして姉から私に起きた症状を教えてもらいました。

脳梗塞…えっ!?それって、死の病気じゃ…

実は祖母は脳梗塞で、私の母もくも膜下出血からの最終的に脳梗塞で亡くなっています。そのため「脳梗塞=死」と刷り込まれたかのように信じ込んでいました。

私は医師から直接初期症状を聞いていません。聞いても理解することができなかったからです。

【写真】上時計をはめなおすちばさん

姉から聞いた情報と、後になって私が調べたものから推測したところ、様々な症状が出ていたようでした。

右半身が痺れるとともに動かし方がわからない「片麻痺」、視界が二重三重に見える「複視」、両目とも視界が右下1/4見えない「同名半盲(四半盲)」、しゃべろうとしても口がうまく動かせない「構音障害」、思っていることと口に出すことが違う、失語症のひとつである「錯語」などなど。

そしてもちろん寝たきりの状態。リハビリをする上でどのくらい麻痺があるかを確認する評価では、最悪でもあるブルンストローム・ステージ1*でした。

*片麻痺の回復過程をステージ化した評価法

このまま一生この症状たちと生きていくのか?

先の見えない闇が広がるようで、精神的にまいってしまいそうでした。それと同時に疑問も生まれました。

なんで死の病気から私だけ生き残ったのか?

三途の川があるとするなら、引き返させたのはやっぱり、母でしょうか。「こんな壮絶な症状になっても生きろという意味とは?」と考えるようになりました。

母と同じように、諦めない心を持ち続けること

私は亡くなった母が好きでした。世話好きだった母は、私に甘かったように思います。母の趣味だった登山にもよく一緒に行った思い出があります。

母がくも膜下出血で倒れたのは、私が高校2年生の春でした。校内放送で職員室に呼ばれ「いますぐこの病院に行きなさい」と言われたことを覚えています。私が病院に着いた頃には、すでに手術中でした。手術は成功したようですが、意識は戻ることはありませんでした。

手術後から水頭症により脳圧が高まり、発症から1ヶ月後に脳梗塞で亡くなりました。

【写真】腕時計を見つめながらインタビューに応じるちばさん

きっと、母は強い人だったのだと思います。その血を引き継いだ私もまた、諦めない心は人一倍強いはず。母と同じ脳梗塞を起こしたことに怖さを感じながらも、私はそんなことを考えていました。

どうしても動かない右側を動かしたい。リハビリの日々

症状が落ち着いてからはリハビリの日々でした。脳卒中経験者のリハビリの目的のひとつは、神経の再構築でもあります。麻痺もそうですが筋肉の使い方の忘却もあるので、基本的な動きを覚えてから始めなければいけません。

【写真】右腕でボールを握りしめるちばさん

私の場合は関節などが固まってしまわぬように動かしたり、どうしても動かないところは動く左側で作業できるように訓練もしました。左手だけでシャツを着る、左箸を覚えるなどの訓練は、「もう右側は動かない」と言われているようで悔しい気持ちもありました。でもその反骨精神からか「動かしてみせる!」という決意を培っていたようにも思います。

後々、くしゃみやあくび等の反応と連動して右手が不随意的に動き始めました。この頃からはリハビリのため1,2ヶ月の間に3つの病院を転院。症状は大きく改善し、杖なしで歩いたり、右手の指先まで使えるようにもなりました。他にも錯語・構音障害のリハビリや、考え方の組み立て方や、まとめ方の訓練も始めました。

【写真】いぼがついたリハビリ用の道具の上に立つちばさん

私の体験した錯語症状は、思っていることと口に出していることが違うことでした。例えば、時計を指さして「りんご」と自然と言ってしまうのです。すると意思疎通は困難になり、相手も私もイライラします。

それでも私はしゃべる訓練を繰り返し、どうにか改善していきました。ただこれはリハビリ病院で周囲も根気強く協力してくれたからこそできたことで、この時のまま社会に出ていたら受け入れられなかったことかもしれません。

当時の私はリハビリをやればやるほど効果が出る時期と信じて、突っ走っていました。85歳まで生きるとしたなら、50年以上この体と付き合わなければいけません。それに、脳梗塞は再発することがあるとも言われています。今度発症したら命の保証はないし、麻痺の上乗せだってありえます。なので今のうちにできる限り改善して、心配を払拭したかったのです。

空き時間ができるとウォーキングをしたり、計2kgをリュックに背負って病院の外周を歩いたり。面会に来た友人は、私の取り組みを見て「Mr.ストイック」と名付けたほどでした。

大好きだった運転を諦める決意

リハビリによりできることは増え、一見すると順調に回復しているようにも思えますが、諦めなければならないこともありました。

それは眼の症状です。二重三重に見えていた複視は治まりましたが、同名半盲という、視界の右下1/4ほどがキラキラとして見えない症状は治らなかったのです。

栃木県の病院から東京のリハビリ病院に転院するとき、移動の車の中で外の景色をみてみると、知っているところだらけでした。トラックドライバーの記憶はついえていない証拠です。この時、また車を運転してこの景色を見てやると決意していたように思います。

【写真】ヘルプマークがついた、ちばさんのリュックサック

でも眼の症状が治らず「車を運転する」という目標は、諦めざるを得なくなってしまいました。見えない恐ろしさはドライバーをやっていたからこそよくわかっています。だから私も頭では納得していました。

親たちは「自分の口で車の売却と、保険の解約手続きをしなさい」と言ってくれました。自分自身で手続きをして、症状を受け入れること。そして自分の口で伝え、相手の声を聞き取るというリハビリも兼ねての提案でした。

翌日私は手続きをしましたが、通話が終わった直後や、寝る前の消灯後、涙が流れてしまいました。

車とともに生きてきたにもかかわらず、大好きなことにもかかわらず、諦めなければいけない…非常につらいことでした。

でも、どうしようもないのです。受け入れるしかない。私はこのとき、目に言えない後遺症の数々を受け入れて生きていくことを決意しました。

一生かけて、元どおりの体に“近づける”ことはできる

病院では脳卒中からのリハビリをしている60歳以上の高齢者の方がほとんどでした。その方々からみると、30代の私は息子や孫の世代になります。ということで、かわいがられました。

それと同時に、「この年代で発症するなんてかわいそう」ともよく言われていました。自分自身にも”哀れみ”を感じていたので、そんな気持ちを隠すように、周囲には「息子キャラ」で和ませ役に徹しました。

【写真】足を折り曲げ、ストレッチをするちばさん

そんな中でもリハビリをしているときに仲良くなったAさんは、今でもちょくちょく会っています。仲間って大事ですよね。雑談から今抱えている悩みまで聞いてくれるので、モヤモヤしていた心がすっきりするということがよくありました。

理学療法士・作業療法士・言語聴覚士さんたちも大きく括れば同世代。友達感覚で、リハビリのときは師弟のような関係で接することができました。

これからは一生をかけてのリハビリだよ。

ある時、担当の療法士さんにそう教えられたことがありました。最初は「今やっていることがずっと続くのか!?」と思い、空返事で返していましたが、後になってその意味がわかってきました。

この病気をすると、完全に元どおりになることはほとんどないそうです。よっぽど軽度の発症じゃない限り、完全回復は難しいようなのです。

ここまでは落ち込む内容です。ですが逆に考えると、”近づける”ことはできるということだと思いました!

脳卒中発症後の半年は大きく回復する時期。それを過ぎると症状が固着…私はそんなイメージを持っていました。確かに半年を過ぎると回復スピードはゆっくりになります。でも続けることで、少しずつでも良くなる。回復が止まるわけではありません。

現に今、「走る」ことまでできている私がいますから、これは事実なのでしょう。

【写真】満面の笑みを見せるちばさん

そうして過ごしたリハビリ病院も退院の時期がきました。後遺症は残るものの、日常生活は問題なくできるようになり、障害者手帳は発行されないとのことでした。

ということで、身体分類上は健常者として生活することになります。脳梗塞発症患者ながらも健常者扱い、どっちつがずですが、双方の気持ちがわかるような気がしました。

移動のために足を鍛え「走る」につながった

退院後は一人暮らしを開始。手順を決めてゆっくり過ごしていれば、生活には困りませんでした。ただ一つを除いて…

それはやはり、運転ができないことです。自分で決めたことですが、生活移動がほとんどできないことはとてもショックでした。一日に500~600km運転しているところから、1km移動することが大変になってしまったのですから。

移動の”足”が無いなんて、どうすればいいのだろう?

うなだれた先に見えたのが、自分の足でした。

杖や介助なしで歩くことができる足を鍛えたら、移動のための”足”にできるんじゃないか?

これがすべてのきっかけとなりました。それからは、体調がすぐれている時は、雨の日だろうと外出して歩きました。

歩くとともに、走る真似はできるだろうか?

やってみたら、できました!そうしたら次は、自転車に乗る練習です。これならば見えない部分が気にならないし、意に反しての暴走をすることはありません。サドルを一番低いところに合わせて、まずはペダルを使わず足で自転車を進めるところから練習は始まりました。

【写真】満面の笑みをこちらに向けるちばさん

ペダルに足を乗せる回数を増やしていき…何度も転びそうになりながらも、数週間の特訓の末、形になりました!この時自転車が乗れたことの自信が、色々なことに挑戦しようというきっかけになったと思います。

そこからさらに、走る真似の次は、本格的に走ってみたい!という願望が生まれました。

私の気づきを、片麻痺患者として気付いた生の声を、伝えていこう

病院で仲良くなったAさんとは退院後もよく会っていました。Aさんは多趣味で、その中の一つにマラソンがありました。2013年の夏、自転車が乗れて自信がついた頃に「一緒に走ってみない?」と誘われました。本格的に長距離を走るのはこの時が初めてです。

いざ、Aさんと一緒にランニングしてみました。最初の1kmは問題なかったのですが、だんだんと中殿筋が痛み出し、その後も痛みは増す一方。しまいには足を引きずることも大変なくらいの痛みとなり、その後3日間ほど、強い痛みを引きずっていました。

ここで直面した「走れない」すなわち「できない」という壁。とても悔しかったです。やめておいた方が良いのか。片麻痺をわきまえて細々と生きた方が良いのか…そんな思いが廻りました。確かに私のような脳梗塞経験者が走るという話は聞いたことがありません。

【写真】スポーツ用のスニーカーを履いて足を伸ばすちばさん

このまま諦めようか…

考え続けた末、打開策を自分自身で探せばいいのだと気づきました。「聞いたことが無いなら、私がやろう。私の気づきを、片麻痺患者として気付いた生の声を、伝えていこう」そんな気持ちになりました。

こうして「発信」をしていこうと決め、自称「研究者」としてブログを始めました。日記でもあり、自分自身の研究論文でもあり、片麻痺患者としての体験記でもあります。

どうして中殿筋の痛みが出たのか?そこが弱いのはなぜか?効果的な鍛え方はどうすればいいか?

その答えを情報を駆使して紐解いて、実際にやってみて失敗して。麻痺により鍛えづらいなら、筋肉・関節の構造を学んで。様々なトレーニングに挑戦して…そんなことを、ブログを通して発信しています。

片麻痺でフルマラソンを走りきる!

ブログという形で多くの人に情報を伝えながら、私も成長していくことができました。

そんな中2013年12月、高校時代の仲間とともに「所沢シティマラソン」に参加することになりました。私は2kmのコースで参加。仲間たちは21kmのハーフコースです。私は日ごろの成果を発揮して、2kmを完走しました。

片麻痺で2km走ったことは「すごい」と言われますが、ハーフを走った仲間との会話に参加できないことに劣等感を感じました。そして周囲からもなんとなく、腫れ物に触るような扱いを受けているような気持ちになりました。

違う視点で考えると、私と同じような状況下で、「やりたいことに封をしている人」もいるかもしれないと思いました。ならば、それを払拭したい。スポーツを楽しむことは平等なはずです。

来年のこの大会、ハーフを完走してみんなを驚かせよう!私の行動が誰かに届くかもしれない。

こうしてハーフ完走計画が始まりました。1年かけて入念に練習をし、大会前は、現地のコースをなんども下見。入念にコースの対策の計画を立てました。

【写真】口元に笑みを浮かべながら、インタビューに応じるちばさん

そして迎えた本番の日。計算通りに走りを進め、最後の関門を通過した時これまでの経験が走馬灯のように頭の中を駆け巡りました。

発症した頃の病院のベッドの上…発症して間もない頃ベッドから転落して死にそうになった時…リハビリ病院での生活や、自動車運転を自主的に諦めて車を手放す手続きをしている時…中殿筋を強烈に痛めたけど、走りを諦めずにここまできたこと。

まさに人生の荒波を、アップダウンの激しいこのコースにリンクしながら、私はゴールしました!燃え尽き感とともに、一つ殻を破った強い達成感があったことを覚えています。

私はその後もコンスタントにマラソンをするようになりました。人生の荒波に立ち向かうという感覚にハマっていったようです。

2016年からは、いよいよフルマラソンに挑戦。しかしタイムアウトになってしまったりと、今までの挑戦よりもずっと難しいことを痛感しました。

それでも挑戦を繰り返し、さいたま国際マラソンではフルマラソンを制限時間内ぎりぎりになんとかゴールすることができました!

私は陸上経験はありません。それでもここまでできる。片麻痺の後遺症持ちでも、できる。

そう、フルマラソンを完走して証明することができたのかなと思っています。

B-SUB4プロジェクト結成

2017年1月、インターネットで偶然保険外のリハビリ施設『脳梗塞リハビリセンター』を見つけました。

後遺症がのこっている人はリハビリ病院を退院後、介護保険の範囲内でできるリハビリに満足できない人もいると聞いたことを思い出しました。そして私の場合は30代なので、そもそも介護保険も使えないこともあり、保険外のリハビリサービスには興味がありました。

早速メールでやりとりをし、『脳梗塞リハビリセンター』を運営する㈱ワイズの会長の早見さんと会うことができました。

「何かを失ったら何かを得なければいけない」という考えのもと、脳梗塞後遺症によりできないことが増えても、新しいことに挑戦してきたこれまでの私。そして早見さんの「諦めない人たちのためしっかりとリハビリをできる環境を提供したい」とリハビリセンターを運営しているという思いが重なり、多くの脳卒中経験者に「諦めない」といったメッセージを届けるためのコラボレーションをすることに。

万全のサポートをつけるから、フルマラソンを完走できるなら4時間切りを目指してみませんか?

早見さんからこう提案をもらった当初、私は躊躇していました。リハビリやランニングのプロがついてくれることは恐れ多い気もしましたし、実のところ今から2時間以上タイムを縮めることに半信半疑だったのです。そんな気分を察してか、早見さんはこう言いました。

これはただフルマラソンを4時間切るために組まれるものじゃない。千葉さんの取り組む姿、脳卒中になっても諦めることなく挑戦することができるという希望のエビデンスとして挑戦してほしいんです。

【写真】ビーサブフォーのロゴが入ったTシャツ

私のやってきたことそのものをよく理解してお声がけくださったこと、そしてその熱い心にとても感銘を受けました。こうして始動したのがB-SUB4プロジェクトです。

「諦めない」メッセージを届けたい。B-SUB4プロジェクト

B-SUB4プロジェクトでは早見さんの他にもプロのランニングコーチ、理学療法士、リハビリ医、管理栄養士、そしてコーディネーターの方など、たくさんの人たちが一丸となってチームを組みました。

【写真】ストレッチ用のアイテムを使い、肩と腕のストレッチを行うちばさん

麻痺側の右半身をカバーして走っていた私のフォームに、ランニングコーチとリハビリのプロである理学療法士が指導をしてくれました。普通のランニング指導とは異なり、「こうすれば自然とこうなる」が通じない私の身体です。そこはリハビリのプロがヒアリングをして、理想通りの動きに近づく手助けをしてくれました。

異業種の二人がペアになって取り組むことによる化学反応はすごかったのです。みるみるうちに私の走り方は改善していきました。

他にもインナーマッスルへのアプローチや栄養・食事指導など様々な指導をいただき、一人ではたどり着けなかったレベルにまで走る力を身につけることができました。ずっと一匹狼のようだった私も各分野のプロフェッショナルに相談することで、さらに大きな成果を手にすることができることを体感したのです。

【写真】ビーサブフォーのメンバー集合写真。お揃いのTシャツを着ている

提供写真

リハビリ、トレーニング以外にも、スポーツとリハビリについての研究発表、クラウドファンディングへの挑戦、講演会なども行いました。

講演会には私と同じように脳卒中を経験し、スポーツに挑戦している方やその家族、メディアの方などにも来ていただきました。

失敗をしても、それが私らしい人生

日本最大級のマラソン大会でもある東京マラソン。東京都心を36000人が駆け巡るこの大会で、4時間を切ってゴールすることを目指していました。

今日が第二の人生の終わりの日、ゴールしてからは第三の人生の始まりの日になります!

当日私はプロジェクトメンバーにそう伝え、強い気持ちでスタートを切りました。

【写真】川沿いを走るちばさん

提供写真

ですが22km位から右足が急に上がらなくなり、次第につらい声をあげながら走る始末。多くの人の気持ちを背負った戦いでもあるため、とにかく集中して走りつづけましたが、その後も思うような走りができませんでした。プロジェクトチームのもとメディカルチェックを受け、これ以上の続行は危険と判断。リタイア確定となってしまったのです。

その後は病院で点滴を受けることに。病院のベッドの上で、私は思いました。

第三の人生のスタートは、また病室の天井を見るところから始まったのか…

第一はもちろん生誕時。第二は脳梗塞を発症して意識を取り戻した時。そして第三のスタートだと思っていたいま、私は病院で寝転がっている。

私らしいな。特異な人生、悪くはないな。

そんな風に思いました。点滴が終わり暗い自宅に帰ると、貯めてきた悔しさを開放してたくさん泣きました。この経験が私を強くするはずだと言い聞かせながら。

脳梗塞を経験して、たくさんの夢を持つことにつながった

【写真】クラウチングスタートの姿勢をとるちばさん

いま、私にはたくさんの夢があります。もちろん、今度こそフルマラソンを4時間切ってゴールすることも一つ。他にも片麻痺のトライアスリート、つまりトライアスロンへの挑戦。そして100kmマラソン(ウルトラマラソン)の完走も目指しています。

果てしない夢ですが、B-SUB4プロジェクトをやってきたことで、諦めない心、たゆまぬ努力で夢に近づけることを確信しました!

以前スポーツ体験イベントに参加したとき、サッカーのシュート、バスケットボールのシュート、縄跳び、トランポリン、テニス…そしてボルダリングもできることがわかりました。

一つのことができると、そこからできることが増えていくことを実感しています。私は歩くこと、そして走ることに挑戦してからこうして夢が広がりました。ということで、やりたいことが多すぎて逆に「どうしよう」となっています(笑)。

そして、病気から気付いたことやプラスになることを講演で伝えていく「NPO法人患者スピーカーバンク」の活動にもさらに力を注ぎたいです。

私たちの希望の光です。

SNSでの脳卒中コミュニティサイトでは、そんなことまで言ってくださった方もいて、私の背中を押してくれました。ここまで来たら、やるしかないと思っています!

私はこれからも、前を向いて生きていきます。今なら言うことができます。脳梗塞になって、この病気に感謝していますと。

【写真】両手を重ね、笑顔を見せるちばさん

関連情報:
B-SUB4 PROJET ホームページ
千葉豊さんのブログ こちら
株式会社ワイズ ホームページ

(写真/田島 寛久)