【写真】花の前で笑顔でほほえむとくるりかさん

はじめまして。編集ライターの徳瑠里香と申します。

自分の子どもを産めないかもしれない。母になれないかもしれない。

生まれつき生理と排卵がない「原発性無月経」である私は、高校生の頃から、そんな思いを心のどこかに抱え持ってきました。

「原発性無月経」とは、満18歳になっても初潮がない状態を指し、そのなかにはさまざまな疾患が含まれ、かつそれぞれの疾患が稀なものが多いと言います。私自身は、自然に生理と排卵が起きることはないけれど、子宮や膣などの機能や染色体等に異常があるわけではなく、その原因となる具体的な疾患は未だにわからないまま。

16歳の頃に産婦人科を訪れ、生理と排卵が起きない自分の身体の疾患を認識した私ですが、「産めない」とはっきり言われたわけではありませんでした。

産めないかもしれない > 産めるかもしれない。

ふたつの未来の「かも」のなかで心が揺れ動きながら、何の保証もなく、少しの可能性を信じて、薬でホルモンを注入して、生理を起こす治療をずっと続けてきました。

そして29歳の頃、私の子宮のなかに小さな命が宿り、30歳になる頃、娘が無事に生まれてきてくれました。妊娠から出産までは、本当に「奇跡」が重なったとしか言いようがありません。

今回この記事では、「産めないかも」しれなかった私が、「母になる」までの過程についてお話させていただきます。

生まれつき生理と排卵がない「原発性無月経」

【写真】笑顔で話すとくるりかさん

愛知の片田舎で、三姉妹の長女として、両親と祖父母の7人家族、同じ敷地内に従兄弟家族、隣に再従兄弟家族が暮らす、わりと賑やかな家庭環境で育ってきた私。父と母がアウトドア仲間だったこともあり、週末には家族で、キャンプや海やスキーなどのアウトドアに出かけることが多く、アクティブな幼少時代を過ごしていました。

【写真】とくさんが小さい頃の家族写真。とくさんの姉妹とお母さんは、それぞれご飯を食べていたり、クリスマスプレゼントを手にして喜んでいたり、ピースサインを向けていたり楽しそうな様子。

徳さんのご家族の様子。一番左が徳瑠里香さん(提供写真)

育児をひとりで抱え込むこともなく、働きながら、自分の趣味や家族との時間を楽しむ母の姿に、一番身近にいる女性として、小さな憧れのような気持ちを抱いていました。いつか私も結婚して、子どもを産んで、自分の家族を築いて、母のようになるんだ、と。何の疑いもなく、当たり前のように、そんな未来を思い描いていたのです。

そんな未来が当たり前ではないということに気づいたのは、高校生の頃。

小学校高学年から中学に入ってから、多くの女子は生理が理由でプールを休み、友だち同士の間でも生理が話題に挙がるなか、私には初潮がこない。そして、それは恥ずかしいことのようにも感じていました。2歳下の妹にも初潮があり、家では赤飯を炊くようなことはなかったけれど、「なんで、私には生理が来ないんだろう」と不思議に思いながらも、周囲に対しても、自分に対しても、その事実や気持ちをごまかすように過ごしていました。

高校生になっても初潮がなかった私は、16歳の頃、母に連れられて産婦人科を訪れます。

現時点では子どもを産めるか産めないかはわからないねえ。子宮が退化しないように、薬で生理を起こしておこう。

先生にはそんなふうに診断されました。

当時は私自身が子どもだったので「産めるか産めないかわからない」という先生の言葉に実感が伴わず、ショックを受けるわけでもなく、「そうなんだ」くらいの気持ちだったかもしれません。

はじめは飲み薬が処方されたけれど、あまり効果がなく、1〜2ヶ月に1回のペースで私は産婦人科へ通い、注射でホルモンを注入し、生理を起こす治療を始めました。

治療を始める際、看護師さんから小さな鍵付きの部屋のなかで、生理と妊娠のしくみについて説明を受けました。小学校高学年の頃にも女子だけが黒いカーテンで覆われた教室に集められ、映像を見ながら生理と妊娠についての講義を受けたけれど、その時よりも鮮明に “産む性”としての女性性を意識したような気がします。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるとくるりかさん

高度な検査をすれば、私に月経がない原因を突き止めることもできるのかもしれないけれど、先生は「高校生の今からそこまでする必要はない」と疾患名を断言することはなかった。特別な検査をすることもなく、疾患名をはっきり告げられなかったからなのか、若くて現実味を帯びていなかったからなのか、当時は自分が“不妊症”であること、“子どもを産めないかもしれない”ということにあまりピンときていなかったように思います。

16歳で妊娠、高校生で母になった親友の存在

私が「産むこと」を意識するようになったのは、友人の妊娠・出産がきっかけでした。

私が産婦人科に通い始めた16歳の夏のはじまり、中学時代からの親友に妊娠が発覚。彼女の妊娠を知った当初、お腹に命が宿ることは本来おめでたいことのはずなのに、ただただ哀しくて、私はその事実や思いを誰にも伝えることができず、ひとり部屋で泣いていました。当時は、彼女が置かれた境遇の困難さを想像しながら、彼女が遠くへ行ってしまうような寂しさを感じていたのかもしれない。

その後、母親と産婦人科を訪れエコーで小さな命を目にした彼女は、父親の「堕ろすのは絶対に反対だから」という言葉に背中を押され、高校を辞めて産むことを決意。

私、産むことにしたよ。

エコー写真を片手に、そう告げた彼女の姿は今でもはっきり覚えています。

【写真】嬉しそうな表情で話すとくるりかさん

そして、出産当日。知らせを受けて自転車で駆けつけた病院で、生まれたての赤ちゃんを抱きしめた瞬間、とてもありきたりな言葉だけれど「産んでくれてありがとう」「生まれてきてくれてありがとう」そんな気持ちが自然と心の底から湧き、涙が溢れ出ました。

妊娠から出産を経て子育て中も、私は学校帰りや休みの日に彼女と同じ時を過ごして、彼女が母になっていく姿と小さな命が育っていく姿を目の当たりにします。

そしてその間も私は、産婦人科へ通い、注射で生理を起こしていました。

自分はいつか産むことができるのだろうか、母になれるのだろうか。

新しい命の誕生を待ちわびている妊婦さんが多いその場所で、少し居心地の悪さを感じながら、そんなことを思うようになっていました。

大学で上京してからは、生理を起こすために「低用量ピル」を飲み始めました。はじめは嘔吐やめまいなどの副作用にも襲われたけれど、次第になくなり、ホルモンが調整されるため、生理周期も整い(ぴったり28日)、生理痛も特になく、飲む時期を調整することで旅行などに合わせて生理をずらすこともできました。

生活習慣が乱れ、ピルを飲む時間が大幅にずれたり飲み忘れたりした時は、ホルモンバランスが崩れ、気持ち悪くなったりすることもあったけれど。

「産む」現場を取材。「伝える」という今の仕事へ導かれる

【写真】質問にほほえみながら丁寧に答えるとくるりかさん

大学時代は、サークルに入って、バイトをしてバックパック背負って旅に出て、人並みに恋愛もしました。自分では特別「産む・産めない」ということに意識を持っていたつもりはなかったけれど、振り返ってみると、やはり自分の関心事の原点になっていたよう。

編集やライティングを通して「伝える」ということに興味を持っていた私は、大学2年時に編集ライター養成講座に通い始めます。

その時取材をして記事を書くという課題のテーマに選んだのは、「産む」ということ。国分寺にある助産院に通い、お産の現場を目にしながら、助産師さんや妊婦さんに、話を聞いて文章にまとめていったのです。記事は最優秀賞に選ばれ、雑誌に掲載されました。

それをきっかけに、講師のジャーナリストの方に雑誌を紹介してもらい、執筆活動を始めました。

出産にまつわる映画の紹介文を書いたり、当時社会問題となっていた「妊婦のたらい回し」(出産中に脳出血を起こした女性を高次医療機関に搬送したが、18件以上の病院が受け入れを拒否し、妊婦が死亡した事件)の背景にある過酷な周産期医療の現場を取材したり。

振り返ると技術も知識も肩書もないまま、とても未熟な取材と執筆だったけれど、当時の経験が、今の仕事へ導いてくれました。

大学卒業後、出版社に就職をしてからは、その当時の自分の関心事と、読者が求めるものとの接点を探りながら、書籍やWEBメディアにおいて、さまざまなテーマで企画・編集・執筆を行ってきました。なかには、「特別養子縁組」や「里親」など、“産まずに、育てる”というテーマで取材・執筆をすることもありました。

子どもが欲しくて結婚するわけじゃない

そんな私にも27歳の頃、結婚をしたいと思う人ができます。

「結婚をしたいと思う人には自分の身体のことを話そう」と思っていたので、ある時彼に、生まれつき生理がないこと、子どもが産めない可能性があることを打ち明けます。それまで仲の良い友人たちに話すことはあったけれど、恋人に話したのははじめてでした。なぜか、彼に対しては特に緊張することもなく、自然と話すことができたのです。

彼の反応は「へえ、そうなんだ〜」くらいの軽いもので、特別気にしていないようでした。その後、一緒に朝ごはんを食べている時に「結婚しようか」と彼が言い出し「そうだね」と私が答え、特に仰々しいプロポーズもなく、私たちは結婚することを決めました。

【写真】真剣な表情で質問を聞くとくるりかさん

親への挨拶や結婚式の準備を進めるなかで、彼にもう一度、「私が子どもを産めないかもしれないこと、気にしないの?」と聞いてみました。すると彼は、いつも通り飄々と答えるのです。

子どもが欲しくてるりかと結婚するわけじゃないから、別に気にしないよ。もし子どもが欲しかったら、養子縁組とか里親っていう選択肢もあるわけだし。

当時、私は取材をしたご縁から、里親家庭にお邪魔したり特別養子縁組のイベントに足を運んだり、そこで得た知見や感じたことを彼にも正直に話していました。特別養子縁組をした家族に実際に会ってみると、血のつながっていないことが信じられないくらい似た雰囲気で、より「家族」であることにそれぞれがちゃんと向き合っているようでした。

“産まなくても育てられる”という選択肢があるということ、彼もその選択肢、何より私自身を受け入れてくれていることは、私の心を軽くしました。この時はじめて、“産めないかもしれない”という思いから解放された気がします。

結婚するにあたって、いろいろな条件やそれぞれの理由があると思うけれど、私たちは「好きだから、一緒にいる」それだけで十分なんだ。彼となら子どもが産まれなくても、その時々にいろんな選択肢を探りながら、楽しく暮らしていけそうだな。

彼の言葉を聞いて、そう思いました。

2年間続けた「排卵誘発法」で奇跡の妊娠!

結婚をしてから、生理を起こすために10年以上毎日飲み続けていたピルをやめました。ピルには避妊効果もあるので、結婚を機に自分で産むという可能性も意識して。何もしなければ、私の身体は生理も排卵も起きないので、引っ越し先の街の小さなレディースクリニックに通い、排卵誘発剤を使って排卵を起こす不妊治療を始めます。

【写真】インタビューに答えるとくるりかさん

排卵を促すための飲み薬から始め、ペン型の注射器を自らお腹や太ももに当てていたけれど、なかなかうまくいかない。私の卵子は、数は増えても排卵できるほど十分な大きさに育たず、小さな卵子がたくさんできてしまい、お腹が張ってしまうことも。医師からは、双子や三つ子などの多胎妊娠になるケースもあり、お産にもリスクが生じる可能性があると言われていました。

そんな心許ない排卵であったこともあり、当時はお互い仕事に夢中で、ふたりでいる時間も楽しかったので、「タイミング療法」と言われる初期の不妊治療のように積極的にふたりのタイミングを合わせることもしていませんでした。というより、夫は仕事の帰りも遅く出張も多かったので、なかなか合わせることができず、そこに執着するとストレスを感じてしまうと思ったので、子どもを授かるための治療というより、生理と排卵を起こすための治療と割り切っていたのです。

卵子がうまく育たないこと、育ったとしても貴重な排卵期になかなか夫婦のタイミングが合わせられないこと、そして子どもを授からないこと。それらに一喜一憂することなく、淡々とこの治療を2年ほど続けながら、ふたりの結婚生活を楽しんでいました。

【写真】真剣な様子でインタビューに答えるとくるりかさん

結婚から2年が経つ頃、少し仕事が落ち着いたタイミングで、本格的に子づくりをしようと夫婦で不妊治療(体外受精)を専門とする病院を訪れます。モニターに表示される番号に従って、尿検査、血液検査、先生との面談と、少しずつ検査が進み、待ち時間も含めて来院から3時間が過ぎる頃、夫は精液検査へ、私は内診室へ。

小さな鍵付きの薄暗い個室で、内診台のうえで股を開く私に、カーテン越しに先生が衝撃的な一言を発します。

赤ちゃんがいますねえ。

!!!!!!!!!!

驚きすぎてしばらく言葉を発することができませんでした。混乱して、モニターを覗き込むと、ピーナッツのようなかたちをした17mmの小さな赤ちゃんがいて、心拍も確認できます。夢だと思いました。

信じられない気持ちと高鳴る鼓動を抑えながらも、私は内診室を出て、射精を終え待合室にいる夫に報告。夫婦で予想外の展開にただただ驚き、喜びました。

その後、先生に呼ばれ、エコー写真で再度赤ちゃんの姿を確認すると、小さな命がお腹に宿った喜びと同時に、不安も押し寄せてきます。

あの、私、運動とか、お酒とか結構していたんですが、大丈夫でしょうか……。

私はその前日、整体に行き、夫と友人と運動がしたい!とスポッチャへ行き、バスケやテニスをして、ロデオマシーンにも乗って、夜は赤羽で三軒はしご酒……。お腹のなかに赤ちゃんがいるなんて、露ほども思っていなかったのです。

先生はそんなことよりも、検査の結果、私の「黄体ホルモン」の数値が極めて低いことを指摘。そこから、また注射でホルモンを補う治療が始まりました。

それにしても、私の妊娠は本当に奇跡としか言いようがない。排卵誘発剤で起こしていた私の稀有な排卵期にふたりのタイミングが重なり、ひとつの命が芽吹いていたのです。しかも、この時点で不妊治療の病院を訪れていなかったら、私は妊娠にも気づかず、適切な処置ができないことから、妊娠を継続できなかった可能性も高かった。

子どもができにくい私の子宮のなかに命の芽を生やし、万全とは言えない環境のなかで息をはじめた我が子のたくましさよ……。

出産は母子ともに命がけ。安全なお産なんてない。

【写真】真剣な表情で話すとくるりかさん

妊娠中は、「ホルモンの奴隷」とも言えるようなさまざまな身体の不調や感情の起伏を体験。常にリスクと隣合わせにありながらも、我が子は順調に育ってくれました。

ただ、我が子は妊娠後期からずっと逆子で、生産期に入る37週になっても治らなかったため、帝王切開で出産するため入院することに。ところが、手術当日の朝、我が子がまさかの逆転! そのまま手術をすることもできたけれど、「自然に産めるのなら」と、その日は何もしないで退院し、自然分娩に切り替えることにしました。

しかし、1週間後の検診で、私が退院した直後、同じように36週まで逆子で、直前に戻り自然分娩に切り替えた方が、赤ちゃんよりへその緒が先に出てきてしまう「臍帯脱出」が原因で、出産中に赤ちゃんが亡くなってしまったことを知ります。ここまで来て赤ちゃんに会えないことがあるなんて……。他人事だとは思えず、胸が締め付けられて、おいおいと泣きました。

お産は常にリスクと隣合わせで、母子ともに命がけ。必ずしも安全なお産なんてない。帝王切開で、どれだけ高度な医療機器に囲まれていても、それは同じだけれど、避けられるリスクは可能な限り避けたい。私はその日、再度帝王切開で産むことを決めます。

そして迎えた出産当日。手術室でブルーのオペ着をまとった先生たちに囲まれ、眩しいくらいのライトに全身を照らされ、半身麻酔を打ち、手術がスタート。意識はあるので先生たちの話し声もメスが重なる音も聞こえるし、痛みはないものの、触られている感覚はあるので、お腹が切られた瞬間もわかりました。

手術開始から35分。「あぎゃーあぎゃー」という声が手術室に響き渡り、元気な赤ちゃんが誕生!

その声を聞いた瞬間、緊張の糸が切れ、ほっとします。「無事に産まれてきてくれてよかった」と。そこからは麻酔の効果もあって意識が遠のき、そのうちに手術は無事終了。病室に戻り、駆けつけた夫と母と、赤く浮腫んだ小さな赤ちゃんの一挙手一投足に湧き、不思議なほど温かくて平和な時を過ごしました。

【写真】安心した表情で話すとくるりかさん

私は今回、逆子の原因や直前に治った理由がわからないまま、帝王切開で我が子を出産しました。結果的に産後、「もし自然分娩を選んでいたら、危険な状態だった」と医師に告げられ、帝王切開を選んで、母子ともに命拾いをしました。またここに、ひとつの「奇跡」が重なっていたのです。

ずっと伴走してくれた母の存在

16歳ではじめて産婦人科を訪れてから、出産を経験する30歳まで、私はずっと産婦人科に通い足りないホルモンを補う薬を飲み続けてきました。授乳を終えたら、その治療を再開するつもりでいます。自分の疾患をすっかり受け入れた今、薬を飲むことは習慣になっています。

それでも振り返ってみると、高校生から、大学、社会人になってからも、目の前のことに夢中で、産婦人科に通って毎日薬を飲んでまでして、わざわざ生理を起こすことを面倒に思ったこともあるし、しばらく放置していた時期もあります。

でも、その度に母から「ちゃんと病院行った? 生理起こしてる?」と電話がありました。

現代の医療をもってすれば、大丈夫だから。ちゃんと治療をしていれば、子どももできると思うよ。

もちろんどれだけ治療をしても子どもを授かる保証はありません。母はそのことをわかっていたし、むしろ授かる可能性は低いと思っていたようですが、何の根拠も持たずに私にそう、何度も言っていました。

正直、うっとおしく思うこともあったけれど、母のこの言葉がなければ、私は治療を続けることもなく、自分で子どもを産むことを早々に諦めていたかもしれません。子どもを産まない人生を思い描いたことももちろんあります。

【写真】嬉しそうな表情のとくるりかさん

この記事を書くにあたって、母に、私に生理がないことをどう思っていたか、改めて聞いてみました。

母は、私に生理がないことはおそらく先天性のものだから、自分に責任があるのではないか、なんで女性としてちゃんと産める身体に産んであげられなかったんだろう、と何度も自分を責めたそう。実際には私以上に「産めないかもしれない」と不安に思っていたけれど、その気持ちを一切見せずに「大丈夫」と言い続けてきたのは、私に不安を抱いてほしくなかったから。

自分のことならなんとかなる!と思えるんだけど、子どものことになると、どうしても弱気になって、心配になっちゃってね。でもそれを子どもたちには見せられないから、気丈に振る舞うんだけど。るりかの身体のことも、正直“産める”よりも、“産めない”確率のほうが高いと思ってたけど、私がそんな気持ちでいちゃいけない、少しでも可能性があるならできることはしたい、と思ってね。

この時はじめて母の弱音のようなものを聞いた気がします(過去のものだけれど)。母は私たち子どもの前で弱音をこぼすことはほとんどなく、いつだって私たちを励ましてくれました。私が基本的に「なんとかなるだろう」と楽観的に構えていられたのは、母の根拠のない「大丈夫」があったから、私が治療をやめなかったのは、いつか私も母のように大切な誰か(子ども)を励ます存在になりたいという気持ちがあったから、かもしれません。

母は私以上に、私の身体のことを心配し、その分、私の妊娠・出産を喜んでいます。私も親になって、自分以上に大切で心配に思う子どもに対する母の気持ちが少しだけわかるようになってきました。母は私にとっていつまでも「お母さん」ではあるけれど、同じ親として、ひとりの人間として、こうして今、向き合って話ができることを嬉しく思います。

【写真】少し涙ぐみながらも明るい表情のとくるりかさん

女性の人生や家族のかたちに「正解」なんてない

人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている 伊集院静

安定期に入った頃、自分の身体と妊娠について、ハフィントンポスト日本版に投稿した時(「私は、自然と生理も排卵もありません。それでも今、妊娠5ヶ月です」)、20代で乳がんを宣告され克服した先輩が、大切にしているというこの言葉を贈ってくれました。

同時に、記事を読んでくれた友人や先輩たちが、不妊治療の経験など自身の身体や家族について話してくれました。それまで人に話すこともなかったささいな自分の身体の事情をオープンにしたことで、身近にいる人たちがそれぞれ抱える断片的な“事情”を話してくれるようになり、見える世界が少しだけ変わったのです。

みんな、それぞれの“事情”を抱えて、平然と、懸命に生きている。

少し目を向けて耳を傾けただけでも、私の周りには16歳で妊娠をして母になった友人をはじめ、産まない人生を選び自分の仕事に邁進している先輩、不妊治療の末に特別養子縁組をした女性、里親として子どもたちを育てる女性、養子として育てられた後輩、トランスジェンダーで性転換をしてシングルマザーと再婚した友人など、自分の心と身体に向き合いながら、家族を築いている人たちがいます。

みんな自分の身体と、家族とどう向き合っているんだろう? 

母親ってなに? 家族ってなんだろう?

私は妊娠中、そんな問いを持って、自分の身近にいる7人の女性たちに話を聞いて、その物語をまとめていきました。そのなかには、産まない人生を選んだ女性もいるし、血のつながらない子どもを育てている人たちもいて、7人いれば7通りの家族のかたちがあります。その内容はポプラ社より書籍として刊行されることが決まっています。

7人の話を聞いて、考えて、文章にまとめていっても、「母親って」「家族って」という大きな問いの答えは見つかりませんでした。それぞれの人生と家族のかたちがある。だからこそ、私も「答え」ではなく「問い」を持ち続けながら、自分の家族と向き合っていきたいと思っています。

好きだから、一緒にいる。

私たちの家族のはじまりは、そんなシンプルな気持ちでしたが、娘ができた今でもそれは変わりません。妊娠前からよく「子どもを産んだら夫が嫌いになる」という話を聞いていてどうなってしまうんだろうと思っていましたが(笑)、私自身はそんなことはありませんでした。娘に対しても自分が産んだから、血がつながっているから、というよりは、やっぱり好きだから、一緒にいたい、家族でいたい、という気持ちです。

【写真】たくさんの花が並ぶ前に立ち、ほほえむとくるりかさん

好きという気持ちが前提にあったとしても、私と夫と娘は、育ってきた環境も違えば、価値観も違うひとりの人間です。私たちは夫婦や親子に“以心伝心”はないと思っているので、どんなささいなことでも言葉で伝え合うようにしています。日頃の不満も感謝の気持ちも愛情も。言葉が通じない今でも0歳の娘をぎゅっとして「大好き〜」と1日に何度も言っているし、仕事が忙しくて家にいない時間も多い夫とは、常にLINEでやりとりしています。

私がどんなに娘のことを好きでも、娘が好きでいてくれるかはわからないし、夫ともいつまで好き同士でいられるかわかりません(その時はその時に考えます笑)。何の保証もないけれど、ないからこそ、家族として同じ時を重ねるなかで、ちゃんと言葉で伝え合って、向き合っていくことは怠らずにいたいと思っています。

出張などで家にいない時以外、「朝ごはんは必ず家族揃って食べる」というのが我が家の唯一のルールなので、会話がない日があったとしても、顔を合わせて、同じ食卓を囲むことは続けていきたいです。

「産んでも、産まなくても」人生は自分のもの。

【写真】街頭を笑顔で歩いているとくるりかさん

産む、産まない―—。自分の身体や年齢、キャリアや経済状況などさまざまな事情が絡み、“産む性”として女性は、その選択肢を選べるようで、選べません。

「産む」ということは奇跡とも言えるような偶然がたまたま重なったようなもの。望まない妊娠もあれば、ようやく授かった命だってある。6組に1組が不妊に悩みながらも、体外受精の成功率は2〜3割とも言われる日本で、どれだけ望んでも「産めない」こともある。これだけ女性が社会のなかで活躍するいま、「産まない」選択肢だって当たり前に考えられる。私の周りにも、作家として作風が変わってしまうから、子育てよりも仕事をしたいから、と産まない選択肢をしている人たちがいます。

女性の人生が「産む」「産まない」で区別されるような、評価されるような、そんな風潮はまだまだ一部に残っています。でも「産む」のなかにも、「産まない」のなかにも、女性ひとりひとりの葛藤や決断があり、それぞれの人生があり、そのふたつの側面だけで括れるようなものじゃない。たとえ同じ立場であっても、すべてを理解することなんてできないし、わかり合うことだって実際には難しい。

「産む・産まない」で女性の人生の価値は決まらない。

私は“産んだ”けれど、親になったからといって立派な人間になったわけではないし、子どもの人生は子どものもので、親のものじゃない。私の周りには産まなくたって、仕事や趣味を通じて自分の人生をたのしみ、輝いている女性たちがいます。そもそも人生の価値のようなものは他人が決めるものではなく、自分で決めるものだ、と私は思います。

産んでも、産まなくても、子育てをしたいと思ったら、特別養子縁組や里親という選択肢もある。産んでも、産まなくても、女性の人生はそれぞれにそれぞれの価値がある。選べなかったことを受け入れて、そこからまた自分で選ぶこともできる。

私自身はいま、0歳児の子育ての真っ最中だけれど、できる限り「お母さんだから」と何かを犠牲にしたり、我慢したりすることなく、仕事を含め自分のやりたいことも全力でやって、自分の人生をたのしみたいと思っています。

私の人生もまた、子どものものじゃないから。そう、私の人生は、誰のものでもなく、私のものだから。

【写真】明るい陽が差し込む街頭で笑顔で映るとくるりかさん

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(写真/馬場加奈子)