【写真】自然を背景に、笑顔のやまねゆうかさん

はじめまして!山根優花です。

大学3年生で社会福祉を学びながら、soarで事務局インターンをしています。

私は3年ほど前、高校3年生の秋に潰瘍性大腸炎(UC)という病気を発症しました。潰瘍性大腸炎とは、大腸の粘膜に潰瘍や炎症が起きてしまう炎症性腸疾患(IBD)。主な症状には、腹痛、下痢、血便、下血などがあります。

発症した当初は症状がひどく入院していたこともありましたが、今は寛解(一時的に良い状態が続いている)していて、大学やsoarでの活動、デザインの勉強など好きなことをして生きています。

今回は、私が経験してきたことと今の私についてお伝えしたいと思います。

負けず嫌いな性格で、学級委員や部長を懸命にこなした学生時代

私は小さい頃から負けず嫌いでした。運動は苦手なのですが、幼稚園に通っていた頃に縄跳びをできるようになるまでずっと練習していたことを覚えています。

小学生の頃は、保護者面談で担任の先生から、「真面目すぎ」と言われるほど心配性だったり、周りを気にしていたりと少し神経質でした。そしてこの頃からとても風邪をひきやすくて、よく病院へ通い近所の小児科の先生とは仲良しになるくらい、病院へよく通っていました。

中学校に入ってからは3年間学級委員を、また吹奏楽部では部長を務めていました。夏休みもコンクールに向けて1日中練習していたりと、とにかく毎日必死。そして、高校受験では、どうしても行きたい志望校があったので頑張って勉強しました。

【写真】日が差し込む部屋の中で、笑顔のやまねゆうかさん

そして、何とかぎりぎり第一志望校に合格することができたのです!1.2年生の夏休みは、部活と文化祭の準備で過ぎていきました。何といっても文化祭当日の盛り上がりは今でも忘れられません。

進学校でもあったので、勉強にもかなり力を入れて取り組んでいました。高校3年生の夏は、相変わらず文化祭の準備と大学受験の勉強で、慌ただしく過ごしていたのを覚えています。

うっすらとした出血。診断されたのは「潰瘍性大腸炎」という難病

一番はじめに病気の自覚症状があったのは、高校3年生の7月頃。トイレに行くたびにうっすらと出血があったのです。でも痛くもないしどこからの出血かもわからなかったので、そのまま放置していました。

ただ10月頭頃までそのような状態が続いたので、一度病院に行ってみようと決心しました。痔なのかもしれないと思い、なんだか病院にも行きにくいなあと思っていたところ、近くに女性専門の肛門科のクリニックがあったので「一応行っておこう」と軽い気持ちで病院に行きました。しかし、診てもらったところ、「もっと奥の方の腸の問題だと思う」と、再度消化器内科の病気に行くように言われました。

まさか腸の方だったなんて、そんなことは一切思っていなかったので驚きしかありませんでした。そのときから、自分の症状を検索窓にいれていくつかの病気を調べていました。

【写真】おだやかな表情で話すやまねゆうかさん

「おじいちゃんが『大腸がん』で50代で亡くなったので、遺伝的に可能性があるのかもしれない」「年齢的には『潰瘍性大腸炎』も可能性がある」など色々な想定をしていて。でも、どれも確信をつくようなものもなく悶々としていました。

結局、消化器内科で内視鏡検査をしたところ、『潰瘍性大腸炎』だと診断されました。診断がついたとき、「あ、やっぱりそれだったんだ」という気持ちと同時に、「私、難病患者になったんだ」というショックがありました。

今は困る症状はないけれど将来はどうなるんだろう。

そんな漠然とした不安がありました。

きっと母親も私以上にショックだったのだろうと思います。そんななか、私を心配させないようにひたすら私の頭を撫でて「大丈夫だよ」と言ってくれていたことだけは覚えています。

「食事を楽しめなくなるのかもしれない」という不安

そこから、専門医がいる大きい病院に通いだしました。その頃は、多少の出血はあり大腸に少々潰瘍があるものの、下痢や腹痛はほとんどなかったのです。治療法のひとつとして、薬に加えて腸を空にした方が早く治ると言われたので、1日3食をココア味の栄養剤に置き換えることにしました。

体調的に家族と食卓を囲むことはできましたが、それだとお腹が空いてしまうし、自分だけ食べられない虚しさがつらい。当時は自分の部屋でひたすら栄養剤を飲んでいました。また、学校はお弁当だったので、おかゆや蒸したジャガイモ、お腹が空かないように飴を持参する日々でした。

その当時学校にどれくらい通っていたのか、正直あまり覚えていません。精神的にもあまり力が出なくて、1日中家で寝ていることも多かったような気がしています。周囲の友だちは休みがちな私の様子と、おかゆのお弁当を持参する姿に何となく様子が違うことに気がついていたと思います。

【写真】インタビューに答えるやまねゆうかさん

お腹が特に痛い訳でもありませんでしたが、その頃よく自分の部屋で寝ていたことを覚えています。ひたすらいろんな人のブログを検索したり、Twitterをちょうどはじめたりとずっとスマホを見ていました。

ハンバーガーやからあげ、チョコレート。そんなものはもう一生食べられないのかな。

当時は、自分の気持ちを言語化する気力もなかったので、同じ病気の人が書いたブログの文章を読んで、「同じような気持ちだなあ」とベッドの中で泣いていたりしました。

外出したついでにコンビニに寄るときも、「このなかで私が食べられるものは何もないんだな」と考えていたり、外食に行っても脂質の欄をチェックしてメニューを選ばないといけない、そもそも外食はとてもハードルが高いものでした。

治療のための薬も副作用がつよく、眠れない日々

診断後には、食事療法と共に薬の処方も始まりました。当時処方されたのは、一般的に処方される一番新しくて副作用のない薬でした。

きっとこれを飲んでいればよくなるのだろう。

小さい頃から薬に慣れているので、面倒くさいと感じることはありますが、薬を飲むこと自体は苦ではありません。

薬を飲みはじめて2ヶ月ほど経っても特に症状は変わりませんでした。すぐに効果が出るものでもないようなので、気長に過ごそうとしていたその時。急に動悸や38度台の熱、咳が酷くなったりの日々が始まりました。

【写真】はにかんだ表情で話すやまねゆうかさん

病院に行くものの、この症状は潰瘍性大腸炎とは関係ないと言われたので、よくなるまで待つことになりました。ただ、高校が単位制で出席日数が既に危なかったため、両親に送り迎えをしてもらいながら学校に通っていました。

ときには、咳と熱が苦しく夜に一睡もできないほど酷いこともありました。

私は何をしているんだろう、何を頑張っているんだろう。

その夜は、ただひたすらにそう思っていました。

結局は、服用していた薬の副作用で咳がでたり、体を動かしたときに息切れなどの症状がでる間質性肺炎になっていました。ほとんどの人に副作用が起こらないと言われている薬が体に合わなかったのです。ここで初めて入院をすることになりました。

ただでさえ多くない治療の幅が狭まることには、不安を感じました。

でもそれと同じくらい、「私たくさん頑張ってきたんだ、ここは病院だからきっともう大丈夫」という安心感に溢れて、ベッドの上で涙が止まりませんでした。

そこから肺炎は完治、一度退院して、受験を終えました。その頃はもう学校には行かなくてよかったので自由に時間を過ごしていました。

新たな病院に通うことにもなり、栄養剤ではなく脂質の少ない食事をとって過ごしていました。

ただ、家で過ごすなかでトイレに行く回数がだんだん増え、最終的には1日に20回以上行くことも。下血の量も次第に増えていき、結局は入院をすることになりました。

入院で発覚した二つ目の難病「特発性血小板減少性紫斑病」

体調不良で入院する時に、同時に血液の病気で体が血小板を壊してしまう特発性血小板減少性紫斑病という難病であることがわかり絶対安静になりました。

診断がつくまで、血液の病気ときいたら“余命”という言葉がすぐに浮かぶような病気しか思いつきませんでした。実際に検索をすると、当てはまるのは既に頭に浮かんでいたような病気ばかり。

私の人生はどうなるんだろう。

私はあとどれくらい生きられるのだろうか。

ずっとそのようなことばかり考えていました。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるやまねゆうかさん

絶食で点滴をしていたのと貧血状態でもあったので、ずっと寝たきりで症状としては一番辛い時期でした。

高校の卒業式と大学の入学式には行けず、受験が終わった春休みに友だちが旅行に行ったりしている楽しそうな投稿がSNSには流れてきます。テレビをつけると社会で日々起きたことがニュースで報道される。けれど、私は何も変わっていない。ずっと同じ場所にいる。

私は何だか社会の外でひとりぼっちで生きているような、そんな感じがして次第にSNSやニュースが見られなくなっていきました。

Twitterは辛い気持ちをさらけ出せる居場所

1ヶ月ほど入院していましたが、「やっと退院できる」と思っても、退院延期が続いていて。いつ家に帰ることができるのか、体調はよくなるのか、不安な日々を過ごしていました。

私には、同じ病気の人同士でフォローしあっているTwitterのアカウントがあります。顔は見えませんが、その人たちには自分のことを何でもさらけ出せるような気がしました。同年代の人から、年上のお兄さんお姉さんたちまで。直接メッセージをくれる人もいたり、同時期に入院している人同士で励ましあったりと、私の心の拠り所でした。

【写真】外で、笑顔をみせるやまねゆうかさん

周りの友達にも病気のことは伝えていて、入院中はSNSで現状を伝えて、病気のことなど聞かれたことはすべて答えていました。

大学に入学したての時、新たにできた友だちや関わる人たちに自分の病気のことを伝えるときに涙が出そうになり、言葉に詰まりそうになることが時々ありました。自分の口で発することに、もしかするとまだ抵抗があったのかもしれません。

その一方で、将来誰かと結婚することになったら、就活のときは伝えるべきなのか、などそういった漠然とした不安もありました。

病気をきっかけに見つけたやりたいこと

高校時代は英語が好きだったこともあり国際系の大学をずっと目指していました。ただ、急に病気になり、たまたま最初に入院した病院が私の通っている大学の近くだったこともあり、社会福祉という言葉を知りました。

私は病気になって症状に苦しんだこともありましたが、人生についての漠然とした不安がとても大きかったので、人の生き方そのものに関わるような社会福祉に魅力を感じました。

そして、大学入学から1年後にsoarに出会います。SNSやインターネットに救われた原体験がある私は、インターネットの力で人にアプローチをしているsoarに出会い、「これが私のやりたいことだ」と直感的に感じました。すぐにイベントに参加し、自分が関わりたい気持ちを伝え、インターンとして関わることになりました。

【写真】自然の前で満開な笑顔をみせるやまねゆうかさん

soarに出会って、私はいろいろな生き方をしている人たちに出会いました。大学では社会福祉を学んでいますが、福祉にデザインやテクノロジー、さまざまなものと一緒になることでもっと可能性が広がるのでは、と思い独学でデザインの勉強もしています。

どんな形であろうと社会と人に広くアプローチがしたい。福祉という枠組みが将来的にはなくなればいい。

そう思ったりもしています。

社会福祉を学んでいたり、そのように思うことは私の原体験も関係しているとは思います。そして、たまたま私の周りにも、精神疾患のある人がいたり、認知症の人がいたり、病気の人がいたり。

家族や親戚、友だち、知人、きっと誰しも周りに1人くらいは生きづらさを抱えていたりマイノリティと言われるような人がいるのではないかなと思います。でも、それはよく考えると、とてつもない人数なのではないかとあるとき気がつきました。

これだけたくさんの人が生きづらいと思っている社会はどうなんだろう。誰もが自分らしく生きることができるような社会になったらいいのに、と思っています。

病気は私のひとつの要素でしかない

現在も、通院と投薬は続いていますが、症状はどちらも寛解(一時的に良い状態が続いている)しています。潰瘍性大腸炎と特発性血小板減少性紫斑病を合併する症例はほとんどないようで、こんなによくなるとは正直自分でも思っていませんでした。ただ、同時にいつ症状が悪化するのかは自分でも分かりません。年単位で周期がまわってくることもあるようです。

現在は基本的に食事制限はほとんどしていません。ただ、お腹の調子が少しでも悪いと感じたときには、脂質の高いものは控えて脂質の低いものを選ぶなどの工夫はしています。

【写真】自然を背景に、笑顔のやまねゆうかさん

また、薬の影響で予防接種がうてなかったり、かつ風邪をひきやすく治りにくいことがあります。風邪をひくと症状が悪化してしまうことがあるので、特に冬は感染症等にかからないように気をつけています。

難病といわれているので、原因は不明なのですがストレスも症状悪化に関係があるのでは、と言われているようです。なかなか難しいですが、なるべくストレスを溜めないよう、自分の生活リズムを正したり、不安ごとは意識して人に共有するようにしたりしています。

そして最近は、私が病気になったのはたまたまのことなんだ、と思うようになりました。病気になった当初はもちろんそんな風には思えませんでした。「どうして私なんだろう」と考えていたからです。時間がたった今では、病気は私のひとつの要素にすぎない、それも含めて私、と考えられるようになりました。

【写真】木々を背景に、笑顔を浮かべるやまねゆうかさん

それは、時間がたったということ、いろいろな生き方をしている人に出会ったということが大きいと思います。

ただ、将来への不安は今でもあります。いざ働くとなったときに、自分の病気のことをちゃんと伝えられるのだろうか、生活はどうなるのだろうかという漠然とした不安も少しはあります。

でも、せっかくなら好きなことをして生きていきたいと思っています。私には好きなことややりたいことがたくさんあります。体調をみながらも、自分のペースで挑戦を続けていきたいです。

将来の不安にとらわれず、今を大切に生きたい

「いつまで生きられるのだろう」と心から感じたときから、あまり将来のことについて考えられなくなりました。5年後の私はどうなっているのか、といわれると正直あまりイメージができません。

ただ、「今生きている」ということがとても大切だと思っています。いつ体調が悪くなるかもわからないので、今を大切にしたい。考えるべきことは考えて、今を大切に生きていきたいです。

【写真】まっすぐなまなざしで、上をみつめるやまねゆうかさん

また、周りの人たちも、私が病気になってから「今の私がいることそのものが大切だからそれでいいんだよ」とそのままの私のことをみてくれるようになりました。勉強ができる、できない、結婚する、しない、そういうことを求められたり要素で判断されるのではなく、私の存在そのものを肯定してくれている人が多くなった気がします。

でも、本来人ってそのように、みんな存在そのものが一番に尊重され認められるものだと思うのです。

何で私はこんなに頑張っているのだろう、何をしているんだろう。

どうして私なんだろう。

この先の人生どうなるんだろう。

苦しかったとき、私はずっとこのようなことを考えていました。でも、病気になったからといって私の人生がそこで終了した訳ではありません。

たしかに症状が辛いことはあるかもしれない。不可能なこともあるかもしれない。でも、私は楽しいことや好きなことがたくさんできています。私はあくまで一例に過ぎないですが「こういう風に生きている人がいるんだよ」ということが、どこかにいるあなたに伝わればいいなと思っています。

【写真】外の椅子にすわり、笑顔のやまねゆうかさん

この病気は10代後半〜20代で発症する人が多く、難病のなかでも患者数が多かったりします。意外とみなさんの身近にいるかもしれないので知ってもらえると嬉しいです。

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(写真/馬場加奈子)