【写真】笑顔のやしろみゆきさんとやすこさん。

たくさんの絵画に囲まれた、日当たりのよい部屋でにこやかに微笑むお二人。仲睦まじい様子が、じんわりとこちらにも伝わってきます。

右が八代みゆきさん、そして椅子に座っているのが八代安子さん。チェリストとピアニストであったお二人は1956年、同じクラシック音楽を愛する男女として結婚しました。

しかし、みゆきさんには幼少期から抱いていたあるひとつの思いが。それは、男性として生きることへの違和感でした。その事実に向き合い、みゆきさんは78歳で性適合手術を受け、戸籍上も女性となったのです。

それでも二人は養子縁組をし、形を変えて再び同じ戸籍の家族に。今もこうしてひとつ屋根の下、以前と変わらない穏やかな日々を重ねています。

今でこそ、多様な性のあり方に理解を深めようとする動きが広がりつつありますが、八代さんの青春時代は戦後の混乱期。LGBTについては今よりも認知も理解も進んでおらず、ここにたどりつくまでの道のりは決して平坦ではなかったはずです。八代さんはどんな思いでそれまでをすごし、性適合手術を決意したのか、お話をうかがいたいと思い、ご自宅をたずねました。

安子さんがそっと見守るなか、みゆきさんは優しい笑顔で、これまでの歩みについて語ってくださいました。 

「違い」を感じたのは3歳のとき。両親には神経性の病気と疑われて

私には今でも、覚えている風景があります。あれは小学生のとき、大人からもらった男の子が好きそうな電車のおもちゃを、家の裏のドブ川にそっと捨てたときのこと。

雑草に絡まって、濡れて横たわっている真新しい電車を見て、「これでいいんだ」と心から納得している自分がいたのです。私がまだ、「秀夫」だったころのことです。

なぜ違うの?

そう思い始めたのは、3歳か4歳のときだったと思います。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるやしろみゆきさん

八代みゆきさん

そのころから私は、女性が好むような美しいもの、華やかなものが好きで、きれいなもの、夢のようなものに囲まれた生活に憧れていました。自然と、遊び相手も女の子ばかり。男の子と遊ぼうとすると、身構えてしまって、苦しかったのです。

そんな私を見て、育ての両親が「神経性の病気ではないか」と疑った時期もありました。「なまけ病」だと言われ、病院に連れて行かれたこともありました。私はただ、「きれいなものがほしい、男の子だとできないこともやってみたい」と思っていただけだったのに。

レズビアンやゲイという言葉は、当時から使われていました。<ふたなり>と言って、男性と女性の両方の器官を持っている性別判定が難しい方もいました。ある時期にどちらかの性を選ぶという事例はありましたが、性自認に基づく性同一性障害という言葉や病名はありませんでした。精神病の一種として扱われたり、覇気がないとか、お転婆で片付けられ、時期がくれば平常な生活に戻れるはずだと考えられていたのです。

だから私も、「周囲にわかってもらえるはずがない」と思い、誰にも言わずに黙っていました。

【写真】インタビューに答えるやしろみゆきさん

音楽の世界に没頭した戦後。そしてパートナー・安子さんとの出会い

母は教育に厳しい人で、期待の大きさと、それにこたえられないもどかしさに悩まされることの多い日々でした。そんな私を救ったのは、音楽。家の近くの教会でパイプオルガンの演奏を聴くと、悩みを忘れることができました。

言語も性別も関係ない、無理やり男性らしい男性を演じる必要もない、居心地の良い場所。それが音楽の世界です。私が音楽を仕事に選んだのは、必然だったのかもしれません。

【写真】微笑んでインタビューに答えるやしろみゆきさん

ほんの少しの才能はあったのでしょう、試験に見事合格し、1944(昭和19)年、東京音楽学校に入学。チェリストとしての道を歩みはじめました。しかし、時代は戦争まっただなか。音楽学校に進んだ私は「非国民」と言われることもありました。「この非常時に、なんでそんなところ入るの」と、誰も合格を喜んではくれませんでした。

ひとたび戦争が終わったあとは、アメリカ海兵隊のダンスパーティに呼び出され、夜通し演奏をしたことも。そして50〜60年代は在日米軍向けラジオ放送をするFENでオーケストラを指揮し、生放送を行う日々。皆、音楽を求めていたのでしょう、私も夢中で音楽漬けの日々を送りました。

「住もうか」から始まった結婚生活。カミングアウトは退職後に

そんななか、よく仕事のスタジオで一緒になる女性がいました。ピアニストとして私と同じように各地を飛び回っていた、安子でした。

これまでの人生を語るみゆきさんを、そっと見つめる安子さん

一緒に住もうか。

同志のような感覚で結婚を決めたのは、たしか私は33歳、安子は26歳のときでしょうか。

スタジオでもよく一緒になったり、とにかくあちこちで仕事を同じくする機会が多くなっていたので、お互いに便利だったんですよ。結婚した後も、私は演奏のため長く海外に行っていましたし、安子も各地で音楽活動をする日々。たまに家で会っても二人の会話は音楽のことばかり。私も自分の性への違和感のことは黙っていました。

1974年、47歳のときに大学に教授として招かれることとなり、本格的に帰国。日本の複数の大学で教鞭を取り、学部長も勤めました。

こうした社会的な活動をしている間はずっと、男性としての役割を果たし続けていましたよ。当時はとくに、それなりの格好をしてそれなりのことをしないと、世間とうまくいかないでしょう?いろいろな人の期待も、感じていましたから。

安子に私の中の「男性として生きていることへの違和感」をはっきりと伝えたのも、定年となり大学教授の職を退官してからのことです。男である自分に見切りをつけたかった、という気持ちもありました。でも、安子は薄々、男と女のあいだの「グレーゾーン」と私に対して感じていたはずです。戸惑いは見せたけれど、深刻な感じではありませんでした。

今、安子に当時のことを聞いても「あまり聞いていなかったし、もう忘れちゃった。面倒臭いじゃない」と笑うだけです。

徐々に衣服を変えていったのも、定年をすぎてから。プライベートのものとして、女性の服を揃えるようになりました。小学校の同級生は、「八代を女性にする会」という集いを結成してくれました。性同一性障害の説明を簡単にしたこともあり、わかろうと努めてくださったようですが、今の社会では実感が持てないというのが、まだまだ一般的でしょう。

【写真】旅行の時のやしろみゆきさんとやすこさんの写真

「法整備を待っただけのこと」。78歳の性適合手術はタイで

性適合手術を受けたのは、78歳のときです。

なぜ78歳で、というのは、日本の法が整ったのがたまたまこの時だったということです。私は法律が通らないのに無理をするのは嫌な性格で。つまり、3歳のときから78歳になるまで待っただけ。そこには感激も後悔もありません。ただし、法律は通っても、実態はまだまだ追いついていなかったため、タイでの手術を決めました。

「一緒に付いていく」といったのは安子でした。でも普段の旅行と変わらず、リラックスして楽しんで、手術後は仕事があるからとさっさと帰っていきましたよ。タイでは病院の医師も経験豊富で、スタッフもしっかりしていて安心だったので、思い詰めるようなところはなく、「観光に来たの?」と言われていたほどです。

男性から女性に変わったことの違和感は、ほとんどありませんでした。トイレの違いや、洋服の合わせの違いとか、習慣的なことへの違和感は多少、ありましたが、すぐに慣れました。

【写真】笑顔でインタビューに答えるやしろみゆきさん

帰国後、戸籍での名前を「八代みゆき」と変えました。

名前の変更に関する書類を家庭裁判所でもらったときは、解放されたような気持ちがしました。ただ、法律の規定で性別変更は独身でないとできません。仕方なく安子とはいったん離婚して、私の性別を女に変えました。その後、戸籍上は親子となり、養子縁組をしました。だから安子とは、戸籍上は親子です。

夫・秀夫と妻・安子の関係から、母・みゆき、子・安子へ。でも、二人とも深刻に考えるようなことはありません。だって人生なんて、思うようになるわけじゃないですから。

人間は千差万別。その思いは、介護も同じ

性適合手術をして、戸籍も変えて。その後の周囲の反応は、おかしかったですね。男性はだいたい、女性になった私とどう付き合っていいのかわからない様子で混乱して、いきなりレディーファーストをしてみたり(笑)。やはり男性は、女性を自分とは違う存在と感じているのか、戸惑っている様子でした。

【写真】台所でコーヒーを入れているやしろみゆきさん

私自身は女性と一緒にいると安心感のほうが強いので、女性を特別に捉えたことはなく、むしろ男女を超えて「人間は千差万別である」ということに悩まされています。多様なんですよね。

だから、たとえ同じ悩みを抱えていたとしても、他の方に具体的にこうしたらいい、とは言えないと思っています。それぞれに、周りの環境があり、摩擦があると思うんです。そのときに社会がどう変わっているかというのも関わります。私は現在、安子が抱えているアルツハイマー型認知症という病気にも、性同一性障害にも同じように対処しています。

子どものころからいろいろな家事をこなしてきましたが、この10年は安子の介護で一日がすぎます。女性同士なのでなんの抵抗もありません。もしかしたら、トランスジェンダーのメリットは介護だったかもしれない。そんな風に思うほどです。

運命は向こうからやってくる。私はそれを受け止め、向かっていくだけ

【写真】花壇の前で遠くを見つめるやしろみゆきさん

私自身のこれから?これからといっても、92歳ですから(笑)。

自分が生きてきた証として、こうして取材をお受けしたり、ドキュメンタリー映画への出演も決めました。映画は密着の撮影をされていて、もうすぐ公開予定です。

とにかく今を大事に、この人(安子さん)のお世話なんかをしながら生きていく、ということ。それだけです。病院に入ったとしてもどこに行っても、今のこの生活はできなくなってしまう。今はつかの間かもしれないから、続けられる限り、日々を続けていく。それでいいのかな、と思っています。

私の人生は、いつも運命が、あちらからやってくるという感覚。

明日何が起こるかもわからないなら、自分に与えられた運命の中で、それに向かっていければいい。

これが私のモットーであり、これからもそうやって生きていくつもりです。

【写真】笑顔でソファに座っているやしろみゆきさん

関連情報:
八代みゆきさん出演映画『ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき 〜空と木の実の9年間〜』 ホームぺージ

(写真/馬場加奈子、協力/田中みずほ)