【写真】街頭で笑顔をみせるすずきしんぺいさん

はじめまして。鈴木信平と申します。

約40年前、一般的に言うところの、五体満足な男の子として生まれました。

今に至るまでにいろいろなことがありましたが、一番大きな出来事は36才で男性器を摘出したことだと思います。

その決断に至るまでの出来事や考えたことを、『男であれず、女になれない』というタイトルで一冊にまとめて、2017年に出版しました。今は、電子書籍に関わる企業で会社員をしながら、8年一緒に暮らしても一切触らせてくれない猫と同居しています。

猫の名前は、楽(がく)と言います。保護団体を経由して出逢いました。仕事を含め私が家にいないことは多く、決して広いとは言えない一人用の住まいへ家猫として迎えることを考え、それでも精一杯楽しく生きて欲しいと願いを込めてつけた名前です。

詳しい事情は分かりませんが、私の元へ来た時から楽には左目がありません。そして、私とは何と勝手なのでしょうね。片目のない猫を迎えるにあたり、「おとなしいだろう」と思い込んでいました。

私が帰って来ればすり寄って喉を鳴らし、寝る時には布団の中に潜り込んでくるだろうと、もしかしたら抱いて散歩に行けるかもしれないなんてことまで決め込んでいたのです。理由は、片目がないからでした。

結果は、冒頭に書いた通りです。楽なりのこだわりを発揮し続けて「ニャー」よりも「シャー」が得意な子として元気に暮らし、私たちは肌と肌の触れ合いを持たないままに9年目の同居生活へと突入しています。私は、楽からたくさんのことを学ばせてもらいながら、今日もせっせとトイレやご飯の支度を続けています。楽にとっての最良のパートナーでありたいと願いながら。

少し前置きが長くなりました。

今日は機会をいただいて、私についての話をさせていただこうと思います。誰の代表でもなく、誰の代弁者でもない。ただの一人の、たった一つの、誰かの参考になれるのなら嬉しいけれど、決して誰の答えにもならないだろう話をしようと思います。

自分の性に疑問を持たずに育った幼少期

【写真】笑顔でインタビューをうけるすずきしんぺいさん

子どものころを思い返してみても、正直なところ、特別なことはありませんでした。姉、兄に続く三人兄弟の次男坊として、大きな疑問を抱えることなく、多くの人と同じように、何となく成長してきたのだと思います。

私が保育園に通っていた35年も前は、卒園アルバムにのる集合写真は男女構わず全員が上半身裸というような時代です。就学前の私に、男女の何たるかを意識するような機会はありませんでした。

それでも両親には何か思い当たる節があったのか?2才年上の兄には決してしなかったにもかかわらず、なぜだか私だけ七五三で姉の着物を着せられ、その写真が今でも実家のアルバムに残っています。まさか深い意味などなかったのでしょうが、あの日の悪戯はこうして今に続いていると、今では家族の笑い話の一つとなっています。

小学生になっても、私は自分に対して何の疑問も持ちませんでした。ランドセルが黒であることにも、水着が下半身しか隠してくれないことにも抵抗はありませんでした。ただ、サッカーや野球などの運動にはあまり興味がなく、どちらかと言えば家の中で過ごしていることが好きな「運動は好きじゃない男の子」として育っていたと思います。

中学生の年頃になれば、迷いもなく学ランを着て登校し、部活動は手抜きではあったものの軟式テニス部で半ズボンを履き、女子のスコートに対する憧れもありませんでした。中学を卒業するまで私は、性に何の迷いもない日々を過ごしていたのだと思います。

男子クラスには居場所を見つけることができなかった

高校二年生の時です。何の迷いか理系に進路をとった私は、共学の高校であるにもかかわらず男子クラスに振り分けられました。理系には男子が圧倒的に多いという事情を背景に、男子高校生40人の中に、その一員として席を置くことになったのです。

【写真】インタビューをうけるすずきしんぺいさん

振り返って、その時でした。余りに言い訳のできない場所に居場所を与えられたことによって、私は初めて気付くことになったのです。

あれ?ここに自分がいるのは、何かが違うんじゃない?

この気付きが、今の私になるための最初の一歩になりました。

それでも、この時にはまだ、これが自分のセクシュアリティに起因していることだとは分かっていませんでした。あくまで環境が自分には合わないだけであって、自分に対して向き合うべき事情があるなどとは、一切思えていなかったのです。

それでも、明確に違和感を覚えた後の私には、学校生活の中に当たり前にある多くのことが途端に難しくなりました。

学校行事ごとに巻き起こる男子特有の「気合と根性」のような雰囲気も、力仕事になればクラス全員が駆り出されることも、聞こえてくる声がすべて男性の低いものであることも、多くのクラスメイトの一人称が「俺」であることも。

そして最後には、特別に何かが起こらなくても、この場所に自分がいなくてはならないことさえ、私には難しくなっていきました。「俺たちは男だ!」と共通認識を持たれている空間にいること自体が、私のアレルギー反応を引き起こしていったのです。

男子クラスの雰囲気が、私には合わない。

そう思い至った時から、私からは少しずつ発言が減り、笑顔が消え、学校に行きたがらなくなり、ついには家に引きこもるようになりました。

手紙を通して、両親との意思の疎通をはかっていく

高校に行きたがらなくなった私に対して、両親は対話を求めていました。

何があったの?

と聞かれても、何も答えられない日がありました。少しずつ言葉になるかと思えば、今だからこそ分かる話ですが、本質からは遠くかけ離れた話をすることがありました。嫌いな人など一人もいなかったのに、人間関係がうまくいかないと話したり、すべての原因を教員に向けたりしていました。

そのときの私が見ていたのは、周りの環境であって自分自身ではありませんでした。だから、私が何に苦しんでいるのかを、私は一切分かっていなかったのです。

あの場所から離れたい

そんな想いばかりが、私の中にありました。

【写真】笑顔でインタビューをうけるすずきしんぺいさん

私が苦しんでいる原因を知るために対話を求める両親と、自分をうまく話せない私の間で、とても有効に働いたのは手紙でした。

想いを言葉にしようと、自分を整理しながら手紙を書くという作業は、闇雲に苦しさに翻弄されそうになっていた私を、それなりに冷静にしてくれていたように思います。

私が書いた手紙に親が反応して、その反応に対して私が手紙を書く。その繰り返しによって、本当に少しずつですが、意思の疎通を図っていく時間が続きました。

結果、私は高校を中退しました。

後に聞いた話ですが、両親は「今はとにかく現状から逃がすことが最優先」と判断したとのことです。

「私は何者なんだろう?」失恋と一緒に失ったのは、私自身

1年の浪人期間を経て、実家からは離れた場所の大学に進学した私は、高校中退に続いてまたしても予想外の事態に遭遇しました。

好きな人ができたのです。相手は、同級生の男子でした。

それは、誤魔化しようのない恋心でした。周囲から見ても明らかだったようですが、周りの誰に対してということよりも、私自身に対して隠しようのない想いでした。

ただ一緒にいたいと思いました。誰よりも多くこの人の笑顔を見たいと思いました。彼が何かに困ったのなら、私を投じて解決したいと思いました。私の生まれた意味が、この人が生きていくことにあればいいとさえ思いました。

そして、こんなに私が愛した人は、女性を愛する男性でした。程なくして彼に大切な女性が出来て、私は明確に失恋することとなったのです。

失恋の想いと一緒に私を襲ったのは、「こんな私は、何者だろうか?」というはっきりとした疑問でした。

【写真】インタビューに答えるすずきしんぺいさん

この瞬間までの20年ほど、多少の引っ掛かりはあったものの、男性の枠に入りながら、男性として生きてきたのです。それなのに、彼に対して恋心を抱いたとき、少なくとも私は同性としてではなく、異性として彼を愛しく想いました。この気持ちが否定したくないものであるからこそ、私は何者なのだろう?という疑問を振り払うこともできませんでした。

命より大切だった恋心と、生きてこれから抱えていく性のアイデンティティの両方が同時に崩壊した私は、ここから、高校を中退した時よりもずっとずっと深い人生の谷へと落ちていくことになります。

それから約2年間、私には覚えていることが多くありません。友人や家族と行った旅行の記憶さえ、今の私には事実としての記憶すらないものが点々とアルバムに残っています。世界で一番大切だった人と、世界で一番身近だった自分を、同時に失った直後の話です。

男ではあれず、女にはなれない。それが私の性別。

回復は、少しずつ、少しずつでした。一歩進んで後ろを向いて、二歩進んで三歩逃げるような日を続けていました。その中でも「今なら行けるかもしれない!」と思えたときに、勇気の一歩を踏み出して、私は何者かわからなくなっていた自分を探しました。

時にゲイの集まりに行き、しっくりと来ない感情を抱えて帰宅する。また次の「今だ!」というタイミングを見計らって、今度は方向性を変えてトランスジェンダーの集まりに顔を出してみて、そこでも何かしらの違和感を覚えて帰途につく。

そんな繰り返しは、10年近く続きました。そして、30才を迎えてふとした時に、ようやくストンと何かが落ちて私は決めたのです。

もう、私は私でいいや。

幸せなことに、友人に恵まれていました。友人の前だから何を隠すということもなく、私のセクシュアリティよりも私自身が前にある関係として、友人との付き合いがありました。そのほとんどは、少なくとも私の知る限りでは、セクシュアリティに事情を抱えていない人たちでした。

これからは、私が何者なのかは、私が自分で決めよう!男ではあれず、女にもなれない。私の性別は、それでいい。

友人たちが支えになって、こんな思いを確かにしていきました。

【写真】笑顔でインタビューをうけるすずきしんぺいさん

私の人生を生きるための決断として、男性器を摘出する

2015年3月9日

私がオペを受けた街には雨が降っていて、少し寒い一日だったことを覚えています。

私は、誰にも相談することなく、ただ私の意志だけを頼りにして、自分で決めて、自分の足で手術台にのぼりました。

私が求めたのは、男性器の摘出だけです。豊胸も造膣も望みませんでした。

女性化することなく、男性器だけを摘出する道を選んだ人を、私は一人も知りません。だから、これは私が私になるために選んだ、世間的には選択肢にすらなっていない、私のための道でした。

術後には、事前に想像した最悪の状況を遥かに上回る事態が次々に起こりました。痛みが過去の経験や未知への想像を易々と越える規模で襲い、傷口へのセルフケアは私も医療従事者ではないかと錯覚を起こさせるほどのレベルで必要とされました。更に、仕上がりの不具合から行われた再手術後には、あわや失血死かと思われるほどの出血に見舞われ、生まれて初めて自分で救急車を呼ぶことにもなりました。

すべては、一つ残らず順調には進まず、何一つ簡単には終わりませんでした。

【写真】街頭で真剣な表情でカメラをみつめるすずきしんぺいさん

けれども、私はとても満足していたのです。「私が何者なのかを私が決めよう」と思った道からは、何も外れていませんでしたから。

こうして私は今に至ります。手術をしたことも、本を出したことも、友人のみならず勤務先の誰もが知っています。私が私として生きていく以上、知っていて欲しいと思うことだからこそ、名前もすべて本名のままです。

術前と術後の心境に大きな変化はなく、私は相変わらず私のままだけれど、オペをしたことをどう捉えているかと言えば、間違いなく「良かった」と思っています。

もちろん、男であれず女になれない人生を生きるために、必ずしも体を変える必要はありません。私も、ずっとそう思いながら生きてきました。それなのにどうして体を変える必要があったのか?

簡単です。心だけでは、私は意志を貫けませんでした。男性の体を持ち合わせている自分を、「男であれず」と言い続けることができなかった。私の言葉に対して、目に見える形で説得力が欲しかったのです。

私は、心だけで生きているわけではなく、体だけに支配されているわけでもない。だから、私なりの体に変えるという工程が、どうしても必要だった。それだけのことです。

私は、私の決断をもって今を生きています。

与えられたままに、何も選べずにいるわけではないと、私の人生は私の手の中にあると、胸を張って誇らしく言えることこそが、私が一番欲しかったものなのかもしれません。

あなたにとって一番大切なことは、あなた自身を大切にすること

【写真】住宅街を歩くすずきすんぺいさん

気付いたら、40才を迎えていました。すごく長かったようで、あっという間だったような、掴み切れない時間を積み重ねて今に至りました。

今、改めて自分のことを考えたとき、ある程度は決着がついたのかなと思っています。

もちろん、これからもいろいろな場面でたくさんのことを思い、考えるのでしょう。一人で泣くときも、眠れない夜を過ごすこともあるのだと思います。それでも、きっと私はどうにか自分なりの方法で乗り越えたり、気付かなかったふりをしたりしながらやり過ごすのだと思います。だからもう、自分に対しての大きな心配はしていません。世の中にいる多くの40才がそうであるように、これからは私も、次の世代のことを考えたいと思っています。

だから、子どもを育てない私にも、子どもたちや若者たちに向けて言わせてください。

あなたのことは、あなたが決めていい。

子どもを育てている人が大多数の年頃になった私は、すべての子どもたち、若者たちに対して、そう思っています。

大きなことで言えば、生き方でしょう。

私が当事者であるセクシュアリティの話で言えば、体を変えること、性別を変えること、名前を変えることといった、親からもらったものに対して自分の意志を反映させること。それに、結婚や孫といった、未来への期待に対する幾多のこと。

これらの事情に向き合う時、多くの人は優しさから、家族を傷つけたくないと思い、それゆえに罪の意識を抱えて、自分さえ我慢すればいいと思いながら過ごしてしまうかもしれません。もちろん、その優しさ自体はとても愛おしいものだけれど、それでも、決して忘れてはいけないことが一つだけあると、私は思っています。

あなたに与えられた一番大切な役割は、「あなた自身を大切にすること」です。

欲しいものを欲しいと願って、いらないものはいらないと拒絶して、変えたいことを変えて、自分を幸せにしていくこと。それは、誰にも奪われず、誰からも守られ大切にされるべき、あなたの選択肢です。

望んだものにならない人生を生きることを、許してあげたい

少し熱くなってしまいましたね。これも、私が心の底から親になりたかったと思っているからだと、許してもらえたら嬉しいです。

その上で、最後に私が何を大切にして、どのように日々を生きているかをお伝えして、今回のお話を終わりたいと思います。

私が大切にしている1つ目は、先に書いたように、とにかく「私に関する決定権は私にある」と思い続けることです。それは大きな決断だけではなくて、日常にも同じことを思っています。

誰かから嫌な質問をされることがあれば、「秘密だよ」「教えない」と答えます。健康診断などの更衣室のように、求めているものが得られない場合には、「事情があるのですが、個室はありませんか?」などと聞くようにしています。こういう時に「事情」という言葉は、とても便利でオススメです。

【写真】住宅街をスーツ姿で立つすずきしんぺいさん

もしも「男であれず、女になれない」人生を選んでいなかったら、今頃はスーツを着ていたかもしれない。「これは、選ばなかった私です」。そう話しながら信平さんは着替えてくれました。

ちなみに私は、その日のファッションによって使うトイレを変えることがあります。

個人的には、いつでも着たい洋服を着ているだけなのですが、その姿によって社会では線引きが行われることを把握したうえで、パンツの時なら男性用かなと思うし、スカートの時なら女性用かもと思います。メイクの仕上がり具合いによっても、どちらが無難だろうか?と考えています。

この使い分けを「気分」と言い切ってしまうには語弊があるかもしれませんが、本音で言ってトイレなど、用さえ足せればどちらでも良いのです。ただ、社会が求めていることがあるから、出来る限りは穏便に対応しようと考えたうえで使い分けをしています。

大切にしている2つ目は、自分を許してあげることを心がけることです。だって、毎日頑張っているんですもの。

【写真】すずきしんぺいさんのスーツ姿。丸の模様が入ったネクタイをつけている。

ちなみに今、私が自分に許してあげている大きなことは2つです。

1つは、私は子どもが欲しかったから、それを願いとして持ち続け、それが叶わないことを悲しみ、時には自分の人生をみじめに思うことです。

何を勝手なことをと思うかもしれません。そんなことは全部分かった上で選んだ道でしょうと笑われるかもしれません。でもね、すべては私が選んだことではあるけれど、決して私が望んだことではないんです。

きっと誰もが想像できるはずです。人は、自分でも望んでいない決断をしなくてはならない時がある。子どもを持てない体になるということは、私にとってのそういうことです。悲しみ尽くすまで、その悲しみの感情を大切にしてあげたいと思っています。

もう1つは、「次は自分には生まれたくない」と思いながら生きることです。

今の自分を肯定するほどに、なぜだか人は来世までを背負おうとするでしょう?

「もう一度生まれたとしても、また自分に生まれたい」という言葉を耳にすることも少なくありません。もちろん、それもすごく素敵な考え方だとは思うけれど、少なくとも私に限って言えば、そう言いたくない自分を許してあげたいのです。

今の自分を認めていないということではなく、親が自分の子どもを同じ職業には就かせたくないと言う気持ちと似たようなものとして、次は私が引き受けてきた苦労のない人生を生きてみたいと思い続けています。私には手に入らなかった多くのものを、もしも生まれ変わることが出来るのなら、次の人生では味わってみたいです。

【写真】満開の桜の花の前で笑顔をみせるすずきしんぺいさん

「性を持つこと」と「親になること」は、「私を生きること」の次に大切な、私が手放した宝物です。

どちらも、考えても仕方のないことで、もう私の手の中にはないものです。思い続けるにはネガティブな感情が付きまといます。それでも、私が人生にこの思いを手放さずにいることを、私は私に許してあげたい。望んだものにならない人生を生きることを、許してあげたいと思っています。

私は、笑って生きていく

すべては、あくまで私の人生の話です。冒頭に記したように、誰の代表でもなく、誰の代弁者でもない。ただの一人の、たった一つの、誰かの参考になれるのなら嬉しいけれど、決して誰の答えにもならないだろう話です。

分からないことが多いかもしれません。理解からは程遠く、反感の気持ちを持つ内容もあるかもしれません。

それでも、誰がどんな想いを持ったとしても、私は諦めることができません。なぜって、求めているのは私なのです。私が理解を求めているから、分かって欲しいと思っているから、愛されたいと思っているから、相手よりも先に私が諦めるわけにはいかないのです。

これからも、辛抱強く、私は私を続けていくことでしょう。

ちなみにね、こういう私だって、ずっと自分を好きでいられるわけではないんですよ。何かと落ち込んで、時には自分が嫌になります。

けれども、そんなときに私を支えてくれるのは、私にとって大切な人たちです。私が私を好きになれないときにも、私の大好きな人たちが私を愛してくれるから、私は何とか笑っていられます。同時に、私の愛しい人たちが大切に想ってくれる私を、私が心の底から嫌うわけにはいかないと思っています。

自分に自信がないときこそ、私は自分以外を信じています。自分を信じられないときは、私が私として出会って、求めあって、一緒に育んできた人たちの想いを大切にすればいい。

もしかしたら、死ぬまでずっと同じことに涙を流しているかもしれないけれど、そんな私も可愛らしいと思ってもらえるように、これからも生きていければいいなと思っています。

今の想いも、いつか変わるかもしれません。でも、それでいいんです。

何があっても、いつになっても、私のことは私が決めていいし、不安になったら大切な人たちを頼ればいい。

誰のものでもない。私のためにある、私の人生です。それは同じように、誰一人として、私のためにいる人はいないということでもあります。一緒に暮らす猫の楽だって、私のためではなく、楽のために生きているのです。

もしもこれを孤独だとするのなら、それは人が想い合い、繋がるために与えられたギフトとしての孤独だと、私は思っていたいです。

【写真】街頭で笑顔で立つすずきしんぺいさん

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(写真/馬場加奈子)