【写真】傘をさして笑顔で立っているたなかれいかさん

あなたは、どんな夢を描いてきましたか?

まだ小さな子どもの頃、学生の頃、そして社会に出てからも。きっとそれぞれに思い描く理想の自分がいたことでしょう。

もしなりたい自分があったとしても、生活することでいっぱいいっぱいだったとしたら。夢を追うことと、生活することの両立に苦労したり、夢を諦めてしまうこともあるかもしれません。

私はかつて両親のサポートを受けながら、大学に通い、夢を追いかけていました。それでも掲げた夢のなかには、手放してしまったものもあります。

でも、もし両親のサポートがなく、生活を全て自分で賄わなければいけないという環境にいたとしたら、私は早々にすべてを放り出してしまっていたかもしれません。

今回は、夢を叶えるための環境がなかなか整わないなか、それでも一歩を大きく踏み出し、歩み始めた女性に会いに行ってきました。

児童養護施設での育ちをポジティブに伝えたい。モデル、講演など活躍の場を広げる田中麗華さん

【写真】笑顔でインタビューに答えるたなかれいかさん

田中麗華さんは、現在会社員として仕事をしながら、フリーランスでモデルやコメンテーターとして活躍しています。

生き生きと働き、様々なことに挑戦する田中さん。今は、“なりたい自分”になるために毎日を楽しく、前向きに生きています。

そんな田中さんは、家庭の事情で小学2年生から高校卒業までの10年間、児童養護施設で育ちました。

田中さんが疑問に感じているのは、時折ニュースやテレビで伝えられる児童養護施設の情報がネガティブな側面ばかりなこと。

確かに学生のときは、まわりにいる親と暮らし、お金や生活の心配をしなくていい同級生と自分を比べて「なぜ自分だけがこんな思いをしなければいけないのだろう」と思ったこともありました。

でも今はそんな状況を変えるため、「児童養護施設での育ちをポジティブに伝えたい」という思いで、昨年4月から積極的に講演活動を始めました。

児童養護施設での10年間、そして施設を退所してからの困難、そしてそれを乗り越え、「どんな人でもなりたい自分になれる」という考えに至るまでの、田中さんのストーリーをお聞きしました。

両親の離婚で児童養護施設へ。そこは、賑やかで明るい空気が流れる場所

【写真】質問に丁寧に答えるたなかれいかさん

田中さん:子ども時代のことは、ほとんど記憶にありません。母によると、幼稚園くらいのときはものすごく活発な子どもだったようです。姉や友達と走り回って元気に遊んでいたみたいですね。

田中さんが小学1年生の頃、お父さんからの暴力が原因でお母さんが家を出てしまいます。その後お姉さんとともに警察に保護され、田中さんは小学2年生になる前の春休みから児童養護施設で暮らすことになりました。

子ども時代の記憶はほとんどないのに、児童養護施設を初めて訪れた日のことは鮮明なのだといいます。

田中さん:リビングのような場所の長机でたくさんの子どもたちが勉強していました。学校でも家でもないその場所を初めて見た私は、どう思ったんだろう…覚えていないのですが、きっと不安だったんじゃないかな。その日、私が眠りに落ちるまで職員さんがそばにいてくれたのは、きっと私が不安そうにしていたからじゃないかと思います。

その後どんなふうに生活に馴染んでいったのかは、あまり記憶にありません。でも、いつのまにか施設での生活は、“あたりまえの日常”へと変わっていきました。

そこで、一緒に暮らしていた子どもたちは、常時50人ほど。兄弟と友達のあいだのような関係で、施設はいつも賑やかで明るい空気が流れていました。

田中さん:まだ子どもだったので「助け合う」ことができていたかは分かりませんが、お互いを意識しあって、気にしあって生活していました。誰かが怒られたらしーんとなるし、誰かが笑っていたらみんな笑う。そんな毎日でした。

職員もみんな親切で、子どもたちに寄り添おうとしてくれる方ばかり。でも、なかには、短い期間で辞めてしまう職員もいました。

最初の頃は、仲良くなった職員が辞めてしまうことを残念に思っていた田中さんですが、施設での暮らしが長くなると、「仕方ないな」という諦めのような気持ちが生まれます。

田中さん:今思うと…というわけではなくて、当時から「私たち子どもと向き合うのは大変なんだろうな」とか「あの先生体調悪そうだったからな」など、大人びた視点で先生方を見ているところもありました。今改めて、試し行動があったり、たくさんいる子どもたちへ平等に接したりするというのは、本当に大変な仕事だなと思います。

賑やかな児童養護施設の暮らしに不満だったことはない、と振り返る田中さんですが、ひとつだけ、これがあればもっと良かったのにと思うことがあります。それは、「一人の大人にじっくりと話を聞いてもらう」ことです。

何十人もの子どもたちが暮らす児童養護施設では、1対1で大人と向き合う機会は多くありませんでした。家庭では当たり前のように持つことができるそんな時間を短くても児童養護施設の子どもたちが持つことができれば、と田中さんは話します。

週1回のピアノのレッスンは、大人が1対1で向き合ってくれる貴重な時間

【写真】笑顔でインタビューに答えるたなかれいかさん
田中さんが通っていた小学校、中学校は児童養護施設がある地域の学校です。同級生はもちろん、その保護者も施設のことを知っていたので、自分からそこで暮らしていることを誰かに説明する必要はありませんでした。

田中さん:児童養護施設での暮らしについて、友達に何か嫌なことを言われたり、後ろめたい思いをしたことはありません。児童養護施設という場所にネガティブなイメージを持つ前の小学校低学年のうちに出会っているからなのかな。まわりの友人たちはごく自然に私を受け入れてくれていました。

小学校時代の楽しかった思い出は、夏休みの旅行です。児童養護施設で暮らす数十人みんなで、長野県の白馬村へ。登山をしたり、カヌーに乗ったり…。夏休み以外にも年始には餅つき大会があったり、地域のお祭りに参加したり、と施設には行事がたくさんありました。

“非日常”を感じられるイベントごとは、子ども心にわくわくして本当に楽しかった、と田中さんは当時を振り返ります。

田中さんにとっての楽しみはもうひとつ。お母さんとの月に一度の面会です。家を出てしまったお母さんですが、施設には面会に来てくれていました。月に一度、お母さんとお姉さん、そして田中さんの3人でのお出かけは、楽しいからこそ、夕方とお別れの時間には泣いてしまったこともありました。

お母さんとはすぐに会えるようになりましたが、お父さんに会えるようになったのはしばらく経ってからのことだったそうです。

施設で暮らし始めた小学校時代の田中さんには、小さな夢がありました。それは、ピアノのレッスンを受けること。

施設には週に1回、ピアノの先生がボランティアでプライベートレッスンをしに来ていました。田中さんは、レッスンを受けていた先輩たちがクリスマス会などの行事で上手にピアノを弾く姿を見て、憧れたのだといいます。

でも、レッスン時間には限りがあります。「今は定員がいっぱいだから、空きが出たらね」と言われてしまいましたが、諦めることができませんでした。

ようやく、ピアノのレッスンが受けられることになったのは小学5年生のときです。

田中さん:習えることが決まったときは本当に嬉しかったですね。やり始めて分かったことですが、週に1回数十分という時間でも、大人が1対1で向き合ってくれる時間というものが、私にとってはとても貴重でした。ピアノの先生とは、今も連絡を取り合っているんです。

18歳で児童養護施設を退所するときには、ショパンのワルツが弾けるほどに上達しました。

学校に行けないこともあった中学校生活。助けてくれたのは、施設や学校の先生、そして友達

【写真】インタビューに答えるたなかれいかさん

進学した中学校ではバレーボール部に所属。1年生からレギュラーになり、合唱コンクールではピアノの伴奏に挑戦…と充実した学校生活を送る反面、小さなつまづきも経験しました。

小学校にはなかった先輩・後輩という関係ができ、クラス以外にも部活や委員会など所属するグループも増える中学校時代。それに加えて、友人関係や恋愛など、人間関係の悩みが多くなる時期でもあります。

田中さん:とある同級生の女の子から「○○君に色目使っているんじゃない?」と言われたり、同じバレーボール部の友達からは「もう一緒に帰らない」と宣言されたり…いろいろなことが重なって、でも、その人間関係のストレスを発散する場もなくて、しばらく学校を休みました。

毎日朝になると「今日は学校へ行こう」と制服には着替えますが、体調が悪くなってしまい、どうしても学校に行くことができません。

そのあいだ、児童養護施設の職員は学校に行かないことを責めることも、学校に行くことを強く勧めることもせず、「行けるようになったら、行きなね」と良い距離感で寄り添ってくれました。

習っていたピアノも、この時期には投げやりに。「もうピアノも辞めたい」とレッスンを拒否したこともありました。でも、先生はそれに嫌な顔することなく、定期的に児童養護施設を訪問して、レッスンを続けてくれたのです。

田中さん:そのときにはこんなふうには思えませんでしたが、今振り返るとそんな小さな継続的な関わりが私にとって、とても大きかったんだなと感じます。だからこそ、誰かを信頼する気持ちが失われなかったんだと思うんです。

学校を休んだ期間は1ヵ月ほど。バレーボール部の友達が毎朝迎えに来てくれたことで、制服を着てもどうしても踏み出せなかった一歩を踏み出すことができました。

【写真】笑顔でインタビューに答えるたなかれいかさん

まずは、保健室へ登校するところからはじめ、そして徐々に教室にも入れるように。毎日迎えに来てくれた友達、寄り添ってくれた児童養護施設の職員やピアノの先生、保健室の先生、そして特別扱いせずに自然に教室で迎えてくれた担任の先生。まわりの人のおかげで、当たり前の学校生活を取り戻すことができました。

田中さん:友達や先生方には本当に感謝しています。こうやって振り返ると自分がいかに人に支えてもらっていたかが分かりますね。

まわりとの差を感じ始めた高校時代。アルバイトでは自分のお金を稼ぐ喜びも実感

【写真】傘をさして微笑んで立っているたなかれいかさん

子どもの頃は、児童養護施設で暮らしているということにネガティブな気持ちはなかったという田中さん。でも高校生になると、気持ちに少し変化が生まれました。

周りの同級生が田中さんの児童養護施設での暮らしを当たり前のように知っていて、自分からそれを言う必要がなかった小・中学生時代。でも、高校で出会った同級生たちは、田中さんのことを全く知らない人たちです。

田中さん:それでも、あえてみんなに言う必要はないかなと思っていました。児童養護施設で暮らしていると私から伝えたのは、親友と呼べる2人だけです。親友2人は、それを伝えた後も何も変わらず接してくれました。

また、一般的に高校生になると交友関係や活動の場所もぐんと広がります。ですが、児童養護施設に住んでいた田中さんは、経済面や施設の決まりごとなどから自由を制限されると感じることもありました。それまで意識することがなかったまわりとの差を感じ始めたのです。

たとえば、高校生になるとみんなが持ち始める携帯電話。携帯電話は、アルバイトをするまで持てないので、周りに比べると持つのが遅れてしまいました。そのせいで友達の話題についていけない、と感じることも多かったのです。

放課後みんなで行くカラオケにも、児童養護施設の門限や金銭的な事情から行けないこともありました。

田中さん:やっぱり学校で仲良くしている友達と放課後一緒に遊びに行けなかったり、行っても最後までいられなかったりすると、なんで私だけ…という気持ちになりますよね。どうせ最後まで行けないならと誘いを断ったこともありました。

高校入学から少し経った頃、田中さんはアルバイトを始めます。そのおかげで自分でお金を稼げるようになり、念願だった携帯電話も持つことができました。自分の自由に使えるお金を得られることで、気持ちに余裕を持てるようになったのです。

10年過ごした児童養護施設退所の日までに、独り立ちの準備が必要

こうして学校とアルバイトで充実した時間を過ごしていた田中さんにも、やがて進路や将来のことを考えなくてはならない時期がやってきます。

高校3年生は、進学するのか、働くのか、自分の進路を考える時期。それに加え、児童養護施設の子どもたちにとっては、退所を前に、独り立ちの準備をしなければいけない期間でもあるのです。

児童養護施設で育った子どもたちは、高校卒業と同時に施設を巣立ちます。その後は、若干18歳にして、自分でお金を稼ぎ、衣食住を整え、生活をしていかなければいけません。

そして困難な状態に陥ったり、トラブルを抱えた場合でも、誰にも相談することができずに、問題がさらに大きくなってしまうケースも多いと言われています。児童養護施設をはじめ、里親家庭など社会的養護の元で育った子どもや若者に対する支援が少ないことは、社会が抱える大きな課題です。

児童養護施設で育った子どもたちも進学の選択は可能ですが、自分の力だけで生活をしていくということに変わりはありません。大学や専門学校に通いながら、家賃や光熱費などの生活に関わるお金を稼がなくてはいけないのです。

「子どもに関わる仕事に就きたい」とまずは進学することを決めた田中さん。小学校の先生、ピアノの先生、保育士という選択肢のなかから、最終的には保育士になるための短大を進学先として選びました。

田中さん:音大に行くのはお金がかかるし、小学校の先生になるには4年間大学に通わなければいけません。消去法で残ったのが保育士だったんです。

進学先の学校が決まったのが10月。入学金や授業料、また一人暮らしの初期費用など、入学までにかかる費用は150万円ほど。児童養護施設出身者対象の給付型の奨学金と、貸与型の奨学金を併用してまずはそれを賄えるようにしました。

3月の退所に向け、児童養護施設の職員と進学先の学校が提携している不動産屋をまわりながらアパートを探したり、必要な家電を準備したり。慌ただしく過ごしながら、とうとう施設を退所する日を迎えました。

田中さん:退所は、嬉しいわけでも、悲しいわけでもない。とてもフラットな気持ちでその日を迎えました。10年も児童養護施設に住んでいたので、自分の番がくることは分かっていましたから。

小学校2年生から高校卒業までを暮らした児童養護施設を退所したのは、18歳の春のことでした。

ひとりぼっちだと思っていたけど、振り返るとさまざまな人に支えられていた

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるたなかれいかさん

一人暮らしを始め、短大に通い始めた田中さんが何よりも驚いたのは一人暮らしの「静寂」でした。大勢の子どもたちが暮らす賑やかな児童養護施設に比べて、一人暮らしのアパートはあまりにも静かです。

でも、田中さんにはそんな寂しさに浸る時間はありません。奨学金の受給はあったものの、大学に通いながら生活費は自分で賄う必要があります。勉強に励みながらも家賃や光熱費、通信費などを自力で稼ぐのは、大学生にとって大きな負担です。

田中さん:お金がなくなるのが怖くて、友達からの遊びの誘いはほぼ断っていました。そうするとどんどん友達と話が合わなくなります。私はあの子たちとは違う。環境も違うし、お金の使い方も違う。いつのまにかそう思って自分で壁を作るようになってしまいました。

学校でも一人で行動することが増えたという田中さん。お昼休みも一人でお弁当を食べることが多くなりました。そんな毎日が続くことで「学校に行きたくない。いっそ辞めてしまいたい」という思いが日に日に強くなっていったのです。

「大学を辞めたい」という田中さんをまず最初に励ましたのは、お姉さんでした。

田中さんより数年早く児童養護施設を退所したお姉さんは、田中さんと同じく子どもと関わる仕事を志して、専門学校に入学。ですが、卒業を迎えることなく、さまざまな事情から退学の道を選んだのです。

「お姉ちゃんは退学したことを後悔している」と田中さんは感じました。だからこそ、お姉さんの「ちゃんと卒業した方がいいよ」というアドバイスをすんなり受け取ることができたそうです。

大学を辞めることに大反対した人がもう一人。それがお父さんでした。お父さんは、田中さんにこんなふうに声をかけました。

今大学生のお前がいるのは、施設の先生や高校の先生、大学の先生、それに友達がサポートし続けてくれたから。それを裏切ってはダメだ。

田中さん:それまで、まわりの友達とのあいだに壁を感じ、自分はひとりぼっちだと思っていました。でも、その言葉でこれまで本当にたくさんの人が自分に関わり、支えてくれていたことに改めて気づいたんです。

その後、児童養護施設出身者へのサポートがあることを知り、住宅補助を受けることに。1万円でアパートを借りられるようになると、気持ちにも余裕が生まれました。

半年留年はしましたが、そのあいだも大学の親友がずっと連絡し続けてくれたこともあり、無事に卒業。保育士資格も取得することができました。

田中さんと一緒に児童養護施設を退所した人のなかには、せっかく進学した学校を辞めてしまった人もいます。4年制大学に3年生まで通ったのに、そこから続けられなかった人も…

田中さん:もしかしたら今は、児童養護施設退所時にいろいろなサポートがあることを教えてくれるのかもしれませんが、私たちのときには、それを知らされませんでした。せっかくサポートが存在するのに、それが当事者に届かないのはとても残念なので、広まってほしいですね。

自分の道は自分で切り開く。児童養護施設で育ったことを公表して活動する

【写真】住宅街の道で笑顔で立っているたなかれいかさん

田中さんには、幼い頃からの夢がありました。それがモデルです。きっかけは、ファッション雑誌「ニコラ」に登場する川口春奈さん。彼女に憧れ、彼女のように活躍したいと思ったのです。

大学生になってからは、本格的に事務所や雑誌のオーディションを受け始め、モデルを目指しました。でも、なかなか結果はついてきませんでした。

もし、四年制大学に進学していたら卒業するときは22歳。それまでにモデルとしての基盤ができていなかったら、その時点でモデルは辞めようと期間を区切っての挑戦することに決めました。

田中さん:高校や大学で感じた疎外感と同じなのですが、やっぱりそれをここでも感じてしまうんです。モデルを目指しているほかの子たちは、レッスン費用を親に出してもらっていたりする。それに比べて私は…って。

自分の環境と、周りの人の環境を比べてしまう。そんなもやもやとした気持ちを抱いていたときに出会ったのが「コーチング」でした。

田中さんにコーチングを勧めてくれたのは、お母さん。最初は、乗り気ではありませんでした。でも、自分の中にもやもやと渦巻く気持ちとなんとか対峙したい、そしてモデルになるために何か行動を起こしたい、そして、藁にもすがりたいという想いからコーチングを受けることに決めました。

コーチングとは、コーチとの対話を通して、目指す自分や理想を実現するための状態を引き出すアプローチ方法。さまざまな課題を解決しながら、夢を形にしていきます。

コーチングのセッションは、コーチから促されるまま、過去や現在、そして未来について話すことから始まりました。コーチは、それを真っ白な紙にメモして、そこからさまざまなことを引き出してくれたのだといいます。

田中さん:コーチングを受ける前は、モデルを目指しながらも、きっと夢は叶わないんだろうなと諦めの気持ちを持っていました。でも、そんな気持ちを変えたい。なりたい自分になりたい、という思いもあって、もがいていたのだと思います。

田中さんがコーチングのセッションを受けたのは、半年間ほど。その期間で以前は低かった自己肯定感が高まっていくのを実感しました。

コーチが発した言葉の中で、田中さんが今も忘れられない一言があります。それが「夢は自分事。志は公」という言葉です。

田中さん:モデルになることは夢でした。川口春奈さんのように活躍したいという想いも本当です。でも、モデルになりたいという気持ちの根本には、「夢を諦めている人が立ち上がるきっかけになるような、影響力がある人になりたい」という、誰かのためになることをしたいという気持ちがあることに気付いたんです。

コーチングを受けてから、事務所のオーディションを受けるのはやめました。事務所のオーディションに受かったとしても、それではなりたい自分になれないと分かったから。

自分のマネジメントは自分でする。そして、それまであえて公表はしていなかった児童養護施設出身であることも公表することにしました。

施設で育ったことを公表しているモデルはほとんどいません。だからこそ、当事者として、社会的養護が抱える問題に対しても、声を上げる機会を得られるのではないかと考えたのです。

田中さん:大きなチャレンジとして、ミス・ユニバース2018に挑戦することも決めました。茨城大会に出場すると決めたのは、父が茨城に住んでいたからです。父にその姿を見てほしいと思ったんです。

ミス・ユニバースは、容姿だけではなく、人間性や品格などの内面も重視すると言われている世界的なミスコンテスト。日本代表を決める「ミス・ユニバース・ジャパン」の予選は、毎年各県で行われています。

田中さんは、ミス・ユニバース茨城大会2018で準優勝を果たします。でも、その会場にお父さんの姿はありませんでした。

不器用で繊細。そんなお父さんだからこそ、ミス・ユニバースの会場には来れなかった

【写真】微笑んでインタビューに答えるたなかれいかさん

子どもの頃の田中さんとお父さんとのあいだには溝がありました。児童養護施設で暮らすことになったきっかけは、両親の離婚。その発端は、お父さんの暴力でした。お父さんとしばらく会わない期間が続いたのは、その存在が怖かったから。その後、会う機会を作れるようになっても、思わず敬語で話してしまったりと、距離があったといいます。

田中さんの児童養護施設退所が迫ったある日のこと。ずっと距離があると感じていたお父さんが施設長の元を訪れました。これまでのお礼を言っている姿や「麗華はこれからちゃんとやっていけるのでしょうか?」と何度も確認している姿を見て、お父さんに対する気持ちが少しずつ変わり始めたのです。

田中さん:成人式には「安いもので申し訳ないけど」と言って、振袖を一式買ってくれました。そのときに、父と向き合っていろいろな話をしたんです。

子どもの頃はお父さんときちんと対話することはありませんでした。お父さんについて得られる情報は、誰かのフィルターがかかったもの。でもきちんと対話することで、田中さんのフィルターがだんだんと剥がされていったのでしょう。

田中さん:私から見ると、お父さんは不器用で繊細。だから、ミス・ユニバースの会場にも来られなかったのだと思います。「家族のごたごたがあったのに、そんな華やかな場所には行けない」と言っていました。

お父さんが田中さんの晴れ舞台を見に行かなかったのは、お父さんらしい繊細で真面目な一面がでていたからかもしれません。

目指すのは、誰かの生き方のモデルになること。そして児童養護施設についてポジティブなイメージを発信したい

【写真】笑顔でインタビューに答えるたなかれいかさん

ミス・ユニバース茨城大会で準優勝し、児童養護施設出身者であることを公表した田中さんの元には、児童養護施設での育ちについての講演依頼などが舞い込むようになりました。

公の場でも私的な場でも、多くの人に自分の育ちについて話してきましたが、その反応の多くが「そんなふうに見えないね」というものでした。

その反応から、田中さんは児童養護施設というものにはやはりネガティブなイメージがあるのだと改めて気付きます。ニュースなどで報道されるのは、児童養護施設のある一面だけ。その内容にネガティブなものも多いのは事実です。

「こんなかわいそうなところで育ったんだ」そう思われることで、児童養護施設で暮らしている子どもたちや、児童養護施設出身者の自己肯定感が下がってしまうことを田中さんは危惧しています。

インタビューのなかで、「児童養護施設のネガティブな点はありますか?」という質問に「特にありません」と田中さんは答えました。その反面、ポジティブなところはいつも賑やかなところ、人を気遣う心が育つところ…などぽんぽん飛び出します。

児童養護施設について、ポジティブに発信したいと考えている田中さん。それが、施設で暮らしている子どもたちや、児童養護施設出身者にも良い影響があるのではないかと考えているのです。

田中さん:お洋服を着こなすモデルも素敵だけれど、誰かに「生き方のモデルにしたい」、そんなふうに言われるようになることがこれからの目標です。

誰でも、どんな環境でも理想の自分に近づける

【写真】傘をさして空を笑顔で見上げているたなかれいかさん

児童養護施設で育った人の中には、うまくいかなくて職を転々としたり、生活保護を受けている人もいます。決して良いことだけではすべてを語れないけれど、でもやっぱりポジティブなことを発信していきたい。

それが現在の田中さんが出した答え。田中さんも、親からのサポートや金銭的援助を受けにくかったことで、もしかしたら夢への道は遠回りをしたのかもしれません。でも、それがなければ今の自分にはたどり着けなかったという思いがあるのです。

田中さん:私は今、すごく明るく、楽しく生きています。

目指す自分へ歩み始めた田中さんは清々しい笑顔でそう話します。「なりたい自分」を心に持つことは、人を前向きにするものなのかもしれません。年齢や性別、持っている過去などには関係なく、どんな人にも、それぞれの心のなかに理想の自分の姿がきっとあるはず。

「そんなものはない」今まさに困難のさなかにいる人の中にはそう思う人もいるでしょう。田中さん自身も、一時は生活することだけで精一杯で夢を手放しかけたこともありました。

でもきっとこの先、ふとした瞬間に「ああなりたい」「こうなりたい」と小さな希望の種が生まれることがあるはずです。私は、どんな人もその種を大切に慈しめる社会になることを願ってやみません。

もし、その種から芽生えた若葉が枯れてしまうことがあっても、誰もが絶望することなく、また新しく育てることができると再び前を向けるように。

【写真】笑顔でインタビューに答えるたなかれいかさんとライターのあきさだみほさん

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(写真/川島彩水)