【イラスト】笑顔で抱きしめ合ういもあんさんとTちゃん

こんにちは!三児の子育てをしている手芸が趣味の母親、Imoanです。

子ども達は上から、中学1年生、小学3年生、小学1年生の三姉妹で、一人一人が私にとって大切な娘達です。

長女のTちゃんは先天性の肺の形成異常である「先天性嚢胞状腺腫様肺奇形(CCAM)」と心臓病を併せ持って生まれてきました。初めての子育てで戸惑いや不安も多いですが、現在は親子共々元気に生活しています。

2017年からは、『Imoan Journal 心臓病と肺疾患‐障害がある娘を育てる母のブログ』を開設し、Tちゃんにまつわる出来事を中心に綴っています。

今回は、Tちゃんを出産してから現在に至るまでの道のりや当時の思い、娘達とどのように未来を歩んでいきたいのかなどについてお話します。

妊娠した喜びから一転、赤ちゃんに病気があるとわかった

Tちゃんを妊娠したのは結婚2年目、仕事は中高一貫校で家庭科の講師をしていた29歳の時でした。とても早い時期の流産を2度経験した後でしたから、心音を確認できた時は夫婦で大喜びしました。妊娠初期の経過は順調でした。

ところが妊娠6か月の妊婦検診で赤ちゃんの浮腫みが確認され、その日のうちに大学病院を紹介されて精密超音波検査を受けました。そこで「先天性嚢胞状腺腫様肺奇形(CCAM)」であることがわかりました。

左の肺が嚢胞状の良性腫瘍に病変し、右肺や心臓など他の臓器を圧迫するほど大きく膨らみ、医師からは「生きては生まれてこられないかもしれない。生まれてきてもお腹の外では生きられないかもしれない。予後不良です」と告げられました。

私の一体何が悪かったんだろう…。喜んでいたのがいけなかったのかなぁ。

ぼんやり考えても答えは見つかりませんでした。

この時、ちょうど堕胎手術が可能なギリギリの週数だったため、妊娠を続けるか諦めるか、夫とよく話し合って翌日までに決断するよう迫られました。赤ちゃんが病気だと言われてもお腹の中で元気に動いていたので、私は諦めるなんて考えられませんでした。

翌日私たちは医師から妊娠継続と堕胎手術のメリットとデメリットを聞き、何時間もかけて話し合いました。出た結論は、「たった1日では決められない。」 妊娠継続を決めました。

それから本屋さんで“願いが叶ういいこと日記”というのを見つけて、日記をつけることにし、自分を励ましながら過ごしました。

誰がなんと言おうと、今お腹のなかで生きている命を大切にしたい

妊娠7ヶ月になる頃、お腹が頻繁に張るため切迫早産と診断を受けて入院しました。そして8ヶ月に入るころには、心臓のかたちに異常があることがわかったのです。「両大血管右室起始症」といって、大動脈と肺動脈が両方とも右室から繋がっている心臓の奇形でした。

この心臓と肺の2つの病気を併せ持って生まれることはとてもめずらしいそうで、私たち夫婦もとても動揺しました。

主治医にはさらに「もしかしたら他の病気やダウン症の可能性もあるかもしれない」と告げられ、夫は「今すぐ妊娠を止めさせたい!あの時に諦めていれば良かった!」と悔やみました。

誰が何と言おうと、今生きているこの命を、出来るだけ長くお腹の中で温めておくしかない。

そんな思いで、この状況を乗り越えるため、怒りや愚痴は日記にびっしり綴って吐き出しました。そしてインターネットで病気のお子さん達の成長ブログを見つけては、励みにしていました。

それでもマイナスな気持ちになる時は、好きなことをするのが一番です。手芸の趣味に没頭し、病室のベッドでも横になりながら編み物でベビー服を作ってお守りにしました。入院中に出会った妊婦さんや看護師の皆さん、それから友人や実家の両親が私の話をよく聞いてくれて、応援してくれたことも大変力になりました。

「お母さんも赤ちゃんも頑張ってますよ」応援してくれる医師との出会い

気がかりだったのは夫のことだけでした。

そんな時に主治医の代診で診てくれた先生が、こんな暖かい言葉をかけてくださいました。

お母さんがとてもよく頑張っているから、赤ちゃんも頑張ってますよ!みんなで応援しています。

それがとても嬉しかったので、看護師さんにそのことを話すと、すぐに主治医をその先生に変えてくれました。それが夫が前向きになる転機となりました。

【イラスト】主治医の話を聞いて安心して涙を流すいもあんさん

お腹の中の赤ちゃんに病気や障害が見つかると、膨らんでくる不安を止められない方も多いそうです。夫の不安が解消されるように、先生は身近にいらっしゃるダウン症の親子の様子を話してくれたり、超音波検診の度にお腹の中の赤ちゃんの顔をじっくり見せてくれたり、夫が付き添えない時には顔がよく撮れた超音波写真を沢山持たせてくれたりしました。

印象的だったのはダンボのエピソード。ダンボの耳は、ほかの象よりも大きな耳をしていて、ほかの象のお母さんはダンボの耳を見てびっくりしますが、ダンボのお母さんだけは「なんてかわいいのでしょう」と言って、その大きな耳をおくるみにして大事に育てたという話です。

先生は「生まれてきたわが子を見れば、きっとかわいいと思うことができると思うから、ご主人もきっと大丈夫!」と言って安心させてくださいました。

38週0日、小さなからだで産声を上げた

臨月になり、仕事は復帰できないまま退職をすることに。事情があって転院したのですが、そこでも医師が様々な治療方法の説明をしてくれ、心強くなりました。

そして出産は赤ちゃんにとって一番負担の少ない帝王切開に決まり、あらゆる場合を想定して、産婦人科と小児科、心臓や肺、循環器、外科、様々な分野の先生方の都合がつく日に予定が立てられました。

そして2006年4月、38週0日でTちゃんが生まれました。産んだ瞬間、蚊の泣くようなかすかな声が聞こえ、「生きてる!」と嬉しくなったのを覚えています。

すぐにいろいろな機械に繋がれて、保育器に入ってどこかへ運ばれていったTちゃんは、その日のうちに肺の手術を受けました。

その後一週間、Tちゃんは大人と同じ集中治療室で過ごしました。ずっと薬で眠っていて、沢山の医師や看護師が絶え間なく治療にあたってくれていました。面会時間は一日にたった10分ほど。私はただただ見守り、お祈りするしかありませんでした。

生後7日目、Tちゃんが初めて目を開けました。それはもう可愛かったです!そこからはNICUへ戻り、今度は心臓病の治療が始まりました。

私は先に退院し、毎日病院まで電車で片道90分かけて通いました。できることは、搾乳した母乳を届け、Tちゃんの肌に触れ、写真を撮って夫に報告することだけ。

出生直後から口には呼吸器が入り、抱っこすることも母乳やミルクを飲ませることも出来ませんでしたが、経管栄養といって鼻から胃に入れた細いチューブから、看護師さんが小さな注射器のようなシリンジでミルクや母乳を少しずつ注入してくれていました。

それから三ヶ月近くが過ぎて、ようやく心臓の手術を受けました。生まれた日からことある毎に生存率は〇%というような説明を受けましたが、その度に「きっと大丈夫、この子は運が強いから!」と信じて乗り切りました。

しばらくして、やっと呼吸器を外すことができました。肺を膨らませる機械や酸素吸入のチューブも外れて、待ちに待った抱っこや授乳、沐浴ができるようになりました。

自分の手でわが子の世話をすることがようやく叶い、それはもう嬉しくて嬉しくて、家に連れて帰りたい気持ちが一層大きくなりました。

あとは授乳が上手くいけばいつでも退院できるという状況になりましたが、おしゃぶりはできるのに母乳もミルクも飲んでくれず、面会時に練習する度に泣いて嫌がって顔色が悪くなってモニターが鳴り響き断念する毎日。そのため、自宅で経管栄養を続けられるように訓練を受け、7月の終わりに退院できました。

やっと自宅での一緒の生活。ゆっくり成長していくTちゃん

自宅に赤ちゃんを迎える準備は整っていましたが、Tちゃんを家で育てることに不安はありました。血中の酸素濃度を測るモニターもなく、具合が悪くなった時に顔色を見て判断できるか心配で…。鼻の経管栄養のチューブ交換もとても勇気がいりました。

退院した翌々日にTちゃんが鼻のチューブを引っこ抜いてしまい、泣いてもがくので上手く入れられず、途方に暮れたことがありました。その時は、夫がちょうど仕事から帰宅して容赦なくチューブを入れてくれました。夫がしてくれたのはこの時が最初で最後でしたが、「ファーストチューブ交換は俺がした!」とパパの自慢話です。

経管栄養はその後二歳まで長く続きましたが、私もしまいには娘が立った状態でもスルーッと泣かせずに入れられるようになりました。何事も経験と慣れなのですね。

それからしばらくは入退院を繰り返しましたが、自宅では音楽を聴かせると喜び、色々なおもちゃで遊び、お昼寝を沢山して、ゆっくり成長していきました。

1歳半からは療育医療センターで歩行を促す理学療法を受け、2歳からは週に二日心臓病の保育グループへ通いました。

そして3歳の誕生日を過ぎた頃、心臓の大きな手術を受けました。術前は血中の酸素濃度が健康な人の60~70%だったのが、術後は85%前後にまで上がり、手足の色が明るくなりました。

その後は体調を崩して入院することがなくなりました。

それまではTちゃんは、「ママ」以外の言葉を話しませんでした。眠たい時は頬に手を当て、お腹が空いた時は尖らせた口を人差し指でツンツン、喉が渇いた時は開けた口に人差し指をツンツン。欲しいものが目の前にある時は鼻の下を伸ばし、Tちゃんが勝手に作ったサインで私とコミュニケーションを交わしていました。

しかし術後から徐々に言葉を発するようになり、他の人ともコミュニケーションがとれるようになりました。

Tちゃんが言葉を使って夫や周囲の人達と交流する様子を見て、母子二人にしか通じ合えなかった小さな世界から、ようやく広い世界へ飛び出せたような気持ちになりました。たどたどしいあどけない声はいくら聞いても飽きませんでした。

私から離れると家でも外でも泣いて青ざめ母子分離が難しかったのに、術後は心臓病の保育グループですんなり離れて遊べるようになりました。手術を受ける前はきっとそれだけ具合が悪かったから出来なかったのだろうなと思います。

大変だった幼稚園探し、元気に過ごした3年間

その後は通える幼稚園を探し、近くの幼稚園へ見学や説明会へ行きました。でも病気について相談すると「大変ですね」と言われることも多く、なかなか入れる幼稚園は見つかりません。

諦めかけていた時にある教会付属の幼稚園を見つけて見学へ行きました。すると「病気がある子もみな、神様に愛されるために生まれてきました」と言って受け入れてくださったのです。最初の2年間は養護教諭の免許を持つ先生が担任を受け持ってくれ、Tちゃんも私も先生が大好きでした。

Tちゃんは周囲のお子さん達に比べると、発達が遅れていることも多かったですが、周りのお子さん達は自然に受け入れてよく世話も焼いてくれました。Tちゃんも友達と先生の名前をすぐに覚え、幼稚園でたっぷり遊んだ後も公園や児童館にみんなと寄り道をして遊びました。

特定な誰かとばかり遊ぶのではなく、好きな遊びは一人でも遊び、同じ遊びをしたい人がいれば一緒に遊びました。先生から「この子には誰かに流されない強さがある」と褒めてもらったことは今でも忘れません。

歌や踊りや演じる行事は大好きで、Tちゃんのペースで全ての幼稚園活動に参加しました。時には意地悪をするお子さんも何人か現れ、夫が一緒に幼稚園へ話に行ってくれたこともありましたが、大半の親子がTちゃんに対して理解を示してくれたように思います。生まれた時のことが信じられないくらい、元気に過ごした三年間でした。

Tちゃんの成長のペースを、みんなに理解してもらいたい

ところが、幼稚園の年長になって担任の先生が変わると、「Tちゃんだけが早く歩けない」と指摘されるようになりました。年少の時から歩くスピードはゆっくりで、先生方もそれを理解した上で対応してくださっていたと思っていたので、私は戸惑いました。

Tちゃんは症状によって血中の酸素濃度が低いのですが、それはつまり、周囲の人が平地を歩いているところを、一人だけ高山の上を歩いたり走ったりしているようなものだと言われています。筋力が弱く、疲れやすいのです。頑張って克服できることではありません。私は、先生に何とか病気の特徴を理解してもらえるよう話をしました。

小学校に上がる前には、入学しても同じようなことが問題になるのかもしれないと感じ、入学前の就学相談も受けました。ちょうどその頃、発達の度合いを調べる発達検査も受けていたのですが、結果はグレーゾーンと言われる数値で学習面に不安がありました。それでも集団行動では情緒やコミュニケーションに問題がなかったため、普通学級に通うことを勧められました。

悩んだ末に、地域の学区で定められた公立小学校へ入学したのです。

小学校では隣りのクラスに偶然、もう一人先天性の心臓病がある女の子がいました。二人はすぐに仲良くなり、校長先生が最初の全校朝会で二人に心臓病があることをみんなに紹介してくれました。お陰で同級生からも上級生からもすぐに覚えられ、男女問わずよく声をかけたり手を貸してくれます。

担任の先生も優しくて、Tちゃんはすぐに学校が好きになりました。全校遠足や運動会など気がかりな行事の前には、先生が必ず面談をして対応策を考えてくれて。周囲の支えもあり、Tちゃんには友達が少しずつ増え、一輪車に乗れるようになった時はお友達が私に報告してくれました。

あるとき私が悩みを抱えて困り果てていると、Tちゃんが「ママは何も悪くないよ。私も悪くない。だから気にするのやめとこう!」と言ってくれたことがあり、私はその成長に驚かされました。

きっと毎日の学校が充実していて、みんなに親切にしてもらっているから人にも優しくできるのだろうな、と思います。同級生の皆さんには、卒業するまで男女問わず「Tちゃん、Tちゃん」といつも気にかけてもらいました。

自分の病気を夏休みの研究でまとめてみよう

一方で学習面では、学校の授業で教わったことを習得するのにとても時間がかかりました。家庭教師や発達障害のお子さんを対象にした塾を頼った時期もありますが、私なりに教え方を工夫したり、いい先生に巡り会ったことで、Tちゃんには少しずつ理解力がついていきました。

しかし学習面でも体力面でも周囲との差は年々広がり、次第に対等に話せる友達は心臓病の友達だけになっていきました。それでも3年生から入団した合唱団、4年生からクラブ活動、5年生から委員会活動が始まり、いろいろ経験できたことがTちゃんにはとても良かったようです。

また担任の先生だけでなく、関わってくださる先生方がTちゃんと気さくにコミュニケーションをとってくれていたので、クラスのみんなと良い雰囲気で過ごすことが純粋に楽しかったのだと思います。家で先生や同級生の話をよくしてくれました。

ただ、6年生になると、体の成長に伴い病気が進行していきました。その頃の担任の先生と相性が悪かったことも重なり、Tちゃんは学校を辛いと感じるようになってしまいます。

そして体調を崩したTちゃんは、二度の入院をしました。それから退院後は24時間酸素吸入が必要な状態になってしまい、学校で酸素ボンベを携帯しなければならなくなりました。

結局担任の先生からは「何かあったときのためにそばにいてほしい」と頼まれ、教室では私の付き添いが必要になりました。学校にはエレベーターがなかったため、3階にある教室へ行くのも辛くなり、短時間しか登校できなくなりました。それでも沢山の先生方に応援してもらい、時には校長室やスクールカウンセラーのいる相談室で過ごしたこともありました。

様々な出来事が起こるなかで、Tちゃんは6年生から「私はなんで病気なの?」と口にするようになりました。5年生までは自分に病気があっても色々な人から親切にされるから良いかなぁと思っていたそうです。でも低酸素血症が進んで、初めて生活するのにも体が辛くなったことで、疑問を抱くようになったようでした。

夏休みの自由研究で、自分の病気についてまとめてみようか。

私はTちゃんにそう伝え、自分の病名や症状について知り、なぜ自分が他の人の体とは違うのかを理解する機会をつくりました。その研究を周囲のみんなにも見てもらうことは、改めてTちゃんの病気について知ってもらうよいきっかけになったと思います。
【イラスト】一生懸命勉強するTちゃんと、横で笑顔で見守るいもあんさん

障害のある先輩の姿に影響を受けた中学校生活

中学校は、区内で一校しかない肢体不自由の特別支援学級がある中学校を選びました。もともと地域の学区で定められた公立中学校は、家から校舎が見えるほど我が家の近くにあります。

しかし就学相談で審査を受けた際に、満場一致で肢体不自由の特別支援学級もしくは看護師が常駐している特別支援学校を勧められました。Tちゃんも見学と体験に行ってみて、エレベーターのあるバリアフリー校舎で送迎バスも来てくれると知り、「ここに通いたい」と言ったことが決め手になりました。

入学した特別支援学級では1年生から3年生まで計8名の生徒が、担任2名と生徒と同じ数だけいる支援員や介添え員の皆さんの支援を受けながら毎日一緒に過ごします。同じ学校に通常級が各学年3~4クラスあり、校内は元気な中学生で賑やかな雰囲気がありました。

Tちゃんは入学してすぐは、通常級の生徒達を見ては小学校で一緒だったみんなを思い出したり、帰りのバスの窓から近所の中学校へ進学した懐かしい同級生の姿を見かけ、少し寂しく感じているようでした。体の不調を訴えて欠席や早退をすることが多く、宿泊学習にも体育祭にも参加できませんでした。

しかし一緒のバスで通う先輩は、そんなTちゃんのことを「よく頑張ってますよ」と言って褒めてくれるのです。Tちゃんもまた、自分とは違う重い障害を持ちながら頑張っている先輩を見て、「すごい」と尊敬していました。

一学期の途中でカテーテル治療を受けてからは、少しずつ調子が良くなり、学校が楽しくなっていきました。体育の授業ではパラスポーツを覚え、二学期は校外学習に行ってお土産を買ってきてくれました。

【イラスト】笑顔で学校のお友達と話すTちゃん

学芸発表会では初めて和太鼓の演奏にも挑戦。練習期間は疲れてぐったりしていましたが、本番は皆さんと上手にできていましたし、特別支援学級の少人数の演奏に合わせて、大勢の通常級の生徒達が手拍子や「ドッコイショー!ドッコーイッショ!」と大きな掛け声で盛り上げてくれていたことにも感動しました。

あのときはTちゃんも帰宅後に色々と感想を話し、大いに楽しんだようでした。これからも様々な経験を重ねていって欲しいです。

同じように病気の子どもを育てる親の力になりたい

Tちゃんが4年生のとき、知人の会社で私が点滴用のパジャマをデザインしました。そのパジャマの宣伝も兼ねてブログを担当していくうちに、だんだんにTちゃんのことを色々な人に知らせたいという気持ちが芽生えてきたのです。

ちょうどその頃、心臓病仲間にも若いお母さん達が増えてきて、学校のことなど相談されるようになっていました。

同じように病気のお子さんを育てる親御さんに、私の経験が少しでも活かされたら嬉しいなぁ。

そんな思いで個人サイトを立ち上げ、ブログを始めました。読んでくださった方からコメントやメッセージをいただいたり、いつも気にかけてくれている身近な方々が読んで応援してくださったり、嬉しい出来事が続いています。

私も妊娠中、様々な病気のお子さんを育てるお母さん達のブログを愛読していました。

予後不良と言われていたけど今元気にしています。

〇歳までしか生きられないと言われたけど△歳になりました。

こういった記事を読んだおかげで、「医師が宣告した通りになるとは限らない」と希望を捨てずにいられました。同じようにTちゃんの存在を少しでも励みに感じてくださる方がいらっしゃれば、願ったり叶ったりです。

「みんな違ってみんな良い」そんな理解を深められたら

私のブログの原点はTちゃんの出産前後の日記にあるような気がします。そこには愚痴や嫌なことを沢山書きましたが、悲しいことや苦しいことを文字にすると今度は嘆いている自分を応援するような言葉が頭に浮かび、楽観的に考えられるようになりました。

ブログを読んだ方には、少しでもプラスの気持ちになっていただきたいと思っているので、私自身がマイナスな気持ちのままブログを更新しないように心がけています。

Tちゃんが生まれてから、お腹の中にいた時には想像できなかった楽しいこと嬉しいことが沢山ありました。きっとこれからもそうだと思います。

【イラスト】笑顔で抱きしめ合ういもあんさんとTちゃん

今もしお子さんのことで思い悩んでいる方がいらっしゃいましたら、「心配しなくても大丈夫だよ」と肩の力を抜いていただけるようなブログにしていきたいと思っています。またそこには、Tちゃんや私自身へのエールも隠れているかもしれません。

それからもう一つ、ブログを通して「みんな違ってみんな良い」というような理解を深めることができたら嬉しいです。

Tちゃんは家族や周囲の人と体の条件が全く違い、早く歩けるとか歩けないとか、運動ができるとかできないとか、勉強ができるとかできないとか、長年誰にもわかってもらえない辛さを抱えています。

同様に、みんなと違うということで周囲には家族でさえも理解できず、レッテルを貼られて苦しんでいる方は少なくないかもしれません。

Tちゃんならではの出来事を綴り、色々な方に「こんな子もいるんですよ~」と知ってもらいたいなと思います。

相手に想像力を持つことの大切さを伝えたい

Tちゃんの子育てをしていくなかで私は、相手を思いやって想像力を働かせることの大切さを学びました。

私自身は健康な体で生まれ、Tちゃんが生まれる前は「どんなことも頑張れば出来る!出来ないのは自分の頑張りが足りないんだ」と思って生きていました。そしてそれは他の人も同じだと思っていました。

しかしTちゃんには生まれた時から”頑張っても出来ない”ことが沢山ありました。決してサボっているわけではなく、むしろ何倍も頑張っていることだってあるのに、それを「出来ないからダメ」と簡単に責めるのは間違っています。それがわからず責めてしまったこともありました。

でも考えてみれば、私自身にもできないことはあります。障害があってもなくても、人にはそれぞれ得意なこと不得意なことがあって完璧な人間なんて一人もいません。

私が娘たちに、日頃お願いしていることがあります。

もし学校や外で誰かが”出来ない”ことで困っていたら、責めるのではなくて、どういう理由で出来ないのか、どんな手伝いが必要なのか、想像を膨らませて考えて、もし自分に出来ることがあれば行動して欲しい。

想像力を持つことの意味を、Tちゃんを育てながら学びました。

それは、いろんな方にお願いしたいことでもあります。

障害や難病のある子どもが身近ではない、あまり知らないという方にとっては、酸素チューブをつけたTちゃんの姿は「かわいそう」とか「気の毒」に映るかもしれません。しかし楽しい時間を過ごせば楽しいし、面白いことがあれば笑い、好きなこともいっぱいあって、皆さんと変わらない一人の人間です。

ブログを読んでもらったり、街や電車の中で出会うことがありましたら、「なんで鼻にチューブをつけているのかな?あれは酸素なのかな?苦しいのかな?」とほんの少しでも興味関心を持っていただきたいです。それが思いやりにも繋がるのではと思います。

今後Tちゃんを育てていく、そして一緒に生きていく上で大切にしたいことは、「一人の人間としてお互い尊重し合うこと」です。そのためにはTちゃん自身にも自分で考えて行動したり、意見を持てるように、様々な経験を重ねて成長して欲しいと思っています。

失敗しても大丈夫。それも経験。

失敗しないように傷つかないようにサポートするのではなくて、そんな大らかな気持ちで応援できるような母親になりたいです。

関連情報:
Imoanさんブログ 『Imoan Journal 心臓病と肺疾患‐障害がある娘を育てる母のブログ

(イラスト/ますぶちみなこ、編集/工藤瑞穂)