こんにちは、中根雅文(なかねまさふみ)です。
僕は幼少期から全盲で、光も何も見えていません。そこで「見えない」自分の視点を生かして、障害がある人も含め多様な人の情報アクセスを向上させるための、情報アクセシビリティーという分野に長年取り組んできました。
現在は、会計ソフトや人事労務ソフトを提供するfreee株式会社でエンジニアとして働いている他、個人事業主としてWeb全般、翻訳などの仕事を請け負っています。
「目が見えない」と聞いたとき、みなさんはどんな生活を想像しますか?
僕は“視覚障害”という人との違いはあっても、様々なICTツール(情報通信技術)を使用したり、コミュニケーションの工夫を重ねることで、それほど困ることなく日常生活を送ることができています。今回は、僕のこれまでの経験や今の生活のこと、仕事の仕方についてなどを紹介します。
「見えないことへの恐怖はなかった」幼少期の自分
僕の目が見えていないことに両親が気づいたのは、2歳を少し過ぎたときだったようです。この頃の記憶はないため、2歳で見えなくなったのか、先天的な視覚障害なのかはわかりません。
小さな頃のことはあまり覚えていないのですが、負けず嫌いで活発に過ごしていたような気がします。
小学校は盲学校に通いました。現在は障害がある子どもの就学も多様で、特別支援学級がある近所の学校に通学し晴眼の子どもとともに過ごす、盲学校 (最近は「視覚特別支援学校」と呼ばれています) を選ぶなど、選択肢があるでしょう。ですが僕が子どもの頃は、障害がある子どもは盲学校、聾学校、養護学校などで学ぶのが、一般的でした。
盲学校は家から離れたところにあったので、家が近い友人がほとんどいなくて、帰ってからは基本的に一人で遊んでいました。ラジオを聞いたり、点字で読める本を読んだり、近所の空き地で自転車に乗って遊んだりしていました。
見えないのに「自転車で遊ぶ」ことに驚く人もいるかもしれません。実は、僕自身どうやって自転車に乗っていたのか覚えていません(笑)。最初は親と一緒に練習しましたが、慣れてきたら一人でも平気で自転車で出かけていたと思います。田舎で人通りも少なく、慣れた道だったから大丈夫だったのでしょう……。
今思うと、この頃は見えないことへの危険性を相対的に判断する材料を持っていなかったので、怖さもなかったのだと思います。見えている人が見えなくなることを想像すると怖いと感じるかもしれませんが、僕にとって見えていないことは当たり前だったのです。
高学年のころには自然な流れで、デジタルツールへ興味を持つようになりました。僕が10歳くらいだった1980年代初めにパソコンが流行り始めたこともあり、すでに簡単なプログラミングのことを、友人や先生と話していました。この頃は仕事にしたいとまでは考えていなくて、ただ単に好きだったのだと思います。
上京し都内の盲学校へ。新たな出会いで世界も行動範囲も広がった
中学校は受験をして、東京都内にある筑波大学の附属盲学校へ行くことになりました。愛知県の田舎から一人で上京し、寮生活を始めました。1、2ヶ月は親元を離れた寂しさもあったと思います。それでもすぐに都会での生活を楽しむようになっていました。
僕が通っていた盲学校も含め、地方の盲学校は生徒数が少ないことが一般的です。僕はその中では比較的良い成績を保っていました。
ですが、この学校には全国から入試に合格した生徒が集まるため学力のレベルが上がり、入学してから僕の成績は下がっていきました。学年内の成績はかなり低い方になってしまいましたが、同時に世界が広がったような感覚も感じたのを覚えています。
また、地元を離れたことで行動範囲も広がっていきました。実家にいると公共交通機関はバスくらいで、一人で出かけられる範囲は狭かったのです。生徒たちの中には、全盲でも一人で地下鉄に乗って、学校の最寄り駅の護国寺駅から池袋駅に行って、買い物をしたりしている人もいて衝撃を受けました。
そうして僕も友人と一緒に出かけ始め、そのうちに一人でも行動できるようになっていきます。放課後には池袋に行ってレコードを買ったり、バスで御茶ノ水・神保町方面に行って楽器屋さんに入り、楽器を試奏したりもしました。
見えなくても楽器屋さんに足を踏み入れたときのワクワクする感じは、見えている人と一緒だと思います。店内に入るとずらりと楽器があるのを感じますし、それを眺めるのは僕にとってすごく楽しいことです。
目が見えている人でも、モノをどう認知しているかによって見え方は違ってきます。楽器に詳しい人とそうでない人が同じ楽器を見たときに、ただ「楽器だ」と思うかもしれないし、「これはなんて珍しい楽器なんだ」と感動するかもしれません。人は自分が持つ情報の中から想像して、モノを「認知する」のだと思います。
僕の場合は「見る」ではない、「聞く」「触れる」「感じる」といった方向性からモノを認知しています。
アメリカ留学を経て感じたのは、閉じた世界にいることは勿体無いということ
高校もそのまま同じ盲学校へ進学しました。在校中印象に残っているのは、アメリカに留学したことです。アメリカでは驚くことがいろいろとありました。
日本の盲学校に通っていたときは、生徒全員が見えない、あるいは見えにくいのが当たり前の環境でした。学校内では点字や音声でのコミュニケーションができるので、困ることはありません。その分学校の外に出ると、周囲から差別的な視線を感じることもありました。
一方アメリカでは、見えないことでの特別扱いはあまりありません。視覚障害者も一般の学校で学ぶ事が珍しくなく、目が見える友人も目が見えない友人もできましたし、学校外でも、日本に比べれば”普通に”過ごすことができました。
たまたま僕がいた町は、比較的人種差別が少ない所だったのも幸運でした。むしろ見えないことより、英語を話すのが苦手で言葉がわからないことの方が死活問題だったように思います(笑)。
目が見えない事実は日本でもアメリカでも変わらないけど、アメリカではその持つ意味が軽くなることに気付きました。
アメリカ留学は自分を客観的に捉えるチャンスだったと思っています。場所によって、視覚障害という特性の持つ意味や、生活に与える影響は変わるのだということを考えるきっかけを得たからです。しかし、比べる機会がないとこういうことに気づくことはできません。この経験から比較対象を持つことの大切さを学びました。
盲学校では世界と隔絶されている感覚が少なからずありましたが、留学をきっかけにより一層、閉じた世界にいることは勿体無いし、怖いことだと思うようになりました。
帰国後、僕は盲学校のなかでも大学進学率が比較的高い学校に通っていたこともあり、自然に大学進学を考えるようになりました。そして1992年、留学でついた英語力にも助けられて東京外国語大学のアラビア語学科に無事合格し、入学しました。
パソコンの読み上げ機能を使って、大学の授業についていく
留学の経験を通して海外に関心を持つようになっていた僕は、英語の次はアラビア語を学びたいと考えていたのですが、実際はアラビア語を点字で学ぶことにひどく苦労しました。正確には、アラビア語の点字に関する情報を得ることができず、学ぶ以前の問題でした。
この頃は一般的にインターネットは普及しておらず、一部の企業や大学の理系学部で使用されていた程度だったのです。そこで、電話を駆使してアラビア語の点字に関する資料を探していましたが、結局いいものは見つかりませんでした。
僕はとうとう限界を感じ、仮面浪人をして大学を受験し直すことに決めます。インターネットのようなコンピューター・ネットワークが広く社会で活用され、僕たち視覚障害者にもっと使いやすいものにするような勉強や研究がしたいと思ったからです。さらにこうした技術を活用すれば、今後改めて言語を学びたいと思った時には、アラビア語を学ぶ時に経験したような苦労をしなくて済むかもしれないと考えました。
そうして慶應義塾大学の環境情報学部に入学しました。1990年代前半にしては珍しくキャンパスの全学生向けにインターネットを導入していたこともあって、パソコンを利用することで勉強もしやすい環境でした。
画面を見ることができない視覚障害者がパソコンを使うためには、表示内容やプログラムの状態などを音声で読み上げたり点字で表示したりする必要があります。このような仕組みは、1980年代の終わり頃から急速に発展、普及していて、僕も高校生の頃から使っていました。そのため大学の環境は僕にとって実に都合が良いものでした。
もちろん、盲学校の頃とは違い晴眼者とともに授業を受けることになるので、工夫は必要です。たとえば授業で図を使った説明があると、授業後に先生に聞きに行ったり、友達に教えてもらわなければなりません。
他にも授業でプリントなどを配られたときは、友人に協力をしてもらっていました。全て読んでもらうのは大変でも、「テキスト入力してメールしてほしい」と頼むと引き受けてくれる人が結構いました。
これは、パソコンでの入力に慣れていない学生も多かったため、タイピングの練習材料として捉えてもらえていたからです。僕はあまり利用しませんでしたが、自分で本を読むことが難しい方に向けて朗読をする「対面朗読サービス」を、大学のボランティアや公共図書館に依頼して活用するなどの手段も一般的です。
また、この頃ちょうど海外で色々な情報がWebで提供され始めたのもありがたいことでした。ただWebサイトの中には、僕にとって決して使いやすくないものもありました。このことに疑問を持ったことがきっかけで、僕は「アクセシビリティー」というキーワードに出会ったのです。
以後、今まで20年以上に渡ってアクセシビリティーに関わる活動を続けてきています。
コミュニケーションのすれ違いは「普通に起こりうること」
晴眼者とのコミュニケーションが一気に増えたこの頃、戸惑うことも多かったです。見えないため自分が話しかけられていることに気づけず、無視したようになってしまう、声だけでは相手が誰かわからず戸惑うことは今でもよくあります。
これらを全ての人に伝えて配慮してもらうのは難しいので、僕は「普通に起こりうること」として捉えています。「コミュニケーションのすれ違いで死ぬことはない」と考え、悩みすぎないようにもしています。
こうした考え方は、僕の元々の性格からというわけではなく、盲学校の高校で出会った一人の先生の影響があると思います。先生自身も視覚障害があり、呑気なのんびりした人で、自身の障害にとらわれない生き方をしていました。
先生から学んだのは、「心配してもしなくても変わらないことに対して、余計な心配はしない」という姿勢です。例えばテストの結果に自信がないときや、「自分が相手にどう思われているのだろう」といった不安も、ほとんどはどうすることもできません。
それならば労力も時間も勿体無いから、「今変えられること」にフォーカスしよう。
そんな考え方を、先生は持っているように僕には思えました。
先生の姿を受けて、僕自身すぐに変化したわけではないですが、意識をするようになりました。そうして少しずつ考え方が変わっていったように思います。
アクセシビリティーに関わる様々な仕事を経験
「アクセシビリティー」というキーワードに出会ってから、これが自分が社会で生きていく上で非常に重要なものだという意識がありました。そして技術としても興味があったので、大学院でもアクセシビリティーに関する取り組みを続けることを決めました。
2000年に大学院の修士課程を修了してからは、Web関連の国際組織でWebアクセシビリティーに関する仕事に取り組んだり、アメリカの盲学校でインターンを経験したりしました。
その後はWeb製作会社でエンジニアとして働いていましたが、2004年に教授からの誘いで大学に戻り、研究をしたり、学生の研究指導をするような立場として働きました。同時に学外のアクセシビリティーに関連する仕事なども受けていました。
僕にとってアクセシビリティーは、「誰もが同じように」様々な情報やサービスを利用できるようにすることだと思っています。
これは年齢、性別、障害の有無など関係ない「誰もが」、結果として同じ情報が得られること、さらにその実現に必要な身体的な負担、ストレスなども大きく違わないということです。
アクセシビリティーは「障害者のため」と捉えられることもありますが、実際は障害の有無に関係なく使いやすさにつながることも多くあります。インターネットやICTは、今や社会インフラになり、それを使う人たちの状況やニーズも多様化してきています。多様性が豊かな社会の実現のためには、情報分野のアクセシビリティー確保は不可欠なことです。
アクセシビリティーの専門家として、いちユーザーとして、プロダクトのアクセシビリティー改善に関わる
僕はいくつかの仕事をしてきたわけですが、「将来どうするのか」ということを具体的にイメージできないまま年月を過ごしました。
そんな折に、色々な成り行きで誘いを受けて、2018年からはfreee株式会社での仕事を始めました。主に取り組んでいることは、プロダクトのアクセシビリティー改善と、アクセシビリティーに取り組むことが当たり前のこととして社内に根付くようにするための業務です。
もともと僕自身が個人事業主としてfreeeの会計ソフトを使ってきました。だからこそアクセシビリティーの専門家という立場に加えて、プロダクトを知っているユーザーの立場からも、アクセシビリティーやユーザビリティーの改善のための取り組みができています。
freeeで仕事をする上で、僕の方からコミュニケーションの工夫を重ねる必要はあまりありませんでした。
そもそもの社風として、社内でコミュニケーションを取る上でのバリアの低さを感じています。
同僚間のコミュニケーションはチャットでのやり取りも多く、対面のコミュニケーションで感じることが多い「声をかけるタイミングの難しさ」はほとんど感じません。また、びっくりするくらい紙の書類がないデジタルでのやり取りがほとんどの会社なので、パソコンの読み上げ機能で対応できるものが多く、誰かになにかを見てもらわなければならない場面も少ないのです。
さらに僕の入社後、社内では色々な所に点字のラベルが設置されたことで、より仕事がしやすくなりました。
これまで仕事をしてきた中で常に考えていたのは、「アクセシビリティーに関連する仕事はなるべく受ける」ということと、「結果として人と人をつなぐことに貢献するような仕事を受ける」ということです。
7年間にわたって続けてきたアクセシビリティーの情報サイトAccSellの運営や、準備中の視覚障害があるICTユーザーの当事者組織づくりも、「人と人をつなぐ」に基づく取り組みだと思っています。
「障害があるから」という不安は仕事をする上ではあまりありません。むしろ、不安を感じなくて良いような人としか付き合ってきていないのだと思います。「誰と一緒に働くか」は僕が仕事で大切にしていることの一つです。
仕事の姿勢としては、自分の思いつきや意見などは積極的に話すように意識しています。実際、そこから仕事に繋がることもあります。
ICTツールは持っている身体的な能力を補い、拡張するもの
僕は目が見えない分、ICTツールに助けられながら暮らしてきました。僕にとってICTツールは自分が持っている身体的な能力を補い、拡張するものだととらえています。
例えばGoogle DuoやFaceTimeのようなビデオ通話ができるサービスを使えば、僕が見えない代わりに、インターネットの向こう側にいる誰かに見てもらうことができます。
僕は、“見る”能力を自分の身体には持ち合わせていません。ですがICTツールを使うことで、事実上「体の外に目を得た状態」のようにも考えられるのです。
ICTツールを使わなくても、側にいる誰かの視力に頼ることはできるので、体の外に目を持っていることになるかもしれません。しかしICTツールを活用することで、その「目」が物理的に離れた所にあっても良いし、さらにその「目」が必ずしも人の目である必要もないという、柔軟さが得られたと思います。
日常生活でICTツールを利用するシーンは様々です。出かける時は腕にアップルウォッチをつけて、電車に乗るときは電子マネーとして改札でかざし、時間が知りたいときはボタンを押して読み上げられる音声を聞き、振動によって時間を確認することもあります。
道がわからないときは晴眼者と同じようにスマホでナビアプリを開き、読み上げ機能の指示に従って移動します。骨伝導のヘッドホンを使っているので、外の音を聞きながらナビの声を聞くことも可能です。
日常ではICレコーダーを持ち歩いて、とっさにメモしたいときには録音機能を利用します。パソコンを使う時は、必要に応じて点字ディスプレイを使用しています。
情報の取捨選択の効率が悪いことなど、音声での情報収集で不利なこともあるのですが、工夫を重ねれば日常生活を送ることはできるのです。
全盲でどう生きていくのかは、僕の自由
生活の中で誰かに助けてもらわなくてはならない場面ももちろんあります。助けてもらうことは本当にありがたいことですが、人を頼ることは難しいとも感じます。
僕の場合は誰か特定の人に助けてもらうのではなく、その人がいなくても生きていける生活の構造にしたいと思っています。一人に頼ると、その人にだけ負担をかけてしまったり、我慢をさせることに繋がるかもしれないからです。
ですので、大切にしているのはなるべく色々な人と関わり、その中で関係性を築いておくことです。少数の人への依存ではなく、依存先を分散させることを意識しています。たとえば、いつもお願いしていて慣れた人に頼んだ方が楽なことも、あえて他の人にお願いできないかと探してみたりもします。とはいえ社交性が高いわけではないので、そこまで色々な人と関われているかはわからないですが。
そして、支援の分散の一つの形として、テクノロジーを使うことも意識しています。誰かに頼んだ方が早いとしても、自分でできることは自分でやることも心掛けています。そうすると、いざ誰にも頼めない状況になったときにも備えられるように思うのです。
障害、ジェンダー、セクシャリティ、人種など、特性を表すラベルは世の中にたくさんありますが、同じラベルが付けられる人でも、ラベルの捉え方や意味するものは本当は人それぞれ違うのだと思います。僕にとって視覚障害があることは変えられないけれど、ただの特性に過ぎず、どう生きていくのかは、僕の自由だと思っています。
僕は、自分を客観的に見る目的以上にはこうしたラベルを使わないようにしています。自分の特性・ラベルを自分にとって重要なアイデンティティーという位置づけにしてしまうと、そのラベルに対する世間の固定的なイメージに縛られることになりかねないし、他のラベルの人との分断にもつながると思うからです。
それに同じ特性を持っている人でも、ニーズは様々です。視覚障害がある人でも、誰かと一緒に歩かないと不安な人もいれば、一人で歩きたい人もいます。
例えば、僕は全盲という特性を持っています。一般的には全盲というとコミュニケーションが難しいと思われることもあるのかもしれませんが、僕自身は困難を感じることはあまりありません。必要に応じて様々なツールを活用することで、そういった意識を取り払っていくこともできると考えています。
「同じ属性を持つから」といって同じように接することは、尊厳を傷つけることになるかもしれません。相手が何を求めているかを知って助けたつもりでも、不一致が生じる可能性があるのです。
あくまで僕の場合は、ですが「サポートしたい」と思ってくれる人には、まずニーズを聞いてもらえると嬉しいです。
僕はこれまで多様な人との出会いによって、外の世界を知る面白さを感じてきました。ICTは今後、属性の違う人たち同士がコミュニケーションをとる道具にもなっていくと思います。
これからも仕事や活動を通して、「ラベルが違うから」といって離れるのではなく、助け合って互いの違いも尊重できるような社会を目指していきたいです。
(編集/工藤瑞穂、撮影/高橋健太郎、協力/杉田真理奈)