【写真】笑顔でこちらを見ている金澤さん

(提供写真)

こんにちは!NPO法人アンリーシュ代表の金澤裕香です。

私は今、医療的ケア児と呼ばれる人工呼吸器や酸素を使いながら生活している子どもたちと家族を支援する団体を運営しています。

アンリーシュを立ち上げるきっかけになったのは、私の娘が病名不明で医療的ケアを必要とする子どもとして生まれてきたからです。

胃ろうと呼ばれる胃に直接栄養を入れる処置や、人工呼吸器を必要とする娘の菜生との生活の様子は以前にsoarで記事にして頂きました。

記事を出した後たくさんの反響やお声がけを頂き、娘は新しい出会いや経験を楽しんでいましたが、6歳になったばかりだった昨年の11月3日、闘病の末亡くなりました。

娘が亡くなって半年が過ぎました。直後はとても気持ちが落ち込んでいましたが、少し時間が経って、周囲の人の支えもあり少しずつ前を向くことができるようになっています。

今回は、幼い娘が亡くなるまでの経緯と、今の私の気持ちをお伝えしたいと思います。

「ありのままの娘を好きでいていいんだ」そう気づいて、育児を前向きに捉えることができた

以前の記事では、もうすぐ4歳になる娘の育児の体験と娘から学んだ事を綴りました。

娘は特に病気などの診断はなく生まれてきましたが、ミルクを飲むことが極端に苦手でした。生後3ヶ月の時には初めての入院を経験。1年以上の長期入院と細かな入退院を繰り返し、合計3年以上の入院生活を送りました。

その期間、私も付き添い入院として、病院に泊まり込んで同じ時間を過ごしました。付き添い入院中は、家族とも離れ自宅にも帰れず、先の見えない治療に不安で押しつぶされそうな日々。

娘の体が心配なことはもちろんですが、仕事も辞めざるを得ず、周囲の人との関係もどんどん薄れていく中で、自分が人生で積み上げてきたものが一気に奪われたように感じました。娘に対して、理不尽な憎しみの気持ちを持ったことさえあったのです。

そんな中でも、周りに支えられて「ありのままの娘を好きでいていいんだ」と気づいてから育児を前向きに捉えられるようになりました。

【写真】愛おしそうに菜生ちゃんを見つめる金澤さん

3歳の時には退院をし、本格的に自宅での生活がスタート。病院で看護師さんが行なっていた在宅酸素や、胃に直接栄養を入れる「胃ろう」処置を、自宅で家族が行わなくてはいけません。看護師でもない私はその生活になかなか慣れませんでした。

医療機器を家のどこに置いたらいいのか、衛生管理はどうしたらいいのか。そんな些細なことが分からず悩みました。特に24時間続く医療ケアに体と心がついていかず、気づかない間にヘトヘトになってしまいました。

他のお家はどうしてるのかな?

そう思ってネットで検索しても、情報はほとんど出てきません。実は、娘のような「医療的ケア児」と呼ばれる子どもたちは日本に約1万8000人しかいないのです。

日本の新生児医療の発達とともに、以前は命を落としていた子どもが医療的ケアとともに生きていけるようになり、医療機器を使って自宅で生活する子供は増加。10年前と比べると約2倍になっています。

そういったことから、医療機器を使って生活する子どもたちの育児についての発信は、個人のブログなどはあったものの、まとまった情報はほとんどありませんでした。

この情報不足を解消するために、2019年1月「日本初。医療的ケアに特化したメディア運営組織」としてNPO法人アンリーシュを立ち上げました。現在は、WEBメディアYouTubeを通して、医療的ケアに関する情報をほぼ毎日配信しています。

娘の体調が悪化し入院治療を行うことに

アンリーシュを立ち上げた2019年1月以降、娘の体調は徐々に悪化していきました。

そして5月に大きなてんかん発作を起こしたことをきっかけに、栄養を取ろうとすると体が拒否反応を起こしてしまうようになったのです。

下痢をしたり、発熱を繰り返していく中で、徐々に体重も減っていき、24時間目の離せない日々に。これ以上体重が減ってしまうと危険だと判断され、7月から入院治療を行う事になりました。

入院治療は私も24時間付き添い、娘と同じベッドで寝泊まりしました。娘はこれまでも原因不明の症状にはたくさん悩まれてきましたが、今回も栄養が入らない原因は分からず、ただ弱っていく娘を見ていることしかできません。

毎晩高熱に震えながら、小さな声で助けを求める娘をただ見ているのは本当に辛く、やるせない気持ちになりました。

【写真】ベッドで横になる菜生ちゃん

当時の娘の様子(提供写真)

それでも、大きな症状は栄養が入らないということだけだったため、入院した当初は「時間が経てば解決するだろう」と、私も医師も少し楽観的に考えていました。

しかし、入院治療を初めて1ヶ月半を過ぎた頃から原因不明の発熱が続き、徐々に体の色々な数値が下がっていきました。

特に赤血球・白血球の数値の低下は顕著で、輸血を必要とする状態に。輸血は本人にとって負担が大きく、毎日39度の発熱が続くようになったり、髪の毛が抜けていくような症状が出るようになりました。

また、とても出血しやすくなり枕に顔が擦れただけで、ほっぺが傷だらけになったり、ひどいオムツかぶれを起こすようになってしまったのです。

栄養も取れず、結局中心静脈栄養と呼ばれる、心臓近くの太い血管に管を通し、そこから高カロリー栄養を直接血管に送るようになりました。水分が多く入るためか、体のムクミが酷く、栄養が足りないはずなのにパンパンに顔が膨れていたのを覚えています。

自分の体調不良をずっと放置していたことで緊急入院に

娘の入院期間、私自身はNPO法人との両立もあって、比較的人との関わりが多い日々を過ごしていました。長年娘の病気について発信していたので、たくさんの方にお見舞いに来ていただいたり、メッセージをいただくことも。

ただ私は、人と話すときは元気に振る舞うことができても、24時間体調が不安定な娘との病室での日々に平静ではいられませんでした。また、娘の経過があまりにも複雑で、人に伝えることが困難だったことも、コミュニケーションのストレスになりました。

思ったより(菜生や私が)が元気そうで安心した。

会いにきてくれた人にそんなふうに言われると、自分の本当の思いをうまく伝えられなかったことを実感し少し辛い気落ちにもなりました。

それでも「娘に会いたいといってくれる人には、できる限りその機会を設けたい」と思っていたので、面会を続けていて、もちろんそれにたくさん支えられました。

当時の日記を読み返すと、娘の体重や検査結果の数値を細かく書いています。そしてたったの「0.1」の数値の変化にも一喜一憂していたのです。

しかしそんな日々を送るなかで、9月の終わりに私は下腹部の激痛のため、緊急入院することになってしまいます。実は1ヶ月ほど、生理のような出血が止まらず鎮痛剤を飲みながら過ごしていたのですが、その日ついに病院中に響き渡る声で泣き叫ぶ激痛になってしまいました。

4時間ほど痛み止めを点滴しながら検査した後、子宮の異常だろうということで緊急手術になりました。痛みで朦朧となる中、お見舞いにきてくれていた妹が泣きながら私の名前を呼んでいるのが聞こえたことを覚えています。

妹をこんなに泣かすなんて…ごめんね。

自分の体調不良をずっと放置していたことをとても後悔しました。

その後2週間くらい娘は3階、私は5階に入院し、車椅子で娘に会いにいったり、お見舞いに来てくれた人に娘の写真を撮って見せてもらう日々を過ごしました。

この辺の記憶はすごく曖昧なのですが、結果として入院により強制的に1日中眠る日々が続いて、体が休まり、娘との時間のラストスパートに向けて体調が整ったように感じます。

「皆娘のために頑張ってくれてる」ICUでの治療では医療従事者の姿が心の支えに

私の体調が落ち着いた後も娘の状態は改善されず、さらに手術をきっかけに容体が回復しなくなってしまい、ICUに移ることになりました。

最後のICUの治療では、娘一人のためにすごく広い個室が用意されていました。20個くらいの点滴に繋がれ、口から人工呼吸器に繋がれている娘のつらそうな姿。

どうして健康な体に産んであげられなかったのか。

今更そんな後悔と、「もう一度元気な頃の娘に会いたい」という突き動かされるような気持ちが溢れ、言葉にできないつらさでした。

【写真】ICUの個室の様子

ICUの個室の様子(提供写真)

それでも、ICUに行った2日目までは目を薄っすら開けてこちらを見ているような仕草もあり、希望を持つことができました。先生たちもよくなることを前提に、治療に向き合ってくれていたように思います。

しかし3日目からは、人工呼吸器の設定を最高まで上げても呼吸を保つことが難しくなり、「回復は難しいでしょう」と伝えられました。

ICUに行ってからは先生たちと最期に向けて様々な事を話し合いました。

心臓が止まった時、心臓マッサージは行うのか。より大きな病院での治療を希望するか。残された時間をどう使うのか。

その場で1回話しただけでは決めず、毎日毎日確認し合い、時には決定を覆しながら、その時の私たち家族にとって一番良い形を話し合いました。

結局私たち家族は、下記のような事を伝えました。

心臓マッサージは両親が到着するまでにしてほしい。

より大きな病院での治療は希望しない。

「パパと娘」「ママと娘」だけの時間を作りたい。その間医療従事者が誰も入って来ないよう調節してほしい。

最期のときがきたら、点滴を外して抱っこしてあげたい。

ICUでの時間は、私たち家族と娘に残された貴重な時間のはずなのに、ただただ椅子に座って娘を見ていることしかできず、本当につらかったです。

ただ、先生や看護師さんが本当に献身的に愛情を持って娘に接してくれて、担当の先生が2、3日家にも帰らず治療に望んでいる姿を見たときは「みんな娘のために頑張ってくれてる」感じ、それが心の支えになったからこそその場から逃げずにすんだように思います。

そしてICUに移ってからちょうど1週間が経った、11月3日の朝8時ごろ。容態が思わしくないということで、家族が待機する部屋に先生が呼びに来てくれました。

そのまま9時35分ごろ、全ての点滴を外してもらい、パパに抱っこされながら娘は息を引き取りました。

いかないで!

心のなかではそんな気持ちがあったと思います。でも数カ月ぶりに点滴も呼吸器もついていない娘を見て、その壮絶な治療の後と穏やかな顔を見ると、「頑張ってくれてありがとう」という言葉が自然と口から出てきました。

葬儀や医療解剖などの決断に後悔のないように

娘が息を引き取った時は、両家の親族もその様子を見守ってくれていていました。そして亡くなった後も皆で抱っこしたり、窓際に連れて行って一緒に外を見たりして、家族の時間を過ごすことができました。

その時間はとても穏やかで、後から母が「暖かくて澄んでいて、天国ってこんな場所なんじゃないかと思った」と私に教えてくれたほど。私も、確かにそうかもしれないなと思いました。

そんな時間を30分ほど過ごした後、一気に病室は慌ただしくなっていきました。

亡くなった娘にたくさんの看護師さんが会いにきてくれたり、娘をお風呂に入れたりとICUで様々なやり取りがある一方で、葬儀屋さんが来て葬儀についての打ち合わせがあったのです。

私たちは小さな子どもが亡くなった時にどうやって送り出していいか分からず、とりあえずアタフタと物事を決めていきました。

一番衝撃的だったのは医療解剖についての打診が先生からあったことです。医療解剖とは、病気で亡くなった方を対象に解剖し、原因の追及や治療の効果などを測定するもの。

菜生ちゃんの症状は、なんでこうなったのか私たちも最後まで分からないことだらけだった。私自身それを究明したいという気持ちもあるし、今後同じような子どもたちが救われる為にも臓器提供を検討してほしい。

主治医の先生からそんな風に打診を受けました。

もちろん断ることも出来るし、脳だけは残して他の臓器を提供するご家族も多いそうです。

亡くなった後も辛い思いをさせたくない。体に大きな傷ができることに抵抗がある。脳には人の魂が入っているという考え方がある…などなど、人によって様々な考えを持っているのだと思います。

とても難しい決断ですが、これよってオペを予約する必要があったし、また葬儀の日程も変わってくるので、ほんの1、2時間で決めなければなりません。私たちは家族皆で話し合い、脳も含めて提供できるものは全て提供しようと決めました。

理由は2つあります。

一つは病院の先生や看護師さんを本当に信頼していたので、安心して菜生の半分を預けようと思えたこと。もう一つは、娘は生まれた時から医療の発展に全力で協力してきた人生を送っており、最期までそうあることが娘らしいと考えたからです。

解剖のオペは、次の日の10時からにしてもらいました。

そして「菜生ちゃんに着せる新しいお洋服と帽子を持ってきてください」と言われたので、新品の可愛い服を夫と選び、娘を迎えにいきました。

解剖が終わった娘は、私たちが選んだ服を着て霊安室に寝ていました。入院中は、前びらきのパジャマしか着せることができなかったので、よそゆきのワンピースと帽子をかぶっている娘は本当に可愛かったです。

私はワンピースが大好きなので、最後に娘に着せられたことがとても嬉しかったです。

そのまま、娘を抱っこして自宅に連れて帰り、いつも娘が寝ていたベビーベットに寝かせました。葬儀まで1週間あったので、ゆっくり娘と過ごせるなと思ったことを覚えています。

同時に、病院で言われるがままに急いで葬儀について決めてしまったこと、そして医療解剖の決断をしたことについても、不安を感じる時間もありました。

結局葬儀に関しては、自宅に帰ったあとに自分で調べて葬儀屋さんやプランを変更し、納得のいく形を取ることができました。

【写真】ベッドの上に手紙やおもちゃが置かれている

お葬儀までの間は、6年間使ったベビーベッドに寝て、たくさんの好きなものに囲まれて過ごしました(提供写真)

「終わりよければ全てよし」という言葉もありますが、私自身、今は娘との最期の時間や送り出し方について「全て最善だった」と感じることができ、それがその後の自分の気持ちの整理に大きく影響していると思います。

ただ最期の決断を後悔しないように、医療解剖や葬儀、お墓について、周りの方への連絡方法などもう少し事前に情報を得られる環境だったらよかったなと感じました。

家族や周囲の人の優しさが心に沁みた、葬儀前後の時間

そうやって振り返れば後悔のない時間を過ごした私ですが、当時のストレスはすごいものでした。

娘を連れて帰った後、葬儀について各方面との調節が必要でしたが、そのストレスに耐えられず、お腹に激痛が走るようになってしまったのです。横にもなれず、ただソファに座って泣いて悶えるようになってしまいました。

病院に行くと、胃潰瘍が2つ出来ていることに加え、ストレスで胃酸が異常に増えている事で激痛が起こるという診断でした。

点滴と薬で何とか耐えましたが、電話で娘の葬儀の話になると、その場で吐いてしまうような状態。当時はとにかく、葬儀に出れなかったどうしようという焦りと、「娘との貴重な時間を無駄にしている」という自分への怒りの感情とともに、ただただ痛みに耐えていました。

その間、私を支えてくれたのは家族の存在です。

葬儀までの間は、夫の母が泊まり込みで家のことや葬儀の打ち合わせを進めてくれました。

胃痛で苦しむ私の側に座って、「可哀想に」と背中をさすってくれたり、ちょっと調子が良くなると、一緒に娘のベッド周りの飾り付けを作ってくれたりしました。

家族の誰も、一言も私を責めるような事もなく、心から心配してくれていたこと。娘の葬儀に向けて、私に一つずつ確認を取りながら進めてくれることが嬉しくて、安心することができました。

また、葬儀屋さんやお坊さんも色々と心遣いをしてくださったんです。物がいっぱい入るように少し大きめの棺桶を提案してくださったり、菜生の生い立ちを丁寧に聞いて戒名をつけてくださったり、人の優しさが心に沁みた期間でした。

おかげで、何とか1週間で体調は持ち直し、最期は望んでいた家族葬を自宅で執り行うことができました。

「娘がいた日に戻りたい」そう無性に思う日々。支えになったのはノートに気持ちを書き出すこと

そんなふうに娘が亡くなって、半年が経ちました。

周囲と娘の話をする機会も少なくなって、穏やかに暮らす毎日でも、自分だけ11月3日で時が止まっているような、地に足がつかない不思議な気持ちがあります。

亡くなった1-2ヶ月は、何も感じずただ「やりきった」という気持ちだけがありました。何より疲れ切っていて、「息をするのに精一杯」な状態。周囲との連絡を断ち、体力の回復に努めました。

2、3ヶ月経つと少し体力も持ち直して来て、菜生がいない生活が寂しく感じました。周囲の言葉にも傷つきやすくなった時期だったとも思います。

そろそろ何かしないとね。

ちょっと落ち着いて、日常が戻ってきたんじゃない?

悪気はないとわかっていても、そんな言葉を聞いたときは、どうしようもない気持ちになりました。私にとっては今生きることが精一杯だったし、6年間娘のお世話ばかりしていた私にとっての日常は、娘との日々だったからです。

娘がいた日に戻りたい…。

そう強く思う日々でした。

4ヶ月くらい経つとアンリーシュの活動も復帰し、忙しく動き始めるように。気持ちの変化としては、「過去に戻りたい」という気持ちから後悔の気持ちに変わっていきました。

何であの時娘を可愛いと思えなかったのか。

あんなひどい事をした。

娘に謝りたい。

謝りたくても謝れない、許してもらう事ができない…そんな苦しみを抱えました。

【写真】菜生ちゃんが使用していたベッドの様子

娘が亡くなって4ヶ月ほどの期間、気持ちの整理はずっとノートを使ってやっていました。

毎日2時間以上ノートと向き合って、自分の想いを吐き出したり、整理したりしました。

ノートを書き始めると、最初はどんなにネガティブな言葉しか出てこなくても、不思議と最後は前向きな言葉や優しい言葉が出てきます。それに気づいてからは、「自然と前向きな言葉が出るまで書き続ける」と何となく決めて、同じテーマについて3日間ずーっと書き続けたりしました。

頭の中だけで考えていると、同じことをぐるぐる延々に考えてしまいますが、書き出すとそれが見える化されて、だんだん客観的に見れるようになってきたと思います。

ノートの初めの方は「寂しい」の単語だけを何ページも書いていたりするのですが、1ヶ月たつと、「何で寂しいのか」「どんな時に感じたのか」など日記のような形で書いてあって、気持ちの変化を自分でも感じることができました。

「この素晴らしさを周りの人にもシェアしないと」そんな気持ちで始めた発信がNPO活動に繋がっていった

振り返ると娘との生活は、常に「発信」がセットでした。最初はSNSなどでの個人的な発信から始まり、今は医療的ケア児家族のことを多くの人に知ってもらうためのNPO法人を立ち上げました。

そこでは、主に医療的ケアや病気・障害のある家族や、そういった子どもたちのことを知りたい人に向けて、WEBメディアとYouTubeを通して情報発信を行っています。

特に娘の最後の1年間の様子をリアルに記録したYouTubeチャンネルでは、医療的ケア児のことを多くの人に知ってもらうと同時に、当事者や支援者が支え合うコミュニティとなりました。

菜生の夜のケアの様子をナイトルーティンとして紹介した動画は、すでに90万再生を超えています。ケアだけ見ると大変そうですが、娘の表情や家族の関わりを通して、「寝たきりでも意志はある」という、テキストでは伝わりにくい表情やコミュニケーションの様子を伝えることができました。

「医療的ケア」は、一見するとかわいそうに見えるかもしれませんが、私たちにとっては日々を楽しむために必要なツールというだけ。

なおちゃんはママのことがすごく大好きなんですね。

ケアは大変そうだけど、こういう表情がかわいい、

そんなコメントをもらってとても嬉しく感じました。

YouTubeでは娘の育児や私自身の気持ちをありのまま発信していますが、一方的な発信ではなく、視聴者の方が自分の病気や感じている思いを教えてくれることもあります。さらにそこから視聴者同士のコミュニケーションが生まれ、それがアンリーシュのYouTubeのチャンネル全体の、居心地の良い雰囲気になっていると思います。

先月、ライブ配信中にある視聴者さんから「てんかん発作による痛みが強くて辛い。何か笑える話が聞きたい」とコメントがありました。すると、他の視聴者さんから続々と「笑い話」が持ち寄られ、読み上げながら私も爆笑してしまったほどです。

結果として、私が渾身のドジ話をしたら「今のお話すごく面白かったです。笑いました」とコメントが。無事に視聴者さんの願いを叶えることができました。

医療的ケアだけでなく、色々な病気や障害を持つ人、その家族や医療福祉関係者、自身に関係なくても知りたいと願っている人が集まり、支え合うこの空間が、私は大好きです。

【写真】アンリーシュ理事メンバー2人と金澤さんが笑顔でこちらを見ている

アンリーシュ理事メンバーの写真(提供写真)

WEBメディアでは、「医療的ケア児家族に役立つ情報を届ける」をコンセプトに、200以上の記事を掲載しています。医療的ケアに関する体験談や、医療福祉の基礎情報などを読むことができ、今では月間3万人の人に訪問していただけるメディアに成長しました。

私と創業理事たった2人で始めた団体でしたが、この1年間で心強い仲間と読者に支えられ、安心して発信し助け合いが生まれるプラットフォーム作りを進めています。

どうしたら私は娘の死を受け入れたと言えるようになるんだろう

娘の死をきっかけに「人が死ぬとはどういうことなのか」を深く考えるようになりました。日々気持ちの変化がある中で、「どうしたら私は娘の死を受け入れたと言えるようになるんだろう」と思ったからです。

誰かが死ぬというのは、一生謝ることも許してもらうことも、できなくなってしまうことだ。

これは私の中で出た一つの結論です。そして死を受け入れるとは「相手に謝ることができないのだと自覚して、その想いを背負って生きていくことだ」と思っています。

私は先ほども書いた通り、娘に自分の未熟さをすごく謝りたいと思っています。相手が生きていれば、それは実行に移すことができるし、もし許してもらえたらそれは本当に幸せなことです。

でも、亡くなった相手にそれはできません。

それを嘆いたり足掻くのではなく、その想いとともに日々を淡々と過ごせた時に、私は娘の死を受け入れたと言える気がしています。

一方で、「だから人が生きているってありがたいんだ」と思うこともできました。もし、あなたに謝りたいとか償いたいと思った人がいたら、あなたが生きていてその人を許してあげるだけで、その人はとても救われると思います。

それは本当に素晴らしいことだと、今私は感じています。

亡くなった今も、やっぱり娘の存在が愛おしいから毎日幸せ

振り返って見ると、娘の育児は前回の記事のタイトル「娘を愛することに理由なんていらなかった」の一言に全て集約されていました。

娘の病気が発覚した最初の頃は、「将来結婚も仕事もしないこの子は生きる意味があるのか?」と娘に対して愛情を持ちにくい時期がありました。

普通の子育てだって、この子が足が速いから好きとか思わないはず。その子自身を愛する中で、個性も一緒に愛していけばいいんだ。

そう思ってからは、娘を愛する気持ちがいつもベースにあって、娘の育児が一気に楽しく幸せになりました。それは調子が良くて「なおちゃんのママすごい」と言われてる時も、娘が亡くなるかもしれない、孤立した環境でボロボロな時も、どんな状況でも変わりませんでした。

【写真】菜生ちゃんを抱っこし笑顔でこちらを見ている金澤さん

娘の病気や最期の治療に関して、「大変だったね」と言ってもらえることはとてもありがたいです。でも実はいい時も悪い時も、娘が愛おしくて存在がある事が幸せな事は変わりない。そういう意味では、娘が生まれてから私はずっと幸せでした。

それは亡くなった今もそうで、寂しい気持ちや葛藤があっても、やっぱり娘の存在が愛おしいので毎日幸せです。

後悔や悲しい感情で思い起こすのではなく、愛情を持って思い出せたら

ここまで読んで頂きありがとうございました。

私が娘との経験を通して、同じように大切な人を亡くした方に伝えたいのは、「大切な人の存在や、その人との経験は常にずっと残っている」ということです。

それをできれば、後悔や悲しい感情で思い起こすのではなく、愛情を持って思い出せたらいいように思います。

最近私が実践しているのは、「目の前の人を大きくなった娘だと思って接する」ということ。

もしこの人がなおだったら、今どんな気持ちでいてほしいかな。

もしこの人がなおだったら、この人にどうしてほしいかな。

そう思うと、相手に対して一時的な感情に振り回されず、愛情を持って接することができるように思います。

私が娘だと思って相手に接すると、いつもでてくる感情は「頑張らなくていい、あなたはあなたのままでいい」ということ。なにができてもできなくても、存在してくれていることがありがたいと思い出すことができます。

そういう風に接することで、もし相手も優しい言葉や、愛情深いお返しをしてくれたら、私自身もとても満たされることができて幸せです。

大切な人がなくなるというのは、とても壮絶で辛い体験です。

今どんな気持ちでも、あなた自身が感じている気持ちを最優先にして、今を過ごしてほしいと願っています。もし人と繋がりたいなと感じたら、アンリーシュを覗いてみてください。

私は娘との経験を糧に、目の前の人が生きていることに感謝し、未来を心配しすぎず、過去を悔いず、「今」に集中して生きていきたいと思っています。

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(編集・企画進行/松本綾香、写真/加藤甫)