【写真】笑顔でこちらをみているたかおさん

こんにちは、一般社団法人ヤングケアラー協会の高尾江里花です。“ヤングケアラー”とは、本来大人が担うと想定されている家族の介護や家事などを、日常的に行っている子どもや若者のことを指します。

ヤングケアラー協会は、ヤングケアラーの「出口」をつくることを目的に結成された団体で、すべてのヤングケアラーが自分らしく生きられる世界を目指しています。日本最大のヤングケアラーのオンラインコミュニティ(Yancleコミュニティ)の運営やヤングケアラーの就職支援、ヤングケアラーが社会に広く認知されるための啓発活動などを行っています。

私は、現在ブライダル企業で働きながら、ヤングケアラー協会の活動に携わっています。ヤングケアラー協会では、講演や当事者同士での語り合いができるオンラインサロンの運営や取材の対応などをしています。

私自身、中学2年生の時に母が脳内出血で倒れ、その影響で右半身不随と失語症の後遺症が残った母と約10年間過ごしました。母が倒れてすぐ、父も心の調子を崩して入院するなど、今思えば平坦な道のりではなかったと思います。

2年前に母がガンで亡くなり、私はそれから初めて「ヤングケアラー」という言葉を知りました。「私のことを表す言葉があったんだ」と驚いたことを今でも覚えています。

今回は、母との生活や当時の感情、そして今のヤングケアラーに対してどんな思いを持っているか、お話したいと思います。

みんな性格が違うけれど、家族はお互いを理解して尊重し合える関係

【写真】話をしているたかおさん

私の家族は、父と母、私と妹の4人です。幼い頃、私は人見知りで、親戚の人が遊びにきても、母に抱っこされて膝から離れなかったそうです。

幼少期の私は、人のことを考えすぎてしまうところがありました。幼稚園の時、運動会のリレーで私が走った時のこと。前を走っている子をあと少しで抜かせそうなところまできていたのに、追い抜けなかったんです。誰が見ても、いきなりわざと減速したことがわかる走り方だったそうです。その瞬間、「もし私が抜かしたら、この子はみんなから怒られちゃうのかな」と考えて、追い抜けませんでした。

そんなに考えなくてもいいのに、ということまでつい考えてしまう子どもでした。

それから小学生になると、人見知りが180度変わりました。当時モーニング娘。が流行していて、私自身もその曲で踊るのが大好きだったんです。その影響からか、新体操を習いはじめるようになって、どんどん表現することが好きになりました。そこからは人見知りだったのが嘘のように、学校のクラブ活動や学級委員会など目立つ役割に対しても率先して手をあげるようになりました。

新体操では、衣装やリボンなどの手具を用意しなければならないのですが、母が仕事の合間にそれを作ってくれました。母が作ってくれたキラキラした衣装を着て踊るのが大好きだったのを覚えています。

【写真】キラキラとした新体操の衣装を着て踊るたかおさん

衣装を着て新体操をする高尾さん(提供写真)

うちの家族はみんな性格がそれぞれ違っていて、母は天真爛漫、父は繊細で口数少ない人でした。例えば、幼い頃にカラオケに家族で行った時のこと。母が誰よりも率先して一番手に歌っていて、父はなかなかマイクを持たなくて、「みんなが楽しければ俺はいいんだよ」と言うようなタイプでしたね。いろいろ考えすぎてしまう私と比べて、妹は母にも似たところがあり天真爛漫でした。

【写真】たかおさんが小さな頃のご家族との写真。雪景色の中家族4人が並んでいる

幼少期の高尾さんとご家族(提供写真)

今思えば、両親に「これをやりなさい」「勉強をしなさい」などと言われた記憶はなく、習い事の新体操も自ら「やってみたい!」と始めました。それぞれの性格が違うからこそ、その違いを受け止め、お互いを理解して尊重し合える関係性が、私たち家族にはあったと思います。

帰宅中の母が電車で脳内出血に。家族の運命が変わった日

【写真】たかおさんが座っている様子

私たち家族に衝撃的な出来事が起こったのは、中学2年生のある金曜の夜でした。

私は父と妹とテレビで音楽番組を観ながら、電車で通勤している母の帰宅を待っていました。すると、家に電話がかかってきたんです。電話口の父が「え?」とショックを受けた様子で電話を切ったと思ったら、「お母さんが倒れて、病院に搬送されているみたい」と一言。

母は仕事から帰宅中の電車内で脳内出血を起こして倒れ、救急車で病院に搬送されていました。いきなり体調がおかしくなったからと、近くの心優しい乗客の方が駅で降ろしてくれたそうです。私たちは急いで病院に向かいました。

そこで見たのは、これから脳の緊急手術をするということで、坊主になっている母の姿。本人はおそらくその時は意識がなく、そのまま手術室に運ばれていったのを覚えています。

当時、私はまだ幼くて脳内出血の大変さをよくわかっていなかったので、もちろん心配な気持ちや母の無事を祈る思いもありましたが、一方で「ドラマでよく見るシーンみたい」と子どもながらに思っていました。そして、病院に到着したら当然お医者さんが手術で病気を治してくれるものだと信じていたのです。ただ、現実はそううまくはいきませんでした。

母に次に会えたのは、手術から1〜2日たったあとで、まだICUの中にいました。妹は小学生だったので母の変化を受け止められない可能性もあると、中に入らせてもらえませんでしたが、私は中学生だから大丈夫だろうという判断で母に会うことができました。

ひさしぶりに会った母の顔半分は、脳の手術をした影響でパンパンに腫れていて、右半身は麻痺でもう動かなくなっていました。でも左半身は、意識がないはずなのにすごく活発に勝手に動いていてしまうような状態で。

人間の体は意識があって意志がなければ動かないと思っていたので、その時は、「これって本当に人間なのかな?」って思うくらいの驚愕がありました。もちろん悲しみもありましたが、悲しむ余裕なんてなかったです。何よりも、今までの元気で明るい母とはあまりにもかけ離れた姿になっていたので、「本当にお母さんなのかな」という戸惑いが第一印象でした。

この時、私はようやく起きてしまったことの重大さを理解したように思います。そして、倒れる直前の母の疲れた表情を思い出していました。

こんな状態になるまで頑張らせてしまって、ごめんなさい。こうなる前に何かできたことがあったのではないかな…。

私の心は、母への申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

まだ40歳を過ぎたばかりなのに動かない体になってしまったお母さんは、今どういう風に思っているんだろう。

そんな思いが胸に押し寄せて、自分自身がつらいというよりも、「母がつらいんだろうな」と思うことがつらかったです。

「救急車を呼んでくれ」母の入院からしばらくして父も入院することに

【写真】ビルを見つめるたかおさん。反射して鏡のようにビルに映っている

母はICUで1〜2週間治療を続け、その後1ヶ月間ほど入院を続けることになりました。

その頃父は母のお見舞いもしながら、私と妹の面倒も見ていたのですが、子どもの自分から見てもはっきりわかるほどに、様子がどんどん変わっていきました。

私は中学生でお弁当が必要だったので、父なりに冷凍食品を駆使して頑張ってお弁当を作ろうとしてくれたんです。でも、いつもなら当たり前のように操作ができる電子レンジの操作方法がわからなくて、冷凍食品を温めることすらできませんでした。その時、「パパ、大丈夫かな」と感じたことを覚えています。

父は繊細な人だったこともあり、この状況に憔悴し切っていることがよくわかりました。何か質問をしても的を射た回答をしてこないことも多く、母のことももちろん心配でしたが、それと同じくらい、父のことが心配でした。つらいことがあると、こうやって人は壊れていってしまうのかなと不安になったのを覚えています。

母が倒れてから2週間くらい経った頃のある夜、父にこう言われました。

今血管が切れたような気がする、だから救急車を呼んでくれ。

子どもだったので、それが精神的に追い込まれているからだということもあまりわからず、とにかく急いで救急車を呼んで病院に搬送してもらいました。検査した結果、体には異常がなくて、「精神的な理由からくるものです」と言われて、そこから父も入院することになりした。

さすがに両親が2人とも入院した時は「どうしよう」とは思いましたし、お医者さんにも、「大丈夫?」と心配されました。ただ、私はそんな中で弱音を吐いていられないなと思い、洗濯や掃除、料理などの家事は妹と二人で分担して乗り越えました。

妹とは家で、学校での出来事やドラマ、ゲームのことなど、たわいもない話ばかりしていました。当時は「病院でリハビリや治療をすれば、きっと回復するだろう」と思っていたのもあって、「これからどうなってしまうのだろう」という話はあまりしなかったです。

よく二人でお風呂掃除の担当を決めるじゃんけんをしていたのですが、気持ちがモヤモヤしていた日にじゃんけんに負けて、泣きながらお風呂掃除をした記憶があります。「シャワーの音で泣き声が消せるといいな」と思いながら、たくさん涙を流しました。

家族や親戚の存在にも、助けられたと思います。近くに住む祖父母や父の姉にあたるおばは、いつも私たちの存在を気にかけてくれていました。祖父母は同じ屋根の下にいるより、近くで見守っていた方がお互い気を遣わずに済むと私たちを尊重してくれたようで、一緒に住むことはなかったです。

それでも、祖父母が「今のこの経験は、いつか大人になった時に役立つから頑張りなさい」と言ってくれたことは、頑張る原動力になりました。私たち姉妹のこともよく褒めてくれて、私たちなりの頑張りを見てくれている気がして嬉しかったです。

おばは、父が倒れた直後、私たちの家が全く片付いていない状態だったのに、「みんなこんなもんだよ、掃除なんてやりたい時にしかやれない。うちもこんなもん」と言ってくれて。おそらくあえて深刻にならないようにしてくれたんだと思いますが、普段どおり接してくれることは何より嬉しく、とても救われました。

いつか両親が退院して、また前のように家族で暮らせる日が来る。

それを信じて、私は妹と支え合いながらなんとか日々を過ごしていました。

失語症と右半身不随になった母が帰宅。学校に通いながらケアをする日々のはじまり

【写真】たかおさんが外を歩いている様子

倒れた当時よりは回復したものの、母には失語症と右半身不随の後遺症が残り、しばらくすると最初の病院からリハビリ病院へ移りました。

1つ目のリハビリ病院では、身体や言語の機能の回復を図る為に理学療法士さんや作業療法士さんと一緒に訓練をしていました。

2つ目の病院に転院する頃には、短距離であれば杖を持ちながらゆっくりと歩くことができていたと思います。

ここでは社会復帰を図るための訓練もはじめました。例えば、洗濯物を畳むことなどの家事や、自分自身の身の回りのことができるように。加えて、バスや電車の乗り方やレジでのお金の支払いなど、外に出たときの練習もしました。ただ、母が倒れた時の脳内の出血量は亡くなっていてもおかしくないほどの量だったので損傷も大きく、脳の機能は途中から回復力が乏しくなってしまいました。

病院を退院できたのは、倒れてから約1年半がたったころ。母は自宅に帰ってくることになり、在宅ケアの日々がはじまりました。

父は半年間の入院後、半年ほど自宅療養をすると、以前のように働けるくらい回復して、仕事中心の生活になりました。それまでは母も働いていて、共働きで生計を立てていたところから、父だけの稼ぎで私たち家族を養わなければならなくなったためです。

そこで、学生の身だった主に私や妹が分担して、家事や母のケアを担当することになりました。退院してすぐはデイケアの人が来てくれていましたが、長時間いてくれる訳ではなく限られた時間でのサポートだったため、歩行や排泄、お風呂での介助が必要だったので、私たち家族がケアする必要がありました。外出もなかなかままならず、母の通院にも私が付き添いました。

当時は、時間を逆算してケアをすることに苦戦しました。ケアは時に予測不能なことが起こり、多くの時間を要することもあるので、それも加味して行動しないと、大切な学校の授業やテスト、アルバイトの時間などに遅れてしまうのです。実際に何回か大切なタイミングで遅れてしまったこともありました。

ケアが始まってしばらくは、私たちにとっては「ケアがあることが当たり前の生活」だったので、ケア自体に関しては「つらい」と思うことはあまりありませんでした。ヤングケアラーにはよくあることなのですが、母のケアは自分がご飯を食べたりトイレしたりすることと同じくらいの存在だったのです。ケアに対して「つらい」と思うのは、もう少し成長してからのことで、中学生の時は家事の一つという感覚で母のケアをしていました。

母は40代とまだ若く、リハビリも頑張っていたので、短い距離なら杖をついて歩けるようになるなど、身体的な症状は徐々に回復する姿もみられました。

一方で、失語症についてはなかなか改善せず、これが私の悩みの大半を占めていました。母は「ここここ…」しか言えず、文字を書くこともできないため、ジェスチャーや指差しで意思を汲み取るしかない状態。訓練もしましたが、やっと自分の名前が書けるくらいまでの回復にとどまり、コミュニケーションをとるのに苦戦する日々だったのです。

母の意思がわからない。母の思いを汲み取れない。

コミュニケーションの難しさによって、ずっとつらかったり悲しかったり申し訳なかったりして、どうにもならない思いはなかなか解消できませんでした。

時間を有効活用して、母のケアと高校生活の両立を

【写真】真剣な表情で話をするたかおさん

中学3年になり、人生のターニングポイントである高校受験の時期が訪れました。日々の母のケアがあった私は、「母のことありき」で進路をどうするかを考えていました。今も「自分の選択に後悔は全くない」という気持ちではありますが、介護があったことでなかなか「挑戦しよう」という考えにはなりにくかったと思います。

そして、金銭的な理由もありましたが、推薦入試の方が学力検査で一発本番の一般入試に比べて安全性が高いと思い、高校受験でも私立ではなく公立だけを検討し、無事入学することができました。

入学当初は「ケアがあるから」という理由で、部活動の入部を諦めていました。でも半年後に、やはりどうしても部活をやりたいと思い、ダンス部に入部。本当は年度途中からの入部は禁止でしたが、顧問の先生が理解のある方で入部許可が得られました。

私は介護と学生生活を両立する上で、隙間時間を大切にするようになりました。通学、帰宅時の電車内を勉強時間として確保したりと、時間を有効的に活用することは、ケア生活の中で培った私の特技だと思います。

この頃には母が就労継続支援B型の作業所に通うようになっていたのですが、就労継続支援B型の作業所のスタッフのみなさんの存在にはとても支えられました。

母はこの作業所に通って、主に陶芸を行なっていたのですが、動く左手左脚で器用に陶芸作品を作っていました。作業所に通うようになってから、母は生き生きとするようになり、作業所でさまざまなことができるようになりたいと、自宅でも自主的にリハビリをするように。家族としては、母自身が楽しそうにしているのを見るのがとても嬉しかったです。

スタッフのみなさんは、母が亡くなるまで私たち一家を気にかけて、いつも助けてくれました。母のことを思って行動してくださる方々が、自分たち家族だけではなく身近にいると感じられたことには、とても救われました。

作業所のおかげもあって、私が高校2年生〜専門学生時代は10年間の中でも比較的落ち着いていた数年間だったと思います。

もちろん、日常的なケアは続いていましたが、それにも慣れてきていました。家族のなかで「その日早く帰れる人」や「休みの人」がケアを担当するという日々。当時は、中学生だった妹もかなりケアをしてくれました。もちろん、父も仕事をしながらケアをしていましたが、一時期は妹が母といる時間が1番長かったと思います。本当に、家族みんなで頑張っていました。

今振り返ってみると、私の選択肢は他の家庭に比べると制限されていたと思います。でも、それが当たり前だと思っていたので、「仕方ない」でまとめてしまうところがありました。だから、誰かに相談しようとも思わず、SOSを出すことはなかなかできなかった。家でケアばかりしていると視野が狭まり、考えが閉ざされてしまうところはあったかなと思います。

当時の私を支えてくれたのは、いつも普通に接してくれる友達でした。友達にはほとんど母親のことを相談したことはありませんでしたが、他の子と同じように付き合ってくれる関係性は心の支えでした。だからこそ、あえて母のことは相談しなかったんです。

もし話したら、「えりかはケアで忙しいから、遊びに誘うのは控えた方がいいかな」などと気を遣われることへの躊躇もあったと思います。

こんな私でも友達といっぱい楽しめるし、学校で青春っぽいこともできるし、だから私もケアを頑張れる。

ケアとは関係ない友達との時間のおかげで、そう捉えることができました。

夢を実現させて、ブライダルの仕事をスタート

【写真】微笑みながら斜め上を見上げるたかおさん

私には、母のケアが始まる前から抱いていた夢があって、それはブライダル関係の仕事につくことでした。中学生の頃に親戚の結婚式に参列する機会があって、その時に新郎新婦が愛を誓い合ったり、それをみんなにお披露目して感謝を伝える結婚式って素敵だなと思ったんです。そんな空間を自分も作ってみたいなという憧れがあって、ブライダルの仕事に興味を持ちました。

高校卒業後の進路に関しては、最初から大学進学は視野に入れておらず、「早く社会人になって少しでも自立したい」と考えていました。お金の面で家庭を支えるまでは難しいけれど、自分のことは自分で解決できるくらいの経済力があった方がいいと思ったからです。

だからこそ、憧れだったブライダルの仕事について学び、短期間で卒業できるブライダルの専門学校に行くことを決めました。専門学校であれば20歳で就職できるので、自分の夢を叶えることができると同時に、いち早く自立できます。

母が病気になってすぐは、自分が旅行に行って楽しかった時など、「母はできないのに私だけ楽しんでいていいのかな」と罪悪感を覚えて、葛藤していたこともありました。

でも、その頃には、私の人生はもちろん母ありきではあるけれど、自分自身の人生でもある。私が夢をあきらめて母のケアをし続けることは、きっと母が望んでいることではないと思えるようになっていました。

母も自分の子どもが夢を叶えられたら、きっと嬉しいだろう。

そんな思いが自分自身の活力になったのです。

「家族が家族でいられるように」いつもニコニコと笑顔でいてくれた母

【写真】笑顔でこちらをみているたかおさん

母とは日々の通院など、一緒に行動することがよくありました。ただ、母と外出するのは準備や移動手段の確保などが大変だったので、なかなか気軽にお出かけはできませんでした。なので、学生時代から友達から「お母さんとショッピングに行った」とか「ランチに行った」という話を聞くと、すごくうらやましく感じていました。

母といろんなところにお出かけできるように、私は18歳になったらすぐに運転免許証を取りに行きました。近くのお花が有名な公園に母を連れて行けた時は、本当に嬉しかったです。母は私の運転がぎこちないことに不安だったのか、何だかそわそわしていました。でも、すごく嬉しそうにしてくれていたことを覚えています。

正確なコミュニケーションをとることは難しかったものの、母は本当にずっとニコニコしている人で、家に帰ったらいつも笑顔の母がいてくれました。私たちがケアしていることに対してもしかしたら気を遣っていたのかもしれませんが、母は自暴自棄になったりすることがあまりありませんでした。たとえ何かできないことがあっても、「できないわ、あはは」と笑い話にするタイプだったんです。

例えば靴下が履けなかったときも、「見て、私こんな状態なの。変でしょ」という感じでケラケラ笑う人でした。もちろん言葉を発することはできないんですが、まるでそう言っているかのように、母の気持ちが伝わってきました。私たちもそんな母を見て、「なにそれ〜」と一緒になって笑えたので、そういったところは母の強いところだったなと感じています。

介護や介助というと、どうしても「ケアする側、ケアされる側」と分けて捉えがちですが、元を辿れば私たちは“家族”です。母はいつも私たちが“家族”として普通でいられるように気を遣ってくれていました。それこそが今思えばかけがえのない日常だったと思っています。

【写真】たかおさんご家族が笑顔で並んでいる。お母さんは杖を持っている

高尾さんご家族(提供写真)

母は、自分がつらい状態でも常に人のことを考えて行動できる人でした。外出先で多目的トイレに連れて行ったとき、別の身体障害のある人が近づいてきた時は絶対に相手に譲っていました。また、街で困った人を見つけたら、母が「ここここ」と私にその人を手伝うように伝えてきて、いつも誰かを思いやっていたように思います。

私が仮に母の立場だったとしたら、果たしてこのような振る舞いができるだろうか。

そんなことをよく考えていました。当時も今も、私は母のことを心から尊敬をしていますし、母の子であることは私の誇りです。

乳がんが見つかり猛スピードで悪化。想像していたよりも早かった母との別れ

【写真】たかおさんが歩いている様子

家族のケアを続けていくのはやはり大変なこともありました。

頑張っても頑張っても前向きな結果になることはそうそうないので、答えが見つからないと悩み続ける日々。「欲を言えばケアが終わってほしい」と思いつつ、だけどケアが終わる時は母が亡くなる時か私が逃げ出す時だから、そういったことを考えている自分自身に、罪悪感を抱きました。

だから大変な毎日ではありつつも、目の前にいる母との時間を大切に過ごしていた中、母に乳がんが見つかりました。3年前のことです。

手術をして部分切除しましたが、術後半年で遠隔転移してしまい、がんは猛スピードで悪化してしまいました。術後は定期的に病院で経過観察をしていましたが、転移が見つかった時にはもうどうにもならない状態になっていたのです。

がんが転移していることがわかった時には、「何で気づかなかったんだろう」と、とても落ち込み、自分自身を責めました。病院には毎回私が付き添って、意思疎通が難しい母の代わりに医師の問診を受けていたからです。

最初に乳がんが見つかって切除手術をする際は、母にがんであることを告げていました。ただ、「余命3ヶ月」と医師から告げられた時は、本人に言うか家族で考えて、告知はしませんでした。母はどこまで理解できているかわからないので、余命を告げたとしても、最後に何をしたいか多分わかってあげられないし、ただつらい思いをさせたくなかったのです。

結局最後まで余命のことは言わないままでしたが、その判断が正しかったかどうかは、正直言って今でもわかりません。

がんはどんどん進行していき、最期は在宅看護で緩和ケアをすることに。

この数日が山場ですね。

亡くなる直前、医師からそう言われた私は、母から離れたくないと強く感じて、自宅の介護用ベッドで眠る母のそばを離れずに看病を続けていました。

すると、母がジェスチャーで「いいから寝なさい」と。母がそう言うならと思い、私は近くのソファでうたた寝を始めたんです。ですが途中で母の呼吸が止まりかけていることに気づき、急いで家族を呼びました。

起きろ!

父が声を掛けると、母はうなずくように最期に大きく2回息をして、亡くなりました。

その時あらためて、ケアされる側の母も気遣いをしていたんだな、母らしいなと感じました。

結局、「余命3ヶ月」と言われてからわずか3週間で母は亡くなりました。母のことは脳内出血による後遺症でずっとケアしてきましたが、最終的にはがんで母と別れることになったのです。

それは母が体調を崩してから10年目のことで、私も年齢を重ねてはいたのですが、最期の1年は本当につらかったです。ケアの終わりがとても急展開だったので、私はそれからも気持ちがなかなか消化できずにいました。

「“ヤングケアラー”って私のことじゃない?自分には名前があったんだ」

【写真】真剣な表情でこちらを見つめるたかおさん

母が亡くなって半年後、何気なくニュースを眺めていたときのこと。画面に映った「ヤングケアラー」という文字が目に飛び込んできました。意味を調べてみて初めてヤングケアラーとは本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを、日常的に行っている子どものことだと知りました。

その記事を読んでいるうちにハッとしました。

あれ、これって私のことじゃない?自分には名前があったんだ。私以外にも同じような境遇の人がいるんだ。

それまでは「自分って何者なんだろう」と思っていたので、ビビッときたんです。この「ヤングケアラー」という言葉との出会いによって、自分が過ごしてきた10年間にも意味があるかもしれないと感じ始めました。

母が亡くなってから、この消化不良な気持ちをなんとかしたい、何か行動を起こしたいとは思っていたんです。なので、自分と同じような経験をしている人がいるのだとしたら、何かその人たちのためにお手伝いしたいと思いました。

おそらくヤングケアラーについて伝えることができる経験者はまだまだ少ないと思うので、そうであれば、私はそれを伝えられるスピーカーとしてお手伝いしたかった。

ただ、ちょうどその頃は転職したてでバタバタしていたので、まずはヤングケアラーを知るところから始めることにしました。情報は少なかったですが、文献を読むなどして、自分なりにヤングケアラーについて調べました。しばらくして新しい働き方にも慣れ余裕が出てきたので、「今だったらお手伝いできる」と思って、一般社団法人ヤングケアラー協会にメッセージを送って、今年からメンバーの一員になることが決まりました。

私が協会の活動に参加を決めたのは、もちろん当事者のためになりたいということが大きいです。ただ、それと同時に自分自身のためでもありました。

「ヤングケアラー」という言葉を知る前は、未来に向かって歩いてはいるものの、ずっと過去の延長線を歩いている感覚でした。母があまりに突然亡くなってしまったので、母との別れを消化することができず、過去が自分に取りついたままになっていたのです。それを解き放ちたくて、誰かのためというだけではなく、まず自分のためにもやってみたいと思いました。

スタッフたちと出会って自分たちの経験や思いを語り合うようになってから、「話に共感してもらえることでこんなにも気持ちが軽くなるんだ」と気づきました。“ヤングケアラーあるある”を言い合える日が来るなんて、当時は思ってもいなかったので。

みんなは私と同じく「ヤングケアラーのために活動をしたい」という気持ちが溢れている人たちばかり。同じビジョンを持って活動できることがとても嬉しいことです。

最近は「ヤングケアラー」という言葉が世の中に知れ渡ってきて、ありがたいことに協会に問い合わせをいただくことも増えています。私は地域の自治会に出向いて講演会をしたり、当事者同士で話す場に参加したり、メディアの取材を受けたりと、多岐にわたって活動しています。学生さんの研究授業やドキュメンタリー制作に協力することもあり、いろいろな活動をさせていただけて、本当にありがたく感じています。

講演会には、私がご自身の子どもくらいの年齢の方もいらっしゃり、重ね合わせて話を聴いてくださっていることも。講演の感想で、こんな言葉をいただいたことがあります。

高尾さんが今、自分のやりたいことができていて嬉しいです。今日初めて会った者だけれど、嬉しく感じます。

その言葉を聴いて、「ヤングケアラー」という言葉が少しずつ認知されて、どんな経験をしたか興味をもってくださる人が増えていることを実感し、とても心強く感じました。私たちのような経験をした人たちに「ヤングケアラー」という名前がつくことで、たくさんのひとが自分ごととして捉えてくれるようになったのです。

当事者の子どもや若者たちに対するアプローチももちろん大切だとは思うのですが、やはり当事者自身が「ヤングケアラーだから助けてほしい」と声をあげることはかなりハードルが高いこと。だからこそ、周囲の方々が正しい知識を持って、ヤングケアラーが話しやすい環境を自然と作っていく必要があると思うんです。

その正しい知識を得ることができるきっかけ作りの場をつくるために、ヤングケアラーの経験者である自分がやれることは大きいと思い活動に励んでいます。

ケアを経験したからこそわかった“当たり前への感謝”

【写真】カメラを見つめるたかおさん

母のケアを経験して、確かに大変なことはたくさんありました。しかし、ケアを経験したからこそ、得たものもたくさんあります。

例えば、夜中に高速道路で運転している時、たくさんのトラックが走っているのを見かけたとき、「こうやって夜中にトラックを運転してくれている人がいるから、いつもお店にアイテムが並んでいて私たちはいつも困らないんだよね」と言うと、助手席の友達が「えりかって考え方がすごいよね」って言ってくれたんです。

その時、母との生活を通じて、何事も当たり前ではないとわかったからこそ、当たり前のことに感謝できるようになったのかなと思いました。

今の私には、友達や大好きな人たちと気軽に「おはよう」とか「おやすみ」とか、「また明日ね」と言える環境がどんなに大切で貴重なものか、よくわかります。これからの人生を過ごすうえで、“普通の日々”こそが幸せに溢れているのだとわかっただけでも、自分の経験したことに意味があると思っています。

母の近くで過ごす中で、「人生は有限だ」ということを強く感じました。母もきっと人生をもっと充実させたかっただろうから、母の分まで生きることは難しくても、人生を充実させるための“当たり前への感謝”を知ることができたのはありがたいこと。私がそうなれたことは、母にとっても嬉しいことなのではないかなと今感じています。

「頑張ってね」じゃなくて「頑張ってるね」。ヤングケアラーの子どもたちをサポートできる環境づくりを

【写真】笑顔で話をするたかおさん

ヤングケアラー協会で今取り組んでいるのが、ヤングケアラーの当事者が気軽に相談できるLINEの相談窓口の運用です。気軽なコミュニケーションツールの代表でもあるLINEを活用して、友達や家族と連絡を取り合うような感覚で利用してもらうことが目的です。

私自身の経験からも、当事者が自分で声を上げることは難しいと感じるので、手軽に周囲にSOSを出せるツールを作りたいという思いがあります。その相談窓口の運用資金を集めるため、多くの人の協力を得たいと考え、現在クラウドファンディングを実施しています。

家族のケアを経験して今は前向きに生きている私の話を聞いたとしても、大変な思いをしている当事者の人たちの中には、私の言うことが「きれいごとだ」と思えて、全ての言葉を受け止めるのは難しい人もいると思います。ケアをしていた時の私自身もきっと同じように感じたと思うので、その気持ちはよくわかります。

ただ、そんなヤングケアラーの当事者の人たちに伝えたいことがあります。これは、私が当時の自分に伝えたいことでもあります。

私の人生は母のケアありきだけれど、自分自身の限られた人生でもあります。それはあなた自身も同じです。自分の人生を豊かにするのは自分のためでもあるし、自分の周りにいる人たちのためでもあるんです。

きっとつらいこともたくさんあると思います。でも、SNSや窓口など、吐き出せる環境はたくさんあるので、ぜひ気軽にコンタクトを取ってほしい。相談することは決して自分が弱いせいではないし、相談したら負けではありません。自分自身をより豊かにするための一つの方法なので、自分のための相談を気軽にしてほしいです。

そして、自身は当事者ではないという方々にもお願いがあります。周囲にヤングケアラーの子がいることに気づいたら、まずは毎日必死に頑張っていることを褒めてあげてほしいんです。「頑張ってね」じゃなくて「頑張ってるね」と声をかけてあげてほしい。ヤングケアラーはきっと今でも充分すぎるくらい頑張っているので。

頑張っていることが認められると、自信を持つことができて、その子の前向きな性格を形成するきっかけを作ることができるはず。何事もきっかけが大切です。

また、ぜひケアに関する相談以外のその子にまつわる様々な話も聴いてあげてほしいです。当事者の子たちにとって「相談まではいかないけないけど話したいことがある」という内容自体が、実はその子を取り巻いている問題のひとつであることも多い。子どもたちがかまえずにまずは気軽に話すことができる環境作りが必要だと感じます。

私はこれから、まさに今、家族のケアをしている子どもたちが自分らしくいられたり、自信をつけて挑戦しようと思えたりするために活動していきたいと思っています。

どうしてもヤングケアラーの子どもたちは、「自分はかわいそうな子だと思われている」と感じてしまう場合が多いんです。そして、私のように挑戦を諦めてしまうことも少なくありません。でも私は、やりたいことに挑戦することってすごく大切なことだと思うんです。

あなたはけっしてかわいそうでははないんだよ。

社会はたくさんいい人やもので溢れているよ。

こんなふうに、子どもたちに自信を持ってもらえるような声がけをしていきたい。そして、子どもたちが自分たちの夢を広げられるような社会を作っていきたいです。

【写真】笑顔でカメラを見ているたかおさん

関連情報:
ヤングケアラー協会では、 ヤングケアラーのためのLINE相談窓口の開設や啓蒙コンテンツの制作をはじめとして、活動をより広げていくために、2022/9/17までクラウドファンディングを実施中です。 クラウドファンディングページ
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(執筆/高村由佳、撮影/川島彩水、編集/工藤瑞穂、企画・進行/松本綾香)