【写真】笑顔でカメラを見るわたなべむつみさん

皆さま、初めまして!渡辺睦美です。

私は、地元は東京ですが、現在は仕事の関係で福岡に住んでいます。福岡のソウルフード、もつ鍋、水炊き、ダシの効いたやわやわのうどんが本当に大好きです!

いま私は、さまざまな事情を抱える家庭が孤立しないように地域で支えたり、子どもたちを養育する里親の普及や虐待予防の取り組みを行う「NPO法人SOS子どもの村JAPAN」で広報を担当しています。

また、「NPO法人全国子どもアドボカシー協議会」と「子どもアドボカシー学会」の理事をしており、子どもが自分の考えを表明できるようにサポートする「子どもアドボカシー」という活動も行っています。

子どもの声が聴かれる社会

子どもの声が大人に届くために

私が何故、このような思いを持って子どもにまつわる仕事をするようになったのか。それは、私の生い立ちや、育ってきた環境が大きく影響しています。

実は私自身、里親家庭と児童養護施設で生活をしてきた経験があります。

今回は私が社会的養護のもとでどんな経験をしてきたのか、それを通して今どんな願いを抱いて活動しているのか、お話したいと思います。

家庭で過ごすのが難しく、4歳で児童相談所に保護されることに

【写真】微笑みながらインタビューにこたえるわたなべさん

私の家族は、母と10歳離れた兄の3人家族です。母は兄を産んだあとに私の父親と再婚したため、兄と私は父親が違います。また、私が生まれたあとに父とは離婚したため、私は自分の父親の顔を知りません。

小さい頃の私は、とってもお転婆で自立心旺盛。「自分のことは全部自分でやりたい!」という気持ちが強くあり、自分のすることに大人が手伝うだけでギャン泣きするような子どもでした。(大人になった今も、そんなに大差ないな、と思うところがたくさんあります。笑)

気が強かったようで、私は覚えていないのですが、母には「10歳離れた兄をよく泣かせていた」と言われたこともあります。

母親はシングルマザーとして私と兄を育てていましたが、ずっと精神疾患がありました。それは、母親自身も虐待を受けて育ったため、頼れる家族がいなかったのだと想像します。また、何か困ったことがあったとしても、実家を頼ることができませんでした。

そして兄は私の父から虐待を受けていた影響もあったのか、知的障害を持っていました。

さまざまな困難が重なり、ある意味、母親はとても孤立した状況で“孤育て”をしていたのだと思います。

やがて母親が私たちを育てるのには限界が訪れ、4歳のとき、私は児童相談所から保護をされ、里親家庭で生活をすることになりました。

暴力があるなか“良い子”として過ごした里親家庭での生活

里親家庭とは、さまざまな事情で子どもを育てられない家族に代わり子どもを養育する、一時的な代替養育を行う家庭のことです。法的な親子関係はありませんが、里親家庭で生活することで特定の大人と愛着関係を形成することができると期待されています。

里親家庭で生活をしていた4歳からの10年間は、私にとって、とても辛く、しんどい10年間でした。

なぜかというと、里親さんによる私への暴力や暴言があったからです。

里親家庭にきた当初、私はとても“良い子”として生活をしていました。大人たちが「こうなってほしい」「ああしてほしい」と思う気持ちを常に感じ取りながら、「今このとき、この言葉を言った方がよい」と常に考えながら生きていたと思います。

大人からの期待に応えることができないときは、家に戻ると暴力を振るわれることもあったし、暴言を言われることもたくさんあった。なので、里親さんのことは信頼していなかったし、「なんかこの人、おかしいかもしれない」と思い始めました。

小学6年生の頃から、「里親さんの言う通りの人生は歩みたくない」と感じるようになってきて。中学1年でピアスを開けたり夜に街でたむろしている先輩と遊んでみたりなど、私がいわゆる“反抗”を始めた頃から、里親さんからの暴力や暴言がさらに増えていったように思います。

里母さんが私の言動で何か気に入らないことがあれば、孫の手で叩かれる。夜、寝ている間に急に叩かれ、怒鳴られ、起こされることもしばしばありました。

逆に里父さんとの関係は良好なほうだったかもしれません。里父さんには半身麻痺の障害があったので、私は里父さんにはできないこと、手伝ったほうがよいことを先回りして感じ取り、生活しやすいようにサポートをしてきたと思います。しかし、私が里母さんから暴力を振るわれている間は、里父さんは体のこともあって何もできず、傍観するしかない。そんな状況が約10年ほど続きました。

【写真】テーブルに座り真剣な表情でお話しするわたなべさん

今考えると、里父さんには私のなかにある、「ほんとうの気持ち」をあまり受け止めてもらえなかったのではないかと思います。

お母さんはまじめすぎるんだ。だからむっちゃんが理解してやってほしい。俺が言ってもお母さんは聞かないから、殴られないようにしてくれ。

事を荒立てることを嫌う里父さんは、私が小学生の頃からこんな言葉をかけ続けてきました。

ずっとそう言われ続けたせいで、私は自然と言葉のとおり、「暴力を振るわれるのは、自分が悪いのだ」と思うようになったのです。私が「お母さんを理解しないといけないんだ」と。知らず知らずのうちに、暴力を振るわれている自分を責め続けながら生きていたのかもしれません。

あなたがきたせいで、私たちの夫婦関係がおかしくなった。

里母さんから、そんな言葉を投げ掛けられたこともありました。

2人の夫婦関係を優先し、私のことは置き去りにされていたのだと。いま振り返ると、そんな風に感じる事があります。

周囲との違いに気づき、生きる希望が見いだせない日々

「家庭とはこうあるべきだ」

里親さんは夫婦が思い描く、強い理想を持っている人たちだったので「私がどうしたいのか」ということよりも、「こういう家庭にしたい」という、理想が人一倍強かったのかなと思います。

「いい子にしていたら、養子縁組できるからね」と声がけされていたこともあって、「いい子でいなければ、生きていけない」というプレッシャーを感じながら生活をしてきました。

【写真】わたなべさんの両手。膝の上で重ねている。

また、本能的に、里親さんに対して「この人の言うことを聞いていないと、私の住む場所がなくなってしまう」という思いも強くて。「こうしてほしいんだろうな」と気持ちを察して、里親さんの求めていることに応えるように行動をしていました。

家の家事も率先してやるし、言われた事は比較的完璧にこなす。人の気持ちの変化にも敏感だったので、大人の考えていることを手にとるように感じ取ってしまう。周囲から見て比較的いい子に育ってきたし、いわゆる“優等生”だったと思います。

そんな日々を過ごしていくなかで、里親さんの家はけっして裕福なわけではなかったのですが、たまたま高級住宅街にあったこともあり、徐々に周囲の友だちと生きている世界が違うのだと実感するようになります。クラスの2/3くらいの生徒が受験して私立中学に進むような状況だったので、住んでいる家や持ち物、振る舞い方でも差を感じました。

里親さんはマナーなどのしつけは厳しかったですし、値段が高めの飲食店に連れていってもらうことも多かったのですが、なぜか私の服や持ち物にはお金をかけてもらえなかったので、同級生の中では少し浮いていたのではないかと思います。新品の洋服を買ってもらえず、毎日同じようなパーカーを着て学校に通ったり、サイズが合っていないぶかぶかのスニーカーをボロボロになるまで履いていたり……。

そういった積み重ねによって、私の生きている世界と友だちの生きている世界は違うのだと、周囲と自分を比べていたし、徐々に自分の人生を諦めるようになっていきました。

学校で書く作文の、よくあるテーマの「将来の夢」や「母の日」「父の日」も、当たり障りのない、それっぽい文章をテキトーに書いて提出するだけ。作文を書いていた裏側の本音は、生きる希望を見出せず、親への感謝などなかったと思います。

希望がない。未来が見えず、やりたいことがない。

そんな絶望的な気持ちでいっぱいでした。

里親からの暴力が続き、不登校に。家にも帰りたくなかった

【写真】わたなべさんの背部。右の方向を向いている。

幼少期から里親さんに暴力を受けてきた私は、日常的に過呼吸が起きてしまうことがありました。

親以外で日常的に接する唯一の大人である学校の先生に、家で起きていることをそれとなく伝えてみたこともありましたが、誰も信じてくれません。私は他の子に比べておしゃべりだったので大人を怒らせることが多かったからか、「あなたがこうやって大人を怒らせているんだから、そりゃ叩かれてもしょうがないでしょ」と先生に返されたこともありました。

また、私が里子であることを「話してはいけない」と里親さんに言われて育ってきたので、周囲に自分の家のことを聞かれても話すことができなくて。そのため、周囲に見せる顔と、実際の自分とのギャップにだんだんとついていけなくなり、学校にうまく馴染めなくなっていきました。

里親さんたちの気持ちを優先し続けてきた私は、自分の気持ちはどこか隅に仕舞い込んでいたのだと思います。だんだん本当の自分のことがわからなくなってきて、中学1年の冬にはバーンアウトをしてしまい、学校に行かなくなりました。

そんなときに助けてくれたのは、他の中学の友だちでした。家の状況や自分の内に秘めていた本音を打ち明けると、友だちは「おかしいよ」と言ってくれ、親子で揃って「家が本当に無理だったら、泊まりにきてもいいよ」と声をかけてくれました。

その言葉に私はとても救われ、自分の気持ちを受け止め、起きている現状を信じてもらえた経験は今でも覚えています。

友達と過ごしているうちに、だんだんとそのほうが居心地がよくなって、私は家にあまり帰らなくなりました。もともと今の家の状況はおかしいと思っていたし、家に帰っても暴言を言われるだけなので、「私が何を言っても、何を思っても無理だ」と感じてしまったことも、大きな理由のひとつです。

しかし、学校にも行かず夜も家に帰らない私を見て、里親さんは耐えられなくなったのか、日に日に私への暴力、暴言は増えていきます。

家に帰るなら、絶対死んだ方がマシだ。

それでも私はそう感じていたので、「もうどうにでもなれ」と思いながら、夜の街を彷徨っていました。

初めて自分の気持ちを受け止めてくれた大人との出会い

私の状況に耐えかねた里親さんが、児相に相談し始めたことをきっかけに、私の気持ちが少しずつ変わり始めます。きっかけは、自分のことを理解してくれる、児相のある心理士の職員との出会いでした。

里親家庭にいた頃は、児相の児童福祉司による家庭訪問が年に1回あったのですが、その際児童福祉司にいつも「私が悪い」と言われ続けていました。

ただ、そのときに面接した心理士は、これまで周囲にいた大人とはなんだか違うような気がしたのです。

この人だったら、私の話を本当に聞いてくれる存在になるかもしれない。

毎日死にたいと考えるほどにつらい日々を過ごしていた私は、「この際、もうどうにでもなれ」と思ったこともあり、初めてその心理士に、自分の本当の気持ちや思い、そして家の中で起きている出来事を打ち明けてみました。

いつ死のうか、毎日考えていること。

私と血のつながりのない他人である里親から、暴力をずっと振るわれてきたこと。

精神的にキツイ言葉をずっとかけ続けられながら、育ってきたこと。

少しずつ、食事をとることができなくなったこと。

夜、ずっと眠れていないこと。

生きる価値が見いだせないこと。

今まで児童福祉司に言わなかった本当の気持ちを、初めて心理士に打ち明けていました。

そのときは自分がこれを言う事で、これからどんな事が起きるかなどまったく考えられませんでした。それほどまで自分の人生を本気で諦めていたからです。

追い詰められて全てを打ち明けた私に、その心理士は初めて「それはおかしい」と言ってくれました。

私は初めて大人に自分の話をしたし、私が話す言葉を信じてくれる大人に出会えたことに救われた思いがしました。学校では先生たちから線を引かれている気がしていたし、大人から見下されているような気持ちになることも多かったので、初めて対等な立場で親身に相談に乗り、自分を肯定してくれる存在を見つけたような感覚でした。

あなたはできる人なんだからもっと頑張れるし、自分のことを信じていいんだよ。

私のいいところを褒めてこんな言葉をかけてくれたときも、背中を押されたようで嬉しかったです。

【写真】インタビューにこたえるわたなべさんの横顔

その後、心理士から「児相のなかにある、ケアを受けられる施設で寝泊まりをしてみないか?」と提案をされます。「もしそこで眠れるようになったり、落ち着いた生活ができれば、里親家庭に問題があることを証明することができるかもしれない」と。

「行ったところで変わらないかもしれない」と思いながらも、少しでもぐっすりと眠れるようになりたかった私は、その提案を受け入れることに決めました。

そこで1ヶ月ほど生活をすると、徐々に私は眠れるようになり、体調も回復していきました。その様子を見た児相は、私が里親さんに暴力を受けてきたことは事実だと判断しました。

安心できる児童養護施設での生活で、怒りや悲しみも表現できるように

その後眠れるようになったため、一度里親さんのもとに戻りましたが、生活がうまく行かず、児相に一時保護をされました。一時保護を経たあと、児童養護施設に入ることになります。中学校2年生の夏の出来事でした。

家を出ること自体は受け入れていましたが、当時、私の居場所であり、大切な存在だった友だちとも縁を切るように児相に言われたことは、受け入れがたいことでした。友達が私の非行を招いているかのように思われていて、自分の存在まで否定された気持ちだったのを覚えています。結局友だちとは、それによって一度縁を切らざるを得ませんでした。

児童養護施設に入った理由は、児相の判断でこれまで私が「非行をしてきた」とされていたようです。ただ施設の職員は、里親家庭のなかで、さまざまな不適切な養育があったのだろうと理解してくれました。「味方がいない」と思っていた私に、このことはかなり大きな影響を与えたと思います。

施設に入った当初の私は、いまだに自分に価値はないし、どうにでもなれ、と思いながら生きてきていました。でもそんな私を見て、職員は私の言葉にならない気持ちを受け止めてくれ、「今のあなたの感情はこういうものだと思うよ」と教えてくれたんです。

里親家庭にいた当時感じていた、怒りなどのさまざまな気持ちを言語化する作業を一緒にしてくれたこと。自分がおかしいと思っていたことを、「いや、それはおかしいよ」ってはっきり言ってもらえること。そういった職員の関わりは、自己肯定感が低い当時の私にとって、自分の感覚をチューニングしていくような感覚がありました。

さまざまな思いを押し殺して生きてきた私でしたが、そういったコミュニケーションを経て、徐々に職員には怒りや悲しみといった負の感情を出すことが出来るようになっていったのです。

ちょうどその頃、進路選択の時期が迫っていたのですが、私は高校受験を見据えていました。

いまは、里親家庭や児童養護施設で生活する子どもたちを取り巻く環境や制度がさまざまな人の努力によってとてもよくなり、進学やサポートの選択肢が増えてきています。でも、当時は高校に進学できないと児童養護施設を離れて自立しなければいけなかったので、施設の先生から「高校に進学できなかったら自分で稼いで、自分で生活を回して行かなきゃいけないけど、できそう?」と、ある意味プレッシャーをかけられていました。笑

いま思うと、私を奮い立たせるために先生はこのような言葉を言ったのだと思いますし、実際にそう言われることで私も腹をくくって受験することができました。ただ、その子によっては精神的につらくなってしまうこともあるので、今振り返るとかなりリスキーな声かけだなと思います。

私の場合、当時の自分が持っている力を考えたときに、なかなか働いている自分が想像できなかったし、何より、いまこの安心できる環境を手放すことは考えられなかった。

なんとか、今の安全で快適な生活を送るためには、高校に行かなければならない。

私は高校にいくためにはどうしたら良いかを必死に考えるようになり、自分のなかにあるマイナスな感情からは一旦距離を置き、自分の生活を整えることに注力することを決めます。

【写真】わたなべさんが前に歩き出そうとしている足元

施設に来る前に不登校だった私は、すでに学力のハンデがあり、高校に合格するには、人の2倍3倍は頑張らないといけないという実感がありました。

でも、児相での一時保護での経験や心理士のような身内以外のさまざまな大人と話す機会が多かったこと。不登校だったところから、高校進学を目指すまで生活を立て直したことは、他の人があまり経験していない自分の強みでもあることに気づき、推薦で入れる高校を探し始めます。なんとか中学にも通い、推薦枠を取ることができ、高校にも合格することができました。

そうした経験を少しずつ積み重ねていき、自分の人生について、前向きに考えることができるようになっていきました。

「自信を持ちなさい」施設の職員のコミュニケーションが私を変えてくれた

その頃から「自分の人生をどうしたらいいのか?」とか、「自分のやりたいことを叶えるためにはどうしたら良いか?」と逆算をしながら、戦略的に今後の生き方について考えるようになりました。

児童養護施設の職員は、私がやりたいことを叶えるためにどうしたら良いかを一緒に考えてくれる大人たちでした。

さまざまな事情で私の要望に応えることができないことがあっても、「なぜ、応えることができないのか?」という説明を、当時の私がわかる言葉を使い、納得ができるまで話し合いをしてくれました。

私が前を向けるようになったのは、そういったコミュニケーションができる施設での生活が、私にとって居心地がよく、安心できるものだったからなのだと思います。

ここだったら、自分にとってマイナスな感情を吐き出しても責められることはない。本音を話すことだってできて、受け止めてくれる大人が居る。

職員とぶつかることがあっても、お互いに「ごめんね」と言えて、助けられたときはお互いに「ありがとう」と言える関係は大きな支えでした。

徐々に施設は、私の一番安心できる場所へと変わっていきました。

自分に自信がまったくなかった私は、先生たちに「あなたはちゃんと出来るんだから、自信をもちなさい!」と怒られることもしばしばありました。笑

自分を傷つけることや、大人たちから傷つけられた経験に引っ張られることはやめて、自分の力で、自分の人生を切り拓いていけるようになりたい。

時間がたつにつれて、そんなふうに思うようになっていきました。

【写真】テーブルに両手を置きながら笑顔で話すわたなべさん

また、高校では友だちや先生にも恵まれ、充実した学校生活を過ごすことができました。
学業、学校行事、アルバイト、趣味でやっていたゴスペル。(バイトは一時、3つも掛け持ちしていました。笑)高校時代の忙しい毎日は、ずっと落ち込んでいた私を救ってくれたように思います。

迫ってくる「自立」という出来事に向き合いながら、私は卒業と同時に児童養護施設を離れ、旅行代理店に就職することになりました。

充実した社会人生活。今後のキャリアを考えながら仕事に打ち込む日々

新卒で就職した会社では、同期や先輩、上司に恵まれ、あっという間に時間が過ぎていきました。

幸い部署の仲間に支えられ、「どうすれば結果が出せるか」ということを、自分で考えながら仕事に取り組むことができる環境でした。その環境が自分にとても合っていたのか、良い成績を残すことができる時期もありました。失っていた自信を仕事によって取り戻していき、充実した社会人生活を送れていたと思います。

自分で稼いだお金で、自分のやりたい事をする。

それが当時の私にとって自信をつける大きな手段でしたし、それができている、いま、この環境は本当に自分にとって幸せな生活ができていると感じていました。学生時代は、海外で働くことや生活することにも憧れていたので、「休みをつかってどれだけ海外に行けるか」と考えながら仕事をしていました。

その一方で、何かあっても親などの頼る先がない私は、どんなに頑張って働いても、お給料が大きく上がるわけではないことへの不安も感じていました。「本当にこの領域でずっと仕事をし続けるべきなのだろうか」と、このまま働き続けることに対しても徐々に疑問を抱きはじめます。

長く働ける領域、そしてどこの領域でも必要とされているスキルってなんだろう。

働きはじめて2年ほどたった頃にはそんなことを考え、自分のキャリアについて向き合うようになりました。

【写真】街路樹を背景に、両手を組みながら話すわたなべさん

絶対に力をつけて、児童福祉業界に恩返しをしたい

旅行代理店で働いていた私がなぜ、今はまったく業界の異なる、社会的養護や社会的養育の分野の仕事に関わることにしたのか。それは2018年に目黒区、2019年に千葉県野田市で起きた児童虐待事件がきっかけでした。

「もうおねがい。ゆるして。」
「お父さんにぼう力を受けています。先生、どうにかできませんか。」

日々ニュースで流れてくる、被害者となった児童2人が残した言葉と、手書きの文字。一生懸命、勇気を振り絞って書いた文字。

私は心が大きく揺り動かされました。

実は私はそれまで、「児童福祉の分野とは絶対に関わらない」と心に誓って生きていました。「仕事はゴリゴリやって。休みの日はたくさん海外に行って、たくさん遊んで。テキトーに付き合う人を見つけて、サクッと結婚。子どもを産んで、普通のお母さんになって、生活をしていくのだ」と、なんとなく思いながら働いていたんです。

また、虐待のニュースは私にとって辛い過去を思い出すきっかけになってしまうので、心理的に距離をとって生活をしていました。けれど、その児童虐待死のニュースばっかりは、私も見て見ぬふりができませんでした。

連日テレビでニュースは流れ続け、どんどん子どもたちが置かれた状況が明らかになっていきます。

この子たちが死んでしまったのは、私のせいだ。

徐々に、そんな風に感じるようになっていきました。

私の人生は、たまたま運良く誰かに助けられて、運良く児童養護施設に入ることができた。なんとか今を生きてこれているのは、私は本当に運がよかったんだと。

それなのに私は自分だけが幸せになることばかり考えていて。私が気づかないうちに、子どもたちが死んでしまったんだ。当事者でもあり、亡くなった2人に近い環境で育ってきて、痛いほど子どもたちの気持ちが分かる私が、この状況を知ってもらうために行動を起こさなかったからこんなことになってしまったんだ。

そんな風に自分に対して怒りが出てくるようになってきて、2019年の初めあたりから、児童福祉の分野で働きたいという思いが芽生えはじめます。

ちょうどその頃、異動した部署が自分に合わない業務で体調を崩し休職していたこともあって、会社を思い切って退職することにしました。

【写真】前の方をじっと見つめるわたなべさん

その後はスタートアップの世界に飛び込みましたが、コロナの流行と、私の実力不足で会社は3ヶ月で退職。

ご縁があって、山梨の古民家を経営している会社に誘われ、2年間休む暇もなく仕事に打ち込んでいました。法人営業、広報、マーケティング、新店舗の立ち上げ、新規開拓。自分の力になると思ったことは全てやらせてもらう機会をいただきました。

そこでは体力が追いつかずしんどい時も多く、求められる目標を達成できずに、全てを投げ出したくなる瞬間が本当にたくさんありました。今まで経験したことないような“挫折”も味わいました。

絶対に力をつけて、私を救ってくれた児童福祉の業界に、今度は恩返しする側になるんだ。

それでも、いつも自分にそう言い聞かせ、仕事に打ち込んでいました。

唯一の心残りではあるのですが、正直その会社では求められる成果は出せませんでした。けれど、いまの私が、子どもの福祉の分野で働くことができ、大好きな広報の仕事にたどり着けているのは、その会社のおかげだと心から感謝しています。

大人の役目は、子どもたちと人生を共にしていく存在になること

【写真】遊歩道をややうつむき加減で歩くわたなべさん

さまざまな仕事の経験を経て、私は2022年4月に念願の児童福祉の仕事に携わることになりました。

現在働いているNPO法人SOS子どもの村JAPANは、子どもたちにとってもうひとつの家族となる里親家庭の普及と、さまざまな事情を抱える子どもと家族の支援を通じて、どの子も子ども時代を損なわれることなく、安心して成長していける社会をめざしています。

【写真】子どもの村福岡の看板

SOS子どもの村JAPANが運営する「子どもの村福岡」(過去のsoar掲載記事より)

私は広報を担当しているのですが、簡単に説明すると、「私たちの活動を多くの人に知ってもらうためにはどうしたら良いか?」という課題に向き合っている仕事だと思っています。伝え方はたくさんある中で、届けたい相手にどのような手段を使ったら、情報が届き伝えることができるのか?

そう考えながら、毎日パソコンと睨めっこしています。

子どもの村が運営する「子どもの村福岡」には5軒の家があり、里親制度を利用して家族と暮らせない子どもたちを受け入れ、村長を筆頭に、育親(里親)、育親を生活面で支えるファミリーアシスタントが、臨床心理士やファミリーソーシャルワーカー、医師など専門家らとチームになり、各家庭で子どもを育てています。

【写真】子どもの村福岡の様子。里親と子どもたちが暮らす家が並んでいる

「子どもの村福岡」の様子(過去のsoar掲載記事より)

働いていると、職員や里親さんと子どもたちについて話す機会がたくさんあります。

話を聞いていると、子どもたちのことを本当に思っていることはもちろん、「これができるようになったんよ!」「これがバリおもろいんよね」とかいいながら、動画や写真を見せてくれたり、「うちの子、進路に迷ってるっちゃんね。むっちゃんはどうしてきたと?」と相談してもらえる機会があります。(うまく答えられているか、不安ではありますが、何とか答えられているかな…?笑)

そういったコミュニケーションをとっていると、「なんだか子育てに一緒に参画させてもらってるみたいやなあ」と思うことがあり、ほっこり温かい気持ちになりながら、くすぐったい感覚になったりもしています。

そして、自分が里親家庭でつらい経験をしているからこそ、子どものことを第一に考えながら、良いことも、大変なことも私たちに共有してくれる里親さんとの出会いは、私にとってはとても新鮮でした。

正直、自分がつらい経験をしたからこそ、里親家庭という制度そのものに対して、疑問や強い批判をする気持ちはありました。でも、今になって私の生い立ちを振り返ると、里親家庭での生活で不和があったのは、“家庭が地域から孤立をしているからこそ起きてしまう出来事”だったのではないかと、身をもって痛感しています。

家庭が地域から孤立してしまっているゆえに起きた歪みが、子どもに降り掛かってしまっている。でも、家庭が地域とつながることができれば、子どもと家族の持つ力は計り知れないな、と思います。

子どもがたくさんの人に見守られながら、安心して生活できる家庭、地域をつくり続けること。どんなかたちでもいいから、大人が子どもたちと「人生を共にしていくひとつの存在」になること。

これが私たち大人の役目なのだと信じ、毎日仕事をしています。

「子ども自身に社会とつながる力がある」と信じることが大切

SOS子どもの村での仕事と並行し、現在私は子どもアドボカシーを広めていくための団体であるNPO法人全国子どもアドボカシー協議会、子どもアドボカシー学会の理事も担っています。

子どもアドボカシーとは、子どもが自分の考えを表明できるようにサポートすること。団体では子どもや若者とのパートナーシップのもと、さまざまな団体や個人と連携しながら、子どもの声を大切にし、すべての子どもの権利を尊重する社会をつくるために活動をしています。

最初は「私の経験を活かすことができれば」と思い始めたこの活動でしたが、ありがたいことに少しずつではありますが、発信の活動にも関わらせていただいています。

【写真】笑顔でお話しするわたなべさん

活動をすればするほど、アドボカシーの活動には計り知れない可能性を感じます。

生活の場所を転々としている社会的養護のもとにある子どもたちは、小さい頃から自分のことを知っている地域の大人の存在を失ってしまうことが多くあり、なかなか自分の人生をひとつの映画のように他者と共有することができません。

また、社会的養護の子どもたちは、大人の想像を超える以上に心の傷を背負い、向き合いながら生活をしています。これはもちろん、社会的養護につながることのできなかった子どもたちも同様です。

自分の容量以上の傷つきを抱えすぎると、自分が何を思い、何を感じ、何が嫌で、何が好きか。

まったく、わからなくなってしまうんです。

キツく蓋を閉めてしまった、小さな心の声を、少しずつ少しずつ。蓋を開けていき、感情を認識すること。それを誰かに伝えること。

それは子どもが自分の人生を主体的に歩んでいくための、大きな鍵になるのではないでしょうか。

そして、ただ「子どもの声を聴く」だけがアドボカシーの目的ではなく、アドボカシーという手段を通じて、大人がまず「子どもには、自分自身の力で地域や社会と繋がる力がある」と信じることができるようになるのが、最大のゴールなのかもしれないと考えています。

子どもたちに、自分の気持ちを大人に受け入れてもらえる経験を

正直なところ、私は母親や里親さんに対して、許せない感情が今でも癒えていません。今でもその頃を思い出すと、泣きそうになったり声や手が震えてしまいます。けれど、むしろその経験をばねにしているし、「忘れちゃいけない」と思って奮い立たされることもあります。

もちろん、虐待を受けていてよかった、里親家庭で育ってよかった、とはけっして思いません。それでも大人になってみると、つらい経験があったからこそここまで生きてくることができたし、自分の経験を仕事に活かすことができていると感じるときがあります。

私は運良くたくさんの人に助けられ、支えられてここまで生きてこれました。頼れる親はいないけれど、だからこそ、つらいときに助けてくれるいろんな人と出会えたことはラッキーだなと思っています。

自分の意志で、自分の力で生きているようで、誰かに生かされていて。自分の人生を切り拓いているようで、導かれていた。

自分の人生を振り返ると、そんな風に思います。

【写真】屋外の椅子に座り、左手を顎に当てながら話すわたなべさん

だからこそ、「声を聴かれる経験は、人の傷つきを癒しながら、その人の一生を支える経験となる」と今強く思っています。

子どもの頃、里親さんや児相の児童福祉司には、私の言っていることを信じてもらえず、「あなたが悪いんでしょ」と言われたことは、とてもつらい記憶として私の中に残っています。

しかし、児相で出会った心理士に話を聞いてもらい、気持ちを受け止めてもらったこと。私の中にあるもやもやを受け止めてくれて、背中を押してくれた児童養護施設の先生たち。過去にとらわれるのではなく、前を向いて生きていくために、いろんな考え方を教えてくれたり、経験をさせてくれた地域の人たち。私はたくさんの良い大人と出会うことができたからこそ、本当に救われたと断言します。

「子どもの声を聴く」とは、ただありのまま子どもの言葉を受け止めるだけでなく、なぜそうなってしまったか、なぜいま、その言葉を子どもたちが言っているのか?という背景まで大人がしっかり考える。そこまでやって初めて「子どもの声を聴いている」といえると私は思います。

子どもたちの声は、大人が思っている以上に小さい声。そんな声を聞き逃さないための努力が、私たち大人には必要だと感じます。

まだ何者でもない私だけど、いつか子どもたちの小さな叫びや、声を受け止められるような大人になりたい。そしてアドボカシーの活動だけに留まらず、いつかは子どもの居場所になり得るものを、さまざまな形や概念を超えていきながら、作り続けていきたいな、と思っています。

私の活動は始まったばかりですが、こうして読んでくださっている皆さんの力が、子どもたちの支えになるかもしれません。

いま、自分の近くに気になる子どもがいれば、心を寄せるだけではなく、実際に声をかけてみてほしいです。もしかしたら、そのひとことが、子どもの大きな救いになるかもしれません。

子どもたちに、自分の気持ちをたくさんの大人に受け止めてもらう経験を。そして、たくさんの自己決定の機会を。

それはきっと自分の主体性を失いかけている子どもたちにとって、一生を支える、大きな経験になります。

なかなかその子が声を発することができないとしても、大人はとてももどかしいかもしれませんが、待ち続けてほしいな…と思います。

自分の気持ちに正直に、嘘をつかないで生きていってほしい

【写真】両手を重ね、ややうつむき加減で歩くわたなべさん

子どもたちにどれだけ届くかはわかりませんが、もしいま生きるのがつらい子どもがいるとしたら、何が嫌で何が好きかといった自分の感情に嘘つかないで生きてほしいなと思います。

きっとそれが表現できるようになると、生きるのが少しだけ楽になるはず。自分を開示するのって大変だけれど、もし最初に打ち明けた人がだめでも、次の人にはもしかしたらわかってもらえるかもしれません。

私自身も少しずつ自分の感情を取り戻していきましたし、今でも取り戻す作業をしている段階です。まずは自分の気持ちに正直に嘘をつかないで生きていくことを大事にしてほしいです。

未来は不確定要素の塊です。でも、今求められていることがあるとしたら、それに応えていくと案外人生は開けていくもの。全力で生きていけば、振り返ってみると点と点が線につながる瞬間がくるから、今をどう生きるかだけを全力で考えて生きてほしいです。私は、未来は本当になんとかなると信じているし、現に私自身が今こうして生きることができて、なんとかなっています。

そしてもし大人でも、いま、何かに困っている人がいたら。

助けて、と言っていい。今は届かないかもしれない。けれども、その気持ちを認識して、言葉にすることが、後々の自分を助けるきっかけになるはずです。

もし、いま、自分自身を見失っているかも、と思っている人がいたら。あなたは、あなた自身。そのままで充分です。

こんなかっこいいことを書いている私ですらも、自分よりも優秀な人を目のあたりにして、自信を失うことが多々あります。休日には、家から一歩も出ず、YouTubeやNetflixを観まくったりして、ゴロゴロ過ごすこともあります。(しかもかなり高頻度で。)

他人と比べて、できないことを責めることはしないで。動き出せるようになったときにゆっくりで良い。少しずつで良い。

たくさんの人とつながることを辞めないで。

どうかあきらめないで。

そんな願いを込めながら、私は今日も活動を続けていこうと思います。

【写真】緑を背景に、笑顔で佇むわたなべさん

関連情報:
NPO法人SOS子どもの村JAPAN ウェブサイト Twitter Instagram
NPO法人全国子どもアドボカシー協議会 ウェブサイト
子どもアドボカシー学会 ウェブサイト

(撮影/モリジュンヤ、編集/工藤瑞穂、企画・進行/小野寺涼子、協力/金澤美佳