
この記事を書くにあたって、ライターである私が気づいたことの一つ。それは、今の自分を構成する大きな要素の一つに、家族の存在があるということでした。
家族のために真面目に働く、心配性で口うるさい性格の父。同じく心配性で物知り、自分よりも家族を優先して家庭を守ってきた母。そして私には、一度も喧嘩をしたことがない、穏やかで優しい性格の兄がいます。その兄には、先天的な障害があります。
障害のある兄がいる私は、将来結婚できるだろうか。私と家族を受け入れてくれる人はいるんだろうか。両親が亡き後、私は兄とどう関わったらいいんだろうか。
兄の存在を大切に思う一方で、これはいつからか私が心の奥底で思い続けていたことです。漠然とした不安を持ちながらも、口に出してはいけないように感じて誰にも打ち明けられませんでした。そして、こんなことに悩む自分に罪悪感がありました。
転機になったのは、「きょうだい」という言葉に出会ったこと。ひらがなの「きょうだい *」は、病気や障害がある当事者の兄弟姉妹を指して使われる言葉です。子どもの場合は「きょうだい児」と表現することもあります。
*この記事では一般的な兄弟姉妹に対して、病気や障害がある当事者の兄弟姉妹のことをひらがなで「きょうだい」と記載しています。

きょうだいが持ちやすい悩みの一例。『きょうだいの進路・結婚・親亡きあと: 50の疑問・不安に弁護士できょうだいの私が答えます』2ページより/イラスト:WOODY(提供画像)
今思えば幼い頃から、きょうだいという当事者性は私に大きな影響を与えました。子どもの頃は周りから兄のことでからかわれたり、陰口を言われたり、可哀想な目で見られたり、そして兄や両親が傷つく姿を見て悲しくなったり。家族の中に障害のある人がいることに負い目を感じて、恥ずかしい、隠したいと思っていました。
きょうだいを支援する団体に出会い、他のきょうだい当事者の経験を聞くと、私が感じてきたことはきょうだいが持ちやすい典型的なものの一つであるとわかりました。当事者性をどうとらえるかは人それぞれですが、私個人としては、きょうだいという存在で括られることで、行き場のない気持ちに居場所が見つかったように感じたのを覚えています。
今、あの頃の自分に伝えたいのは「あなたは一人じゃなかったよ」ということ。世の中には同じような悩みを持つ人たちがいて、その人たちと繋がることができるし、サポートを受けることだってできる。
兄に障害がある事実は変わらなくても、気持ちをわかち合って、具体的な選択肢を知ることができた今、自分の家族へのコンプレックスのような気持ちは和らいできました。
一方で大人になり歳を重ねるにつれて考えるようになったのは、きょうだいとして将来直面するであろう困難について。
冒頭にも書いたような結婚、仕事、住まい、兄のケアなど、人生のあらゆる局面で、周りの家族とは違う課題がついて回るような気がして、重いテーマに打ちのめされそうになってーー。
そんな時に出会ったのが、藤木和子さんの著書『きょうだいの進路・結婚・親亡きあと: 50の疑問・不安に弁護士できょうだいの私が答えます』です。
藤木さんは弁護士・手話通訳士で、耳の聞こえない弟さんがいるきょうだい当事者。きょうだいの支援や当事者が集まる会の運営にも関わっています。
「自分は周囲から期待されるお姉さん像ではなかった」きょうだいとして過ごした幼少期
藤木さんの2冊目の著書『きょうだいの進路・結婚・親亡きあと: 50の疑問・不安に弁護士できょうだいの私が答えます』は、1冊目の『「障害」ある人の「きょうだい」としての私』に続き、2024年3月に発売となりました。

著書の中には一問一答形式で「きょうだいは一生世話をしなくてはいけないの?」「交際相手の親から反対されているが結婚はできる?」など具体的な疑問に弁護士の視点で回答が書いてあるパートも含まれ、法律の視点からきょうだいの不安や疑問に答えていく内容はとても実用的。きょうだいである私にとって、この先何度も読み返したい大切な本です。
今回は藤木さんのご経験をお聴きしながら、大人になったきょうだいが直面する悩みとどのように付き合っていけるのか、どのように自分なりの選択をしていけるのか、一緒に考えていきたいと思います。
藤木さんとはインタビュー当日に初めてお会いしましたが、物腰柔らかな人柄と「きょうだい」という共通点のおかげで、すぐに緊張はほぐれていきました。気がつけば、かなりプライベートなお互いの家族の話を、親しみと安心感を持って語り合っていたほどです。

藤木さんにまずは幼少期まで遡ってお話を伺いました。
私が2歳半の時に弟が生まれたこともあって、その前のことはもうほとんど覚えてなくて。物心ついた時からお姉ちゃんっていう存在になっていた感じがありますね。
昔から弟とは仲が良くて、成長するにつれてお互い本や漫画を好きになったので、少年漫画から少女漫画まで一緒に読んでいました。今思えば、読書は耳が聞こえなくても楽しめるので。あとはごっこ遊びもしましたし、よく取っ組み合いの喧嘩もしましたね。

幼い頃の藤木さん(提供写真)
弟さんの耳が聞こえないとわかったのは、藤木さんが5歳、弟さんが2歳のとき。以来お母さまと弟さんは病院や療育に通う機会が増え、その間藤木さんは弁護士であるお父さまの事務所で過ごすようになり、生活は次第に変わっていきました。
小学校入学を控えていたこの時期から、藤木さんは「障害のある弟がいるお姉ちゃん」という自己認識を持つようになったといいます。
弟の耳が聞こえないと検査で確定した時、「これから家族みんなで頑張っていこうね」って母が言ってたのを覚えています。その時から、自分は障害のある弟がいるんだって認識が芽生えた感じで。そのアイデンティティが結構大きいタイプだった気がします。
その背景には、周囲から期待される「お姉ちゃん像」と実際の自分とのギャップがありました。
おそらく周りは「弟を支えるしっかりした優しいお姉ちゃん」でいてほしかったんじゃないかな。弟はおとなしくて優しい性格でしたが、私は雑で激しいようなところがあって。「姉と弟の立場も、弟の耳が聞こえないことも関係なく、私たちは対等でしょ。その方が耳が聞こえない弟も気を遣わないで済むよね」という論理が自分の中にあったんだと思います。
よその面倒見がいい優しいお姉ちゃんと比べられて、両親からは「なんでうちのお姉ちゃんは…」みたいなことを言われて。コンプレックスを持ちながらも、勝ち気な性格で弟を鍛えようとしていた、坂本龍馬の姉「乙女さん」のことを漫画で読み、自分と重ねて共感していました。

「自分は周囲から期待されるお姉さん像ではなかった」と話す藤木さんですが、障害がわかってからもこれまでと変わりなく、弟さんとはよく遊びよく喧嘩して、仲良く過ごしていました。
現在、藤木さんは手話通訳も行っていますが、社会人になって手話を学ぶまで、弟さんとのコミュニケーションで手話を使ってきたわけではありません。当時は藤木さんの口の形や表情、身振りを弟さんが読み取ったり、弟さんができる範囲で声を出してしゃべるようなかたちで会話をしていました。藤木さんはお母さんと一緒になって、弟さんの通訳をして他者とのコミュニケーションを手伝うこともあったそう。
弟さんや、弟さんをサポートするお母さまの苦労を間近で見ていた幼少期、藤木さん自身もきょうだいならではの悩みや戸惑いを持っていました。例えば、聴覚障害があることで弟さんに向けられる周囲からの視線や、弟さんの障害を「母親のせいだ」という他者の声に傷ついたり、友達からからかわれて嫌な思いをしたことも。それでも藤木さんは「弟や母のほうが大変」「嫌だと言ってはいけない」と自分の苦しみを抑えていたといいます。
当時は「きょうだい児」って言葉もなかったですけど、それでもなんとなく「きょうだい」という立場から世の中を見て人の心や人生に興味を持つようになり、そういった本を読んだりしていましたね。
私は小学校低学年くらいの早い時期から「世の中つまんない」と思っていたし、すれている部分があったと思います。今思えば、きょうだいとして経験してきた出来事が影響して、大人や社会を信じられず期待しないような考え方になっていたのかもしれません。
「障害のある弟がいるお姉ちゃん」としての自分と、弟のことを知らない環境での自分と
藤木さんが小学4年生になる春、弟さんが難聴学級のある小学校に入学するため、家族で隣の市に引越しをしました。
両親からは「今の学校と新しい学校、どちらに通うかは選んでいいよ」と言われました。でも隣の市の方が都会だったのと、なんとなく環境を変えたい願望があって、私は転校を選んだんです。
障害のある兄弟姉妹と同じ学校に通うと、ケアのことで障害のある兄弟姉妹の担任の先生から頼られて呼び出される、という話をよく聞くのですが、新しい学校では“お姉ちゃんだから”と何かしなくちゃならないことはなくて。
難聴学級があるから1学年に何人かは必ず耳の聞こえない子がいるし、帰国子女なども受け入れる学校だったので、たまに興味本位のような質問を受けることはあったけれど、いじめもなく、結構のびのびとできました。
家に帰ってからは弟さんに勉強を教えたり、授業で弟さんが理解できなかったことを通訳して説明したり。その様子を見て両親は喜んでいましたが、そうしたサポートは周囲から求められていたというよりは、藤木さん自身が好きで続けていたそうです。

学生時代の藤木さん(提供写真)
その後、中学受験をした藤木さんはそれまで住んでいた埼玉から都内まで通学をすることに。弟さんとは違うコミュニティでの生活が始まり、藤木さんは戸惑いを持つこともありました。
人生で初めて私に障害のある弟がいると知られない環境になったので、弟の障害のことを“言いたいけど言えない”みたいな状況になったんです。
当時、『愛していると言ってくれ 』という聴覚障害のある当事者が主人公のドラマが流行っていて、友人とその話をする時もあったので「うちの弟も耳聞こえないんだよ」って言おうかどうかすごい悩んで…結局一部の友人には話しましたが、その子は実際に弟と会うとかはないから「へえ、そうなんだ」みたいな感じで。
小学校までは周りの皆が弟のことを知ってくれていて楽だったな、とちょっと思いました。でも中学では「耳が聞こえない〇〇くんのお姉ちゃん」云々は関係なく自分を見てもらえるから、そこに関しては「ひとりの中学生」としてのびのびとしつつ…葛藤はありましたね。

中学からはテニス部に入部し、とにかくテニスに夢中になる日々が始まりました。部活の仲間たちと練習に打ち込んだり、近所の大人からもテニスを教わったりと、テニスを通じた繋がりを築き、結果的に大学まで10年ほど続けたのだそう。
テニスを始めたことで居場所みたいなものができたというか。テニスがなかったら、エネルギーの持って行き場がなくて、きょうだいとしてもっと悩んでいたかもしれないです。あとは思春期だったのもあって、勉強したくないからテニスをやるっていう反抗手段みたいにもなっていましたね。
この頃藤木さんは家族のことで感情を揺さぶられたり、実際に家族と衝突することが多かったといいます。
私の言動に対して、親から「困ったお姉ちゃんね」みたいな感じで言われることが多かったんです。私の性格的に、弟の耳が聞こえていてもそう思われていたとは思うんですけど、弟に障害があることでさらに「いいお姉ちゃんでいてほしい」と親からの期待値が上がっていたのかもしれません。
例えば中学受験に受かったことやテニスを頑張っていることを、親は応援はしてくれましたが、認めてくれたり喜んでくれた記憶が正直あんまりないんですよ。父が塾の帰りに迎えにきてくれたり、一緒にテニスをしてくれたりはあったのですが。
プレッシャーがなかったという意味では良かったですけど、勉強やスポーツができることよりも“優しいお姉ちゃん”であってほしかった、勉強で弟との差がついちゃうのが悲しい、みたいに親から少し否定されているような感覚でした。親心も複雑だったと思います。
私はそれをストレスに感じていたので、母との喧嘩中「頼んでないのになんで産んだの、謝ってよ」と言って、母を謝らせたこともありました。今になってみれば、当時の自分はちょっと傷ついていたんだろうなって。やっぱり親にもわかってほしい、謝ってほしいという気持ちがあったし、親の愛を求める行動をしていて、これはたぶん20代〜30代くらいまで続きましたね。
以前から感じていた「自分は周囲から期待されるお姉さん像ではない」という思いを強くしていった藤木さん。一方で、弟さんとは相変わらず一緒に漫画を読んだりゲームをしたりしながらともに時間を過ごしていたそう。
マリオカートとか、ポケモンとかハマりましたね。弟に合わせて遊んであげてるとかじゃなくて、本当に2人とも好きでハマれることが共通していたんです。今思うとその点はとても幸せでしたね。

しかしその後も家の居心地はあまり良くなく、実家を離れたいと度々考えるようになっていったという藤木さんは、友人をきっかけに留学という選択肢を知り、アメリカの高校へ3年間留学することが決まりました。
海外での高校生活を経て、帰国後は家族と一定の距離を保ちながら法学部で学ぶ
誰も知り合いがいない異国の地での新しい生活。家族の元を離れ、日本での生活とはがらりと違う刺激的な日々を送る中で、徐々に藤木さんの家族への思いも変化していきました。
留学中はやっぱり本当の意味で1人なので、“困ったお姉ちゃん”じゃない、“障害のある弟の姉”という立場でもない、“自分”というものを満喫できた気がします。
当時は家族とはFAXや手紙でやり取りをして、年に1回ぐらい会いに来てくれるような距離感でした。3年間離れていたことで、若干反抗期が収まったみたいで。最初はそのままアメリカの大学に行くことも考えていたけど、日本に帰ろうかなと思うようになりました。

そうして3年間のアメリカ生活に終止符を打ち、日本の大学の法学部を目指すことを決め、藤木さんは受験勉強に力を注ぎました。
弟の分も頑張らなきゃ、というきょうだい児としてのプレッシャーもありました。それに中学で勉強をしなくなった時に周囲をがっかりさせてしまっていたので、「今までの分を取り戻すように頑張らなきゃ、期待を超えたい」って思いもあった気がします。
藤木さんが法学部を志したのは、弁護士のお父さまの影響から。幼い頃から将来的にはお父さまの後を継ぐことを周囲から期待され、藤木さん自身もそう考えていたといいます。
私が生まれる前から、「できれば自分の子どもは弁護士に」と父親は思っていたそうで、私が意識し始めたのは4歳くらいですかね。将来なりたいものを書き込める絵本に、弁護士って書いて渡されたりしていて。
父は覚えていないと言いますが、中学生くらいの時にテレビを観ながら「弁護士の資格さえ取っておけばいつでも始められるし、和子はニュースキャスターになるのもいいな」みたいなことを言っていて、私はそれが頭にあったから「試験さえ受かったら、父の跡を継がなくても自由に生きていいのかな」とは思っていました。
子どもって親が深く考えずに言った言葉すらも、真剣に受け取っちゃいますね。
そうして無事入試に合格し、実家から大学に通うことに。しかし家族との同居生活が長くなると、再び衝突が増えていきました。適切な距離感を考えた結果、お母さまの提案で藤木さんはお父さまの事務所の建物内の一室で一人暮らしをすることに決めます。
私の場合は一緒に暮らすのはしんどいから、車で数分の近所だけど別で暮らすっていう距離感に落ち着いて、結婚するまで約12年間位そうしていました。
障害のことやきょうだいであることは関係なく親との距離感って人それぞれですけど、私が出会ったきょうだいの方々は一緒には住まないという距離感を大切にしてる人が多いように思います。家を出たら家族の関係性がいい方向に変わったという声もよく聞きますね。

大学入学後は必死で勉強をした受験前とは状況が変わり、藤木さんにとっては“目標を失った”時期でもあったそう。
受験が終わった後からやる気をなくしたというか。目標も持てなくて、大学では勉強も中途半端、テニスは続けたけれど始めた頃みたいな熱意はないしで、それなりに楽しくはあったけれど、もんもんとした時代だった気がします。
卒業後は司法試験のための勉強に励み、27歳で合格し弁護士に。「子どもの頃から人生の宿題だと感じていた」というほど、長年目標にしてきたことを叶えた藤木さんでしたが、その胸に湧き上がったのは、喜びだけではなく複雑な感情でした。
一番大きかったのは“ほっとした”気持ちでした。でも周りが「人生最高の日」と盛り上がってるのに対して、私は「なんで弁護士になりたかったんだろう」「どんな弁護士になればいいんだろう」と悩みが始まる感覚があって。父の仕事をする姿を見て育ったのに、実際に弁護士になって何をしたいのかが見えず、そんな自分に驚きました。ただ、父にはすごく喜んでもらえたと思います。
また、就職先を内定先の東京の大手法律事務所にするか、お父さまの事務所にするかで悩み続けたといいます。
すごく悩んで、一番もがいていた時期だったかもしれません。私が弁護士を目指したのは弟の障害やきょうだいであることが大きな理由なので、障害分野で活躍する弁護士に会いに行ったり、全盲ろうの東京大学教授である福島智先生に相談したり。きょうだい児の当事者が集まるきょうだい会にも参加しました。
いろんな方の意見を聞くなかで、やっぱり自分のバックグラウンドを活かせる仕事をしたいと考え、最終的に自由度の高い父の事務所で働くことにしたんです。
就職とともに、自分らしい活動を目指して手話を学び始める
2012年から弁護士としての仕事をスタートした藤木さん。仕事以外でも手話を学び始めたり、「きょうだい」のための活動に関わるようになったりと、忙しい日々を過ごしました。
今思うと、あの頃が大きな転機だったと思いますね。手話は、たまたま仕事でろう者の弁護士や手話通訳の方々に初めて出会ったことから興味を持ちました。弟とは口の形や表情、身振りなどでコミュニケーションをしていたので、弟のために学んだわけではないんです。
きょうだいの活動には、まずは当事者としてきょうだい同士の集まりに参加するようになっていました。この時期弁護士の仕事に対して「なんで私は人から助けてもらったことないのに、人を助ける仕事をしなくちゃいけないの」と葛藤を持つようになって。それで仕事からの逃避のように、きょうだいと手話の活動の方にのめり込んでいきました。
2015年、32歳のときに藤木さんは結婚をすることに。
「障害のある弟がいるから、自分の家族は“普通”ではない」
幼い頃からそう感じていた藤木さんは、結婚できるのかと長年不安を感じていましたが、パートナーは弁護士として障害のある人たちにも頻繁に関わっていて、弟さんの障害へも理解を持っていたといいます。結婚を機に、藤木さんの人生はまた新しい方向へ動き始めました。
結婚のタイミングで、父と一緒に働くのも、弁護士の仕事そのものについても、立ち止まって自分を見つめ直したくなって。仕事を休んで手話通訳の学校に2年間通うことにしました。
手話を学びたいのはもちろん、ろう者の世界で革新的な活動をしてきた先生方がいて、その方々から生き方や考え方を学んで、それをきょうだいへの活動に活かせるんじゃないかと考えて飛び込んだのもあります。
弁護士としての仕事、きょうだいとしてのバックグラウンド、手話を通じた学び……関心を持って取り組んできたこれらのことを掛け合わせて、自分らしい活動のかたちを見つけたかった、と藤木さんは話します。

手話に取り組むようになってからは、弟さんとのコミュニケーションも変化しました。
家族では昔から口の形と表情でコミュニケーションしてきたのに、いきなりお姉ちゃんが手話にどっぷりハマって。弟は高校からろう学校に入って手話を覚えたんですけど、弟にしてみればびっくりですよね。弟からは話がわかりやすくなった!と言われました。お互い手話で話すようになって、より正確で細かなコミュニケーションができるようになったと思います。
手話通訳の学校を卒業後は、手話通訳の活動も始めた藤木さん。弁護士の仕事とはまた違った人との関わりのかたちが生まれていきました。
弁護士の仕事だと、解決まで年単位でかかる案件も多いので、すぐには変化が感じにくい部分もあります。でも手話通訳は、会議や講演、診察や手続きなど、基本的に数時間程で終わるので、その瞬間どう通訳して、相互に伝わるコミュニケーションが成立するかの勝負ともいえる。
私は手話そのものも好きではありますが、通訳に興味があります。通訳をして言葉や内容が伝わること、人と人が繋がることにある種の面白さを感じるんです。
これは昔、弟と周囲のコミュニケーションを繋いでいた経験とも通じることだと思うんですけど、私としては弁護士も、手話通訳も、誰かと誰かと繋ぐ「通訳」をしている感覚としては共通しているんです。
どちらも場全体の状況、話し手と受け手の頭の中の把握と予測、そして瞬発力が大切ですが、通訳を通して鍛えられたと思います。

そしてこの頃、お父さまの事務所を退職し、独立することを決めました。
父と働くのが自分のメンタルとキャパシティ的に厳しかったのもありますが、手話通訳の学校で学んだことを生かしてきょうだいの活動も頑張りたかったので、勢いで独立しました。
引き止められると思ったので、父には相談せずに勝手に進めたんです。ただ独立したことを後から伝えたら、父はもちろん怒っていて。結婚して家も実家から離れていましたし、その後のコロナ禍もあって、しばらく家族とは疎遠になっていきました。
独立後は、きょうだいであるバックグラウンドを活かして、弁護士としてきょうだいからの相談も受けるようになった藤木さん。より自分らしい活動スタイルを切り拓いていきました。
“きょうだいだから”と一括りにはできない。きょうだいの感情や状況の傾向とは
藤木さんが「きょうだい」という言葉に初めて出会ったのは、大学生の頃。一つの新聞の記事をきっかけに、きょうだいという言葉の意味、きょうだいへの支援や、当事者が集まる会があることなどを知りました。
それから数年後、司法試験に合格して、父の事務所で働くか、内定先の大手法律事務所で働くかという悩みに直面したタイミングで、家族には打ち明けずに「きょうだい会」に足を運んでみることに。
きょうだい当事者の仲間たちと出会って、初めて自分の気持ちを打ち明けることができました。障害の内容や年齢など、背景が全く違うのに不思議と“通じる”感覚があったんですよね。私の場合は語り合うことが自分に合っているタイプなのだと思うのですが、定期的に参加することで、近況報告をお互いにして、励まし合えたから頑張れました。これは今もそうです。
もちろん、参加者一人ひとり違う部分があるし、相性によってどうなるか変わってくる部分はあります。
誰が何を言っても、最終的に自分の人生の舵取りをするのは自分自身しかいません。でも、期待しすぎずに参加して、自分から話題を振ったり質問をしたりしてみると、他の人の経験談や考え方などから、プラスになるものがきっと得られるのではないかなと思います。
今は集まったメンバーとの一期一会を大切に楽しみながら、みんなで作る場にしていけたらと思っています。
参加を重ねているうちに、いつしか運営に関わるようになっていったという藤木さん。今は創立60年以上の歴史をもつ「全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会(全国きょうだいの会)」の運営に関わる他、2018年から「Sibkoto シブコト 障害者のきょうだいのためのサイト」を同世代のきょうだいの仲間と共同運営。
同じく2018年には「聞こえないきょうだいを持つSODAソーダの会」を立ち上げ、弁護士と手話通訳士とを掛け合わせて、きょうだいのための活動に取り組んでいます。
最新の活動(2025年10月)としては、きょうだい当事者が集まる会をオフライン、オンラインで、それぞれ定期的に開催中。他にも音声で、「きょうだい児が充電するラジオ」を毎週配信しています。

きょうだい当事者が集まる会の様子(提供写真)
ここからは、きょうだいの傾向についても少し触れていきます。
まず大前提としてあるのが、同じ障害がある兄弟姉妹を持つ「きょうだい」であっても一人ひとり置かれた境遇、感じ方や考え方は違いますし、それらは常に変化していくものだということ。
その上で、一般的にはきょうだいは子どもの頃からあらゆる成長過程の中で、不安や寂しさ、悲しみ、罪悪感、プレッシャーといった、様々な感情を抱きやすいといわれています。
その背景には、病気や障害のある子どものケアに、親の時間やエネルギーが注がれるため、きょうだいが早くから周囲を気遣ったり、家族をサポートする役割を自然と引き受けたりするケースが多いという事情があります。「障害のある子の分も頑張れ」と過剰に期待されることも。そのような環境の中で、きょうだいならではの悩みや戸惑いが生まれることが多いのです。

藤木さんが共同監修を担当した児童書『病気や障害のある兄弟姉妹がいる子どもが思っていること: きょうだい児(わたしの声をきいて 4)』
全部をきょうだいだからと結びつけるのは違うという前提はあるんですけど、傾向としてはやっぱり何かを背負ってしまいがちな苦しさを持ってる人が多いように思います。障害のある兄弟姉妹へのケアも含めて、子どもの頃から“人を手伝うこと”をしてきているから、人から何かを頼まれやすかったり、自分から「やります」と言って背負ってしまう場合もあります。
もちろん、きょうだいとしての意識とか悩みが全くないと話す人も時々いるので、その場合はそれでいいんです。ただ、保護者や周囲が「この子はいい子だから問題ない」と見てしまうことには注意が必要です。
“きょうだいだから”とひと括りにして捉えるのは難しいこと、そしてきょうだいのさまざまな気持ちをまずはそのままのかたちで受け止めることの重要性が、支援の現場では語られています。
他にもきょうだいの傾向として、「障害のある兄弟姉妹や親の方が大変だから」と自分よりも他者を優先してきた経験から、自分の感情を出しづらくなったり、「助けてもらえなかった」という経験から、人や社会に対して不信感を抱いたりすることがあります。また、「障害がない自分が頑張らなきゃ」という思いから、正義感が強くなったり、他者への介入が強くなったり、疲弊してしまう場合もあるといいます。
また冒頭でライターの私自身もそうであったと触れましたが、進路、住む場所、仕事、結婚や子育てといった人生の大きな決断を、障害のある兄弟姉妹や親の人生を土台に決めようとするきょうだいも多く、藤木さんはそうした方の相談も受けてきました。
「法律は個人の自由を守っている」大人になったきょうだいが自分を犠牲にしないために
人生が進むにつれて、人の悩みやニーズも変わっていくもの。ここからは大人になり、さらに歳を重ねていく過程でのきょうだいの悩みに対して何ができるのか、藤木さんとともに考えていきたいと思います。まずは家族間でのコミュニケーションの難しさについて。
家族のことって、本当なんでこんなクローズになっちゃうんだろうってくらい、家族が鎖国して、独自の法律やルール、文化や考え方で動いているみたいな状況になりやすいですよね。だから私は、家族の困りごとがあったときには、家族だけでなく「この人なら信頼できる」と思える支援者や行政の方など、第三者が関わることが風穴になるし、大切だと思っています。
実際に先輩きょうだいさんで、「障害のある兄弟姉妹本人が、“口うるさいきょうだい”である自分より先に支援者さんに相談していた。それが嬉しかった」と話してくれた方がいました。人って誰と接するかでこれまでにない態度や性格の一面が出てくる場合もありますし、第三者が入ることで思わぬ変化が起きることは結構あるんじゃないでしょうか。
なるべく家族だけが世話をしなければならない状況を変えていけたらいいですよね。どう家族をひらいていくかは私自身も考えているところでもあります。

著書『きょうだいの進路・結婚・親亡きあと: 50の疑問・不安に弁護士できょうだいの私が答えます』では、具体的なきょうだいの疑問・不安に一問一答形式で藤木さんが回答をしていました。疑問・不安の一部を紹介します。

きょうだいの困りごとの一部の紹介。『きょうだいの進路・結婚・親亡きあと: 50の疑問・不安に弁護士できょうだいの私が答えます』より(提供画像)
例えば、きょうだいとして法的にはどんな義務があるのか、親が亡くなった場合に誰がケアを担うのかといった、兄弟姉妹間での法律上の関係性の悩みについて。
さらに、「障害のある兄弟姉妹や家族のことを考えると安定した職に就くべきか悩んでいる」「実家を出ることを親に反対された」「交際相手の親から結婚を反対された」など、きょうだいであることを理由に自分の選択が制限されてしまうケースも少なくありません。

結婚経験があるきょうだいに行ったアンケート結果。『きょうだいの進路・結婚・親亡きあと: 50の疑問・不安に弁護士できょうだいの私が答えます』より(提供画像)
また、障害のある兄弟姉妹のケアを誰がどう担うのか、障害福祉サービスの利用を検討したいが親と意見が合わない場合どうすればよいのか、仕事とケアの両立をどう実現するのかといった、ケアを家族として行う上での具体的な疑問も多く挙がっていました。
そして「親子や兄弟姉妹の縁を切りたい場合はどう進めればよいのか」「障害のある兄から暴力や暴言を受けたときに通報してもよいのか」といった、切実で差し迫った悩みも掲載されていました。
これらの問いへの具体的な対応は、もちろんケースにより異なるもの。著書の中で藤木さんは、主に法律の観点から回答をしています。
私の場合は「家族の状況に対して、家族や周囲の人はこう言う。一般的にはこう考えられるだろう。でも私はどうしたいのか、どうしたらいいのか…」と悩む中で藤木さんの著書に出会いました。法律・制度的な選択肢を知ることができたのは大きな衝撃で、思いもよらないところから光が差してきたような感覚でした。
藤木さんが最もよく耳にするのは本の帯にも書かれている「私は一生、障害のある兄弟姉妹の世話をしなくてはいけないのですか」という疑問だといいます。著書では親と違ってきょうだいがケアをする義務はないことを、具体的に憲法や民法を引用して解説をしています。

きょうだいに住まいや経済的な負担について聞いたアンケート結果。『きょうだいの進路・結婚・親亡きあと: 50の疑問・不安に弁護士できょうだいの私が答えます』より(提供画像)
法律上はシンプルで、この疑問への答えは「NO」。障害のある兄弟姉妹の世話をするかどうかは、きょうだい自身が選べることなんです。
そうすると「障害のある兄弟姉妹はどうなるんだ」ということになりますが、生活や住む場所については障害者福祉サービスが、お金については障害年金や生活保護などの国の制度があって、これらは憲法でいう「生存権」の保障であり、国の責任となります。
法律の根本にある考えは「あなたがあなたの幸せを求める権利、自分の人生を自分で選ぶ権利を守ります」というもの、憲法でいう「幸福追求権」「自己決定権」です。きょうだいの方が悩んだ時にはこれを思い出してほしいですね。

また藤木さんは「法律は個人の自由を守っている」とも表現します。
家族や兄弟姉妹と「距離を取る・縁を切る」といった選択肢も法的にはあります。「見て見ぬふりはできない」という良心の呵責がある場合でも、自分にとって負担のない範囲で関わって、第三者にサポートを求めるという関わり方もあるんです。
人からどう見られるかではなく、自分が納得できれば基本的には全部正解です。時代の流れとしても、個人の自由が大切にされ始めています。自分を犠牲にしない家族との関わりをきょうだいには選んでほしいなと思います。
きょうだいである私が楽しく元気に暮らすことが、最終的には最大のきょうだい支援
今、藤木さん自身の家族も、コロナ禍もあって少し疎遠になっていたところから関係性の変化を迎えているのだといいます。
数年前のお正月に「遊びに来ない?」と親から声をかけてもらって、だんだんと家族との交流が復活してきたところです。3〜4年前に父の病気が見つかったので、そこで家族が団結してまた新しい段階になった感じがあって。今は私と弟と母で頻繁にLINEでやりとりしています。主にスタンプですが(笑)
ご家族は藤木さんのきょうだいとしての活動にも関心を持っていて、藤木さんの発信を見て「和ちゃんがそんなに悩んでいたなんて、今わかった」と話したこともあったそう。
家族は私の本をたくさん買って仏壇に並べてくれていたり、「あなたしかできない大事な活動をしてるから頑張って」と応援してくれています。
正直、きょうだいの気持ちを知ることは、家族にとっては目を背けたくなるような部分もあると思うんです。実際「きょうだいのことを取り上げられたのはすごいけれど、次はもっといい記事書いてもらって」と父に言われて、「記事に書かれて困るようなことをしたのは誰?」と言い返してしまったこともありました(笑)。
でも私が小さい頃から家族のことを知ってくれている親族の方が、「どっちの気持ちもわかるから難しい問題だよね」と第三者として言ってくれたのは印象的でしたね。
家族の関係性の変化も経験した今、藤木さんはきょうだい児としての過去へのとらえ方もまた変化してきました。
色々ありましたけど、「比較」が嫌だったんだなって思うんですよね。「弟と私」「よそのお姉ちゃんと私」と比較されていたというか。でも「うちのお姉ちゃんはこのお姉ちゃんで、雑で乱暴なところも含めていいところがあるよね」って、認めてほしかったんだと思います。
今は両親も、活動を取材してもらった記事を読んで、昔よりは私の言動や性格を面白がってくれている気もしています。
もし子どもの頃、きょうだいに関する情報が親や周囲の大人、私自身の身近にあって、「これが嫌だ」「失敗した」というような話でも否定されずに、何でも話せて受け止めてもらえていたら今とは違う未来だったかな、と思うことはあります。でもそれができてたら、きょうだいの活動には関わっていないとは思うんですけどね(笑)。

そしてこれからの弟さんとの関わりについて。いつか訪れるご両親の亡き後のことも含め、藤木さんは今どのように考えているのかを伺いました。
弟の場合は衣食住などは自分でできるので、今と同様に弟は埼玉、私と夫は横浜で暮らすことになるのではないかなと。でも、先のことはわかりません。その時の私と夫、弟がどうしたいかによると思います。
私は自分に無理なくできることはしたいという気持ちがありますが、弟も親に頼るのとは違って、私には遠慮があるんじゃないかな。そのあたりは、今後どうやって互いに関係を作っていけるかですね。
私の勝手な希望としては、お正月や、お盆などの両親のお墓参り、私と弟の誕生日は、何かと何かをまとめてなどになりそうですが、おいしいものを笑って一緒に食べられるといいなと思っています。
ただ近くなり過ぎたり、助ける・助けられるの関係が強くなりすぎると、互いに窮屈で負担になってしまうかもしれないので、いい関係性でいるためにも、ちょうどいい距離感でいられたらいいなと。
でもこれは、現在の私が、勝手に考えている希望です。100人100通り全部正しい、例えば、同居や全く関わらない選択も正しいです。誰かの選択を否定したり、押し付けることは絶対したくないですし、きょうだい当事者の方にも親や周囲の方にも絶対しないでいただきたいです。

シブコトで監修を担当したコミック『妹なんか生まれてこなければよかったのに きょうだい児が自分を取り戻す物語』でも、シブコト運営メンバー3人が7年の活動から見出したそれぞれの選択の“正しさ”について、監修者メッセージで綴っているそう(提供画像)
きょうだい当事者で今悩んでいることがある人は、どうしたらいいのか。どのように自分の選択をしていくことができるのか。藤木さんは力強くも温かいメッセージをくださいました。
「自分がどうしたいか?」「何に悩んでいるのか?」を考える上で、一度、例えば「もし兄弟姉妹に障害がなかったら、そもそも兄弟姉妹がいなくて一人っ子だったら、親や周囲に○○と言われなかったら、自分はどうしたかったのか?」を考えてみることは大切かもしれません。
少し厳しい言い方になってしまうかもしれませんが、誰に何を言われても、自分で決めるしかありません。自分の心身の健康や幸せは自分で守るしかないんです。ただ、違うと思ったら調整や方向転換もできます。そして、私は、きょうだいのどんな選択も気持ちも第一に尊重して、全力で応援したいと思っています。
ひとまずは、シブコトや充電ラジオから気になったテーマのものを読んだり、聞いたりしてもらって。次のステップとして興味があれば本を読んだり、きょうだい会に参加してもらえたら嬉しいです。

藤木さんおすすめのきょうだいにまつわる本。さまざまなきょうだいの経験、考え方を知ることができる。(提供画像)
最後に伺ったのは活動に込めた思いや原動力について。「きょうだいという当事者性を、四六時中持ち続けるわけではなく、“きょうだい”ではない私の時間もある」という藤木さんですが、活動に対してはきょうだい当事者としての視点をしっかりと軸に持ち続けていることが伝わってきました。
根本として「誰にもあんまり助けてもらえなかったな」っていう気持ちがあって、私は大人や社会を信頼できていなかったんです。それでも今、私の周囲には信頼できる人や助け合える人がいます。福祉や医療、教育などの世界で尽力くださっている方々がたくさんいることも知りました。
それでもまだ、社会や他人は信じられない、頼れないという気持ちが残っています。そこは自分自身も変わっていきたいし、他のきょうだいも似たような気持ちを持たないでいられるような社会にしていきたいです。
私にとっては活動は全て、あくまでも“自分のため”が軸なんです。きょうだい会に参加してくださる方にはもちろんいい時間を過ごしてほしいと思っていますが、最終的には自分のため、とあえて言い切りたいです。「誰かのため」と言うと自分も疲れたり、相手にも気を遣わせてしまうので。
自分のことに悩みながら、先輩きょうだいさんたちに助けられながら、本当にきょうだいという立場って深いな、と感じながら活動を続けています。
きょうだいとして発信や活動を続けること自体が私の支えになっていますが、もっというと、仮に発信や活動をしなくても、きょうだいである私が楽しく元気に暮らすこと自体が、最終的には最大のきょうだい支援だと考えています。難問が山積みですが頑張りすぎないで、よい意味でダラダラと続けられるペースで、「こんなきょうだいが生きているよ」と発信しながら活動を続けていきたいです(笑)

大人になったきょうだいが自分なりの選択をして、障害のある兄弟姉妹と自分にとって心地よい関係性でいるために大切なことは何かーー
これは、今回のインタビューにあたって私が掲げていた問いです。
藤木さんとの時間を過ごして「自分なりの選択をしていく」ために、法律や支援制度などを学んで、社会的にどんな選択肢があるかを知ること。並行して自分のこれまでの経験や感情に耳を傾けて、私はどうしたいのかを、じっくり考えることを大切にしたいと思いました。
そして改めて、きょうだいが多様な選択ができる社会をつくるために、自分にできることはなんだろうかと考えています。
藤木さんの活動をはじめ、きょうだいを支援する活動を知る中で私の心に深く残っているのは、「どんな感情を持っても大丈夫」とまずはそのままの気持ちを受け止めようとするあり方です。
「自分より大変な家族がいるのだから、自分はこうあるべき。ネガティブな気持ちは持ってはいけない」といった思いをきょうだい当事者が抱きやすいことに対して、「例えネガティブであっても、感情に蓋をしないで」と、きょうだいのそのままの感情を受け取ってともに味わってくれる…
私も、自分にも他者に対してもそんなあり方でいられたらなと思うのです。
まずは自分と自分の周りの人たちに対して、私もこんなふうにいられるように。藤木さんをはじめとする、活動者の方々からの学びを、自分のこれからのあゆみに生かしていきたいと思います。
関連情報:
藤木和子さん X Instagram Facebook note YouTube全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会(全国きょうだいの会) ウェブサイト
Sibkotoシブコト│障害者のきょうだいのためのサイト ウェブサイト
聞こえないきょうだいをもつSODAソーダの会 ウェブサイトきょうだい児が充電するラジオ(シブらじ)X
藤木さんが関わる活動について(2025年10月現在)
・きょうだい当事者が集まる会「しぶほどラムネ」を1ヶ月に1回、第三水曜日に、横浜市保土ケ谷区で開催中。詳細は藤木さんやシブコトの発信をご確認ください。
・聞こえないきょうだいをもつSODAの会を、3ヶ月に1回オンラインで開催中。詳細はウェブサイトをご確認ください。
・藤木さんときょうだい児でライターの雪代すみれさんが、今までの経験や生きづらさを解消してきた方法をおしゃべりして、今を生きるパワーを充電していこうという番組「きょうだい児が充電するラジオ」を毎週木曜日の20時に配信中。Spotify ApplePodcast AmazonMusic YouTube
(執筆/まつやともか、撮影/金澤美佳、編集/工藤瑞穂、企画・進行/松本綾香)
