【写真】笑顔でインタビューに応えるみやざきさん

こんにちは!Yancle株式会社の代表をしている、宮崎成悟です。

ぼくは「ヤングケアラー」や「若者ケアラー」と呼ばれる、家族の介護をする若者たちの就職転職の支援やオンライン上のコミュニティを運営しています。

実はぼく自身も16歳のころから、難病の母を介護してきました。そして31歳になった現在も寝たきりの母の介護を続けており、その約15年間の介護経験が、事業立ち上げの原体験になっています。

今回は、ぼくの人生や介護を通して感じたこと、事業への思いをお話したいと思います。

母とぼくは、似ているところが多かった

【写真】インタビューに応えるみやざきさん

ぼくの家族は、父と母、2歳上の姉と4歳下の弟の5人です。幼いころは夏休みになると毎年のように、家族で温泉や海へ旅行していました。

母とぼくは二人とも海に入って身体がベタベタするのが嫌だったり、遊園地の絶叫系の乗り物が苦手だったり、似ているところが多かったです。なので、どこに行っても母と一緒に行動することが多かったように思います。

【写真】小さいころ家族でご飯を食べているみやざきさん

小学生の頃、家族でご飯を食べている様子(提供写真)

小学校5年生のころからバスケットボールをはじめ、中学校ではバスケ部に入りました。意外だと言われるのですが、中学校前半は少しグレた時期があり、眉毛を全部剃り、今にも脱げそうな腰パンをして、肩で風を切って歩いていた時期もありました(笑)。

中学校後半からはヒップホップやファッションに興味を持つようになり、自分でもカッコつけていたなあと思います。

ぼくは毎日学校に行くのが楽しみで、楽しく過ごしていたので、母は安心して見守ってくれていました。

日常生活を送るのすら難しくなった母は、病気なのだろうか?

最初に母の様子がおかしいと意識し始めたのは、中学校3年生のときです。近所のレストランで友人親子と昼ごはんを食べる約束があり、母の運転する車で向かっていました。

でも、なにやら運転の様子がおかしい。運転がグラグラとして不安定で、対向車線を走る車にぶつかりそうで、交通事故に遭ってしまうのではないかと思いました。ご飯を食べ終え、帰りも運転してもらってなんとか無事家に帰りましたが、それから母は二度と運転をしなくなりました。

母はそれまでもずっと、めまいがしんどいと言っていて、医者からは自律神経の不調によって様々な症状が起こる自律神経失調症ではないか、と診断されていました。

しかし母は車も運転できなくなるほどに、めまいの症状が悪化していたので、何か別の病に侵されているのではないかという不安が募っていったのです。

以前と同じ日常生活を送るのが難しくなっていったため、そのころ父は単身赴任していたので、ぼくが母の買い物を手伝ったり、母を支えながら病院を巡るなど、生活のサポートをするようになりました。

その後複数の病院を受診しますが、一向に明確な診断はつきません。

ある病院の診察室で母が泣いている光景が、脳裏に焼き付いています。そこでは、めまいでふらふらになりながらやっとの思いで病院に到着し、長時間待った末に、診察は3分程度で終わってしまいました。

母が何を言ったか正確に覚えているわけではありませんが、「もうちょっとちゃんと見てください」みたいなことを言ったのだと思います。すると、その医師は「私の言ってることが信じられないのですか?私は医者ですよ?あなたの心の問題じゃないですか?」と言いました。

その言葉がショックで泣いている母を見て、ぼくは母が落ち込まないか心配しました。それは今でも鮮明に思い出せるほど、ぼくにとってもショッキングな出来事だったのです。

母は難病である「多系統萎縮症」だった

症状が出始めて2年ほどたち、ぼくが高校2年生になったころ、ようやく母の病気に診断がつきます。

「多系統萎縮症」という現代の医療では治すことが難しい、原因不明の病でした。

(注1 多系統萎縮症は自律神経障害に加えて、錐体外路系、小脳系の3系統の病変・症候がさまざまな割合で出現する進行性の病気です。)

ぼくは母の病が治らないかもしれないと知ったときから、一度も母の病気について調べたことがありません。治らぬ病気について知ったところで悲しくなる、そして詳しく知ってしまったら、ショックでいたたまれなくなると思ったからです。

母の病が発覚し、父が赴任先から実家に帰ってきました。父も母の病気がそこまで深刻なものだとは思っていなかったようで、そんな母を取り残していたことを後悔し、反省していました。

当然ながら、母自身もひどく落ち込んでいて、夕方学校から家に帰ると、母が電気もつけずにソファに座って放心状態になっている姿を覚えています。

ぼくにはどうすることもできませんでしたが、少しでも暮らしやすくなるように、お小遣いをはたいて東急ハンズで5000円ほどの杖を買い、母に渡しました。母はささやかに喜んでくれました。

高校生前半のころは、母は朝から晩までなんとか自力で生活していましたが、後半になると、母の病状が進み、階段の上り下りはもちろん、布団に寝た状態から一人で起き上がることすらできなくなりました。

夜間にトイレに行くことも難しかったので、夜はぼくが母の隣に寝てトイレにいくサポートをするようになります。ときにはおぶってトイレに連れていくこともありました。

その生活のなかでもぼくはバスケットボール部を続けていたので、朝早くから夜遅くまで部活動に勤しんでいました。若くて体力があったので、夜のトイレのサポートなどで睡眠時間が減ったとしても、朝5時ごろにしっかり起きて、問題なく朝練に通うことができたのです。

【写真】学生時代バスケットボール部のみんなと並んでいるみやざきさん

バスケットボール部だった学生時代(提供写真)

ある日、母方の祖父母が家に来て、母のサポートに対するお礼を泣きながら伝えられました。ぼくはなんでお礼を言われるのかよくわかりませんでした。

なぜなら、母のケアはライフサイクルの一部として当然のごとく行っていて、「介護をしている」という認識はなかったからです。

ケアの事情でたまに部活を休むことはありましたが、顧問の先生に「母の体調が悪くて」と報告する程度で、誰かに相談するということもしていませんでした。”していなかった”というよりは、意識にすら上がらなかった。ヤングケアラーたちはそうやって、自分の状況を客観視できずに無理をしてしまうのかもしれません。

長い長い、介護生活のはじまり

部活を引退した後は、進学に向けて受験勉強を始めます。昼間は学校、夕方は予備校、夜は母のケア、という生活。「母の役に立ちたい」という思いで福祉系の大学を目指すようになり、勉強は順調に進んでいきました。

努力の末にぼくは第一志望の大学にギリギリ補欠で合格し、父も母もそのことを大いに喜んでくれました。そのころ誰もが理想としていたドラマのような明るいキャンパスライフが楽しみな毎日。

その浮かれていた矢先のある朝、母が目覚めなくなります。

名前を大声で呼んでも反応がない。いくら揺すぶってもピクリともしない。ぼくは涙ぐみながら必死になって「今すぐ救急車を呼ぼう!」と父に言いました。父はもちろん驚いてはいましたが、比較的冷静な様子でした。

その後救急車で病院に運ばれ、なんとか母は一命を取りとめましたが、たくさんの管に繋がれた母を見て、ぼくはびっくりして病院で倒れてしまいました。

それから母は気管切開し、喉に管を通し、スピーチバルブという機器を通じてしか声を出せなくなります。そして誰かが補助しなければ車椅子に移動できない、自分で食事を取ることができないという、半分寝たきりの状態になってしまいました。そこから本格的な介護生活が始まることになったのです。

「母のそばにいたい」大学進学をやめる決意

【写真】傘をさし、遠くを眺めるみやざきさん

ぼくはできる限り母のそばを離れたくなかったので、大学への進学をやめることを決意しました。

必ずしも進学をやめる必要はなかったのかもしれません。

しかし、それまでもずっとぼくが母の隣で寝ていたこと、母のために福祉系の学部を目指していたこと、家族の中でぼくがもっとも融通の効く立場だったことなど、様々な理由が複雑に絡みあい、半ば無意識的に母のそばにいるべきだと考えたのです。

人生を左右することなので、本来はもっと合理的に考えるべきだと思うのですが、家族の問題となるとそうもいかないというところが、介護離職などの原因にもなっているように思います。

ちなみに今から数年前、親戚と話す中である事実を知りました。母の病気が不治の病だと診断された際、母は父にこう言っていたそうです。「私に何かあっても助けないでね」と。

ぼくは母の苦しむ姿を見るたびに、そのことについて考えてしまいます。母は救急車に乗らず、あのまま眠っていた方が幸せだったのではないかと。

母の病気が治らぬ限り、その答えは永遠にわかりませんが、母が生きてくれたおかげで今のぼくがあるということだけは確かなことだと、今は受け止めています。

“ぼくは介護をしているんだ”とやっと自覚できるように

18歳になったあたりから、自分は”介護”をしているのだと自覚しはじめました。そういう意味ではここからが介護の始まりです。

母の介護をしながら、ぼくは再び勉強を始めましたが、すぐに困難はやってきました。

そのころ母は、身体は動かないですが、手はなんとか動かせる状態だったため、何かあったときに母が2階の家族を呼べるように在宅用のナースコールを常に手に持たせた状態にしていました。

僕は2階の自室で勉強に集中しようとしますが、すぐにナースコールが鳴り響きます。そして母の要望を聞き、身体の向きを変えてあげたり、車椅子に移動させて何かを食べさせてあげたり、一緒にテレビを観てあげたりする。一通り終えて部屋に戻ると、またすぐにナースコールが鳴る。毎日ナースコールのオンパレード。

ときには、母のもとに駆けつけると「死にたい」と言われます。その言葉を言われることが当時のぼくにとって一番辛い出来事でした。

「死にたい」と言われてもどうしたらいいのだろう。

そんな毎日の繰り返しで、ぼくはとうとう自暴自棄になってしまいます。勉強なんてしなくていい、どこにも出かけなくてもいい、眠れなくてもいい。だから「死にたい」なんて言わないでほしい。

それからは勉強することも一切やめて、介護サービスのスタッフが来る時間帯以外は、基本的に母のいるベッドの横で過ごしていました。そのような生活は徐々にぼくの心をむしばみ、次第に外に出ると吐き気を催すようになってしまいました。

周囲の同年代の人たちはみんな、大学や専門学校に通ったり、アルバイトをしたり、サークル活動や恋愛などを楽しんでいる。そんな中ぼくは勉強する時間すらないという状況に焦り、自分の人生はどうなるのだろうと毎日のように考えていました。

もういっそのこと人生あきらめて、大学に行くのもやめよう。

家の中でひたすら介護をするという、限りなく閉ざされた世界の中で、通常の人とは比べものにならないほどに、視野が狭くなってしまっていました。今となっては、あのときの自分に「人生の進みが数年遅れても大丈夫だよ」と言いたいのですが、そのように言ってくれる人は当時のぼくの周囲にはいませんでした。

そんな中、小説だけが唯一自分を理解してくれる存在だと思い、母の横でひたすら本を読んでいました。

村上春樹さんの小説に登場する、「自分は自分、他人は他人」と割り切って生きる主人公に自分を重ね合わせたり、レイモンド・チャンドラーさんの小説の「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」という有名な一節を自分の人生に照らし合わせてみたり。

そうすることで、「介護をしている自分は少なくとも優しいから、これでいいんだ」と思うようにしていました。そうやって本のなかに助けを求め、今にも崩れ落ちそうな精神状態から徐々に回復していったのです。

翌年からは姉が家にいてくれる時間が長くなり、介護しながら勉強する時間も取れるようになります。再び大学進学のために奮起し、朝は家で勉強して、昼は母にご飯を食べさせ、それから予備校に行くという生活になりました。そして2年遅れで、ようやく大学に入学することができたのです。

2年遅れて始まった大学生活

大学時代は母の病状や家族の事情によって、生活の変化が多い毎日でした。前半は、それらをぼくが担う量が多く、介護の合間に大学生活があるような感じでした。

1年生の時はほとんど通学できず、1年間で取得できた単位はたったの8単位。介護で忙しかったからという理由はもちろんですが、大学生活になかなか馴染めなかったという理由もあります。

ぼくは中高時代からまあまあ性格が明るいタイプだったので、大学の初回のオリエンテーション等でそれなりに友達を作ることができました。なので大学に行くと、友人から「飲みに行こうよ!」「うちのサークルにおいでよ!」などと声をかけられます。

でもいつも、「アルバイトで忙しい」と嘘をついていました。実際は深夜の居酒屋のアルバイトを週一回程度しかしていません。

なぜそんな嘘をつくのかというと、「介護をしている」なんて言ってしまったら、その場の雰囲気を壊してしまうし気を使われてしまう。それに、もう何にも誘われなくなるのではないかと考えていたから。

でもやはり、嘘をつくのは辛いので、次第に友人と会うのを避けるようになりました。大学には裏口から入ってこっそり講義を受け、人の少ない棟の隅っこの階段でご飯食べて、その日の講義が終わるとすぐに帰る。

周囲はキラキラした大学生活を送っている中で、ぼくは幽霊のような大学生活を送っていて、当然ながら他者との比較してしまい、「なんで自分だけ?」と辛い思いをしていました。

自分の人生と母の人生のどちらを優先すべきだろう。

答えの出ない問いに対する葛藤もありましたが、だいたいのことは母を優先してあきらめ、再び浪人時代のように暗く落ち込みがちになっていきました。そのころは誰とも会いたくありませんでした。

気の合う仲間とクラブで楽しむ時間が、ぼくを支えてくれた

【写真】インタビューに応えるみやざきさん

大学2年生の半ばあたりに転機が訪れます。音楽やファッションの趣味が合う昔からの友達たちが、クラブでイベントを開催するということになり、それに誘われたのです。

介護で忙しいのになぜ参加できたのかというと、クラブのオープンは基本的に22時ごろで、24時過ぎぐらいにピークタイムを迎え、朝の4時ごろにクローズします。

母に夕飯を食べさせ、薬を飲ませて、寝かせた後に参加するとちょうどピークタイムに到着する。介護をしているぼくにとって、まさにうってつけの場所でした。

クラブというとよくないイメージを持っている方もいるかもしれませんが、そこは音楽やファッションが本当に好きな人たちが集まる交流会の場。参加すると毎回気の合う友達がいるので、週に1〜2回、サークルのような感覚で通っていました。

そこにいる人たちはダイバーシティに富んでいて、世代が違う人はもちろん、LGBTの人がいたり、ぼくのように昼間に生きづらい生活を送っている人もいる。イベントに参加するたびに新しい繋がりが生まれ、その人からまた別のイベントに誘われる。介護の時間とは被らないので、断る必要がない。ぼくにとってはこの上なく心地のいい環境でした。

大好きな音楽とともにお酒が進み、酔いがまわると、なぜだか介護の辛さが込み上げてきて、朝方の時間帯にクラブのトイレに篭って泣いてしまうことが度々ありました。

ぼくはそれまで友人に対して介護が辛いという弱音をはいたことなんて一度もなかったですし、介護をしていること自体もほとんど打ち明けたことがありませんでした。

しかし、ある日クラブのトイレで泣いていると、いつものごとくある友人が慰めにきてくれて、彼に「介護が辛くてどうにもならない」と打ち明けたことがあります。そんなことは人生で初めてでした。

彼は何も言わずに背中をさすってくれていたと記憶しています。

こんな風に、昼間は孤独だけれど、夜になればたくさん仲間がいるという環境下で過ごすうちに、ゆっくりと自分の境遇を受け入れることができるようになりました。そして前を向いて生きるようになり、新たな行動する意志が生まれ、介護によってガチガチになっていた自分の殻を破ることができました。

それからは大学で友人に会うことを恐れることもなく、堂々と通うようになりました。「最近何してるの?」と聞かれても、クラブに行ってると言えば、嘘ではないので(笑)。

アルバイトも人とのコミュニケーションの少ない居酒屋のキッチンを辞めて、介護の隙間の時間にアパレルの接客のアルバイトをはじめました。そのころ付き合っていた彼女から「なんか突然雰囲気が変わったね」と言われたのを覚えています。

ぼくには強みがない、なかなか決まらなかった就職先

大学生後半になると、就職活動が始まります。そのころ母は車椅子に座ることも少なくなり、喋っている内容もほとんどわからないという状態になっていました。母の体調が悪くなるにつれて、介護の手間が徐々に減ったので、身体は楽になりますが、どんどん病気が進行していくのを見て心は悲しみでいっぱい、という複雑な心境で過ごす日々でした。

家族の協力もあり、就職活動の際は介護をそこまで気にすることなく、全力で臨むことができました。しかし、何社受けてもまったく内定がもらえませんでした。

就職活動は、大学生活でどんな活動をしたかで評価されることも多いです。サークルや部活、アルバイト、ゼミ、留学、インターンなどにおいて、いかに行動し、チームで協力して成果を出したかというような部分が面接官から評価されるのです。

でもぼくはといえば、アピールできることは「介護と学業の両立」ぐらい。しかし、面接官にそう伝えたところで、介護を「努力した経験」だとは捉えてもらえず、「何もしてこなかった」と思われてしまいます。

それに、一部の面接官からは「なんであなたが介護?」「施設に入れるという選択肢はなかったの?」などと質問されます。当時のぼくは面接官がそんなことまで聞いてくるとは思わずに、その質問をされる度に困惑してしまいました。

助けを求めて、大学のキャリアセンターに相談に行きましたが、そこでも面接官の反応と同じ。介護のことは本当に誰もわかってくれないんだと感じて、誰にも相談できませんでした。

介護のため、会社をやめて母のそばへ

周りの学生のほとんどが内定をもらい就職活動を終えていく最後の最後、ようやくぼくも内定が得られました。そこは国内の医療機器メーカーで、神経系の医療機器に強い会社でした。

「母の病気が神経系の難病だったので、同じような病気で苦しむ人を医療機器を通じて克服したい。そのような機器を広めることが、長年母の病気と向き合ってきた自分のミッションだ」という強い想いを訴えたところ、先方のビジョンとマッチしてなんとか内定をもらうことができました。

ただし、その会社は入社後に全国配属可能であることが入社の条件でした。できれば東京で働きたかったのですが、「全国どこでも大丈夫です!」と豪語しないことには、内定をもらえる見込みはありません。

案の定、入社後の配属先は東京から遠く離れた京都になり、家族に介護を任せて遠方で働くことが決まりました。

いざ京都での仕事がはじまると、順調で業績も良く、長年経験できなかった自由なプライベートも謳歌できる。遅れてやってきた青春のような日々を過ごしていました。

でも、自由に過ごせば過ごすほど、楽しめば楽しむほどに、家族に介護を任せていることの罪悪感に苛まれるのです。

そのような日々を3年間ほど過ごし、年末年始の連休に実家に帰った際、母の様子がおかしいことに気づきます。

母は明らかに以前よりも体が弱っていました。もはや車椅子に座ることはほぼない状態で、しっかりと食事を取ることもできずに、やせ細ってしまっていました。

その後京都に戻ってからも、このままでいいのだろうかと考えました。動くことも喋ることも食べることもままならない母にとっての幸せは、子供の顔を見ることぐらいしかないのだろうと。

そんな母の人生と自分の仕事を天秤にかけたときに、やはり母を優先すべきだろうと考え、仕事を辞めることを決意しました。その際に介護との両立を考え、自分で起業することも考えましたが、まずは経験を積んでから、と東京で転職することを決めました。

自分の状況には「ヤングケアラー」という名前がついていた

介護系のIT企業に転職が決まり、ぼくは東京に戻ってきました。その会社は残業が少なくて介護との両立にはぴったりですし、副業や兼業など社外での活動をしている人もたくさんいました。

ぼくも何か活動しようと思い、母が難病であることから、難病支援のNPOでボランティアをしようと決めます。支援者が10名ほど集まる会だったのですが、そこで自己紹介をする機会があり、ぼくはなぜ難病支援に興味を持ったのかを過去の経験とともに話しました。

宮崎さんはヤングケアラーだったんだね。

参加者の一人にそう言われてはじめて、「自分の状況には名前が付いていたんだ」と思うと同時に、なんだかピンとこなくて少しだけ疑いの気持ちを感じました。

その会が終わってからヤングケアラーについて調べてみると、要介護状態の家族のためにケアの責任を引き受け、家事や家族の世話、精神面でのサポートも行っている子どもや若者のことを指す言葉だと知りました。

たしかにぼくの経験はヤングケアラーそのもので、しかも世の中に同じような境遇の人が数十万人単位で存在している。「なんで自分だけこんな思いをしなければいけないのか」とずっと感じてきたので、つらいのは自分だけじゃないことに、ひっくり返るような衝撃を受けました。

【写真】インタビューに応えるみやざきさん

もっと詳しく知りたいと思い、すぐさまヤングケアラーを専門に研究している大学の先生に連絡すると、快く面会の承諾をしてくれました。

もちろんヤングケアラーはたくさんの辛い経験をしているけれど、その経験から得るものはネガティブな要素だけではない。家族のケアを通じて責任感や生活能力、思いやりなどの様々な能力を培っている傾向があるんだよ。

先生からそう聞いて、ぼくはとても感激しました。ずっとコンプレックスだった過去が、強みに変わり、その経験を活かしていこうと、前向きに捉えるようになりました。

その先生からの紹介で、日本ケアラー連盟のヤングケアラープロジェクトに参加させてもらうことになります。そしてそのプロジェクトの一部である「スピーカーズバンク」という当事者同士が語り合う場で、たくさんの当事者と関わりはじめました。

これまでは介護をしている同年代の人とはほとんど会ったことなかったので、自分以外の人たちがどういう課題を抱えているのかがわかりませんでした。でも集まりに参加し、一人ひとりの話を聞いていく中で、ヤングケアラーの課題がある程度共通していることがわかります。

周囲に相談できず孤立してきたこと、仕事やお金のことなど将来の人生設計に関する不安があることなど、同じ悩みがいくつもある。そして当事者同士で話し合うと、それらの悩みについて深く話さずとも、なんとなく分かり合える雰囲気があり、ぼくを含め当事者にとってはとても心地のいい場所のように感じました。

そんな場に何度か参加していくうちに、この共通した課題をどうにか解決できればと思うようになり、「ヤングケアラーのために事業をやろう」と考えはじめたのです。

ヤングケアラーや若者ケアラーを支える就職・転職支援サービス「Yancle」

それからヤングケアラーのための事業を立ち上げるべく、様々な人に相談をしはじめました。ところが、「想いは素晴らしいが、ビジネスにはならない」と言われることはほとんどだったんです。

これからどうしようか悩んでいたある日、友人から社会課題解決を事業として行う「ソーシャルビジネス」という言葉を聞きました。ネットで調べてみると、「ボーダレス・ジャパン」という会社が主催する、社会起業家育成講座「ボーダレス・アカデミー」を見つけたのです。

その講座が主宰するビジネスコンテストで事業についてプレゼンをしたところ、優勝することができました!そしてぼくは本格的に起業に向けて歩み出し、ボーダレス・グループにて「Yancle」(以下ヤンクル)を創業しました。

ヤンクルでは、若くして家族の介護を担うヤングケアラーや若者ケアラーの就職・転職支援を行なっています。

彼らは介護による時間の拘束や職歴のブランクが、仕事をする上での大きな制約になっています。

時間の融通がきかないことで理由で現在の職場で働きづらい人たちには、フレキシブルに働ける会社を紹介し、転職の支援を行っています。中高年層と違い、若い人は転職先の選択肢が多いため、その職場にとどまって無理に窮屈な思いをしなくてもいいという考えです。

一方、職歴のブランクがある方々に対しては、介護の経験を活かした再就職の支援をしています。自己PRや志望動機に介護の経験を書くことは、ネガティブな内容になってしまいがちなのですが、実際には介護の経験から得たポジティブな部分もたくさんあるはず。

なので一緒に自己分析を行い、介護経験を仕事に活きるような強みと捉え直し、アピールポイントとして考えていく手助けをします。

ヤンクルで紹介する企業は、基本的には介護の理解があってフレキシブルに働ける会社です。ただ、求職者によって求めるものがバラバラなので、マッチングさせるというよりは、本人が志望する企業に入れるように転職の伴走しています。

キャリアパートナーとして当事者と面談をしたり、各種メディアで自分の体験について話したり、当事者同士のオンラインコミュニティを運営したり。

こういった事業を通じて、たくさんの当事者の方に、「目の前が明るくなった」「心が楽になった」「自分だけじゃないと思えて安心した」といった嬉しい感想をたくさんもらっています。

【写真】笑顔でインタビューに応えるみやざきさん

あるとき、両親に障害がある方から転職の悩み相談を受けました。正直いうとぼくの力不足でその方を転職に繋げることはできなかったのですが、一通り相談に乗ったあとで、突然涙を流しながらお礼を言われました。

いままで本当に誰にも相談できなかった。ずっと、わかってくれる人なんていないと思っていた。今回宮崎さんと話して、理解してくれる人に出会えてよかった。

そう言ってもらえて嬉しかったです。

きちんと社会を俯瞰的し、介護をしながら生きていくための方法を考えてみると、決してたくさんあるとは言えないけれど、どうにかできる方法も必ずある。

ぼくもこれまで、数少ないどうにかできる道を歩んできました。でも捉え方を変えれば、それは「介護によって正しい選択肢を選ぶことができた」ということにもなるんじゃないかと思ってます。

制約があるからこそ発見できることがあるし、頑張れることもあるし、自分なりに生きる意味を見いだせることもある。そして完全な自由の中で生きるよりも、考えるべきポイントを重要な部分だけに絞ることができるからです。

ぼくには最初から進むべき道が数本しかなく、悩みからの出口を見つけたときにはやりたいことがたくさん思いついた。そんな感じで、いまはちょっと遠くに出口が見えている状態ですかね。

ヤングケアラーについて知識を広めたい

若くして介護をしている人の課題は、年齢によって大きく二つに分かれると思っています。

まずは18歳以下のヤングケアラーについて。そもそもヤングケアラーの定義は正確にいうと、18歳未満で本来大人が担うような介護の負担を抱え、生活に支障が出ている人のことです。

ただ、若ければ若いほどに、介護に関する知識がないので、自分が“介護をしている状態”だと認識することが難しい。なので16歳の子が親のケアをしていて、「これは介護だ、ネットで介護の仕方を調べよう!」という行動が起こるとは考えにくいのです。

生まれてからほぼずっと同じ屋根の下で共に生活してきた、自分の一部のような家族が病気や障害で困っているのを見て、「ただひたすらに助けの手を差し伸べている」という状態なのです。

だから、本人はライフサイクルの一部として当然にやっていることなので、それに対する対策をしようとはあまり思わない場合が多く、自分を客観視できず、他者へのアラートが出しづらいのです。

その状況が続くと、学校を休みがちになり、社会から孤立し、本人も気づかぬうちに心身に不調が出てくることもあります。

彼らを支えるためには、第三者が本人の変化に気づいてあげることが重要です。そのためにまずは、「ヤングケアラー」という言葉の認知が重要だと考えています。

そう知っていれば、当事者が身近にいたときに「もしかしてこの人はヤングケアラーなのかな?」と気づき、支援につなげられるかもしれません。

【写真】インタビューに応えるみやざきさん

一方で、18歳以上の「若者ケアラー」と呼ばれる人たちの課題はヤングケアラーとは少し違います。

もちろん人それぞれなので、一概には言えないですが、若者ケアラーの多くは18歳以下のケアラーたちより知識があるため、「自分が介護をしている」という認識はあると思います。ただ、認識した上で介護をする必要がない他者と比較し、その違いに孤立を感じてしまうことが多いのです。

自由に進路を選択できる周囲を横目に、若者ケアラーたちはケアの制約によって自由に進路を選ぶことができず、「なんで自分だけ?」と孤立してしまうのです。また、社会で必要とされるスキルを磨く機会も制限されるので、数年後の就職における進路決定にも影響してきます。

すでに就職している場合も、他人と比べて自分には自由がない窮屈さを感じ、介護によって職歴にブランクが生まれるとそれが転職におけるハードルになってきます。

しかし、介護をしている以上、一定の物理的な制約がかかってしまうことは、今の世の中では仕方のないことでもあります。なので、捉え方を変える必要があると思います。

「介護離職」「介護殺人」「介護心中」など、介護がきっかけとなり起きてしまうつらい出来事が報道されることもあるため、社会ではまだまだ、「介護」にはネガティブなイメージが多いと思います。それが周囲に相談しづらい原因になっていると思うのです。

だから、家族のケアをしていても別にいい、それも多様な家族形態の一つだと、本人も世の中もフラットに捉える必要があるのではないでしょうか。その上で初めて、悩んだときに他者に相談しやすい環境が構築できると思うのです。

また、家族の介護が後ろめたくない状況になれば、もっと多くの人が介護に携わるようになり、そうなれば企業も介護をしている人を受け入れざるを得ない。そしたら介護離職なんてなくなるし、介護人材の不足もある程度解消されて、社会がよりよくなるんじゃないかと思っています。

今は夢みたいな話かもしれませんが、ぼくは事業を通してそんな社会を実現できればと思っています。

あなたの選択にもっと誇りを持ってほしい

【写真】インタビューに応えるみやざきさん

介護の経験の中で喜びや幸せを感じることもたくさんありました。それは特に高校卒業後に介護をしていた1年間と、その後介護をしながら予備校に通っていた1年間、母と過ごす時間が人生でもっとも長かった時代です。

母に「死にたい」と言われることもありましたが、「大好き」と言われることもありました。

毎日母を車椅子に乗せて、ご飯を食べさせるのですが、その間テレビをつけてもあまり観てくれませんでした。ただし、母はアイドルグループの「嵐」が好きだったので、嵐のメンバーがテレビに出るときだけは、笑顔で夢中になって観ていました。ぼくは母を喜ばせたかったので、嵐のライブDVDを買ってきて、ご飯のときにつけるようにしたんです。そしたら大喜び。

そんな母がおかしくて、ぼくもいつも笑いながらご飯を食べさせていました。昼時の日差しの中で、一緒に笑いながらご飯を食べていた時間は、かけがえのない思い出です。おかげでカラオケに行けば、その時代の「嵐」の曲は全部歌えると思います(笑)。

昔に比べて、いまは母の笑顔も少なくなってしまいましたが、体調が良さそうなときにはぼくが顔を見せるとたまに笑ってくれる。ささやかな出来事に思えますが、ぼくにとってはこの上なく幸せな瞬間です。

もしも、大学進学を一旦あきらめ、自暴自棄になっている過去の自分にメッセージを伝えられるとしたら。ぼくはこのように言ってあげたいと思います。

あなたのような境遇の人はヤングケアラーと呼ばれていて、世界中にたくさんいる。だからあなたは決して孤独ではない。けれど、そうは言ってもやっぱり辛いと思う。

いま、精一杯になっていて気づいていないかもしれないけど、あなたの目の前には無数の選択肢がある。

自分のために母のことを家族に任せることができる。母の鳴らすナースコールを無視することもできる。すべてを投げ出してどこか遠くに逃げることもできる。

でも、あなたは家族を放棄せず、母と向き合うという選択をしている。それは誰に言われたわけでも命令されたわけでもなく、あなたが自主的に選択した。

その勇気ある意志にもっと自信を持ってもいいんじゃないかな。少なくとも、その選択をしている今のあなたを、未来のあなたは誇りに思っている。

家族のケアは、終わりが見えない場合が多いです。同じ状況にならない限り100%はわからないし、家族だからこそ抱えてしまう罪悪感も避けることはできないでしょう。

だからヤンクルとしても、全てを解決したいなんて無責任なことは言えません。それでも、ケアと上手く付き合っていくための、少しだけ前を向く機会を作っていけたらと思うのです。サポートというよりは、「ぼくも一緒に頑張っていきたい」という気持ちでいます。

ぼくはこれからも、家族のケアが当たり前のものとして、ポジティブに捉えられる社会を実現していきたいと思っています。

【写真】傘をさし、笑顔で立っているみやざきさん

ヤングケアラー協会 ホームページ

(編集/工藤瑞穂、写真/川島彩水、企画・進行/木村和博、高村由佳)