【写真】笑顔でカメラを見ているこめたにさんとかとうさん

人生はいつ、何が起こるか分からないし、抗えないものは抗えない。ここ数年、そう考えることが多くなりました。

突然の病気や介護で想定外の生活を送ることになる。いつでも行けると思っていた場所に行けなくなったり、やりたいことが出来なくなる。

そんな抗えない変化によって、感情や価値観、生き方そのものが変わっていくこともあると思います。

「私たち夫婦は今後何があっても、別れることはないから大丈夫。老後を一緒に過ごしたいってお互い思っているから」

これは、私の母が再婚するときに伝えてくれた言葉です。そして両親が度々口にしていることでもあり、聞くたびに安心する一方で、子どもながらに心配もよぎります。

「二人の生活」の中でもし何か抗えないネガティブな出来事が起きた時、二人の関係性はどうなるのだろう。その先も一緒に手を取り合い、笑顔でいるにはどうすればいいのだろう。

「今がよくても、この先は分からない」

ふとした瞬間に思い出す漠然とした不安は消えません。

そんな思いを抱いている私にとって、加藤俊樹さん・米谷瑞恵さんご夫婦との出会いは驚きの連続でした。それは、お二人が突然の抗えない変化を経験し、その後それぞれの生き方、関係性を変えていきながらも笑顔で約26年の月日を過ごしてきたというからです。

【写真】手振りをしながら話をするこめたにさんと、笑顔で聞いているかとうさん

加藤さんは今から9年半ほど前に脳卒中を発症し、失語症になりました。

「失語症」とは高次脳機能障害の一種で、難なく相手の話を理解し会話することや、スムーズに文章を読み書きをすることが難しいといった症状があります。

現在、加藤さんは発症前から勤めているカメラメーカーに勤務。自ら撮影した写真をご自身の運営するウェブサイト「失語症」で公開しています。

妻の米谷さんは言語聴覚士の資格を取得し、障害者施設と介護施設で働く傍ら、ウェブサイト「ウチの失語くん」やYouTube「失語症チャンネル」などで、二人の暮らしを発信しています。

突然の病気によってがらりと生活が一変したなかで変えざるを得なかったこと、逆に変わらなかったことはなんだったのだろう。そして今の二人の関係性はーー。

緊張と期待を胸に抱き、私は取材当日を迎えました。

「サブカル好き」の共通点によって引き寄せられた出会い

こんにちはー!本日はどうぞよろしくお願いいたします!

インタビュー場所のインターホンがなり扉を開けると、そこにははきはきした声で挨拶してくれる米谷さんとにこやかに微笑む加藤さんの姿が。

お二人が醸し出す元気で和やかな空気感によってその場がぱっと明るくなり、あっという間に緊張がほぐれるのを感じました。

失語症の影響から、話をする時すぐに言葉が出ないことがあるという加藤さん。考えながらゆっくりと話す様子を、米谷さんは見守りながら、加藤さんが言葉をなかなか思い出せないときには説明を付け足すなどのサポートをします。

そんな二人の掛け合いによる穏やかな空気の中で、取材は始まりました。

【写真】話をする加藤さんとその姿を見守る米谷さん

お二人は学生時代から、「サブカルチャーに没頭していた」と言います。

米谷さん:私は学生の頃からサブカルチャーが好きで、当時発売されていたサブカルチャー雑誌『ビックリハウス』を読んでイベントへ参加したり、雑誌へ寄稿したりして友達づくりをしていたんです。

加藤さん:僕は幼少期から、「マニアックな少年」でした。10歳で井上陽水さんのアルバムを毎日聞いたり、中学生になったら、ギターを始めたり。F1がすごく大好きだったのですが、当時はラジオでしか放送されていなかったので、専門雑誌の小さい記事と、ラジオの情報だけで追っかけていました。

当時ののめり込み具合を生き生きと話す姿からも、かなりの「サブカル好き」なことが伝わってきます。

そんな二人が出会ったきっかけは、共通の知人からの紹介。当時はそれぞれ別々の出版社に勤めていましたが、二人の似た雰囲気を感じた共通の知人が引き合わせてくれました。実際に初めて会った時も、「そんなマニアックなことも知っているの!?」と趣味や好きなことが似ていることで意気投合したそうです。

「気づいたら結婚していたから、それまでを本当に覚えていないの」「なんか気が合うねっていう感じで(笑)」と笑いながら当時のことを話してくれました。

結婚後、米谷さんは出版社を辞めてフリーランスのライターに、加藤さんはカメラメーカーに転職しました。お互いが仕事に意欲的なことから深夜まで働くことも多く、一方で休日は趣味をめいっぱい楽しみながら暮らしていたそうです。

47歳で脳卒中に。1か月の車椅子生活を過ごす

仕事も趣味も全力で楽しんできた二人。これからもこうして共に日々を歩んでいくのだろうーー。そんな想像とは裏腹に、幸せな毎日が一変するような出来事が起きます。

加藤さんが47歳のとき脳卒中で倒れ、入院することになったのです。

加藤さん:もともと頭痛に悩まされることは多くて。ある日の仕事後も、職場の人とカラオケに行っていた時にひどい頭痛に襲われ、席を離れて別の場所で休んでいました。でも全然よくならなくて、僕がなかなか戻ってこないからといって同僚が心配して探しに来てくれたんです。

そこで同僚は、頭痛に加えて左右の視界の見え方に違いが生じ、話し方もろれつが回っていない状態になっている加藤さんを発見します。偶然、その方が脳卒中の症状について知っていたことから危機感を抱き、すぐに救急車が呼ばれ、加藤さんは病院へ運ばれました。

同僚の予想通り「脳卒中」と診断を受けた加藤さんは、そのまま治療のため「急性期病院」に3週間入院することに。その後はリハビリのために「回復期リハビリテーション病院」に転院して4ヶ月ほど過ごすことになり、手足には麻痺があったため、車椅子を用いて生活をしていました。こうして加藤さんのこれまでとは全く違う日常が始まったのです。

失語症の宣告。話すことも、聞いて理解することも困難だった

入院当初の加藤さんは、麻痺により思うように手足が動かせず、まずは座ったり立ったりする練習など体のリハビリを始めました。幸いにも麻痺症状が軽く、リハビリを続けた結果、1か月後には歩けるようになったといいます。

ただ、徐々に体だけでなく、「自分の発する言葉への違和感」を抱く始めるようになりました。

加藤さん:お見舞いに来てくれた人たちとは、難しい言葉を使う会話はしていないのに、「なんかおかしい、自分ではちゃんと話しているはずなのに、相手に伝わっていない気がする」と感じていたんです。

米谷さんも、当時の加藤さんの様子は今でも覚えているといいます。

米谷さん:夫が話す単語そのものを理解することが、私にも難しくて。正直なところ、まるで「宇宙人」になってしまったように感じていました。

医師によると、診断結果は重度の「ウェルニッケ失語」。流暢に話すことができる一方で、言い間違いが多かったり、相手の話を理解するのが難しかったり、読み書きが苦手などの症状があるものです。

米谷さんははじめ「3ヶ月ほどすればまた加藤さんとスムーズに会話できるようになるだろう」と思っていたといいます。

失語症がそう簡単に治らないと分かった時は、きっとつらかったのではないだろうか、と私は想像しましたが、意外にもこの頃のことをお二人は笑いながら話してくれました。

加藤さん:名前がね、言えなかったんですよ(笑)。

米谷さん:そうそう、夫が自分の名前を先生に聞かれたのですが、上手く答えられなくて。「加藤としとしとし……としあんど」って言ったので、思わず笑って「コンビ名か!」とツッコミをいれてしまったんです(笑)。

そしてツッコミを受けた加藤さんも一緒になって、大笑いしたのだとか!言葉が出づらい加藤さんの様子を嘆いたり、悲しんだりするよりも前に笑っていた米谷さんに、病院の先生も驚いたのでしょう。「奥さん!笑ってはダメですよ!」と諭されたといいます。

【写真】互いに顔を見合わせて当時を振り返るふたり

その後に専門的な検査をした結果、加藤さんは耳から聞いた話の内容をしっかり理解するのが難しい聴覚的理解障害の症状も出ていることもわかりました。

加藤さん:自分が話せていないことは自覚していたのですが、人が話したことは理解できていると思っていたんです。ですが、先生に「鉛筆を持ってください」と言われたことができなくて……。人との会話が難しかったのは、聞いて理解することができていなかったせいもあったのだと、初めて自覚しました。

このように様々な症状が出ていたことからすぐに復職することは難しく、加藤さんは多くのリハビリを行いました。

入院中に行ったのは、絵を描いて、言葉の代わりに考えていることを伝える練習。退院してから復職までの1年半は、言語課題が書かれたプリントを解き、パソコンを使う練習がリハビリのメインとなり、復職が近くなってからは、仕事で使う専門用語を読み書きする練習にも取り組みました。

【写真】「バスに乗りたい」と伝える練習で描いたバスの絵

一人で全ての決断を背負い、一度だけ涙を流した

加藤さんの失語症発症後も笑いや楽しさも交えながら日々を乗り切ってきた二人ですが、追い詰められるほどに大変なこともありました。

米谷さん:これまではいろんなことを二人で決めてきましたが、入院先の病院から失語症の治療まで、全てを私一人で決めないといけない。夫には相談できない状況が一番辛かったです。

「読む・書く・聞く・話す」を正確に行うのが難しく、思考力も低下していた加藤さん。互いの考えを相談して意思決定することが困難な状況にあったため、些細なことから重要なことまで、多くの判断を米谷さんが一人でしなければなりませんでした。

米谷さん:最初に話したように夫は、脳卒中を発症し急性期病院で3週間過ごした後、リハビリのため回復期リハビリテーション病院に転院し、4ヶ月間の入院生活を経ています。そのため、最初に入院して間もなく、「すぐに次の病院を決めてください」と言われました。夫に合う病院にしたいけど、どこがいいのか分からない。初めてのことなのに誰にも相談できなくて、でもすぐに決めなきゃって。

そのうえ物事は上手く進まず、途方にくれてしまって……。思わず電話口でソーシャルワーカーさんに「じゃあ私はどうしたらいいんですか!?」って泣きました。

後日、そのソーシャルワーカーさんから電話がかかってきて、情報提供やサポートをしてくれて。この時に吹っ切れた感じがあって、ようやく一人で抱え込まなくていいんだと思えました。

知りたいことがあったら人に頼ればいい、そうすれば自分で情報を掴みにいくこともできる。そう実感したという米谷さんはこの時以来、医師やソーシャルワーカー、セラピストに対して能動的に質問するようになりました。わからないことは専門家に聞けば丁寧に教えてもらえると知ったことで、一人で悩む時間は減っていったといいます。

【写真】インタビューに答えるこめたにさん

夫が失語症になったことをきっかけに、51歳で言語聴覚士に

加藤さんが脳卒中を発症して以来、米谷さんは加藤さんの状態を友人に伝えるため、SNSでの発信を始めました。

はじめは身近な人への発信を目的としていましたが、次第に「見た目では分かりづらい失語症に対する社会の認知も広めたい」「似た境遇の方に向けて必要な情報を届けたい」と思うように。同時に、加藤さんのリハビリをサポートしてくれた言語聴覚士の姿を思い出したそうです。

言語聴覚士とは、言葉のコミュニケーションや食べることに問題がある方のサポートをする専門家です。子どもから高齢者までを幅広く、聴覚障害や声・発音の障害、発達の遅れなどさまざまな病気や障害のサポートを行います。

米谷さん:夫との生活を発信することで「こういう失語症の人もいるよ」ということを伝えたかった。そのうえでさらに、言語聴覚士としての知識もあると、より読者が求める情報を届けられるのではないかと思いました。それで言語聴覚士を目指すことに決めたんです。

そして、米谷さんは49歳の時に言語聴覚士の専門学校へ入学しました。勉強を進めるうちに、「障害への理解を深めて加藤さんをサポートしたい」という気持ちだけでなく、脳の仕組みへの知的好奇心が刺激されて、医学分野を学ぶ楽しさを見出していったそう。

当時のブログからは、言語聴覚士国家試験の勉強に励む米谷さんと見守る加藤さんの二人三脚ぶりが記録されています。

明日は国試(もちろん私が)
オットが「だいじョうぶだ!」と書いてくれたので
きっとだいじョうぶ(^ ^)
最強のお守りもらったので、もう寝ます。

【写真】かとうさんが紙に書いた「だいじョうぶだ!」という文字

加藤さんが紙に書いた文字(提供写真)

専門学校に入学してから2年間の月日を経て、51歳で国家試験に合格しました。

当初は加藤さんを支えるために挑戦したことではあったものの、資格取得までの道のりで加藤さんに「何度も励まされた」と話す米谷さんの言葉には、支える・支えられるに固定されない二人の関係性が言い表されているようでした。

人とのコミュニケーションを怖がらずに助けてもらう

加藤さんが失語症を発症してから、9年以上が経ちました。普段使わない単語を忘れることはあるといいますが、米谷さんと楽しそうに会話したり、インタビューでも私の質問に丁寧に答えてくれました。

会話そのものが困難だった発症直後には、きっとこんなふうに他者とコミュニケーションをとることすら難しかったはずです。もし私だったら、はじめは何としてでも会話ができるように頑張りたいと思うものの、思うようにコミュニケーションが取れないもどかしさで次第に気分が落ち込み、友人と会ったり外出するのもいやになっていたかもしれません。

だからこそ、これまでの間、加藤さんはどのように人と関わってきたのかが気になりました。

加藤さん:リハビリテーション病院を退院した後に、「自分が言い間違いをしている」と認識することができました。それでも「人と会って話すこと」を避けなかったんです。

【写真】質問に応えるかとうさん

米谷さんは言語聴覚士として仕事をはじめてから、失語症の患者さんの中には、私が懸念していたとおり、思うように話せないことでの不便さや恥ずかしさから外出することを避ける人もいると知ったそうです。しかし、加藤さんは自分の言葉に違和感を覚えたあと、スムーズに会話できるために何をすべきかを言語聴覚士と一緒に考え、リハビリに励みました。そしてどんどんと外へ出かけ、気になるお店を訪ねたり、友人と会ったりしていたのです。

加藤さんが積極的に人と関わっていこうと思ったきっかけの一つに、知人とのこんな出来事があったそう。

加藤さん:昔から写真のギャラリーに行くのが好きで、入院中の一時帰宅の際に、知人のギャラリーに行きました。その時知人が「(病気や障害があっても)大丈夫だよ。みんな優しくしてくれるから何とかなるよ」と伝えてくれて。僕の背中を押してくれたんですよね。

その知人も病気を経験していたことから、加藤さんの困難なく外出できるかどうか不安な気持ちに、理解を示した上でこう言ってくれました。加藤さんはこの言葉を素直に受け取り、勇気を振り絞って出かけてみることに。

すると、待っていたのはたしかに「何とかなる」ことだらけ。お店に入っても店員はゆっくり話してくれたり丁寧に対応してくれるので、外出が怖くなくなっていったそうです。

加藤さん:僕はもともと、「困ったことがあるなら、頼もう」というスタンスで、「人を頼ることへのハードル」がないほうではありました。

今も店員さんに、「僕は言葉の障害があるので、ゆっくり話してください」と伝えることもあります。「コミュニケーションを取りたい」という意思が伝われば、相手も応えてくれるんです。

印象的だったのは、レストランで出会った外国人の店員とのエピソード。日本語が得意ではない店員が加藤さんの注文を聞きにきたため、お互いにメニューを指差したり、簡単な単語を伝え合いながら時間をかけてコミュニケーションをとりました。注文できたとき、加藤さんは「病気や言語の違いから、言葉でのやりとりに壁があったとしても、なんとかなる」と思ったといいます。

自分のできることを見つけ、できないことは人に頼ればいい。たとえ言葉がすぐに出なくても、途切れ途切れでも、会話をしたいという思いが伝われば通じあえる。言語を使わなくても、意思疎通はできる。

そんな風に考え、加藤さんは臆することなく人とコミュニケーションを取り続けてきました。

実際に当日の私への加藤さんの関わり方からも、言葉だけでなく、動作や視線からも「コミュニケーションを取りたいと思ってくれている」と感じました。だからこそ私も自然に、「コミュニケーションを取りたいというその思いに応えたい」と思いながら話していたように思います。

【写真】笑顔でお話するかとうさん

そして現在、加藤さんは脳卒中を発症する前から働き続けているカメラメーカーに復職し、障害者雇用枠で働いています。

発症以前はチームの中でメンバーに指示をする業務が中心でしたが、現在は一人で出来る仕事を自ら探して、取り組んでいるのだそう。新機種の作例(その機種で撮影した写真の例)のチェックや、カメラマン目線の意見を伝えることなど、公私問わずカメラを愛する加藤さんだからこそできる仕事で、「以前よりも仕事内容が自分に合っている」と感じて楽しんで取り組んでいるといいます。

ただ、読む、書くことへの難しさは今も残っているため、書類などを読み書きしなければいけない場合は他の社員にサポートをしてもらうようです。こうして自分でできることは自分でやる、できないことは様々な人の力を借りながら、加藤さんは日常生活を送っています。

「障害や病気があっても、人生終わりじゃない」という確信

先ほど紹介した、「加藤さんがご自身の名前を医師に上手く伝えられなかったときに笑いが起きた」という思い出の通り、どんな場面でも前向きなエピソードを話してくださるお二人。困難な出来事に出会ってもいつも明るくいられる支えのひとつは、夫婦の共通の友人2人の存在があるのだと教えてくれました。

米谷さん:一人は、ダウン症である子どもを育てるシングルマザーの友人です。その人は子どもが一人で電車に乗っても安全に戻ってこれるように、駅員さんには「ダウン症の子どもが乗ってきたら、こういう対応をしてください」と接し方をまとめたパンフレットを作成し、配布したんです。

もう一人は、後天的に全盲になった友人。「やりたいことは何事も自分で挑戦してみる」という考え方で、一人で海外旅行にも行っているんですよ。

二人の姿を見て私は、「助けを求めることは恥ずかしいことではないのだから、できないことは誰かに頼ろう」と思うようになりました。

それまでの私は障害がある方と接することがほとんどなかったので、初めて友人と会ったときは『何か失礼なことを言ってしまうのではないか』と緊張し、腫れ物に触るような接し方だったと思います。

ですが、相手から『こういうときはこうしてほしい』と要望を伝えてもらえたときに、緊張がほぐれて「一人の人」として接することができるようになったと思えたのです。

友人たちは物理的、医療的なサポートが必要だけど、友人たちの他人を信じるまっすぐな生き方がこうして今、私たち夫婦の背中を押してくれている。障害の有無によって「支える・支えられる」といった役割に固定される必要はないし、「障害や病気があっても、人生終わりじゃない」という確信が持てました。

そして、「笑いのツボが似ている」ことが、一緒にいて笑いが絶えない関係性でい続けられていることに繋がっているのだとか。

米谷さん:昔も今も、一人がふざけるともう一人も乗っかってふざけるんですけど、自分がふざけるのに精一杯で、お互いに相手のことを見ていないんですよ(笑)。

加藤さん:鏡に向かって変な顔をして、「今の顔見た!?」ってボケ合うんです。もう50歳超えてるのに、人はあまり変わらないね(笑)。

【写真】笑いあうお二人。インタビュー中はお二人の笑い声が絶えない時間でした"

その他にも、お互いの趣味や好きなもの、癒されるものを尊重して、それぞれが過ごしやすい環境を保てるようにしているといいます。そんなお二人も喧嘩をすることがあるのか、おそるおそる聞いてみました。

米谷さん:大体私が一方的に怒って、終わる感じです。夫は喧嘩に乗らないんですよ。

加藤さん:症状のことを差し引いても、口喧嘩で妻に勝てるわけないんですよ(笑)。だから妻が怒っても1,2分程度で普通の会話が始まり、長引くことはないです。

また米谷さんは、失語症発症後の方が、怒りの感情が湧きづらくなったといいます。

米谷さん:以前は夫と全てを対等でいようとして、「私ばっかり損してる!」って思うことが多かったです。でも今は、「出来ないからしょうがないよね。それは私がやるよ」と素直に思えるようになりました。

脳卒中で倒れたあの日を境に、加藤さんは脳卒中の後遺症や失語症とともに生きることになりました。障害者雇用枠で働くことになり、働き方も変わったことで以前と違い定時で帰宅しています。そして米谷さんは、言語聴覚士へ転職。

お互いのライフスタイルが変わり、一緒にいる時間も長くなりました。現在は加藤さんの回復によって、米谷さんから加藤さんに相談できることも少しずつ増え、精神的に支えられている部分も多くなってきているといいます。

米谷さん:夫は人生の途中から「障害がある」状態になりました。時に落ち込むこともあったかと思いますが、困難のなかでも前に進み続け柔軟に対応し続ける姿を見ながら「夫はこんなにもレジリエンスの強い人だったのか」と新たな一面を知ることができました。

病気によってお二人は、突然の人生の大きな変化を経験しました。その後お互いの働き方や関わり方も少しずつ変化し、お互いへの理解も深めていったからこそ、今の笑顔のお二人の姿があるのです。

文章、写真、動画。多岐にわたる方法で発信する「失語症」

お二人は今、それぞれの方法で失語症に関する発信や表現活動に取り組んでいます。

加藤さんは主に写真での発信です。カメラ好きが高じてカメラ関連の仕事を続けてきた加藤さんは、脳卒中発症前からもウェブ上で写真を公開していました。

加藤さん:倒れる前は「自分の写真を見て人に感心してもらいたい、すごいと思わせたい!」という気持ちが大きかった。でも、今は、きれいだと思うものだけでなく、目に映るものはなんでも撮ってます。ゴミとかも撮りますよ。文章を書くことが苦手なので、写真は私にとって、失語症に関する発信方法だけでなく、「表現の術」にもなっています。

失語症発症後に撮影した写真の数々は、写真集『失語症』にも掲載されています。

【写真】かとうさんの写真集『失語症』の表紙。ひらがなの文字列が書かれた紙の写真が使われている

一方で米谷さんはブログを通して、失語症の一症状の紹介や、病気や障害の捉え方は多岐に渡ることを言葉で伝えています。また、Youtubeでは加藤さんが読み書きの練習をしている姿や、さまざまなテーマについて語る様子を動画で発信しています。

米谷さん:失語症に限らないですが、「外見からはわからなくても、困難を抱えている人がいる」ということを伝えたくて撮影しています。

例えば加藤さんの場合、「復唱」が苦手で長文になると覚えることが難しいそうです。実際に私たちも、加藤さんが復唱をしている様子も見せていただきました。YouTubeにも、復唱の練習の様子がアップされています。

これまでのインタビューから、「話す」上での不便さはほとんど無いように思っていましたが、復唱をスムーズに行うのが難しい様子を見て、失語症の症状の複雑さを実感しました。普段のコミュニケーションでは気づかないほど回復していても、見えづらいところで困っていることやサポートが必要な部分もあるのです。

米谷さんは発信活動の他にも、失語症の方が集まる「会話サロン」を開催し、多様なコミュニケーション方法があることを伝えるなどの活動をしています。言葉が思うように出ない方も、ボディランゲージやジェスチャーなどの方法も使って、みんなでコミュニケーションを楽しんでいるといいます。

【写真】インタビューに応えるこめたにさん

米谷さん:コミュニケーション方法は多種多様だから、もし言葉を使うことが困難な状況になっても、絶望しなくていいと伝えたいです。私は言語聴覚士として、その人に合った方法を柔軟に見つけるお手伝いができればいいと思っています。

また最近、「障害や病気を理由に、表現することが難しい人の声を代弁する」ことを目指し新たな活動「聴き書きプロジェクト」も始めました。

米谷さん:失語症や認知症、進行性の難病などで意思表示を出来ない人たちが、「この人たちは伝えたいことがないだろう」と思われたり、「意思疎通をするのが大変だから」という理由で意見を聞いてもらえないといった扱いを受けることがあるのが、とても辛いんです。

その人たちの内側にも「世界」があり、たとえ表現していなくても、これまでの道のりや考えてきたこと、伝えたいものがある。それらを無きものにしないためにも、そういった人たちの思いを聞き書きして、周囲の人に伝えていきたいです。

無理にポジティブでいなくてもいい。支えてくれる人は必ずいるから

柔らかい雰囲気をまとっている加藤さんと米谷さん。やはり私にとって一番印象的だったのは、話の最中に何度も笑いが起きるその明るさです。実際にブログの読者からは、「どうしてそこまでポジティブなんですか?」と質問を受けることもあるそう。

二人のように、変化を受け入れ前向きに生きるためにはどうすればいいのか、尋ねてみました。

米谷さん:そもそも、ポジティブでいる必要はありません。悲しい時は悲しいし、無理に明るくいようとしなくてもいい。病気で突然生活が一変することは大変なことですから。

でも、そこから一歩前向きになりたいと思う人に向けてお伝えしたいことは、「専門家や頼れる人を頼ってみてほしい」ということです。

例えば、これまで強い立場だった方が病気になったとき、家族も含めて人に頼ることができない、「援助欲求が出せない人」がいるんですよね。でも言語聴覚士など専門家や支援者は頼ってもらうために存在してますから、身近な人に頼れない時こそどんどん頼ってほしいです。

専門家や支援者は頼ってもらうために存在している。そう米谷さんが話してくれたことで、これまで抱いていた「簡単には抗えないネガティブな出来事が起きたとき、どうすればいいのだろう」という漠然とした不安が薄れていくのを感じました。

「言葉通り、きっと何かがあっても大丈夫そうだ。米谷さんのように心強い専門家の方々がいるんだから」

そう思いながら目の奥が少し熱くなりました。

加藤さん:病気や障害を「特別なこと」だと悲観する必要は、ありません。それぞれの「普通」がある社会に、みんなの「普通」が溶け込んでいく。そういう風になれば、生きやすくなるんだと思います。

そう加藤さんが願うように、ときには誰かに頼りながら、みんながそれぞれの「普通」を大事にできる社会にしていきたいと、私も心から感じました。

【写真】並んで座ってカメラを見ているこめたにさん、かとうさん

絶望しなくていい未来と他者からの愛を信じ、お互いを尊重しあうこと

インタビューが始まったときは「困難を乗り越え、変化しながらパートナーシップを築き続ける方法を知りたい!」と意気込み前のめりに話を聞いていました。

ですが、なんとも形容しがたい二人の温かな空気感に包まれているうちに、「〜をすれば大丈夫」といった方法論を集めることだけが大事なことではない、と気づいたのです。

加藤さん・米谷さんご夫婦が持っていたのは「どんなことが起きても、人生は“絶望”じゃない」という希望。そして、支えてくれる人たちはきっといると人を信じる気持ち。そして夫婦でお互いを尊重する姿勢でした。

これらが強い信念としてあるからこそ、笑い合う二人の姿がある。そしてきっと、加藤さん、米谷さんの在り方そのものが、何があっても絶望しなくていい社会への一助になっているーー。そう感じることができました。

人生はいつ、何が起こるか分からないし、抗えないものは抗えない。だけど、今心地よいと思える関係でいるために、変化することはできる。そんな柔軟さを、私も持ちたい。

インタビュー中もこの文章を書いているときも、両親の顔が何度も思い浮かびました。この先何かあっても、なんとかなるから大丈夫だと支えあいながら進めるよう、二人のパートナーシップを見守りたいです。

【写真】かとうさん、ライターのいとが、こめたにさんが並んでカメラを見ている

関連情報:
失語症 ホームページ
ウチの失語くん ホームページ
失語症チャンネル YouTube

(撮影/金澤美佳、編集/松本綾香・工藤瑞穂、企画・進行/松本綾香、協力/小野寺涼子)