【写真】住宅街でカメラに向かって笑顔を向けるさとうりょうたさん

はじめまして、サトウリョウタです。現在、フリーランスの編集者兼ライターとして活動しており、ウェブメディアや雑誌で文章にまつわる仕事をしています。

見た目ではあまり分からないかもしれませんが、僕は約3年前に指定難病である「ベーチェット病」を発病し、現在も闘病中です。

ベーチェット病とは、全身に炎症を起こす病気です。口内炎ができたり目が見えにくくなったり、関節が痛くて動かしにくくなるといった症状があります。今のところ病気の原因は不明で、完治させる治療法もありません。

今でこそ楽しく毎日を過ごせていますが、病気になった当初は、人生が終わったと涙ばかり流していました。その後たくさんの人に支えられてきたおかげで、病気と向き合い、少しずつ前向きに捉えることができたという背景があります。

現在は、べーチェット病についてたくさんの人に知ってもらうために、自身のnoteTwitterで病気のことを発信しています。ただ、認知度がまだ低い病気のため、もっと多くの方へ情報を届ける機会になればと思い、今回コラムを執筆することに決めました。

今回はベーチェット病の症状や、自身の難病との向き合い方。こんな社会になってほしいという願いについてお話させてください。

順風満帆だった学生時代。しかし家族のトラブルで経済的に厳しい状態に

【写真】フェンスに少し寄りかかりながらうつむき加減で右の方向を見るさとうさん

僕の家族は両親と姉の4人です。幼少期はよくしゃべる子どもでした。親から聞いた話によると、よく「しゃべらないと死ぬ」と言っていたそうです。どれだけ親に注意されてもしゃべり続けていて、とにかく明るい性格の子どもだったとのこと。

小学3年生からサッカーをはじめ、『キャプテン翼』や『シュート!』に感化されて、サッカーボールを蹴る毎日を過ごしていました。サッカーの魅力はやはりチームプレイにあります。得点を決めたときの喜びや、逆に得点を決められたときの悲しみをみんなで共有できる点が、僕がサッカーに魅了された理由です。

順風満帆に進んでいた学生生活でしたが、高校1年生の頃に家族がトラブルに見舞われたことがきっかけで、急遽お金が必要になりました。大好きなサッカーを辞めて、そのうえ家族のために働かなければならない。なにひとつ苦労せずに生きている友達が突然眩しく見えはじめ、これから待ち受ける生活を想像しただけでゾッとしました。

この頃から家にお金を入れるのはもちろんのこと、自分の食費も稼ぐ必要がありました。

高校卒業後は、奨学金を借りて大学に入学したのですが、生活費を稼がなければいけない状況に変わりはなく、周りが遊んでいるなかでアルバイト漬けの日々。普通の家庭に生まれていれば、これほど苦しい思いはせずに済んだのかもしれない。「なぜ自分ばかりが」という思考に陥り、ずっと死にたいと思っていました。でも、結局死ぬ勇気はなく、今振り返ると完全に悲劇の主人公でしたね。

学生生活とアルバイトの両立は本当に大変でした。睡眠不足で何度も倒れそうになりましたし、今思い出しただけでも胸が痛くなります。

それでもあの日々を乗り越えられたのは、インターネットに転がる誰かの前向きな言葉をたくさん読んでいたからかもしれません。思えば幼少期からずっと誰かの言葉に影響を受ける人生でした。

つらい思いをするたびに誰かの前向きな言葉を読んで、「つらいのは今だけ。乗り越えた先には前向きな未来が待っているし、自分は幸せになってもいい人なんだ」と常に心に言い聞かせていました。

仕事中に意識を失い、目が見えない状態に。突然発症したベーチェット病

大学卒業後は、ベンチャー企業で法人向けの営業職に就き、1年後にIT系の企業に転職しました。本業を続けるなかで、25歳のときにとあるご縁で、友人と一緒にイベントなどを開催するスペース兼バーを副業で立ち上げることに。運営が忙しくなったタイミングで、会社を辞めて独立することを決意します。

自分にはこれから輝かしい未来が待っているんだ。

そう思った矢先に、事情があってお店の運営から離れることになり、大学生の頃から文章を書いていたこともあって、ずっと挑戦したいと思っていたライターになると決めました。

文章の仕事は想像以上に大変ですが、それ以上にクライアントのみなさんの喜ぶ顔を見るのが好きなので、なんとか続けることができました。

ただ、過労が重なって2019年9月に仕事先で倒れてしまったのです。その瞬間のことはあまりよく覚えていません。周りの人から「救急車!」と叫ぶ声が聞こえ、驚いて目を覚ましましたが、視界の先には天井が広がっていました。

倒れたときは休めば大丈夫だろうと、そのまま自宅に帰ったのですが、日が経つにつれて顕微鏡に映る微生物のような物体に視界が覆われていきます。最終的には2週間ほどで何も見えなくなりました。

何も見えない状態でなんとか小さな病院に足を運ぶと、担当医から「ここでは診察できないから大きな病院で診てもらってください」と伝えられて。

その日のうちに大学病院で半日にわたる全身の検査を行った結果、医師から「あなたはベーチェット病にかかっています」と言われました。はじめて耳にした病名。最初は何を言われているかがわからなくて、「もう1回言ってください」と医師に3回ほど聞き返したかと思います。

それでもすぐには自分の病気を受け入れることができませんでした。

【写真】テーブルの上で組まれたさとうさんの両手

はじめてベーチェット病を耳にする人も多いと思いますので、簡単に病状についてご説明させてください。

ベーチェット病とは、全身に炎症がおこる原因不明の指定難病。主な症状は、口内炎や関節の硬直、目のぶどう膜炎などです。ぶどう膜炎は眼球にある膜のひとつであるぶどう膜に炎症がおこる状態で、最悪の場合、失明に至る可能性もあるそう。症状は一時的に軽減しても、発作がおきて再発するケースもあります。

ベーチェット病と診断されてからは、自分にとって散々な日々を過ごしました。

まず最初の1ヶ月は症状がつらくて自分では何もできず、仕事をお休みさせていただきました。

もう治らないかもしれないと、夜が来るたびに涙を流す毎日。なんで自分が難病にかかったのか。その疑問がずっと拭えない。難病はドラマや映画だけの話だとずっと思っていたのに。

目の症状だけで済めば良かったのですが、腰や足の関節が固まって起き上がれない状態も続きました。いつ何が起こるかがわからない。気持ちの整理がうまくつかないまま、時間が過ぎていったのです。

難病になって、たくさんの人に支えられて生きていると気が付いた

発症してからは、自力で生活ができない状態での一人暮らし。仕事はおろかご飯を作ることすらもできません。

でも難病を発症したことを知った知り合いや友達が、家までお見舞いに来てくれました。車で家まで迎えに来てくれたり、外でのご飯に連れ出してくれた友達もいて、助けてくれたみなさんには本当に頭が上がりません。

毎日のように誰かが家に来て下さって、僕の世話をしてくれました。何もできない自分をたくさんの人が温かい気持ちで支えてくれて。

難病にかかってよかったとは言えませんが、たくさんの人のやさしさに触れられたのは事実です。

それまでは、すべてを自分ひとりで解決する必要があると思っていました。学生時代に、家族のトラブルがきっかけで自分のやりたいことを諦めて必死に生きてきた経験から、いつの間にかこんなふうに思うようになっていたのでしょう。

ひとりでは何もできなくなって、たくさんの人に支えられて、ようやく人はひとりでは生きられないと実感しました。これまでも誰かの力を借りて解決してきたにもかかわらず、自分の力で解決したと勘違いしていたんだと気づいたんです。なぜそんな当たり前の事実にずっと気づかなかったんだろうと本気で後悔しました。

自分を支えてくれる人がたくさんいる事実には感謝しかありませんし、もらった恩は誰かに返していきたい。だからこそ、人にやさしい人でありたいと強く思いました。

【写真】テーブルに座り笑顔でお話しするさとうさん

さまざまな人の協力もあって、療養から1ヶ月半の時を経て目が見えるようになってきたので、やっとまた仕事を始められるようになりました。

仕事量はまず月の3分の1程度(時間換算すると60時間ほど)からスタート。仕事自体はできたのですが、すぐに目が疲れてしまうため、休み休みで仕事をしなければなりません。

ただぶどう膜炎は治らず、1週間に1回のペースで通院が必要で、それが午後からだったので、午前中しか仕事を入れないようにしていました。また、瞳孔を開く目薬をさすため治療から6時間ほどは目が見えづらく、それ以降に仕事をするように工夫をしたり。

そういった状況のため、取引先の方が「自分のペースで大丈夫だから」と言ってくださったことはとても助かりました。仕事の納期についても余裕を持って設定してもらい、柔軟に対応いただいた記憶があります。

「失った視力は戻ることがない」という事実に向き合い、工夫を重ねる日々

難病になった当初の通院は、1週間に2回。1年半の治療の甲斐もあり、徐々に通院回数が減っていき、現在は月に1回通院しています。

ベーチェット病になって特に変化があったのは、目の症状であるぶどう膜炎による視力の低下です。発症当初は、目薬と、両目の白目にステロイドの注射を打ちましたが、現在は毎日の目薬の点眼と、2週間に1回『ヒュミラ』という自分で打つ注射のおかげで目だけでなく、体全体の炎症が弱まってきています。

発症してから1年が経った頃に、右目(白内障)の手術をし、昨年には左目(白内障と緑内障)の手術をしました。

手術に伴い数週間入院をしましたが、消灯時間が決められているので自分のやりたいことができないし、髪の毛は1週間に1回しか洗ってもらえませんでした。不自由な思いをしたからこそ、退院後に気兼ねなくやりたいことができる状況に幸せを感じたのを覚えています。

【写真】屋外で微笑みながら話すさとうさん

両目共に視力はだいぶ弱まっていて、左目では文字が読めなくなり、右目は半分以上視野が欠けています。そのため、右目で物を見て、左目で風景を見るようにしていて、細かいものが見えなくなった左目が視野の欠けた右目のサポートをしているという感じでしょうか。近くを見るときや誰かと話すときは眼鏡を外し、遠くを見るときは眼鏡をかけて生活しています。

また、光の調節ができず眩しさを感じるため、なるべく直射日光に当たらないように過ごしています。夜に外を歩いているときは、対向車線から車のハイビームが目に入ってつらいこともあります。光がうまく調整できない問題の対策としては、歩道や道幅の状況を確認して安全を確保したうえで車の進行方向と同じ方向で歩いたり、自転車に乗ったりしています。

医師には、失った視力は二度と元に戻ることはないといわれています。人と会うたびに、眼鏡をつけ外しする理由を説明する必要があるのはたまにわずらわしく感じるのですが、「失明を防げたことがありがたい」と思うようにしています。

生活が変化したことで、つらい気持ちへの寄り添い方を考えるように

ベーチェット病にかかって一番困るのは、白内障の発症によって視野が狭くなったので、人やものとぶつかりやすくなったことです。階段や物につまづいたりすることもあって、日常生活で不便なことが増えました。

とはいえ前向きな性格が功を奏しているのか、基本的にはその変化をあまり気にしているわけではなく、目が見えていたときと近い状況で過ごしているように思います。もしかしたら、以前との違いを気にしていたらキリがないため、気にしないようにしているだけかもしれません。

目が見えていたときにはなんでもなかったことばかりが気になる生活に、わずらわしさを感じる日もあります。それでも「仕方ない」と割り切るしか方法はないんです。

【写真】屋外の階段を登り、下の方を見下ろすさとうさん

ベーチェット病にかかったことによって、少しだけ難病の当事者の方の気持ちがわかるようになりました。どれだけやさしい言葉をかけてもらったとしても、きっと真の苦しみは当事者にしかわからないでしょう。だからといって当事者とそうでない人が分かり合えないとも思っていなくて、自分の状況を説明できる言葉があれば、納得はできなくても理解は得られるんじゃないかなと。

僕自身、つらさを抱えている方の苦しみがわかるようになったからこそ、相手にかける言葉が変わったように思います。

病気になるまでは会話において相手の気持ちを引き出すことを意識していたのですが、いまは相手が話したくなったときに話を聞くようにしています。これは僕自身が辛かったとき、誰かに話を聞いてもらうよりも、一緒に過ごしてもらうだけのほうが気持ちが楽になったからなのかもしれません。

あくまでも、つらさを抱えている方の気持ちに寄り添う。普段どおり接することで相手が楽になる場合もあるのかなと思います。

以前、病気になってからたくさんの人に優しくしてもらえたことを、人に話したことがあったんです。そのときに相手に、「自分が与えてきたものしか、人からは与えられない」という言葉をもらえて、これまでの生き方は間違いじゃないとすごく心が軽くなりました。人からやさしさをもらったことで、僕は自分の生き方に自信を持てるようになったのです。

言葉にして書き出すことで、少しずつ難病を受け入れていく

現状では、医師から「命の危険性はないけれど、死に至る可能性もないとは言い切れない」と言われています。自己注射を打つようになって以前より治療の負担がなくなったとはいえ、完治しない病気という事実とどう向き合うかは永遠の課題です。

病気になった当初、知り合いから「難病になったけど他にももっと苦しんでいる人はいる。お前は前向きに生きろ」と言われました。当時は自分が悲しみのどん底にいると思っていたので、他の人と比べられてもつらいだけで「ひどいことを言われた」と反発心もあったんです。

でも今考えると、相手は励ましのつもりで言ってくれていたんですよね。絶望の淵に立っているときはどうしても視野が狭くなって、相手の言葉を素直に受け入れらません。いまは前向きな言葉として解釈できるのですが、当時は自分のことしか考えられませんでした。

【写真】真剣な表情でインタビューにこたえるさとうさん

前向きな解釈ができるようになったきっかけは、ノートに自分の思いを書いて内省したことです。いま抱えているモヤモヤと向き合って、言葉にするようになってから前向きになれました。

やっぱり紙に書き出すってすごく大切。紙に書き出すから自分の思いと向き合えますし、現状を知った上での対策を練ることができます。

そして発症から1年たって、僕は難病を受け入れることができました。たくさん時間をかけて、少しずつ前に進んでいったのです。でもけっして時間が解決したわけではなく、「自分で解決したんだ」という自負はあります。

実は僕は20歳のときから、おじいさんになったときに読み返せば面白いだろうと、「年齢ノート」というノートをつけています。年齢ごとに一冊ノートをつくって、嬉しいことや悲しいことなど自分の身に起きた出来事を書くんです。

振り返ると20歳のときが人生で1番辛かったと思います。誰かに話を聞いてもらいたいけれど、話を聞いてもらったところで根本的な解決には至らない。でも、どこかに悩みを吐き出したいと考えて、自分の思いを年齢ノートに書きはじめたのです。

現在はブログに書いて発信するようになったため、ノートに書く機会は減りましたが、これから先もずっと年齢ノートは続けていきたいなと思っています。

ブログに自分の病気のことを書くようになり、様々な反応をもらいました。「そんな病気があるのか」という発見や驚きを伝えてくれる人もいれば、自分の意図に沿わず「可哀想な人だ」と思われてしまうことも。正直なところ、“悲劇の主人公”っぽく見えてしまうのだとしたら、実際には幸せな生活を送っている自分とのギャップだと感じていますし、自分の文章力の低さを痛感します。

それでも、ベーチェット病を知っている人が増えたことは嬉しいですし、公表によって助けてくれる人が増えたため、気持ちが楽になりました。「病気についての文章を世に出す意味はきっとある。いや、持たせてみせる」という気持ちがあるので、今後も自分のペースで発信を続けていきたいです。

自分を大切に思ってくれている人のために、人生を味わい尽くしたい

ベーチェット病は完治しない病気のため一生付き合っていく必要があって、逃れられない事実を受け入れつつ、どう生きていくのかをずっと模索しています。

【写真】階段を登ろうとするさとうさんの後ろ姿

先日、スーパーでレジに並んでいたときに、たくさんの人に順番を抜かされました。「順番を抜かされるな」と不思議に思いながらも待っていたところ、自分が並んでいたのはレジではなく柵だったのです。見間違えていて3分ほど経ったときに気が付いたのですが、そのとき知らない女性に「あなた、そこは並ぶところじゃないよ。普通はそんなことしないでしょ」と言われて、白内障による視野の狭さを実感して落ち込みました。

このようにつらいこともありますが、それでも前向きに人生を模索したほうが楽しくなるんじゃないかと思っています。後ろ向きになるのは簡単なことだと思いますが、幸いにも幼少期から物事を前向きに考える癖があるので、自分の意志で楽しそうなことを探したり、幸せのハードルを下げたりしてなんとか毎日を過ごしています。

病気になったとき地元の友達に、「お前の体はお前のもんやから知らんけど、おっさんになって飲みに行く友達が減ったら寂しいやんけ」と説教されたことがあります。普段はふざけてばかりでそんなことを言わない友達なので、この言葉を聞いたときは嬉しくてすごく泣きました。

自分を大切に思ってくれる人のためにも、働き方そのものを変えようとそのとき決心しました。

家族や友達、仕事の仲間など心配してくれる人がたくさんいる。だから僕は病気があったとしても生きていけるんだと思っています。

いまはベーチェット病の当事者として、何ができるのかを模索している途中ではありますが、今後もっとオープンな場所で情報を発信していきたいと考えています。

文章を書いたり、編集したりする仕事をしているので、文章を通じて「この人の生き方はなんか楽しそう」と思ってもらえるような生き方をしたいです。

とはいえ正直、仕事や今後のキャリアに関しては不安しかないです。でも生きていると不安はつきもの。その不安すらも楽しんでいきたいと思っています。

仕事をする自分のあり方としては、“誰かのいいところを最大限に発揮させられる黒子”でありたいと思っています。編集者はまさにそういった仕事だと思うし、やっていて一番楽しいです。仕事は人生の大半を占めるものだからこそ、やっぱり楽しみたい。

生きているといいことも悪いことも起きます。そこから逃げるのではなく、全部味わい尽くしていけば、人間としての深みが出ると思いますし、趣きのある人間になれるのではないかと思っています。

つらい気持ちをきちんと味わうことで、前を向けるタイミングがきっとくる

【写真】緑を背景に歩くさとうさんの横顔

つらいときは早くそこから抜け出したいと、無理に前を向こうとする人が多いと思いますが、僕は落ちるときはとことんまで落ちていいと思っています。落ちるところまで落ちると、そこから這い上がるしかありません。

つらい気持ちから逃げずに、きちんとつらさを味わう。そうすれば、自分が前を向けるタイミングがくると思うので、そのタイミングで自分と向き合っていけば、人生に深みが増すんじゃないかと自分の経験を通して実感しています。

生きているからこそ、いいことを味わうことができる。死んでしまったらいいことも悪いことも体験できません。目の前に立ちはだかる壁を乗り越えてしまえば、自分が成長するきっかけになります。

そして、いつの日かつらいことを笑って話せるようになれば、それは乗り越えた証拠なのかなと。いまも闘病中ですが、こうして笑って話せるのも僕自身がつらい経験を乗り越えられたタイミングがきたんだろうなと思います。

まだ世間では、ベーチェット病の認知は進んでいません。それでも僕がベーチェット病にかかっていることをほとんどの人が知っていて、久しぶりに会った人は「大丈夫?」と聞いてくれます。

僕が周囲にベーチェット病の話をすることが、どんな病気かを知ってもらえる機会になるので、それによって当事者への理解が進み、同じ病気の人の「生きづらさ」が「生きやすさ」に変わることを願っています。

きっと難病患者だけでなく、たくさんの人が生きづらさを抱えていると思うんです。

誰もが平等に過ごせる社会になってほしい。病気だから、女性だから、男性だからと線を引かれるのではなく、誰もが助け合える「やさしい社会」になってほしい。

ベーチェット病について発信することで、そんな社会づくりを実現していきたいと思います。

僕が考えるやさしさとは、つらいときに手を差し伸べてもらえる、いつもと変わらずに接してもらえること。困っている人がいたらみんなで支え合える社会が、何よりの理想です。

当事者かそうでないかは関係なく困ったときはお互いさまの精神で生きていれば、少しずつやさしさの輪が循環して、「やさしい社会」になるはず。そう信じて、これからも行動していきたいと思います。

【写真】植え込みの前で満面の笑みを見せるさとうさん

関連情報:
サトウリョウタさん note Twitter Instagram

(撮影/川島彩水、編集/工藤瑞穂、企画・進行/小野寺涼子)