【写真】車いすに座り、右手を頬に当てながら微笑むうみのさん

ここ数年、考えていることがあります。

努力ではどうにもならないけれど、すっぱりと諦めることもできない

そんな現実にどう向き合ったら良いのか、ということ。

たとえば学生の頃はある程度努力でどうにかすることができたし、うまくいかないことでもすっぱりと諦めることができたように思います。仕事も、努力と成果はほぼセットでした。

でも、年を重ねるといろいろなことが複雑に心のなかで絡み合い、その絡まりをすんなりと解くことができなくなっているような気がするのです。

そんなときに、海野優子さんの存在を知りました。3年前までストイックに仕事をこなし、「自分を律すること」を得意としてきた海野さんは、第一子出産時にがんが見つかり闘病生活を送ることに。生まれたばかりのお子さんと離れ離れになった期間もあったといいます。

【写真】いちご狩りを楽しむうみのさん。大きくて赤いいちごを持ちながら、満面の笑みでこちらを見ている。

現在は夫と娘と三人暮らし。会社員として仕事をしながら、闘病を通して考えたことをSNSやウェブメディアのコラムなどで発信中です。

今は家族と穏やかな生活を送っている海野さんですが、一時期は「治療法がない」と医師に言われるほど、病状は切迫していました。努力ではどうにもならない、受け入れ難い状況とどんなふうに向き合い、そして乗り越えてきたのか、お話を伺いました。

仕事に打ち込む父親の姿を見て育った子ども時代。そしていつしか、自分には人一倍の努力が必要だと考えるように

自他ともに認める努力家で、就職をしてから妊娠が分かるまで、仕事一筋だった海野さん。そんな大人になった理由は、子どものときの記憶にあるかもしれないと話します。

子ども時代に特別な経験をしたわけではないのですが、父がすごく真面目でストイックな仕事人間でした。仕事に一生懸命打ち込む姿を間近で見ていたので、知らず知らずのうちに影響を受けていたのかもしれません。

そんな海野さんは、小学生の頃から学級委員を担うなど、リーダーシップを発揮し、先生からも頼りにされる存在だったのだとか。4歳年下の弟は、先生たちから「あの海野の弟か!」と期待されるのを嫌がっていたといいます。

勉強はもちろん、クラスの仕事や行事でも先頭に立ってきた海野さんに心境の変化が訪れたのは、高校生の頃でした。偏差値の高い高校に進学したことで、勉強ができる人ばかりに囲まれた環境に身を置くことになったのです。

自分は優秀ではないから、「人と同じレベルになるには、人の倍、努力しなくては」と考えていました。この思考は大学に進学し、社会人になって以降もずっと続いています。

人一倍努力しなくては、と過ごした高校生活ですが、3年生のときには希望の大学には合格できず、その翌年に進学。でも、高校時代に心に深く刻みこまれた「人の倍努力しなくては」という思いは、大学4年間を経ても消えることはありませんでした。

転職を経てニュースメディアサイト「ウートピ」を立ち上げ。読者の反応をやりがいに仕事に没頭

大学へ進み、卒業後は携帯電話用のアプリ制作会社へ入社。その後同じ業種で転職も経験します。

女性向けのアプリの立ち上げをいくつか経験しました。でも、うまくいかなくて。

そんなときに立ち上げに関わることになったのが、“アラサー女性のためのニュースメディア”をコンセプトにした「ウートピ」でした。当時海野さんは29歳。ウェブメディアに対して漠然とした疑問を感じていたといいます。

当時の女性向けウェブメディアの記事は、恋愛や美容に関する情報がほとんどでした。でも、不妊治療とか、高齢出産とか30歳前後の女性が知りたいこと、知らなければいけないことはもっとほかにもたくさんあるんじゃないかなと思っていたんです。

なんでそういうメディアがないのだろうという疑問から生まれたのがウートピです。ウートピは社会的な問題を取り上げながら、ライフイベントの不安や、もやもやを解決するメディアとしてスタートしました。

【写真】オフィスで仕事に励むうみのさん。デスクで腕を組みながら微笑んでいる。
引用:ウートピ「人生は努力でなんとかなると思っていた私が、34歳でがん宣告されて思ったこと」

それまで関わっていたアプリ制作と違うのは、インターネットを通して読者の反応がダイレクトに返ってくるところ。編集者を採用してチームを作ったり、マネジメントをしたりと、「大変なことしかなかった」とウートピ時代を振り返る海野さんですが、アウトプットに対して誰かから反応がもらえることに大きなやりがいを感じ、仕事に没頭していきます。

メンバーに寄り添うことでチームが円滑に。「やりきった」という思いのもと、転職を決意

ウートピに関わっていた時期にはまだ子どもがいなかった海野さんは、物理的な意味でも、精神的な意味でも仕事一筋でした。

「海野さんの体育会系のやりかたにはついていけません」

ストイックに自分を追い込み、仕事と向き合うなかでチームメンバーからこんな言葉をかけられたこともありました。

自分自身に対してだけでなく、頑張る姿があまり見られないスタッフに対しても、「なんで頑張らないんだろう?なんで成長できる機会を逃してしまうんだろう」ってものすごく不思議に思っていました。でも、チームメンバーのその言葉で、みんなが同じ熱量で仕事と向き合っているわけではないんだと気付いたんです。

それ以降、海野さんはマネジメントの仕方を変えたのだそう。メンバーそれぞれが何をモチベーションに仕事をしているか、ヒアリングも行いました。

メンバーそれぞれに異なる目的やモチベーションがあって、それを満たした上で幸せに仕事ができて、かつパフォーマンスを発揮するためにはどうしたらいいんだろうと考えるようになったんです。

そのスタンスで一人ひとりに向き合うようになってからは、チームの雰囲気が良くなっていったといいます。

でもそうするとまた別の問題が出てきて…(笑)。大変さはずっと変わりませんでした。常に問題が山積みでどうやって解決するかを考えていました。課題を解決していくことが仕事の本質だと感じましたね。

ウートピの立ち上げから数年が経ち「やりきった」と感じた海野さんは、別のステージに進むことを考え始めます。

新しい仕事を探しているときに、フリマサービスを提供している「メルカリ」から声をかけていただきました。メルカリのなかに幅広いテクノロジー領域のリサーチに取り組んでいる「mercari R4D」という研究組織があって、そのPR用にメディアを作りたいからということで。私自身元々は理系で興味がある分野だったのですごく惹かれて、転職することに決めたんです。

そして入社して働き始めた半年後、海野さんに転機が訪れました。

妊娠が分かったんです。通常より少し早めの産休で、職場を離れることになったので、プロジェクトも途中で「mercari R4D」のPR用のメディアのオープンには至りませんでした。でも、このときはちゃちゃっと産んですぐに帰ってくるつもりでいたんです。

妊娠中のひどい腰痛。娘を無事に出産したものの、同時に病気が発覚

海野さんが少し早めに産休に入ったのは、腰痛が原因でした。妊娠中、ひどい腰痛に悩み、産休の半月前には歩くのも難しいほどの痛みに襲われるように。

腰痛って妊婦にとってはよくあるらしいので、仕方がないことなんだと思っていました。でもどんどん悪化して眠れないほどだったので、早めに休ませてもらうことにしたんです。

起きていても痛いし、横になっても痛い。痛みで眠ることもできないし、歩くこともままならない状況に。海野さんは医師の判断で入院をすることになりました。

入院したら痛みが取れるのかなと期待していました。でも、妊娠中は強い薬が使えないので結局痛みに耐える日々で、眠れず幻覚まで見えるようになって…。

無痛分娩を予定していましたが、分娩台に上がることも難しい状況となり、帝王切開で出産することに。

そして、2018年8月22日、女の子が誕生しました。新しい生命が誕生し喜びに包まれたその日、娘を取り上げた主治医からこう告げられました。

「お腹のなかに何か気になるものがあったから、詳しく調べたほうがいい」

娘が誕生した早々に、検査を受けることになりました。その結果、悪性腫瘍…つまり、がんであることが分かったんです。

それは、娘が誕生してちょうど一ヶ月後のことでした。

生まれた娘の成長が見られないかもしれない。でも受け入れるしかないという葛藤

“悪性腫瘍がある”

そう判明したときに医師に告げられたのが、「腫瘍はかなり大きく、そして手術は難しい」という事実でした。そのとき同時にステージ4相当の末期がんであることも知らされたといいます。

「これはもう助からないのだろうな」と覚悟しました。その4年前に父親をがんで亡くしたんです。病気が分かってからたった7ヶ月で亡くなってしまったこともあって、がんには太刀打ちできないんだという諦めがありました。

父親が亡くなってとても落ち込んでいた母親と、「お父さんは亡くなってしまったけど、弟と三人で頑張ろう」と支え合っていた矢先に自身もがんであることが発覚し、海野さんの心は不安でいっぱいでした。

娘と夫と三人でこれから生活を始めようとしたところだったのに、娘の成長も、お父さんとして娘と接する夫の姿も見られないんだ…ということが最初に頭を過ぎりましたね。

海野さんは産婦人科からがん専門の病院へ転院。入院生活が始まりました。

当初は夫や家族に対して、病気になってしまったことへの罪悪感もあったと思います。ものすごく混乱していたんです。でも、すこし冷静になってからは病気になったことは誰かが悪いわけではないのだから、受け入れるしかないなっていう気持ちになりました。

入院治療のために、娘は乳児院に。大変な時期を乗り切るためにはこれしかないと納得して預ける

娘の誕生とがんの告知。それがほぼ同時だった海野さんは、娘が大切で愛おしい気持ちと、自分自身が命に関わる病気であるという辛い事実の間で揺れていました。

当時は今のように純粋に「娘がかわいくてしょうがない」とばかり思える状況ではありませんでした。妊娠中からとにかく痛みが酷かったので、それどころじゃないことも多かったです。

そんな状況を支えたのは、海野さんの夫でした。海野さんは、「夫はとても強い人だ」と話します。「自分がいなくなっても、立ち上がれないほどにボロボロになることはないと信じていた」と。

海野さんは、ただただ娘が自分がいなくなった後も幸せでいてくれたらいいと願っていました。

この時点で治療をしても治る希望はありませんでした。それでも、入院しなくてはいけないので、娘は一旦乳児院に預ける決断をします。海野さんの夫は会社の経営者。一人で子どもを育てるのは難しいと途方に暮れていたときに、病院のケアマネジャーが乳児院の存在を教えてくれたのです。

お子さんと離れ離れになったのは辛かったでしょう、とよく聞かれます。もちろん娘の成長を見守れないことは辛く悲しいことでした。

でもこれはどうしようもないことだし、治療も子育ても中途半端になるより、私は治療に専念し、子育てはプロの方に任せたほうが子どもにとって安全だろう、と納得して乳児院に預けました。

当時の海野さんにとって、娘が健やかに成長していくことを考えたときに、それが最適な選択だったのです。

受けられる有効な治療がない。やれることがないことに追い詰められた入院生活

入院生活を送ることになった海野さんですが、この期間の記憶はほとんどないといいます。

入院中は、どうせ死ぬのだろうと思いながらも、何もしないわけにはいかないから仕方なく、抗がん剤治療を受けていました。髪が抜けてしまったりと、辛いことが多かったです。

何より海野さんを苦しめたのが「やれることがない」という状況でした。受けられる有効な治療がない絶望的な現実が、海野さんをより追い詰めていきました。

唯一やれることはリハビリでした。神経が腫瘍に圧迫されたことで歩けなくなり、車椅子生活となったので、持ち前のストイックさを発揮して、リハビリに一生懸命取り組んだそうです。

病気に加えて歩けなくなったことにはさすがの私も落ち込みましたが、このときも夫に励まされました。彼はやっぱり強い人間で、前向きな発言しかしないんですよ。「来年には歩けるようになっているから、ここに旅行へ行こう。このホテルとろう!」とか。私にとっては絶望的な状況なのに、よくなることを前提にした話しかしませんでした。

このとき海野さんは、食事をする気力すらすっかり失っていました。何を食べてもおいしく感じられず、食事を摂ることへのモチベーションが持てなくなってしまっていたのです。

ごはんが全然おいしくなかったんです。薬や治療のせいだったのかもしれません。でも、「食べることは生きること」という言葉があるように、どうせ死ぬなら食べても仕方ないと、食べることに意味を見出せなくなっていたのかなとも思います。

そんななかでも、「よくなるためにはおいしいものを食べないと!」と、海野さんの夫は好物のスイカを持ってお見舞いにくるなどして、海野さんを鼓舞し続けたのです。

夫が見つけてくれた治療法で転機が。厳しいなかでも希望があることの大切さを痛感

もう自分は治る見込みはないと理解していた海野さん。

「それでも、なんとか生きていたい」

うちに持った強い想いを夫に告げます。

「なんとかする」

海野さんの思いを受け取った海野さんの夫はそう言って、そこから様々ながんに関する論文を読み漁り、全国のがんの治療に詳しい医師に会いに出かけたといいます。

私の知らないうちに行動していた夫は、私のがんに効果が出る可能性のある治療を見つけてくれました。メディアに関わる仕事をしている夫は医療従事者ではありません。でも元々情報をインプットして正しい答えを導くことに長けていたので、夫が見つけてくれた情報ならと信頼できました。

何に対してもそうなのですが、私の病気に対しても、何か解決策があるはず、と諦めずに向き合ってくれていたんです。

海野さんの夫は、「効果がありそうな治療を見つけたけど、やってみる?」とまずは本人の意志を確認しました。病名は分かっているのに、治療法がないこと、立ち向かう術がない状況に絶望していた海野さんは、「やる」と答えたといいます。

病気発覚からこの段階まで、何一つ希望がありませんでした。やれることが何もない、ゴールもない。ずっと終わりのない暗い闇のなかにいるようで。

でもこの日初めて心が少し軽くなるように感じ、よく眠れたことを覚えています。良くなる可能性がゼロじゃない、未来に向けてやれることがある。絶望的な状況から、やっと一筋の光が見えてきたと感じました。

その治療を受けるには転院し、主治医を変える必要がありました。主治医を変えることは、患者にとって大きな決断です。

でも、そのときの海野さんにはゆっくりと考え行動している時間はありませんでした。新しい治療を始めるなら1日でも早いほうがいい。そう考え、急いで新しい病院へと転院しました。

【写真】ベッドに横たわり、病院で治療を受けるうみのさん。うっすら笑みをうかべている。

そして、新しい病院で受けた治療が、海野さんのがんには効果を発揮。それまでの状況が一変しました。

このときはまだ、助かるのかどうかは分からない状況でした。それでも、希望があるなかで治療を選択できることはこれまでとは気持ち的に全然違うんです。

以前の病院にいたときと同じく、“死ぬ運命”かもしれません。自分に未来があることは限りなくゼロに近い可能性なのかもしれません。でも、ゼロじゃない。生きる上で希望を持つことの大切さが分かりました。

元々決められていた治療期間である、3ヶ月間ほど入院して治療を受けた海野さん。退院後は、3週間に一度の通院で現在も治療を続けています。退院したときはまだ大きな体調の変化は感じていませんでしたが、そこから何ヶ月もかけて徐々に回復していきました。

現在は腫瘍があるものの、体調は落ち着いている状態。血液検査の結果も正常値に向かっているそうです。

一度離れ離れになった後、親子で一緒に暮らせるようになって感じた“ママと認識してもらえる喜び”

娘と離れ離れになっている期間も、海野さんは母親としてできることを模索していました。また母親であることが治療を頑張る原動力にもなっていたのです。

乳児院に行けば娘と面会することができましたが、入院中はなかなか会いに行くことができませんでした。夫が面会に出向いたタイミングで、ビデオ電話を繋いで娘の成長を見守ったそうです。

画面越しでも娘と会えるのは本当に嬉しかったです。でも娘を見ると、私は母親なのになんでミルクをあげることもできないんだろうという気持ちになりました。もし、病気になっていなくて普通の生活ができていたら、お腹が空くたびに娘は私を求めていてくれたんだろうな、と思うことはありましたね。

退院してからは、手伝いに来てくれていた海野さんの母親と、平日は1日置きのペースで会いに行けるように。また週末の2日間は一緒に家で過ごすこともできたそうです。

【写真】乳児院で娘と面会するうみのさん。車いすに座り、ベッドに寝ている娘の小さな手を触っている。

土曜日に迎えに行って、日曜日の夕方5時に乳児院に帰していたんです。娘と離れる日曜日の夕方が寂しくて寂しくて。でも、娘は当時まだ0歳。物心ついていない娘が寂しがる素振りを見せなかったことだけが救いです。

娘を預かってくれた乳児院は、プロフェッショナルな職員ばかりで安心できたと海野さんは振り返ります。いつも娘に「かわいい」と声がけをして、たくさん褒めて接してくれたのだそう。現在の娘の自己肯定感の高さや、人見知りせずに、誰とでもすぐに打ち解けられる力は、乳児院で温かく育ててもらったからこそだと海野さんは考えています。

海野さんと娘が家で一緒に暮らせるようになったのは、娘が1歳の誕生日を迎える頃でした。

それ以前は車椅子を使っていることから、娘が危険な状況になったときに、対応できなかったらどうしようという不安があったといいます。

でも、いざ娘との生活が始まると、不安を上回る精神的安定がありました。乳児院の皆さんには本当に良くしていただいて、感謝しかありません。

でも、あの頃娘は私のことを母親だと認識していなかったように思います。子どもにとって母親って唯一無二の存在だと思うんですが、当時の私は娘にとって周りにいる大人のなかの一人だったかもしれません。今は「ママ」だと認識してもらえていることが、本当に幸せです。

【写真】娘と外食するうみのさん。娘の口に飲み物を運ぼうとしている。

現在は、娘を育てるにあたり、保育園のお迎えと入浴はベビーシッターサービスを利用しています。また月に数回、車椅子ではどうしてもやりにくい掃除も家事代行サービスを利用しているのだとか。

私の性格的に、こういう状況でなければ、子育ても仕事も全部自分でやらなくてはいけないと思って頑張っていたかもしれません。でも今は、障害があってもなくても、苦手なことやできないことを他の人に頼るのは全然悪いことじゃないと思います。

なんでも自分でやらなければ、人一倍努力をしなくては、と考えていた海野さんが、自分が苦手なことは他人に頼ろうと思えるようになったのは、病気を経て獲得した強さなのかもしれません。

夫は命の恩人。すべてをさらけ出して得た信頼感

闘病やイレギュラーな状況での子育てを経て強くなったのは、海野さんだけではありません。子どもの誕生と病気の発覚が同じタイミングだった海野さん夫婦は、いくつもの困難を乗り越えてきたのです。

夫は、海野さんの「生きたい」という希望を受け止め、自力で治療法を探し、その命を繋いでくれました。

私にとって夫は命の恩人なので、本当に感謝しています。子どもが生まれて病気が分かるまで、私も仕事一筋でしたが、夫も会社を経営していてバリバリ仕事をしていました。当時は生まれてくる娘の世話をしているような姿は想像できなかったですね。

経営者の役目を果たしながらも、病気になった海野さんの面倒を見てくれたり、仕事の合間をぬって乳児院にいる娘に会いにいったりと、家族のためにいろいろなことをしてくれる夫の姿を見て、海野さんは改めて尊敬の気持ちを持ったといいます。

病気になると、本来なら見られたくないところまでさらけ出して、面倒を見てもらわなくてはいけないこともあるんです。人によってはオムツを替えてもらう必要がある場合だってあります。私も床ずれができてしまって、体を洗ってもらったりしていました。

すべてをさらけ出して、この人にはなんでも見せて良いんだという安心感が生まれたと思います。

きっと夫は大変だっただろうな、と振り返る海野さん。それもあって今、海野さんが夫からたまに無茶なことを言われると「なんでそんなこと言うの!」と思ったあとすぐに、「でも仕方ないな。だって夫は私を生かしてくれたんだから」と思い直すのだそうです。

自身の経験から、健常者でも障害者でも仕事のチャンスや面白さが平等に与えられる社会になるよう尽力したいと思うように

“ちゃちゃっと産んで戻ってくる”はずだった職場に海野さんが復帰できたのは、職場を離れた1年後のことでした。

【写真】レストランでうみのさんの職場復帰をお祝いしている。華やかなケーキを目の前に、うみのさんは両手でピースサインをし、嬉しそうな表情でこちらを見ている。

時短勤務で仕事に復帰しました。当初は病気以前と同じ普通の社員と同じ枠で働いていたのですが、復帰から1年後に障害者雇用枠で働くことにしたんです。

障害者雇用枠のマネージャーが「ゆくゆくは健常者と障害者の垣根をなくしていきたいが、どうしたらいいか分からない」と話すのを聞いたときに、元々健常者として働いていた私が障害者になった経験を生かすことができるんじゃないかなと思いました。だからこそ、障害者雇用の部署で新しいことにチャレンジしようと決めたんです。

障害者雇用の部署では、主にサービスの根幹となるデータ生成の仕事を行なっており、海野さんは、その部署でマネジメントや広報の活動をメインで行なっています。
※現在はリハビリと治療に専念するため休職中。

今後は障害があってもなくても、やりがいを持って働ける社会をつくりたいと海野さんは意気込みます。

私はもともと仕事が大好きなんです。それは障害者になった今も変わりません。障害があると「私は障害者だから、雇ってもらえるだけでありがたい」「お金をもらえるだけで幸せだから、高望みしちゃいけない」と考える人もいるようなのですが、私は高望みしてもいいと思うんです。

障害者雇用枠でも仕事をするうえで、健常者と同じようなチャンスを得たり、やりがいや楽しさを見つけられるようになればいいなと考えています。

病気を経て仕事に対して変わった意識。仕事も大事。でも自分の命や体、娘や夫の存在など、大切なものは仕事以外にも

海野さんが働く障害者雇用の部署では、心と体を健康に保つことを第一に考えているそう。海野さん自身も遠慮することなく、必要なときは治療に専念することができています。

部署のなかには障害や症状によって、朝早い時間に働くのが苦手だったり、仕事を休みがちな人もいるといいます。でもそれを咎めない環境があるからこそ、萎縮することなくそれぞれのパフォーマンスを存分に発揮することができるのかもしれません。

そういう環境のなかで働かせていただけてありがたく思っています。でも、障害の有無に関係なくすべての人が「心と体を健康に保つことを第一に考えて働ければいいのに」と思うようになりました。

障害がなくたって、たとえば気圧に弱いとか生理痛がものすごく辛いとか、いろんな事情を抱えている人がいるはずです。咎め合うのではなくて、互いに思い合えたらいいのになと思います。

以前は1日の大部分の時間を仕事に充ててきた海野さんですが、今はそうはいきません。娘や家族との時間、治療、毎日やる必要があるリハビリなど、仕事以外にやらなくてはいけないことが山ほどあります。

おのずと仕事に割ける時間は少なくなり、そのなかでどうやって成果を出していくかがこれからの課題だと海野さんは話します。

【写真】車いすに座りながら、キッチンで料理をするうみのさん

仕事をして、リハビリをして、娘と遊んで、ご飯を作って…としていると1日が一瞬で終わってしまいます。でも今、過去の自分を振り返ると、仕事がすべてだと思い過ぎていたと感じるんです。

もちろん、今も仕事は大事です。でも、病気になって死を覚悟したり、娘が生まれたことで変わりました。

以前は仕事で認められたり感謝されるのが純粋に嬉しくて執着していたのですが、今は仕事より大切なものがあると気づいたんです。それは私自身の命や体、娘の命、夫の存在…。仕事を含めてそういった大切なものに時間を割いていくのが自然になって、以前よりバランスが良いんじゃないかなって思っています。

「こうじゃなきゃ幸せになれない」を捨ててみる。その先にまた違った幸せや成長があるはずだから

インタビューの終盤、海野さんにこんな質問をぶつけてみました。「どうしようもないとき、人生が思うようにいかないと感じるとき、海野さんはどうやって気持ちに折り合いをつけてきましたか?」と。

望むように物事が進まなくても、それが頑張ってもどうにもならないことなら、受け入れるしかないと思うんです。

私もがんになったときは、それ自体は誰かが悪いわけではない、仕方ない、変えることはできないと思うようにしていました。「こうじゃなきゃ幸せになれない」という思い込みが一番良くないんじゃないかなと思います。

「こうじゃなきゃ幸せになれない」という考えは、私たちが無意識に持っているものなのかもしれません。私自身も、いろいろな「こうじゃなきゃ幸せになれない」に囚われているのだと気づきました。こうじゃなきゃ…と思うからこそ、欠けているものばかりに目がいってしまうのです。

でも、と海野さんは続けます。

仕事を始めてから、人一倍努力すれば良い方に成長できると思っていた私ですが、病気を経験したり障害者になったことで、人生には停滞してしまう時期や、努力ではどうにもならないことがたくさんあると学びました。そんな経験をしたことで、また新しい自分に会えた気がするんです。

【写真】屋外で車いすに座り、こちらを見て微笑むうみのゆうこさん

「こうじゃなきゃを捨てる」

海野さんからもらったキーワードを、インタビューの後、私は何度も反芻しています。インタビューから少し時間が経った今も、“こうじゃなきゃ”を完璧に捨てられたわけではありません。

しがみ続けている“こうじゃなきゃ”を捨てる方法は今も分からないままです。でも、その方法は私自身で見つけるべきなのだろうと思っています。海野さんがさまざまな経験を通して答えを見つけたように。その先に、私もまた今とは違った成長ができると信じて。

関連情報:
ウートピ「わざわざ、生きてる」 ホームページ

(写真/提供写真、編集/徳瑠里香、企画・進行/糸賀貴優、小野寺涼子)