はじめまして。私は、自身が産んだ子どもを特別養子縁組で養子に出した当事者です。
特別養子縁組は、何らかの事情で生みの親が育てることのできない子どもを養親に託し、安定した家庭で愛情に包まれて育つ環境を作るために、公的に設けられた制度。
自分が特別養子縁組を経験したことをきっかけに、今は社会人として働きながら、予期せぬ妊娠に悩む女性の相談にのる支援活動にも関わっています。
なぜ私が子どもを特別養子縁組しようと考えたのか、そしてなぜ妊娠に悩む女性の力になりたいと思ったのか。お話させていただきたいと思います。
願っていた妊娠、でもパートナーとの連絡は途絶えてしまった
今から数年前、30歳だった私は、10歳ほど歳の離れた男性と交際していました。
交際から半年ほどが経過した頃には半分同棲状態になっており、パートナーは年齢が離れていたこともあったため、「子どもがほしい」と口にすることがよくありました。私も世間的にみると結婚して子どもがいてもおかしくない年齢になっていたので、そのパートナーと家族になることを自然と考えていたのです。
お互い仕事もしているし「いつ子どもができても良いよね」と話して一緒に過ごしていたある日、私の妊娠が発覚します。妊娠してからは悪阻がひどく寝込む日も多く、まだ初期で今後妊娠が継続できるかどうかもわからず、入籍することによって生じる手続きも多く不安でした。なので、安定期に入り、体調面が落ち着いてから結婚するつもりでいました。
ただ、妊娠は私が考えていたほど甘くはなく、体調の変化に戸惑いながら、健診に通ったりと子どもを産む準備を始めたものの、日々の苦しい悪阻が改善することはありません。食べられるものもあまり多くなく、パートナーの衣類に付いている煙草の香りでさえ吐き気を催すようになってきました。
そんな私の姿を見て、パートナーは週の半分以上を職場で寝泊まりして過ごすようになります。パートナーは自分で事業をしていると聞いており、事務所の場所も知っていたし連絡も毎日取れていたため、特にそれを疑うこともなく、お腹の赤ちゃんのために自宅で一人ゆっくりと過ごしていました。
また、寝込む日も多く、通っていた産婦人科でもなるべく安静に過ごすように言われていたので、「遠方に住んでいる双方の親に妊娠を報告するのは、体調が安定してから」とお互い了承したうえで過ごしていました。
安定期に入って悪阻も落ち着いた妊娠5か月の頃、毎日来ていたパートナーからの連絡が突然途絶えたのです。
事故にでも遭ったのではないかと心配し、事務所に行ってみようかと考えていた矢先のこと。警察から電話が来て、パートナーが逮捕されたことを伝えられたのです。捜査中なので詳細は教えてもらえなかったのですが、私も知らないうちに、パートナーはある罪を犯していたようでした。
赤ちゃんを中絶しようと決心して、病院へ
突然の出来事に、私の頭の中は真っ白になりました。
逮捕だなんて間違いだろう。きっとすぐに帰ってくるだろう。
そう信じてパートナーからの連絡を待っていましたが、1週間経過しても、2週間経過しても連絡はきません。
「子どもの父親が犯罪者かもしれない」と思うと、産んだ子どもが将来父親に会った時を想像し、とても恐ろしくなりました。
どちらかと言えば子どもの誕生を強く望んでいたのは、パートナーでした。もし罪を償うことになって刑務所に入り、刑期を終えて出てきたとしたら、子どもの居場所を探されてしまうかもしれない。出てきて子どもの前に父親として現れた時、子どもにどう説明したらいいか。また真実を知った時に、子どもや周囲の人はどう思うのか。そう考えると、不安で仕方なくなりました。
「一人で育てられるだろうか」という経済的な面よりも、とにかく産まれた子どもの安全が心配でした。ただ一番に、「この妊娠をなかったものにしたくない」という思いが根底に強くあったのは事実です。
やっぱりお腹の赤ちゃんは中絶するしかないだろう。
いろいろ考えているうちに絶望的な気分になり、そう決心して産婦人科に相談に行きました。
事情を話したところ、先生からは「とりあえずエコーで赤ちゃんを見てみましょう」と言われ、やってみることに。
モニターに映し出された赤ちゃんは、しっかりと動いています。もう5か月だったので、しっかりと人間らしい姿になっていて、「ここが頭、お尻、手、足…」と画像を見ながら説明されるとすでに人間の形になってきているのを実感し、「本当に中絶してもいいのか」と気持ちが揺らぎました。
その後、先生から中絶手術についての説明を受け、中絶可能な週数が迫っているので早めに決断するようにと言われました。
ただ、あんなにも強く中絶することを決意していたにも関わらず、エコーで赤ちゃんの姿を見たことで、私の気持ちは揺らいでいたのです。その後も一生懸命に考えましたが結局答えは出ず、悩んでいるうちにあっという間に中絶可能な妊娠22週が経過していました。
産まれた子どもを安定した家庭で育てるための「特別養子縁組」
子どもを産むことにはなったけれど、頼れる家族がいない場所で、シングルマザーで仕事をしながら子育てをする難しさと共に、子どもがいずれ父親とつながってしまうことを考えると、毎日不安で眠れません。
「私と子どもが一緒にいなければ、子どもが父親に会うことはないだろう」と、乳児院に入れることや里親さんに預けることも考えました。でも、「私の戸籍に子どものことが記載されている以上、調べられたら子どもの居場所なども知られてしまうのではないだろうか」など、考えれば考えるほど子どもと父親がつながってしまうことが怖くなっていきます。
不安でいっぱいになりながら、私はインターネットで、「育てられない」と検索してみました。そのときに特別養子縁組制度というものがあると知ったのです。
特別養子縁組は、産まれた子どもが安定した家庭で愛情に包まれて育つ環境を作るために、公的に設けられた制度。何らかの事情で生みの親が育てることができない子どもを、養親に託し、家庭裁判所に認められれば子どもと養親は戸籍上も実の親子となることができます。
この制度を利用すれば、私の戸籍から子どもは抜けるので、実質私と子どもは他人になり、パートナーと子どもがつながることはないので安心ではないかと思いました。ただ、私が子どもを育てることができず、子どもとの縁が切れてしまうと思うと、やはりなかなか決断することができませんでした。
子どもを養子に出すことを決め、シェルターへ
いろいろ調べるなかで、民間団体が特別養子縁組のあっせんを行っていることを知り、私は検索して出てくる様々な団体のホームページを読みこみました。
その中で、とある養子縁組のあっせん団体を見たところ、その団体の情報発信のなかで過去に子どもを養子に出した経験のある女性たちの体験談や、養親さんから生みの親のみなさんに対しての温かいメッセージを目にします。
さらに、養子に出したとしても、養親さんが子どもの成長を写真で伝えてくれたり、条件が揃えば面会交流もできること、誕生日にプレゼントを贈ることができるなど、養子に出しても交流が継続できることを知って、「子どもを特別養子縁組しよう」と決心したのです。
それでも、いざ子どもを託すため相談の電話をしようと思うと、迷いが出ました。何度も何度も電話をかけようとして、ボタンを押すことができない日が続き、やっとのことで電話をかけることができたのは妊娠8か月の頃。
夜10時すぎにフリーダイヤルに連絡をしたところ、本当に育てられないのか、実家は頼れないのか、行政には相談したのかなど、沢山のことを尋ねられました。お腹の子どもの父親のことを話したところ、静かに話を聞いてくださって、その結果、産んだ赤ちゃんを特別養子縁組させていただけることになりました。
ただ、実家の近くにはお産のできる病院がなく、一人でお産を迎えることにも不安でした。それを話したところ、団体のスタッフが「シェルターがあるから移動してお産できるよ」と教えてくれました。
そこでは、経済的な理由や夫の暴力など、様々な理由で安全に出産できない母親に、一時保護的な生活の場、そして産前・産後のサポート(母子寮・シェルター)を無料で提供しているとのこと。遠方に住んでいたとしても、団体が費用を負担してくれ、協力してくださる病院と連携してシェルターで安全に出産できるといいます。
様々なサポートがあることを知って安心した私は、シェルターに移動して出産することを決めます。そして、職場では限られた上司にだけ事情を話し、妊娠していることは周囲にバレないように過ごし、妊娠9か月の頃に産休をとってシェルターへ移動しました。
赤ちゃんへの愛おしさと同時に溢れた、離れ離れになる寂しさ
シェルターに行くと10代、20代の妊婦さんが先に入居し、生活していました。全員妊娠した理由も養子に出す事情も違うけれど、産んだら赤ちゃんを養子に出すと決めていることは共通点。
リビングがあって妊婦さんたちとは毎日顔を合わせるので自然と話をする機会が生まれ、一緒に歩いてスーパーまで買い物に行ったり、一緒に料理をして食事をしたり、出産後の話をしながら、穏やかに過ごしていました。
敷地内には団体のスタッフの自宅があるので、様子を見に来てくれ、足りない日用品や支援でいただいた食材等を補充してくれます。初めてのお産だったので、いつも誰かがいてサポートしてくれるのは安心感がありました。
やがて、先に20代の子が緊急帝王切開で出産し、その数日後に私も陣痛が訪れます。帝王切開をすることになり全身麻酔で出産したため、産まれた直後の赤ちゃんの顔は見られませんでした。
その後、麻酔が切れて自力で歩行ができるようになり傷口の消毒に行く際、初めて新生児室のガラス越しに産まれてきたわが子の姿を見ました。少し距離があったし、赤ちゃんは寝ていたけれど、その姿はとても可愛く愛おしく思えました。
病室は個室でしたが、ちょうど出産ラッシュの時期で部屋はほぼ満室。入院中一人ベッドの上でほとんどの時間を過ごしていましたが、隣の個室から「おめでとう」とお見舞いに来た人たちの声が聞こえて来たり、夜に母子同室にしている人の部屋から赤ちゃんの泣き声が聞こえてくると、「自分には何もない」と感じて一人部屋で泣いたこともありました。
でも、入院期間中に同じシェルターにいた10代の子も出産をしたので、その子と一緒に新生児室まで赤ちゃんを見に行ったり、話をしたりと一緒に過ごしていく中で、わが子と別れる寂しさにざわついていた気持ちが落ち着いて来ました。
赤ちゃんとの別れ。でも気持ちはしっかりと決まっていた
産んでから1週間後、退院の日を迎えました。その日は団体の事務所で書類にサインをした後に赤ちゃんを抱いたり、ミルクをあげたり、写真を撮ったりして一緒に過ごすことができました。
写真撮影のとき、「撮るよ」と声をかけられましたがどんな顔をしたらいいのか分からなくて、私はカメラの方を見ることはできませんでした。でももうその時には気持ちはしっかりと決まっていたし、笑顔で別れようと思っていたので、最後に赤ちゃんを抱いて撮った写真の私は、ミルクをあげながら笑っている姿です。
翌日赤ちゃんは、養親さんのもとへ行ってしまいました。養親さんが赤ちゃんに名前を付けることになっていたので、わが子を赤ちゃんではなく名前で呼んであげられることが、少し寂しくも嬉しく感じたのを覚えています。
赤ちゃんも近くにいなくなり、シェルターに来た時には大きかったお腹もぺたんこになってしまったことに寂しさを感じました。ですが、シェルターへ帰ると、同じくお産を終えて戻ってきた10代の子と一緒に過ごすことができたので寂しさも和らぎました。
子どもを養子に出した生みの親として、同じ立場の女性の力になりたい
帝王切開の傷もまだ痛み、産休期間も残っていたため、職場から「しばらくシェルターで養生しても大丈夫だよ」と言っていただいたので、そのまま1か月健診まで過ごすことにしました。
ちょうどそのころにきっかけがあり、自分がお世話になった養子縁組のあっせん団体に、事務作業やできることがあればお手伝いしたいと申し出ました。まだ帝王切開の傷が痛むため、力仕事はできませんでしたが、子どもを手放してふと襲ってくる寂しさを紛らわせるためにも何かすることがあった方が精神的に楽だと思ったからです。
産休が明けてからは正式にスタッフとなり、会社員として働く傍ら、妊婦の方からの相談支援などに関わっています。
産前と産後しばらくは、妊娠・出産、特別養子縁組のことも、ごくごく限られた人にしか話していませんでした。でも、職場の仲間や友人たちが結婚したり妊娠していくのを見ている中で、自分が過去に妊娠・出産を経験しているにも関わらず、その事実を否定して、黙っていることが辛くなってきました。なので、今は職場にも事情を話して、支援活動も理解を得たうえで継続しています。
一度、子どもを養子に出した生みの親として取材を受けたことがあるのですが、それを見た職場の人たちから批判されることを覚悟していました。でも、職場の人たちは決して私を責めることもなく、むしろ優しい言葉をかけてくれたのです。
それからは職場でも過去の妊娠・出産を隠すことなく、自分のことをありのままに話すことができるようになり、とても気持ちが楽になりました。今の自分は妊娠・出産、そして特別養子縁組でわが子を他のご夫婦に託したこと、その全てが自分の大切な一部分であるのだと感じています。
予期せぬ妊娠に悩んだら、一人で悩まず相談を
私が相談支援で関わる妊婦さんのほとんどは、誰にも相談できず、妊娠していることを隠して生活している場合が多いです。
でも私たち支援に関わる人は、妊婦さんにSOSを出してもらって初めて動くことができます。もし、予期せぬ妊娠をして誰にも相談できない環境にいたとしたら、まずはどこかに相談してほしいです。匿名でもいいし、メールでもいい。一人で悩まず、誰かとつながってほしいと思います。
誰にも相談できない、でも相談してみようかなと誰かを信じて一歩踏み出す勇気は、その人の生きる力となると思います。その結果、状況が改善されたのであれば、きっと次に自分が困った時にまた誰かに相談することができるだろうと思うし、その経験の積み重ねは生きる上でとても大きな力になると思います。
妊婦さんの中には、出産した後は音信不通になる人も少なくないですが、わずかながら今も連絡を取り合っている方もいます。そういった方が就職したとか結婚したとか、つらいことも多かった妊娠・出産、わが子との別れを乗り越えて幸せになっている報告を受けると、とてもうれしく思います。
もし、今妊娠していて誰にも相談できずに悩んでいるとしたら、勇気を出してまずは誰かに相談してみてください。一人で考えているより、二人、二人より三人、四人とみんなで一緒に考えればきっと何か状況を改善する方法は見つかるだろうと思います。
いつ子どもに会っても恥ずかしくない生活をしたい。その気持ちが生きる励みになっている。
わが子とは1歳半を過ぎたころに、初めて再会することができました。団体の開催するイベントの場でのことです。
最後に直接子どもの顔を見たのが生後14日ごろで、それからは写真で子どもの成長を見守っていたので、しみじみ「大きくなったのだなあ」と思いました。
そのとき、養親さんが子どもに、私が誕生日に贈ったお洋服を着せて来てくださったことは、とても嬉しかったです。ちょっとだけ抱っこさせてもらったのですが、子どもは養親さんが他の赤ちゃんを抱っこしているのを見て嫉妬して落ち着かなくなり、あまり抱っこできませんでした。その後養親さんに抱っこされて落ち着いた姿を見て、「やっぱり自分の子どもではないのだな」とちょっと切なくなりました。
それからも、養親さんから成長を記録したアルバムをいただいたり、お手紙をいただいたりしながら交流を継続しています。子どもはすでに小学生になっており、「養子である」という真実告知もしているそうです。私が生みの親であると知っているかはわかりませんが、子どもの成長を少し離れたところから見守っている今は、親戚が増えたような感覚に近いです。
養親さんの元に託されたわが子は健康上の理由があり、入院していた時期がありました。スタッフの方から、病院に泊まり込みで看病してくれた養親さんの話を伝え聞いて、自分が仕事をしながら一人で育てていたら手厚いケアはしてあげられなかったので、大きくなった子どもの姿を見ていると、養親さんには感謝しかありません。なので、今は時間も経っているし、「やっぱり自分が子どもを育てたかった」と後悔することはないです。
ただ、今の自分があるのは、あの頃の経験があるから。子どもの成長も少し離れたところから見守ることができているし、そういった意味でもとても恵まれていると思っています。
これからもいつわが子に会っても恥ずかしくないような生活をしていきたいと思いますし、そう思えることは自分自身の励みになっています。
※記事に使用した写真は、生みの親の当事者ではない方にモデルをお願いし、フォトグラファーが文章からインスピレーションを得て撮影したものです。
(イメージ写真撮影/川島彩水、編集/工藤瑞穂、企画・進行/小野寺涼子)