【写真】緑の木々の前で穏やかな表情をこちらに向けているなかのさん

自分の好きなことも大切に、人生も思いきり楽しみながら、今の社会を少しでもよりよくすることに貢献できたらどんなにいいだろう。

大学卒業が迫り、どんな仕事を選ぶか模索しながら就職活動をしていた頃、そう未来を妄想していた覚えがあります。

その頃、私は“2つの円”についてよく考えていました。

「自分の好きなこと」の円と「社会の役に立つこと」の円。それらの重なる仕事を選ぶといいのだと、初めて通読したビジネス本に書いてあったからです。

それから数年が経ち、2つの円の重なるところで仕事ができていると実感する機会が増えました。自分はどんなふうに社会を変えたいのか、そして何が好きなのか、以前よりずっとハッキリとした輪郭が見えてきた気がします。

と同時に気づかされるのは「こう生きれたらどんなにいいだろう」と妄想していた道が、決して楽な道ではなかったということ。

社会への貢献や自分の成長を実感できず心が焦ったり、同じ志をもつ人とも価値観の違いで対立したり、心身の健康を崩してしまったりすることもある。そのせいで、かつて自分が好きだったことさえも“こなすべきタスク”のように見えて、自分は何に幸せを感じるのか、見失いそうになる日もあります。

どうすれば自分の好きなことや大切にしたいことを見失わず、目指したい社会に向けて自分を磨き、前に進み続けられるのだろう。漠然とした疑問に光が差した気がしたのは、中野民夫さんの『みんなの楽しい修行―より納得できる人生と社会のために(以下、みんなの楽しい修行)』を読んだときでした。

民夫さんの著書「みんなの楽しい修行」

中野民夫さんは、大学を休学してアジアの国々を放浪した後、博報堂に就職。1989年にカリフォルニアに留学して、組織開発や自然、環境にまつわるワークショップを学ぶと、帰国後も会社勤めの傍ら、人と自然を扱うワークショップやファシリテーションを実践。50歳から大学教授の道へ進み、同志社大学を経て、今は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院でワークショップやマインドフルネスについて教えています。

『みんなの楽しい修行』では、民夫さんが自身の経験を踏まえて、よりよい人生、よりよい社会を実現したい人に必要な「修行」を綴っています。それは決して一般的に「修行」という言葉からイメージされるような、厳しく辛いだけのものではありません。

自らの内から湧き上がる感情を大切に、自然や食、アートと親しみ、他者と対話を重ねていく。それによって自らを成長させ、いきいきとした人生を送ることが、他者や社会のよりよい変化へとつながっていく。

それが民夫さんが案内する「楽しい修行」です。こんなふうに自分の人生を豊かに耕すことによって、周囲に前向きな変化をもたらせたら、どんなに素敵だろうなと思いました。

一方で、今では太陽礼拝から1日をスタートさせ、歌や絵画を楽しむ民夫さんが、かつては深夜まで働く多忙な生活、厳しい企業社会を生き抜いてきたとも知りました。驚きとともに「ハードワークを乗り越えないと、この境地にはたどり着けないのでは…」なんて疑問も湧きます。

どうすれば、私たちは自分の人生を豊かにすることと、他者や社会に貢献することの両方を大切にしながら、日々を生きていけるのでしょうか。付箋だらけの本を携えて、中野民夫さんの研究室を訪れました。

中野民夫さん:1957年東京生まれ。東京大学文学部卒。博報堂に30年勤務したのち、同志社大学総合政策科学研究科教授を経て、2015年秋より現職。1989年、博報堂を休職してカリフォルニア​​統合学研究所(CIIS)で組織開発やワークショップを学ぶ。以後、人と人・自然・自分自身をつなぎ直すワークショップやファシリテーション講座を実践。主著に『ワークショップ』(岩波新書)、『ファシリテーション革命 参加型の場づくりの技法』(岩波アクティブ新書)、『学び合う場のつくり方――本当の学びへのファシリテーション』(岩波書店)など。

比べない、頑張らない、ゆっくり丁寧に

【写真】芝生に座ってこちらをみているなかのさん

取材当日、迎えてくれたのはカラフルなシャツを身に纏った民夫さん。「陽の落ちる前に写真撮影をしたい」と伝えると、足取り軽く、芝生の丘まで案内してくれました。

カメラを意識している様子を感じさせず、芝生に座ったり寝転んだり。校内の「お気に入りの場所」へと軽快に歩いていく姿に、私の緊張もほぐれていきました。

【写真】大学の構内を案内してくれるなかのさんの後ろ姿

研究室に戻り、真ん中の円卓に座ったら、目に入るのは壁に飾られた一面の絵。屋久島の山々やベルリンの街並み、研究室からみえる夕日など、中野さんが景色を切り取った作品がずらりと並びます。

【写真】なかのさんの大学の研究室。本棚にはたくさんの本が並ぶ

【写真】海や森などの風景、大きなゾウなどなかのさんが描いた絵が、たくさん壁に飾られている

その近くに立てかけられていたのが、一本のアコースティックギター。50代からギターを始め、57歳から作り始めたオリジナルソングは23曲を超えたそう。民夫さんは、自身のファシリテーション講座や講演でも、伝えたいメッセージを歌に込めて届けてきました。

話より歌なんで、最近は(笑)。

そう話し、今回の取材も歌から始まりました。一曲目は『美しく生きるヒント』。せっかくなので、歌詞の一部を皆さんにも共有させてください。

【写真】ギターを弾いて自作の曲を歌ってくれる

きっとどこかで、もうずっと知ってたはずなのに
つい反対のことばっかり、やってきて疲れたよ
人と比べて、競い合って勝ったの負けたのと
頑張らなきゃダメ、速くたくさんやらなきゃと

内側から、美しく強く生きるには
比べない、頑張らない、ゆっくり丁寧に
内側から、美しく楽に生きるヒント
比べない、頑張らない、ゆっくり丁寧に

2曲目は『気になることについていこう(フォロー・ユア・ブリス)』です。

好きなこと、やればいい
でもそれなかなか難しいよね
まわりの世界に合わせるうちに
やりたいことすらわからなくなる
でも大丈夫、本当は知ってる
みんな地球の子どもだから
一人ひとりがのびのびやれば
僕らを生んだ宇宙も喜ぶ

自分の至福について行け
フォロー、ユア、ブリス
気になることについて行こう
フォロー、マイ、ブリス

「頑張らない、ゆっくり丁寧に」「自分の至福について行け」という言葉、曲の世界観に包まれ、心が軽くなるような。一方で、慌ただしくタスクに追われる取材直前の日常を思い返し、その差に少し落ち込むような。そんな理想と現実のギャップを民夫さん自身は感じたことがあるのでしょうか、あるとすれば、どんなふうに向き合ってきたのだろう。そんなことを考えながら取材が始まりました。

【写真】研究室内で丸テーブルを囲んで話をする取材チーム

浮世に“ドロップイン”しようと考えた理由 

——『比べない、頑張らない、ゆっくり丁寧に』という歌詞を聞いて、正反対のことをしている瞬間が多いなと、ハッとしました。中野さん自身も、かつては大手広告代理店で、忙しい日々を送られていたと 『みんなの楽しい修行』にも書かれていました。どんなふうに「ゆっくり丁寧に」生きる方向へと変化してきたのでしょうか?

変わってきたのは55歳くらいかなぁ。会社を辞めるまでは、0時前に家に帰り着くことはなかったくらい。夜は2時に寝て、朝は8時か9時に起きるような感じでした。

でも、30年務めた会社を54歳で辞めて、同志社大学の教員になって、鴨川の朝の美しさに誘われてさ。「この朝焼けを見ないのはもったいない」と思って、日が昇る前に起きて、散歩して、日の出を迎えるのを楽しみにしていたの。

最初は一人で自転車に乗ってうろうろしていたんだけど。その年の夏、山形で山伏修行に参加したんです。白装束を着て、山を黙々と歩く、厳しく辛い修行だったけれど、身体の奥が歓ぶような感覚があった。

そのときの仲間が鴨川に来てくれたとき、修行の中で唱えていた勤行(ごんぎょう)をみんなでやったら、感動が蘇った気がしてさ。その後も一人で杖を持って歩くようになりました。

それを続けていると、とても気持ちがいいんです。朝、時間をかけて心を整えると、何も心配ないんだな、起こるべきことが起きるんだなと思えるようになった。

【写真】インタビューに応えるなかのさん

——大学時代は「大学を休学してアジアの国々を放浪」していたと思います。自由な旅から帰ってきて、「0時前には帰れない」ほど忙しい職場、当時の企業社会に飛び込んだのは、なぜだったのでしょう?

僕が大学生になったのは1977年だったので、たしかに、僕の少し上の世代は学生運動やヒッピーカルチャーを経て、会社ではなく、オルタナティブな世界に“ドロップアウト”する人も多かった。けれど、僕は、まず浮世に“ドロップイン”してみようと思ったの。

そもそも旅に出たきっかけは、僕が大学生だった頃の様々な社会運動のあり方への違和感でした。「社会を変えるぞ」という気持ちは僕自身も持っていたけれど、当時の運動のなかで、大きな志は同じなのに、主義や意見が異なるからといって争い、殲滅し合うやり方に矛盾を感じたんです。

そんな折、社会学者の見田宗介先生が「右や左の時代ではないでしょ」とおっしゃっていました。西洋合理主義の下を掘っていくと、地下水のようにつながっている普遍の何かがあるはずで、それを問いたいのだ、と。これを聞いて、かっこいい!それだ!って思った。

普遍の何かを問うには、西洋的な世界観、その狭い価値観を解き放つために、異世界への旅が必要だと、見田先生が常々言っていたんですね。それを間に受けて、大学を休学し、工場の期間工でお金を貯め、東南アジアや、インド・ネパール、中南米に出かけました。

旅先で、西洋的な豊かさとは別の豊かさ、心ある世界が広がっていると知ったわけなのだけど、同時に「このままそっちの世界に生きていていいんだっけ?」とも思ったんです。

【写真】なかのさんの手元には、大好きなスナフキンのマグカップ

——浮世から離れてしまっていいのか、と。

そうそう。その頃、よく思い浮かべていたのは、崖に向かって走るバッファローの群れのイメージ。丘の上から「そっちに行くと落ちるぞ」って呼びかけても、群れが一斉に動いていたら、バッファローは気づかないし、止まらないじゃない。

安全な高みから見下していても、きっと誰も聞いてくれない。だから、一緒に走りながら「どこに行くんだっけ」「なんで急いでるんだっけ」って問いかけたいと思ったの。周りの2、3人でも振り返ってもらえたら、少しずつスローダウンできるかもしれないから。そうやって浮世の只中から企業社会を変革しようって意気込んでいたんですよね。

辞書の違う人や組織の間で「キレない、切らない、嫌わない」

——民夫さんが就職された1980年代の企業社会と、アジア諸国で触れた心ある世界は、価値観も考え方も大きく異なりますよね。「自分だったら…」と想像してみると、就職した後、ギャップに心が折れてしまうかもと思いました。

もちろん最初は苦労しましたよ。博報堂で営業の仕事をすることになったけど、タレントも全然知らなかったしさ(笑)上司と理解し合えないこともも多くて、それまで「心を許せば人は分かり合える」と思っていたけれど、そもそも価値観も考え方も話す言葉も、いわば“辞書”が違うから、言えば言うほど誤解が増える。もちろん素敵な人も周りにいたし、面白い仕事もあって、とてもありがたい修行でしたけどね。

心折れずにいられた理由のひとつは、別の世界を知っていたから、オルタナティブな世界を生きる知り合いが、沢山いたからかもしれない。通勤電車では山尾三省(インドやネパールへの旅を経て屋久島に暮らした詩人)の本とか読んでさ。とにかく営業が辛いとき、山尾三省に会いたいと思って入社2年目で訪ねたのが、その後、縁が深まった屋久島との出会いです。

【写真】手振りを交えて話をするなかのさん

もうひとつ、どうにか頑張って、夢中で仕事をしていたら、留学のチャンスが開けたの。少しずつ仕事で成果が出てきた7年目の頃。アメリカの大学院で環境問題について勉強したいなと思って。先輩と昼飯を一緒に食べに行ったときに「休職して留学とかしたいってふと思ったりするんですよね」って自然と口から出てしまったんです。その場では軽く流されて、私も「夢ですよ、夢」なんて言ってたのだけど、その後で先輩から部長に話が届いていって。

驚いたけれど「これはチャンスだ!」と思って、徹夜で7枚くらいの企画書みたいな休職願いをまとめたの。「これからはモノ・金・情報だけではなくて、地球環境を視野に入れなければならない時代が来る」とか言って。そしたら部長が局長に上げてくれて、局長が人事と交渉してくれて、何だかんだで2年8ヶ月も休職させてもらった。留学制度などなかったので当時はとっても珍しいこと。広告会社の営業の世界でも何とか一人前になったから、聞く耳を持ってもらえたのかなと思います。

留学先では、ジョアンナ・メイシー(アメリカの環境活動家、作家)の絶望と希望をつなぐワークショップに感銘を受けたり、ティク・ナット・ハン(ベトナム出身の禅僧、平和・人権運動家)のリトリートに参加して、彼の社会運動との関わり方や日常におけるマインドフルの実践に感銘を受けたり。内なる平和と世界の平和がつながっていることを、二人の世界から大いに学ばせていただきました。

——留学を終えて日本の企業社会に戻ってきたのが、1992年。まだまだ日本では環境問題やマインドフルネスといった概念はビジネスの世界でも、一般社会でも広まっていなかったかと思います。そのギャップとどのように向き合い、活動していったのでしょう?

まず意識していたのは「間(あいだ)をつなぐ」ことですね。仕事においては、まず社内外で一人の営業として信頼してもらえるよう努力する。主流の世界で反発されるようなら間をつなぐことなんてできないって思ってたから。

当時は、博報堂の仕事と並行して、プライベートで環境問題やマインドフルネスにまつわる活動も続けていました。

1995年にティク・ナット・ハンが来日する際には、各地での講演会やリトリートを企画して、合計29日くらいかけて、一緒に日本を駆け抜けました。来日企画の実行委員会の事務局長をやっていたんです。彼はベトナム戦争下に非暴力を掲げて活動した後、フランスに亡命し、以降もマインドフルや瞑想を普及する活動に尽力していました。日本の人々にもそのあり方や考え方に触れてほしいと、留学時代から思っていたんです。

【写真】ティク・ナット・ハン来日の講演会に際して制作したパンフレットを指差している

そうやって興味のある活動に精を出していると、徐々に社内でも「中野は地球環境とかに詳しいらしい」って噂になっていくんだよね。もちろん時間はかかりますよ。でも、得意なことを極めていったら、やりたくない仕事が段々と少なくなっていった。特に環境については他の人がまだあまり関心がなかった頃からやってたから。そうこうしているうちに、2005年の愛知万博につながっていったんだよね。

——『みんなの楽しい修行』でも、2005年の愛知万博で開催した『地球市民村』のお話が印象的でした。万博史上初めて、NGOが主役になって出展する事業の企画・コーディネートを担われて、企業やNGOの間で奔走されたと……。

4年間、全体の企画とNGOのコーディネートに関わって、相当鍛えられましたね。20年近く前は、企業、特に広告会社が間に入るやり方に反発を感じるNGOの方々も多くて。私たち企業側も、NGOの方々と仕事をした経験が少なくて、理解も乏しかった。まさに異なる“辞書”を持つもの同士だったんだよね。

僕らがNGOの取り組んでいる大事な活動が、一般の人々に本当に伝わるように一生懸命粘り強くやったから、徐々に距離が縮まっていったのだけど、両者の板挟みになって苦しいことも多かった。

そうやって人に揉まれながら大事にしていたのは「キレない、切らない、嫌わない」こと。僕なりの3Kだよね。何百人の真ん中で頭にくることも多いけどキレない、厄介な人もいるけど縁を切らない、それぞれの生い立ちがあるのだから簡単に嫌わない。これは間に入って鍛えられながら学び身についたこと。その経験があったからこそ、今、大学で他の教員のみなさんと協働しなきゃいけないときも、割とうまくやれてる気がします。

目にみえる“波”ではなく、“海”を見ると気づけること

——志を持ちながら“浮世”で頑張ることを選んだ人にとって、辞書の違う人との対立、それを乗り越えるための対話は、とても大切ですよね。とはいえ言うは易しで、実践するのはなかなか難しいことだとも思います。簡単に“キレず、切らず、嫌わず”に他者と向き合うため、中野さんはどういったことを意識していますか?

ずいぶん前に、見田先生がある対談で「自己とは波と海だと僕は考えています」って言ってたの。この言葉は大きなヒントになりました。

波打つ海を想像してみて。水面から上を見ていると、波に始まりと終わりがあって、一つひとつの波が違うように見えますよね。でも、波ってよく見たら海の一部じゃない。だから、波ではなく、海に焦点を当てたら、私もあなたも関係なくなる。現実の世界で僕たちは波だけを見ているけれど、目に見える世界の奥に、生命の歴史や生命体のつながりがある。いわば大きいSelf(自分)と小さいself(自分)がいるんだよね。

【写真】ホワイトボードに、「自己」について波と海を用いて説明するイラストを描くなかのさん

ネイティブアメリカンの思想では「みんな地球の子どもたち」と言ったりするんです。僕もとても大切にしている言葉です。人間に大地が属すのではなくて、この大地に、人間が属しているだけ。僕らはみんな生命の織物の一本の糸みたいなもので、それを支配しているわけでも何でもない。生きとし生けるもの、みんな地球の子どもたちなんだよね。

そう捉えてみると「こいつ許せん」と思っても、この人も地球の一部なんだな、育った環境や家族、学校での経験があって、今があるんだなって思い至れる。人に歴史あり、物語ありだから。

——カッと頭に血が上ったとき、そうした考え方が浮かぶようになりたい…。ちなみに、中野さん自身、今でもイラっとする瞬間などはあるんですか?

(ちょっと小声で)ありますよ。

しばらくムカついて、その後で誰かに聞いてもらうこともあります。愚痴って聞いてもらって、その後で「みんな仲間、地球の子ども、めぐる生命思い出して、穏やかに健やかに」と唱えて、自分をなだめる。そうするとその人の背景に思い至ることができて、その後は落ち着いて話すことができる。

授業の学生同士の対話の時に、違和感を感じたらチャンスなんだって、自分にも、学生にも伝えているんです。違うから関係ないじゃなくて、違うからこそ、何でだろうって聞いてみようよって。理解できたら自分の世界が広がるから。

——そうやって「違うからこそ、何でだろう」と聞きたくなるような場をつくるうえで欠かせないのが、民夫さんが研究されてきた「ファシリテーション」の技術だと思います。民夫さんは対話をファシリテートするうえで、どのようなことを心がけていますか?

ファシリテーターの仕事は、その場にいるみんなが、気持ちよく、前向きに参加できる場を整え、促すことだと思う。そのためには、参加者同士が「安心して話せるな」と思えるよう、関係性の質を高めてから、螺旋状に少しずつ深い問いに入っていくようにする。そのために物理的な空間や心理的な雰囲気、何人組で話すか、問いの構成、話す順番など、本題の前のアイスブレイクも設計していくの。

そうやって場をきちんと調えると、人はいきいきと話し始めるものだなあ、と、普段の授業でも実感します。僕、東工大でも100人以上の授業が多いんだけど、ちゃんと参加してもらえるように100分を設計したら、誰一人寝ないんだよね。寝てる暇がない。なぜなら僕が20分以上続けて喋らないし、皆が話し合う機会をたくさん設けるから。事前にプレゼンを用意してそれを生徒同士で発表してもらう形式にしていて、みんなバリバリ刺激し合って、高め合ってくれてる。

【写真】なかのさんが「教える」から「学び合う」に考えをシフトさせよう、という思いを書いたボード。2頭のゾウと、それぞれに乗っている女性の絵も貼られている

“内なる気配”に気づくこと、気軽にアートしてみること 

——企業社会から離れたとはいえ、今も中野さんは数百人単位の授業を担当されて、学生の方々とも向き合う多忙な日々を送られているかと思います。そのなかでも、歌や絵画、ヨガなど、ご自身の「好きなこと」を大切にされていますよね。冒頭の歌でも「自分の至福についていけ」と歌われていました。

「フォロー・ユア・ブリス(自分の至福を追求しなさい)」は神話学者、ジョゼフ・キャンベルの言葉なんです。彼は、一人ひとりが好きなことや無上の喜びにしたがって、いきいきとと暮らすこと。いわば「自分を救う旅」に出かけることが、結果的に「世界を救う旅」につながるのだと説いていました。ちょうど入院していたときに『神話の力』を読み直して、この一節にいたく感動したし、何かと人目を気にしがちな日本だから、ぜひみんなに知ってほしいと思った。

『フォロー・ユア・ブリス』という曲を書いたのも、それぞれが自分の深い歓びに向かっていこうというメッセージを伝えたかったから。歌詞にもある通り「外に向かって頑張るよりも、内なる気配についていこう」って。そうやって宇宙の最前線にいる僕ら一人ひとりが可能性を花開かせることこそクリエイティブなんじゃないかって。

【写真】笑顔で話をするなかのさん

——まさに“外”に情報や刺激が溢れている今、ついそこに影響されてしまいやすい。自分の内なる気配は見失ってしまいやすいように思います。どうすれば内なる気配に気づいていけるのでしょうか?

「直観を磨く」という話ですけど、たとえばまず、美味しい飲み屋とかカフェを看板だけで見分ける勘を磨くとか、そういうことからでもいいと思う。実際行ってみて、当たりだったとか、外れたとか、数限りなく積んでいくなかで、何となく感覚が掴めてくるじゃない?そういうちょっとした直観を否定せず丁寧についていくことを積み重ねるなかで、内なる気配に敏感になっていくんじゃないかな。

何かわからないけれど惹かれるものを見つけて、試してみることを繰り返す。僕たちって気配があっても従っていないことも多いじゃない。面倒くさいし、どうせ大したことないだろうって諦めたりして。

そういう何か気を惹かれるものを心理学者のアーノルド・ミンデルは「フラート」という言葉で表現してました。だからフラーっとフラートに気づいて行動してみるといいんじゃないかな。そしたら僕みたいに、ついて行きたいものばっかりになってくるから(笑)

【写真】「気になることについていこう!失敗こそ、学び試練こそ成長」というなかのさんからのメッセージが書かれたボード

——まさに冒頭の写真撮影でも心惹かれるものを見つけ、歩いていく姿が印象的でした。中野さんが歌や絵画を始められたのも、そうした「内なる気配」を感じたからだったのですか?

そういうことになるのかな。自分が歌を作ったり、絵を描いたりするなんて思ってなかった。でも、愛知万博で音楽の力ってすごいなと思ったんだよね。イベントでは長い話だと飽きられてしまうけど、音楽の演奏なら人が自然に集まってきてくれたりすることに感動したの。音楽の力ってすごいな、って。それで名古屋から帰ってきてすぐ久しぶりにギターを買ったの。もうちょっと人生楽しまなきゃって。

絵を始めたのはもう少し後なんです。屋久島に40年くらい通って、写真もたくさん撮ってきたけれど、なんだかいくら撮ってもその場の感動はつかみきれないって思って、絵でちょっと描いてみたの。新緑や山麓の奥行きをどう表現しようかって工夫したりして。そしたら家族からも「歌よりいいんじゃない」って言われて描き始めたんです。

【写真】なかのさんが「新緑や山麓の奥行きを表現したい」という思いで描いた山の絵

——内なる気配について行って、絵や歌を始めてみて、何か中野さんのなかに変化はありましたか?

理想的にカッコよく言えば「中空の竹となって、宇宙の調べを奏でたい」と強く思うようになった。笛って中身が空洞だからこそ、風が流れて、よい調べを奏でるじゃない。中がいっぱいに詰まってたらダメなわけ。同じように、僕自身が空っぽの器になって、美しい音を奏でられたらいいなって。僕が絵や歌を作るのではなくて、歌や絵が僕を通して生まれる感覚。それを味わっていけたらと思うようになったかな。

【写真】なかのさんが愛用しているアコースティックギター

自分を平和の道具とすれば、思わぬところで変わっていく

——企業社会における多くの仕事では、個人の役割や目標など「やるべき」ことが明確に決まっていることが多いですよね。自分が空になって何かを生み出すという感覚は、とても興味深いです。

ファシリテーションを習っているとき、先生が「何をすべきか?」の前に「私は誰か?」を問い直しなさいと言っていたんです。私というのは固定的な皮膚に囲まれた個とも捉えられるけれど、広く地球の子どもを「私」とも捉えられる。つまり波ではなく、海である自分を意識するんだよね。海である私を理解しなさいと言ったわけです。そうやって我を抜いて空っぽになったとき、一番その場にふさわしいファシリテートができるから、と。

——「自分が何をすべきか」ではなく「この場が何を求めているか」に意識を向ける?

何を求めているかというより、「この場で何が起ころうとしているのか」に耳を傾けるんです。中世において清貧の生活を実践した聖フランチェスコの有名な一節に「神よ、私をあなたの平和の道具としてお使いください」というものがあります。自分に何ができるのかといったスキルや技法に走るのではなく、その場に自然体として存在して、そこで起こること、その気配を捕まえるというか。そのほうが大事だよなって。

——そうしたあり方は、民夫さんの生き方や学生の主体性に委ねる授業の作り方にも現れている気がしました。

やっぱり「自分の力によって相手を変えたい」という気持ちは、どこか自分が正しいから相手を変えてやるという、自己正当化やある種の暴力性を孕んでしまうんじゃないかと思うんです。僕は「他動詞の罠」と呼んでいます。それは僕が学生時代に違和感を感じ、絶望した、運動のあり方とも重なる。

見田宗介先生は「自分の生き方の豊かさをもって、敵対者をも解放する」というテーゼを書いていました。「お前はこうしろ」じゃなくて、自分が自然といきいきする方向に進む。相手から「楽しそうじゃん」って近づいてきて、何かが変わっていく。それを僕は「自動詞の連鎖」って呼んでいるの。

【写真】笑顔で話をするなかのさん

——民夫さんが、理想とする世界と企業社会との間で心折れずにいられたのは、内に生まれる気配にいきいきとついて行くことを選び続けたからなのではないかと感じました。

もちろん僕自身、現実の世界への絶望はありましたよ。でも、絶望したからこそ、すべてが希望になった。それにいろんなところにいる「菩薩」と出会ってきたから。希望以外の何ものじゃないなって。

——「菩薩」というと?

理想の世界を求め続ける人、特に自分一人だけなら渡れるかもしれないけれど、あえて彼岸に渡らず、最後の一人が渡れるまでこちら側で助ける人を「菩薩」と捉えています。

仏教における菩薩は、天国の声も聞ければ、地獄の声も聞ける。自然界の美しさや弱きもの、苦しんでいるものも聞けるという存在です。世界の美しさも苦しさもわかったうえで、自分だけで彼岸に渡るのではなく、皆で渡ろうと浮世に止まる。

僕も企業社会を内側から変えたくて、「ネクタイ菩薩」として浮世に止まって修行しようと思い立ったから、大きな組織の中でも少しずつねばってやってきました。みなさんの周りにもいるんじゃないですかね、きっと。

——現実と理想の間でもがきながらも、社会や他者のために浮世で修行を頑張っている。私の周囲にもいる“菩薩”の顔が浮かびます。そんな菩薩たちにメッセージをいただけますか?

長く生きていて面白いのは、諦めずに続けていると、思わぬところで変わっていくということ。若い頃ってすぐ成果が欲しいから「こんな変わらない世界は嫌だ」って思うじゃない。でも人間は懲りないと変わらない。何度も何度も痛い目に遭って変わっていく。環境問題やサステナビリティだって、世界がここまで痛んで、何度も懲りて、やっと今みたいにビジネスにおいても重要な取り組みとして認識される日が来た。

いきなり思い通りにはならないけれど、誰かの道行きが、次の誰かにとっての道をつくるから。願う方向に歩み続けることが大事なんでしょうね。そしたら、何十年か経ってふと気づいたら時代が変わっている。簡単に答えは出ないけれど、これかな、と思うことをやり続けていけば、大切なことはゆっくり静かに少しずつ起こる。人や自然に感謝して、楽しく愉快にやりましょう、と伝えたいです。

【写真】研究室の窓から見える町並み

内なる気配に気づいて、直感した「至福」についていくこと。誰かを変えたいと行動するより、この場における平和の道具として自分を委ねること。その豊かな人生、生き方をもって、他者を、社会を変えていくこと。そして最後に、すぐ変わらなくても諦めないこと。

民夫さんのお話を聞いて気づかされたのは、「自分の好きなこと」の円と「社会の役に立つこと」の円にこだわりすぎる必要はないということでした。

かつての私は「自分」と「社会」を何か別のものとして捉え、2つの独立した円を描いていました。ですが、社会を成り立たせる個人が至福についていき、人生を豊かにすること自体が、最終的に他者や社会を変えることにつながるのならば。2つの円は常に重なりあい、溶け合っているはずだと思ったのです。波と海のメタファーでいえば、みんな結局は同じ一つの海なのだから。

【写真】なかのさんがホワイトボードに描いた、「自己」について波と海を用いて説明するイラストと「みんな地球の子どもたち」の文字

その海を見るような感覚は、取材を終えて日常に戻ると、すぐに忘れてしまいそうになります。だから、思い出せるようになるために、私はこれからも楽しい修行を重ねていくつもりです。民夫さんのように早朝のヨガは難しくても、たまには自然のなかを散歩すること、ピンときた近所のお店にふらっと入ってみることは、何とか続けられています。

ふと思い出すのは、民夫さんが取材の最後に歌ってくださった『生きてるうちに』という一曲。浮世で頑張る“菩薩”の皆さんに届きますように。

生きてるうちに 精一杯 がんばろう
がんばり尽くせば ひとつに溶けて 楽になれるから
生きてるうちに 精一杯 楽しもう
きっといつか そのうちにでなく 今ここで
生きてるうちに 精一杯 歩こうよ
小さな一歩 積み重ねれば 遠くまで行ける
生きてるうちに 精一杯 学ぼうよ
知れば知るほど 奥が深いよ この世界

たとえあした旅立とうと たとえ世界滅びようと
私だけにできる 一人分の仕事 やろう

【写真】穏やかな表情をカメラに向けるなかのさん

関連情報:
中野民夫さん著書
みんなの楽しい修行〜より納得できる人生と社会のために
ワークショップ―新しい学びと創造の場

中野民夫さんCD
自分の至福についていこう

(撮影/金澤美佳、編集/工藤瑞穂、企画・進行/工藤瑞穂)