【写真】公園の植え込みの前に立ち笑顔でこちらを見るにしむらよしあきさん

「誰かに話を聞いてもらった」ことで、自分の中に新たな気づきが生まれたことはありませんか?

私はライターという職業柄、聞き手に回ることが多く、話すのはちょっと苦手。でも不思議と「話せてしまった」という経験をしたことがあります。なぜか次々に言葉が出てきて、自分の素直な気持ちを言語化できてしまった時間。相手にアドバイスをもらったわけでもないのに、「私が言いたいのはこういうことだったんだ」と自己完結してしまったのです。

その“不思議”の謎が解けたのが、フリーランスのライターとして活動を始めた頃に参加した「インタビューのワークショップ」でした。講師は、著書『自分の仕事をつくる(2003年・晶文社)』を通して知っていた西村佳哲さん。

ワークショップの中で、きく側のあり方によって、話す側に「話せる・話せない」、「思考が深まる・深まらない」という大きな違いが表れてくることを体感しました。「話せた」と感じたときには相手への「きいてくれてありがとう」という感情が湧きあがり、逆に「きけた」「(相手が)話してくれた」ときは、ただただ喜びに満たされて。「きく」ということの豊かさと相手にもたらす大きな価値を味わい尽くす、かけがえのない時間を過ごしたのです。

そしていつしか、その中で捉え直した「きく」という行為を通して、私の目に映る景色は変わっていきました。

プランニングディレクター、『自分の仕事をつくる』著者、ファシリテーター等さまざまな顔を持つ西村さんですが、11年に渡って継続し、のべ400人もの参加者と共有している「インタビューのワークショップ」は、“一番納得感のある仕事”なのだとか。

かつて「働き方研究家」と名乗り、数々の著書を執筆してきた西村さんは、どうしてインタビューのワークショップをはじめたのでしょうか。また、「きく」ことのどこに面白さを見出し、長年に渡って探求を続けているのでしょうか。

それを解き明かすことで、私自身も体感している「きく」という関わりがもたらしてくれる豊かさを読者のみなさんと共有してみたい。

そんな想いを携えて、私は、同じく「インタビューのワークショップ」参加者であるsoar編集長・工藤瑞穂とともに、西村さんのもとへ。

西村さんの人生とともにある「きく」をめぐる冒険へ、一緒に出かけましょう。

西村佳哲(にしむら・よしあき)
1964年東京生まれ。リビングワールド代表。プランニング・ディレクター。つくる・書く・教える、大きく3つの領域で働く。2015年からは東京と徳島県神山町に居住し、一般社団法人神山つなぐ公社の理事の一人として「まちを将来世代につなぐプロジェクト」に携わってきた。2022年5月以降は東京を拠点に、プランニングやワークショップの仕事に力を入れている。著書に『自分の仕事をつくる』(2003年・晶文社)、『ひとの居場所をつくる』(2013年・筑摩書房)『一緒に冒険をする』(2018年・弘文堂)等。

「きく」には全体性がある

1月下旬、大寒波が訪れた東京・渋谷のまち。待ち合わせ場所に現れた西村さんは、とても穏やかな笑顔で街角での撮影に応じ、インタビュー場所でもリラックスした表情。インタビューの門下生とも言える私たちの緊張をほぐしてくださいました。

【写真】椅子に座りインタビューをうけるにしむらさん。テーブルをはさんで、ライターのいけだとsoar編集長のくどうが座る。

インタビューに際し、私たちが掲げたテーマは「『きく』という関わり、そこにある豊かさ」。11年続けてきて、今なおインタビューのワークショップを「本当に面白い」と語る背景にある物語を、西村さんの言葉で“きいて(※)”みたいと思いました。

※西村さんはワークショップや著書で「聞く」、「聴く」を「きく」と表現されていますので、この記事でも「きく」と表記します。

「ありがとうございます」と丁寧に前置きした西村さんは、ゆっくりと語り始めました。

自分にとって、「きく」ことで豊かになるというのは、今この瞬間に集中できるからなんですよね。過去はもう変えられないし、未来はまだ手が届かないわけで、私たちが力を発揮できるのは「今」しかない。「今」により集中しやすくなるということが、「きく」を軸に置いたときのよさだと思います。

こちらが「きこう」とすれば、相手も手探りで、「なんだろう、なんだろう」ってしゃべりながら発見していく。こちらはそこに、くっついていく。同じ相手でも全部変化しているし、この時間も本当に一回しかない。そこに集中できると全部新鮮だし、生きている甲斐があるというか。豊かで鮮やかになりますよね。

「鮮やか」という言葉に西村さんらしい言葉の響きを感じ、リピートすると、「うんうん」と西村さんは続けます。

なんとなく知っているぼやっとしたものじゃなくて、はっきりする。今ここにしかないこの時間、この関係ということになる。池田さんともこれまで何度もお会いしているけど、今の池田さんは本人の最前線にいて、そこに同じく最前線の私が出会っているわけで、初めてといえば初めての出会いなんだよね。そうやって「今」っていう気持ちになると、新鮮味が出てきて生き生きとしますよね。

『自分をいかして生きる』という本の中でも書いたけど、「生き生き」という言葉には「生きる」が2回出てきます。初めてのことをするときや全力で物事に接しているときは、みんな生き生きとしている。

でも全力でなくてもできることや馴染みのあることは、「まあ知ってる」「ただ生きてる」という感覚になりやすい。そっちの世界の方が重力があって、そうなると、生きていることの輪郭がちょっとぼやっとしてきて、「どうでもいい」という方に人生がちょっと揺れるんです。

「どうでもいい」の対極にある「どうでもよくない」という方が、生きている甲斐があるというか、そんな感じがします。

【写真】右手を動かしながら話すにしむらさん

「きく」ことで今この瞬間に集中しやすくなる。集中することで、世界が鮮やかになる。生きている甲斐がある。「きく」という行為には「全体性がある」と西村さんは続けます。

目が見える人にとって「きく」は結構「みる」と同時にあると思うんです。話す人は仕草や表情といった「話しぶり」も含めて、内容以上のことをしゃべっていますが、それは見ていないとわからないですよね。だから「きく」というのは同時に「みる」ことだし、ひいて言えば「感受する」ということですよね。

しゃべる側は、声帯を震わせて発声して、胸も動いていて、空気を振動させて、きく側の鼓膜が振動するけど、鼓膜以外のところにも何か伝わっていて。きいている側も、話の内容だけじゃなくて、声の響きも体と体という形で受け取っている。空間を共有しているわけです。

そうやって考えると、「きく」っていうのは同時に「みる」っていうことだし、響きを感じるということだし、ときには、相手が話していたことを自分の口の中で繰り返してみて「利く」ような味わい方をすることもあるわけですよね。

だから「きく」には全体性があると思っています。

【写真】椅子に座り笑顔をみせるにしむらさん

「描く」も「食べる」も、すべて「感受性」の話

西村さんの「インタビューのワークショップ」を受講した私は、ここまでの話を自然に受け止めることができました。そこではまさに、相手のすべてを「感受する」体験をすることができたから。

ここで少し、「インタビューのワークショップ」について触れてみたいと思います。

僕にとってインタビューとは、その人の案内のもと、ある自然の只中へ入っていくような体験で、執筆はその風景画を描く作業に似ています。

というメッセージから始まる、5泊6日(最近はコロナ禍を経て3泊〜4泊に適宜変更)。

相手を決め、話をきき、文章にまとめるという3段階で構成されるインタビューのうち、ワークショップでは主に2つ目の「きく」部分を中心に学びます。それは「絵を描く上で、描く能力以前に、どれだけ見て・見えているかが決定的だと思うから」と、西村さん。

5泊という長期に渡るワークショップでは、西村さん流の「きき方」のお話があり、それを心に留めつつ受講生がお互いにインタビューしあう時間がたっぷりと設けられています。インタビューを録音して気づきを共有し、お互いにフィードバックしあうワークも。その繰り返しの中で、「はなす」「きく」という行為を通してふたりの中で起こっていることをじっくり観察し、「きく」をめぐる探究を続けるのです。

「インタビューのワークショップ」での一コマ。期間中、参加者は二人でのインタビューを何度も重ねる(提供写真)

「インタビューのワークショップ」での一コマ。期間中、参加者は二人でのインタビューを何度も重ねる(提供写真)

「相手に関心を持ち続ける」こと、「先回りせずに相手についていく」こと、「相手の話を安易に了解しない」こと。ワークショップを通じて私が受け取ったものは計り知れませんが、その中心にはいつも「内容だけではなく相手の“感じ”を捉えながらきく」という軸が据えられていたように思います。それは「きく」ということの全体性を感じるワークでしたし、「きく」ことだけではなく、「感受する」ということを最大限に意識した時間でした。

ワークショップに参加しなくても「感受する」ことの豊かさを体感できる場として、西村さんは旅先の風景を描く「スケッチ旅行」を例に挙げます。そう思うきっかけは、西村さんがかつて取り組んでいた「サウンドバム(※)」でのことだったとか。

(※)1999~2006年にかけて西村さんが取り組んでいた、参加者を募って世界各地へ「音の旅」に出かけるプロジェクト。パイオニア(Pioneer)の協賛を得ながら年に3~4回のペースで継続していた。2017年に一度、西村さんは不参加ながら「復活編」が開催されている。詳しくはこちら

レコーダーを持って旅に出て、市場とかカフェの店先とか広場でレコーダーを回すんです。最低1分半。一緒にいる人も録っている間はさすがにしゃべらない。すると、きこえているようできいていなかったものが、どんどんきこえるようになってくるんですよ。風が吹いてきて梢の葉が鳴っていたり、鳥の羽音とか、お母さんに叱られている子どもの声とか。

このよさは、スケッチ旅行も一緒だなって。写真のようにパッと撮って終わりじゃなくて、しばらくずっとそこにいる。窓が開くというか、過ごした時間が丸ごと自分の中に入ってくるような体験。自分の目に見えているものをもう一回見ようとする中で、改めて発見していくものがその都度絶対あるんですよね。ああいう体験は、年齢に限らずいいものだなって思います。

「それは食べ方も同じ」だと西村さんは続けます。

みんな「何を食べているか」は意識するけど、「どう食べるか」の話はあまりしない。でも意識して何回も噛むと味も変わってくるように、食べるものも大事だけど食べ方が大事だなって。

すべて「感受性」の話なんです。

【写真】右手の人差し指をこめかみのあたりに当てながら話すにしむらさん

感受性の大切さへの気づきから、「きく」へ

感受性の大切さに西村さんはいつ気づいたのでしょうか。「自然な行為としてやっていた?」と問うと、「最初の気づきは中学生の頃ですね」と、西村さん。

中学校の修学旅行に行ったとき、同じ班の小林君が僕と同じカメラを持ってきていてね。「自分が撮った写真は粒揃いだ」という気持ちで帰ってきて現像に出して、仕上がったものを比べると、小林君の写真の方がいいんだよ。「どういうこと?」みたいな(笑)。

同じ場所に行って、同じカメラを使って、「なんでこの違いがあるのかわからない」っていうのが中学生の頃の私の感覚。でもそれって実は、「その人が何を見ているか」っていうこと。パッと目が止まった時にシャッターを切るわけで、それって感受ですよね。

その人の持っている感受性とか、物事に対しての心の動きとか反応とか、あるいは解像度とか。そういうことが結果としてアウトプットになってくるんだなってこと。その気づきの最初の経験が、小林君事件なんです(笑)。

【写真】笑顔でインタビューにこたえるにしむらさんと、ライターのいけだ

“小林君事件”の衝撃を体験した西村少年は、20代になり、大きな設計事務所に就職します。その頃よく旅に出た海外で、再び「感受」について集中的に考えることに。

パリの安宿に泊まったりしたわけですが、帰ってきて「旅の最中の自分はなんであんなに生き生きしているのかな」って考えるわけです。そうすると、やっぱり感覚が開いているからだなって。

知らない土地や空港に降りたら、「ここ、どういう場所?」って感覚を全開にしないわけにはいかないですよね。匂いもご飯も水の味も違うし、天候が1日の行動を左右するから、朝一番に窓の外の音をきくわけです。雨音がしているかとか、表の石畳を通る車がパシャって水を跳ねている音とか、ききにいってる。

そうやって感覚を開いて、開いて、開いているから、生き生きとする。でも日本に帰ってくると、満員電車だしお昼も会社で食べて外に出ないし、感覚が閉じていくんですよね。感覚を開いていると「生きている」って感じになるんだなってことを思いました。

確かに旅は新しいことの連続。旅の中では誰もが全身でその空間や時間を感受しようとしているのでしょう。そうして感受したものは、そのままアウトプットにも影響すると西村さんは続けます。

「センスいいよね」っていう表現もね、その人が着ている服とか書いている文章を指すことが多いけど、それってようは、その人が世界をどう感じているかということの結果なんですよね。アウトプットを指しているようで、実は「感受性がいいよね」って言っているんだよね。

【写真】両手で円をつくるようなジェスチャーをしながら話すにしむらさん

「アウトプットはインプットによって決まる」。30歳で会社を辞め、美大で教壇に立つことになった西村さんは、その気づきを授業にも活かしていきました。たとえば“ゴスロリ”や“ヘビメタ”のような、自分と趣味が違う生徒さんとの関わり方を考える中で、「アウトプットの評価は捨てる」と決断したのです。

その子たちはそれが好きだし、そのラインで自分を表現しているわけです。みんなそれぞれのものになろうとしているんだから、それをエンパワーすると考えたら、自分(西村さん)のものさしで測るのと違う関わり方をしないとなと。

そこで「それぞれが、まずものをつくる前にやっていることってなんだろう?」って考えたら、それは感受するっていうことだから、そこをサポートするような授業がいいんだなって。だからアウトプットの評価は捨てたんだよね。

真剣さや仕事量は見るけど、「こうしたらいいんじゃない?」っていうことはやらない。観察や仕事量を重ねることをサポートするような、中間支援を心がけるみたいな感じかな。

通常の美大の授業でも、最初は観察や基礎デッサンの授業もあるものの、徐々にアウトプットの技術の方に授業の比重が移っていくのだとか。でも西村さんは、技術の前の感受の世界にテコ入れしていくことを試みてきたそう。

30代の半ば頃には、映像作家の作品をたくさん見たり、写真家の作品を比べてみたり、見えているものの違いについて集中的に考えるようになって。その頃考えてきたことが、「きく」という流れにつながってきたんです。

「きく」側と「話す」側、双方に起こる「冒険」

「感受性」をめぐる考察から、「きく」を意識するようになったという30代の西村さん。「働き方研究家」と名乗り、インタビューワークを積み重ねていきました。最初に研究成果としてまとめたのが、2003年、西村さんが38歳のときに書き上げた著書『自分の仕事をつくる』(晶文社)でした。

10年後、2013年の著書のタイトルは『ひとの居場所をつくる』(筑摩書房)。

「自分」が「ひと」になって、「仕事」が「居場所」になった。それがこの10年間の自分の変化なんだなって捉えています。

そして最近の著書『一緒に冒険をする』(2018年・弘文堂)は、さらに一歩先だと西村さんは言います。「自分→ひと→一緒に」、そして「仕事→居場所→冒険」という変遷。著書の中にも「インタビューは目の前の人と出かける小さな冒険」と語られています。

この「冒険」という言葉に私は西村さんの最前線を感じ、その捉え方についてきいたところ、「以前知人に聞いた冒険教育の話が印象に残っていて」と西村さん。

【写真】テーブルをはさんで座るにしむらさんとライターのいけだ

冒険教育。私にとって、初めて出会う言葉です。

西村さんによると、「冒険教育」は野外というフィールドを使って、野外生活術を教えるのでもなく、“ちょっと別のこと”を取り扱うそう。

文献を調べてみると、発祥はアメリカで、「自然環境の中で行われるストレス経験に基づく教育的活動」、「自然環境における冒険的な活動経験や、それに伴う親密な小集団での諸活動を通して人格の発達を図る教育」といった説明が見つかります。また、近年は自然環境以外にも広がりを見せており、広義には「冒険が内包する達成感や成功体験、楽しさ、自己との対峙、葛藤、至高体験などの要素を利用した教育手法」といった意味でも使われていることがわかりました。

国内外で青少年の社会更生プログラムにも導入されており、登山やスキューバダイビング、雪上キャンプやラフティングといったハードな体験をチームで乗り越えることで人への信頼を取り戻し、プログラム終了後、子どもたちの再犯率は下がるというデータもあります。

これだけでもとても興味深い話ですが、西村さんが着目したのは、その冒険教育における成長概念です。

人間には「コンフォートゾーン」という、馴染みがあって安心できる空間があるといいます。多くの場合はそれが家庭だったりお母さんとの関係性だったり、あるいは飼い犬やおばあちゃんや近所にある木だったり。自分が安心していられる場所をみんな持っています。

冒険というのは、そのコンフォートゾーンから外に一歩足を踏み出してみること。ダメだったらまた戻って、機会があったらまた踏み出して、また戻って。でももう一度踏み出したとき「ここにいられるな」って感じたら、そのとき自分のコンフォートゾーンが膨らむ、広がるんですよね。

これが冒険教育における「成長」だと。めっちゃ素敵って思って。

【写真】両手を広げながら笑顔で話すにしむらさん

単に何かができるようになるだけじゃなくて、自分が安心して、「いていいんだ」って思える領域が広がっていくことが人間としての成長だとしたら、その成長はとてもよいことだなって思えるんですね。それが仕事を通じて、たとえば小さな会社が、ちょっと踏み出したり、戻してみたりしながら、でも自分たちが安心して活動できる領域が社会の中で大きくなっていくのもとてもよい成長だなと思う。

でもそれもすべて最初は「冒険」から起こっているんだよね。だから僕が使う「冒険」という言葉には、仕事というものがそうあってほしいなっていう気持ちと、人の成長ってなんだろうなっていうことと、両方の意味が含まれているんです。

この成長概念に関しては、2児の親である私にとっても希望の持てるものでした。子どもを弱いものや足りないものとして見てそれを補うように寄り添うよりも、「安心できる領域が広がる」ような環境づくりをする方が、成長において子どもと分かち合う喜びも大きくなりそうです。

そしてそのような喜びを伴う「冒険」は、インタビューの中でも双方に起こっている、と西村さん。

「きく」ということは、相手が話すことを可能にするということ。みんな、話の内容を知的に理解することが「ちゃんときく」ことだと思っていると思うんだけど、そうじゃない。その内容の周りに仕草とか表情とか色々なものがあって、きき方によってその表れ方も変わってくる。

それは「引き出す」というようなことではなくて、その人の中から生まれて来うるものが来られるようにするということ。別の言い方をすれば、「その人が小さな冒険をするのを可能にし続けること」なんです。それをきく側と話す側がお互いにやりながら、一緒に冒険をするようなことだと思うんです。

【写真】インタビューにこたえるにしむらさんの後ろ姿と、話をきくライターのいけだ

「はなす」側からすると、自分の話を受け取ってもらえるかわからないという不安を抱きながら、ちょっとした冒険をする。一方の「きく」側は、相手からどんな話が出てくるかわからない状況の中で、「自分がキャッチできるかな」、「質問が相手にとって失礼じゃないかな」という気持ちで関わる。

そんなふうに「お互いが冒険している」インタビューにおいて、ふたりの関係性はどのように変化するのでしょうか。西村さんにとってよいインタビューとは?

お互いに冒険をする、つまりお互いにコンフォートゾーンからちょっとずつ外に出ている状態になって、「ここで話し続けられる」「きいていられる」ということがしばらく続くと、それまで自分の中と外という感じだった領域がぷるんとひっくり返って大きな輪っかになる。ふたりが同じ場所にいる感覚になる。

そういう感じになれるインタビューが一番いいなと思っています。「いい時間だったね」「今日はよかったね」って。そういうとき、インタビューにこたえていた人が「今日はうまく話せなくて」と言うことがあるけど、逆に言えば、どう話していいかよくわからないことを話してみることができたっていうことかもしれないよね。その、ぷるんってなって一緒にいる状態って、別の言い方をすると、一緒に湯船に浸かっているみたいな感じかな。

あれ、この湯船の例えってあまりよくないかな?(笑)

【写真】満面の笑みで話すにしむらさん

でもね、「インタビューのワークショップ」はそれをみんなでやっている感じなの。それぞれ個別の存在なんだけど、何日か一緒に過ごしていくとだんだん大きなお風呂を形成しているような感じになってくる。

ポイントは、「だよね」っていう感覚を一緒に経験しているということ。イベントで言えば、終わってもみんながなかなか帰らなくて「この場所にいたい」っていう感じになるように、「このお湯から出たくない」ような気持ちになっているのがいいんだよね。

「感受性」から、もう一回自分をリブートするために

ワークショップ参加者のみなさんと、まるで湯船に浸かるような時間をともに過ごし、「きく」という関わりの豊かさを伝え続けてきた西村さん。2015年からは徳島県神山町に移り住み、まちに関わる仕事をするようになりました。「神山つなぐ公社」を立ち上げ理事に就任し、創生戦略「まちを将来世代につなぐプロジェクト」を書き、まちの課題に向き合い、日々奔走してきました。

そんな中でいくつかの要因が重なり、西村さんが自分の進退を考え始めたのは、2019年頃のこと。その頃の西村さんは、「自分から離れている」という感覚を抱いていたのだとか。

「やりたい」ことと、「できる」こと、「するべき」ことの3つが重なったところで人は一番力を発揮できると言いますが、そのときの僕は、「やりたい」はほぼ無くなっていました。「できる」と「するべき」で一所懸命自分を作動させている状態が、最後の2〜3年続いちゃって。もう一回「何がしたいんだっけ?」っていうところを感じ直さないと自分が再生しないなって感じていたんです。

その頃、「自分が何を感じているか」というところに戻って、たとえば「食べているものもちゃんと味わっていないな」って。感受性というところから、もう一回自分をリブートしなくちゃねっていうのが、この2年間くらいのことだったんです。

【写真】右手でジェスチャーをしながら話すにしむらさんの横顔

2022年5月、西村さんは神山町から、元々暮らしていた東京へ住まいを移しました。そしていくつかの組織の仕事と関わりながら、個人の仕事としてやろうと思ったのは、やはり「インタビューのワークショップ」でした。それも、「“思う存分”やろう」と。

インタビューのワークショップは、一番納得度が高い。本当に矛盾がない。自分もいいなって思えるし、終わってからのみなさんの様子やその後の参加した人との関係性を含めても、いいなと思えているのね。

以前は忙しく働いている合間に遠慮がちにやっていましたが、数日やってもその間に貯まってしまう仕事があまりない今のうちに、思う存分やろうと。

西村さんは以前、「思う存分」やるのが怖かった時期があったと言います。

飽きちゃったらどうしようって思った時期があったんです。これだけ納得感のある仕事なんだけど、頼まれてやっていることではないので、飽きちゃったらできないから。自分にとって大事なことだから、飽きたくない。

でもそう思いながらやっていたら、あるとき「これ飽きないんじゃない?」って思い始めて。頭では怖がっているけど体がそんなに怖がっていない感じがあった。そう感じ始めた頃にコロナ禍になって、「もうできないかも」と思った一年半後に「オンラインでできる」って気づいて、その形でやって再発見したこともたくさんあって。

それをきっかけに「思う存分やってみよう」と思い始めたのが、6月。夏頃には「飽きようがない」ことに気づいたそう。

開催するたび参加している人が違うんだから、飽きようがないんだってことがわかって。この間、参加者の方から「最近すごくインタビューのワークショップをやっていますよね」って言われて、僕はそのときに「飽きたら次のことをやりゃいいし」って、つるんとしゃべった。そういうところまで来たんだなって。

次のことが見えているわけではない。でも、握りしめていない。そんなところが、インタビューのワークショップの最前線なんですよね。

【写真】右手を使いながら笑顔で話すにしむらさん

「話す」を知ることで、「きく」を深める

自分自身の感受性に立ち戻り、一番納得感のある仕事であるインタビューのワークショップを思う存分やろうと決意した西村さん。今は「話す」ということの面白さにも関心を寄せています。

「きく」ことをしていると、目の前の人にとっては「話せる」ことが実現していくわけです。計測ポイントはきけているかいないかではなく、目の前の人が話せているかどうか。意識を全部そっちに振った方がいいはずで。

そう思うと、人にとっての「話す」ということや、「話すときに何が起きているのか」ということについて、もっと理解している方がいいんだって思ってきたんです。私たちは、話していると自分で「あ、わかった」って言っちゃうこともあって、「それってなんだろう?」ってね。

西村さんが関心があるのは、プレゼンテーションのように多くの方に向けての「話す」ではなく、一対一のインタビューで自分自身の声をききながら外向きに表現することを可能にする話し方。それは「自分の声で話すということ」に大きな価値を感じているからなのだとか。その価値を確信したのは、「パーソン」つまり「個人」という言葉の語源として「ペルソナ」というラテン語について調べていたときだと言います。

「ペルソナは仮面であっていくつかある個人性の一つでしかない」「複数の自分がいる」って話をする人がいるんです。でも僕は「そうかな?」って思ってインターネットで語源を調べてゆくと「仮面」を語るものの中に「仮面の奥からきこえてくる声」と書かれているものがあった。「それ!!」って思って。

【写真】インタビューにこたえるにしむらさんの後ろ姿と、テーブルの向こう側に座るライターのいけだとsoar編集長のくどう

それは「パーソナリティ」の話だと西村さんは言います。「なぜラジオで話す人が自分のことを“パーソナリティ”と言うのかわからなかった」という西村さんですが、あるラジオパーソナリティの方のインタビュー記事を読んで気づきを得たそう。

ラジオ局から「話し方を変えてくれませんか?」って注文が入り始めたことがあって、それが発端となって退社したそうで。その方は、「私には私の声がある」、「違う声でしゃべってくれと言われるのは、あなたじゃなくていいと言われていることだ」、「でも私はパーソナリティなんです」って話していたんだよね。

それをきいて、自分の声でしゃべるということが、自分自身であり自分の表現なんだ、そのことをパーソナリティって呼んでいたんだって思って。

【写真】円を描くように両手をあわせるにしむらさんの手

「自分の声でしゃべる」ないし「自分の言葉で話す」ことは、西村さんがインタビューのワークショップを始めたきっかけにもなったことでした。その前に開催していた働き方に関するワークショップで目にしたある光景に、続けることが難しくなったのだとか。

時間の経過の中で、参加者のみなさんが、私がしゃべった言葉を自分が考えていた言葉みたいにブンブン振り回している様子をみて、「あれ?」って思って。本当は自分の言葉でしゃべるということが、本人が自分の人生を生きていくということの一番簡単な出発点なのに、仕入れた言葉で自分を表現している。俺はなにをしているんだろうって思ったら、できなくなっちゃったんですよ。

自分が話した言葉で語る参加者たちの姿に感じた違和感。そして西村さんは、インタビューのワークショップを始めました。

自分の言葉でしゃべるということ、さらに自分の声でしゃべるということが可能になっていたらいいなって思うんですよね。私も身に覚えがあるんですけど、「この人に気に入られたい」とか、自分に対して影響力を持っている人の前で緊張感を持ってしゃべっているときに、声が少しひっくり返っていたり、早口になっている自分に気づいてハッと恥ずかしくなるというか。そういうときって、自分から離れているんだよね。

逆に、話しながら「これは本当に自分のことだな」と感じている人は、自分の声をきいているんですよね。自分の響きを感じている。頭にあるときはまだよくわからないけど、しゃべってみて、別の言い方をすると歌ってみて、変だな、フィットしないなって感じがすると、「というか」ってもう一度言い直す。話しながら、リアルタイムで自分を再確認して、デッサンのように線を何本も書いて自分の輪郭をはっきりさせていく。

人が話しながら何をしているのかということについて理解があれば、いつも「この人は何かをしている最中なんだ」「この人はこの後いくらでも変わっていく可能性がある」という気持ちできくことができるし、よりフィールドを広く保ってきけるのではないかと思います。耳を傾けてくれている人がいるから、その力も手伝って、自分の中の声に耳を澄ましやすくなって、そこできこえてきたことを表現しやすくなるということなので。

よりよく「きく」ために「話す」について探求し始めた西村さん。「きく」をめぐる冒険は続いていくのです。

【写真】コップに入った飲み物を左手に持ちながら笑顔をみせるにしむらさん

自分も周りも、生き生きとあるために

感受性のこと、互いに冒険するということ、そして自分の言葉で話すということ。西村さんの「きく」をめぐる冒険の歩みは、私の想像以上に長く深く、ときに険しく、それでもまだまだ「ついていきたい」と感じさせてくれるものでした。

それはライターとしてではなく、一人の「ひと」として抱いた感情。西村さんから受け取った言葉たちは、インタビューの場のみならず、日々の暮らしのあらゆる場面で私の中に深く息づいていくでしょう。

中でも強く心に残ったのは、「相手が自分の言葉で話せるかどうか、冒険ができるかどうかを決めるのは、きく側の感受性」だということ。西村さんの数々の体験談から、自分自身の感受性を豊かに保つことが、周りの人々の「自分自身」を照らすことになるかもしれない。そんな「きく」ことの果てしない可能性を感じた2時間でした。

【写真】左からsoar事務局こうの、にしむらさん、ライターいけだ、soar編集長くどう。4人でソファーに座り笑顔をみせる

インタビューの翌朝、私はサワサワと風に揺れる街路樹の音をきき、布団の中でゴソゴソと動く息子の温度を感じ、窓を開けると、前日よりも少し生ぬるい温度と潮の香りを感じました。私自身の最前線が今ここにあると思うと、世界が少し、違って見えたのです。

そしてその開いた感受性が、周りの人々の「自分自身」を生き生きと照らすことになるのなら、私は大いに「きき」続けたい。その行為は間違いなく、私自身の人生も豊かにしてくれるのだから。

あなたは今目の前の世界から、何を受け取っていますか?

【写真】路地で水筒の飲み物を飲みながら笑顔をカメラに向けるにしむらさん

関連情報:
西村佳哲さん著書
自分の仕事をつくる
ひとの居場所をつくる
一緒に冒険をする

インタビューのワークショップに関する情報は、西村さんのウェブサイトとtwitterでご確認ください。
リビングワールド ウェブサイト
西村佳哲さん twitter

(撮影/金澤美佳、編集、企画・進行/工藤瑞穂)