赤ちゃんがお腹の中にいる時、私は「とにかく五体満足に生まれてきてくれれば……」と願っていたのをよく覚えています。勉強やスポーツができなくてもいい。とにかく健康に生まれてきてほしい……。
それは子どものことを想う、愛に満ちた願いのようにも見えます。しかし、その裏にあったのは「もし障害のある子が生まれてきたら、その先の私の人生は子どものケアに捧げなければならないのだろう。それはきっとハードな日々に違いない」という不安でした。
私がそんな感情を抱いていたのは、障害のある子を育てている人の声を聞いたことがあったからです。
「私が死んだらこの子はどうするのだろう」「私が死ぬ時は、この子も連れて行きます」
そんな発言を耳にするたび、障害のある子を育てる人生は途方もない茨の道に感じられました。
しかし、あるyoutube番組で、パーツモデルで美容家の金子エミさんとダウン症スイマーである息子のカイトさんの姿を見て、私の先入観は大きく変わりました。
カイトさんは世界ダウン症水泳選手権トルコ大会で獲得した背泳ぎ50mの銅メダルを胸に出演
カイトさんはにこやかにおだやかに、ときにユーモアたっぷりの言葉で場を和ませます。金子さんは言葉だけでなく、ちょっとした仕草などからもカイトさんの心を感じ取り、常に尊敬と新鮮な感性をもって、カイトさんと接しているように見えました。
金子さんとカイトさんとの間にあるのは、言葉だけに頼らない、愛に満ちたコミュニケーションです。お二人のやりとりを見ていると、金子さんがどれほど満たされているかは一目瞭然でした。
金子さんは母親として、カイトさんといかに向き合ってきたのか、そしてカイトさんと関わる中でどのような価値観を持つようになったのか、お話をうかがいました。
体操でオリンピックを目指していた活発な子ども時代
お話をうかがっていると、こちらまで元気になってくるくらい「元気溌剌」という言葉がよく似合う金子さん。20代からパーツモデルとして第一線で活躍してきたほか、オリジナルのパーツケアの手法が注目を集め、美容家としてテレビに出演したり、著作を出版したり。さらには、ネイルシールの事業で成功をおさめた事業家としての顔も持っています。
仕事も子育ても全力投球の金子さん。元気いっぱいなのは幼少期からで、体を動かすのが好きな子どもだったのだそう。
とにかく活発な子どもでした。母は私にピアノを習わせようとしたこともあったんだけど、じっとしているのが向いてなかったみたい。それで、5歳のとき、母に近所の体操教室に連れて行かれたのが体操を始めたきっかけです。
体操を楽しいと感じた金子さんはめきめきと頭角をあらわし、小学4年生のときにオリンピック選手を何人も輩出してきた名門クラブのテスト生に合格しました。
当時は1年のうち363日練習があり、休みはたったの2日だけ。中学生になるタイミングで練習場に近い学校に越境入学し、授業が終わったら練習場へ直行するという、まさに体操漬けの日々を送ります。
自分の置かれた環境で、世界を目指すことの難しさ
最初は「楽しい」という気持ちから夢中になった体操でしたが、トップレベルの中で切磋琢磨する中で、金子さんの前に様々な壁が立ちふさがります。
体操自体は好きで楽しかったんだけど、選手として世界を目指すとなると、苦しいことの方が多いよね。
私は全日本選手権で、種目別だと2位、総合では7位。全日本の上位を独占するようなクラブで練習していると、選手としての自分の限界も見えてくるし、オリンピックのタイミングも私の選手としてのピークに合わないことがわかって、どうしても「いける!」っていう気持ちになれなかったのが、体操を辞めた理由の一つです。
しかも、当時はプライベートも複雑な状況にありました。両親が離婚し、金子さんは父親と暮らすことに。その後、金子さんは栄養不足による体調不良で練習中に倒れてしまいます。
女子の体操は体重管理がシビアで、食事の管理が難しいんです。父は私のことを目に入れても痛くないくらいにかわいがってくれていたんだけど、朝から晩まで仕事で忙しくて。そんな父に私の食事の栄養管理まで求めることはできないよね……。
自分が大人なら、体操を続けるために環境を変えるっていうこともできたかもしれないけど、私はまだ子どもだったから、与えられた環境の中でやるしかなかった。自分が置かれた環境で世界のトップを目指していくというのは、すごく難しいと思いました。
結果的に体操からは離れることになりましたが、全身全霊をかけてスポーツに打ち込んだ経験は、金子さんの人生に大きな影響を与えることになります。
体操で培った度胸と集中力で、パーツモデルとして大活躍
体操は辞めたものの、もともと体を動かすことが好きだった金子さん。将来を模索する過程で、エアロビクスのインストラクターを目指して学校に通い始めました。ところが、そのタイミングで思わぬところから新しい道が拓けていきます。
父親の経営するクリーニング店のお客さんに手が綺麗なことを褒められたのをきっかけに、金子さんはパーツモデルの道へ足を踏み入れることに。モデル事務所に所属すると、オーディションで次々に仕事を得ていきました。
この仕事で、金子さんが体操で培った集中力や、大舞台で演技してきた経験が存分に発揮されることになります。
パーツモデルってズームアップで撮られるので、1mmでもズレたら画面から外れちゃうような、緻密な職人技みたいな感じなんですよ。しかも、手って緊張すると震えるし、精神状態が出やすいんです。
当時、コマーシャル撮影には100人近いスタッフがいて、ものすごい緊張感でした。その緊張感に耐えられない人も多いんだけど、私は体操の試合で大勢の人に見られながら一発勝負の演技をする経験を積んでいたおかげで、わりと平気だったんです。
やがて、スタッフの間で金子さんの評判が広まり、5年間のうちに100本近いオファーが入るほどの売れっ子モデルに。また、ネイルシールの事業も立ち上げ、順調にキャリアを重ねていきました。
我が子がダウン症だと知った瞬間「私の人生、終わった」と思った
仕事が絶好調だった26歳のとき、金子さんは結婚し、翌年に第一子であるカイトさんを出産しました。
待ち望んだ我が子との対面は、人生の中でも喜びに満ちた瞬間のひとつのはず。ところが、生まれてきたカイトさんの顔立ちを見たとき、ある考えが金子さんの頭をかすめます。
「もしかして、この子はダウン症なのでは……」
顔のかたちや目を開けたときの印象が、ダウン症の同級生に似ていると感じたのです。カイトさんの誕生を喜ぶ家族や親戚を尻目に、金子さんはモヤモヤした気持ちにとらわれていました。
看護師にたずねても言葉を濁され、この時点ではまだ医師から診断が下りたわけでもありませんでしたが、金子さんは「きっとこの子はダウン症なのだ」と察します。
妊娠中にお腹が大きいときにも撮影に行っていたほど、仕事が大好きでした。でも、ダウン症の子どもを育てるにはモデルの仕事もあきらめなきゃと思って、マネジャーに「辞めます」って伝えたんです。「私の人生、終わった」というくらいに思い詰めていて。そしたら、マネージャーは「仕事を辞めることはいつでもできるから」と言って、籍を置いたままにしてくれました。
しかも、「私の親戚にもダウン症の子がいるけど、普通の子と変わらないわよ」って言うんです。その言葉があまりにも意外で衝撃的で。ダウン症って聞いたら、多くの人は“普通”だとは考えないじゃないですか。ほとんどの人が「そうですよね、大変ですよね」って言って、辞めることを受け入れると思うんです。もし、マネージャーが別の人だったら、私はあの時点でパーツモデルの仕事をあきらめてたんじゃないかな。
マネージャーの言葉に勇気づけられたものの、その時点の金子さんは、目の前の息子をまだ「普通」とは思えずにいました。
そんな中、カイトさんは鎖肛(肛門が生まれつきふさがっている状態)のため、急遽大きな病院で手術を受けることに。手術は無事に成功し、約1カ月の入院期間を経て、いよいよ自宅での育児が始まりました。
この頃には、カイトさんがダウン症であることを医師から告げられていました。
ダウン症は正式名称をダウン症候群といい、染色体の突然変異が原因の疾患で、心臓や呼吸器、消化器系の合併症が見られることがあります。ダウン症の子どもは総じて筋力が弱いため、ミルクを飲む力も弱く、身体の成長も知的面での発達もゆっくりです。
カイトさんはあまり泣かない子で、手がかからなかったのだそう。それでも、乳児のお世話に明け暮れていると1日はあっという間です。日付や曜日の感覚もなくなるくらいに育児に追われるうちに、カイトさんは生後3カ月を迎えていました。
同じくらいの月齢の赤ちゃんに比べて、カイトさんは表情が乏しいのではないかと思っていた金子さん。そんなある日のことです。何気なくカイトさんに目を向けた瞬間、カイトさんが初めて笑顔を浮かべていることに金子さんは気づきます。
「かわいい!!」
育児に追われて心の余裕を失っていた金子さんが、カイトさんのことを初めて“かわいい”と感じられた瞬間でした。
ダウン症について調べようと本を読むと、書かれているのは不安になるようなことばっかりなんですよ。野生の動物は本を読まなくたって立派に子どもを育てているわけじゃないですか。だから、情報に振り回されるのはもうやめよう、と。私はモデルだし、おしゃれに楽しく子育てしていこうと気持ちを切り替えました。
仕事への復帰。そして手探りでの子育て
産後9カ月が経った頃、金子さんにパーツモデルの仕事に復帰する機会が訪れます。「30分ぐらいで終わる仕事があるからやってみる?」とマネージャーから打診があったのです。
当時、金子さんが開発したネイルシールの事業は大成功していて、全国300店舗で販売していたほか、海外有名ブランドのネイルシールも手がけるようになっていました。その仕事に復帰しようと保育園への入園も決まっていたことが、モデル復帰の決断を後押ししました。
いざ撮影で現場に入ったときに、カメラのパシャ、パシャ、っていうシャッター音を聞いて、「やっぱこれだよな、辞めたくないな」って思ったんです。その時、カイトを育てながらでも、パーツモデルはできる限り続けていこうと決めました。
一方で、撮影現場では10時間以上待たされ、出番は最後にワンシーンだけ撮影するというケースも。「かわいいわが子を保育園に預けてまで、何をやっているんだろう……」という気持ちになることもあったのだそうですが、そんな葛藤を抱えながらも、金子さんは全力でカイトさんと向き合いました。
ダウン症の子どもの多くは、言葉の発達がゆっくりです。おしゃべりができるようになってからも、単語をはっきりと発音できなかったり、助詞を使って文章をつくるのが難しかったりという特徴がみられます。
金子さんはカイトさんとコミュニケーションをとる上で、言葉だけに頼るのではなく、カイトさんの様子をよく観察して、理解していきました。
カイトさんはおとなしい子どもで、家でも保育園でもニコニコと機嫌よく過ごしている時間が多かったといいます。マイペースで物怖じすることもなく、泣き叫ぶこともない。いつまでも同じ場所でにこやかに座っている。金子さんはその様子をカイトさんの“個性”と捉えました。
今思えば、仕事に復帰して子育てとの距離が適切にとれるようになっていたからこそ、カイトの障害を“個性”と捉えることができたのかもしれません。もし仕事をしていなかったら、子育てにのめり込みすぎて、ちょっとしたことも過剰に気にしすぎていたかも。
あるとき、カイトさんが保育園に行くのを渋った日がありました。朝、玄関で靴を履こうとしないため、金子さんは保育園で何かあったのかと気になったものの、自身は仕事があるので、無理にでも連れていくしかありませんでした。このまま保育園への行き渋りが続くのかと思いきや、別の日には自らうれしそうに靴を履き、ご機嫌で出かけることができたのです。その様子を見て、金子さんは気づきました。
カイトは保育園に行くのがいやなのではなく、自分の好きな靴を履いて出かけたかったんです。お気に入りの靴を玄関に出しておくと、ご機嫌で出かけることができました。他にも、ドアを開けたら自分が1番に外に出ないとだめとか、ごはんは自分が1番によそってもらわないといやなど、様々なこだわりがありました。
徐々にカイトさんのことを深く理解できるようになり、子育てのペースをつかんできた金子さん。30歳という節目の年に自治体から送られてきた子宮がん検診のお知らせを見て、「きっと自分は大丈夫だろう」と思いながらも、軽い気持ちで検査を受けることにしました。
すると、子宮の入り口に異形成が見つかります。がん化する恐れがあり、医師からは円錐切除をすすめられました。
カイトさんのためにも病気は治さなければなりません。しかし、円錐切除すると早産のリスクが高まります。果たしてこのまま手術に踏み切ってよいものか。いずれまた子どもを産みたいと考えていた30歳の金子さんにとって、非常に悩ましい選択でした。
当時、金子さんの夫は仕事を辞めて、金子さんのネイル事業を手伝っていました。育児に積極的なことをありがたいと思う一方で、金子さんは息子だけでなく夫の人生までも背負っているような気持ちになってしまったといいます。
仕事、子育て、自身の病気……。様々なことが重なり、金子さんは意を決して「これからは一人でやっていきたい」と夫に告げました。2001年、話し合いの末に離婚することを決め、金子さんがカイトさんの親権を持つことになります。
シングルマザーだから、子育ては100%自分がやらなきゃいけないじゃないですか。30代前半の頃は、キッチンでよく泣いてましたよ。「なんで私ばっかりこんなに大変なの」って。今思えば、仕事は“やりたい”と思ってるし、子育てもしっかり“やりたい”。「やらなきゃいけない」ことをやっているんじゃなくて、「やりたい」ことをやって生きてるだけなんだけどね。
複数の病院で診断を受けた結果、治療については病変を焼く方法をとることになりました。闘病しつつ、シングルマザーとして子育てをする日々の中で金子さんの支えとなったのは、現在の夫となる男性です。カイトさんのことも、病気のこともすべて承知した上でのプロポーズを受けた金子さんは、自身の病気が回復するのを待って2004年に再婚。そして、次男のリオさんが誕生しました。
小学1年生だったカイトさんは弟の誕生を喜び、ミルクをあげたり、オムツをかえたりと積極的にお世話をしたのだそう。のちに、この弟リオさんの存在が、カイトさんを水泳の世界に導くことになります。
子どもの目が輝く瞬間を捉えて、全力でサポートする
カイトさんが水泳と出合ったのは、11歳のとき。弟のリオさんが通い始めたスイミングスクールで、金子さんが障害児クラスを見つけたのがきっかけでした。いざ参加してみると、幼少期から家でも水遊びが好きだったというカイトさんは水を怖がるそぶりも見せず、すぐに水泳を楽しむようになります。
水泳を始めてから3年が経とうとする13歳のとき、カイトさんは「日本知的障害者選手権水泳競技大会」に参加しました。世界ダウン症水泳の代表選手の泳ぎを目の当たりにして圧倒されつつも、タイムをあと4秒縮めれば世界大会に出られると知った金子さんは、カイトさんを全面的にサポートすることを決めます。
プールへの往復3〜5時間の運転と、練習2時間の付き添いを週に5〜6日。母子二人三脚で水泳に打ち込む日々には、金子さんが体操で世界を目指していた経験が存分に発揮されることになります。
体操って、例えば2回宙返りをする一瞬の中で、どうすればよい演技になるかを細かく考えるんですよ。それと同じように、カイトの水泳も「どうしたら速くなるのか」っていうのを分析して考えて、一緒に練習していました。
私自身がオリンピックを目指して頑張った経験があるからこそ、今、水泳に打ち込むカイトの気持ちがよくわかるんです。世界を目指してスポーツをするのはどういうことなのか、その大変さも十分にわかった上で支えてきました。
そんな金子さんのサポートを受けて、カイトさんはタイムを縮めていきます。国内の大会で数々の日本チャンピオンの称号を手にしただけでなく、徐々に世界でも活躍するように。2018年には世界ダウン症水泳選手権カナダ大会では、背泳ぎ50m・背泳ぎ100m・男子200mメドレーの3種目でアジアレコードを樹立しました。
コロナ禍には自宅に仮設プールを設置して練習をするなど、さまざまな困難な状況に直面しても弛まぬ努力を続けてきたことが実を結び、2024年の世界ダウン症水泳選手権トルコ大会(長水路)背泳ぎ50mでは日本男子初の銅メダルを獲得します。
日々の練習のための送迎などにより、金子さんの自家用車の走行距離は6年間で14万キロに達しました。
この間、プールへ向かう車の中で、カイトが「すみませんね、すみませんね」って言うの。「何で謝ってんの?」って聞いたら、「すみませんね。もう、頭、白髪……」とか言うわけ。私、実は髪の毛が白髪で真っ白なんですよ。
多分、後部座席のカイトから見ると、白髪が丸見えになってたんだろうね。運転して、どんどんおばあちゃんになっていっちゃってると思ったんだろうな、きっと。
先日、車を買い替えに行ったときには、カイトが運転席に座ろうとしたんです。「僕が運転しますよ」とか言って。カイトは免許ないんだけどね(笑)。
ダウン症であるカイトさんとのコミュニケーションのあり方
金子さんとカイトさんとの会話は、お互いに言葉以外の情報を丁寧にすくいとっているように見えます。それを金子さんは「お互いに心を見合っている」と表現します。
子育てをしてきた中で、私は成長してないのよ、本当に全然(笑)。たぶん家族もそう思ってるんじゃないかな。でもね、カイトのことはよく見てます。だからもう、泳ぎのひと掻きひと掻きを見ても「今こんな気持ちで泳いでるな」っていうことがわかる。お互いに“心”を見合っていて、言葉がいらないんです。
言葉を超えたコミュニケーションは、カイトさんと弟のリオさんの間でもおこなわれています。リオさんが思春期に差し掛かった頃、金子さんとリオさんの間で言い争いになることがあったのだそう。
私とリオがリビングで口論していると、どうしても自室にいるカイトにも言い争っている声が届いてしまうんです。リオは私と揉めた後に何をするかっていうと、真っ先にカイトの部屋に行くんですよ。それで、ただニコッと笑って帰るらしいんです。笑顔を見せることで、カイトに「大丈夫だよ。心配ないよ」って伝えてるんだと思う。
そのことをカイトが私にこっそり教えてくれたりするわけ。「リオくんね、今日ね、お部屋にね、笑顔で来たんです。笑ってくれたんです」って。
金子さんは二人が兄弟喧嘩をしている姿を一度も見たことがないといいます。
うちの場合、弟が兄を追い越していく瞬間があるわけじゃないですか。身長も、かけっこも水泳も。そうやって追い越されることに対して「なにくそ」っていう感覚がカイトには全然ない。その度に「すごいね、リオくんはえらいよ、かっこいいよ」って言うんです。
カイトは心の底から弟のことを「かっこいい」と思っているんですよ。そういう対応をされ続けていたら、けんかになる余地なんてないよね。
苦しい思いをしても、誰かを恨まない。カイトさんに教わった人を「赦す」ということ
元気いっぱいの金子さんや、おだやかにほほえむカイトさんの姿を見ると、二人の歩んできた道はずっと順風満帆だったかのように感じてしまいます。しかし、これまでには苦しい思いをした日々もあったのだそう。
カイトはいじめられていた時期があるんですよ。親としては、自分の子どもがいじめられているのを知ると、はらわたが煮えくりかえるような気持ちになるじゃないですか。「相手にガツンと言ってやろうか」って思うこともある。
だけどカイトはそんな私を見て「あんた、そこに愛はあるんか?」って、ユーモアたっぷりに言ってくるんです。私が相手に文句を言ってやろうかと思っていると、シーって手を口に当ててサインをしながら、「ママ、言うな。僕は大丈夫だから」って止めてくるんですよ。
そういうカイトのあり方って、本当にすごいと思うんです。ひどいことをされて苦しい思いをしても、相手のことも恨みもしないし、いじわるしてくる当人に会ったときにも「こんにちは」って笑顔でハグしたりする。親としては「おいおい、ハグしてる場合じゃないよ!」と思うんですけど、そんな風にされたら、相手も降参ですよね。「人を赦す」っていうことを、私はカイトに教えてもらいました。
また、カイトさんは自分の感覚に正直で、感情を素直に表現します。そんなカイトさんのことを、金子さんは「ロックな優しい人」と形容します。
以前、すごい経歴のある有名なコーチに教えてもらったことがあるんですけど、カイトにとっては相手のキャリアなんて関係ないんです。指示の内容とか言い方とか、目の前のことで気に入らないことがあれば相手が誰であろうとプリプリ怒る。今までは私が付き添っていることが多かったので、相手に悪いことをしたと思ったときは謝るように伝えてきました。
最近は私が練習中はプールサイドについていないことも多いんですけど、悪い態度をとってしまったと思ったときには、後で自分から謝っているみたい。カイトはロックな優しい人なんです。
大きな決断は、お互いに尊重し合える方法を考える
多くの時間を共有し、二人三脚で歩んできた二人ですが、時には金子さんと意見が割れることもあります。それは日常の一コマの選択もあれば、先の人生を左右するような大きな決断であることも。
例えば、お洋服について「今日これを着て行く!」って本人が言ったときに、その服がTPOに合っていないときってありますよね。そういうときは、本人が納得できるように説明します。「これが着たいのはわかったけど、今日はこういう人とこういうところに行くから、ジャージだとちょっと恥ずかしいから、こっちの服にしよう」って。
一方で、「どのタイミングまで水泳を続けるか」というのは、カイトさんだけの問題ではなく、金子さんにも関わる非常に大きな決断です。
世界を目指して練習に打ち込む日々の中では、カイトさんが精神的に苦しんだ時期もあったといいますし、日々練習の送迎や付き添いをする金子さんの負担も、けっして小さくはありません。
本当は、2024年の世界大会を最後に引退しようという話になっていたんです。カイトも納得していて、私もこれからは自分の仕事を増やしていこうと考えていたんだけど、大会後にカイトが現役を続けるって言い出して。
そのときには、「ママはこれ以上サポートを続けるのは無理だから、カイトが続けたいなら自力で練習に行ける環境を整えて、コーチの言うことをちゃんと聞く。プリプリ怒りたいときは怒ってもいいけど、ちゃんと謝ることをしてね」という話をしました。
無理なことは無理だと伝える。そうやって、どちらかが我慢をするんじゃなくて、お互いに納得できて、お互いに尊重し合える方法を考えるようにしています。
相手のことを尊重しつつ、双方が納得できる方法を考えて意思決定をしているからこそ、二人ともいきいきしているように見えるのではないか。お二人のあり方を見ていると、そんな気がしてきます。
母子二人三脚から、カイトさんの自立へ
水泳を続けたいというカイトさんの意思を尊重しつつ、自分もやりたい仕事ができる方法を模索した金子さん。2024年の夏、住み慣れた東京都内の家を離れ、2人で都外へ引っ越すことを決めます。カイトさんは自宅から歩いて通える近所のスイミングクラブに所属し、金子さんが車で送迎しなくても通える練習環境が整いました。
初めから引っ越そうと考えてたわけじゃないんですよ。ダウン症のスイマーを受け入れてくれるスイミングクラブを探したけど、都内では見つからず、あちこち探し回った結果、やっと出合えたのが今のスポーツクラブだったというわけなんです。
カイトさんの所属しているスイミングクラブでは、障害のあるなしにかかわらず、みんな一緒に練習をしています。金子さんからは少し離れた環境の中で、カイトさんは周りと共生しながら練習に打ち込んでいて、成長を感じているのだそう。
私が離れたところで大会を見ていたら、カイトは一緒に泳いでいた3歳の子がゴールするまで、ずっと待っているんです。その子がプールから上がったら、ハグして「えらかったね」って頭をいい子いい子していました。
その子が「一緒に水泳をやっていたダウン症のお兄さん、優しかったな」って覚えていてくれたらいいなって思います。将来その子が障害のあるなしに関係なく人に接することのできる人に育つかもしれないじゃないですか。
そういう関わりが生まれるインクルーシブな環境を、すごく大切に考えているクラブにめぐりあえたのは幸運でした。
自立の道を着々と歩み始めているカイトさんは、2022年からアスリートとして企業に所属し、水泳を辞めてもその企業に勤め続けられる契約を結んでいます。最近は本人の希望で演技のレッスンにも通いはじめました。副業申請をしてあるので、いずれは会社に籍を置きながら芸能活動をすることも可能です。
以前は就労継続支援B型事業所に通っていたこともあったのだそう。ただ、事業所の給料での自立は難しいと金子さんはいいます。
当時、1ヵ月のお給料が1万円にも満たない状況でした。それではどう考えても自立はできないじゃないですか。もう少し労働の賃金が上がらないと、障害のある人が自立するのは難しいですよね。
ダウン症の子を育てているお母さんは、子どもが0〜3歳くらいの時が一番悩むと思うんです。10歳くらいになってくると、いろんなことが分かってくるんだけど、それまでは、この子は将来どういうふうになっていくんだろうって、すごく悩みがちなんじゃないかな。だから私はそういうお母さんたちに「ダウン症があったとしても、こういう生き方もあるよ」っていうのを見せたいなと思っています。
カイトが所属しているのはアパレルの会社なので、競技を引退した後は、倉庫での作業や発送業務などに携わることもできるようです。ダウン症があってもできることはいろいろあるので、もっと企業が可能性を見て動いてくれるといいなと思います。
母子二人三脚の状態から、少しずつ関係性のアップデートをしている金子さんとカイトさん。金子さんはカイトさんに「これからは水泳にプラスして、自分が本当にやりたいことをやってほしい」と考えています。
ダウン症の子の中にも、運動が得意で、あまり練習をしていなくても最初から泳ぐのが速い子もいます。でも、カイトはそんなに運動神経がいいわけじゃない。誰よりも練習してきたからこそ、今があるんです。
本当は、写真を撮ったりとか、絵を描いたりとか、アーティスティックなことが好きなんだと思う。だから、小さいときからアートの道に進むことも考えたんだけど、体力をつけた方が何事も集中力が続くんじゃないかと思って、水泳を続けてきたという経緯もあって。これまで十分に水泳を頑張ってきたから、これからまた新たに何か本当にカイトが好きなことを見つけて人生を生きてほしいな。
でもそんなことを思っていた最中、全米水泳選手権でダウン症クラスが新設されたんです。小さな時からアメリカに興味があったカイトは「行きたい!」となり、トルコ、アメリカ、イギリスとダウン症の国際大会の世界ワールドツアーに挑戦することに。まだ私の競泳生活のサポートは続くことになりそうです。
「一緒にいられて、ママはすごい幸せなんだよ」そう語りかける毎日
カイトさんの夢を叶えるために、試行錯誤しながら歩んできた金子さんとカイトさん。お二人の挑戦は、これからも形を変えながら続いていくのでしょう。
かつて、カイトさんがダウン症であることを知ったときには「私の人生、終わった」と感じた金子さんでしたが、今、本当に幸せなのだといいます。
「ダウン症の子どもを持ってかわいそう」って考えている人もいると思うんですよ。「幸せなふりして見せてんじゃないの?」「強がってるんじゃない?」って思ってる人もいると思う。でも、私はダウン症の子どもがいて、本当に幸せなんです。
カイトは照れとか羞恥心みたいなものがなくて、自分の気持ちをそのまま言葉や行動を通して伝えてくれます。だから私も同じように自分の気持ちを素直に口にできるんだよね。
私はね、いつもカイトに「本当に幸せだよ」って言うんです。「ママはすごい幸せなんだよ、カイちゃんとこうやっていられて」って。恥ずかしながら、毎日そういう会話をしてますね。カイトのことが、もう本当にかわいくてしょうがないです。
今、カイトさんのことを語る金子さんの言葉の数々は、溢れんばかりの愛に満たされています。
かつて、出産前の私が子どもに五体満足に生まれてきてほしいと願ったのは、障害のある子を育てるには、自分の時間をすべて子どもに捧げなければならないのではないかと考えていたからでした。しかし、金子さんのあり方を見ていると、子育てを最優先にしつつも、自分を犠牲にしているという印象はありません。
親子のかたちは、親子の数だけ存在します。そして、それは親と子のそれぞれの特性や性格の組合せ、環境などの要因で形づくられていきます。
親も子も、それぞれが輝いて見える関係性を築きたいと考えるなら、互いに自分らしい生き方ができるように試行錯誤するのが、大切なプロセスの一つなのかもしれません。
金子さんのカイトさんとの関わり方には、障害の有無にかかわらず、お互いに自立し、愛情に満ちた親子になっていくためのヒントがたっぷりつまっているように感じました。
(写真/提供写真、編集/工藤瑞穂、企画・進行/松本綾香、協力/吉本理子)