誰かと言葉を交わすとき、相手との間にどんな「力」が働いているか、どんな「流れ」が生じているか、意識したことはありますか?
たとえば、家族の日常会話で。
親から子どもへ、またはパートナー間で、強制的な力が働いていないでしょうか?
一方通行の流れが生じていないでしょうか?
あるいは、職場のミーティングで。
上司から部下へ、一方的に言葉を受け取るだけの時間になっていませんか?ありのままに語ることをためらうような圧力を感じたことはありませんか?
ついやり過ごしてしまいがちな、日常会話や話し合いのなかに生じる小さなためらいや滞り。それらに目を向け、力を水平に、流れを双方向にしていくことの果てしない可能性を感じさせてくれるのが「オープンダイアローグ(Open Dialogue)」という活動です。フィンランドの精神科病院における医療者の実践から始まり、今は日本でも精神科クリニックのほか、学校や職場でもそのエッセンスを取り入れた活動が広がっています。
これまでの力関係が水平になったとき、滞っていたコミュニケーションの流れがスムーズになったとき、いったい何が生まれるのでしょうか。その先にどんな可能性が広がっているのでしょうか?
「オープンダイアローグマニア」と自称し、精神科クリニックで実践を積み重ねるとともに、講座やセミナーを通してその価値を伝える活動をしている精神科医の森川すいめいさんにお話を聞きました。
プロフィール:森川すいめい
1973年、東京都豊島区要町生まれ。精神科医。鍼灸師。オープンダイアローグトレーナー。2003年にホームレス状態にあるひとを支援する団体「TENOHASI(てのはし)」を立ち上げ現在も支援活動を続ける。現在は、東京都豊島区にある「ゆうりんクリニック」に勤務。
著書に、障がいをもつホームレス者の現実を伝えた『漂流老人ホームレス社会』(朝日文庫、2015)、自殺希少地域での旅の記録『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』(青土社、2016)、オープンダイアローグの心が癒されるプロセス『感じるオープンダイアローグ』(講談社現代新書、2021)、オープンダイアローグ実践案『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』(医学書院、2021)等がある。
“正解”を探して発言していた幼少期を越えて
東京都豊島区で生まれ育った森川すいめいさんは、精神科医・鍼灸師として活躍する傍ら、ホームレス状態にある人を支援する団体を立ち上げ、継続的な支援活動も行なっています。また、それらの実践を記録・考察した数々の書籍の執筆や講演活動、セミナー等も精力的に展開しています。
今回は、現在お勤めの「ゆうりんクリニック(東京都豊島区)」にてインタビューを行ないました。すいめいさんは穏やかな笑顔で私たちを出迎え、クリニック内の一室に案内してくれました。
ここが医療機関であることを忘れてしまいそうなあたたかな空気に包まれた空間で、まず私はすいめいさんのことを知りたいと思いました。子どもの頃からの、主にコミュニケーションや対話を軸にした人生の変遷についての話をお願いすると、すいめいさんはそれを丁寧に受け取り、少し考えてから静かに語り始めました。
あまり平和じゃない家庭で、父親からの暴力がない日はなかったんです。強大で怖い存在でしたので、僕は彼に対して言いたいことを言うというよりは、「どれを言うのが正解かな?」と探る感じで話していました。
「正解とは?」と敢えて聞いてみると、「怒られないことですね」とすいめいさんは即答しました。
外食で何を食べたいか聞かれると、子どもである私に緊張感が走ります。「どれを選ぶのが正解か?」。間違えると父は不機嫌になって、さらにもうひとつスイッチが入ると暴力的になっていく。そんな日々でした。
中学生のときは家出を経験し、学校もサボるようになり、同級生からのいじめの対象になってしまったことも重なって、成績も目に見えて落ちたと言います。それでもなんとか合格した高校に入学し、友人ができたことですいめいさん自身も少しずつ変わっていきました。
高校卒業後は京都の大学に進学し、一人暮らしを始めたため父と物理的に距離ができたことで、心も解放されていったそう。大学時代は、すいめいさん曰く「行動は悪いけど優しい先輩たち」との交流も楽しみ自分を取り戻していった頃、阪神淡路大震災(1995年1月17日)が起こりました。
すいめいさんはアパートで大きな揺れを感じ、被害の大きかった地域には友人が住んでいたため、発生から数日後にはボランティア活動のために被災地に向かったそうです。そのときの心情について、こう振り返ります。
自己分析をすると、被災地へ行った理由は2つある気がしています。1つは自分の友人たちがいるということで心理的な敷居が低かったこと。もう1つは、私の人生に常にあった、「父親を超えていく」というエンジンですね。
当時は言語化できていなかったのですが、武術家の父と同じ分野に進むとずっと彼の支配下にいることになるので、そうじゃないところで自分の経験値を増やしていかなければならないという気持ちがありました。そのエンジンをかけながら現地に入った感じです。
当時は後に「ボランティア元年」といわれるほど、多くの市民がボランティアとして参加した年。未経験者が多く「ボランティア組織もカオスだった」と振り返る状況下で自分ができることを探し、高齢者の肩をマッサージすることから始めたすいめいさんは、結局8ヶ月もの間ボランティアとして被災した方々に関わり続けました。それは一体、どんな時間だったのでしょうか。一言一言噛み締めるように、すいめいさんはこう語りました。
当時は言語化されていなかった、「自分が強くならなきゃ」みたいな思いがあっという間に消えるくらい強大などうにもならない世界に飲み込まれていくし、そこにいたいって思う。誰かにマッサージすると、その方は自分を頼ってくれる。そんなやりとりだったなっていう感じです。
どう表現していいかわからないですけど、そこにいる人たちにとって良かったんだなっていう思いを受けながら、動き続けた日々でした。
すいめいさんのような若い人たちがマッサージをしてくれることを喜んだ被災者の方々は、お土産をくれることもあったそうで、「マッサージしに行ったのか、させてもらいに行ったのかわからないくらいでした」と振り返ります。また、すいめいさんたちの動きを知った大学の先生や鍼灸師会の人が「自分たちも」と動き出したそうで、「大人たちの応答が嬉しかった」とも語ってくれました。
ボランティアの体験は、絶対的な存在として父がいて、常に力関係では下の立場だったすいめいさんにとって、初めて「応答」という、いわば対等な人との関係性を築けた体験だったのかもしれません。
大学を卒業後、すいめいさんは鍼灸師として働き始めましたが、自然療法を信じて西洋医学に頼らず命を落とす方々の姿を目の当たりにし、2年後には「もっと医療について勉強したい」と思うようになりました。この先を考えたとき思い浮かんだのが、一度「絶縁する」と手紙を送った父の存在でした。
当時の私は、まだ父親との関係を取り戻せると信じていた部分があって、彼が「医学部へ行け」と言い続けていたことを思い出しました。そうするともう一度彼の“下”に入ることになるのですが、頭を丸坊主にして謝罪して。結局お金を出してもらって、医学部に行くことになったんです。
複雑な気持ちが渦巻くなかで通い始めた大学ですが、ボランティアに明け暮れた濃密な日々と比較してしまい、バーンアウトに近い状態に。気持ちが落ち込んで大学に行けなくなったとき、その姿を見た父が「あなたは視野が狭いから外国に行きなさい」と声をかけてくれたそうです。
そう言われてバックパッカーの旅に出ましたが、それは震災で自分の世界が壊れたのと同じくらいの衝撃で、「世界は広くて自分は小さくていい」と思える体験でした。だから父には感謝しています。暴力もあったけどちゃんと見ていてくれたんだなって、後で振り返るできごとでしたね。
「日本には人権はない」という気づきのなかで
大学時代のバックパッカーの旅についてすいめいさんは、「自分の中の課題解決のための旅だった」と振り返ります。帰国後はホームレス状態の人がいることを知り、ボランティアを始め、活動を通して依存症の方々と出会うことで、新たな世界が開けていきました。
依存症の人たちはすごく優しくて話をいっぱい聞いてくれて。その影響もあって精神科医の道を選んだんですが、精神科医になった途端に頼られる存在になった。そうすると水平じゃなくなって、「診断をする・される」という関係になって、ますます答えがわからなくなりました。
自殺に関する研究会に入り活動するようになった頃、再びすいめいさんの人生に衝撃が走りました。東日本大震災(2011年3月11日)の発生です。
それまでの知識や経験が役立つのではないかと勇んで現地に入りましたが、再び無力感に襲われました。被災者の方の話を聞きながら涙を流してしまうような時間も重ねる日々のなかで、出会ったのが岡檀(おか・まゆみ、情報システム研究機構統計数理研究所 医療健康データ科学研究センター特任准教授)さん。2012年、岡さんはそれまでの自殺研究とはまったく違った角度からの研究発表を行い、それを聞いたすいめいさんは衝撃を受けたと言います。
今までは自殺の「防止」や「原因」について勉強していたんですよね。「アルコールが一定量を超えると自殺率が増える」など、それらは対策もすごくわかりやすいのですが、一方で現場ではまったく手の打ちようがない事例もたくさんありました。
一方で岡さんは“自殺希少地域”を4年間にわたって巡り、「防止」でも「原因」でもなく、「予防因子」があるという発表をしてくださったんです。自殺に至る原因は無数にあって原因ひとつ一つに対して予防するのは困難ですが、岡さんの研究は自殺に至らない地域に存在するであろう予防因子を調べるというものでした。それは私にとってこれまでとは真逆の世界で、世界が倍に増えたような感覚になった経験でした。
「聞いた途端に体が動いちゃう」と笑うすいめいさんは、このときもすぐに、自殺率が極めて低い“自殺希少地域”をめぐる旅に出ました。
その様子は著書『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』に詳しくまとめられていますが、自殺希少地域の人たちは「たくさん対話をしていた」とすいめいさんは振り返ります。その体感値に加え、研修医時代の精神科での患者とのやりとりの経験が、対話への関心につながっていきました。
私が研修医だった頃、ある日病院に精神疾患がある方が騒ぎながら病院に連れて来られました。常軌を逸している状態で強制的に入院になったんですが、私が担当になって隔離室で縛るよう指示を受けて。
そのとき私は、その方と会話してみました。そうしたら、私のことを下に見ているからかそんなに騒ぎ立てず、楽しそうに話して、そのうち寝てしまって。起きたらまた会話をしてと繰り返していたら、その方はいつの間にか落ち着いていました。隔離すると外からの刺激がなく症状が悪化してしまうのではないかと感覚的に感じていたのでできるだけ会話しに行っていたら、あっという間に回復して退院したんです。
その体験を通して、精神科の現場における人権のあり方に対して違和感を募らせていきました。
もし自分が子ども時代に精神科に連れて行かれたら嫌だなと思ったんです。子どもの私は自分の周りや親をなんとかしてほしいと思っているのに、自分に病名をつけられて薬を飲まされて強制的に連れて行かれるような人生だったかと思うと、この世界は変だなと。ホームレス状態の人も同じですが、一番弱い人に原因が押し付けられ、追い詰められて管理される。
北欧とは全然違い、「日本には人権はないんだ」と思いました。
そんな思いとともに過ごしていたすいめいさんは、身近な研究者の方々からの発信を通じてフィンランドで実践されているオープンダイアローグのことを知り、「これだ」と思ったと言います。そして再び冒険へ。「何かあるはず」という気持ちで現場へ向かいました。
オープンダイアローグは人権活動だと思ったんです。これを知れば原因を押し付けられてしまった人々の力になれるんじゃないかと。それで、特に調べもせずにフィンランドに行きました。
手法ではなく尊厳を回復する活動としてのオープンダイアローグ
根っからの冒険家で、さまざまな場所に足を運び経験と実感を積み重ねてきたすいめいさんが、フィンランドで出会ったもの。それは、精神科医をはじめとする医療者の方々が、まさにすいめいさんと同じように経験を積み重ね、後に「オープンダイアローグ」と呼ばれるようになった対話活動でした。
「オープンダイアローグマニア」を自称するすいめいさんに解説をお願いすると、「『オープン』と『ダイアローグ』という単語でできた言葉なので、まずはオープンから」と前置きし、ゆっくりと語り始めました。
オープンダイアローグが始まったのはフィンランドの最北部、西タップランド地方のトルニオという人口72,000人の小さなまちにあった唯一の精神科病院・ケロプダス病院です。たった1つの精神科病院の約8人のドクターによって状態に名前が付き、治療方針が決まっていくという状態でした。
一方世界では、1960年代に精神科医療に関する革命的な動きがありました。精神面の困難に直面した人たちが社会で自立的に生活できるように援助する病院解放運動が世界中で加速していき、日本でも閉鎖病棟で患者の自由を奪うことを疑問視する風潮が起こりました。
フィンランドでも世界の潮流から少し遅れて1979年に、精神障害者の権利を保障する法律ができたことで改革が起こりました。当時の精神科病院は20年も30年も長期入院している患者ばかりでしたが、この年に新規の患者を受け入れることができるようになったんです。
ケロプダス病院の医療者の方々は、法律が変わったことで改革に乗り出します。今までとは違うやり方を求められるなかで学びを深め、2つの方法に出会いました。そのひとつが家族療法です。
薬中心の医療では、問題はその人にある、つまり「患者が本人」という考え方ですが、家族療法では、その人の困難は人と人の間にあると考えるため「本人も含めて家族全員が当事者」になります。そうなると、子どもの言い分も親の言い分も聞くことになり、今までは家族のなかにあった上下関係(精神症状を持つ人が一番下になる関係性)がなくなり、見え方が変わります。
その実践のなかで医療者たちは大切なことに気づきます。「家族も話したがっていた」と。それまで家族はサポートする人で協力を仰ぐことはあっても、「お母さんはどんなことを心配しているのか」、「お父さんが何を思っているのか」といったことは聞いてこなかったんです。
でもいざ聞いてみると、たとえば患者が30年入院していたとしたら、家族は30年前のことを話し始めた。医療者たちは「そうか話を聞いていなかった」と気づくんですね。そしてさらに家族の話を聞くことで、新しい考え方が蓄積していくことになりました。
もうひとつ、ケロプダス病院の医療者の方々が学んだのは精神分析でした。
精神科医は症状のある人の声を聞くか聞かないか取捨選択ができますが、精神分析は聞いて一緒に分析するというスタイルの治療法です。たとえば妄想に関して、医療者たちは「脳の病気が引き起こす妄想だから聞かないで薬を処方する」と決めていましたが、精神分析家は「妄想は人生に深く関係のあることだ」という経験を積んでいました。
ケロプダス病院の医療者の方々は、家族療法を学んだことで、家族の話を聞き、患者だけではなく家族全体に目を向けることが大事だと知りました。また精神分析を学んだことで、妄想も含めて、患者の話を全部聞くことの大切さも知りました。世界の風潮をどうしたら患者の役に立つかたちで実現できるか検討を続けた末、1984年に開いた勉強会において2つのことを決めたのです。
1つは、「本人のいないところで本人の話をしない」ということです。支援に携わっていくと当たり前のことがわからなくなることがありますが、よく考えると自分のいないところで自分の話をされることは絶対嫌ですし、自分のいないところで話される内容は全部解釈であって、関わる人が解釈の梯子を登るだけになる。
その梯子を登っていく人たちに権威があったとしたら、その解釈で治療方針まで決められてしまう。それをやめたんですね。すごく大きな話かもしれません。
家族療法も含め、それまでは始める前や後に当事者のいないところで家族と相談や打ち合わせをするのが当たり前でしたが、それもやめたのだそう。フィンランドでは、今や学校や政治の議会でも「本人のいないところで本人の話をしない」ということが大切にされていて、陳情された事象に関してもほとんどのことは現場に行って関係者を交えて現場で決めるため、議決もスムーズなのだそうです。
そしてもう1つ決めたのは「パワーを持った側は少なくとも複数名で応答する」ということでした。これにはどんな意図があったのでしょうか。
パワーを持つ側が1人の場合は、いくら水平になろうとしても難しかった。でも2人なら、患者と医療者2人で、3つの視座が場に置かれることになるんですね。さらに、医療者側の関係が対等になるようにトレーニングをする。そうすると3人とも対等だから全然違う意見になっていきます。
これら2つの土台を決めたことで、医療者の方々はこれまで経験しなかったことを経験することになり、一時期現場は混乱したといいます。その結果早朝から深夜まで働く過酷な状態になったとのことですが、そこで医療者たちは「どうしたら定時で帰れるのか?」と考え、工夫をしたそうです。
その工夫のなかで効果的だったものをまとめたのがオープンダイアローグを学ぶ人が必ず出会う「7つの原則」ですが、著書『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』ですいめいさんはこのように言及しています。
7つの原則を守らなければオープンダイアローグの実践にならないということではありませんし、そもそもオープンダイアローグには「やり方」は存在しません。ケロプタス病院での「工夫」は存在しますが、それはあくまでケロプタス病院流です。
では、7つの原則とは何でしょうか?「相談をする人たちが強く望んでいることだ」と考えてはいかがでしょうか。
『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』(医学書院、2021)第1章コラムより
「オープンダイアローグの7つの原則」
• Immediate Help(即時に助ける)
• Social Network Perspective(本人のネットワークにある人たちを招く)
• Flexibility and Mobility(柔軟かつ機動的に)
• Responsibility(責任/責務)
• Psychological Continuity(連続性(心理的な))
• Tolerance of Uncertainty(不確実ななかに一緒に居続ける)
• Dialogism(対話主義)
1992年から1997年の間にケロプダス病院に相談し精神病状を有するとされた75名への調査が行われましたが、彼らの8割は精神病状の残存がなく、学業やフルタイムの仕事に復帰したとのこと。この調査はその後も続けられましたが、2015年までの調査でも同等の数字が報告されていると言います。
これだけの効果をあげたことに驚きを隠せませんが、すいめいさんは「オープンダイアローグ」というものの本質と、本質を知る上でとても大切な「オープン」という言葉の意味についてこのようにまとめました。
つまりオープンダイアローグは手法や技法ではなく、尊厳を回復しウェルビーイングの状態をその地域でつくり上げた活動を、後で名付けたものです。
医療勉強会が始まって、医療者たちはいっぱい試して失敗して、一度知識も管理も手放すんですね。「全部手放して聞こう」と決めたら大混乱が起こり、「これは対話だね」となった。権威側が全部手放したこと、それをオープンと名づけた。
そして今も医療者たちは、この活動をつくり続けています。答えが見つからないまま、権威勾配があるんだという自覚を持ちながら、どんな言葉なら話しやすいか、どうなったら安全かという経験値をいっぱい積んだ医療者たちが困った人たちのところに行って一緒に考える活動。それがオープンダイアローグかなと思います。
「わからない」という態度から生まれる“交通”としての対話
ここまでのすいめいさんの話から権威者が手放したという意味での「オープン」の意味、そして「本人のいないところで本人の話をしない」、「パワーを持った側は少なくとも複数名で応答する」という2つの土台を持つ活動であることは理解できました。
一方で「ダイアローグ=対話」とは何でしょう? 日常的に使う言葉ではありますが、対話の定義について改めてすいめいさんと一緒に考えてみたいと思います。
「対話とは?」という問いが人類で最初に始まったのは、おそらく紀元前399年です。古代ギリシャの哲学者・ソクラテスから始まって、その後弟子のプラトンが著書『ソクラテスの弁明』にまとめた。そこが対話の始まりと言われていますが、いろいろな人が対話とは何かをずっと考え続けていて、結論から言うと結局みんな違うことを言います(笑)。
そう前置きすると、すいめいさんは「対話のことばかり考えている人々が出してくれているキーワード」として、「無知の知」と「他者性」というソクラテスの言葉と、それを概念としてまとめた「他者は常に自分の想像を超えている」という20世紀の哲学者エマニュエル・レヴィナスの言葉を教えてくれました。
レヴィナスは、「他者は常に自分の想像を超えている」、つまり「他者を分かりきることはできないんだ」と言っています。たとえば私が話すときは、これまで生きてきた全人生に関わっていることを言葉にしているわけです。そんな私のことを、あなたはわかるでしょうか?わかるはずがないですよね。
一方で私自身も、私が思っていることを語り尽くすことはできない。さらに言えば、自分のことでさえもわからない。「他者性」というのはつまり「わからない」ということで、わからないから対話が起こるということです。
そして私たち自身は、話しながらも変化していきます。だから永遠に対話が続くとすいめいさんは続けます。
10秒前の私と10秒後の私は違います。自分が話していることを自分で聞いたり、自分が話したことの応答をもらったりしながら自分の考えはずっと動き続け、戻ったり進んだり新しく生まれたりする。だからやっぱり自分のことをわかることはないし、それどころか他者のことをわかることもないから、ずっと対話することになっていきます。
そんな終わることのない対話のあり方について、すいめいさんは、また印象的な言葉を教えてくれました。オープンダイアローグが強く影響を受けている20世紀の思想家ミハイル・バフチンの対話論の本質を表す「対話とは交通だ」。加えて、対話が一番上手なのは「あかんぼう」だとも。
あかんぼうは、人やものとずっと対話をしていて、頭のなかも心のなかも動き続けています。しかしながら、最も上手な対話の状態が成長とともに外からコントロールされていく。「宿題やりなさい」とか、「道端で寝てはいけません」とか、本来心身が望んでいることが制限されていく。その制限が対話を止める。
バフチンは、対話=ダイアローグを止めるものをモノローグだとし、「一方通行」と言葉にしています。両親のパワーが強ければ、子どもはモノローグの世界でダイアローグをどんどん失い忘れていきます。
著書『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』には「対話とは、外の世界に反応し、それを自分の中で受け止め、それへの反応を返すことである」とあり、確かに生まれたばかりの乳児には敵わないと気付かされます。すいめいさんは問いかけます。
もしずっと交通し続けていたとしたらどうでしょうか?
「あなたはこうだ」と決めつけたり、ジャッジメントすることなんてできないことを理解していたとしたらどうでしょうか?
人の話が自分の助けになっていくとしたらどうでしょうか?
すいめいさんのお話と問いかけで、「対話」という言葉がとても深い奥行きを持って感じられるようになりました。では実生活で対話が起こると、どんな変化が表れてくるのでしょうか。
対話をしていると、問題が減ります。「問題だ」と決めている人は誰なのかというと、ほとんどのケースでは力の強い人ではないでしょうか。そして、その力の強い人が問題解決のための意志決定を行なっていきます。
対話をすると誤解や解釈が減っていき、「あの人そう思っていたんだ」「そういうことだったんだ」とどんどん理解していくし、どんどん問題が減り、意志決定も減っていきます。
2024年末に開催されたsoarのオンライン連続講座『ウェルビーイングをつくりあう対話の実践を考える』では、第一回目にすいめいさんが講師として登場し、実践ワークとして一対一、またはグループで「話すと聞くを分ける」という体験をしました。
私も実践してみましたが、自分が聞く側だと意識すると、相手の言葉を途中で遮って自分なりの解釈をすることなく、聞き切ることで理解が進むことを体感できました。それはまさに、理解が進んで解釈や問題が減ることの好循環を感じる体験だったのです。
オープンダイアローグの中心には医療現場で行う「ネットワークミーティング」がありますが、そこでも「話すと聞くを分ける」、全員が「話し切る、聞き切る」ということをおこなっているのだとか。
ネットワークミーティングでは、話し切る、聞き切ることで問題がなくなっていき、聞き切った後で医療者が自分がどう思ったかを話す。やりとりをするんです。
今まで医療はやりとりがなかった。症状を切り取って医療者が勝手に診断する、という一方通行でした。それをやめて、全員が水平の立場になるようにして1人に向かっている矢印を全部外側の他人に向けて、「私たちわからないので教えてもらえますか?」という態度で一人ひとりに聞き、全員が話す。
全然わからない人同士が相手のことをわからないと思って対話をすると新しいことが生まれる「創造的対話」という言葉がありますが、一人ひとりにとって他の人の話を聞くということがまた自分のなかの何かの発見になり、新しいことが創造され、問題が解消されていく。
オープンダイアローグがこれだけ成果を上げたのは、「わからない」という態度のなか、やりとりをして経験値を増やしたからだと思います。
困ったら、とにかく対話しよう。
権威者が手放した「オープン」、「無知の知」と「他者性」を前提とした交通のような「対話=ダイアローグ」がかけ合わさった「オープンダイアローグ」。実際は体感してみないとわからない部分が大いにあると思いますが、すいめいさんのお話から、手法として真似するというよりも、自分が対話するときにそのエッセンスをあり方や意識として持つことで、日常にも活かしていける可能性を感じます。
たとえば、職場の会議やワークショップの冒頭でも使えるアイデアとして、すいめいさんは「対話の最初に経緯(いきさつ)と期待を聞く」という手法を教えてくれました。
一人ひとりが尊厳を持っているから、尊厳を持っているんだよっていうことを最初に表明できる2つの問い、それが「経緯」と「期待」を聞くということです。
「どういう背景でここにきたの?」と聞くと一人ひとりがその場に存在することになりますし、「何を話したくてどんなことを期待して、何を解決したくてきたのか?」と聞くとみんなが違うことを話すので、その違いから対話を始められます。それを聞いていないと、進める人の思惑から会議が始まって進んでしまって、「進める人」と「聞く人」になってしまうんです。
すいめいさんの講座を受けた方のなかには、そのアイデアを活用し「会社の会議の最初は雑談から始めることにした」なんて声も届いているのだとか。
ただ、そういったときにぜひ心得ておきたいのが、「何か明確な目的のために対話を行うのではない」という大前提です。著書『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』にもこんなことが書かれています。
オープンダイアローグのゴールは「対話そのもの」です。対話が起こりさえすればいい。対話さえ起こればその可能性はどのようにも広がる。
(中略)
困難なことに直面した、その時点では何ができるかはわからないし、その先のことも不確かである、だからとにかく対話するしかない。
『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』(医学書院、2021)序章より
問題解決や成果を求めるのではなく、「困った、とにかく対話しよう」という姿勢こそオープンダイアローグの本質なのだと感じます。
次世代に禍根を残さないために、対話を。
すいめいさんは今、クリニックで症状のある人の困りごとを関係者みんなで考える場をつくる活動を続けています。
たとえば、いじめで学校に行けなくなった子がいたら、診断名をつけるのではなくいじめっ子も一緒に対話をする。子どもに両親の喧嘩をやめてくれというニーズがあるなら、その関係者で対話する。自分たちだけで話すと一番弱い人が黙ることになるから、そこに他者が行って、「どうしたの?一緒に考えにきたんだ」って。
その人たちが見えている世界を聞きながら、自分ごととして「こんなアイデアがあるんだけど」「それなら先生呼べたらいいね」という感じで、誰の力があると空間が開かれていくのかを考えながら一緒に考えていく。一緒に考えることしかできない。そんな感じです。
クリニックでのそんな日々の実践とともに、すいめいさんはオープンダイアローグに関する講座を開いて多くの人に伝える活動をしています。そこにはどんな思いがあるのでしょうか。
オープンダイアローグを広めたいというよりは、「このままだと力の強い人が社会を動かしていっちゃうから元に戻ろうよ」「元に戻るにはどうしたらいいの?」というときに、オープンダイアローグのエッセンスがヒントになるかもという感覚で動いています。オープンダイアローグという言葉さえも要らないんじゃないかという意味合いを込めて、水平なミーティングの仕方のアイデアはいっぱいあるんです。

書籍の帯にも「すべて私たちが行っている実例です。これらを参考にしてぜひ自分なりのオープンダイアローグを実現してください。」と記載があり、「対話を開く工夫のいくつか」として多数の工夫が紹介されている。
研修や講演会も数多く行っているすいめいさんですが、自身も困難なことに直面してきた当事者として、オープンダイアローグの実践者として、対話が起こった先の社会や暮らしにどんな可能性を見出しているのでしょうか?インタビューの最後に聞きました。
究極的なところで言えば、ガザとイスラエルも、ロシアとウクライナも、対話をやめちゃったから戦争という悲劇が起こり、たくさんの命が失われました。
家庭でも、親が仲良くないといけないわけではないですが、子どもが被害を被らないためにも対話はしなくちゃいけません。
校則も「子どもたちがつくった方がいいね」と思えなくなっちゃっているのはやっぱり対話していないからだと思います。権威者たちが子どもたちと、社会と、対話しないで自分たちのなかで理想を語り合って解釈してしまっている状態です。
つまり、戦争や離婚を止めるために対話するのではなくて、次世代に禍根を残さないために対話しなきゃいけない。権力を持った人たちが対話を怠って弱い人たちが全部被る、という構図をなんとかしたいという強い願いがあります。
遠く北欧で始まったオープンダイアローグというものが、あたたかな優しさと大きな広がりを持って身近に感じられたインタビュー。すいめいさんが「一緒にやってみませんか?」と、私たちを導いてくれるような時間でした。
難しく考えず、原則や定義に捉われ過ぎず、まずは2つの土台を軸に、すいめいさんが語った言葉のなかから気になったエッセンスを日常会話や話し合いに取り入れてみる。そんな小さな態度の積み重ねこそが、一人ひとりの尊厳が大切にされる平和で豊かな暮らしと世界への道なのだと感じました。
まずは家庭で、職場で、友人との間で。
小さなことでも対話を始めてみませんか?
余裕があれば、「力」と「流れ」に目を向けて。
そんな時間の積み重ねから始まる新しい景色を、一緒に見に行きましょう。
すいめいさんのような、冒険家の心を携えて。
関連情報:
森川すいめいさん 著書
『漂流老人ホームレス社会』
『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』
『感じるオープンダイアローグ』
『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』
(撮影/高橋良平、企画・編集/工藤瑞穂)