子どもが生まれたときに私の中で湧き起こったのは、「我が子が何よりも愛おしい」という愛情と、「この小さな命を私が守らなければ」という強烈な責任感でした。
新米の親として日々直面するのは、初めてのことだらけ。
どこへ行くにも、子どものお世話用アイテムがぎっしり入ったリュックを背負って、行き先を選ぶ基準は子どもが喜びそうなところ。自分の時間は限りなくゼロに近くて、トイレに行くのすら後回し。子ども中心に回る世界に浸って、世間の流行からは完全に置いてきぼりの状態に。
そんな日々を経て仕事に復帰した日のことです。仕事用のトートバッグを肩にかけた瞬間、私は「自分」を思い出した気がしました。
ああ、そうだ。自分には大好きな仕事があって、聴きたい音楽があって、行きたい場所があったんだーー。
今の日本では共働き世帯が半数を超え、子育てしながら自分のキャリアを諦めずに活躍する人も増えてきました。それにともなって、家事や育児を夫婦で分担する家庭も多くなってきているとはいえ、まだ女性の負担が大きくなりがちです。
総務省の2021年度「社会生活基本調査」によれば、男性の家事・育児などにあてる時間は“過去最長”の1時間54分になったものの、女性の家事関連時間は7時間28分であり、男性の3.9倍以上にのぼります。
子どもが保育園や幼稚園に入るまでの期間は、いつでもどこへ行くにもお母さんと一緒。園に入ってからも、子どもが熱を出したときにお迎えに行ったり、病院へ連れて行ったりするのはお母さんという家庭が多いのが現状でしょう。
母親が無理を重ねて心をすり減らしていても、今の日本では「お母さんなんだから頑張るのが当たり前、我慢するのが当たり前」といった固定観念が幅をきかせていて、お母さん自身の心は置き去りにされがちです。
そんな中、「小児科」や「発達外来・不登校を選んだ子のための外来」で子どもたちの体と心に向き合うだけでなく、「女性のための心療内科」を併設してお母さんたちの心のケアをしているのが、フローレンスこどもと心クリニックです。
このクリニックでは、どうやって子どもやお母さんの心と向き合っているのでしょうか。小児科、発達外来・不登校を選んだ子のための外来、女性のための心療内科の3本柱で目指す未来とはどのようなものなのでしょう。
ご自身も二児の母である、院長の田中純子先生にお話をうかがいました。
「フローレンスこどもと心クリニック」の守備範囲は子どもの体と心、そして女性の心
フローレンスこどもと心クリニックは、東京都渋谷区の「おやこ基地シブヤ」にあります。
このクリニックを運営するのは、医療法人社団マーガレット。クリニック名に「フローレンス」と入っているのは、認定NPO法人フローレンスを核とした社会事業グループである「フローレンスグループ」に属しているためです。
認定NPO法人フローレンスは、子どもを取り囲む社会問題の解決を目指す団体で、さまざまな事業を通して子どもにまつわる社会課題の解決に取り組んでいます。とくに、子育て支援や福祉、保育に関連するサービスを提供することに注力しており、訪問型の病児保育や、小規模保育園といったサービスをいち早く展開してきました。
そのフローレンスの理念を形にしたのが、おやこ基地シブヤです。渋谷区初の病児保育室がつくられたのをはじめ、必要とするすべての親子に保育が提供されることを目指して、事業を展開してきました。
フローレンスこどもと心クリニックの小児科は病児保育室と同じ3階にあり、1階に「発達外来・不登校を選んだ子のための外来」と「女性のための心療内科」があります。

おやこ基地シブヤには、病児保育室とクリニックのほか、子どもの主体性を尊重する「みんなのみらいをつくる保育園」も
今回はお昼休憩の時間帯にうかがったのですが、病院スタッフの方々が和やかにおしゃべりしながらくつろいでいたのが印象的でした。スタッフが着用しているおそろいのTシャツには、小児科に来た子どもたちが白衣を見て怖がらないようにということに加え、スタッフ間の職位の意識をなくす意味合いもあるのだそう。

スタッフが着用しているTシャツ。卵から赤ちゃんが生まれてくるのをいろんな動物たちが見守っている絵柄になっている。「社会全体で子どもを見守りましょう」というメッセージがこめられている
保育園から手を振ってくれた子どもたちに癒されながら待っていたところに、颯爽と現れたのが院長の田中純子先生。先生の笑顔と気さくな雰囲気に、一瞬で心のバリアが消えていく感覚がありました。

医学生時代、甥の誕生を機に「子どもってこんなにかわいいんだ」と感じて小児科医になったのだそう。仕事をしながら子どもたちからパワーをもらえる「小児科医は自分にとって天職」と話す
病児保育を探していていたときに出合ったフローレンス
田中先生とフローレンスとの出合いは、ご自身が産後に病児保育を探していた頃にさかのぼります。
産後、復職するにあたって、子どもの急な病気で困らないようにと病児保育を探し始めたときにフローレンスと出合ったんです。当時代表理事であった駒崎弘樹の著書を読んで「この人たちと一緒に働きたいな」と思っていたら、ちょうど医師の募集があって、最初はフローレンスがやっている訪問型の病児保育をサポートする取り組みに関わりました。
病児保育を支える仕事をしていく中で、患者さんとリアルに接するような場所で診療したいなと思うようになり、2017年にフローレンスこどもと心クリニックの前身となる「マーガレットこどもクリニック」を渋谷区代々木に立ち上げました。
クリニックの立ち上げにあたって田中先生が目指したのは、子育てをしながら働くスタッフが「苦しくなく働ける選択肢」をつくることでした。
以前に私がいた病院では、女性の医師は出産直前まで当直をして、産後も緊急時には子どもを背負って駆けつけるのも珍しくありませんでした。みんなすごく苦労していて、先輩の女性医師がその状況に苦しむ姿もたくさん見てきました。例えば、子どもが熱を出して保育園に迎えに行かなければならないときに担当の患者さんが急変して、「どうしたらいいんだろう……」って。
医師としてすごく優秀なのに、子育てをしながら働くことに限界を感じて辞めていく人もいたし、無理を重ねて悩みながら働いている人もいて。もう少し「苦しくなく働ける選択肢」があれば、女性医師が子育てをしながら活躍し続けられるのにと思っていました。
そんな田中先生がたどり着いたのが、診療時間の短いクリニックという形です。
現在、多くの病院では朝から診察を開始し、長めの昼休みを挟んで夜まで診察する形がとられています。患者側としては、朝から夜まで診察が受けられるのはありがたいのですが、働く側の拘束時間は長くならざるを得ません。
私はもともと医局が千葉大だったんですけど、夫が東京で働いていたので東京に移り住んだんです。それで通勤距離がすごく長くなって、長時間労働は難しいし、子どももまだ小さかったので当直も難しい状況になって。どうやって働いたらいいんだろうと悩んでいたときに勤務先としてフローレンスを選んだ理由のひとつが「勤務時間が短い」ということでした。
フローレンスで訪問型の病児保育の仕事をしていくうちに、私を含めた女性医師が苦しくなく働き続けられて、その人たちがお母さんたちと子育てを共有しながらできる、一緒に苦労を分かち合いながら小児医療を提供できる場があったらいいのにと考えるようになっていきました。
そこで、最初は9:30〜16:30(昼休憩1時間)という、診療時間が短いクリニックとしてスタートすることに。代わりに土曜日の診療を終日行い、総診療時間を確保しました。1日あたりの診療時間を短くすることで、子育てしながらでも常勤で働けるようになって、結果としてそれはすごく良かったと思っています。
診療時間を短くすることで、子育てしながらでも“苦しくなく”働き続けられるようになっただけでなく、同じように子育て真っ只中のスタッフたちがお互いに助け合う土壌もできあがり、女性医師が産後も働き続けられる環境が整いました。その環境で働く人たち一人ひとりの心が満たされていることが、クリニックのあたたかい雰囲気を育むひとつの要因になっているのかもしれません。

田中先生のお子さんも今では二人とも小学生に。お子さんたちの成長にしたがって診療時間を少し延ばせるようになり、今は診察時間が17時30分までとなっている
子どもの体だけでなく、子どもの心、女性の心も診られる場へ
クリニックで働くスタッフの方々についての話になると、「本当にみんないい人たち」と田中先生は嬉しそうに語ります。
うちのスタッフはみんな優しいんです。資質として優しくて、声かけが上手。うちのクリニックでは対応できないケースでも、なるべく患者さんに寄り添ってあげたいという想いを持っているし、スタッフ同士でも助け合っています。
それは田中先生も同じなのでしょう。時間に余裕があれば、診察の最後に「他に何か困っていることはありますか?」と訊ねるようにしているのだそう。そのときに、診察の内容とは関係ないけれど、保護者の方が本当に困っている話が出てきやすいのだといいます。
クリニックで子育てにまつわるさまざまな悩みを聞くうちに、小児科の枠を超えてお母さんたちをサポートしたいという気持ちが田中先生の中で高まり、まず取り組んだのが「子育て相談」でした。
「子育て相談」という形で60分の枠を取って、子育てに関わる悩みを聞くのを始めたんです。離乳食をどうすればよいのかといった日々の育児についての相談もあれば、子どもの育ちが心配だといった発達に関する相談もありました。子どもに落ち着きがなくて困っているとか、発達障害とまでは言い切れないけれど発達上の特性が見られるグレーゾーンといわれる子どもとの関わり方についての悩みも多かったです。
やがて、クリニックの設立から月日が経ってくると、お母さんたちの口から子どもの発達に関する相談に加え、不登校にまつわる悩みを聞くことも増えてきたといいます。
不登校は子ども本人もつらいんだけど、親もすごく大変なんですよね。子どもを一人で家に置いておくわけにはいかないから、親が仕事を続けられなくなることもある。実際、それで仕事を辞めざるを得なくなったスタッフも身近にいました。
最近は男性も積極的に育児に関わる人が増えてきたとはいえ、小児科医として保護者の方々と接していると、まだまだお母さんたちの負担が大きいなと感じます。お母さんたちは子育てだけでなく、仕事も含めてストレスが多い中で頑張っているので、何とかサポートができたらいいなと考えるようになりました。
お母さんたちからさまざまな相談を受ける中で、田中先生は「母親は我慢するのが当たり前」となっている今の日本の風潮に違和感を抱くようになります。
自分が親になったとき、「専業主婦のお母さん+働く自分」が全部できないといけないんだと思っていました。でも全然できなくて、できない自分はダメだと感じてしまったこともあったんです。お母さんたちと話していると、同じような思い込みが染み付いているような気がするんですよね。
「お母さんは我慢するのが当たり前」って、おかしくないですか?「お母さんはこのくらい我慢して当たり前」「お母さんなんだから頑張って当たり前」のような思い込みが私たちの無意識にいっぱいあって、だから苦しいんだと思うんですよね。それが少しでも和らぐように、誰かに相談できるのが普通になってほしいなって。
田中先生のまなざしは、お母さんたちを通して、その先にいる子どもたちにも注がれています。
お母さんたちの心を守ることは、子どもたちを虐待から守ったりとか、その予備軍の養育不全を解消したりすることにもつながるんじゃないか。さらにその手前の、親子関係がちょっとだけうまくいっていない人にもいいんじゃないかなと思ったんです。
その想いが、クリニックの診療の枠を広げていくことにつながっていきます。
心療内科や精神科など、あわよくば子どもの心を診てくれる人がいたらと募集をかけたら、知り合いが心療内科医と子どもの心の専門医を紹介してくれて。診療枠を子どもの体だけじゃなくて心を診る場へ、さらに大人の心を診る場に広げようということになりました。
診療の枠を広げるにあたって、クリニックの名前を「フローレンスこどもと心クリニック」に改称。クリニックの守備範囲がぐっと広がりました。
心療内科医や子どもの心の専門医として、新たに素晴らしい方々が加わってくれたことで、小児科医の私一人では辿り着けなかった人たちにも伴走できるようになったのは、すごく大きいと感じます。

クリニックには専門書から子ども用の絵本まで、先生方が持ち寄った本が並んでいる
「今、困っていること」を子ども自身が言語化できるようにサポートする
こうして2023年に新たに設置されたのが「不登校を選んだ子のための外来」と「女性のための心療内科」です。そのうちの「不登校を選んだ子のための外来(以下、不登校外来と記述)」は、親子で受診するのが基本です。
私は小児科医なんですけど、小児科だと保護者に「今日はどうしました?」って聞くのが当たり前で、中学生くらいになっても、お子さんは黙っていて、お母さんが「この子はこれで困っていて」と話し出すのはよくある光景なんです。
でも、不登校外来を担当している鹿島京子先生は、「ここに来たのはどうしてかな」「今、困っていることはどんなことかな」と、まず子どもに聞きます。そうすると、拙いながらも「こういうことがあって」と話し出す子もいれば、「別に困ってないです……」って言う子もいるんですけど、いずれにしても、鹿島先生は子どもに話をさせることを大事にしていますね。
そうやって子どもが話す姿を見て、同席しているお母さんが「あ、そうだったのね。うちの子はそんなことを考えていたのね」と気づくこともあって。鹿島先生は診察の中で、子どもが言語化する力を助けているんだと思います。
鹿島先生の診察では、まず子どもに話を聞き、次に保護者に聞きます。さらに、必要に応じて保護者には一旦退出してもらって子どもと話す、というように進んでいくのだそう。また、希望に応じて鹿島先生と保護者だけで話す時間をつくることもあるといいます。
子どもの前で保護者が困っていることを話すと、内容によっては子どもを傷つけることもあるので、鹿島先生は一旦お子さんに退室してもらってから大人の悩みを聞くこともしています。
子育てをメインで担っているのは母親である場合が多いので、お母さんと子どもの組み合わせで来院することが多いのですが、病院を訪れるのはお母さんだけではありません。
お父さんが子どもを連れてくる場合もありますし、両親と子どもで来ることもあります。夫婦で方針が食い違うなどして、お父さんだけが「家族相談(※)」に来ることもあります。
(※保険診療のルールでは本人が診察にくることが大前提になっているため、「家族相談」として本人以外が受診する場合は保険診療は適用されず、自由診療になる。ただ、自由診療は保険が適用されないので金銭的な負担が大きくなり、通い続けるのが難しくなるデメリットもある。)
鹿島先生は一人ひとりの状況に合わせて言葉を選んで語りかけるのだそう。
鹿島先生は「あなたにはこれがいいんじゃない?」とか、「今のこの状態だったら、それがいいね」というように、一人ひとりの個性や特性、それぞれの状況などに合わせて話をします。同じ悩みでも「この子の空気感だったら、こういうふうに言うといいかな」と調整しながら話しているんだと思います。その子にとっての最適を一緒に探している感じですね。
不登校外来を受診したことがきっかけになって、子どもたちにはさまざまな変化が起こります。
不登校外来の場合は、1回の診察ですぐに変化が出るものではありませんが、鹿島先生と話したことによって気分が晴れて、学校に行けるようになる子もいます。本人が学校に行きたいと言っていても、ストレスが体の不調として現れているケースであれば、休むことが一番大事になることもあるのですが、鹿島先生と話すことで「今は休む」といった選択肢を受け入れられるようになる子もいます。
また、診察を重ねていくにしたがって、これから社会とどうつながっていくのかを改めて考え始めるようにもなります。例えば「通信制の学校に行こう!」と前向きな決断をする子もいるし、学校に戻っていく過程での困りごとを相談しにくる子もいて、子どもたちに起こる変化は本当にいろいろです。
病院に行くことで、ついつい早く結果を求めたくなりがちですが、子どもたちに起こる変化についてのお話をうかがっていると、子どもの数だけ道があるのだと思わされます。
鹿島先生が話していて印象的だったのが、「1回向かい合っただけで結論を出そうとすることがおかしいのよ」という言葉です。
1回の診察で「これで解決!」みたいなことはあまりなくて、「あなたを受け止めます」といった雰囲気のもと、定期的に来てもらうことで信頼関係を築き、より困ったときにアドバイスをする感じですね。不登校に関しては、薬で劇的に変わるようなものでもないですし、この人の話なら聞いてみようかと思ってもらえる関係性をつくることが何より大事です。
定期的に通う場が安心感につながる。信頼関係を築き、“想い”に伴走する
日常的に顔を合わせる人同士でも、信頼関係を築くのは簡単ではありません。診療の場でしか顔を合わせない医師と患者という間柄の場合、信頼関係を築く上で重要なのは定期的に来院してもらうことなのだそう。それが患者側の安心感にもつながるといいます。
実は、田中先生自身も子育てについて定期的に相談できる場があったことで救われた経験がありました。
私自身が自分の子どもの発達に凸凹があって悩んでいた頃、心理士さんに救われたんです。毎月、心理士さんに話しに行くんですけど、「今月はこんなに頑張れました」って話せることが励みになった経験があって。心理士さんに話すことで何かが大きく変わるわけではないけれど、話せる場があることが人を支えてくれる実感がありました。不登校外来であれ、心療内科であれ、そういう場を定期的に確保できることが安心感につながるのではと思います。
一口に不登校といっても、病院を訪れる親子の抱える事情はさまざまです。要素が複雑に絡み合っている場合には、時間をかけて「想い」に伴走していきます。
家族関係が複雑だったり、子どもの困りごとや親の悩みが込み入っていたりする場合は、介入してすぐに解決っていうのは難しいので、やっぱり伴走ですよね。子どもの想いに伴走し、親の想いに伴走する。そうこうしているうちに、本人が気づきを得て変わっていったり、保護者側が試行錯誤しているうちに悩みがほぐれていったりします。

「“子どもが成長する”というのが小児科の特徴なんです」と田中先生
「女性のための心療内科」を併設している意義
不登校外来は親子での受診になりますが、それと並行して、お母さんが「女性のための心療内科」を個人で受診するパターンもあるのだそう。女性のための心療内科は小児科や不登校外来と同じ建物内にあるので、なじみのないメンタルクリニックに通い始めるよりも受診のハードルがぐっと低くなります。
心療内科に「女性のための」という言葉を冠しているのには理由があります。
必要としている人に受診してもらいたいので、あえて「女性のための」とつけています。今の日本社会では子育て世代の女性の負荷が大きいけれど、それがなかなか可視化されていないですよね。本人はつらかったとしても「こんな悩みを相談してもいいのかな」とためらって、一歩を踏み出せない女性も多いんじゃないかなと思います。
だから、「女性のための」とつけることで、人知れず悩んでいる女性に「あなたのためのクリニックですよ」っていうメッセージを伝えたかったんです。
これが何十年かして、男女共に子育ても仕事も頑張って、みんな同じような感じだねという感覚を持てるようになったら、名称を変えられるかもしれない。でも、今の日本社会は、まだその段階ではないなと思っています。

クリニックのホームページに掲載されている受診の目安
女性のための心療内科ではどのような診療がおこなわれているのでしょう。
担当の浦川史歩先生は、まず「この時間は、あなた自身のために確保されているすごく大事な時間です。ここに来てくれてありがとう」と伝えています。その上で、「自分のために自分と向き合うことがすごく大事。あなた自身が満たされることによって周りを満たすことができるんですよ」という話をされています。
浦川先生の言葉で印象的だったのが、シャンパンタワーのたとえ話です。シャンパンタワーは、まずてっぺんのグラスが満たされないと周りのグラスは満たせませんよね。てっぺんのグラスが満たされれば、そこからシャンパンが溢れ出して周りのグラスを満たすことができるのと同じで、人間も自分自身が満たさないと周りの人たちを満たすことはできないと言うんです。
確かに、よかれと思って家族のことを優先するあまり、自分自身が満たされずにイライラして、結果として家庭内が険悪になってしまったのでは本末転倒です。
浦川先生は「あなたがどう思うか、あなたがどうしたいのかが大事」という姿勢で話をしていますね。次の診察までの期間に、自分自身を振り返り、客観視できるためのお手伝いをしている感じ。
子育てをしていると、自分自身と向き合う時間をほとんどとれていない人もいるのではないでしょうか。子どものことばかりに気を取られていると、自分と子どもとの境界が曖昧になって、いつしか子どもの問題が自分の問題のようになってしまうこともあります。
私もそうなんですけど、他人の子どもは一人の人格として客観的に見られても、自分の子どもとなると自分と一体として見てしまいがちで、どうしても期待や想いが入ってきてイライラしちゃうことがあるんですよね。「なんでやってくれないんだろう」とか、「なんでできないんだろう」とかって。
でも、浦川先生が「犬は猫にはならないし、猫は犬にはならない。その子なりの成長をします」って話されていて、私自身もハッとしたことがありました。
言われてみれば当たり前のことでも、日々の子育てに追われているうちに見えなくなってしまうことがあります。さらに、いろんな困りごとが絡まり合ってしまえば、自分では解決の糸口が見つけられなくて茫然としてしまうことも。そんなときは無闇に一人で思い悩むのではなく、心療内科を受診して専門医の手を借りながら丁寧に解きほぐしていくという選択肢があると知っておくだけでも、心にゆとりが出てきそうです。
一人ひとりに十分な時間をかけられるしくみをつくる
田中先生のお話を聞いていると、フローレンスこどもと心クリニックでは、どの先生も丁寧に患者さんに向き合っている印象を受けます。一般的な病院の診療は数分で終わる印象が強いのですが、クリニックでは1回の診療でどのくらいの時間をかけているのでしょう。
女性のための心療内科では、初診が30分、再診は10分。これはもう保険診療の制限によってこうせざるを得ないんです。保険診療の点数だけで回そうとすると、診療時間は5分とか、長くても10分が限界で。そうしないと、病院の経営が成り立たなくなってしまうんです。
ただ、うちの不登校外来については、初診45分、再診は15分としています。また、不登校外来、心療内科ともに30分の「特別再診」枠も設けています。これができるのは、「予約料」のしくみをとっているからです。
フローレンスこどもと心クリニックでは、予約料として初診8000円、再診3000円、特別再診5000円が設定されています。そうすることで、病院の運営費用を賄いながら、十分な診察時間を確保しているわけです。
また、田中先生は通いやすさを大切にしていてWEBでの予約にこだわっています。
働いているお母さんは、夜、子どもを寝かしつけた後にスマホで検索することも多いですよね。診療時間内の電話予約より、自分の都合のよいタイミングでWEBから予約できた方が圧倒的に通いやすさのハードルが下がると思っているので、私はWEB予約にこだわっています。ただ、最近は予約枠がすぐに埋まってしまう状態で、申し訳ないなと思います。
子どもの発達や心を専門にする病院の数は、この数年で着実に増えているのにもかかわらず、いまだに初診の予約は数カ月待ちという例も珍しくありません。
残念ながら、今の日本では診察を必要としている子どもの数に対して、子どもの発達や心を専門にする医師の数が十分ではないのが現状です。ただ、小児科医の中でも、子どもの心について、専門的ではないにしろ診れるようにしていこうと思っている医師は増えていると思います。
子どもの精神的な問題や心のケアに関する支援を提供する「子どもの心」相談医制度もできましたし、5歳児検診を始める自治体もこれから増えていきます。そういった場で問題を早期発見するためのスクリーニングをする仕組みができ始めているところです。
うちのクリニックも、今は予約がいっぱいの状況になっているのですが、できたらもう少し診療できる枠を増やしたいと考えていて。
今よりも受診のハードルが下がったり、不登校や子どもの心の問題、発達の問題、それから女性の困り感が世の中で認知されたりして、いろんな立場の人たちが動くことで困りごとが減っていくといいですよね。そのために、私自身はここで自分のできることを地道にやっていくしかないと思っています。

クリニックの壁には「親子と女性の『つらい』に共にたちむかう」という言葉が掲げられている
お母さんが一人で抱え込めなくて当たり前。「波長が合う人と巡り合えたらラッキー」といった心構えで
田中先生がインタビューの中で繰り返し口にしたのは、「子育ての問題は一人で抱え込めなくて当たり前」ということです。
お母さんが一人で子育てや家族の問題を抱え込むのは本当に大変です。そもそも一人で抱え込めるようなものでもないし、抱え込めなくて当たり前なんです。困ったときには一歩踏み出して、専門家に相談してほしいですね。
ときには、悩みに悩んだ末に踏み出した先で、つらい思いをしてくじけてしまうこともあるかもしれません。それでも、そこで諦めるのではなく、他を探してほしいと田中先生は強調します。
私自身も行政に子どものことを相談に行ったとき、1時間くらい話して、最後に「大丈夫ですよ。お母さん、もっと抱っこしてあげてください」という結論に至って、ものすごい虚無感に襲われたことがありました。そこに至るまでに、たくさん検索して、すごく頑張って相談に行ったのに、「ダメだった」と感じてしまうと、相談前よりも後退してしまうんですよね。
田中先生が自身の経験を踏まえて強調するのは、そこで諦めるのではなく、次を探してほしいということです。
1カ所に相談してうまくいかなかったとしても、他の選択肢があるかもしれません。別のところを探して、なるべく多くのチャンネルを持ってほしいですね。学校の先生に相談して解決しなければ、スクールカウンセラーさんもいるし、行政も、NPOも、私たちのようなクリニックもあります。
それから、身近なところに不登校で悩んでいるお母さんがいるかもしれないので、専門職に相談するだけでなく、親同士などの横並びの関係で悩みを話すのもいいと思うんです。いろんなところで相談して、自分だけで抱え込まないように、一人で苦しまないようにしてもらいたいと思います。
自分自身の経験から、私たちのクリニックは勇気を出して来てくれた人の気持ちをくじくようなことのない場でありたいと常々思っています。
今回、取材でうかがったのはインタビューのためでしたが、田中先生をはじめ、スタッフの方々の雰囲気には「自分の存在を丸ごと受け止めてもらえる」と思える安心感がありました。こんな場が日本全国に増えてくれたらと思わずにはいられません。それは単に同じしくみの施設が増えればよいということではなく、同じような志や想いを持った人によって編まれた場があったらということです。
私自身は人に自分の気持ちを話したり、悩みを相談したりするのが苦手で、困りごとを一人で抱え込んでしまいがちなところがあります。振り返ってみると、人に迷惑をかけてはいけない、自分さえ我慢すればいいといった思い込みに支配されて生きてきたように思います。
でも、困ったときに声をあげれば、世の中には手を差し伸べてくれる人がたくさんいる。
そんなことを実感した取材でした。
関連情報:
フローレンスこどもと心クリニック ウェブサイト
認定NPO法人フローレンス ウェブサイト
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(撮影/金澤美佳、協力/阿部みずほ、企画・編集/工藤瑞穂)