
生まれつき指がない右手を「ぐーちゃん」と名付けて発信しているむろいのぞみさんに出会ったのは、むろいさんのSNSの発信を通してでした。まとっている空気感や、「ぐーちゃん」の存在がとても可愛らしくて、気づいたらいくつかの動画をみていたことを覚えています。
むろいさんは生まれつき手足の欠損がある障害「先天性四肢障害」の当事者。俳優活動や、発信活動をしながら、障害者施設で働いています。
自分の見た目や、他者との違いによって、自分が人からどう見られているかについては、きっと多くの人が悩むことだと思いますし、私自身も考えることがあります。「気にしないで生きる」「違いを受け入れる」などと言ってしまえばシンプルな話ですが、そう簡単にできることではありません。どうしたって生まれてしまう他者との「違い」と、どのように付き合っていくことができるのか……
障害があることでの周りとの違いや悩み、日常の工夫、日々の楽しみ、お仕事のことなど、ご自身の障害のこと、それ以外のこともフラットに並べて自然体で発信するむろいさんからは「誰だって人と違う部分を持っているし、いろいろなことに悩みながら生きているのだな」とパワーをもらえる気がして、ぜひお話を伺いたいなと思いました。
むろいさん自身、ずっと今のような考え方だったわけではなく、障害について気にならなかった時期、そして悩み苦しんできた時期も過ごしてきたのだそう。今回は幼少期まで遡って今に至るまでむろいさんはどんな経験をしてきたのか、そして今は障害をどのようにとらえているのかなどをじっくりお話していただきました。
「指がなくてもなんでもできる」そう自信を持って過ごしてきた幼少期
ーー今日はよろしくお願いします。まずは幼少期まで遡って、どんな子どもだったか、どんなふうに過ごしていたか、教えていただけますか?
小さい頃は本当にやんちゃで、楽しいことが大好きで常に走り回っていて。親は手の障害より落ち着きがないことが心配だったと言っていました。元気すぎて困っちゃうくらい(笑)。体を動かすことも大好きで、サッカーやバスケ、水泳を習っていました。
両親は私の手に障害があるからこそ、色々な人と関わって知ってもらおうという考えを大切にしていて。親が同行しない、大学生の人が連れていってくれるキャンプとかにも何回も参加したり、活発な幼少期でした。
ーー「落ち着きがない」って、今のむろいさんを見ていると意外です!
よく言われます(笑)。

ーーご自身の手の障害のことはいつ頃から意識し始めましたか?
小さい頃から親が「お母さんのお腹の中で手に怪我をしちゃった」と分かりやすくしっかり説明してくれて。「困ることがあったら『困っているから助けて』ってみんなに言うんだよ」って教えてもらっていました。
この手のことを「ぐーちゃん」って名付けてもらって、「可愛い手だね」と言ってくれていたんです。私も右手のことを「ぐーちゃん」って呼んで、「可愛いな」と思って過ごせました。
この頃から周りとちょっと違うっていう自覚はありました。ただ「私はみんなと違うから色々できない」と思うんじゃなくて、逆に「指がなくても色々できる」という自信がすごくあって。幼稚園、小学生の頃は「なんでもできるんだ」と自分に自信を持っていました。
ーー親御さんからの言葉を素直に聞いていたし、実際に生活する上でご自身もそう思っていたんですね。
そうですね。親も口に出して私の障害のことを話してくれていたので、別に隠す必要がないんだなって気持ちでいたんですね。だから「障害があるから」というふうに自分をあまり見ていなかったというか。「普通に生活をしている中で指がないだけ」と思っていました。
ーー病院で診断を受けたのはいつ頃ですか?
1歳半か2歳の時に手の専門の医師の方に診ていただいて、その時にたくさん検査をして診断を受けました。
医師の方には「治るものではないから通院はしなくていい」と言われたので、以来通院や治療はしていないです。

なんでもやりたい。前に出たい気持ちで、積極的に過ごした小学生時代
ーー小学校に入学してからのこともお聞きできますか?
小学生の頃は幼稚園が同じメンバーもいて、入学前から私のことを知っている子が多かったんですよ。自分のことを受け入れてくれている子たちがいたので、落ち着いて過ごせていたと思います。
あとは思春期になると全くなくなるんですけど、小学生くらいまでの間はみんな純粋に手のことを気になってくれて「手触らせて」とか言われることもあったんです。
ーー手に触れられることについてはどう感じていましたか?
障害のこと自体あまり気にしていなかったので、「触らせて」って言われたら普通に「はい」って手を出して握ってもらっていました。
中には、初対面で興味を持ちすぎてしまった子に「手見せて見せて」ってトイレまで追いかけ回されたりもしたんですけど(笑)、自分は嫌だなっていう感情はなくて。障害に対してマイナスな気持ちがあるからではなく、単純に面倒くさいに近かったので、「見せたくない、めんどくさいよ!」って言っていました。周りもマイナスな気持ちになるようなことを言ってくる子はいなかったかなと思います。
ーーInstagramの投稿で、小学校の頃「ぐーちゃん」のことを書いた日記がありましたね、すごく可愛らしくて。当時はどんなふうに「ぐーちゃん」のことを思って過ごしていましたか?
あの投稿は、小学校で「昔の自分を振り返ってみよう」という課題が出された時に書いたものなんですけど、自分で思いついたわけではなくて、親に「書いてみたらいいんじゃない?」って言われて書いた感じで。それに対して自分も抵抗がない、くらいの気持ちではいたんだと思います。
あの日記は廊下に貼り出されて保護者の人も見ていたと思うんですけど、きっと親は「みんなに知ってもらう」という狙いがあったんじゃないかな(笑)。私も別にみんなに見られることも気にはならなくて。
小学生の頃は何でもやりたくて、前に出たいという気持ちがすごく強かったので、手のことを全く気にせず実行委員でリーダーをやったり、すごく積極的な方だったと思います。
楽しくやっていたし、先生も、障害があるから主役になれないとか前に出さないとかは一切なかったので、学芸会のオーディションで主役に立候補して、何人か候補者がいた中で選んでもらえたんですよね。それもすごく自信に繋がったし、周りの人ありきで自分も積極的に動けたのかなって今は思います。

ーー日常生活で何か周りからサポートを受けることはありましたか?
サポートしてもらう場面というのはそんなに記憶に残っていなくて。ということはあまりなかったんだと思います。
ーー私も幼稚園から小学校まで一緒だった友人が、先天性四肢障害で指がなかったんですけど、特にサポートが必要だった印象はなくて。色々工夫してたんだと思いますが、ほとんどのことを一人でやっていたように思います。
思い当たるのはリコーダーを吹くときとか?指がないので穴を塞げなくて。もともと穴が塞いである、指がない子用のリコーダーがあって、音楽の先生がそれを提案してくれたんですけど、私は逆にみんなと一緒のリコーダーが良くて。結局断って、普通のリコーダーでクッションとかを足に置いてなんとか固定して、手で穴をおさえていました。
昔から工夫はしてきたので、壁にぶち当たった時にどうすればすり抜けられるかという工夫する力が身についてはいて。
もちろん周りの人に助けてもらうこともあります。幼稚園の頃に創作ダンスをやったときは、一人ずつ両手でテープを持たなきゃいけない場面で、私は右手でテープを握れないので、ブレスレットみたいにテープをつけられるように先生が考えてくれたって親から聞いたので。
小さな頃から周囲に助けられたり、アイデアをもらって、それを取り入れながら少しずつ学んでいって、今のように工夫できるようになっていったのはあると思います。
周囲との違いが気になりはじめても、誰にも相談できなかった
ーーその後中学生、高校生と歳を重ねていく中で、日常はどう変化していきましたか?
中学で受験をして新しい環境になったんですけど、自分のことを全く知らない人たちに一から知ってもらわないといけないというのが初めてで、手のことはどう説明したらいいんだろう、どう受け入れてもらえるんだろう、と不安が強くなって。
でも実際、みんなが私の手のことを色々言ったり、手のことが原因で仲間外れにされるという経験はなかったんです。
中学は女子中だったんですけど、高校は共学に行ったので男子もいて、「どう関わったらいいんだろう」と。
新しい環境に変わっていく中で「あ、私障害を持っているんだな」と自覚が芽生えて、気になることも増えてきましたね。多感な時期なので、どうしても写真に手が映ったときとか、体育の授業でサポートしてもらわなくてはいけないときに気にしてしまったり。普通の日常生活で友達と関わるのも、恋愛する中でも課題がありました。

ーー思春期は特に周囲との違いが気になる時期ですよね。学校では障害について、先生から全体に伝えてもらうこともあったのですか?
毎年学年が変わるタイミングでクラスメイトに、先生から自分の手のことを説明してもらっていたんです。その後の休み時間にはみんな集まってきて、色々お手伝いの声がけをしてもらったりしたこともありましたね。
でも普段は、自分が悩んでいることを表に出して聞いてもらうことで気まずくならないかなとか色々考えてしまって、障害について口に出して話すことは全くなかったです。
ーーそこは小学生の頃から大きく変わったところなんですね。
先生は親身になって声をかけてくださるんですけど、日常生活で一緒に過ごしている時間が多いのは友達なので。小学校の時は口に出して障害のことを聞いてくれたり、「可愛い手だね」と言ってもらっていたところから、全くなくなったのは大きくて。
手の障害のことは多分知ってはいるけど気を遣いすぎて聞かないのかなと。周りもどう接したらいいのかわからない状態だったんだとは思います。
自分も障害のことを口に出して言わなかったので、助けてほしい時にも「助けて」って言いにくくなっちゃったんですよね。あの頃は勇気が出なかったし、どうしていいか分からなかったというのがあって。一人で抱え込んで悩んでいましたね。この頃が一番きつい時期だったと思います。
自分自身、手のことを話題に出したり、「悩んでいるんだよね」ってもう少し伝えられたら良かったな、助けてって言える環境を作れていたらなって思いますね。
ーー悩んでいたことは誰かに相談していましたか?親御さんとか…?
思春期は親とも全然喋らなくて。手のことが原因ではなくて単なる反抗期であまり喋らなかっただけなんですけど。
ーーそうだったんですね。この時期、何か支えになったことはありますか?
仲のいい友達と何気ない日常生活を送れるのは楽しかったですし、先生も色々気にかけてくださって。それも過干渉しすぎず、自分が「できないから助けてください」と言うとちゃんと考えてくださる方が多かったんです。
例えば、家庭科の授業でりんごの皮をぐるぐる繋げて剥いていくテストがあって、私がやったらすごく時間がかかるんじゃないかなと感じて。そもそもやったことがなくてできるか分からなかったので、「事前に練習してみたいです」と先生に言ったら、一緒に手伝ってくれました。
実際にやったら上手くいかなかったんですけど、自分から「やりたいです」と言って練習をしたという主体性や努力込みで評価してもらえて。すごくありがたかったなと思いますね。
アルバイト面接に40〜50社落ちて、初めて手の障害のことで“拒否された”ような気分に
ーー大学は福祉学科に通われたとのことですが、進路はどのように決めましたか?
元々は昔からドラマを見るのが大好きで、小さい頃学芸会で主役をやったように、セリフを覚えて誰か他の人を演じるということにすごく興味があって。子どもの頃から家で一人で演じたりもしていたみたいです(笑)。
高校の頃には事務所を受けてみたんですけど、手の障害が原因で「合格は出せるけど仕事があるか分かりません」と言われて。今は少しずつ増えてきたと思うんですけど、障害を持っている人が俳優活動をするのが、当時はあまりなかったので、自分が先駆者としてやるというのは難しいと感じてしまったんですね。
俳優の夢は諦めて、何が自分にできるかなと考えた時に、幼い頃から色々な方々に支えられてきたし、あとはおばあちゃんとおじいちゃんがすごく大好きだったので、色々な人と関われる福祉のお仕事ができたらいいなという気持ちで福祉学科への進学を決めました。

ーー実際に大学生活が始まってからはどんなふうに過ごしていましたかでしたか?
普通の大学生として過ごしていて、みんなアルバイトを始めていくんですけど、私もやろうと思って面接を受けたら、落ち続けてしまったんですよね。1社目は落ちた理由を言われなかったんですけど、色々な所の面接に落ちるうちに、例えば「その手で大丈夫なんですか?」とか、「店長はOKだけど上の方にダメって言われたので、ごめんなさい」とか、手の障害が原因なんだろうなと感じることを言われて。
合計40〜50社くらい、毎日面接を受けては落ちることの繰り返しという生活が大学1年の時は続いていました。
ーーアルバイトの面接の時、手のことは予め伝えるようにしていたんですか?
そうですね。雇用された後に分かって色々問題になったら怖いと思ったので事前にお伝えはして。「でもできることも多いし、できないことの方が少ないんです」と話して、実際に作業をやらせていただいたりしたんですけど、できることすら「できないでしょ?」って言われたり。受かりそうで受からない時もあって、泣きながら帰ったこともありました。
あとは接客業だと「お客さんがびっくりしてしまうから」と言われてしまったり。だからなるべく裏方のお仕事を探して、やっと受かったのはスーパーの品出しでした。
ーー40〜50社受け続けるというのが本当にすごいなと思います。何か原動力はあったのでしょうか?
私の場合は、今まで手の障害のことを「受け入れられて生きてきた」というのが強いと思います。
アルバイトがこんなに決まらなくて、初めて手の障害のことで“拒否された”ような気分になったというか。「今まで受け入れてくれていた人もいたのに!だから絶対いるはず」という気持ちになって、「じゃあどうせなら受け入れてもらえる人が見つかるまで探し続けよう」と思いました。
負けず嫌いの面もあるのですごく火がついたというか(笑)。逆に落ち込んで「じゃあいいや」ってならなくて良かったなと今は思います。挑戦して色々な所に行ったからこそ、最終的に受け入れてもらえたところもあったと思うので。
ーーそうですよね、挑戦し続けたからこそだと本当に思います。実際アルバイトを始めてみて、どうでしたか?
働く先が決まってしまえば順調で、特に手のことで業務に影響を与えることもなかったと思います。あとは、実際に働く中で自分の「働くこと」への意識が変わって、アルバイトでこんなに落ちるっていうことは、就職も危ういかもしれないって考えたんですよね。だから大学時代は色々経験を積んで「私はこれだけやってきました」とアピールすればきっと、就職先の人に「こんなことできるんだね」と思ってもらえるかなと思って。
あらゆるボランティアに行って、小さい頃に自分が参加してた、乗馬やキャンプをする団体に子どもを連れていく側として入ってレクリエーションを企画したり、障害のある子どものためのホースセラピーに関わったりして。自分の売り込みポイントをたくさん作るということに費やした大学4年間でした。
ーーすごい!就活に向けてそんなに早くから準備されていたのですね。
あとはバイト先も増やして、掛け持ちで障害児の放課後等デイサービスでも働きました。そこは一発で受かったので福祉系のアルバイトは手の障害も込みで考えてくれるのかなと思いましたし、アルバイト先ではすごく楽しく過ごせていました。
ーー実際に就活はどうでしたか?
キャリアセンターの人に自己アピールを書くのを手伝ってもらったんですけど、「書くことがありすぎて絶対大丈夫だろうね」って言われて(笑)。実際に3社受けて3社とも大丈夫だったので、そこはすごく大きな自信に繋がったなと思います。
就職先は福祉系以外も選択肢に挙げたかったんですけど、やっぱり手の障害のこと込みで考えるとできることって少ないのかなとアルバイト面接で感じてしまったので。人が不足している福祉系が一番採ってもらいやすいのかなというのも、正直考えていました。
ーー実際にアルバイトもされていたんですもんね。
はい。障害児に関わることをやりたかったんですよね。障害児の方が入所されている施設や放課後等デイサービスとかがいいなと思っていて。大学のキャリアセンターで教えてもらったことをきっかけに今の職場に出会って、就職することになりました。
就職先のグループホームでいきいきと暮らす利用者さんたちを見守る日々
ーー今のお仕事について簡単に教えてください。
配属先は知的障害のある利用者さんが住んでいるグループホームで、希望していた障害児に関わる場ではなかったんですけど、働いてみたら楽しいです。
利用者さんの生活を支えるお仕事なので、近い距離で関わることが多くて、日常生活を送る上で少し難しいこととか今後の人生について相談に乗ったりして。難しいですけど、それを乗り越えて利用者さんがいきいきと暮らしている姿を見ると、すごくやりがいを感じます。

知的障害の方のことって一般的に知る機会が少なくて「どういう方なんだろう」とわからない場合もあるとは思うんですけど。関わっていく上でもちろん色々なことがあるんですけど、すごく純粋なお人柄に触れたり、ほっこりするエピソードも多いです。
利用者さんはすごく積極的に手のことに関心を持って、嫌味なしに純粋に「どうしたの?」「指は生えてくるの?」と聞いてきてくれるんですね。私的にはそれがすごく心地よくて。
逆に一緒に働いている職員の方がそれを見て「そこまで言わなくても」って利用者さんを止めていたりして。そこで反応の違いが見えて「すごく気を遣ってくれているのかな」と最近感じました。
「学生時代の友人たちとも、利用者さんとの関係性のようにいられたらよかったな」って思う面もあります。

ーー働く中で手の障害のことで、周囲にサポートしてもらっていることなどはありますか?
利用者さんの洋服を着脱する時にチャックが噛み合わなくて上手くできない時があって、他のスタッフの方にお手伝いしてもらったりするんですけど、それ以外特にお願いすることは基本的にないかなと思います。
障害者モデルのオーディションをきっかけに、憧れていた俳優の夢へ挑戦
ーーモデルや俳優としてのお仕事は、グループホームでのお仕事を続けながら始められたんですか?
はい。高校生の時に俳優の夢は諦めたものの、大学生の頃からは友達に誘われてドラマのエキストラに行ったりして、それがすごく楽しくて。色々な現場に行くことが増えて、改めて演技をやりたいなと思う気持ちはあったんです。
ドラマのエキストラって、例えば俳優さんのお友達役なんかを「あなたやってください」とその場で言われるんですけど、選んでいただくことも多くて。でも手が映ってしまうので、スタッフの方に「生まれつき指がなくて」とお伝えすると「じゃあ後ろに回ろうか」と変えられたりして。
「やりたかったのにな」という思いもありました。でも楽しくやれてはいるから今後もそれでいいかなと思っていたんですけど。
2021年、25歳の時に偶然障害者モデルのオーディションをXで見つけて、思い立って挑戦してみたらグランプリに選んでいただけて。最初はSNSにモデルとして写真を載せてもらう形だったんですけど、後にオーディションの繋がりで障害のある人の芸能事務所にスカウトしていただいて、1年間ほど所属していました。
ーーそこから長年の夢が動き始めたんですね。
すごく楽しくて、自分でも輝ける場所があるんだって。障害があってもできることがある、受け入れてもらえる場所があるというのはありがたいことだなと思いました。
その後もレッスンとかも受けていたんですけど、自分が発信したいことと事務所の方針が違うこともあったので、今は事務所を退所してフリーで活動させてもらっています。

ーー大学時代、一度夢を諦めたとおっしゃっていた時から今だと少し時代も変化している部分があるのでしょうか?
そうですね。障害を持っている当事者本人が障害者の役を演じている時代に少しずつなっていると思います。
ただ、オーディションも受けているんですけど、障害を持っている人の役だと私の場合は手を下げていたら健常者に見えてしまうので、もう少し特徴としてわかりやすい障害の方が選ばれやすいのかなとは感じています。
オーディションでいい所までいったけど落ちてしまうことも多くて。もちろん自分の実力不足で、努力次第な部分が大きいんですけど。私は健常者にも障害者にもなりきれない中間の地点にいるなと、悩むところではあります。
でも時代が変化していく中で、この先どうなるかはわからないので。本当に俳優として活動したいという思いがあるので、私は障害者役でも健常者役でもいいんですが、一つの願いとしてはいつか障害の説明もなく色々な役柄で出演できるような時代になればいいなと思います。
発信活動をはじめて、“自分のことを受け入れてくれる場所ができた”感覚に
ーー今はSNSなどでの発信活動も活発にされていますよね。障害をオープンにして発信をするのはなかなか勇気がいることだったんじゃないかって思います。
元々は大学で障害児の発達を促す施設に1ヶ月実習に行った時、障害のあるお子さんの親御さんが実習生の私に、子どもの将来への不安について話してくれたことがきっかけで。同じ障害を持っているお子さんの親御さんに、私が届けられることもあるのかもしれない、何か発信できればとずっと思っていたんです。

でも勇気が出ずになかなか発信できていなかったんですけど、障害者モデルオーディションでグランプリを獲った後、大勢の人の前で自分をプレゼンテーションする機会があって、初めて自分の障害のことを公に話して、殻が破れたというか。これがきっかけになって発信を始めました。
それまでは見られて恥ずかしい、知られたくないという思いもありましたが、「意外といけるかも!」と思えたのかなと思います。
ーー最初から動画の発信をされていたんですか?
はい。2022年ごろから発信をはじめて、最初はInstagramとTikTokで同じ動画をあげていて、100人くらいに見てもらえればいいやという気持ちだったんです。
でもやっていくうちに色々な人に見ていただけて。一つの動画の再生回数が上がると他の動画も再生されるので、当初はどんどん再生が増えていくから怖かったんですけど、コメントがすごく温かくて、今は怖さはなくなりましたね。皆さんの言葉が私を前向きにしてくださったと思います。
発信前は正直厳しい言葉の方が多いんじゃないかなと勝手な偏見があったんですけど、そんなことなくて。もちろん厳しいお言葉をいただくこともありますが、それよりも温かい応援の言葉だったり、「私の友達にも同じ障害があります」と言ってくださったりで、自分のことを受け入れてくれる場所ができた感覚というか。
障害をオープンにして発信することで共感を得られたり、「勉強になったよ」って言ってくれる方も多いんです。普段の日常では出しにくい部分をSNSではさらけ出せて、色々なご意見をもらえるのはありがたいことだなと思っています。
ーーフォロワーの方からの反響で、特に印象的だったものはありますか?
同じ手のことで悩んでいると相談してくださった方に対して私も返事をして、その後に「こういうことができるようになりました」とか「のんちゃん(むろいさん)の工夫を見て真似してできるようになりました」っていう報告をいただけることも多くて、それがすごく嬉しいなと思います。
ーー同じ障害のある方もいらっしゃるんですね。
私はこれまでの人生で同じ障害のある方との出会いがなかったんですけど、SNSをはじめてからは繋がりができて、一緒に出かける機会も増えました。
側からその子を見ていると「ちょっと大変そうだな」って思うことがあって。何かを押さえながら作業していたりして「手伝おうか?」と聞くと「全然大丈夫」と言っていたのですが、ちょっとヒヤヒヤするというか、ものが落ちそうだなとか、手伝ってあげた方がいいのかなと感じたので、「私も多分こう見られているんだろうな」と。同じ障害の子とお出かけして自分のことが客観的に見えた部分がありました。
あとは車椅子ユーザーの方と過去にお出かけしたとき、私とは違う障害で知識がないので「どうサポートしたらいいんだろう」と会う前日にふと考えたんですよね。実際にお出かけしてみると「こういうふうに手伝ってくれる?」とその方が言ってくれて、「こうやってサポートをお願いしたらいいのか」と思いましたし、知らないことってたくさんあるなと感じました。
「手伝ってと伝えたときに、手伝ってもらえる関係が嬉しい」時にはものや人に頼りながらの暮らし
ーー日常生活でどういった工夫をして暮らしているかを教えてもらっていいですか?むろいさんの中では自然に、無意識にされていることかもしれませんが…。
最近は物に頼るようになっています。例えば、玉ねぎのみじん切りもできなくはないんですけど、結構危ないのでブンブンチョッパーという食材をみじん切りにできるアイテムを使ったり、化粧水を手に一回出してパシャパシャする時に右手に出すとポタポタ落ちてくるので、スプレーボトルで直接顔に吹きかけるようにしたり。
でも本当に最近までは物に頼ることをしたくなかったんですよね。「自分の力でできる」という謎のプライドがあって(笑)。
ーーでもそのおかげで身につけたものもありそうですね。
そうですね。例えばナイフとフォークでお肉を切るとき、以前はお肉にフォークを刺してそれを右手で押さえて、左手でナイフを持ってギコギコしていたんですけど、不安定なのでお肉が床に落ちて大惨事になってしまったことがあって。それ以来、事前にカットを頼んだりしています。
失敗から得た経験もすごくあるなと思います。無理矢理工夫をすることでかえって周りに迷惑をかけてしまうこともあったので、人に頼ることの大切さを知ったというか、お願いした方がいいなって思うようになりました。

ーーサポートをしてほしい時、リクエストはどんなふうに伝えますか?
何かをやってほしい時は明確に「これを手伝ってくれる?」と伝えていますが、基本は大きなお手伝いはなくて。両手が塞がってしまった時に「ちょっと持っててくれる?」とか、「ボタンが早く留められないからやってくれる?」とか、簡単な作業をお願いしています。
今はもう周りを頼ってもいいんだと思えているし、実際にお願いすることも増えていますが、思い返すと高校や大学の時は、本当に仲の良かった子にしかあまり頼めなかったかもしれないです。
ーー世の中には本当は困っていることがあるならサポートしたいと思っていても、声がけに悩んだりする人もいるのかなと思うんですが、むろいさんだったらどんな声がけやサポートをしてもらえたら嬉しいですか?
自分でできることもありますし、できないことは「手伝ってほしい」と言えるので、そう言われたら手伝ってくれたらありがたいなと思います。
先ほども少し話しましたが、中学で先生がクラスに私の障害のことを説明してくれた時、先生は「必要な場面ではむろいさんが伝えるので手伝ってあげてください」と説明してくれたんですけど、その直後クラスの人たちが「カバン持とうか?」「クリアファイル入れようか?」と集まってきてしまって(笑)。
お手伝いで溢れちゃったというか。どこまでお手伝いしたらいいのかという塩梅が難しくて「手伝うよ、手伝うよ」という状態になったんだと思います。
本当にありがたいんですけど、私自身は手伝ってと伝えたときに、手伝ってもらえる関係が嬉しいです。

ーー確かに、人それぞれサポートしてほしい部分も違うはずですし、本人に確認することが大切なんだなと思いました。むろいさんはご自身の障害のことは、どのタイミングでどんなふうに相手に伝えていますか?
最近出会う人は仕事関係の方が多くて、頻繁には会わないという人もいるので、あまり手のことは伝えていなくて。しれっといつか自然に知ってもらえたらいいやくらいの気持ちでいます。
ただあるべきものがない障害ではあるので、見た目でパッと見た時にびっくりされる方もいるから、配慮はした方がいいかなと自分の中で思っていて。さりげなく出したり、事前に伝えられるんだったら事前に伝えたり様子を見て対応しています。
障害について悩む「ぐーちゃんイヤイヤ期」は思いっきり悩んで、1日で気持ちを切り替えて生きる
ーー障害のことを人に伝えるのが難しかったという時期を経て、今むろいさんは手の障害をオープンにして世の中に発信していますが、気持ちとしてはどんな変化がありましたか?
昔より悩むことは減ったけれど、手の障害のことを今も受け止め切れたわけではない部分があるんだとは思います。
学生時代は人と距離を置くくらい本当に悩んで。「悩むことはよくない」と思う方もいると思うんですけど、私にとっては悩むことがあったからこそ前に進めたというか、悩みすぎて悩むことがなくなったというか、限度まで達してもういいやってなったというか(笑)。
悩み疲れたから下がるんじゃなくて、悩んだ時期があったからこそ今後どう障害と付き合っていくか考えて、「うまくこの手と付き合っていこう」ってなりました。ずっと悩んでいる人生ももちろんいいと思うんですけど、悩みつつ気持ちを切り替えつつ楽しく生きた方が私は楽かなと思いました。
この先指が生えてきたり、治療で治るわけでもないので、今後も悩みは続くとは思うんですけど、「悩むことも私だ」と受け止めてはいて。悩むのって結構体力がいるというか疲れるので、その度気持ちを切り替えつつ、楽しく生きられればいいかなと思っています。
ーー「今後も悩みは続く」と前もって理解しているだけでも、心構えが変わってきそうですね。
私は大体月1回くらいで自分の障害について考える機会がやってくるんですね。例えば、障害のことを聞かれて上手く答えられなかった時とか、ふと「私、指ないな」と思った時とか。結構落ち込む時期があるんですけど、それを「ぐーちゃんイヤイヤ期」って名付けて、そのことは一日悩み切って次の日に持ち越さないようにしようと考えて、切り替えて過ごしている感じです。
やっぱりずっと悩んでいるとキリがないので。それに引っ張られていたら仕事で失敗してしまうかもしれないし…。嫌な気持ちをずっと持っているよりは、気持ちを切り替えて生きていこうと自分の中では決めています。
私はアイドルが好きなのでライブに行ったり、買い物に行ったり、友達と遊びに行ったり、みなさんがしているような気持ちの切り替え方と同じだと思いますが、その時に合った切り替え方をして、自分の機嫌をとっています。
ーーむろいさんの発信からも好きなことを楽しんでいる様子が伝わってくるなって思います。
発信していると「のんちゃん(むろいさん)は上手い生き方をしているね」と言われることもあるんですけど、私も同じ障害があって発信している方を見ると「すごいな」って思うんですよね。だから本当にないものねだりというか。自分がすごいわけじゃなくて、多分みんなきっといい部分を持っているので、そこを活かしつつ楽しく生きていければいいんじゃないかなと思います。
私が小さい時、同じ障害を持った人に出会えたのは、テレビや新聞などのメディアを通してでした。そこでは一部を切り取って取り上げているので、悩んでいる部分ってなかなか見れないじゃないですか。
だから「障害を持っている人たちって努力をしないといけないんだ、受け止めないといけないんだ」とプレッシャーに感じて。その気持ちとは裏腹に、自分は障害をなかなか受け止め切れない苦しさがあったんです。
でも大人になって、そのメディアに出ていた人たちだってきっと裏で悩んでいたんだろうなと気づけたんですね。だから私は、良いことだけではなくて、素直に悩んでいる部分とかも発信しています。同じ境遇で悩んでいる方も「私も一人じゃないんだ」と思ってもらえたらいいなと思っています。
ーー今むろいさんの中では「ぐーちゃん」はどんな存在ですか?
昔から自分の中では当たり前の存在で、自分の体の一部なんだというのは基本的に変わっていないです。悩むことも色々あったけど、「ぐーちゃん」のおかげで前に進めることのほうが多かったというか、障害がなければSNSでも発信していないし、行動を起こすこともなかったなと思うので、自分が前に進めるきっかけになったという意味で「ぐーちゃん」があって良かったなとは思います。
ーー最後に、今人との違いのことで悩んでいる方に伝えたいことがあれば教えてください。
私は障害について悩んできたことも多いんですけど、悩むことは悪いことではないと思うので、ずっと悩みたいなら悩んでもいいと思うし、なんていったらいいんだろう…人それぞれのペースで生きていけばいいのかなとすごく思います。
私は割とマイペースなところがあるのに、人から何か言われるとすぐに焦っちゃったり、「こうしなきゃいけない」と感じすぎてしまうことがあったんですけど、そうやって周りに合わせて無理矢理やろうとしてもうまくいかなかったんです。
だから前を向けるときに前を向いたりとか、悩むのをやめようと思えたタイミングで悩むのをやめたりとか、とにかく「自分のペースを大切にしてください」と伝えたいです。

(撮影/久松澄玲、編集/工藤瑞穂、企画・進行/松本綾香、協力/遠藤愛)
