
人間として生まれて、生きる目的や意味は何なのだろうか。そんなことを、ふと考えることがあります。
目標があり成果が見えているときは前向きになれる一方で、「右肩上がりの人生」こそがよい人生なのだという感覚に、知らず知らず縛られているのかもしれません。
人生が上向いていないと感じるとき、その状態を「よくないもの」「抜け出すべきもの」と捉えてしまうと、生きることは一気に苦しくなります。立ち止まっている自分を否定し、苦しさを抱える自分を恥じてしまう——私にも、そんな経験が人生で何度もあります。
けれど、人生はうまくいっているかどうかだけで測られるものではないはず。苦しさや迷い、行き詰まりは、本当に避けるべきものなのでしょうか。
そんな問いが浮かぶとき、思い出すのが向谷地生良さんの存在です。
向谷地さんは、精神科病院を退院した当事者を中心に始まった「どんぐりの会」をルーツに、1984年に地域活動拠点である浦河べてるの家を立ち上げました。べてるでは、共同生活と仕事づくりを通して多くの人が日々を共にしています。
また、一人ひとりが自分の生きづらさを持ち寄り、仲間と研究し合う「当事者研究」という実践を続けられてきました。
苦しさや困りごとを否定すべきものではなく、希望や可能性として捉える向谷地さんの考え方は、私自身の人生を大きく変えるきっかけにもなっています。
自分の苦しみは、自分だけのものではないこと。
個人の抱える困りごとは誰かと共有できるものであり、みんなの知恵や財産になりうること。
そして、共に経験を分かち合うことそのものが、希望になるということ。
現在70歳の向谷地さんが、どんな経験を重ね、何を大切に生きてきたのか。これまでの歩みをお聞きしました。
「自分」という言葉から距離を取って、「人間」や「世界」で物事を捉える
ーー今回は、向谷地さんがどのように生きてこられたのか、そして人生の意味をどのように捉えているのかを伺いたいです。
目標ややりたいことがあると、すごく充実して前向きでいられる一方で、「よい調子が重なっていかないと、いい人生ではない」という感覚にもなりやすい気がしています。「何をやったらいいかわからない」ときや、「人生が上向きになっていない」と感じるときに、人生が苦しくなる。苦しい状態はよくない、という前提で生きてしまうというか。
私自身もそういうところがあって、苦しいことが少なく、物事がうまくいっている人生が「よい」と思うほど、そうではないときに自分を責めてしまう感覚があります。
向谷地:大事なポイントですね。私はとにかく、「自分」とか「私」に関心を寄せるためにも、逆に「自分から距離を取る」、という感覚、立ち位置を大事にしてるんです。
自分に対して、あえて“他人行儀”に、いつも「人間」とか「人類」とか「世界」とか「歴史」とか、そういう括りで前に立っている感覚がある。すると、あんまり「どうして自分は……」というような、「自分」という世界が大きくなって、その中で“グルグル”する、“クヨクヨ”するということは、あまり起きないですね。
ーー自分という世界が大きい?
向谷地:東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎さんが、「ルミネーションとリフレクション」という話をよくされています。
何か壁にぶつかったときに、「どうして自分は」「誰が悪いのか」と反芻モードで、“グルグル、クヨクヨ”と自責、他罰的に反省を繰り返すのが「ルミネーション」。「自分に何がおきているんだろう」「どうして人間はこうなんだろう」と、興味関心から現象として“ワクワク”しながら省察モードで考えるのが「リフレクション」、という違いですよね。
どっちかというと私は、子どものころから、好奇心のほうが強いな、と思いますね。
ーーリフレクションのほうが強いということなんですね。
向谷地:そうですね。不思議とそっちには、あまり行かなかった、という感じがします。
今までを振り返ると、子どものころからどこか遠いところから「人間は」「人類は」「世界は」「社会は」という、そういうくくりで世の中を“ぼんやり”と見ていた感覚があるんです。例えば、うちの親が結婚して、私たちが生まれたわけですよね。
そのときに、「人が人を好きになるって、どういうことなんだろう」とずっと考えていたんです。このお菓子が好き、この人形が好き、というのは分かる。でも「この人が好きだから結婚する」「この人と一緒に暮らす」というのは、それと何が違うんだろう、と。
子どもって、わりと早い時期から「死んだらどうなるんだろう」と考えますよね。私もそうでしたし、近所でお世話になっていたおばあちゃんが亡くなったときも、ものすごく考えました。でもそのときも、「自分はどう感じたか」というより、「人間は」というところで考えていた感覚がありますね。
ーー周りの同じ年齢の子たちと自分との違いを感じたことはありましたか?
向谷地:それは正直、よく分からないですね。ただ、周りから見たら「不思議な子ども」だったかもしれない。母親が言ってたんですけど、小学生の時、一泊二日の子どもキャンプに行っても、誰とも話さない、とか。
小学校の時に、先生からつけられたあだ名が“のほ”(“のほほん”としているの意)で、「打てど響かない」というか、あまり分かりやすい感情表現をするタイプではなかった。妹からも「ボーっとしていた」「反応がない」と言われていました。
親との関係性から学んだ、前向きな意味で現実と距離感をとること
ーーご両親から受けた影響があれば、教えてください。
向谷地:父は教員で、母は専業主婦でした。親戚間でも揉め事が多くて、母はいろんなことをこぼしていました。そういう話を、子どものころからよく聞かされていた記憶があります。
夜中に、母と父が死に物狂いで喧嘩をすることもありました。母は感情的になると刃物を振り回すタイプで、父は「まあまあ」となだめる役。小学校二、三年のころ、喧嘩をする親たちの怒声を聞きながら、布団をかぶって泣いていた記憶があります。
母の逆鱗に触れると激しく怒られて、嘘をついて正直になれないと、包丁を突きつけて「本当のことを言え」と言われたこともありました。
でも不思議と、それがトラウマになった、という感じはあまりないんですよね。「ドタバタした中で育った」という感覚のほうが強い。
ーーその体験と、「自分」ではなく「人間」や「世界」で捉える感覚には、関係がありますか?
向谷地:あるかもしれません。兄は親にぶつかるタイプでしたが、私は距離を取って接していた。雨の日も風の日も、母に買い物を頼まれると、使命感を感じて行く。今思うと、メタな感覚というか、一歩引いたところに自分を置く感覚に助けられてきたんだと思います。
自分には、戦争という体験を生き抜いた親を悲しませてはいけない、という不思議なわきまえ、使命感のような感覚がありましたね。
ーー虐待を経験した方が「虐待されている自分を上から見ている感覚」があると話していたのを聞いたことがあるのですが、メタな感覚というのはそういったものでしょうか?
向谷地:似ている部分はあるかもしれませんが、私の場合は、前向きな意味での現実との距離感、という感じがします。
「嫌いな人」「苦手な人」を大事にする

ーー「打てど響かない」子どもだったと話していましたが、学校など、家族以外の関係性ではどうだったんでしょうか。
向谷地:中学一年のときに、大学を卒業したばかりの新米の先生がいて、私は嫌いじゃなかったんだけど、その先生は、すごく私のことが苦手だったんですよね。
先生はどうしていいか分からなかったんだと思うんだけど、私がクラス委員長をやっていて、学級運営のことで、常にフラストレーションが溜まっていたみたいで、何かあるたびに呼び出されて、指導される、ということが続いていました。生徒相談室に呼ばれるクラス委員長として、有名でしたね。
何であんなに呼ばれていたのか、もう記憶にないくらい、何かにつけて注意されて。時には殴られる、ということも繰り返されていました。
12月に、あまりにも私の議事進行が下手で、話がまとまらなかったときに、業を煮やした先生が、生徒の前で私のことをコテンパンに殴る、という出来事があったんです。
腫れ上がった顔で翌日病院を受診して、医師から数日の休養を言われたのに学校に行って、担任の先生のもとに出向いてクラス委員長を辞める旨を告げて。運動も控えるようにと言われていたのに、体育の授業、それもスケートの授業に出て、滑っている時に同級生と接触して転倒して、頭を強打して脳震盪になって吐き気、めまいの脳障害を起こして学校に行けなくなって、と事態がこじれていくわけです。
町では大事になって、警察も絡んで、傷害事件のような扱いになりました。
そこから、いろいろ歯車がマイナスのほうに回り始めるんだけど、ある種、「これは人間にとって避けて通れない生きにくさなんだ」という感覚があった。その感覚に、ずいぶん助けられていた気がして、あのときから自分の哲学が始まった、という感じですね。
ーーそれは、「自分の問題」ではなく、「人間の問題」だと、その瞬間に感じていた?
向谷地:先生に殴られて、私は学生服のカラーで首が切れて、血が滲んだまま呆然と立っていたんですけど、先生は「もう知らない」と言って、バンッとドアを閉めて教室を出て行った。殴られている間、生徒たちはザーッと椅子を下げて、教室の前に空間ができて、そこで先生に殴られる私と、それを見ている観客、みたいな不思議な感覚でした。
そこに、隣のクラスの生徒たちが「何事だ」と集まってきて、見られている感覚。私はボーっとして、何が起きたのか分からないまま、呆然と立ち尽くしていた。
でも、涙は一滴も出なかった。自分がサーッと空中に舞い上がって、遠くから見ているような感覚がありました。
ーー空中に上がると、起きたことを受け止められる?
向谷地:受け止める、というより、「脱出する」「留保する」という感覚に近いかもしれないですね。ポーズボタンを押す、というか。誰が悪いとか、何が起きたんだとか、いちいち解釈すること自体を、一時ストップする。ただ、起きたことだけを、事実として受け止める。そんな感覚だったと思います。
ーー「自分が悪いから、こういう目に遭うんだ」とは、ならなかった?
向谷地:不思議と、そうはならなかったですね。それよりも、先生に対して、怒りや憎しみよりも、「大丈夫かな」という同情心が沸いてきて。これって、自分の癖なんです。
だって、人を殴るって、大変なことですよね。人を傷つけると同時に、それをしている本人も、きっと傷ついている。
その感覚は、親との関係でも、どこかであった気がします。親から包丁を突きつけられても、怒りや反発より、同情に近い感覚が立ち上がってくる。それは、もしかしたら、怒りや憎しみが、置き換わったものかもしれない。
今でも、人を憎む、という感覚を、あまり持てないんですよね。圧迫感や負担を感じることはありますけど、「嫌い」という感覚そのものに、すごく距離を置いている感じがあります。
それは、私は脆弱で、怒りや憎しみを持ちきれないんだと思います。それこそ、べてるが大事にしてきた「苦手な人を、嫌いな人を、大事にする」ことにも通じるんですけど、これって、もしかしたら最大の弱点かもしれないですね。どんな人でも、どこか「いい人」に見えてしまうところがある(笑)。
ーー相手のいいところを見つける、ということなんでしょうか。
向谷地:それとも、ちょっと微妙に違う。プラス思考でもない。
とにかく、他の人と違って、私は“脆弱”なんです。憎しみとか、怒りとか、負の感情を持ちきれなくて、瞬時にそれが、「同情」とか「悲しさ」に置き換わってしまう。それが周囲を戸惑わせて、怒りになって私に向かってくる。そして殴られる、そんな感じです。周りも大変です。
もちろん「この人と仕事するのは、しんどいな」と思うことはありますよ。それはスタッフとも率直に話します。
でも一方で、そういう人ほど貴重な存在だなとも思う。困った、という感覚は正直な感覚。でも、その感覚でグルグルはしない。「こういう人なんだけど、そのうち何か面白いことが起きるかもしれないよね」そんなふうに思っている。
だから、みんなが「苦手だろうな」「嫌われるだろうな」と思う人を、つい引っ張り込んでしまうところがあって。病院のスタッフからも、「向谷地さん、またこんな人を連れてきたな」とよく言われていました。
自分の感覚に似ている叔父の日記との出会い
ーー向谷地さんの、つらいことが起こったときに、どこか客観的に見ているような感覚は、どこから来ていると思われますか?
向谷地:遠くから眺めている感じだけど、それが客観的かどうかが、わからない。むしろ“主観的”でいい感じがします。自分の中にあるこのメタな感覚は、正直、自分でも不思議なんですよね。親の影響とも言い切れないし、兄弟みんな違う感覚を持っている。
それで自分なりの仮説として、周りに統合失調症の人が多いこともあって、「これは、ある種の統合失調症的な感覚に近いものなんじゃないか」という仮説をずっと持っています。
そんな中で、父の兄で私の名付け親でもある叔父、助五郎さんのことを、改めて思い出す出来事がありました。その叔父は、おそらく統合失調症があった人ですけど、ほとんど話したことも声を聞いた記憶もないんですけど、お菓子などの小売り店と問屋を営んでいて。でも実際には店の奥の離れで書き物ばかりしている、一種の書生のような人でした。
その叔父が、実はこっそり自費出版をしていたんです。私は全く知らなかったんです。
4年前、たまたま古本を探していて、京都の古本屋で「向谷地助次郎」という名前を見つけて、「あれ?もしかしたら」と思って本を取り寄せてみた。そしたらやっぱりそうだった。昭和60年に発行された、自分の半生をつづった日記で自費出版の本でした。
調べたら、当時200部の自費出版だった本を、印刷会社の社長さんが気に入って自腹で3000部印刷して全国配本したらしく。それを知った私の父が「家族の恥さらしだ」と怒って、社長さんに回収と破棄をさせたらしんです。ところが、2冊だけ未回収で、その一冊を偶然、京都の古本屋で私が見つけたという次第です。
そこには一貫して、人生や社会のあり方、平和、家族といったことが、神からの啓示として、書き綴られていたんです。
これは、私の知恵によって書かれた本ではまったくない。私には、これを書くだけの知恵も才能もない。私は、あくまでも神の代弁者であり、神が私に語っておられることを、記録しているにすぎない。神は、みなさんに、必ず恵みと平和を与えるだろう。
そんな言葉が、ずっと続いていました。テーマは、平和と和解だったんですよね。
私が浦河に行って、精神科に勤めるようになってから、人が精神を病むとき、その周辺には結果として、家族や人との諍いや対立が必ずと言っていいほど関わってくる。
それで、「テーマは和解なんだな」と思ったんです。1992年に『べてるの家の本――和解の時代』という本を出しましたが、そのときのテーマもやはり和解でした。そうしたら、叔父はもうずっと前に、戦争体験とその後の人生経験を通じて同じようなことを書いていた。それがなんだか面白くてね。
ーー叔父さんと、向谷地さんのあいだに共通したものが流れていた?
向谷地:そうですね。この人も常に俯瞰した場所から世界を見ていたんだな、という感じがしました。そのときに、自分がずっと不思議に思っていたこの感覚、このアンテナのようなものは、「自分の内面を見る感覚」というより、社会の空気や時代の雰囲気、そういうものを読み取る感覚に近いのかもしれない、と思ったんです。
自分のアンテナは、自分の心の内側よりももっと外側に向いている。そんな感覚ですね。
自分の辞書から、「悩む」という言葉を外した

ーーその感覚は、中学生や高校生のころには、すでにあったんですか?
向谷地:そうですね。私が中学生のころは、高度経済成長が終わりに近づき、ベトナム戦争が泥沼化していく時代でした。中学一年のころには安田講堂の大学紛争がピークを迎えていて、どこを突っついても世界は争っている。大人たちは争っている。そういう空気の中で、さっき言ったように私は先生からコテンパンに殴られていた。
ーー目の前の出来事と世界の出来事が、つながっていく感覚があった?
向谷地:ありましたね。目の前で起きているこの暴力と、世界で起きている戦争や紛争が、自分の中で強くつながったんです。これは誰かと誰かの個人的な問題じゃない。もっと大きな人間の問題なんじゃないか、と。だから、自分が立っている、どうしていいか分からない惨めな現実も、単なる「自分の困りごと」としては終わらせられなかった。
ーーそれに気づいてから何か変わりましたか?
向谷地:中学一年のときに、「自分の中の辞書から『悩む』という言葉を外した」という感覚があります。これは「悩まないことで楽になる」という意味ではなくて、「自分は今、人間として大事な“問い”の中に立っている」「立たされている」という、すごく厳粛な気持ちと不思議な高揚感を感じたのが出発点だったんですよね。
ーー厳粛な気持ちになると、そこから何が変わってくるんですか?
向谷地:それはある種の責任感とか、使命感にも似た感覚でしょうか。助五郎さんの文章にもそれを感じますね。
それと、どんなに大変なことでもどんなにどうしていいか分からないことでも、これまでの歴史の中ですでに誰かが似たような経験をして、何かしらの言葉や記録を残しているはずだという感覚がありました。
これまで考え、発信してきた先輩たちがいる。その人たちの言葉に学ぶ。それを探しにいく。それが本を読む、という生活習慣につながるし、それを引き寄せながらもう一度自分の現実に降りてくる。
この「先行して生きた人々の言葉と経験を引き寄せながら、現実に降りる」という感覚は、今思えばある種のアクションリサーチ的な思考だったのかもしれません。実際このPCに、今日現在で7158枚のスライドがあるんですよ。
ーー向谷地さんが話すとき、いつもパソコンを開いてこの大量のスライドを見せてくれますよね。
向谷地:この30年、本を読んだり面白いと思ったデータを、こうやって書き写してデータベースにして、いつでも取り出せるようにする作業をずっと続けてきたんです。
ーー私から見て向谷地さんは、いろんなことを感覚的にやっているように感じるけれど、実際はものすごく多くの本や論文を読んでいますよね。
向谷地:私より先に生きた人たちが残した言葉、経験に関する情報、歴史に関心があって、すごく大事にしてきました。小学校のころから新聞に興味があって、ずっと眺めている子どもでした。その影響もあるかもしれませんね。だから考える軸がちょっと不思議だったんだと思います。
実は中学1年で体験した体罰事件には後日談があって、転校先の学校で、実は脳外科の主治医から運動を禁止されていたんですけど、どうしても好きな野球部に入りたくて、観ているだけでもって願い出て入れてももらったんです。
2年生なのにいつも1年生と一緒に声掛けだとか、球拾いだけをしている自分に同級生が同情して、先輩に内緒でトスバッティングをさせてくれたことがあった。そしたら、それが先輩の耳に入って、呼び出されて殴られて、部員全員から“回し蹴り”と“ケツバット”っていう私の尻をタイヤに見立てて、バットで打つというしごきを受けて。
おまけに同じく見学をしている体育の先生に、授業中にみんなの前に呼び出されて、運動できないといいながら野球部に入っていることを叱責されたり、ほんとに大変だったんです。
一方で、当時は体操部と野球部の間で交流があって、体操部の女子生徒が野球部の生徒にプレゼントを持ってきたり、マフラーを届けてくれたりすることがあった。私にも女子生徒がマフラーを持ってきてくれたことがあってね。
そのときに、私は「こんなふうに、世界は戦争に明け暮れ、国内では大学紛争が激化している時代に、女子生徒からマフラーをもらってチャラチャラしている場合じゃない」と思って受け取らなかったんです。今思えば、妙に硬派で、とんがった考え方をしていましたね。
自分に苦労をさせてやりたい
ーー高校三年間のいろいろな活動を経て、向谷地さんはこの先どんな道を歩もうと考えていたんですか?
向谷地:高校に入学した時点で、当時、受験地獄や受験戦争と言われていた現実に疑問を感じて「勉強するのをやめよう」というスイッチが入って。“幸せのパイの奪い合い”のような高校生活とは距離をおいて、卒業式の前の日まで部活に明け暮れていましたね。
それと私は中2の時に、母親に連れられて教会に通っていたんですけど、そこで滋賀県にある「止揚学園」という知的障害のある子どもための施設の園長さんが書かれた本の読書会に参加したり、施設見学をすることで福祉に関心が向いたんです。
牧師さんの知り合いがチャプレン(教会・寺院に属さずに施設や組織で働く聖職者)をしていた、札幌にある大学の福祉学科を紹介されて、「じゃあ、行ってみようかな」と思ったわけです。
大学に入ったときも、今思えばけっこう尖っていたかもしれません。高度経済成長の時代の真っただ中で、「自分に、人ができない苦労をさせてやりたい」そんな感覚が、どこかにあった。
ーー「苦労をさせてやりたい」という言い方なんですね。
向谷地:そうなんです。「どうやったら自分に苦労をさせてあげられるかな」と考えたときに、まず思いついたのが親の仕送りを断ることで。親に電話して、「仕送りは、止めてほしい」と伝えたわけです。それが大学一年生のときです。
自分で特別養護老人ホームの住み込みアルバイトを探して、特養で働きながら大学に通う生活を始めました。
ーーそれは、苦労の先に何かがあると感じていたからですか?
向谷地:「苦労の中に“自分を置く”ことで人間のことが分かるかもしれない」というのが、一番近い表現かもしれませんね。その意味で、自分を一種のサンプルとして利用する感じでしょうか。
だから、社会の中で、見えないところで、いちばん苦労している人たちのところを訪ねて、そこに“自分”を置いてみることで何か大事な発見があるんじゃないか。そんな感覚はずっと一貫してあります。
もう一つは、札幌に当時としては最初の特養があって、そこで夜間介護人として仕事をして学んだことが多いですね。
そこに入ってくる人たちは、いろんな事情を抱えていました。寝たきりの人たちの世話をしながら、そこで暮らす一人一人が将来の自分だと思ったんですよね。ちゃんと準備をしておかなきゃいけない。そういう感覚がどこかにありました。
ちょうどそのころ、祖母が九十近くで亡くなって葬儀に列席したんですが、父が目を真っ赤にして泣いているのを見て、ものすごく驚いたんです。「ああ、これは、自分の将来でもあるな」「自分も親をこうやって見送る立場になるんだな」と。
それから、たまたま出入りしていた教会の牧師さんが、死刑囚の教誨師(刑務所や少年院などで活動する宗教家のこと)をしていて、そのプログラムの一つとして文通があった。それがきっかけで死刑囚のNさんと文通を始めたんですが、思ったのは、自分たちも死を定められた死刑囚だということだったんです。ずっと「死」を意識するということを大事にしてきた気がします。
ーー人生を歩んだ先に、死がある。
向谷地:そうですね。死ぬということも、ちゃんと人生のスケジュールの中に組み込まれていなきゃいけない、という感覚です。この感覚は今でもすごく自分に影響しています。
例えばものすごく苦手で嫌いな人がいたとしても、もしその人が今日しか生きられないとしたら、自分はその人にどんな言葉をかけるだろうか、と考える。それは、家族に対しても子どもに対しても同じです。
死はハプニングや事故として起きるものではなく、「予定されたこととして起きる」。神学者のパウル・ティリッヒの言葉を借りるならば、ティリッヒの「存在への勇気」という本に、「人間は、毎日死んでいる」という趣旨の言葉があります。そんな感覚が、このころに身についたんだと思います。
うまくいかない、「にも関わらずOK」

ーー自分を苦労させてあげたい、という思いで歩んだ道の中で出会った人たちによって、価値観が形づくられてきたんですね。
向谷地:その感覚に影響しているものとして、私の場合は旧約聖書と新約聖書に描かれた「イエスの物語」があると思うんですね。旧約聖書のイザヤ書には、行き場を失い虐げられて、放浪しているユダヤの民に対して、将来この民族の中から救済のリーダーが現れる、という内容が書かれています。
しかもそのリーダーは、私たちが見とれるような輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。人々から蔑まれ、のけ者にされた「悲しみの人」として描かれているわけです。
そして、新約聖書に描かれる救世主としてのイエスは、イザヤ書の預言のとおり、最初は歓喜の声に彼をたたえていた民衆にさげすまれ、石を投げられ、唾をかけられ、最後は十字架にかけられて命を落とします。そこから、復活の物語がはじまるわけです。
面白いのが、救世主でありながら、宮殿ではなく馬小屋で誕生して、白馬にまたがって民衆の前に現れるのかと思ったら、ろばに乗ってヒョコヒョコとやってきたり。たくさんの有能な若者たちが弟子にしてくださいって集まってきた時、一番民衆の中で評判が悪くて頼りない若者を12人選んだりと、ことごとく周囲の人たちの期待を裏切るわけです。
案の定、12人の弟子たちとの旅もトラブル続きでイエスは、身内からも裏切られて孤立し、最終的に刑場である「ゴルゴダの丘」に送られるわけです。
イエスの十字架が私に教えてくれたのは、人間の絶望的な「弱さ」と「愚かさ」ですね。イエスは自分の生涯を通じて、絶望とそれ故に約束されている希望、というパラドキシカルなメッセージを私たちに提示してくれた感じがしますね。
イエスは、自分が惨めで情けない人生を歩むことになることにも、そして弟子たちもイエスを裏切ったり、嘘をついて逃げ出したりという、自分でも想像もしなかった結果に唖然としたと思いますけど、イエスと12人の物語には「それで順調」という深いメッセージがある気がしますね。
ーーうまくいかなかったことにも、意味がある。
向谷地:そうですね。最初に工藤さんがおっしゃっていたように、何かを成し遂げてうまくいったことでしか自分や人生を肯定できない、ということだけではなくて、全然うまくいかなくても、期待に応えられなくても「にもかかわらず、OK」。そう言える立ち位置が、あると思うんです。
うまくいくとか報われるとか、そういうことにそもそも依存していない立ち位置ですね。ですから、私は「仕事に生きがいを求めない」ことを大事にしています。
私たちの現場は、圧倒的に、うまくいくことよりも、うまくいかないことのほうが多い。イエスと弟子の旅にも似ています。一つのうまくいかなさで、いままでの努力が全部吹き飛ぶ、そんな経験も、誰にでもありますよね。
だから、「うまくいく/うまくいかない」という軸から、ちゃんと自立している。報いがほとんどなくても、にもかかわらず、それでも今日を生きていける。そういう生き方を大事にしています。
ーーその感覚は、福祉を学んでいた学生時代から、あったんですか?
向谷地:ありましたね。仕事から、生きがいや張り合い、そういうものをもらおうとしない。それは、ある意味では「辞退する」という感じだけど、それでもちゃんとそこに居続ける。そんな感覚です。
私たちには「他者の苦しみに対する責任」がある
ーーでは、向谷地さんが福祉の仕事を続ける意味や、そのためのエネルギーは、どこから来ているのでしょうか。
向谷地:先ほど紹介した文通していた死刑囚のNさんのことを、今でもときどき思い出すんですよね。少なくとも、学生時代に特養に住み込みで働きながら迷うことの多かった自分は、Nさんの言葉一つ一つに励まされて生きられたし、不遇な人生を歩んで寝たきり状態で毎日天井を凝視して過ごす人たちに、大切なものをいただいたような気がするんですね。
そこで思い出すのが、「ソーシャルサファリング(社会的苦しみ)」に対する関心と「他者の苦しみへの責任」(参照:アーサー・クラインマン みすず書房 2011年)という本です。人の苦しみは、個人の問題である以上に、社会的に生み出されたもの、という考え方ですね。他者の苦しみに対する責任とそれに学びあい、無駄にしないということですね。
ーーそれは目の前の苦しみにすぐ応えられなくても、「できない中でも、居続ける」ということですか
向谷地:そうですね。遠く地球の裏側で起きていることも含めて、起きていることはすべてどこかでつながっている。そして、そのつながりの中にいる以上私たちには責任があるし、その責任を引き受けていかなきゃいけない、という感覚です。
本来人間には、助け合う力が素朴な能力として備わっていると思うんです。でも今は、助け合わなくても生きていけそうな社会になりつつあって、助け合わなくてもいいことが、一つの目標のようになっているところもある。
それでもやっぱり、人は人と助け合いながらでないと生きていけない。人間というのは、そういう「あいだ」の中でこそ、生きられる存在なんだ、ということを、私たち自身が、大事にしていかなきゃいけないと思うんですよね。
だから私はその感覚を確かめるために、いろんな場所に足を運んでいるのかもしれません。
今、一緒に暮らしている孫たちにも、そういうことをちゃんと伝えていきたいと思っています。そのためには立派な話よりも、「とっておきの、情けない話」を、ちゃんと伝えていかなきゃいけない。
先ほど紹介した「他者の苦しみへの責任」を著したアーサー・クライマンは、精神医療の世界に、とても大きな影響を与えた人です。彼が書いた『病の語り』(誠信書房、1996年)という本の中で、どんな病気であっても、病というものは常に社会と連結したシステムの中で起きている現象だ、ということが語られています。病気そのものが、本人による一つの「語り」なんだ、という考え方ですね。
ーー社会への反応として、人は病気になる。
向谷地:そうですね。眠れない、イライラする、不安になる、そういった身体の症状として現れるもの。いわゆる病気として顕在化する症状は、その人の困りごとや人間関係、社会、あらゆるものを映し出している。だから、病そのものが実は一つのコミュニケーションなんだ、という考え方です。体の病気も、社会的・生理学的な経験が連続したものとして表れている。そんなふうに捉えています。
個人の困りごとを、社会とのつながりから考える
ーーそれは、向谷地さんがこれまでべてるの家や当事者研究で、さまざまな病気のある人たちと関わってきた中で、実感してきたことでもありますよね。
向谷地:そうですね。統合失調症のある30代の女性がいました。地域では支えきれなくなってしまって、本人の言葉では「牢獄みたいな」精神科病院に送られたそうです。
でも、そこでも「この人はちょっと遠慮します」と受け入れを断られてしまって、結果的に路上生活をすることになった。
背景にあったのが「盗み癖」でした。何度も盗みを繰り返し、そのたびに警察に捕まる。知的障害もあって、刑務所よりは福祉的な支援のほうがいいだろう、ということで、その都度福祉施設が受け止めてきた。
でも、盗みが止まらない。病院に行っても、病院の中で盗みをしてしまう。それで、「もう、うちでは見られません」と言われて、最終的に路上に出されてしまった。
その人と、一緒に当事者研究をしました。私たちは、それを「何でも欲しがり病」の研究と呼んでいます。
その人はこう言うんです。
私の中には、いつも幻聴のAがいます。Aはセーラームーンのような格好をした長い髪の女の子で、「これを持ってきて」「盗め」と命令してくる存在だと。さらに、「嘘をつけ」と命令してくるBという幻聴もいる、とも言っていました。
私たちがやったのは、その「幻聴さん」に、話しかけることでした。本人を通してAに話しかける。
「Aさん、どうしてこの人に盗め盗めって言うんですか?」
そうすると、Aが「私、寂しいの」と言う。それを聞いて本人も「私も寂しい」と言って、「あ、Aと私、似てるな」と言うんです。
そこでさらに聞く。「Aさんは本当は盗んでほしいの?それとも、やめてほしいの?」
すると、「本当は、やめてほしい」とAは言う。じゃあなぜ盗めと言うのか。そこには「快感がある」という話になる。
ーー盗むのは、物が欲しいからではなく、何か別の「いいこと」があるから。
向谷地:そうですね。これとよく似た話で別の事例もあります。
統合失調症のある人が、仕事から帰ってきたばかりの父親にわざと腹が立つようなことを言う。普段は温厚な父親が、我慢できなくなって怒鳴ると、その人は「ああ、よかった。俺は、愛されてる」と感じる。
怒鳴られることそのものが、つながりを実感するための息継ぎになっている。だから、盗みも「物が欲しいから」ではなく、「つながりが欲しいから」起きている。つまり「“つながり”を窃取」していると考えられるわけです。
厳しい親のもとで育ち、学校でもうまく適応できずいじめられ、その中で「盗め」という幻聴が現れ、盗んで叱られ、さらに孤立していく。この悪循環です。
だから盗み癖というのは、単純に「悪いことだから、反省しなさい」「もう、やるな」という話ではない。その人にとっては、それによって、息をついている部分がある。それによってしか生きられない、という矛盾した状況でもある。
だから私たちは、その矛盾を一緒に抱えながら「じゃあ、どう生きていくか」を考えていく。それがさっき話した、クラインマンの「病の語り」という考え方にもつながっているんです。
ーー今のお話は。症状として病気のある人だけでなく、さまざまな困難を抱える人たちにも共通しているように感じます。
向谷地:そうですね。路上生活者の人たちの中にも統合失調症のこうしたタイプの人たちは、かなりの割合でいると思います。支援の仕組みからこぼれ落ち、「受け入れられません」と言われ続けて、最後に行き着くのが路上。これは個人の問題ではなく、社会の側のあり方として考えなければいけない構造だと思います。
浦河のまちの寂れようにざわっとした自分に、ざわっとした

2020年に訪れた、浦河町の町並み(撮影:田島寛久)
ーー福祉を学び、特養で働きながら、死刑囚の方と文通もして。その後どんな仕事をしていくかは、どのように考えて選ばれたんでしょうか。
向谷地:学年で80人くらいいたんですが、四年生の11月になっても就職先が決まっていない人は、ほとんど私ぐらいだったんじゃないかなと思います。就職というものからかなり距離を取っていましたね。
学生時代、いろんな領域に首を突っ込みいろいろな経験を重ねる中で、「現場って、これはただ事じゃないぞ」という感覚がだんだん強くなっていった。生半可な気持ちでは現場には行けないな、という思いがありました。でも、仕事には就かなきゃいけない。
みんなは、働きやすさや給料、住環境など、いろんな条件を考えて決めていく。でも私は「これだ」という決定打がなかなか見つからなかった。
11月の終わりごろだったと思います。一年生のときにお世話になったゼミの先生から連絡があって「浦河から求人が来ている。希望者がいない。見学のつもりで行ってみないか」って下宿に電話がかかってきたんです。
それで軽い気持ちで浦河に向かいました。スーツを持っていなかったので、親に頼んで初めてスーツを買ってもらって、父親のネクタイを拝借して。いい加減なもんで、床屋に行く機会も逃して、長髪でヒゲ面のまま電車に乗って、洗面所でネクタイを結んで。駅に着いてからまず床屋を探し散髪して、約束の面接時間に遅れて行ったんです。
ーーなんとなく行ってみた浦河は、どんな印象でしたか。
向谷地:浦河駅前の寂れように、ちょっとざわっとしたんですよね。「こんな町で、俺一生暮らすのか」そう思ったときに、ざわっとした自分に、さらにざわっとした。「意外と、自分って、いろいろこだわってきたわりに、けっこう普通なんだな」と思ってちょっとがっかりした。そのがっかりしている自分に、またがっかりして。
さらに病院に着いたら、精神科病棟が本当にガチガチの鉄格子で地下牢みたいだった。それを見た瞬間、ざわっとするというより、「えー……」という感じでしたね。逆にそこでなんだか腹が決まった。
ーー「腹が決まった」というのは?
向谷地:人気がない場所でしたからね。417床ある総合病院精神科のチームの中で、私みたいな、ずぶの素人が「いったい、何ができるんだろう」と思いました。
でも、条件のいい就職先を選ぶというよりも、どれを取ってもいい条件がほとんどない。そのこと自体が、自分にとっての「決定打」になったんだと思います。「悪条件に惹かれた」というのはあるかもしれませんね。へそ曲がりですから。
独身寮から、古い会堂へ。べてるの家を始めるまで
ーー浦河の病院に勤めるようになってから、そこからべてるの家でみなさんと一緒に暮らし始めるまでの経緯を教えてください。
向谷地:まず、病院の独身寮で一年ほど暮らしました。そして、私は教会をさがして通ったんです。浦河教会といって、固定の牧師さんもいない貧乏な教会で。牧師の説教も奏楽もカセットテープで、高校生が礼拝の司会をしていました。
私は二年目に教会の古い会堂の空き部屋に住むようになったんです。その建物が後の「浦河べてるの家」になるわけです。そして、当時病院で働きながらも、メンバーさんと「何か事業を立ち上げたい」「起業したい」と思っていました。
その背景には、学生時代に触れていたイギリスのセツルメント運動がありました。セツルメントは、1880年代のイギリス、ロンドンのイースト・エンドという貧困地域に、学生や知識人が住み込み、そこで暮らす人たちと寝食を共にしながら、人と地域を変えていく実践としてはじまったものです。
学生時代に学んだそのセツルメントを、自分もやってみたいなと思っていました。当時は、世界的に学生によるセツルメント運動が盛んだった時代です。日本の大学にも、地域の中で生活に困っている人たちやさまざまな事情を抱えた子どもや障害のある人たちのもとへ、学生が出向いていく活動がありました。
実際、病院の仕事で家庭訪問に行くと、アルコール依存症のある人たちの家には本当に厳しい生活状況があって。古い会堂に住み始めたことで、「ここを、一つのセツルメントの拠点にできたらいい」という発想が自然と浮かんできました。
空いている部屋があったので、「もしよかったらここを使いませんか」と回復者クラブのメンバーさんたちに声をかけたんです。

(撮影:田島寛久)
ーーそのメンバーさんたちは、後にべてるで一緒に暮らす方々ですよね。もともとは入院したり、病院に通っていた方たちだったんですか。
向谷地:そうですね。当時は「回復者クラブ」と呼ばれていて、病気の当事者活動をしていた人たちでした。最初は二人くらいだったと思います。
六畳一間ほどの個室がそれぞれにあって、特別に「何かを一緒にやろう」ということが、最初から決まっていたわけでもありません。ただ同じ建物の中で一緒に暮らしている。それだけのことでした。
一緒に暮らしたメンバーさんの中で一番長かったのが、後にべてるの理事長になる佐々木実さんですね。
一番苦労したのは、斉藤さんという方でした。もう亡くなりましたが、今思い返しても「あの人は、いったい何者だったんだろう」と正直よく分からない。
お酒を飲むと異常酩酊を起こす人でした。地域の中で本当にいろんなことをやりましたね。
朝5時や6時になると起きて、窓から日の丸の国旗を掲揚し、ラジカセで「君が代」を流す。そして「皇居遥拝」と言って、皇居の方角に向かって敬礼する。それが毎朝の儀式でした。
ーー毎日ですか!
向谷地:毎日です。それだけじゃなくて、酒瓶を持ち込んで二階の窓から「敵機来襲!」と言いながらビール瓶を道路に投げて、車が通れなくなったこともありました。
「今敵に攻められているから、二階だと逃げられない」と言って、縄ばしごを下ろしたり。私の部屋を「作戦基地にする」と言って、飼い犬を連れて勝手に入り込んできたり。
本当にいろんなことがありました。最終的には「これはもう無理だ」となって、おまわりさんの力を借りて病院に連れて行き、入院してもらう。それを何度も繰り返しました。その経験は、「病棟を頼らざるを得ない現実がある」ということを、身をもって知る体験でもありましたね。
「苦手な人」こそ大事にする
ーー「うまくいかないことほど大事にする」という感覚は、メンバーさんたちと一緒に暮らし始めてから、どのように変わっていきましたか。
向谷地:ますます確信に変わっていった、という感じですね。いわゆる「苦手な人」「関わりにくい人」と言われる人たちと、毎日一緒に生活するわけです。そうすると、「この人はダメだ」「この人は問題だ」という見方そのものが、だんだん通用しなくなってくる。
一緒に暮らしていると、困ることも腹が立つこともうまくいかないことも、山ほどあります。でも同時に、「ああ、この人、ここがすごく人間的だな」とか、「ここ、すごく大事なところだな」という瞬間が、日常の中で少しづつ見えてくるんです。
ーーそれは、「支援者」として見るという感覚とは違いますか。
向谷地:「支援者として見る」というより、「一緒に暮らしている人」という感覚ですね。支援する人・される人、援助する側・される側、そういう関係の前にまず「一緒にいる人」なんです。
だから、「この人をどう良くするか」「どう変えるか」「どう治すか」という発想には、あまりならなかった。それよりも、「この人と、どう一緒に困るか」「この人と、どう一緒に失敗するか」「どう暮らすか」そっちのほうが、ずっと現実的でした。
ーー「一緒に困る」という感覚。
向谷地:そう。「一緒に困る」というのは、「同じところで立ち止まる」ということでもあるし、「一緒に途方に暮れる」ということでもある。実際に、勤めて5年目で、チームのドクターに嫌われて相談業務から外されて、事務の“窓際”に移動させられて絶望感に襲われた時、「やっとメンバーさんと一緒になれた!」と思って、やる気が湧いてきて、余計嫌われるということがありました。それこそ「順調に」嫌われたわけです。
問題がなくなることが順調なのではなくて、問題がちゃんと起きていること。それ自体が、むしろ順調なんじゃないかという感覚です。
その後、どうなったかというと、とにかく「私の悪口、不平不満を言いまくるドクターの悪口を言わない」という実験を続けたら、5年目で突然呼び出されて「君には負けたよ」って言われて握手を求められたんです。面白いですね。
ーーそれは、回復の考え方にもつながっていきますか。
向谷地:つながりますね。病気があるからダメ、問題があるからダメ、うまくいかないから失敗。そういう見方から、少しずつ離れていく。
病気があっても、問題だらけでも、失敗ばかりでも、それでも人は生きていける。それでも人は、人としてやっていける。そのことをべてるの暮らしの中で、毎日毎日突きつけられていた。そんな感じでした。

(撮影:田島寛久)
ーー「苦手な人を大事にする」という言葉も、だんだんと実感になっていった。
向谷地:そうですね。最初から理念としてそう思っていた、というより、暮らしていたらそうならざるを得なかった、という感じかな。
苦手な人を排除したら、次は自分が排除される側になる。それくらい境界線はあいまいなんです。
だから、「苦手な人を大事にする」というのはその人のためでもあるけれど、同時に自分のためでもある。
ーー自分を守る、という意味でも。
向谷地:「自分を守る」というより、「人間でい続ける」という感じかな。人を簡単に切り捨てない。人を単純に評価しない。その態度そのものが、自分をすごく楽にしてくれるんです。
「自分を現場に置く」ことで自分を観察し、現実を理解する
ーー向谷地さんは仕事としての福祉の枠を超えて、ご自身で行動し続けてきたという印象があります。
向谷地:今振り返ってみても、自分はちょっと変わった、珍しいタイプだったかもしれませんね。私は、自分自身を、実験してきたんですね。「自分を現場に置く」という感覚ですね。
現場に身を置くと、腹が立ったり、カリカリしたり、不安になったり、困ったり、楽しくなったり、本当にいろんな感情が出てくる。その一方で、そうした自分をどこかで眺めている感覚もある。これも自分の特徴の一つだと思います。
もう一つの特徴は、現場に身を置きながら「これは何が起きているんだろう」「どう理解したらいいんだろう」と、考え続けていることですね。
そうすると、「これに近い話はないか」「誰か、似たようなことを考えていないか」と、自然と文献や情報を探しにいく。
関連しそうな本や論文を集めて読んで、この現実をどう説明できるかを考える。詰める、という感じですね。
これは、私がコツコツと徹底してやってきたことの一つの特徴だと思います。そうやって、自分が立っている現実を説明する言葉を探す。それを記録して、保存していく。その作業をずっと続けてきました。
ーーかなり体を張っている印象もありますが、そもそもその「実験」をする目的は何だったんでしょうか
向谷地:やっぱり興味ですよね。「何が起きているんだろう」「こんなとき、人はどう考えるんだろう」「どうしたらいいんだろう」。その「わからなさ」に、私はじっとしていられなくなる。
ーー問題を解決したいというより、探究心という感じでしょうか。
向谷地:そうですね。「説明できる言葉を探したい」という感覚に近いかもしれません。
病院に勤めるようになって一番うれしかったことの一つは、本が買えるようになったことでした。
それは、自分の性分なんでしょうね。読んだ本や考えたことを、データとしてどんどん貯めていく。1995年にWindows95が出て、PowerPointが使えるようになった。そこにいろんな情報を置き、スライドを作れるようになったことは、本当に大きかった。
そうやって作ってきたスライドが、今では7158枚あります。一つのPowerPointも何年もかけて作り直し続けてきました。だから、二日に一回くらいはバージョンアップしている。今はバージョン257版です。
「金儲けしよう」医療への違和感からはじまった、べてるの事業
ーー向谷地さんは、もともと起業への関心があったとおっしゃっていましたが、べてるの家を始め、そこからみんなで事業を立ち上げていったのも、一種の「実験」だったのでしょうか。
向谷地:駆け出しの頃は、やはり病院という組織の中で、患者さんの「悪いところ」を測定し見立てを行い、適切な治療方針や援助方針を立てる。そして操作的な介入をして「病気がよくなりました」というストーリーで、みんな仕事をしていました。
私も例外ではなくチームの一員として一生懸命やっていた。でも、そういう頑張りはことごとく、まくいかなかった。
「支援者として立派になり、人としてどうしようもない人たちを、適切に導く」「治療する、援助する」。そのような発想は、今振り返ると、とても壮大な「建前」だったなと思います。
「鉄格子の中で、人が回復する」ということは、きっとないだろう。むしろないほうがいいとも思った。だから「鉄格子の医療」という一つのモデルから少し距離を取って、何か別のことをやってみようと思ったんです。

2020年の「幻覚妄想大会」の様子。左から二番目が早坂潔さん(撮影:田島寛久)
向谷地:たとえば入退院を繰り返していた早坂潔さん(現副理事長)を例にとると、多くの病院のワーカーであれば、「なぜ再入院を繰り返すのか」「なぜお金の管理がうまくいかないのか」と原因を探し、援助計画を立ててそれを実行する、という発想になると思います。私はそれがピンとこなかった。そうじゃないんじゃないかと感じたんです。
それで思いきって潔さんに、「金儲けしないか」と声をかけてみた。するとものすごく乗ってきた。「もし一億円稼いだら、どうするんだ」と、半分冗談のように聞いたら、「俺は金が欲しい」と返ってきた。とても単純明快でした。「じゃあ、何をやる?」という話になって、昆布の下請けを始めることになったわけです。

(撮影:田島寛久)
ーー「何ができないか」ではなく「一緒に何ができるか」で見る。
向谷地:そうです。それはとてもシンプルだけれど、当事者研究にも通じる感覚だと思います。ワクワクすること、興味が湧くこと、「ちょっと、やってみたいな」と思えること。そういう遊び心や冒険心のようなものがとても大事なんです。そこから何か始まっていく。その感覚はずっと一貫していますね。
自分のもとに「苦労を取り戻す」
ーーここまでのお話の中で「回復」という言葉が何度か出てきましたが、向谷地さんは「回復」という言葉をどのように捉えていらっしゃいますか。あまり積極的に使ってこられた印象がなくて。
向谷地:昔は「社会復帰」という言葉をよく使っていましたね。1990年代から2000年代にかけて、アメリカから「リカバリー」という言葉や概念が入ってきました。当事者の人たちから、「医療や専門家が期待するような意味での回復や治癒だけを、自分たちは望んでいない」という声がはっきりと出てきたんです。
「病気があっても、回復できる」という考え方ですね。病気があっても、人間としてちゃんと復権する。治らなくてもいい。症状が残っていてもいい。それでも希望を持って、前向きに生きていく。そういう回復のあり方です。
当時は、幻聴が消えたら回復、症状がなくなったら回復、という捉え方が主流でした。でも、それも含めて「自分は、人間として回復できる」という考え方が、専門家主導の回復モデルを少しずつ乗り越えていった。
ただ、私たちは実はもっと早い段階から「苦労を取り戻す」という感覚を大事にしてきた気がします。病気そのものは、確かに大変です。でも、病気は本当に、私たちの足を引っ張るだけのものなのか。むしろ病気に助けられている側面もある。
そんな感覚を少しずつ大事にし始めた。それが、後の当事者研究へとつながっていったんだと思います。

2020年にべてるの家で行われた当事者研究で、ファシリテーションをする向谷地さん(撮影:田島寛久)
ーー「病気によって、助けられる」という感覚、もう少し詳しく聞かせてもらえますか。
向谷地:人間の心や身体って、本当に不思議ですよね。言葉にできない、ならない辛さを抱えて貯め込んでいると、幻聴さんがやってきて、頭の中を賑やかにして、辛いことから気をそらすように紛らわしてくれるわけです。
本当の苦労と真正面から出会わないために、ちゃんと「病気さん」がやって来てくれる。そんな側面があるんじゃないかと思うんです。
認知症の専門医がこんな言い方をしていました。認知症というのは、人間が年老いて死ぬ、という現実に真正面から向き合わなくても済むように、タコが墨を吐くみたいに、目くらましをしてくれる存在だと。
そう考えると、病気には私たちを守ってくれている側面もある。それをすべて、「病気だから治さなきゃいけない」と扱うのが、本当にいいのかどうか。
心の病と呼ばれるものも、どこかで同じ構造を持っていると思います。私たちを少しのあいだ守ってくれている存在。だから私は、「病気さえなければ」ではなく、「病気があってもなくても」人は人として、ちゃんと苦労するようにできているんだと思うんです。
せっかく生きているんだからタコの墨に頼り切るのではなく、あるものはあるものとして引き受けて、ちゃんと苦労してみる。その生き方も悪くないんじゃないか。私はそれを「苦労を取り戻す」と呼んでいます。
苦労を経験として発信し、社会に循環させていく
ーーここまで向谷地さんの人生の歩みをお伺いしてきましたが、現在、向谷地さんはがんの治療を受けているとお聞きしました。そこから見えてくるものもあるとおっしゃっていましたが、ご自身の病気を今どのように感じておられますか。
向谷地:私は少し変わった人間でね。こういう時のためにずっと準備してきたところがあるんです。自分にはどんな苦労が合うだろうか。こんな苦労も、面白いかもしれない。そんなことをどこかでずっと考えてきた。
だから今回も「ああ、こういう領域が開かれたか」という感じなんです。学ぶことは山ほどあります。
ーー例えば、どんなことですか。
向谷地:病院では、食事に関すること、服薬に関すること、症状に関すること、制度活用に関することなど、病気に関することを多岐にわたって指導を受けるわけですが、できることよりできないことのほうが圧倒的に多い。
「毎日、シャワーを浴びてください」と言われても、正直めんどうくさい。抗がん剤も見るだけで吐き気がしてきて、「もう、やめたいな」と思いながら飲む。薬はどんどんたまっていきます。最悪ですよ。だから孫に頼んでいるんです。「じいじ、今日薬飲んだ?」って、一日に一回言ってもらう。
ーーこれまで、支援する側にいた向谷地さんが、今は支援を受ける側になって。
向谷地:そうです。だいたい想像はしていましたけど「やっぱりな」という感じですね。家族に「こうしたら」「ああしたら」と言われても、半分もできない。これが現実です。
学生時代に精神科医の神谷美恵子の『生きがいについて』(みすず書房、1966年)を読んで、病院で働き始めた頃には、人生のつまらなさに苦しんでいる患者さんとその本を使って、読書会をしたこともあるんです。
その中に、「順めぐり」と題する詩が載ってるんです。
かつて くすしたりしものが、今にして 病める者となる。
かつて 病める心をみとりし者が、今にして 心を病みて
くすし みとる者 身内から いたわられ
ときにはあわれまれ笑われるものとなる。
すべては 順めぐり すべては 順めぐり
精神科医だった神谷美恵子が患者の立場になり、病むことを体験することを綴ったものですけど、それを自分の身体で強く実感しています。
ーー患者としての経験も向谷地さんにとって、一つの「研究」になっているんですね。
向谷地:ええ。入院していると、患者さんと看護師さんのやり取りが本当によく見える。
「あ、この人はたぶん認知症があるな」とか「この人は生活保護を受けているんだろうな」とか。でも、生活歴を聞かれるのって、やっぱり嫌なんですよね。だから、ついごまかす。看護師さんは一生懸命聞き出そうとする。ここが噛み合わない。新人の看護師さんが注射を失敗して、腕が腫れてしまうこともある。
でも、「それも、大事な経験だよな」って思ったりする。そういう出来事をちゃんと家族や周りの人に話すんです。
これまで研究してきた「自分を助ける技」も試してみる。バスに乗ろうとしただけで吐き気が出てくるときに、表情筋を少し上げてみる。すると、ほんのわずかだけど楽になる。
ーーそれはまさに向谷地さんが言うところの、「先行研究」をしてきた人たちから受け取った知恵ですね。
向谷地:そうなんです。身体の不調には「言葉が足りない」という側面がある。言葉の不全は、身体にやってくる。だから、質のいい言葉を語ることがとても大事なんです。語彙が増える。語る意欲が増える。それだけで身体の感じが変わることがある。これは、これまでずっとやってきたことの延長線上ですね。
ーー病気のことも、経験を言葉にして外に出すことを大切にされている。
向谷地:上野千鶴子さんが言う「情報生産者になる」(参考元:上野千鶴子「情報生産者になる」岩波新書2018年)という感覚ですね。発信するということは、受け取る人が必ずいる。その受け手の中で意味を持ち、また社会に循環していく。それが社会を元気にする。
べてるでやっている当事者研究や幻覚妄想大会も同じです。一見どうでもよさそうな話の中に、人間のおかしみや、とても大事なものが詰まっている。
でも、言葉は本来濾過されなければならない。SNSはその濾過のプロセスを壊してしまう。濾過されない言葉が、汚水のように流れていく。
当事者研究は、そういう意味ではとてもアナログな「濾過装置」なんだと思います。
今の私は病気をし、老いていくプロセスのただ中にいます。一方でお転婆な二歳の孫と、“不登校”の研究中の小学2年生の孫と一緒に暮らしている。人として生まれ、人として育っていくプロセスにも、同時に立ち会っている。
立派さや成功を目指すんじゃなくて、情けなさや失敗を大事にできること。きっとそんな生き方や暮らし方をべてるの人たちから学んだ孫たちも苦労しそうで、楽しみですね。そうやって「それでも、順調」という感覚を、みんなが持てるようになるといいなと思っています。
関連情報:
べてるの家 ホームページ
(写真/川島彩水、協力/永見陽平)
