
私たちは、自分とは異なる立場の人たちのことを、どれだけ想像できているでしょうか。
例えば道を歩いているとき、電車に乗っているとき、何かに夢中になっているとき。多様な人の人権が当たり前に尊重される世の中であってほしい。そう願いながらも、無意識のうちに自分と異なる立場の人やマイノリティ性のある人のことを、見えないものとしてしまっていることはないだろうかと、私自身感じることがあります。
障害のある人やセックスワーカーなど、社会的にマイノリティな立場にある人のことを漫画として描いている、漫画家の佐海ずうさんにお話を伺ったのは、ちょうどそんなことを考えているときでした。
東京藝術大学大学院を修了し、美術家としてのバックグラウンドを持ちながら、漫画家として活動する佐海さん。自身の原体験をベースに、統合失調症を患う母親との日々を描いたエッセイ漫画『今日も母は繭の中』をVコミで連載し、注目を集めています。
※統合失調症とは
統合失調症は、脳の様々な働きをまとめるのが難しくなる病気で、気分や行動、人間関係などにも影響が及ぶと言われています。実際にはないものが感覚として感じられる幻覚や、明らかに間違った内容を信じてしまう妄想、他にも意欲の低下、感情表現が少なくなるなどが症状として多く現れます。
また、2026年5月よりコミックトレイルで『死ぬより先に飯を食え』を連載中。セックスワーカーやさまざまな事情を抱えた女性3人がひとつ屋根の下で暮らす人間ドラマを描いています。
佐海さんの作品に共通するのは、マイノリティ性のある人を周縁化しない、見えないものとして追いやらないまなざし。どのようにそのまなざしを育んできたのか、生い立ちから統合失調症のお母さんとの日々、現在に至るまでを伺いました。
理不尽なルールと、たまに顔を覗かせるお母さんの異なる側面
茨城県出身の佐海さんは、お父さん、お母さんとの3人家族で育ちました。幼少期、家庭は経済的に困難な状態にあり、お父さんはずっと働き詰めで週に1回ほどしか家に帰って来ず、ほとんどお母さんと一緒に過ごしていたと言います。
発話の遅い子どもだったと聞いたことがあります。幼稚園に通っていた頃も、絵や文字は書けるけれど、発話があまりなかったそうです。はっきり覚えているのは、あまり自分に構ってくれない母親に「振り向いてほしい、興味を引きたい」という気持ちがあったこと。気持ちを伝える手段として手紙を書いていました。

佐海ずうさん
佐海さんが物心ついた時には、お母さんに統合失調症の症状と思われる様子がありました。しかし、いつ発症したのか、その時期や経緯は詳しくわかっていません。佐海さんが生まれる以前にも精神科の受診歴はありましたが、薬が合わないなどの理由から通うのをやめてしまい、佐海さんを出産してから症状が重くなったと言われています。
統合失調症になったと表現するのか、元々そうだったのが悪化したというのか、どちらかはわからないのですが、私を妊娠・出産がしたことが大きな転換点だったというのは、たぶん事実なんだと思います。
幼い頃、佐海さんのお父さんは仕事が忙しく、ほとんど家にいませんでした。親戚はというと、幼少期に父と姉を亡くしたお母さんは、その後居候した親戚の家でもいじめられていたために、関係を絶っています。また父方の親戚とは、統合失調症を発症してから関係性が崩れ、ほとんど交流がありません。
そうした環境で、幼い頃の佐海さんにとってはお母さんと二人で過ごす時間が日々のすべてでした。突然怒ったり、手を上げることもあるお母さんは、恐怖の対象だったと言います。またお母さんの症状によって発生する「ルール」に苦しめられることもあったそう。
例えば、リモコンを置くときに机の角にピッタリ合わせないといけないとか、トイレを3回に1回しか流してはいけない、お風呂のドアを閉めてはいけないなど、母の独自のルールがあるんです。それを破ると怒鳴られる。振り返ると理不尽なことがいっぱいありました。
「お母さんはひどい」ということを秘密の日記帳に書くと、「読んだぞ」と言わんばかりに机の上に置いてあったことも。「どうして読んだの?」と聞いて「こんなの読むに決まってるだろ」と答えられてからは、日記に思いを書くことはやめました。
一方で、けっして理不尽なだけではない、お母さんの愛情を感じるような時間もあったと話します。
小さい頃、母が何かにすごく苦しんでいるときがあって、その時に私がトイレットペーパーを重ねたものをセロテープでぐるぐる巻きにして、油性マジックで天使の絵を描いて、「お守りだよ」と渡したことがありました。
母は大体何をしても喜ぶことがない人だったのですが、それに関してはすごく喜んでくれました。大学生になったときにも、擦り切れて、テープも黄ばんでベタベタになったそのお守りが、財布に入っていたんです。
かと言って温かい人ということでもなく、母はちょっと困った人、愛しきれない人でもあるんです。でも、ふとしたときに、思っていたのと違う母が顔を覗かせる、そうした瞬間が過ごしているなかで何度もありました。
当時は、週に1度お父さんが帰ってくるのが楽しみだったと話す佐海さん。ゲームが好きなお父さんのそばで、そのプレイを眺めていることもありました。
経済的に困難な環境で、なかなか文化的なものに親しむ機会が家庭生活の中になかった子ども時代。佐海さんにとっては、新聞配達をするお父さんが持って帰ってきたチラシの裏紙に絵を描くことが唯一の娯楽で、家から数キロ先にあるコンビニで得た漫画雑誌が、触れることのできる唯一の文化資本でした。やがてその娯楽は、人生を支えるライフワークへとつながっていきます。
「パパ」「ママ」と呼ぶことをやめた小学校時代
自分の家庭のあり方が当たり前になっていた佐海さんですが、小学校に入学すると、他の家庭の違いを如実に感じるようになります。
例えば小学校で、他の親は授業参観に来たり、運動会にお弁当を持って来てたりするけれど、うちは来ない。その違いを知ったときに、自分の中で父や母への希望や願望、理想像を抱くことをやめようと思いました。その頃に、「パパ」「ママ」と呼ぶのをやめて、それぞれ、下の名前で呼ぶようになったんです。
父親、母親、子どもという枠組みからズレた感覚。親である前に一人の他人なんだという認識がそうさせたのかもしれません。
それは自分を守ることでもあったのかもしれない、と佐海さんは当時を振り返ります。
「ママ」と呼ぶと、相手にその役割を求めてしまうところがある。名前で呼べば、もうただの他人になる。親とか母親である前に、ひとりの人であると捉えて、ちょっと距離を置くことで、自分を守っていたのだと思います。
特につらい記憶があるのは、「2分の1成人式」と呼ばれる学校のイベント。10歳の節目に学校へ親を招いて、親への感謝の手紙を読むプログラムです。他の子どもは必ず家族の誰かが立ち会うなかで、佐海さんは、お父さんは仕事、お母さんはその頃統合失調症の陽性症状が強く出ていた時期だったこともあり、参加することができませんでした。
※陽性症状とは
健康なときにはなかった状態が表れる症状を「陽性症状」といいます。統合失調症の典型的な陽性症状は、幻覚と妄想です。一方で健康なときにあったものが失われる「陰性症状」としては、意欲の低下、感情表現が少なくなるなどがあります。
クラスメイトが親に向かって「育ててくれてありがとう」と読んでいるときに、私は虚無に向かって手紙を読むんです。何しているんだろうと思って、あれはきつかったです。

書いた手紙は、家に帰ったあとお父さんに渡しましたが、読まれないまま放って置かれているようでした。ただ、だからと言ってまったく関心を持たれていなかったわけではなく、お父さんなりの佐海さんへの思いを感じたこともあります。
父はプレイしているゲームで、主人公に子どもが生まれたときに、私の名前を付けていました。適当な名前でもいいはずなのに、自分の名前になっていて、それを発見したとき嬉しかったです。
すごく些細なことなんですけど。でもそういう些細な、他人からしたら本当に一瞬で忘れ去られてしまうような、私が覚えていなければ誰も覚えていないような、ゴミっちゃゴミだけど、奇跡っちゃ奇跡みたいな。そういう瞬間を忘れたくないなと思っています。
「統合失調症」の母と、父を取り持つ
お母さんが統合失調症であることを佐海さんが知ったのは小学3年生の頃。それまで、お母さんのことを「少し他の人と違うな」とは思っていたものの、比較対象がないために、「お母さんはこういう人だ」という認識でいたそう。「統合失調症」という言葉をお父さんから聞いたときにはじめて、それは病気で、精神障害というのだと知りました。
統合失調症は症状の現れ方に波がありますが、小学3〜6年のあたりは、お母さんの陽性症状が特に強く現れていました。当時、お父さんが帰ってきたときには、買い出しへ行くタイミングで「お母さんの様子がこうだから、こうした方がいいね」という現状共有や作戦会議をすることをしていたと言います。お母さんは耳がすごくよくて家の中だと話が聞こえてしまうため、2人きりで話すときは車の中、という暗黙の了解がありました。
母はとある芸能人に執着して、その人が近くに遊びに来ていると毎日毎日言っていました。
その芸能人が自分のことを守ってくれていて、自分の夫である父のことは「敵だ」と言うんです。段ボールでバリケードを作って、父親を家から追い出そうとしていました。

『今日も母は繭の中』第一話より(提供画像)©佐海ずう/Vコミ
毎日働き詰めで、働いたお金はすべて家庭に入れ、ほんの少しの娯楽といえば、ゲームをするぐらい。それなのになんでこんな目にあうのだろう、とつらそうなお父さんを佐海さんは見ていました。
母が父のことを「お前なんか嫌いだ」「お前は敵だろ、裏切り者出ていけ」と目の前で言ったことがありました。今になって思えばそれは統合失調症の陽性症状なのですが。父親が外へ出るタイミングで、ポツリと「でも僕は彼女のことを好きなんだけどね……」と言っていたのが印象に残っています。
それから佐海さんは父と母の関係を「どうにかしなきゃ」という気持ちになったと言います。「離婚する」と毎日のように言う母に対して、「お父さんはこう言っていたよ」「こういうこともしてくれたよ」と仲を取り持つように働きかけ、お母さんだけではなく、お父さんの精神もケアするような日々でした。
当時の佐海さんには、お父さん以外にお母さんのことを話す相手がいませんでした。それはお父さんに「お母さんのことをあまり口外しないように」と口止めされていたこと、さらに学校ではいじめにあっていたために、これ以上いじめられる要因を増やしたくないという気持ちもあったから。
小学校時代、スクールカウンセラーに話してみたことは漫画『今日も母は繭の中』でも描かれています。しかし、スクールカウンセラーの反応は「お母さんを支えてあげてね」というもの。家族に甘えられず、助けを求めた小学生の子どもに対して、あまりにも酷な返事でした。
そんな状況に対しても、佐海さんは「元々そこまで期待していなかったので、やっぱりこんなものか」という気持ちで、淡々と受け止めていたと言います。
人への感情をエピソードごとに保存する
学校ではいじめを受けていたという佐海さん。いじめっ子グループの中心にいたボス的な存在の女の子とは家が近く、登下校も一緒のために、日々相手の機嫌を伺いながら過ごしていました。
佐海さんが“ボス”と表現する彼女との関わりはつらい経験ではあったものの、その中で相手の反応を注意深く観察し、人との関わり方や社会的なルールを少しずつ身につけていった面もあったと振り返ります。
ボスはいじめっ子ではあるのですが、常識的な感覚を持っている人でもあって。私は母が私に無関心だったために、人との関わりの中で自然に身につけるようなことが抜け落ちているところがありました。
ボスの機嫌を損ねないように過ごす中で、人がどうしたら怒るのかとか、人間関係の作り方とかを覚えていったんです。毎日でこぼこした場所を歩いていて転んでいたら「そんなとこ歩いてるから転ぶんだよ」とボスに言われて、「平らな道を歩けばいいんだ」と気づいたこともありました。

“ボス”とは小学校・中学校と9年間登下校をともにし、中学3年のタイミングで「小学校のときやったあれは良くなかったと思う、ごめん」と言われたことがあったそう。「ボスに認められた」とハッとしたものの、これまでのひどい仕打ちを思い返して、「許すことはできない」と感じたと言います。
「でも、そればかりではないんです」
家族のことも、“ボス”のことも、自分にたいしてつらく当たった人のことを語るとき、「それだけではない」というエピソードを補足する佐海さんの話ぶりからは、人を一つの出来事だけでジャッジしないあり方を感じます。
母親に対してもいじめっ子に対してもなのですが、全部白黒で判断できるものではないということが私の根幹にはあります。人に対する感情や記憶が、「上書き保存」ではなく、エピソードごとの「フォルダ別に保存」になっている感じです。
人を憎むと自分がつらくなるから、そうやって自分の中で分けて考えています。良いか悪いかなんて、自分の中での基準でしかないし、絶対的な判断なんて誰にもできやしない。その人はその人であるだけ。その人との関係で起こり得るいくつかのエピソードを自分は見聞きした、体験した、という風に捉えています。
正解のあるデッサンにみつけた安らぎ
本来であれば大人が担うと想定される家事や家族の介護などを日常的に行う子どもを指す「ヤングケアラー」として、家族のケアも担っていた佐海さん。お母さんはきれい好きなため、掃除と洗濯は積極的に行う一方、料理が大の苦手。料理は佐海さんが担い、お父さんが帰って来るタイミングで、精のつくものを食べさせようと、ごちそうをつくって振る舞うようなこともありました。
中学3年の頃、佐海さんの心の支えだった黒猫が亡くなってしまいます。お母さんが無断で外に逃がしたために、事故で死んでしまった猫。そのショックは、じわじわと佐海さんの心を蝕んでいきました。
ある日学校の階段を登っていたら、壁が透けて見えました。それが当たり前だと自分では錯覚しているんです。他にも目の前を女の人が歩いていて、あれは人間の姿をしているけど、自分が飼っていた黒猫に違いないと思い始めたこともありました。今になって思うと、何か精神的な症状が出ていたのだと思います。

その頃から注意力が散漫になり、ぼーっとすることが増えました。やがて学校の成績も落ちていき、進学しようと思っていた高校の合格ラインにも届かなくなってしまいます。
その状況に悩み、進学についてどうしようか考えていたときに、担任だった美術教師からもらったパンフレットで、美術科のある高校の存在を知りました。
美術科は、学科の点数だけではなく、絵でも加点してもらえることを知りました。絵は長く続けてきたライフワークのようなものだったので、それならできるかもしれないと思って、先生の知り合いの絵画教室の先生を紹介してもらったんです。
紹介してもらった絵画教室では、季節ごとに2週間の無料講習を行っていて、そこで佐海さんは初めてデッサンを学びます。
デッサンは目の前にあるものを書くだけなので、とてもシンプルでした。
私のそれまでの人生は、母の理不尽なルールやボスの機嫌をとるなど、答えがないのに正解しろと言われていることの繰り返しだったんです。
デッサンは、ただそこにあるものの実態を捉えて1枚の紙に描写する。私の中では瞑想に近いというか、自分と物体のモチーフにだけ集中していればよくて、書いている時間は他のことを考えてなくていいので、とても楽しかった。現実から逃避しているようにも感じる時間でした。
はじめて打ち明けることができた経験と同じ境遇の友人との出会い
晴れて合格し、佐海さんは美術科のある高校に進学します。「学生時代でいつが一番楽しかったか聞かれたら、間違いなく高校時代と答える」と話すほど、充実していた学生時代だったと語る佐海さん。その大きな理由のひとつが、親友との出会いでした。
普通科と美術科、音楽科がある高校で、私の入学した年の首席が美術科の子だったんです。新入生代表スピーチをするのですが、その首席の子の挨拶が「ワタクシは〇〇と申します」と、まるで政治家みたいな、キパキパとした変な話し方をする人だなと思いました。
私の家や中学でああいう仕草をしたら正解のないルールの中で罰せられたり、ボスにいじめられたりするのに、変なままで生きてこられたのがうらやましいなという気持ちもありました。さらにこんな人が成績も絵の実力も私より上だったのか、と思ったらすごく悔しかったんです。
入学式が終わって教室に帰ってきたときに、たまたまその子と目が合って、そしたらその子が私に向かっていきなり変なポーズをしてきて。なんだろうとびっくりしていたら「はじめまして」と話しかけてきました。
印象深い親友との出会いを、当時をありありと思い出すように語る佐海さん。勉強もできて常識感覚もある親友にさまざまなことを教えてもらい、打ち解けていきます。

中学までは、近所で噂になったら困るという思いもあって誰にも家族のことを打ち明けられずにいましたが、家から電車で2時間離れた学校でなら話してみてもいいんじゃないかーーそう思えたことから、家族のことを、初めて親友に打ち明けました。
親友は奇妙な話を面白がって聞くわけでもなく、「うん、うん」「そうなんですか」と実直に話を聞いてくれました。そのときにすごく泣いて、自分つらかったんだなと感じました。
受け止めてもらえたことにホッとしたと話す佐海さん。一方で親友の優しさに甘え、愛着障害から依存しすぎてしまうような場面もあったそう。
親友が家に帰るのがつらすぎて、泣きながら「帰らないでください」「私を一人にしないで」と引き止めることもありました。「あなたには優しいお父さんとお母さんがいて、家でご飯つくって持っててくれるからいいよね、私にはないよ」などと八つ当たりをしたこともあります。でもその子は大人で、「また明日会えますよ」と言って淡々と帰っていくんです。
その頃、家庭内は荒れていました。佐海さんが高校に進学したことで、以前よりお金がかかるようになったため、お父さんはよりハードな仕事に転職したそう。家族の生活リズムが変わったことによって、お母さんの陽性症状も強く出る日も多くありました。佐海さんは、家に帰るのがつらく、学校で長い時間を過ごしていたと話します。
今まで溜め込んできた思いが瓦解して、親友に泣きながら「私のママになってください」と言ったことがありました。言おうと思って言ったのではなくて、自然と出てきてしまったんです。その子は何も言わずに頭を撫でてくれました。
初めて家族と距離をとり、他人に打ち明けることができた佐海さん。誰にも言えずに溜め込んでいた思いが、溢れ出してとまらなくなっていました。
親友のほかに、高校生活ではもうひとつ大きな出会いがありました。それは、自分と同じ境遇の同級生との出会いです。
同級生とSNSをお互いにフォローし合っていて投稿をみていたら、お母さんの行動についての投稿があって、「あれ?私と同じ状況かも」と思って。後で聞いてみたら、その子のお母さんも統合失調症だとわかりました。
彼女は家でのつらさから、クラスメイトに悪質な嫌がらせをするなど問題行動もありましたが、佐海さんに対しては仲間意識を抱いて接してくれていたそう。似たような人生を歩んできた同級生とは、多くを語らずとも共有できることがあったと佐海さんも感じていました。
例えば、「お母さんが今日も冷蔵庫蹴ってた」みたいなことを話すと「あるよね、うちのお母さんは電子レンジの音がダメだわ」と答えてくれるなど、ゼロから説明しなくてもある程度わかってくれる。そういう人がいるというのはひとつ支えになっていました。

作品を届けたいのは、病気や障害を抱えている人
高校を卒業後は関東から離れ、秋田公立美術大学へ進学します。公立のため学費が安かったことや、親から離れたいという思いから、家から遠い大学を選びました。
ところが、引っ越しの直前になって「秋田なんて行くな」とお母さんが怒り出し、急遽お母さんも秋田へ一緒に引っ越すことに。その後、沖縄生まれのお母さんは東北の寒さに耐えきれず、1年も経たずに茨城へ帰ってきたと言います。
大学時代は、国立病院機構あきた病院の筋ジストロフィー病棟でボランティアを行いました。筋ジストロフィー病棟とは、筋肉の形成・維持に必要な遺伝子に変異があり、身体の筋肉が壊れやすく再生されにくいという症状がある、複数の遺伝性筋疾患の総称「筋ジストロフィー」の専門病棟です。佐海さんはそこで、アートを用いて医療環境を快適な空間にする試み「ホスピタルアート」に関わっていました。
入院患者の方を対象にリハビリテーションを行うデイケアの作業療法で、手仕事を一緒にしたり、入院している方と一緒に行うイベントを提案したりしていました。病棟でヘルパーをしている女性の方がアートが好きで、「この病棟でアート作品を展示できないかな」とお話をいただいて、モニュメントをつくったこともあります。
また、近隣の秋田緑ヶ丘病院では毎年お祭りがあって、そこでアートイベントをやりませんかというお誘いがあって、病院のマスコットキャラクター「みどりん」を、高さ2メートルの大きさでつくりました。

国立病院機構あきた病院で、患者さんらと制作したモニュメント(提供写真)

ワークショップで質感の異なる布を切り貼りしてもらって完成させた巨大ぬいぐるみ「みどりん」(提供写真)
お話を伺っていると、さまざまな人を巻き込みながら、一つの表現方法にとどまらず、制作を行う佐海さんの姿が感じられます。そもそもなぜ、病院でアート活動をやりたいと思ったのでしょうか。
幼稚園生の頃に、父が過労で交通事故を起こして、九死に一生を得たみたいなことがあったんです。入院しているところに私と母で通って、父は意識がないけれど、傍らでずっと見ていなきゃいけなくて。
暇だった私は、持ってきたメモ帳にペンで紙芝居を書いて、隣のベッドのおじいちゃんに披露して見せたんです。そしたらおじいちゃんと付き添いのおばあちゃんがすごく喜んでくれて。なかなか家で絵を褒められた経験がなかったから、すごく記憶に残っています。
病院という場で絵を描き表現すること、誰かが喜んでくれて、自身も嬉しかったーーそうしたことが佐海さんの原体験となり、病院でアート活動をすることへとつながっていったのかもしれません。
誰かに自分の作品や表現を見せることを想定したときに、真っ先に出てくるのが健常者ではなくて、何か病気や障害、疾患や困難を抱えている人なんです。それには、自分の周りがマイノリティの人ばかりだったからというのがあるかもしれません。
佐海さんの現在の漫画作品にも通じる、マイノリティの人を周縁化しない表現は、こうした大学のときの活動が影響しているのでしょうか。そう問いかけると、高校のときに日本画を専攻したときからそうだったのかもしれない、と振り返ります。
いろんな人に届く芸術がいいなという気持ちがあって、日本画を選びました。というのも、日本画は岩絵具という顔料を使って描かれるのですが、鉱石を砕いてつくった顔料のため質感が油絵などと違って、ザラザラしていたり、同じ色でも粒の大きさによって触り心地が違うんです。
例えば目が見えない、あるいは見えにくい方でも触ったら楽しむことができる。よりアクセシビリティの高い表現を選ぶということを自然にしていたように感じます。
セックスワーカーや性的マイノリティの人権問題をテーマに
大学卒業後は、東京藝術大学大学院の先端芸術表現専攻に進学。進学を選んだのは、奨学金の返済や家族を入院させることなども視野に入れて、将来の選択肢を広げたいという思いもあったからでした。
大学院時代は、6年間同居していたセックスワーカーの親友から聞いた話を元にした制作に取り組みます。当初は、セックスワークを友人がすることにも、また社会的にその職業があることについても忌避感があったと言います。しかしその思いは、友人の話を聞くうちに変化していきました。
例えば大火事にあって、皮膚にケロイド状の傷のある人がお客さんで来たと友人が話していたことがあって。その怪我の影響で言葉が話せないから、筆談で話して接客を行っているという話を聞いて、「これもケアのひとつかもしれない」と感じたんです。今の自分のセックスワークに対する捉え方では、捉え損ねているところがあると思うようになりました。

佐海さんが大学院時代からリサーチで撮影している、茨城県土浦市の歓楽街の写真
大学院の修了制作では、風俗店のオプションにある「パンスト破り」で破られたストッキングを縫い合わせてつくったウェディングドレスと漫画作品『くちなしの花嫁』を展示。
「風俗嬢なんてやってたら結婚できないよ」と友人がお客さんに言われた言葉を通して、佐海さんは、結婚や家族をめぐる社会規範のなかで、セックスワーカーや性的マイノリティがどのように周縁化されているのかに関心を持つようになります。
“風俗嬢”と結婚という、相容れないものとされている2つの要素を交錯させ、“風俗嬢”にまつわる偏見へのカウンターを試みることで、婚姻制度や結婚式の慣習が前提としている価値観について考察し、作品として表現しました。

パンティストッキングを縫い合わせて制作したウェディングドレス(提供写真)
幼少期の唯一の文化資本に戻ってきた
モニュメントやインスタレーション、映像作品など、さまざまな表現に取り組んできた佐海さん。漫画という表現には、どのようにしてたどり着いたのでしょう。
高校時代は副専攻で版画を学んでいたのですが、版画は複製芸術で、いろんな人に原本を渡すことができるというところがすごく良いなと思っていたんです。自分自身が家庭の事情により文化資本が少ない環境で育ったので、より広く多くの人に表現や文化資本にあたるものを届けたいという気持ちがありました。
それで版画作品も作ってきたのですが、何か明確に伝えたいことを訴えるには1枚の絵は難しさもあるなと思っていたんです。それをどうすればより多くの人に広げられるだろうというところで、版画という複製芸術から派生して、漫画に行き着きました。
結局、自分の幼少期に自宅から数キロ先のコンビニで得た漫画雑誌。唯一の文化資本。そこに戻ってきたように感じています。

佐海さんの漫画がまとめられた作品集
テーマや表現の仕方が変わっても、高校時代から変わらず、一貫して佐海さんの根底にあるのは「多くの人に届けたい」「忘れたくない」という思い。
自身が文化資本の少ない環境で育ったという背景から、美術、インスタレーション、漫画など多様な表現によって、また表現の方法から「多くの人に届ける」ためのアクセシビリティを担保していくことを心がけているそうです。
また、経済的な困難や障害のある人、セックスワーカーなど、社会のなかでマイノリティとして周縁化されやすい人々や、その人たちを取り巻く環境にも関心を寄せ続けています。佐海さん自身、社会のなかで「なかったこと」にされてしまうことや見えづらいものに数多く触れてきたからこそ、「忘れたくない」「伝えたい」という思いを持ち続けているのです。
漫画家になるきっかけを掴んだのは、大学院の在学中。たまたまSNSで小学館のマンガ賞「マンガイチ」をみつけ、描いた漫画『性風俗で働くひとってどんなひと』を投稿したところ、佳作を受賞。1000万インプレッションを超える反応を得て、「伝えたい届けたいという気持ちが、いつもより広く届いたと感じる経験だった」と佐海さんは話します。
段階を経て、家族との距離を置く
大学院を卒業後は、デザイン会社で働きながら漫画を描く生活でした。
佐海さんは大学院時代から実家に戻って暮らしていましたが、佐海さんが就職するタイミングで再びお母さんの症状が悪化。佐海さんに対しても「自分のことを騙そうとしているのではないか」と疑いを抱くようになり、意味の通じないメッセージを1日に90件送ってきたり、夜中に佐海さんの部屋に入ってきて大声で歌ったりするようになったそう。
あまりにも症状がひどくなったために、お父さんの親戚にお金を借りて、お母さんは初めて1ヶ月ほどの入院生活を送りました。
その後、大阪でやってみたい仕事があった佐海さんは、転職を決断。そこには、お母さんとずっと一緒にいることがつらかったために、一旦距離を置こうという思いもあったと話します。
母とは関係を断絶するわけではなくて、様子を見ながらも自分自身を保っていられる距離を探ろうとしていました。母にはもちろん反対されるので、2段階で引っ越しをしています。一度茨城県内のすぐに帰れる距離に引っ越して、1年ぐらいしてなんとかなりそうだなと思ってから、大阪へ引っ越しました。
2025年夏頃からは、漫画家としての活動を本格化。2026年4月からVコミで『今日も母は繭の中』の配信がスタートし、現在は専業の漫画家として生活しています。
『今日も母は繭の中』は、お母さんのことを中心に、ご自身の実際の体験を描いた作品です。凄惨になりかねない母と娘の日々を、鋭い観察眼と、淡々としたユーモアを交えて描き出した本作は「重い内容を軽いタッチで描いているためサクサク読めた」「すべて率直にかいてあり非常に心に響く」「シリアスさとポップさをこれだけバランスよくエンタメに昇華させている作品はなかなかない」などという声が読者から上がっています。
エッセイ漫画として、幼少期から長年抱えてきた自身の実際の体験を作品として世に出すことになった佐海さん。どんなことを感じながら、作品を描いているのでしょうか。
一話を描いているときは、号泣しながら描いていました。自分がかわいそうとかではなくて、母の人生を思って涙が止まらなくなりました。
母は、沖縄の裕福な社長の娘として生まれたのですが、お父さんの会社が倒産して、それをきっかけにお父さんが自死をして。仲が良かったお姉さんも病気で立て続けに亡くなってしまい、その後親戚の家にお世話になったのですが、つらい思いをしたようです。作品では、そうした母の生い立ちにも触れています。
闘病もののエッセイ漫画は、亡くなって終わるということがよくあるかと思うのですが、私は母が生きているうちに完結させたいと思っています。亡くなって感動して終わり、ではなく、ままならない毎日が、今日も明日も続いていくんだということを描きたいです。

『今日も母は繭の中』第一話より(提供画像)©佐海ずう/Vコミ
漫画を読んでいると、現在の佐海さんは、自身の体験と距離を取りながら、客観的な視線で描いているように感じられます。佐海さんの、お母さんへの思いは幼少期からこれまで、どのように変化してきたのでしょう。
一番最初は怖い人、恐怖の対象から始まって、「ママ」ではなく名前で呼ぶようになって。「恐怖の対象である母親」から一人の人間に置き換わって。それから少し見え方が変わって、「変わった人だな」と思っていたところから統合失調症という症状名を知りました。
そこで大きい驚きがあったわけではなくて、ぞわぞわしたというか、むずがゆいというか、「今まで当たり前だと思ってたことって当たり前じゃなかったんだ」みたいな。「それって名前がつく病気?障害なの?」とギャップを感じました。
自分が母そのものだと思っていた仕草、行動が、もしかしたら母の根源から出てきているものではなくて、症状によって引き起こされていたものだったのかもしれない、と。
佐海さんが感じていた恐怖や嫌悪はお母さんではなく、症状に対するものだったのかもしれない。それは見え方が揺らぐような体験でした。
母の行動に対する恐怖から始まって、だんだんと母の実像はなんだろう?とピントがずれていくような感じです。顕微鏡を覗いても、ずっとピントが合わなくて、ねじをくるくる回しているような。

冷蔵庫に向かって叫んでいるのは母の実像ではなかったのか、そうした母の奇行は、症状として切り離すべきだったのか。どこからどこまでが母で、どこからが症状なのか、ずっと迷いがありました。
今は一般的に”統合失調症の症状”と呼ばれるものも含めて、母という一人の人間だと思っています。冷蔵庫を叩いたり、知らない人に急に話しかけたりする奇抜な行動も、客観的に見たら”奇行”だし、”症状”と呼ばれるものかもしれない。
統合失調症って100人に1人がなると言われていて、少数だから”奇行”とされるのであって、もし人数が違ったらそちらがメジャーになるじゃないですか。だから、ただ母の行動がめずらしいだけだな、とも思っています。
50年ぐらい生きた母の人生の一つの角度を切り取って、ここは奇行だ、ここは症状だみたいな感じで切り分けて、症状だから気にしない、話を聞かなくていい、とするのは違うと感じます。症状とされる部分も母の一部として捉えたいなと思いますね。
例えば、お母さんは「家の上を飛行機がずっとぐるぐる回っている、私は天皇の身代わりに殺されるんだ」と何度か言っていたことがありました。完全な妄想かと思っていましたが、佐海さんが大人になってからお母さんの出身の沖縄県の中城村(なかぐすくそん)をたずねると、そこは米軍の普天間飛行場がある宜野湾市に隣接しているため、飛行機の轟音が鳴り響いていたのだそう。
それを踏まえると、お母さんは幼少期に過ごした場所の地域の環境音を、頭の中でリフレインしているのではないかと思うようになります。
症状の中にも母の実像は隠れているんじゃないかと思うようになりました。母を「統合失調症患者」として扱うのではなく、50年生きてきた人の発する言動。その中には一般的には奇行と扱われるものもあるけれど、その奥には何があるんだろうと。そこを見たいなというのが、今の私のスタンスです。
ほしかったのは、具体的な手立てを教えてくれる支援
働き詰めのお父さんと統合失調症のお母さん。閉鎖的な環境で、相談できる人もいないまま、ヤングケアラーとして育った佐海さん。
大人になった今、子どもの頃にどのような支援があったらよかったと感じているのでしょう。
母に入院を勧めてくれる人がほしかったなというのと、貧困家庭かつ精神疾患の親がいる家庭への補助金みたいなものがあったらよかったなと思いますね。
今思うと、母には入院するレベルの症状が出ていたと思うんですが、家には入院するお金もありませんでした。そもそも通っている病院も5分程度でさらっと診察して「お薬出しておきますね」みたいなところだったので、入院という言葉すら出てきませんでした。
本人も病識がないし、私も子どもだからどうしたらいいのかわからない。どこからも情報が入ってこなかったんです。
自立支援医療の申請のことも知らなかったけれど、申請をしていれば通院代の負担も減らせたはず。お金にまつわる制度やどうすればサポートを受けられるか、そうした具体的なハウツーを教えてくれる人がほしかったですね。
※自立支援医療とは
精神疾患や身体障害などにより、継続的に通院して治療を受けている人を対象にした医療費の自己負担を軽減する制度のことです。
佐海さんの言葉から、外部の介入がほぼなく、支援も情報もない中で孤立していた家族の状況が見えてきます。また、初診の日付がわからない状況で、救済措置の証明ができなかったために、障害年金の申請が難しく受給できていないという状況も、経済的な苦しさへとつながりました。
※初診日は年金の種類や保険料の納付状況、障害認定日を確認するために必要な大事な情報です。初診日が特定できない場合、障害年金が不支給となってしまいます。
現在大阪で暮らしている佐海さんは、お母さんとは週に1度程度連絡を取り合っているそうです。また、佐海さん自身も双極性障害を抱えています。
発症したのはいつかわかりませんが、病名がついたのは、2024年夏です。症状としては、1日に20時間寝るような長いうつ状態と、多動的なそう状態が繰り返され、気分の乱高下が激しいです。うつが強いときは、頓服を飲んで水分をとって、温かくして眠っています。
お母さんの症状、自身の症状と付き合いながら、今も「ままならない日々」を続けています。
あるかもしれない/あったかもしれない苦しみを見落とさないように
最後に、これまでの人生を振り返った今、どんなことを伝えたいかを尋ねると、佐海さんはある本の一節を読み上げてくれました。
フランスの作家アンヌ・フィリップの『母、美しい老いと死』という文学作品の中に、「多くの場合、不幸は密かに隠されている。もしかすると背筋をまっすぐに伸ばして、隣人に一言も話しかけないような人こそ、深い絶望を持っているかもしれない」といったことが書かれてます。
自分が認知できる不幸や苦しみ、絶望だけでなく、あるかもしれない/あったかもしれない「それ」の気配を常に見落とさないように制作活動に向かっていきたいです。
経済的困難や統合失調症の母との生活、ヤングケアラーとしての経験など、多くの困難がある環境で育ってきた佐海さん。それでも、さまざまな側面から自身の体験に光を当てる佐海さんの話しぶりからは、ひとつの側面だけで物事をジャッジしようとしないあり方を感じることができました。
またインタビュー中、自分の経験について「できるだけ多くの人に届けたい」「忘れたくない」と話していたことも印象的でした。些細なことでも忘れないでいたい、そのことが佐海さんの表現の原動力になっているようです。
この記事を執筆している途中に、私は身近な友人が佐海さんと同じように統合失調症の親に育てられたことを知りました。親しくなる中で対話を重ね、友人はその事実を打ち明けてくれたのですが、それまで朗らかな性格の友人に、そんな生い立ちがあったことを知らずにいました。
「背筋のまっすぐな人影こそ、癒しようのない深い絶望を引きずっているのかもしれない」という佐海さんが教えてくれた言葉が、今まさに響いています。
目の前の人をひとつの価値観でジャッジしないこと、自分自身の偏見があるものにこそ、違う側面を探してみること。佐海さんの語り口や作品を通して、見えていなくてもすぐそばにある、人やものごとを周縁化しないためのまなざしを受け取りました。

(撮影/川島彩水、編集/工藤瑞穂、企画/松本綾香)
