【写真】笑顔でこちらをみるふじたいっしょうさん

子どもの頃から、怒るのが苦手だ。人から失礼なことを言われたりされたりしても、「自分に非があったんじゃないか」という自責の念が苛立ちより先に湧いてきて、決まってなにも言えなくなる。

そんな話を身近な人にすると、「自分をもっと大切にしなよ」と言ってもらえることがある。気持ちはとてもうれしいのだけれど、そう声をかけてもらうたび、“自分を大切にする”っていったいなんだろう?と考え込んでしまっていた。

「自分を褒める」「自分をねぎらう」という感覚が、昔からあんまりわからない。ほかの人に対してそんなことは一切思わないのに、褒めるほどがんばってないしとか、できていないことのほうが多いし、とついチェックするように自分を見てしまって、“大切にする”意味なんてないのではないかと思ってしまう。

身近な人たちには無理をしないでほしい、自分にやさしくいてほしいと思っているのに、自分のことになるとどうしてこんな投げやりな気持ちになるのだろう、とずっと不思議だった。自分のこの性質との向き合い方、そして“自分を大切にする”、“自分に寛容である”とはどういうことかを考えるためのヒントがほしい──。

僧侶の藤田一照さんとの対話から、soarメンバーや自分自身の悩み・モヤモヤについて考えていくこの連載。最終回の今回は、私が特に藤田さんにお聞きしてみたかった、自己批判ばかりしてしまう自分をどうすればいいか、という悩みに焦点を当てる。

「自分」も自分にとってはひとりの他者だ

 【写真】取材にこたえるふじたいっしょうさん

冒頭の悩みについて切り出すと、藤田さんは開口一番こんなことをおっしゃった。

うーん、それはしょうがないんじゃない?あなたの持ち味だから。

思わず、エーッと大きな声を出しそうになった。持ち味……?藤田さんは私の動揺を意にも介さず、笑いながらこう続ける。

正直に言うと、僕もどちらかというと他人にはわりと寛容なのに、自分には批判的になってしまうほう。……ただ僕の場合は、家族に対しても、まるで自分に腹が立つかのように怒ったりしてしまうことがあるんです。僕にとっては家族もどこか“自分”のような意識があるってことが最近わかって、ちゃんと“他者”として見る練習をいましているところ。

当然だけど家族は僕のものじゃないし、分身でもないんだから、たとえば家族が痛い目に遭ったとしても、僕は実際にその痛みを感じることはできないでしょ?

家族に批判的になってしまうのは、自分の体が思ったように動かなくて苛立つような感覚に近いかもしれない。実際には他者の体はもちろん、自分の体も完全に思いどおりには動かせないのに……と藤田さんは言う。

たしかにそのとおりだ。私は病気がちなので、ひとの体がいかにままならないものかよく知っているつもりでいた。それなのについ、自分自身に対しては「コントロールしなくてはいけない、できるはずだ」と信じ込みそうになってしまう──。私がそう言うと、藤田さんは「人間の場合、“自分”もひとりの他者なんですよ」とおっしゃった。

人間って、ひとりの自分がしていることを、もうひとりの違った自分の視点から見つめることができる変わった動物なんです。うちのテラちゃん(猫)にはそういうことはできないけど、人間の場合は自分を対象化して見ることができる。そこに苦しさもあるし、反対に喜びもあるんです。

あなたのその性格も、自然から与えられたものだから、ある視点から見ればcurse(呪い)になるし、別の視点から見ればgift(恵み)になる。1枚の紙の表裏、どちらか1面だけがほしいと思っても手に入れられないでしょう?

それと一緒で、性格って必ずいい面と悪い面の両面があるもの。裏と表を切り離そうっていうのは無駄な努力で、だから全然別の作戦を考えたほうがいい。その両面をどうやったらうまく使えるかを考えたほうがいいじゃないですかね。

【写真】猫のてらちゃん、と触れ合うふじたいっしょうさん

太陽と月、どちらが欠けてもつまらない

藤田さんの言葉にそのとおりだと思いつつも、やっぱり自責ばかりしている自分の性格を変えたい、もっとポジティブな想像力を持てたら……と思ってしまう。すると藤田さんは、私の考えを見透かしたように、「理想主義的に自分を見ないほうがいいですよ」と言った。

僕にもある時期までは“理想の修行者像”のようなものがあったんだけど、理想主義は自分も周りも苦しめますよ。理想ってあくまで自分勝手なもので、それを追いかけようと必死になっているわけだから、周りも内面も見えなくなっちゃう。

理想を追いかけるよりも、いま実際に目の前でなにが起きているかをちゃんと見ようとすることのほうが大切です。そうしていると、自然と「これは人に聞いたほうがいいな」「あっちじゃなくてこっちに行ったほうがいいな」「待ったほうがいいな」という直観みたいなのが立ち上がってくる。雨が降ってるから傘さそうくらいな、さっとした感じで。

よく“知恵を絞る”って言いますけど、知恵って自分の脳のなかだけに詰まっているものではないと僕は思ってるんです。脳のなかにあるのは“知識”とか記憶。本当の知恵って自分と状況のあいだから生まれてくるものというか、結晶化してくるもののようなイメージです。

その微細なものをきちんと感じとることのできる目や耳、感受性がいちばん大事なんじゃないかな。発信モードじゃなくて受信モード。知恵を絞んじゃなくて知恵を受け取る。それだと体や心の状態がだいぶ違ってきますよね。

だから自分の持ち味はもう「そういうもの」と開き直るというか、認めちゃうしかないんですよ、他の人の持ち味は他の人のものなんだから──と藤田さん。

生きていくためには太陽と月、どっちも必要ですよね。もしも太陽しかなくて、毎日ずっと昼間みたいに明るかったらつまんないでしょう(笑)。夜には月があるのがいいんだよね。

自分の持ち味は、他者からの“反射”を通してしか知れない

【写真】インタビューに応えるふじたいっしょうさん

たしかに月だけだと暗いですもんね……と思いつつ、どこか心がほぐれてくるのを感じていた。忌むべきと思っていた自分のこの性格も持ち味なのだと言ってもらえると、すこしだけそれをポジティブに捉えられそうな兆しが見えてくる。藤田さんは、自分の持ち味は常に他者とのやりとりのなかでしか知ることができないんです、とおっしゃった。

自分のことは自分だけでは絶対に知れません。人からの“反射”で知るしかない。だからなるべくいろんな状況に自分を置くのがいちばんいい、と僕は思ってます。

僕の場合は武術家とか哲学者とか詩人とかアナーキストとか、いろいろなタイプの人たちと対談したり本を作ったりしてるんだけど、お坊さんなのによくそんな異種格闘技みたいなことができますねってよく言われる(笑)。

でも、そうやって自分のやったり考えたりしていることが、どのくらいグイーッと拡張できるか、一見ありそうにないつながりを見つけられるかってことを確認したいんですよ。未知のことってドキドキワクワクするじゃないですか。

そうやって他者からの“反射”を受けて自分の持ち味を知ることで、自分の持ち味の〈味わい方〉がどんどん変わっていって、苦味もまた面白い味に思えるようになっていくという。

……あ、それから、自分の体の味わいも自分を変えますね。うちで野口整体の勉強会を開催してるんですけど、野口整体の考え方を学んだり、先生に触れてもらったりするようになったら、「死にたい」って口癖のように言っていたのが、みるみる元気になっていったご年配の方がいて、僕も参加者もみんなびっくりしてるんですよ。体が整うとここまで変わるのかって。

僕はもともと大学院で心理学を勉強してたんですけど、心理学は心が先行しすぎて、体について置き去りになりやすく、それは大きな問題だなと当時から思っていたんです。心って体あってのものだと僕は思うので、あなたのそういう持ち味ももしかすると、体の調子が変わるとまた変化していくかもしれないですよね。

だから、あくまでも今はそうだというだけで、そのうち変わっていくかもしれないから、どうなっていくか楽しみにしておくというくらいがいいんじゃないですか?

藤田さんはお話の最後に、にこやかにそう言った。

【写真】笑顔でこちらをみるふじたいっしょうさん

「自信持っていけ」には頷けなくても

正直なことを言えば、「それはあなたの持ち味だから」という藤田さんの言葉には、すこしびっくりした。一瞬、ネガティブな性格に生まれついたのだからそれはそれで仕方ないです、と言われているような気にもなった。

けれど、人は自分を他者として見ることができるということ、そして、自分の持ち味を知ることでどんどん変化していくということには希望を感じた。

現時点では私はまだ自分の批判的な性格をマイナスに捉えてしまっているけれど、自分のなかで見方を変えたり、あるいは周囲の人たちの視点が入ったりすることで、いずれこういう自分を否定せずに付き合っていけるようになるのかもしれない、とすこしだけ楽観的に考えるようになった。

10代のときからずっと好きで追いかけているバンドのボーカルが、ライブの最後のMCで決まって、「自信持っていけ、胸張っていけ」と言う。

ファンのなかにはその言葉に背中を押されて会場を出る、という人もたくさんいるのだけれど、私は毎回そのフレーズにだけは素直に頷けず、どこか劣等感を抱え続けていた。大好きなアーティストの言葉が自分を素通りしてどこかに行ってしまうようで、悔しかった。

ただ、いまは、いつか頷いてやるからなという気持ちでいる。いまはまだ無理だけれど、「いまはまだ無理だ」という自分を知り、認められたことで、楽になれた気はする。

これまでの藤田さんとの対話のなかで繰り返し出てきた、“よく見る”という言葉のことをあらためて思う。私たちは常にいまの私としてしか生きられない。だから、いまの自分自身、そしていまの自分自身と他者とのあいだに立ち現れる一度きりの時間から、できるだけ逃れず、目を背けずにいたいと思う。

関連情報:
藤田一照さん ホームページ
著書 『青虫は一度溶けて蝶になる: 私・世界・人生のパラダイムシフト

ライターの生湯葉シホさんやsoarメンバーが抱えている悩みや疑問について、僧侶の藤田一照さんに考え方のヒントをお聞きしていく連載を掲載しています。

<1>「ポジティブな言葉や空気がしんどい」この気持ちをどうすればいい?僧侶・藤田一照さんを訪ねて、すこし救われた話/生湯葉シホ
<2>“新型コロナウイルスによって失ったもの”とどう向き合う? 僧侶・藤田一照さんを訪ねて気づいた「自分が落ち着ける場所」の大切さ/生湯葉シホ

(撮影/中里虎鉄、編集/工藤瑞穂、企画・進行/木村和博、協力/佐藤みちたけ)