結婚して、子どもが生まれ、親になって、年を重ねて人生が進んでいくにつれ、直感的な心の動きよりも、頭で考える「正しさ」を優先することが多くなっているような気がします。

「あれがしたい」「これがほしい」「いやだ!」……感情を露わにし、心のままに振る舞う幼い娘を前に、心穏やかでいられないことも。

伸びやかに、健やかに、幸せであってほしい。たしかにそう願っていても、願っているからこそ、日々の生活の中で、社会の常識と照らし合わせ、人と比べて、心配になることもあります。

「〜しちゃだめ」「〜しなさい」

そんな言葉が自分の口からついて出る度に、これでよいのかな?本当にそうかな?と心に疑問符が浮かびます。自分の「正しさ」をよかれと思って押し付けていないか、彼女の心や特性を置き去りにしていないか、“自分らしく”あることの邪魔をしていないか、と。

同時に、私自身も社会の中で培ってきた固定観念、“母親らしさ”のようなものにとらわれて、自分を閉じ込めていないか、とも思うのです。頭で考える正しさで物事を推し量って、心を無視していないか。人目や体裁を気にして、「こうあらねば」と思い込んでいないか、と。

娘も私も、生まれ持った性質があり、好き嫌いや得手不得手があり、自分の意思がある、一人の人間です。親子も一つの人間関係。娘とどんな距離感と塩梅で関わって、どんな関係を育んでいけるのか。過ごす環境や社会の常識と、自分の特性や意思に齟齬が生じ、居づらさを感じるとき、どう思考し行動ができるのか。

そんな問いを巡らせる中、堀内祐子さんと拓人さんは、親子として、一人の人間として、ひとつの未来を私に見せてくれました。

長女、長男、次男、三男。堀内家の4人の子どもたちには全員、アトピー性皮膚炎、喘息、発達障害があります。現在28歳の次男の拓人さんは、小学2年生の頃、ADHDと自閉症スペクトラムの2つの発達障害の診断を受けました。

母の祐子さんは、成人した子どもたちとの関わりや心理学の知見をベースに、任意団体「ゆるみ☆子育て」を立ち上げ、書籍の執筆や講演活動、Zoomでのお話会や個人カウンセリングなど、発達障害や子育ての情報発信を積極的に行っています。2019年には、次男の拓人さんと一緒に『ADHDと自閉症スペクトラムの自分が見つけた未来ー親子で振り返った誕生から就職まで』(ぶどう社)を出版しました。

発達障害とは、脳機能の発達の違いによっておこる障害です。コミュニケーションが苦手、興味・関心のかたより、じっとしていられないなど、行動面や情緒面に特性がある場合が多く、特性による困りごとはその人によって異なりますが、過ごす環境や周囲の人との関わりによっても変化します。

発達障害は、その特性がゆえ、親が子育てに悩んだり、子どもが生きづらさを感じたりすることも少なくありません。しかし本人や周囲の人たちがその特性を理解し、特性に応じた過ごし方ができれば、困難を軽減し、持っている力を生かしていくことができる、と言われています。

発達障害であるかどうかにかかわらず、大なり小なり人には誰しも、生まれ持った特性があります。

親として、子どもの特性を理解し、その性質や気持ちにどう寄り添っていけるのか。個人として、社会の常識や他の人との間にズレを感じたとき、自分を抑え込むのではなく、活かすためにはどうすればいいのか。社会に生きる一人として、人それぞれの特性や力をどう生かし合っていけるのか。

祐子さんと拓人さんそれぞれの視点から親子の28年の歩みをお聞きし、考えていきたいと思います。

「とんでもなく多動」ハプニングだらけの日常に、ただただ対応していった

──まず、拓人さんの幼少期から振り返ってお聞かせいただけますか。拓人さんはどんなお子さんだったのでしょう?

祐子さん:喋りすぎちゃうので、そのときはトントンとしてくださいね。

拓人さん:わかりました。

祐子さん:すごくやさしい子でしたよ。ただ、とんでもなく多動。4人きょうだいの中でもダントツで。

──具体的にはどのような……

祐子さん:すぐどこかへ行っちゃう。お風呂に入ってきょうだいの体を拭いている間に、裸のまま玄関の鍵を開けて外に出ていっちゃうんです。出かければ必ず迷子になる。近所のスーパーに買い物に行くと、果物を指でつんつん触るから買わなきゃいけない。借家の床柱にスタンプをぺんぺん押し続けるいたずらを繰り返す。

【写真】二人横に並び、椅子に座っている。ゆうこさんは手を動かしながらたくとさんに話しかけている。

拓人さん:それはまずいですね。

祐子さん:でもね、いたずらも迷子も全部、ニコニコきゃっきゃしながら、楽しそうにやってるの。とにかく好奇心の塊だから。スタコラいなくなったと思ったら、両手いっぱいにどんぐりを抱えて「これママにプレゼント」と言って嬉しそうに帰ってきたりして。

拓人さん:さすがにその頃のことはよく覚えてないですね。ただ何をするにしても楽しいから、という感覚はあったと思います。

ちなみに今なぜ多動なのか?と問われれば、私にとってはそれが“体のベストコンディション”だから、と答えます。体を動かしていることがニュートラルな状態であって、心が落ち着くんです。周囲から見たら“落ち着きがない”のに、心の中では“落ち着いている”というのも奇妙な話ではあるんですが。

祐子さん:当時住んでた戸建の2階から物を投げているうちに、自分が落っこちちゃったこともありましたよ。遊園地の吊り橋から落下、公園の滑り台から落下。交通事故にも2回、遭っています。事故だらけ。4人きょうだいで合わせて、交通事故に遭ったのは7回、救急車に乗ったのは10回ですから。

──ええ!かなりハードな子育てですね。

祐子さん:でもね、当時はこの子たちが発達障害だとも思っていないし、ほかの家の子育てがどんなものかわからないでしょ。大変は大変でしたけど、子育てってこんなものかって思っていました。とにかく命を守ることを第一に、私はただただ対応していっただけ。

──ただただ対応していく。

祐子さん:そう。アトピーで掻きむしって血だらけになったパジャマやシーツを洗うのが日課。落ちないように2階のベランダ付近には高めの柵を取り付けて、万が一落ちても衝撃が少ないように庭にはお風呂マットや人工芝を敷く。包丁は包丁入れには置かずに、子どもたちが手の届かないところへ。どれだけ工夫しても防げないこともあるんですけどね。

──「〜しちゃだめ!」「やらないで!」と、子どもの行動を制限するようなことはしなかったんですか?

祐子さん:最初は言ってましたよ。でもうちの子たちは一切聞かないから。だんだん私も危険から命を守れればOKって感じでどんどんゆるんでいって「ゆるみ子育て」になったの。私の子育ては基本放し飼い、放牧のようなイメージですね。生活に困らないように草を用意して、狼から守るための囲いをつくる。あとはそこで何をしてもいいよって行動制限はしない。

命に関わること、法を犯すこと、人を傷つけること……人として最低限守らなくちゃいけないことでいくつかNOを突きつけることはありますが、それ以外は大体OK。

──NOは最低限で、基本は放っておく。見守りたいのについ口を出しちゃうこともあるんですよ……。そのスタイルもなかなか意思と覚悟がいるように思います。

祐子さん:まあうちは子どもが4人いるから目が行き届かないってこともあったんです。あっちでもこっちでも大変だったから。“いい加減が良い加減”なんですね。

スクールカウンセラーから教育相談所、そして医師の診断へ。発達障害がわかるまで

──拓人さんの幼少期は今ほど発達障害に対する社会の理解はもちろん、認識さえも広がっていなかったでしょうし、より気づきにくかったかと思います。発達障害だとわかったのはいつ頃、どんな経緯だったんでしょう?

祐子さん:拓人は小学2年生の頃ですね。きっかけは長男の診断なんです。長女が中学で不登校になって。スクールカウンセラーに「長女は落ち着いているので、不登校でもあまり困っていません。困っているのは長男のことなんです」と相談したんです。そしたら「教育相談所にいってください」と言われて、長男を連れて行ったら今度は「医師に見てもらったほうがいい」ってクリニックを紹介されました。

それで診断を受けたら、「アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)に、ADHDの特徴もある」と。今から20年ほど前、長男が小5の頃ですね。そのときに、あ、うちの子はみんな発達障害だと思って、順に診断を受けたんです。拓人も長男と同じ、自閉症スペクトラムとADHDと診断されました。

※自閉症スペクトラム……言葉や視線、身振りなどを使ったコミュニケーション、対人関係の構築が苦手で、強いこだわりを持っている。感覚の過敏を持ち合わせている場合もある。
ADHD(注意欠如・多動症)……落ち着きがない、集中できない、不注意といった特性がある。

──症状や困りごとの程度の差はあれど、きょうだい4人全員が発達障害だった。発達障害と診断される前後で気持ちの変化はありましたか?

祐子さん:びっくりはしましたけど、その一方で、私の子育てが悪かったわけでもなく、長男が悪かったわけでもなく、障害だったんだ、と気は楽になりましたね。それまで周囲の人たちから「親の育て方が悪い」とか「(長男は)社会でやっていけない」とか結構ひどいことも言われてきたので。

診断がおりたときでさえ長男に関しては、障害の特性による困難やストレスで心身に不調が起こる二次障害を起こしていたので「よくここまでひどくしましたね」と言われましたから。そのときはただでさえ途方に暮れていましたから、さらに追い詰められるような気持ちでした。

──子育てはどうしても、家庭内の問題、親、特に母親の責任のような空気感がありますよね。

祐子さん:そうなの。だから逆に、診断が降りてから頼った先でポジティブな言葉をもらえたときはすごく励みになりました。医師が「長男は社会でやっていく力がある」と伝えてくれたときは嬉しかったです。パパ(夫)は忙しくてあんまり家にいなかったけど、「一緒にやっていこうね」と私の話をよく聞いて支えてくれましたね。

──家庭の外も含め、周囲の支えは必要ですよね。拓人さんご本人は診断をどう捉えていたんでしょう?

祐子さん:発達障害であることは、長男にはすぐに伝えたけど、拓人には伝えなかったんです。私は本人が困っている、もしくは周りの人が困っている場合は、発達障害の診断を受けて、本人や周囲に伝えたほうがいいと思っていて。長男は困っていたので結果を伝えたら、「よかった!普通の人間でこんなにわがままだったらオレだって困っちまうよ」と不思議な表現をしていましたね。

でも次男の場合、当時は私も本人も特に困っていなかったので、あえて伝える必要もないなと。発達障害であっても、長男は長男だし、拓人は拓人だし。

【写真】微笑みながらインタビューに応えるゆうこさん

拓人さん:どんなテストを受けたとか、結果がどうだったとか、まるで覚えていないですね。

祐子さん:ただ診断がおりてからは、見学して自分で決めて、週に1回の通級(通級指導教室:大部分の授業は通常の学級で受け、一部の授業を障害に応じた配慮のもと別の学級で受けることができる場所)に通うようになりました。

拓人さん:意外に思われるかもしれませんが、小学校の頃は割と勉強ができるほうだったんです。宿題は全然しませんでしたが、「漫画でわかる算数」みたいな本を夢中で読んでいたので、理解ができたんですね。

学校に行くことも苦痛ではなかったんですが、毎日行くのはしんどいなとも思っていました。そんな中、通級に行くという新たな刺激が魅力的で飛びつきました。とはいえ当時は自分が発達障害だという自覚は一切なかったです。

自分と他人との境界線に気づいて、生きづらさを感じるように

──その後も、拓人さんご自身が学校生活の中でほかの人との違いに悩んだり違和感を抱いたりすることはなかったですか?

拓人さん:小5くらいに、自分と他人の境界線がわかるようになってからは生きづらさを感じるようになりました。それまでは自分が楽しいことをただやりたいと、好き放題やってきたと思うんです。人の気持ちを想像するという発想すらなくて、自分が楽しければ世界が楽しいと、独善的でした。

そこから初めて自分以外の他人の存在に気づいて。自分が楽しくても、つらさを感じている人がいる。自分はこれまでどれだけの人に迷惑をかけてきたんだろう、傷つけてしまったんだろうと、申し訳なくて自己嫌悪に陥りました。

【写真】苦笑いをしながら話すたくとさん

──自分だけの絶対的な世界から、他者のいる相対的な世界になっていった。その過程で生きづらさを感じるようになって、具体的に困っていたことはありましたか?

拓人さん:中学に入ってからは、全部うまくいかなくなりました。まず、授業についていけない。それまで漫画を読んでいるだけで、宿題を含め机に向かっての勉強はしてこなかったんですね。それがひどい成績としてはっきり結果に現れた。

それからバスケ部に入部したんですが、練習にもついていけなかったです。早朝や休日の練習が、喘息持ちの自分にとっては体力的にも精神的にもきつくて。やめたいけど言い出せず、追い詰められていきました。

勉強も部活もできないと、友だちと関わるのも怖くなっちゃって。それで不登校になったんですね。そのときに心を占めていたのは漠然とした「未来への恐怖」です。

──未来への恐怖……。祐子さんは拓人さんの不登校に対してどんな対応をされていたのでしょう?

祐子さん:「学校に行きなさい」とは言わなかったですね。うちには長女と長男、学校に行かずにゴロゴロしてる人たちがすでにいましたから。親は学校に行かせる義務があるかもしれないけど、子どもたちに行く義務はないのでね。学校に行けない理由もそれなりにあるし、ゴロゴロするのも彼らにとっては必要な時間かもしれない。私は子どもの選択の自由を尊重するようにしていました。

とはいえ拓人は学校に行こうとしていたので、環境を整えることには力を注ぎましたよ。本人は発達障害だと自覚していなくても、診断はおりていたので、中学に入学する前に校長先生を訪ねて、できるだけ配慮いただきたいとお願いしていたんです。学年ごとに担任の先生とも連絡を取り合って。不登校になってからは、通級を週2回に増やし、週3回の保健室登校を認めてもらいました。

拓人さん:この頃は、通級と保健室に行って、帰宅後の有り余る時間はBOOKOFFに入り浸って漫画を読んで過ごしていましたね。

発達障害であることをネガティブに捉えず、特別視もせず、ただ受け止めた

──拓人さんがご自身の発達障害を自覚したのはいつ頃だったのでしょう?

拓人さん:中学2年生の頃ですね。自宅のテーブルに置いてあった『おっちょこちょいにつけるクスリ―ADHDなど発達障害のある子の本当の支援』(高山恵子著/ぶどう社)を読んだことがきっかけです。

祐子さん:読み終えて「ここに書かれている著者のご経験と私の経験は重なります。私はADHDなのでしょうか?」と聞いてきたのね。私はあっさり「そうだよ」と答えた。まったく深刻じゃなく、あっさりね!それで「アスペルガーやADHDの人がいたおかげで、この世界が発展してきた部分もあるんだよ。だからみんな必要な人たちなんだよ」って返しました。

親の障害に対する考え方は子どもにも伝わると思うんですが、私は障害があることは人より劣っているとも、かわいそうとも思っていないし、マイナスに捉えていないんです。

拓人さん:だからなのか、私も「そうなんだ」くらいの感覚でしたね。あらゆることがうまくいかず不登校になってしまったのも、発達障害のせいだとかはまったく思っていなくて、単に自分のシチュエーションの問題だと捉えていました。

【写真】笑顔でお話しするたくとさんと、微笑みながらたくとさんを見つめるゆうこさん

祐子さん:その後、拓人の不登校は解消されたんですよ。そのときのエピソードが私は大好きなんだけど。拓人は週に3回、教室ではなく保健室に登校をしていたんですが、わりとクラスの人気者で、クラスメイトが朝、保健室に「教室に行こう」って誘いに来てたんです。でも拓人はトイレに隠れて、チャイムが鳴り終わってみんなが教室に戻るのを確認してからこっそりひとりで保健室に行っていた。クラスメイトと顔を合わせないようにね。

とはいえ拓人は学校に行きたい、教室に戻りたいと思っていたし、子どもには背中を押してもらいたいタイミングがあるんですよね。

それまでに拓人と信頼関係を築いてくれていた担任の先生が、拓人がトイレに隠れていることに気づいたある日、あえて「私のわがまま」という伝え方で選択肢を示してくれたんです。「いつも迎えにきてくれているんだから、彼らが保健室に来たときにちゃんと受け入れるか、もしくは彼らが来る前にクラスに自分から挨拶に行くか、どっちか選んでみて?」と。拓人がクラスメイトと接点を持てるように。

その一言が、拓人が背中を押してもらいたいタイミングと合致して、拓人はみんなに来てもらうのは申し訳ないと、後者を選んだ。教室に行ってクラスメイトに挨拶してから保健室に登校して、それを続けているうちに徐々に教室に戻っていったんです。

拓人さん:不登校を解消するきっかけをくれたクラスメイトと担任の先生には本当に感謝しています。通級の先生にもいろんなことを教えてもらいましたし、母含めいろんな方に助けられて今の自分があると思っています。

「道はひとつじゃない」つまずいたときに別の選択肢を示す、情報提供が大事

──中学卒業後は、高等専修学校に進学されたんですよね。

拓人さん:はい。中学時代は、高校になんて進学できないと未来への恐怖しかなかったんですが……。その高等専修学校の学校説明に「勉強嫌いな君でも大丈夫」と書かれていて、それに惹かれて入ったんです。でもやっぱり学校に馴染めなくて。高い学費を払ってもらっているのが申し訳なくなってしまい、家出を試みたこともありました。

祐子さん:そうそう。拓人がある日、「お母さま、私は死にたい。自分で行きたいと言ったのに、高い学費を払ってもらって学校を続けることができません」と言ったんだよね。でも私はそこで「学校にいけないくらいでなにも死ぬことはない」と、別の選択肢を示した。

子どもがつまずいたときに親としてできることは、情報提供だと思っているんです。子どもの世界は狭いので、一度つまずくとその先の道がないと思ってしまいがち。でもそんなことはない。私はそもそも必ずしも学校に行かなきゃいけないと思ってないですし。学校は選択肢の一つ。

きょうだいのうちふたりは高校を中退したんですけど、今では自立してしっかり働いていますから。その先の選択肢を示して、道はひとつじゃない、と伝えることが大事だと思うんです。

【写真】真剣な表情で話すたくとさんと、隣で耳を傾けるゆうこさん

拓人さん:母に教えてもらって、単位制の高校に編入して、なんとか卒業できました。その後、大学に進むんですが、そこでも勉強にはつまずきましたね。

祐子さん:法学部に在籍してたんだけど、成績はよくなかったね。そしたら、しょっちゅううちにご飯を食べにきていた友人が、大学時代に弁護士を目指していたらしく、「拓人、困ってないかな?必要であれば勉強を教えるよ」って声をかけてくれたんですよ。

拓人は断るだろうなと思ったけど、勝手に断るのはやめようと伝えてみたら、お願いしたいと言ったの。私の勝手な思い込みで止めなくてよかったと思いました。子どもは別人格。良い情報は私のところで止めずに流して、判断は彼に任せるようにしています。

──選択肢は示すけど、やるかやらないかは本人に任せる。

祐子さん:そう。ただそのときに「NO」を示したからといってそれで終わりじゃない。「こういう選択肢があるよ」と話して、半年後に自分から「やりたい」と言うこともありますから。

拓人さん:通常であれば、自分のために人が苦労するのが耐えられないので、勉強を教えてもらうなんて断っていたと思います。私は人に頼るのが苦手なんです。でもそのときはよほど切羽詰まっていたんですね。そこで教えてもらっていなかったら単位を落として卒業できなかったと思います。

適切な場所に行けば、ちゃんと自分の力を活かすことができる

──就職活動についても教えていただけますか。

拓人さん:就活で自分は「嘘をつかないように」という思いから、面接では発達障害であることを伝えていました。自分の最大の弱点を正直に伝えることで、嘘のない人間だと評価してもらえるという気持ちもあったんですね。発達障害であることを伝えておきながら、障害者雇用で働きたいわけではなかったので、ちぐはぐでもあったんですが。

ただ、発達障害であることを伝えた瞬間にあちらの空気が変わるのを感じたことがありまして。散々悩んだ挙句、それ以降はカミングアウトはしない決意をしたんです。そしたらその後、3社の企業を受けて、2社から内定をいただきました。

──発達障害であることを伝えるのをやめてすぐに内定が決まった。そのときの気持ちはどうでしたか?

拓人さん:こんなものなのか、と自嘲するような気持ちもありました。カミングアウトをし続けていたら自分の就活はどうなっていたかわかりません。とはいえ、発達障害をカミングアウトしたら落ちたとか、しなかったから受かったと考えたら自分は終わるな、このまま成長できないなと思ったので、そこはあえて考えないようにしました。

──就活がうまくいかなかったことを発達障害や社会、人のせいにしないようにと考えたんですね。拓人さんの就活を見守っていた祐子さんはどんなことを感じていたのでしょう?

祐子さん:私は拓人が選考に落ちる度に、こんなにいい子を採用しないなんて残念ね!と思っていましたよ。拓人が落ちたことが残念、じゃなくて。この子を採用するラッキーな会社はどこなの?という期待のほうが上回っていましたから。

【写真】手を胸に当て笑顔で話すゆうこさんと、隣で微笑みながら話を聞くたくとさん

──最高ですね。子どもの才能を信じる力が。

祐子さん:うちの子たちはみんな、私のことを親バカだって言うんですよ。だから私から褒められても彼らはそんなに嬉しくない。でも私は、親が褒めなければ誰が褒めるの?って思うし、子どもたちそれぞれに才能があると思っているから、口にし続けています。

拓人は真面目で礼儀正しくて、優しい。社会の中ですぐに評価されなくても、彼の性質に合った、彼の魅力を生かせる場所は必ず見つかると思っているから。すぐに決まらなくても、大丈夫だと私は思っていましたよ。

──適切な場所にいけば、自分を活かすことができ、ちゃんと評価される、と。

祐子さん:それを私がどれだけ言っても伝わらないから、体験してほしいと思って学生時代に郵便局の仕分けのアルバイトを提案したことがありました。動体視力に長けている彼に適職!と思って。案の定「来年も来てください!」と褒められた。できないことで挫折したり、嫌なことを言われたり、傷つくこともあると思うから、社会の中で認められ、やり遂げた達成感を味わってほしかったんです。そういう機会は意識的につくるようにしていましたね。

拓人さん:アルバイトの経験はまさに自信につながりました。それまで母に「あなたはできる子だよ」と言われていたけど、実績も実感もないですし。初めて社会に出て認められた経験だったので、心から嬉しかったです。

「普通の子を育てたい」と漏らした日もあった。それでも、後悔はない

──書籍の中に、拓人さんが高校生のとき、祐子さんが「普通の子を育てたい」と言ったとありました。その時の状況やお気持ちを教えていただけますか?

祐子さん:あの時はめちゃくちゃ拓人を傷つけましたね。私は元気そうに見えますけど、もうね、疲れ果てたんです。学校に行くのにすっごく苦労する姿をずっと見てきたから。何の苦労もなく“普通”に学校に行けたらいいのになあって。学校や部活、社会生活に苦労している拓人の姿を見るのに疲れちゃったんですね。

それで「普通の子を育てたい」と拓人に言ったら「普通の子ってどういう子ですか?」と聞かれて。「苦労せずに学校に行ける子」とひどい言葉を投げたわけですよ。そしたら翌日拓人が「お母さま、私は普通の子になることに決めました。学校で普通の子はどういう子なのか周りの人に聞いてみました。どうやら普通の子はお母さまのことを『ババア』と呼ぶらしいです。そしてそのババアとは話さないらしいです。私はさすがにババアとは呼べないので、『あなた』と呼びます。あなたとはもう話しません」って言ったんですよ。

ザアアーって血の気が引いてどうしようどうしようって焦って、パパに電話したら「大丈夫だよ」って。その後能天気にDVDを借りてきて拓人を誘ったら、一緒に観てくれたのでほっとしましたけどね。

拓人さん:嫌だったぞーという意趣返しでそう言ったんだと思います。“普通”の子ができるように、できるものなら部活も勉強もがんばりたいとは思っていましたけど。

祐子さん:いくら疲れてたとはいえ、あなたを否定してしまったから本当に申し訳ないことをしたと反省しています。私は基本「ゆるみ子育て」ではあるけど、やっぱり苦しいことも嫌になることもあるんですよ。イライラがたまって掃除機を壊してしまったこともあるし。

「もう嫌だ!」って叫んだらパパが「もうお母さんやめていいよ」って言って、「やめられるか!」て踏ん張って、今に至ります。よく投げ出さずにお母さんやってきたな、がんばったなと思いますよ。

──本当に偉業だと思います。私は娘一人でも、赤ん坊の頃は特にイライラするときがありました。祐子さんが母親であることを投げ出さずにいられたのはどうしてですか?

祐子さん:子育てって大変なことのほうが多いけど、その中にあるちょっとしたことが大きな喜びなんだよね。学校に行けなかったのに行けるようになったとか。長男には小4のときに「おかえりって言わないで!」って怒鳴られて以来、一度も「おかえり」って言えなかったんだけど、高校生になって言っても大丈夫になったとか。そういう小さなことが私にとっては大きな喜びなの。

至らないことも失敗もたくさんあったけど、後悔はないんです。石ころにつまずいて転んでも花を摘んで立ち上がるくらいの気持ちで、私なりに精一杯やったから。もう戻りたくはないけどね(笑)。

【写真】テーブルの上で重ねている祐子さんの両手

──子育てをしていると、どうしても子どもを優先しがちで、自分がなくなるというか、自分の心身のバランスが保てなくなることがあります。祐子さんは自分を保つために意識してきたことはありますか?

祐子さん:自分の好きなことは常にしてきました。家具などの木製品に絵具を塗るトールペイントにパステルアート、プリザーブドフラワーにアロマ、写真……好きなことがいっぱいあるの。子育て中も自分のメンテナンスはすごく大事だと思っているから、自分を犠牲にしない。

一般的には飛行機の緊急時に、酸素マスクって、子どもより先に親がつけなさいって言われているのね。子どもにつけている間に親が死んでしまったら子どもを助けられないから。それと同じで、子どもを優先して自分を犠牲にしたら元も子もない。

聖書にも「自分を愛するように、隣人を愛せよ」と書かれているでしょう。自分を守ること、自分を愛することが先。親であっても、子どもよりも先に自分を愛する。それができて初めて子どもを愛することができると思っています。

頭よりも心を大事に。時には逃げて「未来に丸投げ」する

──親である祐子さんがご自身を大事にしていることは、その姿を見る子どもたちが自分を大事にすることにもつながっていきそうですね。

祐子さん:その点、拓人はすごく自分を大事にしているんですよ。

拓人さん:自分の感覚なんですが、私は頭と心がつながっていないんですよ。頭の中で考えると「こうしたほうがいい」「こうすべきだ」とわかっていても、心が拒否する場合は、心を優先するんですね。頭の中に「こうすればうまくいく」という考えがあったとしても、「怖い」と思ったらできない。なので、常識とか善悪ではなく、心がOKかどうかがあらゆる行動の判断基準になっています。

祐子さん:拓人は自分の心がNOと言ったら、絶対にNOなの。だから私も彼の心を尊重します。以前彼が拒否したことについて「これでよかったんでしょうか?」と尋ねてきたことがあったんだけど、私は「あなたはいつも自分の心に正直だから。それがあなたのいいところだから、よかったんだよ」って。

拓人さん:頭と心が分離している状態は、自分の「逃げ癖」にも紐づいていると思います。中高と不登校になって、嫌なことからは逃げてきたわけなのですが……。学校に行ったほうが得られるものがある、ここで逃げたら後々もっとつらくなる、と頭でわかっていても、どうしても心がつらくなったら逃げちゃう。

【写真】右手を胸に当て、真剣な表情でインタビューにこたえるたくとさん

逃げ癖があるのは、たぶんどこかで「いざというときは自分はがんばれる」「ここで逃げてもまた別の場所がある」と幻想にも近い期待、甘えがあるからだとは思います。

──私自身、大人になって頭で考える「正しさ」や「すべき」を優先して、心を蔑ろにしてしまうことがあります。でも拓人さんはいつ何時も頭よりも心を優先する。ここで逃げても、逃げた先にも、自分に合った環境があると未来に期待して。

拓人さん:要は「未来に丸投げ」してるんですね。自分は不安がりで怖がりで、明るい未来なんて描けない。でも怖がっているだけでは一生前には進めません。なので「これから困難にぶち当たるでしょう、未来の自分に任せましょう」と丸投げするんです。今の自分は全然がんばれなくて逃げてしまっても、未来の自分がなんとかしてくれるでしょう、と。そうやって今の心の安定を得ているんです。

祐子さん:今日の自分ができなくても、明日の自分ができるかもしれないっていう希望ね。

──「未来に恐怖」を抱いていた拓人さんが「未来に丸投げ」することで、自分の道を切り拓いてきたんですね。素晴らしい……。

拓人さん:今は頭を使いながら、心も使えるようになるのをがんばっているところです。どうしても極端になってしまいバランスが保てないので。

仕事で障害のある方の就労支援をしているんですが、頭では社会で役立つことを伝えたほうがいいと考えると、心で目の前にいるその人の素晴らしいところが見えなくなってしまう。仕事がどこか無機質になってしまうというか。頭で考えながらも、心で相手の背景や気持ちに寄り添えるようになるのが理想ですね。

対等な目線で、期待を手放さないでほしい。その人の特性を生かし、助け合える社会へ

──拓人さんは、自分の特性を理解しながら、よりよくしていくための努力も怠らない。それができるのはどうしてですか?

拓人さん:一言で表現すると、落ちるのが怖いんです。発達障害だから、と周囲から期待されなくなるのが。

昔は自分に対して成長を期待できる心の余地がなかったんですが、今はがんばりたいと思っているんです。もっと成長したい。できないこともあるけれど、できることはできる、今できなくてもこれからがんばれることはがんばれるって言わないと、周りの人たちはどこまでも許容してくれる。でもそこに甘えていたら、自分は成長できなくなってしまいます。

発達障害であるから、というより、小5から、自分は人に迷惑をかけた、助けてもらった、人よりできないことがある、劣っているという感覚がずっとあって。それでもいいとか、仕方ないとかではなく、どうにかがんばって社会を渡っていきたいと今の私は思っているんですね。

──拓人さんのまっすぐで切実な言葉にハッとし心が揺れています。人に対しても自分に対しても期待を手放してしまうことがありますから。

拓人さん:能力がなくなって、できることがなくなって、赤ん坊のようにシンプルにただいるだけで許されるような世界が自分はつらいんです。無条件の愛情だけじゃなくて、ちゃんと期待をしてほしい。大変かもしれないけど、自分はがんばっていきたいので。

祐子さん:拓人を含めうちの子たちは、できないことがあったとしても、障害のせい、人のせい、社会のせいにはしないんだよね。

拓人さん:考え方ひとつで、全部他者のせいにできちゃうと思うんですが、あの時が悪かった、あの人が悪かった、もう自分にできることはない、と思うと先へは進めない。誰かのせいにすると、試行錯誤ができなくなって、そこで成長が止まってしまう。だから自分は、つまずいたとしても、人のせいにはしないようにしています。

──自分で自分を諦めず、見捨てず、期待をかける。簡単にできることではないと思います。社会で働き暮らす中で、周囲の人たちに「こうしてもらえたら嬉しいな」という願いはありますか?

拓人さん:対等であることです。言葉にするのが難しく、あくまで私の場合、なんですが。私はお母さんが子どもに料理を手伝ってもらっている感覚に近いような働き方はしたくなかった。その人にできることをさせて、できたら褒める。それに支えられることもあると思うけれど、私はその感じがつらいんです。なんていうか、立場が違うからこそ成り立っている関係が。

もちろん発達障害であることでできないこともあるし、能力の差があることは重々承知しています。でもできないことが前提で下駄をはかされるよりも、1つでもできることを対等な目線でちゃんと認めてもらいたい。「やらせてあげる」じゃなくて「あなただから」と。

──なるほど……。子育てにおける親子関係、仕事における上司部下の関係、「上下関係」とも言われますが、無意識のうちに上に立って相手の本質を見れなくなっていることがある気がしています。障害の有無や立場、属性にかかわらず、人にはできることとできないこと、得手不得手がありますもんね。

祐子さん:そう。講演でもよく言うんですが、私は発達障害であるかどうかはどうでもいいと思っているんですよ。それぞれの人に違いがあって、得意なことと苦手なことがある。その程度の差だと思うんですね。だから、できないことがあったとしてもそこは受け止めて、その人の才能を徹底的に生かせる環境があればいいなと思っているの。学校を中退したとか発達障害とかで弾き飛ばさないで。

拓人さん:自分は、発達障害であるかどうかに関係なく、自分にできることをして役に立ち、対等な関係性の中で認められる。そういう努力をしたいし、そういう社会であってほしいと思っています。

祐子さん:私の子育ての目的は、子どもたちに幸せな大人になってもらうこと。より具体的には「自分が持っているものを生かして、人様や世の中に貢献し、自立すること」なんです。

私自身、自分のできることで貢献することが幸せだと思っていて。発達障害のあるうちの子たちは特性上できないこともたくさんあるけど、できることが必ずある。それで人にとことん貢献してほしい。できることで貢献するから、できないことは助けてもらえる。そうやって自分のいる社会が優しくなっていくと思うから。

今日改めて話をして、障害や誰かのせいにせず、社会に貢献しようと努力をしている拓人の姿に、その目的が叶っているのかな、と感じました。

否定ではなく肯定の言葉を人生に添えて、自分を生かせる場所を見つけていく

淀みなく言葉を放つ祐子さんと、慎重に言葉を紡ぎ出す拓人さん。できることで貢献するから人に助けてもらえる「社会は優しい」という祐子さんと、「社会は厳しい」から助けてもらえるよう自分にできることで貢献するという拓人さん。性格も思考の出発点も違うふたりは、影響し合いながらも、違うまま、“自分のまま”ともにいることを受け止めているように思います。

【写真】窓際に立って笑顔でこちらを見つめるゆうこさん、たくとさん、ライターのとく

最後に、拓人さんが大学生の頃、祐子さんに伝えた「スイカ割りの理屈」を紹介します。

大学生だった次男はある日、リビングで目隠しをした自分を冷蔵庫のあるところまで導いてほしいと言いました。私は言われるままに、「前に3歩、歩いて」とか「右に2歩」とか言って、冷蔵庫に到達するように声をかけていました。ところが、次男はときどき「いやです」と言うのです。すると私は、「では、左に1歩動いてください」と違う方法をとるのです。何度か「嫌です」と言われましたが、最後には冷蔵庫のところまで導くことができました。

そのゲームのようなものが終わると次男は言いました。「私が嫌ですと言っても、お母様は私に文句を言うのではなく、違った方法でなんとか目的地に到達するように声をかけていました」、このことは、私の心に深く残りました。

※引用:『ADHDと自閉症スペクトラムの自分がみつけた未来~親子でふり返った誕生から就職まで~』(ぶどう社)p73

目隠しして進む道のように、未来が照らされず暗闇の中にあったら。ペースはゆっくりで、つまずくこともあるかもしれない。心が進むことを拒否をして、逃げ出すこともあるかもしれない。それでも、どんな状況であっても、人と違っても、できないことがあったとしても、否定ではなく肯定の言葉をかけて、祐子さんが選択肢を示し、拓人さんが選び、一歩を踏み出す。それが、ふたりが親子として歩んできた道だったのでしょう。

とはいえ進む道を選んで歩んでいくのは、子ども自身。親はその道の傍らで伴走して見守り、声をかけていくことしかできないのかもしれません。自分が生きてきた時代の中で培ってきた固定観念にとらわれたり、正しさを押し付けて道を塞いで邪魔をしたりすることがないように。心を開いて、子どもの特性を見つめて気持ちに耳を傾け、寄り添っていけたら。

同時に、私も自分の人生を歩んでいる道の途中。これからつまずくことだってあるでしょう。自分の心を優先したとき、社会の常識や「正しさ」のようなものとズレが生じていくこともあるかもしれません。そのときは拓人さんのように、今いる場所から一旦逃げて離れて、息がしやすい、自分を生かせる場所を見つけていけたらと思います。自分への期待を手放さずに。

未熟ゆえ、どれだけ理想を抱いていても、理想通りの子育てはできないし、人生は思い通りにはならないけれど。親として、一人の人間として、「〜しちゃだめ」「こうすべき」と頭で考えすぎるのではなく、「〜したい、したくない」「こうありたい」と心に寄り添い願いながら、自分と、子どもと、ともに生きる人たちと関わっていきたいです。

関連情報:
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堀内祐子さん ブログ
著書
ADHDと自閉症スペクトラムの自分がみつけた未来~親子でふり返った誕生から就職まで~(ぶどう社)
発達障害の子とハッピーに暮らすヒント―4人のわが子が教えてくれたこと(ぶどう社)』他

soarではライターの徳瑠里香さんとともに、「わたしと家族のつながり方」をテーマに、「自分の選択」をして、「わたしの家族」を築いている人たちに話を伺う企画を展開しています。

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(撮影/金澤美佳、編集/工藤瑞穂、企画・進行/小野寺涼子、協力/永田有彩)