【写真】笑顔を向けるせんださんとせなさん

育った環境も、置かれている状況も、思考も異なるふたりが夫婦になって、子どもを育て、家族になる。持てる時間とお金を使って何に心を砕くのか。大事にしたいこと、自分ひとりでは決められないこと、向ける矢印が一つ、二つ、増えていく。

日々の暮らしの中で小さな選択と決断を重ねる夫婦のコミュニケーションは、「阿吽の呼吸」では成り立たない。

一緒に過ごす毎日は愛に満ちているばかりではなく、ネガティブな感情がぶつかり合うことだってある。伝えたい言葉を飲み込んでしまうことも、心ない言葉を放り投げてしまうことも。未熟な人間同士、模索しながら一歩一歩、自分たちの家族のかたちを築いている。

私が「特別養子縁組」を知ったのは、結婚して、不妊治療を始めて間もない頃だった。

特別養子縁組とは、何らかの事情で生みの親と暮らせない子どもが安心して家庭で育つための公的な制度。生みの親と親子関係を絶って、委託された子どもと育ての親は、家庭裁判所の審判によって、戸籍上も実の親子となる。

生まれつき生理と排卵がなく高校生の頃から「産めないかもしれない」と思いつつも、「子どものいる家族をつくりたい」と願っていた私にとって、「産まなくても育てられる」選択肢があることは、一つの希望として映った。

その一方で、実際に進めるにはいくつものハードルがあるようにも感じていた。

血のつながらない子を育てられるのだろうか。夫婦でその責任を受け止めきれるのだろうか。親や周りの理解は得られるのか。

その問いは心に残したまま、初期の不妊治療で奇跡的に子どもを授かったけれど、二人目を望むのなら特別養子縁組という選択肢も考えられる。仮にその場合、きょうだいの血がつながらないこと、出自が違うことに子どもが傷つくのでは?そんな問いが湧く。

世の中に、私の中に、その名の通り「特別」な家族のかたちだという意識があるからこそ、抱いてしまうものなのかもしれない。

2年半に及ぶ不妊治療の末、特別養子縁組で家族をつくる夫婦

【写真】緑あふれる公園の前で並んでこちらを見つめるせんださんとせなさん

そんな想いを巡らせていた最中、特別養子縁組で自分たちの家族のかたちを築いている夫婦を知った。

息子が育つ未来に、特別養子縁組が特別視されないものであってほしい。

そう語るのはダンサーで俳優の千田真司さんと元宝塚歌劇団月組トップスターで女優の瀬奈じゅんさん。ふたりは、2年半に及ぶ不妊治療の末、2017年に特別養子縁組で子どもを家族に迎えた。2018年には、その事実を公表すると同時に、講演会やブログ、メディアでの発信を通じて特別養子縁組の啓蒙活動を行う「&family..」を立ち上げている。

7回に渡って体外受精を繰り返し、やめる決断をして、特別養子縁組で家族をつくる。その過程で、ふたりはどんな想いを持って、ともに暮らす日々を重ねてきたのだろう。

話を聞くことで、自分のなかにある問いと改めて向き合うことができるかもしれない。そんな思いを持って、ふたりに会いに行った。

特別養子縁組によって生まれた新しい家族

【写真】笑顔で話をするせんださん、隣にせなさんも座って話を聞いている

3年前のある初夏の晴れた日。千田さんは大阪で舞台の千秋楽を終えたその足で、瀬奈さんは東京で母と車を走らせ、病院へと向かった。やっと、我が子に会える。何年も待ちわびたその瞬間に、心を踊らせて。

特別養子縁組で家庭に迎え入れる我が子は、その5日前に生まれた。

千田さん:予定日よりも遅れて生まれたその瞬間、自分たちが何をしていたか、今でもよく覚えています。とにかく嬉しくてソワソワしていましたね。

千田さんは大阪で舞台に立ち、東京にいた瀬奈さんは母とステーキを食べて命の誕生を祝福した。

瀬奈さん:知らせを受けたとき、私を取り巻く世界が一変して、心にやわらかな光が刺し込みました。

病院へ駆けつけると、新生児用のベッドにすっぽり入った小さな小さな赤ちゃんが目の前に。

【写真】嬉しそうな表情で話をするせなさん

瀬奈さん:抱き上げて、かわいい〜ちっちゃい〜って、もういとおしさが止まらなくて。この小さなたからものを一生守っていこうと心に誓いました。

千田さん:出会った瞬間、息子に救われました。父親になるんだというより、家族として一緒に支え合っていくんだなという感覚がありました。

自分ひとりでは何もできない心もとない赤子は、生まれてすぐに一つの別れを経験していた。産みの親とはすぐに離れ離れに。看護師たちが代わる代わる抱っこして、哺乳瓶でミルクをあげていたけれど、上手に飲むことができずにいた。

特別養子縁組のあっせん団体の担当者から事前に「ミルクを上手に飲めないので、レクチャーを受けてほしい」と言われていたふたり。看護師から簡単なコツを聞いて「では、お母さんやってみましょう」と声をかけられ、“お母さん”の言葉の響きに喜びを感じながら、瀬奈さんは息子を腕に抱き、哺乳瓶を口へ運んだ。

瀬奈さん:すると、なんのためらいもなく、ゴクゴク上手にミルクを飲んだんです。その懸命な姿に自然と涙が溢れました。周りにいた人たちも「ああ、お母さんを待っていたんだね」と泣いちゃって。息子は慣れ親しんだ匂いから離れてずっと不安だったんだと思います。私が今日からあなたのお母さんだよ、安心してねって息子を見つめて抱きしめました。

【写真】インタビューに応えるせんださん

千田さん:不妊治療で子どもを授かっていたら、不安と葛藤の中で特別養子縁組を決断しなかったら、息子には出会えなかった。そう考えると、つらい思いをした暗い過去も息子に出会うためにあったんだと思える。不妊治療も含めてこれまでの選択は間違っていなかったと思うほど、僕たちにとって、強烈な希望の光でした。

この日、特別養子縁組によって、一つの新しい家族が生まれた。

親の愛情を受けて自分の好きなことを極めてきたふたりの人生が交わった日

この家族が生まれる前に時計の針を戻そう。

東京に生まれ、サラリーマンの父と専業主婦の母、兄、父方の祖父母と暮らしていた瀬奈さん。3歳から習い始めたバレエに夢中になった少女は、いつしかタカラジェンヌを夢見るように。16歳で超難関の宝塚音楽学校に見事合格、18歳から宝塚歌劇団に入団し、花組として夢の舞台に立った。

瀬奈さん:両親はいつだって私の好きなこと、やりたいことをやらせてくれて、応援してくれました。16歳で親元を離れて大阪で暮らし始めるときも、迷いなく送り出してくれて、私を信じてくれていたんだと思います。

舞台初日に宝塚まで足を運んで、いつも見守っていてくれた母。その安心感に包まれながら、トップスターを目指して、仲間と切磋琢磨し、努力を重ねた日々は「青春そのもの」だったと振り返る。

そして、ついに31歳で月組トップスターへ。34歳で退団するその日まで、「努力すればかなわない夢はない」と信じて、自分を磨き、その輝きを舞台の上で放ち続けた。

一方、千田さんは愛知県に生まれ、共働きの両親と兄と妹と3人きょうだいで育った。5歳年下の妹をこの上なく可愛いがり、小学6年生から通い始めたダンススクールでも年の離れた子たちの面倒をよく見ていたほど、子ども好きだったという。

千田さん:放任主義で、やりたいことを否定せず、子どもを信頼してくれる親でした。

両親に見送られ、高校卒業後はダンサーを目指して上京。師匠に付いて技術を磨き、ダンサー・俳優として舞台に立つように。出演するだけでなく、振付師、講師と活躍の場を広げ、他の誰でもなく自分で敷いたレールを歩んできた。

【写真】緑が広がる公園の中を並んで歩くせんださんとせなさん

親の愛情に背中を押され自分の好きなことを極めてきたふたりの人生が交わったのは、2010年。瀬奈さんの宝塚歌劇団退団後初のコンサートに、ダンサーとして千田さんが出演。公演終了後、偶然が重なりふたりで伊勢神宮に“お礼参り”をしたことをきっかけに、交際がスタートした。

瀬奈さん:出会ってひと月でこの人と結婚するかもしれないと思いました。

そんなふたりが結婚を決めたのは、交際から2年半の時が経ち、同じ舞台に立っていた頃。名古屋で迎えた舞台の初日、瀬奈さんの心の支えである母が大動脈解離で倒れ、生死を彷徨う事態に。倒れたのが友人と一緒にいたときで、すぐに病院で処置ができたため、幸いにも一命を取り留め、後遺症も残らなかった。

瀬奈さん:結婚するのはいつでもいいと思っていましたが、母が倒れたことで、お互いの両親がいつまでも健康で生きているわけではないことを実感して、結婚を決めました。

2012年3月、ふたりは挙式をあげ、その晴れ姿を両親に見せ、感謝の気持ちを伝えた。瀬奈さん38歳、千田さん28歳のことだった。

努力しても報われない、ゴールの見えない不妊治療のはじまり

瀬奈さん:結婚を決めた頃から、この人の子どもがほしいと思うようになりました。彼が子ども好きなことも知っていましたし、甥っ子や姪っ子と遊ぶ姿を見て、お父さんにしてあげたいって思うようになったんです。

女優という仕事柄、舞台のスケジュールは2年先まで決まる。人一倍責任感が強い瀬奈さんは「妊娠したから降板します」とは言いたくなかった。周囲に迷惑をかけないように、自分のキャリアと性格も考慮して、引き受けている仕事をやりきった上で、妊活を始めようと心に決めた。

2年後、仕事にきりがつくタイミングで、産婦人科で検査を受けた。40歳という年齢と、かつて卵巣のう腫を患い手術をしていたことに対する不安もあった。検査の結果、手術の影響もあってか卵管が詰まっていたため、医師からの提案を受け、ふたりで相談し、体外受精から妊活をスタートすることに。

瀬奈さん:不安はあったけれど、当時はどこか楽観的で、高齢出産になるけど大丈夫かなといった感じで。これまでのように努力してがんばれば、絶対に子どもを授かることができると信じて疑いませんでした。

ところが現実は想像以上にままならなかった。不妊治療は、どれだけお金と時間を費やしても、身を削って努力をしても、必ずしも「成果」には結びつかない。

不妊治療に専念すべく仕事を休んで、毎日のように病院に通い、注射を打って、薬を飲んで、卵子を育て、卵巣から取り出すために針を刺す。薬の副作用で顔がむくんで、体もだるい。どれだけ痛みを伴っても、「卵子が十分に育っていない」「排卵してしまった」「着床できなかった」と告げられれば、振り出しに戻る。

【写真】横並びで話をするせんださんとせなさん

瀬奈さん:いい卵子が採れるか、授精できるか、着床できるか……毎日がジャッジの連続で。積み重ねてきたものが一瞬でゼロになってしまう。一歩進んで二歩下がる、ゴールが見えない毎日に途方に暮れました。

総合病院で半年、不妊治療専門病院で2年、計7回の体外受精に挑んだ。微かに妊娠の兆しが見えて、期待と不安を抑えられず、市販の妊娠検査薬を何本も使ったこともあった。病院で結果を聞いた帰り道に号泣したことも。通院以外はあまり外へも出ず人にも会わず、自宅の天井をぼーっと眺めて1日を終えたこともあった。

あまりのつらさに当時の記憶がほとんどないと瀬奈さんは振り返る。

それゆえか、当時を思い返すとお互いの記憶が食い違っていることもあると、ふたりは目を合わせた。

瀬奈さん:夫は病院にも付いてきてくれて、帰りには一緒に美味しいお店に立ち寄ってささやかな楽しみをくれました。私の気分を盛り上げるためにボードゲームに誘ってくれたり、外へ連れ出してくれたり。心が揺れるなか、どっしり構えていてくれたことには感謝しかありません。

でも当時は、「薬の副作用をわかってる!?」と夫を責めたこともあったようで。そのことは覚えてないんです。知らない間に、夫を傷つけることを言ってしまったんじゃないかと反省しています。

妊娠・出産にまつわることは、どうしても産む性である女性に負担がかかってしまう。不妊治療という同じ船に乗っていたとしても、見ている景色も、感じることも、そのすべてを共有することはできない。

【写真】真剣な表情でインタビューに応えるせんださんとせなさん

千田さん:不妊治療中、僕にできることは少なくて。決めたことに向かってまっすぐ突き進めるのは妻の魅力ですが、がんばりすぎて、心と体が疲弊していることも目に見えていました。少しでも明るい方へ気持ちが向くように励ましたいと思いながらも、僕自身は、薬の副作用も理解できていなかったし、ちゃんと寄り添ってサポートできていなかったんじゃないかという後悔もあります。

瀬奈さんの反省と千田さんの後悔。それはお互いを思いやる気持ちがあるからこそ生まれるものなのだろう。

夫から特別養子縁組の提案。最初は受け入れられなかったけれど

特別養子縁組という選択肢があることを伝えれば、少しは妻の心が楽になるかもしれない。

不妊治療を始めて半年が経った頃、千田さんから瀬奈さんに特別養子縁組のことを切り出した。いい結果が出ず、暗い空気が漂う何度目かの病院の帰り道、「血のつながりがなくても家族にはなれるだろう」「子どもを授かる方法として特別養子縁組もいいのではないか」そんな想いを伝えた。

そもそも千田さんが特別養子縁組を知り、その選択肢が頭を過ぎったのは、イギリス由来の保育の資格・チャイルドマインダーを取得したことにあった。昔から子ども好きだった千田さんは、ダンサーの仕事と並行して、子どもの接し方を学ぼうと資格を取り、ベビーシッターとして1〜3歳の子どもの世話をすることもあった。

【写真】晴れやかな表情で話をするせんださん

そしてあるとき、幼い子どもを腕の中に抱きながら、自らに問いかけた。もし仮に、何らかの事情により親が育てられなくなったとして、血のつながりのないこの子を自分は育てられるだろうか?

千田さん:僕自身は育てられると思いました。何も難しいことではなくて、目の前に自分では何もできずに泣きわめく子どもがいたら手を差し伸べる。それと似た感覚で、育てられる親がいないのなら、代わりに親になりたいと思えたんですね。

それに、僕らはいつしか妊娠することがゴールになってしまっていて、本来の“子どもを授かって家族をつくる”という目的を見失っているようにも感じていました。特別養子縁組は、思い詰めている妻の何かしらの救いになるかもしれないと。

もちろん一人で決断できることではないし、今提案したら、不妊治療をがんばる妻の気持ちを折ってしまうことにもなる可能性もある。その想いを伝えることには迷いもあった。

瀬奈さんは当時、千田さんの提案を受け止めることはできなかった。

瀬奈さん:私はあなたとの子どもを授かりたくて、がんばっているのに何を言っているの?って思いました。心の中に留めておいたつもりの言葉を口にしていたみたいで。それくらい当時は心が弱っていたし、絶望と混乱のなかにいたんですね。

夫の提案、特別養子縁組に思いを馳せたのは、それから半年後。気づけばインターネットで、啓発サイトやあっせん団体のホームページ、個人ブログなど、特別養子縁組に関する記事を読み漁っていた。

瀬奈さん:なんとなくのイメージしかなかったので、詳しく調べて衝撃を受けました。日本にはなんらかの事情で親と暮らせない子が4万5千人もいること、さらにその8割以上が施設で暮らしていることに驚いて。たった一人だけだけれど、特別養子縁組をすることで、家庭で育つ子どもを増やすことができる。目が覚めるように、私のなかで何か動き始めました。

【写真】インタビューに応えるせなさん

不妊治療を続けながらも、まずは制度について知りたいと思ったふたりは、本やドキュメンタリーに触れ、さらにはあっせん団体が主催するセミナーにも参加。特別養子縁組で子どもを家庭に迎えるまでの流れや制度の歴史を学び、実際に特別養子縁組の家族とも交流をした。

千田さん:セミナーに参加して、特別養子縁組は難しいねと思う方もいると思うのですが、僕らは前向きに捉えることができた。だからと言って今すぐ不妊治療をやめようというわけではなく、あくまで一つの選択肢として話し合いを重ねていきました。

制度について理解を深めたいという段階ではありましたが、先の見えない不妊治療を重ねるなかで、自分たちのことを一緒に決めていける希望のようなものを感じたのはたしかです。

そこから1年ほど、不妊治療を続けながらお互いの気持ちを伝え合って、特別養子縁組についての理解も深めていった。

不意に訪れた不妊治療のやめどき、生まれて初めての挫折

不妊治療は“やめどき”が難しい。ここでやめたらこれまで費やしたお金や時間も含めて、努力が無駄になってしまう。何より、不妊治療をやめることと、子どもをあきらめることがイコールで結びついてしまうから、自らその可能性を断つのは心苦しい。次のステップに進めば、病院を変えれば、がんばれば、いつか妊娠できるはず。瀬奈さんと千田さんもその「いつか」を信じて、2年半、体外受精に取り組んだ。それでも妊娠がかなわなければ、いつか限界はくる。

瀬奈さん:不妊治療を重ねるうちに、何がゴールなのかわからなくなってしまったんです。子どもを授かって彼と新しい家族をつくっていくことがスタートラインなのに、妊娠することがゴールになっていました。

2年間仕事もお休みして、経済的にも体力的にも精神的にもどんどんすり減っていく。このまま空っぽになった状態で子育てすることが恐ろしくなって。なんのためにがんばっているのか、自分を見失いそうでした。

【写真】当時を振り返りながら話をするせんださん、せなさん

そんな最中、瀬奈さんのもとに、不妊治療中だった友人から妊娠の報告が届く。そのとき、「ああ、よかった」と喜び、心からの「おめでとう」を伝えることができた。と同時に、ある不安が胸を襲った。

瀬奈さん:このままだと追い詰められて、友人の幸せを心から祝えなくなるかもしれない。もちろんそれがいけないことだとは思わないけれど、私自身は自分がそうなるのを受け止められなかった。大切な人の幸せを喜べる自分でいたいから、不妊治療をやめよう。そう思ったんです。

ふたりは今進んでいる7回目の体外受精を最後に、不妊治療をやめる決断をした。そして迎えた結果を聞く診察の日。一縷の望みを捨てずに臨んだけれど、妊娠はできなかった。

やっぱりダメだったね…。

自宅に戻って、ふたりでキッチンに椅子を並べて座り、瀬奈さんがそう言葉を漏らした瞬間、千田さんの目から涙が溢れ落ちた。

瀬奈さん:夫が肩を震わせて泣く姿を初めて見て気づいたんです。不妊治療中、私は自分のことで精一杯で夫の気持ちに全く寄り添えていなかった。心の中で“なんで私ばかりがつらい思いをするんだろう”と思ったこともあります。でも、そばで見守ることしかできない夫もつらかったんだと、私も涙を流しました。

真っ暗なトンネルに迷い込んだような、出口の見えない不妊治療は、常に痛みを伴い、つらい記憶として心に刻まれた。それでも、その記憶をなかったことにしたいとは思わない。

【写真】インタビューに応えるせなさん

瀬奈さん:宝塚に入って、トップスターになって、それまで努力すればどんな夢でも叶えられると思っていました。がんばればお母さんになれるって信じていたんです。でも、どれだけ努力を重ねても叶わないことがある。私にとっては、生まれて初めての挫折でした。それまでは自分にも人にも厳しかったけれど、少しだけ優しくなれたような気がします。だから、この経験も無駄ではなかったなって思うんです。

どれだけ願っても、身を尽くしても、叶えられないことがある。不妊治療を通じて、その事実を受け止め、自ら“あきらめる”選択をしたことは、瀬奈さんに新たな視点をもたらした。

不妊治療はあきらめたけれど、瀬奈さんはまだ、“お母さんになる”ーーその夢の途中にいた。

「子どもをほしいと思う気持ちはエゴではない」あっせん団体との出会い

千田さん:夫婦で不妊治療をやめる決断ができたのは、特別養子縁組という選択肢があったからかもしれません。僕らにとって、その時には、“不妊治療をやめる=子どもをあきらめる”ではなくなっていたので。

とはいえ、ふたりはすぐに特別養子縁組を進めたわけではなかった。2年半に及ぶ不妊治療で瀬奈さんの心と体は疲れ切っていた。千田さんは、心身が健やかな状態を取り戻すために、少し休息が必要だと考えた。その提案を受け入れた瀬奈さんは、仕事へ復帰するため、精神状態を整え、体力づくりに励んだ。

瀬奈さん:不妊治療中の2年半は、人にも会いたくなくて家に閉じこもって、薬の影響もあって体もほとんど動かしていなかったんです。だから、人に会って刺激をもらって、体力を戻すために厳しいトレーナーをつけてハードなトレーニングをして、体重を10kg落としました。3ヶ月ほどはとにかく自分を取り戻すために時間を使いましたね。

舞台に立てるまでの気力と体力を取り戻した瀬奈さんは仕事に復帰、稽古に励む日々が始まった。心と体を動かして舞台に立つ喜びを改めて実感するなか、「お母さんになりたい」という思いがふと頭を過ぎることもあった。

ふたりは少しずつ、特別養子縁組に向けて歩みを進めた。

なかでも大きな一歩となったのは、不妊治療をやめてから半年後の、特別養子縁組のあっせん団体・NPO法人ストークサポートとの出会いだった。

いくつかのあっせん団体を調べるなかで、HPに掲載された運営方針に共感し、説明会に申し込むことに。夫婦それぞれのこれまでの生い立ちなどを記入する書類審査を通じて、なぜ子どもを家庭に迎えたいのか、ふたりは改めて言葉を交わした。

【写真】緑あふれる公園で、向かい合いながら話をするせんださんとせなさん

特別養子縁組を進める上で、ふたりの中にはある葛藤があった。

不妊治療を経て、特別養子縁組をしてまで子どもを欲しいと思うことは、自分たちのエゴなのだろうか。

特別養子縁組は子どもの福祉のための制度であることが強調される。社会的な養護が必要とされる子どもたちに家庭的な環境を与えるためであって、子どもがほしい親のためではない、と。

千田さん:でも、僕らが特別養子縁組をしたいと思うのは、「親になりたい」「子育てをしたい」「新しい家族をつくりたい」という自分たちが起点となるシンプルな気持ち。「子どもを助けたい」という想いが一番になければ、特別養子縁組をする資格がないのだろうか。選択肢として考え始めて1年が経っていましたが、ずっと葛藤していました。

現実的に考えれば考えるほど膨らんでいった心の霧は、ストークサポートの担当者との2時間の面談ですっと晴れた。

千田さん:担当してくれた方は、不妊治療ののちに特別養子縁組で子どもを迎えた当事者でもあって、僕たちの葛藤に寄り添って受け止めてくれたんです。子どもを欲しいと思う気持ちはエゴではないと思うと言ってくれて、この人にお願いして話を進めたいと思いました。

葛藤を溶かしてくれた団体、たった一人の担当者との出会いが、ふたりを特別養子縁組へと導いた。

千田さん:赤ちゃんを委託される立場として“選ばれている”感覚になりますが、自分たちで“選ぶ”気持ちで、できる限り多くのあっせん団体に触れて、自分たちとフィーリングが合う人にお願いするのが良いと思います。委託されてからも関係性が続くので。僕たちは、信頼できるすばらしい団体、担当者との出会いがあったからこそ、特別養子縁組に踏み出せました。

不妊治療をしていたから、息子と出会えた。つらい過去にさえ光を当てた存在

書類審査、面談をして申し込み、家庭調査を経て「待機」へ。つまり養親として認められ、委託される赤ちゃんを待つ状態となった。

ふたりはいつ赤ちゃんを迎えてもいいように、親になる準備を進めた。妊娠中の夫婦がそうであるように、家の配置を変えたり、育児グッズを見に行ったり、子どもが生まれてからの生活に想いを馳せたり。

待機から3ヶ月が経つ頃、委託の依頼があった。ところが結果的に、その赤ちゃんがふたりのもとへ来ることはなかった。依頼をした女性が、実際に産んでみたら、自分で育てたいと思うようになったのだ。特別養子縁組では、マッチングが進んでいたとしても、お腹の中で命を育んだ産みの親の最終的な判断が尊重される。

千田さん:実際に赤ちゃんを産んで腕の中で抱いて気持ちが変わることはあると思いますし、生みのお母さんが育てられるならそれに越したことはありません。僕らは、もし育てられなければ、一生愛情をかけて育てるよ、というスタンスでいました。

瀬奈さん:だから、生みのお母さんと暮らせることは喜ばしいことだねって、私たちは次のご縁を心待ちにしていたんです。

特別養子縁組は、もちろん子どもの性別、障害の有無、容姿などを含め、迎える子どもを選べるわけではない。妊娠・出産と同じように、偶然と奇跡が重なって生まれた「我が子」を家庭に迎え入れる。

1回目の委託からほどなくして、「初夏に生まれる赤ちゃんがいる」という委託があった。その知らせが息子との出会いのはじまり。

そこから約1ヶ月後、病院を退院する日、生後5日の息子と対面し、家族になった。

千田さん:今は自分たちの子どもとして息子以外は考えられません。そう思うと、1回目の委託でご縁がなかったから、息子と家族になることができた。不妊治療をしていなければ、特別養子縁組を決断するタイミングが違って、息子とは会えなかったので、巡り合わせというか、すべてがつながっているんだなって思いました。

【写真】木々の中を笑顔で歩くせんださんとせなさん

我が子と一緒に家に帰れる。不妊治療の結果を聞いてどんより暗くなっていた頃とは一転、車内は明るくやわらかい光に満ちていた。はやる気持ちを抑えきれずに自宅に戻ると、瀬奈さんの家族が待ち構えていた。翌日には千田さんの家族も名古屋から駆けつけた。

瀬奈さん:家族みんなで、かわいい!かわいい!の大合唱。こんなに小さいのに、一瞬で家族みんなを笑顔にする赤ちゃんのパワーはすごいなって。しあわせで平和な時間が流れていました。

特別養子縁組をすることは、申し込みをする時点でお互いの家族には伝えていた。

千田さん:家族はみんな僕たちの思いを尊重し、誰も否定することはありませんでした。ふたりが決めたことなら応援する、と。不安もあったかもしれませんが、息子と会ってからは、僕らに新しい家族ができたことを心から喜んでくれていることがわかります。理屈じゃないんですね。

すべては息子のために。特別養子縁組が特別視されない世の中にしたい

特別養子縁組は、家庭に子どもを迎え入れてから、6ヶ月以上の試験養育期間を経て、家庭裁判所の審判によって、戸籍上でも家族になる。試験養育期間は、まだ親権が産みの親にあるため、ふたりは身内以外の周囲には伝えず、その喜びを胸の内に秘め、息子と過ごす日々を慈しんだ。

半年以上が過ぎ、待ち望んでいた家庭裁判所の確定審判が届く。3人は晴れて法律の上でも家族に。芸能界に身を置くふたりは特別養子縁組で家族を迎えたことを公表した。

千田さん:息子のことを一番に考えて、公表した方がいいと思いました。僕らの仕事上、憶測で不本意なことを書かれる可能性もある。ありもしないことで息子が傷つかないよう、自分たちの言葉で事実を伝えた方が良いと思ったんです。

瀬奈さん:公表する上で、ある程度の批判は覚悟していたんですが、みなさんあたたかい言葉で祝福してくださって。特別養子縁組に対して、思った以上に偏見はなく、ただ知らないだけなのかもしれないと感じました。

【写真】生き生きとした表情で話をするせんださんとせなさん

自分たちの家族のかたちをつくるはじまりとなった特別養子縁組についてもっと知ってもらいたい。そんな想いを抱いたふたりは、2018年3月、特別養子縁組の啓発活動を行う「&family..」を立ち上げた。

千田さん:息子が成長する将来、特別養子縁組が特別視されない世の中であってほしい。僕たちと同じように不妊治療をしている人たちに特別養子縁組という選択肢を知ってもらえたらという思いもありますが、一番は息子のため。自分たちにできることは、経験を語り伝えることだと思ったんです。

ふたりは、不妊治療、特別養子縁組、子育て……自分たちの経験、家族になってゆく過程をブログや講演会で発信し、書籍『ちいさな大きなたからもの』も刊行した。

千田さん:特別養子縁組は、予期しない妊娠に悩む女性、望んでも子どもを授からない夫婦、生まれてくる小さな命…「三方よし」と言われています。僕らも息子を愛せば愛すほど、息子を産んで託してくれたお母さんに感謝の気持ちが湧いて、しあわせであってほしいと願うばかりです。関わる人がみんなしあわせになる制度だと思うからこそ、少しでも多くの人に正しい認識を持ってもらえたらと思っています。

瀬奈さん:私たちは、偏見をなくしたいとか、世の中を変えたいとは思っていなくて、ただ特別養子縁組という制度を知ってもらいたい。息子が生まれてすぐに別れを経験したように、日本には何度も別れを繰り返している子どもたちがいます。まずは知ってもらうことから、私たちと同じような選択をする夫婦がいて、安心してミルクを飲める赤ちゃんが一人でも増えたらいいなって。

ふたりが「&family..」で活動する原動力は、極めてシンプルで、まっすぐだ。

千田さん:僕らは息子のために活動をしているので、物心つく年齢になって息子がネガティブな感情を抱くようであれば続けられないと思っています。だからこそ、誇らしいと思ってもらえる活動をしていきたいですね。

血のつながりではなく、ともに暮らす日々を通して家族になっていく

子どもには出自を知る権利があって、特別養子縁組家庭の親は養子であること、その生い立ちとともに愛情を子どもに伝える「真実告知」をする必要性がある。ふたりは、審判確定して間も無く息子が生後6ヶ月くらいの頃から、日常の中で伝え始めた。

瀬奈さん:たとえば、お風呂のなかで“ママのお腹からは産めなかったから、あなたを産んでくれたお母さんがいるんだよ〜”と伝える。まだ理解はしていないと思うけれど、息子の個性に合わせて伝え続けていきます。意味を理解した時に、その痛みを完全にわかってあげられることはできないけれど、最大限寄り添いたいです。

血のつながらない親子だけれど、普段の生活の中で意識することも困ることもない。あるとすれば、病院の診察で「お父さんかお母さんにアレルギーはありますか?」と聞かれる時くらいだという。

千田さん:息子に対する想いは、仮に血のつながりのある子を産み育てていても、変わらないものだと思います。

血のつながりについて問うことが野暮だと思うほど、ふたりは一点の曇りもないまっすぐな愛情を子どもに注いでいる。

【写真】生き生きとした表情で話をするせんださん

千田さん:特別養子縁組は子どものための制度ではあるけれど、親である僕らは出会った瞬間から息子に救われ、たくさんのことに気づかされ、今もずっとその存在に支えられています。親も子もお互いがお互いを必要として支え合っている。それが家族なのかなと。血のつながりよりも、共有する時間や体験によって家族が築かれていくんだと思います。

瀬奈さん:私は夫や息子にとって、当たり前にそこにいる存在でありたい。ずっと二人の味方でいることは前提にあって、家族とは?なんてわざわざ考えなくてもいいくらい当たり前の存在に。もちろんお互いに思いやりを持って接することが大事だとは思いますが。

血のつながりがあるから家族なのではなく、一緒に暮らす日々を重ねることで家族になっていく。その積み重ねによって、いつしか家族が“当たり前にそこにあるもの”になるのかもしれない。

一緒に子どもが育つ未来に想いを馳せて、言葉を交わす

【写真】笑顔で話すせなさんと、せなさんに優しい視線を注ぐせんださん

時に目を合わせ、相手の言葉にじっと耳を傾け頷きながら、それぞれの言葉でこれまでとこれからの家族のことを語ってくれたふたり。途中、瀬奈さんが何度か「私は夫を信じているので」と言っていたことも印象的だった。息子の話になった瞬間にふたりの表情がぱあっと明るくなったことも。その姿には、土台にあるお互いへの信頼、ブレることのない子どもへの愛情が滲み出ていた。

不妊治療や特別養子縁組にふたりで取り組んできたからなのか。ふたりだから乗り越えることができたのか。夫婦のコミュニケーション、その関係性はどう築かれてきたのだろう。

千田さん:僕らは割と自然に会話を重ねてきた気がします。ただ、特別養子縁組をしたことは大きいかもしれません。妊娠出産、不妊治療はどうしても女性主導にならざるを得ないところがあるけれど、特別養子縁組は夫婦ふたりが同じ方向をみていないとできない。親になる準備期間も差異がないので、同じスタートラインに立てる。たくさん会話をする必要がある環境にはありますね。

瀬奈さん:特別養子縁組家庭の私たちは、真実告知をどうするかなど、話し合って決めることが多いかもしれません。でも、子どものことを考えて会話をすることは、特別なことではなくて、どの家庭にも必要なことだと思います。

ふたりは日常の中で、大事なことはキッチンに椅子を並べて、それぞれの想いを乗せた言葉をたくさん交わしてきた。

それは何も“特別”に必要なことじゃない。思えば私だって、特別養子縁組に抱いたのと同じように、子育てをする今も、問いが生まれ不安に思うことがある。その想いをただ、一人で抱え込まずに、パートナーに伝え、言葉を交わして一緒に考えていけばいいのかもしれない。

もちろん僕らだって、お互いに余裕がなくなると言い合いになるし、喧嘩もします。決して完璧じゃない。試行錯誤しながら、家族を築いている最中です。

側から見たら“理想の夫婦”に映るふたりも、ぶつかり合い葛藤し模索しながら、家族を築いている。そのことが、未熟な夫婦である私たちにとっては、希望のようにも感じた。

【写真】公園の木々の中をせんださん、せなさんが目を合わせながら歩いている

ふたりは、向き合うというよりは、同じ目線で隣に立って、ともに歩みを進めているように思う。その視線の先には、子どもが育つ未来がある。

特別養子縁組という家族のかたちが決して「特別」ではない社会。その未来に向かって、ふたりは今日も同じ時を、言葉を重ねているのだろう。

【写真】せんださん、ライターのとくるりかさん、せなさんが笑顔でこちらを向いている

関連情報:
&family.. ホームページ

千田さん、瀬奈さんの著書『ちいさな大きなたからものー特別養子縁組からはじまる家族のカタチ

(写真/川島彩水、編集/工藤瑞穂、協力/くまのなな)

soarではライターの徳瑠里香さんとともに、「わたしと家族のつながり方」をテーマに、「自分の選択」をして、「わたしの家族」を築いている人たちに話を伺う企画を展開しています。

1. 「結婚せずに、産み育てる」親からの虐待を経験した田村真菜さんが選んだ、自分らしい家族のかたち

2. 血がつながっていなくても、世界で一番あなたを愛してる。11人の子どもを里親として育ててきたホッブズ美香さん

3. 離婚は決してネガティブな選択じゃない。大事なのは“自分で決める”こと。シングルマザーとなった田中志保さんがはじめたひとり親支援