【写真】笑顔でこちらを眺めるふじたいっしょうさん

「みんなで力を合わせてコロナに打ち勝とう」

「このピンチをチャンスと捉えることで、社会に希望が生まれるはず」

コロナ禍が私たちの日常を襲ってから、街中の広告やSNS上でそんな言葉を頻繁に目にするようになった。つらい状況だからこそ、励ましの言葉を必要としている人がたくさんいることは日々実感している。けれど私は、前向きな言葉を見るたびに、正直に言えばどこかモヤモヤとした気持ちを抱いてしまう。

常にマスクをしていなければいけないこと。人に気軽に会えなくなってしまったこと。去年からシャッターを下ろしたままの飲食店のこと……。いまたしかに存在しているいろいろなしんどさが、分厚い布で強制的にぐるっとくるまれてしまうような暴力性を、ポジティブな言葉のなかに感じとってしまうことがあるのだ。

前向きな言葉が社会全体の風向きを変えていくかもしれないことは、たしかにとても大事だと思う。けれど、そのうしろで個人が抱えているささやかな(ときに大きな)問題やネガティブな気分が無視されてしまうことは、ほんとうにいいことなんだろうか──?

自分が抱えていたそんなモヤモヤに予想外の分野からヒントを与えてくれたのが、曹洞宗の僧侶・藤田一照さんの教えだった。

藤田さんは著書のなかで、日々の営みに対する私たちの態度は、「exercise(演習・練習)」と「practice(実修)」とに分けられると説いている。

目標を定め、もっとも効率的なやり方でそこに辿り着こうと努力することが「exercise」だとしたら、「practice」は

現状を性急に、力ずくで変えようとするんじゃなくて、ありのままの状態で今現在立ちあらわれている様子を、できるだけ繊細に、時間をかけて謙虚な態度で知るというような態度で行われるもの

(──『青虫は一度溶けて蝶になる 私・世界・人生のパラダイムシフト』より)

だという。藤田さんの著書を読み進めていくと、「禅」の思想のなかでは、この“ありのままの状態”で現状を感じとり、受け入れることを重視するのだとあった。

もしかすると、その考え方はひとつのカギになるかもしれない。藤田さんのお話をもっとお聞きし、自分が抱えている悩みやモヤモヤを相談してみたい──。そんなことを思い、soarメンバーとともに藤田さんのもとを訪れた。

今回から3回にわたって、自分の悩みを起点に藤田さんから伺ったお話をお届けしていく。第1回のテーマは、前述の「ポジティブな言葉に感じてしまうしんどさ」について。

前向きな言葉のうしろにある「圧力」がつらい?

【写真】インタビューに応えるふじたいっしょうさん

明るく前向きな言葉を耳にしたり、ポジティブな空気の中に身を置くと、どこかしんどさや疎外感を覚えてしまう。そんな自分の悩みを率直に伝えると、藤田さんはこんなふうにお話をはじめた。

いまお聞きして僕が最初に思ったのは、たとえば「勝つ」とか「希望」とか、前向きな言葉自体が悪いわけではなさそう、ということ。

言葉そのものよりもむしろ、そういう前向きな態度以外は封じるというか、それ以外の気持ちを抱くことは間違っている、みたいなメッセージを感じとってしまうからつらいのかもしれないですね。

日本には特に、みんなが足並みをそろえることをよしとする文化が根強く残っている。自分もそれは嫌だなと子どもの頃から思っていた──と藤田さんは言う。

僕は愛媛県の新居浜市というところの出身なんだけど、そこはある大企業の企業城下町として発展してきた街で、小学生のときからクラスメイトの親御さんのほとんどがその企業の社員だったんですね。

だから同級生には、自分も大人になったら大企業のサラリーマンになるという子が多くて。

でも、僕は子どものときからそういう仕事は自分に合わないだろうなとなんとなく思っていたから、“マイノリティ”としての生き方を選ぶことになるだろう、というのは想像していました。

ひとりだけ違う方向に走り出そうとすると、どうして勝手なことをするんだ、足並みをそろえろ、と周りに指摘されることがある。けれど藤田さんは、自分の気持ちがかき消されないよう、外野の声に振り回されないでいることを常に意識してきたという。

簡単に言うと、僕のことはほっといてください、って思ってたんだよね(笑)。「どうしてお前は僧侶なんてよくわからない道を選ぶんだ、わけがわからない」とまわりに言われても、僕はこの生き方しかできそうにないんだからしょうがない、と……。

ポジティブな言葉がしんどいといういまのお話もそれに近いのかな、と思いました。

つまり、全員が全員ポジティブな言葉をいい意味で受けとることができるわけではないのだけれど、大多数の人が「ポジティブな言葉はいいもの」という共通認識を持っているから、そうではない人のことは一旦置いておこう、という流れが社会のなかにあるのかなと。

急いでいるときって、そういうふうに突っ走ることがあるじゃないですか。

それで、マイノリティの人たちが「でも」と声を上げたときに、その声に耳を傾けて「そんなふうに感じる人もいるんだ」と初めて気づいてくれる人もいる。

けれど、「それは間違っているので、自分たちの認識に合わせてください」と圧力をかけてくる人も絶対にいて、残念だけれどそういう存在は基本的になくならないと僕は思っているんです。

違和感は捨てなくてもいい

【写真】インタビューに応えるふじたいっしょうさん

「あなたの考えは間違っている」と圧力をかけてくる人はいなくならない、というのはたしかにそのとおりだと思った。そこまで高圧的でなくても、「ひねくれてる」とか「ネガティブなこと言わないでよ」という言葉が返ってくることも想像ができるから、前向きな言葉に疎外感を覚えてしまう自分の気持ちを周囲に伝えることはなかなか難しい。

じゃあ、「前を向こう」というメッセージが溢れているいまの社会の中で、どうやってその気持ちと折り合いをつけていけばいいんだろう──。そう藤田さんにお聞きすると、「その違和感は捨てなくてもいいんじゃないか」とストレートな言葉が返ってきた。

その違和感って、すごく大事なものなんじゃないかな。折り合いをつけよう、と違和感を封殺する手もあると思いますけど、無理にそうしなくてもいい。違和感をなくす方法を考えるんじゃなく、むしろそれをどうやって大切にしていくかを考えるほうが建設的なんじゃないかって僕は思います。

そして、こんなお話をしてくださった。

以前、哲学者の永井均さんと対談したときに、「子どもの頃、自転車に乗って星空を見上げたときに、いまこの瞬間に星空をこうやって見ているのは宇宙で自分だけなんだ、ということを強烈に自覚したことがある」という自分の体験談の話をしたんですよ。

考えてみると、僕らはみんな似たような体をしているのに、いまここで「ちょっと首が痛いな」と現に生々しく感じている体はこれ一つしかない(自分を指差して)。それって「なんで、そうなってんの??」ってすごく不思議なことじゃないか、と。

それって僕たちがなにか特別な努力をして獲得したユニークさではないわけです。そもそもすべてがそこから出発するしかない開闢(かいびゃく)の原点、というか……。

本当の意味での「一人称」ですよね。僕から見たら自分は自分ひとりきりしかいなくて、殴られたら痛いと感じるのは僕の体だけ。変な話、生きているのは僕だけで、あなたたちはみんなゾンビかロボットかもしれない(笑)

だからこそ、“独一無比の(たった一つの突出した)存在である私”としての自覚が、藤田さんの考えの根本にはあるのだという。

その自覚を捨てず、自分とは何者かを探究していきたいという気持ちが大きかったから、藤田さんは“マイノリティ”であるだろう、後を継ぐかたちではなく、一般の家庭から僧侶になった在家出身の僧侶としての道を選ぶことに確信を持てたのだそうだ。

「社長としての自分」を萎縮させないこと

けれど、日常生活の中で、常に自分のことを“独一の存在としての私”と捉えることはとても難しい。

素直にそう伝えると、藤田さんは心の底から湧き上がってくる強い意志とか情熱を叶えようとする自分を「社長」、それを理性的にコントロールして、社長の意志を実現するべくリアリスティックに実務をこなす自分を「マネージャー」と例え、「社長としての自分とマネージャーとしての自分、ふたりともを心に抱えておくことが大切です」とおっしゃった。

たとえば、僕が僧侶という道を選んだのは、「社長としての自分」の心の声を聞いたからだと思うんですね。

学校の同級生や世間の人たちが「そんな道を選んでもなんのメリットもないんじゃないの?失敗したらどうするの?老後の心配はないの?」と親切心から言ってくるんだけど、社長である自分は、その声に従ったらつまらないことになると強く思っている。

だから社長である自分の心の声のほうを信じた。でも、実際に社会のなかで生きていこうと思ったら、現実問題として世間のルールや価値観を完全に無視した生き方をし続けることは難しいですよね。

いろんな邪魔が入ったり、余計な軋轢を生みますから。だから「マネージャーとしての自分」も一応持っておく必要がある。それで、社長があまりにも無鉄砲な判断を下そうとしたときにストップをかけてもらう。「気持ちはよくわかるけど、今はその時じゃないから、もう少し待って」、とか、ね。

そうやってどちらの自分も持っておけるのが一番いいと思うんですが、みんなつい「社長としての自分」ばかりを萎縮させてしまうんですよ。

それは、マネージャーとしての自分が下す判断ばかりが学校や職場で評価されてしまうからだ、と藤田さんは言う。

勉強でも仕事でも、自分の内側からこみ上げてくる社長としての自分の声を聞けば楽しく感じるはずのことなのに、それを押し殺して周りに合わせるほうを優先するものだから、結果的にしんどいことになってしまっている──。

だからこそ、ときには世間や周囲の言葉をうまくかわして、自分の本心が向く方向を信じたほうがいい、と。

話を戻すと、「ポジティブな言葉」に対しても同じことが言えるんじゃないかと思います。

世間で使われている言葉の意味……たとえば「希望」という言葉の明るさにどうしても違和感を覚えてしまうなら、自分なりの新しい意味をそこに盛り込んでしまうくらいの身勝手さがあってもいいんじゃないかな。

なにもかも世間に合わせる必要なんかないんだよ、と僕は思いますけどね。

「どうして自分たちに合わせないんだ」と足を引っ張ってくる存在はもちろんいる、と藤田さんは繰り返す。

そういうときにはある程度したたかに、「社長としての自分」は捨てないままで、「マネージャーとしての自分」に働いてもらえばいい──と明るい声でおっしゃった。つまり、周囲に合わせるようなポーズはとっていても、自分の本心を捨てる必要はまったくない、と。

「私だけ」の気持ちを無理に捨てないでいい

前向きなムードに抱いてしまう違和感は、無理に捨てなくてもいい。藤田さんのさっぱりとしたその言葉に、すこし救われた気持ちがした。周囲に必ずしも自分を合わせていく必要はないとは思いつつ、ときには自分の違和感に蓋をすることが社会や世間に順応するということだと、私は長いあいだ思い込んでいたような気がする。

昔、仕事で取材をさせていただいたベテランの芸人さんが、「自分たちがこれまで大きなトラブルや喧嘩にならずにやってこられたのは、周りからあれこれとアドバイスをされても、あんまり聞く耳を持たなかったからかもしれません」と話してくれたことがあった。

周りからのアドバイスを「結構です」とはねのけるほどの気概はなかったから、「ありがとうございます」と形だけ受けとって、やりたいと思ったことを優先させた結果いまがあるのかもしれない、とその方たちは言っていた。

自信がある人たちだからできたことなんだろう、格好いいなと当時は思っていたけれど、藤田さんのお話をお聞きしたいまは、すこし感じ方が違う。

私の視点から見える世界はあくまで私にだけ解釈できるものだ、という当たり前のことが、手ざわりをもって感じられるようになった。だからこそ、内側にひそかに違和感を抱いたまま、世間のポジティブな空気や言葉に「私はそうは思わない」と感じることがあってもいいし、その気持ちを押さえつけようとする必要はない。そうようやく本心で思えた。

自分ひとりの考えなんてちっぽけなものに過ぎない、と思ってしまいそうなときは、「あなたたちはみんなゾンビかもしれない」という藤田さんの言葉を思い出す。自分はたしかに生きているたったひとりの自分だ、ということを知っているのは私しかいない。そう思うと、自分の輪郭がはっきりと立ち上がってくるような、どこか痛快な気持ちになってくるのだ。

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著書 『青虫は一度溶けて蝶になる: 私・世界・人生のパラダイムシフト

(撮影/中里虎鉄、編集/工藤瑞穂、企画・進行/木村和博、協力/佐藤みちたけ)