【写真】参道でこちらを見ながら微笑むまつもとしょうけいさんともりじゅんや

幼い頃、大好きだったゲームがあります。英語を話すラッパーの犬が主人公で、ピンチに陥る度に決め台詞を言う姿が印象的でした。台詞とともに画面に表示されていたのはこんな日本語字幕。

僕ならできるさ!

当時の私に「アガラビリーブ!」と聞こえていた台詞、数年経って「I gotta believe!」つまり、「自分を信じなきゃ!」という意味だったと知りました。

さらに十数年経った今。私は、ピンチのときに「僕ならできるさ!」と言い聞かせる主人公の気持ちを勝手に想像し、つい共感してしまいます。困難にぶつかったとき「自分ならできるさ!」と信じるのは大切であると同時に、とても難しいと知ったからです。

人生には様々な困難が訪れますが、そんなとき自分や他者を信じるのは簡単ではありません。

自分に乗り越える力があると信じられなかったり、誰かと助け合おうにも「あなたならできる!」と相手を信頼できなかったり。決め台詞を口にしたら万事解決!とはいかないものです。

【写真】法然院の庭にある水鉢に浮かぶ、美しい青と白のあじさい

そもそも『信じる』から離れてみたほうがいいのかもしれないですね。

そう話すのは、光明寺の僧侶である松本紹圭さん。soarでは2年前に、他者の物差しや「おそれ」を手放す方法などをテーマにお話を伺っています。その際に松本さんは、自分の物差しを取り戻し、ダメなところも含めて自分を受け入れ、人生の舵を取ることの大切さを語ってくれました。

自らの物差しを持って、人生の舵を取り、前に進むために。自分や周囲の人々を信じることは、とても重要そうに思えます。なのに「離れてみたほうがいい」とは、どういうことなのでしょうか、そもそも「信じる」とは——。

松本さんとsoarメンバーであるモリジュンヤが京都の法然院にて過ごした対話の時間を、皆さんと共有できれば幸いです。

松本紹圭さん
1979年北海道生まれ。東京神谷町・光明寺僧侶。「未来の住職塾」塾長。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader。武蔵野大学客員准教授。東京大学文学部哲学科卒業後、インド商科大学院(ISB)でMBA取得。2012年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開き、宗派や地域を超えた若手僧侶の卒業生を輩出。誰でも参加できる、お寺の朝掃除の会「テンプルモーニング」の情報をツイッターで告知。

【写真】法然院の和室で座りながら対談を行うまつもとさんともり

「信じる」か「信じない」かの間にあるもの

モリ:前回のインタビューでは、どのように人が「おそれ」と向き合い、評価の物差しを自分に取り戻していくのか、といったお話を聞かせていただきました。

いざ自分の物差しを持って生きようとするとき、どうしても自分の可能性を信じられなかったり、他者を信じて力を借りることができなかったりして、悩む人は多いように感じていて。今日は「信じる」ことについて、松本さんの考えを伺ってみたいなと思っています。

松本:「信じる」と聞いて、まず思い浮かんだのは、そもそも「私があなたを信じる」といったことが、動作として成り立つのかという問いです。

たとえばヒンディー語では「あなたを愛している」と表現するとき「あなたへの愛がわたしのもとにやってきて、そしてそれがとどまっています」と表現するそうです。「愛している」というのは、誰かに働きかけたり、誰かから受け取ったりするのではなく、どこかからやってきて、自分にとどまる形で成り立つものなのだ、と。

同じように「信じる」も、どこかからやってきて、自分にとどまるようにして、立ち現れるものではないかと思うんです。

【写真】穏やかな表情で話すまつもとさん

モリ:一つの動作というより、もっと広がりを持って現れる状態のように捉えられるのではないかと。

松本:そうなんです。哲学者の國分功一郎さんが著書で紹介されている「中動態」という概念があります。「する」という能動態でも、「される」という受動態でもない。行為をしている主体自体が、その動作が働く座になっているような動詞であると、言語学者のバンヴェニストを引用しながら説明されていました。まさに先ほど話した「『信じる』が、やってきて、自分にとどまっている」状態とも近いですよね。

こうした点からも、「私があなたを信じる」といった動作は、「歩く」とか「食べる」といった動作と同じようには捉えられない気がします。そもそも、誰かに「信じてください」と伝えて「はい、信じます」と答えてもらえたからといって「信じてもらえたな」とは思わないじゃないですか。

モリ:たしかに言葉ではなく、その人の態度や行動、雰囲気などから「自分は信じてもらえているな」と感じとる人のほうが多そうです。

松本:親鸞は、疑いの心が一つも混じらない心な状態を、「疑蓋無雑(ぎがいむぞう)」と言いました。この状態にあるとき、人は信じるか信じないかを確かめたり、言葉にしたりする必要もないんですよね。

そういう状態を目指すとしたら、そもそも「信じる」という言葉から、一度離れてみたほうが良いのかもしれないなと思うんです。

「大丈夫じゃなくても大丈夫」という感覚をもつこと

モリ:「疑蓋無雑」のお話を踏まえると、自分や他者を信じるかどうかを考えすぎるよりも、どうすれば自分や他者に限らず、あらゆる物事に対して疑いなくいられるか。「疑蓋無雑」に近い状態であれるのかに目を向けてみるといいのかもしれないとも思いました。

なぜなら、松本さんがお話された通り、そもそも信じるかどうかは二択で選べるものではなく、状態として現れるものとも考えられるのだから。その間には色々な感情のグラデーションがあるわけで、濃淡の入り混じった自分の状態を捉えていくことが大事なのかなと。

【写真】右手を動かしながら話すもり

松本:そうですね。あとは「何が起こっても大丈夫」とか「大丈夫でなくても大丈夫」という感覚を持てているといいのではないでしょうか。

「信じているからね」と言った相手に裏切られても、そういうこともあるよねと受け入れられる。安定した土台があって、地に足がついている。いわゆる「グラウンディング」している状態にどう近づいていくか。それを考えていくほうが「自分や他者を信じられない」という悩みを解きほぐすことに深くつながっていくのかもしれません。

モリ:日頃からグラウンディングした状態で自分や他者と向き合えていると、仮に裏切られたとしても揺らがずにいられる。その状態に近づいていくためには、どういう考え方を持っておけるといいのでしょう。

松本:私の場合は、そもそも自分を信じていないんですよね。色々忘れるし、考えも変わる。一貫性を持とうと思っても持てそうにもない。自分って当てにならないなと思います。自分もそうですし、他者もそう。一切は変わっていくし、変わるからこそ生きているとも言える。

そうやって変わり続ける自分や他者と向き合って、地に足つけて生きているうちに、振り返ったら自分や他者を信じていた。「信じる」はそうやって思いがけず現れてくるような気がします。

【写真】もりを見ながら話すまつもとさんと、顎に手を添え考えながら話を聞くもり

信じるかどうかを判断できる“確かな自分”はいない?

松本:こうやって「信じるから離れてみては」なんて言うと「いやいや、お坊さんはブッダを信じているのではないか」と思う方もいらっしゃるでしょう。

ですが、ブッダであれ、親鸞であれ、基本的にお坊さんは先人たちの思想を、そのまま受け取っているのであって、「ブッダという人が信じるに値するかどうか」は考えていないんです。先ほど話した通り、それを判断できる確たる自分などいないし、当てにならないと考えるからです。

モリ:信じるか信じないかという判断は挟まず、一旦「ブッダとはこういう思想の人だ」と受け取ってから、自分がどう解釈し、引き受けていくかを考えていく?

松本:そうです。なんて言いつつ、かつては私自身も「信じるかどうか」をよく考えていたんです。お寺で「西の方に浄土があって……」といった説法を聞いて「この人たちはいい歳をして本当にこんな話を信じているのか?」なんて思っていましたから。

ですが、時間を重ねていくと「あの時、あの人が話していたのは、こういうことだったのか」と理解できる瞬間が訪れる。その積み重ねによって、今の自分には知らないこと、わからないことが山ほどあるのだと段々気づけるようになるんです。そうすると自分は当てにならないなと思うようになって、信じるかどうかはあまり考えなくなる。

今、「信じるかどうか」をあまり考えなくなった過程を話してみて、もしかすると人が何かを「信じたい」と言うとき、自分のなかの確かさや正しさを信じたいのかもしれないと感じました。

自分のなかに確たる「こうするべき」があって、それにもとづいて、目の前の物事が信じるに値するかどうかを判断できると思っている。実際に思った通りに物事が現れたら「信じていることが叶った」「正しいと判断した自分は間違っていなかった」と感じられる。

【写真】胡坐をかき松本さんが両手を合わせている

モリ:ひょっとすると、人は「信じるかどうか」を考えているようで、「正しいかどうか」を考えている場面も多いのではないかと思いました。

後から「自分は間違っていなかった」と思えるものを信じたい、だから、何が正しいのかを確かめたい。確かめてから信じたいと思っている。「正しい」と「信じる」が知らず知らずのうちにつながっている。

もちろん、前回のインタビューで伺った通り、自分のものさしにおいて「正しい」と思える選択をすることが必要な場面もあると思います。ただ、自分のものさし自体も、常に変化していくわけで。

自分のものさしを持って生きることは、「今はこれを選択する」とその場その場で意思決定をしながらも、“変わらない絶対的な正しさ”なんて存在しないという曖昧さを受け入れていく、その行き来をすることなのかもしれません。

徹底的に孤独だが、徹底的に絡み合っている私たち

松本:もう一つ、人が何かを「信じたい」と言うとき、その対象に「同質性」を見出したいのではないかとも思いました。共通項もなくて、心理的に距離の遠い他者に「信じているからね」と言うことってあまりないですよね。共通の何かがあると感じているからこそ、わかってくれるよね、信じているからね、と言いたくなるのではないか、と。

モリ:たしかに家族や友人など身近な人に対してほど、信じてほしいとか信じてもらえないといった悩みを持つ人は多いですよね。「こうするべき」や「こうあってほしい」を共有したいという気持ちも強くなってしまいやすい。

松本:前提として、誰だってわかりやすい共通項で他者と繋がりたくなるものです。私自身も含め、お坊さんだってそうです。

ですが、仏教では人と人とは決してわかり合えないのだと考えるんです。お経にも、人は「独り生まれ、独り死に、独り去りて、独り来る」という表現が出てきます。わかってもらえなくて辛い、信じてもらえなくて辛いと言うけれど、そもそも私はあなたにはなれないし、あなたも私にはなれない。

一人ひとりはまったく異なる輝きを放っていて、光の反射が網の目のようにつながってみえるけれど、物体として網が存在するわけではない。関わり合いのなかにあるけれども、一人として同じ人はいないし、つながりのように見えるものも幻想である。

人は徹底的に、絶望的に、孤独なのだと思います。

【写真】法然院の座敷に登っている小さなアリ

けれど、それは必ずしもネガティブな話ではありません。なぜなら、この話を共有した人の間には「人は誰もが孤独である」という共通項が生まれるからです。そこに希望がある。

ブッダは悟りに至る道において「良き仲間」を持つことが大切だと言いました。その仲間とは、決して表面的に似通っている人たちではない。「徹底的に孤独である」という背景を共有した人たちなのではないかと思うんです。

悲しみを通してつながるコミュニケーションの豊かさ

モリ:おっしゃる通り、人は表面的な共通項を探したくなるし、それにもとづいて「この人は信じられる」とか「一緒にいても安全だ」と判断をしてしまいやすいですよね。けれど、より根源的な共通項は「孤独であり、一人であること」だと。その背景を出発点として、人は互いにどう関わっていけるのでしょうか。

松本:仏教には「布薩」と呼ばれる修行僧の集まりがあります。これは、守るべき「戒」から逸れていないか、確認し合い懺悔する、いわば修行僧たちの反省会です。私も参加したことがあります。

戒から逸れてしまうことを、仏教はけっして糾弾しません。人間は、人生を通して「わかっているつもりでも、やってしまった」を何度も経験します。その時、人は絶対的に孤独です。「人は独り生まれ、独り死に、独り去りて、独り来る」。孤独な私たちが、「やってしまった」ことを共に反省しながら、そこにある悲しみを分かち合うんです。

孤独を共有することから始まるコミュニケーションには、こうした、誰もが自分一人では逃れようのない悲しみが伴うものなのではないかと思います。

【写真】もりに向かって穏やかに話すまつもとさんの横顔

モリ:孤独であることの悲しみを、ネガティブなものとして避けるのではなく、受け入れて分かち合うのですね。

松本:以前、森田真生さんという数学の研究者の方が、「悲しみが感情の器を拡張する」とおっしゃっていました。悲しみが大きくなるというのは、感情自体のキャパシティが広がっていくことなのだと。それは個人的にとても納得感があったんです。

モリ:自分の孤独や悲しみを一旦引き受けることで感情の器が広がっていく。そうすると、広がる前は受け止めきれなかったもの、自分を守るために避けていたものにも、ちゃんと地に足をつけて、向き合えるようになるのでしょうね。

【写真】法然院の中庭にある水鉢と緑の木々

Responsibilityを「応答可能性」として捉える

松本:悲しみも含め、もっと人間らしさを見せていいと思える場が、社会に増えていくといいですよね。良くも悪くも日本は、社会を円滑に運営するための色々なシステムが整っていて、それを維持しようと、みんながちゃんとした風に振る舞っている。

とくに最近、産業僧(松本さん含む僧侶が企業の経営者や従業員と定期的に対話を行う取り組み)を通して、色々な企業で働く方々と接する機会が増えています。そのなかで思うのは、企業というシステムを成り立たせるために、みんな必死に頑張っているということです。そして、さまざまな責任を抱えて、ときには押しつぶされそうにもなっている。

そもそも日本語の「責任」という言葉は、英語の「Responsibility」から輸入されたもの。私はこの「責任」という訳があまり良くないのではと思っているんです。何だか責められるニュアンスが強いじゃないですか。

モリ:責を任される、ですからね。

松本:もっと前向きなニュアンスをもって、しなやかなものとして受け止められる気がします。

というのも、國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんの共著『責任の生成』のなかで、人が責任を引き受けるにも、まずは「免責」が大事なんだということが指摘されていたんです。

たとえば、会社に遅刻してやってきた人がいるとします。その遅刻の責任はどこにあるのでしょうか。

多くの人は「当然、遅刻の責任は遅刻した人にある」と考えますよね。でも一旦「〇〇さんの身の上に遅刻現象が起きた」と解釈する。責任を免除して「なんで起きちゃったんだっけ?」を皆で話す。そのうえで「そうか、ここが自分はよくなかったんだな」と遅刻した人が自発的に責任を引き受ける。こういう「免責」と「引責」のプロセスがないと、ただ謝るだけとか、ただ責任を押し付けるだけになってしまうのだというお話でした。

このたとえ話において、遅刻をした人は自分の行いや結果を受け止め、次につながる自分なりの回答を出しました。つまり「Response(応答や返答)」する「Ability(能力、可能性)」を発揮したと言えると思うんです。

だからResponsibilityは「責任」ではなく「応答能力」や「応答可能性」と呼んだ方がいいのではないかと思います。

法然院の水鉢に浮かぶ色とりどりのあじさい

そんな話をnoteに書いてみたら、とある牧師の方から「Responsibilityはもともと『Calling(神からの思し召しの意)』に対するものなのだ」と教えていただきました。神からの呼びかけに対し、自分は応答するべき立場にあると自覚し、引き受け、発揮されるのがResponsibilityなのだと。

以来、より一層「責任」は誤訳ではないかと思うようになりました。何より「応答能力」や「応答可能性」と捉えたほうが、押し付けあって遠ざけたいものではなく、共に耕していく嬉しいものと感じられるのではないかなと。

モリ:人から押し付けられるのではなく、自分に与えられた使命、自分の人生で成したいことを引き受ける力として捉えられそうですね。

あと、日常的にも小さな「応答可能性」が発揮される瞬間はありそうだと思いました。

たとえば、人通りの少ない道を道を歩いていて目の前でうずくまっている人がいる。そこで「大丈夫ですか」と声をかける。これは「この場にいるのは自分しかいない」という状況を受け、呼びかけに応じているとも言えるわけですよね。

松本:そうそう。今、これが私が成すべきことなんだと自然に応答してしまう。内発的にその行動を取ってしまう。それが本来のResponsibilityなのではと思うんです。

【写真】法然院の緑豊かな庭で対話する松本さんともり

何かを信じなくたって、毎日ブレずに生きている

モリ:Responsibilityが発揮される瞬間と、今日話してきた「信じる」が思いがけず立ち現れる瞬間には、何か近しいものがあるかもしれないですね。

絶対的に正しいもの、確かなものなどないという前提をもって、地に足ついた状態で自分や他者と向き合う。そうやって執着しているものを手放していった先に、気づいたら自然と生まれるのが「Responsibility」であり「信じる」なのではと考えていました。

松本:そうですよね。ですから、やはり一度「信じる」から離れてみるといいんじゃないかなと思いますね。あるいは、自分の属しているシステムから距離をとってみるのもいい。

都市で暮らしているなら、スーパーでお金を払って野菜を買う代わりに、ベランダのプランターでミニトマトを育ててみるとか。そういう些細な出来事から、自分は一つのシステムに執着しなくて大丈夫なんだという気持ちが芽生え、地に足のついている感覚が育っていくように思います。

モリ:属しているシステムから距離をとることに不安を感じる人は多いかもしれませんが、松本さんがおっしゃっていた通り、人はそもそも「徹底的に孤独」であり、社会には絶対的に正しいシステムもない。こういった前提となる見方を自分のなかに持っておくと、既存のシステムから離れてみるための一歩を踏み出しやすくなりそうです。

また、システムから離れてみると、それがどのような構造で動いていて、自分はどう関わっているのかが捉えやすくなるはずです。

そうすると、何か問題が起きたとき、その背後にあるシステムにも思いを馳せて、要因や解決策を考えられる。目の前の事象に心が揺らぎ、すぐ反応するのではなく、さまざまな可能性を検討できる。つまり、よりグラウンディングした状態で、物事に向き合えるのではないかとも思いました。

松本:そう思います。もっと小さくグラウンディングした状態を育むのなら、今こうやって息を吸って吐いているなとか。それに気づくだけでもいいと思う。自分や他者を信じられなくても、ブレない芯を持っていなくても。息をして、吸って吐いて、ご飯食べて、排泄して、ブレずにやっている。人間は地に足つけて、毎日生きていますから。

【写真】法然院の正門に佇む二人の後ろ姿

「信じる」の話から出発し、地に足をつけて生きる感覚から、徹底的な孤独、悲しみで繋がるコミュニケーション、自発的な応答として現れるResponsibilityまで。発散的に広がった対話を経て、私は「なぜ『信じなきゃ』と思い込んでいたのだろう」と、数時間前の自分が少し他人のように思えました。

まさにこうやって人も世界も常に変化していて、だから、当てにしすぎなくていいのだなと、肩の力が抜けたようにも感じます。

困難を前に自分を信じられず不安に押しつぶされた日も、大切な人に信じてもらえないと悔しかった日も。振り返れば、私は息を吸って吐いて、ブレずに生きていました。

誰かを信じても信じられなくても、何かができてもできなくても。これからはピンチの度に、こう自分に言い聞かせてみたいと思います。「私なら大丈夫さ!」と。

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松本紹圭さん note
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(撮影/水本光、企画・進行、編集/工藤瑞穂、協力/山田晴香)