【写真】取材チームの悩みにこたえるふじたいしょうさん

年下の友人が先日、20歳になった。彼女の住んでいる街では新型コロナウイルスの感染拡大の影響で成人式が中止になり、「久しぶりに会えるね」と言い合っていた中学校のグループLINEは、中止が発表された日の翌日からぱったり止まってしまった、という。

成人の日の当日、彼女のTwitterには「ほんとなら今ごろ振袖着てたのにな~」「成人式はだめだけど大人の飲み会はいいんかい」「GoToってなんやったん……」と、やりきれない気持ちを吐き出すようなつぶやきが溢れていて、そうだよね、本当にそうだよね、と思わず頷かずにはいられなかった。

「自粛」と「経済活動の促進」という両極の指示が旗揚げゲームのようにめまぐるしく入れ替わり続けたこの1年のあいだに、私たちは本当にいろいろなものを失った。それは成人式や結婚式といった晴れ舞台のこともあれば、仕事や金銭的な余裕、ささやかな会食やふれあいの機会、それになにより、自分自身や大切な人の健康や命そのものであるケースもあったと思う。

“喪失”の種類はさまざまで、それにともなう痛みも、当たり前だけれど個人によってばらばらだ。では、先の見えない状況がまだずいぶん続きそうななかで、私たちはそれぞれ、その痛みにどう向き合えばいいんだろう?

私自身やsoarメンバーが抱えている悩みや疑問について、僧侶の藤田一照さんに考え方のヒントをお聞きしていくこの連載。第2回の今回は、藤田さんとの雑談のような対話を通して浮かび上がってきた「新型コロナウイルスの影響で生まれている心の問題」についての話題をとりあげ、考えたい。

コロナ禍を経て新しく手に入ったもの/失われてしまったもの

【写真】インタビューにこたえるふじたいっしょうさん

取材のなかで、藤田さんがぽつりと「オンラインは思ってたよりすごいね」とおっしゃった。

藤田さんはコロナ禍以前から、オンライン上で坐禅会をおこなったり坐禅に関する講義をおこなう禅コミュニティ「磨塼寺」の住職をされている。

当初藤田さんは、オンライン上の坐禅会はあくまで坐禅に対するハードルを下げてもらい、裾野を広げるための二次的な活動のひとつと考えていたという。けれど最近は、オンラインは対面の単なる代替手段ではないのかもしれない──と思うようになったそうだ。

僕たち僧侶がおこなう禅の修行って、単に禅に「ついての」情報を学校で勉強するときのような感じで学ぶんじゃなく、師匠や他の僧侶たちと長いあいだにわたって寝食を共にすることで、毛穴から吸収する……みたいな学び方なんですよ。

いつ何を学んだのか本人も知らないうちに何かが身についている、みたいな。僕は「オーガニック・ラーニング」って呼んでますけど。

そこでは、対面であることがとても重要な条件です。「面々授受」という言葉があるくらいなんです。だから、当初はオンラインの坐禅会に対しても、まったくやらないよりはいいかな、それで対面の坐禅会に来てくれる人が少しは出てきてくれるかなくらいの気持ちでした。

コロナの前から開催していた磨塼寺の朝と夜のオンライン坐禅会は、1回30分で、日常の中に少しでも坐禅を組み込んでもらうきっかけになったらいいなくらいの思いだったんです。

けれど去年の春に最初の緊急事態宣言が出て、対面で集まることがまったくできなくなってしまったでしょう。それで試しに、どなたでも入ってこられるような形で3時間のオンライン坐禅会を無料で開催してみたら、日本各地の方はもちろん、アメリカやオーストラリア、ニュージーランドからも300人ほどのアクセスがあった。そんな規模の坐禅会をやろうと思ったらまず場所探しから大変です。

しかも、対面の坐禅会ではこれまであまり積極的にお話しされなかった方が、オンラインだといろいろな質問をしてくださったりしたんです。対面よりなんだか気楽に話しやすいって。

それから、僕の話したことをリアルタイムで板書して、コメント欄に投稿してシェアしてくださる方もいたりして、けっこう盛り上がったんです。

あ、オンラインって対面にとって二次的なものじゃなくて、それとは別なコミュニケーションの仕方かな、という発見がありました。対面とは違うオンラインという別な体験だなって、体験の幅が拡張した感じがしたんです。

その坐禅会を通じて、オンラインは対面とはまた別の、新たな体験が提供できる媒体なのかもしれないと感じられたのだそうだ。今年は対面の坐禅の機会もこれまでのように重視しつつ、オンラインでできることの可能性もいままで以上に探っていきたい、と言う。

けれど……、と藤田さんはつづけた。

僕はその経験を通して、オンラインってすごいな、必ずしもリアルにばかりこだわる必要はないなって思った。……けれどその一方で、リアルの行事ができなくなってしまったことで、入学式や卒業式、文化祭なんかを経験しないままで卒業していく子どもたちがたくさん生まれていますよね、いま。

そのオンライン坐禅会に初めて参加した小学校の先生をされている方が、学芸会や運動会のような大きな行事って、子どもたちがぐっと成長する機会だっておっしゃってたんです。

でも、いまの子たちはそれがないままに進級することになってしまうから、子どもたちの育ちがちょっと心配だと……。やっぱりオンラインではどうしても代替できない体験ってあるということも忘れてはいけないですね。

もっと広い範囲に目を向けても、“甲子園”のようなスポーツの全国大会とか、地域のお祭りのようなものが根こそぎ「不要不急」の名のもとに中止されてしまった。

これまで私たちは、晴れ舞台での活躍を夢みて努力をしたり、大きな目標を目指して仲間で励ましあい協力しあって練習したり、日常生活では心の内側にしまっている鬱屈した余剰エネルギーをお祭りのような場でわっと共同で発散したりといったことを節目節目でやってきたわけでしょう。

個人としても社会としても、なんとかバランスを保ちながら生きていくためには、そういうことってすごく大事なことだったと思うんですよ。それが急にごっそりなくなってしまうのって、大げさかもしれないけど、ある種の喪失経験、グリーフだと思うんです。

ここから話は、その“グリーフ”をどう癒やせばいいのか、そこに宗教の役割もあるのではないか──という方向に移っていった。

数値化されないけれど、確実に存在するつらさ

コロナにともなう喪失経験に対するケアが、いまはあまりにも軽視されているように感じる。もちろん感染予防は第一に重視すべきことなのだけれど、個々人の生きる質のようなものが、あまりにも蔑ろにされてしまっていないか……。

私がそんな疑問をこぼすと、藤田さんは“数値(データ)では扱われないこと”について話しはじめた。

いわゆる居酒屋やスナックのようなお店って、単にお酒を飲みに行くだけの場所じゃなく、他のお客さんや店員さんと交流して、ときには人生相談をしたりするような、いわばセラピーの場だったわけでしょう。もちろん、みんなはそうは思っていないでしょうが、機能としてはそういう役割を果たしていたという一面はあるんじゃないでしょうか。

今回、飲食店ばかりが感染源であるかのような言われ方をして、休業や時短営業をせざるをえなくなったお店もたくさんあると思うけれど……。つらい仕事や競争社会での傷つき、人間関係の悩みなんかを抱えながらなんとかサバイブしていくために、そういう場が必要だったという方はすごく多いんじゃないかと思います。

これまでずっと意識化されないままにおこなわれてきたことは、当然ですが今みたいな時にまったく顧みられません。

“不要不急かどうか”という短期的な視点で見れば、そういう息抜きというか発散、解放ができないことは大したことではない、となってしまう。

けれどもっと長い目で見たときには、自粛の波の中で知らないうちに失われてしまったことに代わる、深層のストレスに対する手立ての問題をもっと自覚的に考えていかないと困ったことになるんじゃないか、と思いますよ。

大きな喪失体験というのは後になってからじわじわ効いてくるものですからね。しかもこれが世界規模で起きていて、世代を越えて続くことになりそうなわけだから、ことはなおさら重大です。

そういう生きるつらさに関わることって、経済問題でもないし、医療問題でもないし、何問題って言えばいいんでしょう。

そんなことはデータにも載らない些細な、取るに足らない問題だ、もっと重要な問題があるだろうと言われてしまうのかもしれないけれど、イエスさんは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」って言ったそうです。もしそうなら、今みたいにパンのことだけなんとかしようとしていたのでは十分ではないということですよね。

藤田さんのその言葉を聞き、演劇に携わっているsoarメンバーが、芸術はたしかに「不要不急」と思われやすいけれど、その効能は漢方薬のようにじわじわと効いてくるものだと捉えていると言った。けれどそれは数値化できないものだから、指標がないことを理由に軽視されてしまう、と。

「不要不急」の名のもとに、ある観点からのみで見て意味のないものとされるものやことをどんどん切り捨てていく行為は、これまで以上に価値観の二極化を招いていくかもしれない、と藤田さんは言う。

僕は黒澤明監督の『生きる』という映画はすごく仏教的だと思っていて、よくその話をするんです。

映画のなかで、主人公の三十年間無欠勤の市役所の市民課長・渡辺勘治はとにかく職場で波風を立てずに定年を迎えることだけを目指して、毎日、機械のように書類にハンコを押し続ける仕事をしているんだけど、その場面に“なぜなら、彼は時間をつぶしているだけだから、彼には生きた時間がない。

つまり彼は生きているとは言えないからである”というような辛辣なナレーションが入る。自分が末期の癌であることを知って、彼は自分のこれまでの生き方を見つめ直すんです。

コロナ禍を契機に、そういうふうに生き方について深く考える人ともういちいち考えないようにしようという人に分かれていくのかもしれないですね。

「家」はあるけれど「ホーム」がない人たち

それから藤田さんは、宗教がいま扱うべき問題がもうひとつあると思うんです、とおっしゃった。

コロナ禍を受けて“ステイホーム”が合言葉になりましたけど、いざステイホームを実践してみたら、家にいることをエンジョイできない人たちがたくさんいる、ということが明らかになりましたよね。

ステイホーム、スローダウンって言うけれど、そもそも日本人の生きるペースはずっと加速し続けている。東日本大震災のようなできごとを経てもなお、です。

今回は強制的にステイホームしろと言われたその結果、“ホーム”──これは単に家屋、ハウスという意味ではなく、魂が本当に安らげる場所のことですが──がない人がたくさんいるというのがわかった。

データで見ても、前年と比べて2020年には虐待の相談対応件数は10~20%、DVの相談件数は約1.5倍増加した。自分の周りに目を向けても、家にいなければいけないことでつらい思いをしている、と語る人は本当にたくさんいる。家が安らげる場所ではないという人は想像以上に多い。

そのような問題を前にしたとき、宗教の領域でいまできることは、“ホーム”を問い直すことだと藤田さんは言う。

キリスト教の聖書では、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とイエスが言っている。

存在そのものの故郷とか、安息の場所をホームと呼ぶんです。禅には、家に帰って穏やかに坐る、という意味の「帰家穏坐」っていう四字熟語があって、それは坐禅のことなんですよ。要はホームって、穏やかにそこに坐って落ち着くことができる場所、という意味なんです。

これまで、自分が落ち着ける場所について考えることをおろそかにしてしまいがちだったという人はたしかに多そうだ。穏やかに坐って落ち着くことができる場所がないままに外で仕事に励んだり人と交流したりしていたけれど、いざ家に帰ってきてみるとなんだか落ち着かない、という経験は自分にも覚えがある。

思想家のパスカルは「人間の不幸はすべてただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かにとどまっていられないことに由来するのだ」と言っているんだけど、これは本当のことだと思いますよ。

そうだとすると、外に出ていっても不幸にならないでいられるのは、静かにとどまっていられる場所、ホームあってのことなんです。ホームなしで外に出ていったら不幸になるよってパスカルは言ってるんですね。そして、スローダウンして方向を変えないと家には帰れない。

藤田さんは、ホームを捉えなおすためのヒントとして、「リアクション」と「レスポンス」というふたつの姿勢について教えてくださった。

何もしないで静かにしている、ということが苦手な人はたくさんいると思います。僕も若いときは、とにかく目の前の問題に対処しなければいけない、動き続けていなければいけないと思ってました。

動いて何かを成し遂げることに価値があるって。けれど、のちに坐禅に出会って、“何もしない”ということを実践してみたら、なるほど、こういう選択肢もあったのかということがようやくわかった。

何か問題にぶつかったときに、それをよく理解もせずに、怯えるように、自分の手持ちのパターンの中からとにかく解決策を導こうと反射的に動いてしまうことは「リアクション(反射)」です。

一方で、とりあえずは何もしないでいる時間をもって、視野を広げて問題をよく見極め、理解し、選択肢の範囲を広げて、その中からとるべき行動を選びとるというのは、「レスポンス(応答)」。智慧というのはそういうことだと思うんです。

もちろん何か問題が起きたときに、あ、怖い、すぐに対処しなければという感情が生まれるのは自然なことです。けれど、すぐにそれに手をつけるのではなく、自分がレスポンスできるようになるまで待ってみる。

そういう姿勢にすこしずつシフトしていくのがいま大切なことなのではないか、と思います。ロマン派の詩人キーツが、文学的創造に最も必要だと言った「ネガティブ・ケイパビリティ」という「しない能力」を養う必要がありますね。

「リアクション」ばかりが求められる社会のなかで

外に出ていくという行為は本来、穏やかに坐って落ち着くことのできる場所、じっとしていられる場所、つまり「ホーム」があってのこと──という藤田さんの言葉には、深く納得させられた。

“生きるペース”があまりにも早い社会のなかにいると、つい、目の前のできごとにどんどんリアクションしていくことが求められているような、何かに追いつかなければいけないような焦燥感ばかりが募ってしまう。

自分の家にいるのにときどき「帰りたいな」って思うことがあるよ、と話していた知人がいるけれど、その気持ちは私にもなんとなくわかる。本当の意味での「自分の家」のことを、私たちはもっと考えなければいけないのかもしれない。

もちろん、安心して帰れる場所、坐っていることのできる場所さえあれば、外に出られないことも我慢できるはずだ(だから友人の成人式がなくなったことだって仕方ない!)と言いたいわけではない。

新型コロナウイルスによって奪われてしまった機会や新たに生まれつつある問題、その痛みについては、遠慮をせずに声をあげ続けるべきだと思う。

他方で、それと同時に、自分自身が落ち着いた心でいられるというのがどういうことなのかについても、もっと考えていきたい、と思うのだ。私は正直に白状すれば、まだまだ「レスポンス(応答)」の姿勢にはほど遠い。

不安や怖さを感じると、すぐにそれを解消しなくてはと闇雲に手を動かそうとしてしまう。問題が目の前にあるのに、“何もせず、じっとしている”自分が許せない、という気持ちも心の奥にはありそうだ。

何もしていない自分、理想に追いつけない自分のことが許せない、好きになれない──と悩んでいる人は多いように思う。では、そんな自分自身に向き合うにはどうすればいいのだろうか。連載の最終回となる次回は、それを考える上でも大きなヒントにもなりそうな、「自分に寛容である」ことについてお話をお聞きする。

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著書 『青虫は一度溶けて蝶になる: 私・世界・人生のパラダイムシフト

ライターの生湯葉シホさんやsoarメンバーが抱えている悩みや疑問について、僧侶の藤田一照さんに考え方のヒントをお聞きしていく連載を掲載しています。

<1>「ポジティブな言葉や空気がしんどい」この気持ちをどうすればいい?僧侶・藤田一照さんを訪ねて、すこし救われた話/生湯葉シホ

<3>「自分を大切にする」ってどういうこと?僧侶・藤田一照さんに聞く、自己批判ばかりしてしまう私との付き合い方/生湯葉シホ

(撮影/中里虎鉄、編集/工藤瑞穂、企画・進行/木村和博、協力/佐藤みちたけ)