【写真】笑顔で座っているいのうえけんとさん

一人で悩みを抱えていると、この世でたった一人取り残されたような、孤独な気分になることがあります。悩んでいるとき、寂しいとき、泣きたいとき、悔しいとき、その感情を分かち合える人はそばにいますか。

私自身、ネガティブな感情との向き合い方に悩み、マイナス思考の周期がやってくるたびに、もがいてあがいて一人で勝手にボロボロになっていることがあります。定期的にやってくる負の波に、次はもうダメかもしれないと、恐怖すら感じることも。

井上健斗さんは、そんな「孤独」を幾度となく切り抜けてきた、逆境突破の達人です。

マイナスをプラスにするためのきっかけは、孤独の中から見つかるもの。

そう話す健斗さんは、トランスジェンダー(性同一性障害)の当事者です。女性として生を受けたものの、心の性別は男性。25歳で性別適合手術を受けるまで、何度も立ちはだかる壁を乗り越え、現在はその経験をもとにトランスジェンダーの方々をサポートする「G-pit net works」の代表を務めています。

「健斗さんはどんな子どもだったんですか?」という私の質問に、「女子でした」と茶目っ気たっぷりに答えた健斗さん。和やかな雰囲気の中、インタビューは始まりました。

【写真】笑顔のいのうえけんとさんとライターのにしぶまりえさん

幼少期、唯一抵抗した「ランドセルの色」

幼い頃は、自分が男か女か思い悩むようなことはなかったという健斗さん。しいて言えば、周囲が「セーラームーン」や「ママレードボーイ」などを見ている中で、健斗さんが夢中になったのは「キャプテン翼」や「仮面ライダー」。その頃はまだ、周囲も自分も「ちょっとボーイッシュな女の子なんだな」くらいに思っていたと振り返ります。

それでも、幼き日の健斗さんがどうしても譲れなかったこともあります。それは、ランドセルの色でした。

思えば、ランドセルの色で初めて性別というものに直面したんです。それまでは自分のことを「俺」って呼ぶみたいに、男っぽいものを自分で選ぶことができたのに。近所のおじさんが、僕の赤いランドセルを見て「お前、女の子だったんだ」とからかってきたときがあって。そのときの感情は「あ、バレた」だったんですよね。

赤いランドセルを背負っているのが恥ずかしかった健斗さんは、「早く壊れてしまえ」とランドセルに石を押し当て、両親にバレないように毎日少しずつ傷つけていきます。それを続けること数年、小学5年生のとき、ようやくランドセルを壊すことができました。それからは学校で、リュック登校が許されたといいます。「みんなはランドセルなのに自分はリュック」ということより、「持つべきランドセルの色が違う」ことの方が、当時の健斗さんにとってはストレスだったのです。

中学に上がると、次の試練が待ち受けていました。今度は「制服」です。

ああ、人生終わった……そう思いましたね。スカートを履くなんて地獄だ、断固拒否と。でも案外すぐ開き直って、スカートを短くしたりルーズソックスを履いてみたり、楽しみ方も速攻で覚えたんですけど(笑)。

【写真】笑顔でインタビューに答えるいのうえけんとさん

トランスジェンダーという言葉が全く浸透していなかった当時。健斗さんにとっての深刻な悩みは、実はセクシュアリティ以上に「家」の方にありました。

うち、ものすごく貧乏だったんですよね。家に風呂が無かったんですよ。小5くらいまでは、ポリバケツを風呂代わりにしていました。自分の家しか知らないから、別にこれが普通だと思ってたんですけど、友達の家に遊びに行くようになると「何かおかしい」と気付くようになって。ガスも電気も止まったり、夜ご飯はもやしだけ。その頃から、家が大嫌いになりましたね。

家にいたくないと思うようになったのは、家庭の経済状況だけではありませんでした。

お袋が酒・タバコ・ギャンブルをする人だったんです。嫌なランドセルを背負って夕方学校から帰ってくると、お袋が家の前のゴミ捨て場で倒れて寝てるんですよ。なぜこの時間に酔っぱらってるんだと。

最初は助けていたし、恥ずかしかったり心配だったりで泣いていたんですけど、貧乏だってことに気付いたあたりから介抱もしなくなりました。お袋を甘やかす親父に対しても、「もっとマシな女選べよ」とイラついていました。

【写真】眉間にしわを寄せてインタビューに答えるいのうえけんとさん

健斗さんは、家族のことを心底嫌いというわけではありませんでした。嫌いというよりは、突拍子もない言動に衝撃を受けていた、という方が近いのかもしれません。

お袋は悪い人間ではないんですけど、言うなれば”ハッピーな馬鹿野郎”だったんです(笑)。貧乏なくせに、当時相当高価だったパソコンを買ってきて、「大丈夫!分割だから!」とニコニコしてたり。「いやいや総額!」とツッコミどころが満載でしたね。こっちは夜ご飯もやしだって言うのに。

健斗さんは、「ノックの音が好きではない」といいます。それは借金取りを思い出すからです。当時は、鳴り響く電話もほとんどが借金の取り立て関係のものばかり。居留守を使うために、わざと健斗さんが電話に出ることもあったそうです。

健斗さんは、次第にお母さんのことを「違う人種だから理解できなくて当然」と割り切るように。それと同時に「俺は絶対にこうならない」、そう強く決意したのでした。

【写真】インタビューに答えるいのうえけんとさん

「女子を好きかもしれない自分」に戸惑った中高生時代

思春期になると、家庭環境だけでなく恋愛からも周囲との違いを見出すように。トランスジェンダーの人たちの中には、恋愛対象となる人の性別から、自身の性を認識していくことも多いといいます。健斗さんも昔から、好きになるのは女性でした。幼稚園の頃は、女性の先生に小さな恋をしていたそうです。

中学生になっても、変わらず女性に好意を抱いていましたが、「レズビアンと噂されたらどうしよう」と、思いを口にすることはありませんでした。そんな中でも、健斗さんには秘密を共有できる仲間がいました。

クラスにもう1人、FtM(身体は女性で、自認の性が男性という人)がいたんです。ショートカットでボーイッシュで、明らかに自分と同じ空気を醸している子で。席も前後なのに、交換日記をしていました。内容は、学年で可愛いと思う女子について(笑)。

クローズドな関係だったけど、彼の存在が唯一の心の支えでしたね。高校進学はバラバラだったので、高校にあがったときの喪失感がもうすごくて。高校は、人生の中で一番孤独だったかもしれないです。

高校生になった健斗さんは、より自分を隠すようになっていきました。男女の特徴や行動がくっきり別れるようになり、性への違和感も強く感じるように。しかし「トランスジェンダー」という存在を知らない健斗さんは正体の分からないモヤモヤに悩みます。常識から外れないように、浮かないように、行動や発言も女性に寄せていこうと努力をしていたそうです。

【写真】質問に丁寧に応えてくれるいのうえけんとさん

高校2年生の頃、性志向をはっきりと自覚する出来事が起こります。

カモフラージュで好きということにしていた男子がいたんですけど。そしたら周りがお節介をしてくれちゃって、それが本人に伝わって「カップル成立」みたいな感じで、彼と付き合うことになっちゃったんです。周りからも「おお、井上も恋するんだ。あいつも女なんだな」っていうどよめきがありました。

しかし、健斗さんには他に好きな女の子がいたのです。学校からの自転車での帰り道、付き合っている男の子の家の前は素通りなのに、本命の女の子の家の前を通ると、つい「電気ついてるかな?」と視線をやってしまう。

そのとき、自分は確実に女子が好きだ、そう自覚しました。

レズビアンではなく、トランスジェンダーだと気付いた

女性が女性を好き。「これは世に言うレズビアンというやつなのか」と思っていたとき、テレビで放送していたドラマ「3年B組金八先生」が健斗さんに衝撃をもたらします。上戸彩さんが演じていた役が、身体の性は女性で心の性が男性という、いわゆる「トランスジェンダー(性同一性障害)」だったのです。

あれを見て、「僕は恋愛を抜きにしても男性として生活したいんだ」っていうのが明確になったと思います。トランスジェンダーという存在を知って、これまでのモヤモヤの正体をやっと見つけることができた。本当に助けられました。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるいのうえけんとさん

世の中にトランスジェンダーの認知度を上げるきっかけとなった金八先生。それでも日常生活の中で、トランスジェンダーに関する情報を見つけることは簡単ではありませんでした。

しかしそれを機に性別に関するアンテナを立て始めた健斗さんは、FtMの人たちがカウンターに立って働くバーがテレビで特集されているのを目にしました。胸筋もあり、ひげを生やしているその人を見て、「治療をすれば見た目もこんなに男らしくなれるんだ」と分かり、希望が湧いたといいます。一方で、性別を変えてもそのような場所にしか働く受け皿は無く、生まれつきの男性と同じようにこの社会で生きていくことは無理なのだろうか、という不安も生まれました。

【写真】少し辛そうな表情をしてインタビューに答えるいのうえけんとさん

衝撃的な出来事が、次々と健斗さんを襲う

家庭のこと、ジェンダーのこと、いろいろな悩みを抱えつつ、高校卒業と同時に健斗さんは実家を出ることに。奨学金で専門学校に通いながらアルバイトをして生計を立て始めました。ある日、一人暮らしをしている家に帰ると、身に覚えのない請求書が届いているのです。

50万円の借金の明細が2通、計100万円が健斗さん名義で借りられていました。すぐさまお母さんに電話をすると、お母さんはあっさり自分が借りたものだと認めたそうです。

「あいつだ」とすぐにピンときてしまうことが、悲しく、情けなく、降りしきる雨のなか、健斗さんはその場で泣き崩れました。

お袋は確かにクレイジーだけど、僕のことを愛してくれていることは分かってたんです。でも僕名義で契約されてるってことは、僕が留守の間に上がりこんで、印鑑を持って行ったってこと。親子の関係をこれ以上壊さないために実家を離れたのに、なぜまた攻撃してくるんだろうと裏切られた気持ちでいっぱいでした。

これを機に、健斗さんとお母さんとはほぼ絶縁状態に。しかしそれから1年ほど経った頃、親子関係に追い打ちをかけるかのような出来事が起こります。

【写真】当時を思い出し辛そうな表情をするいのうえけんとさん

1年ぶりにお母さんからかかってきた電話。いぶかしがりながらも取ってみると、お母さんの口から伝えられたのは、「お父さんの死」でした。しかもそれは、お葬式が済んだ3日後のことだったのです。

葬式にも出られなくて、お墓の場所も教えてもらえなくて、自力で探しました。僕が家を出たあとに両親も別居をしていたみたいで、親父は孤独死だったらしくて。二人は入籍していなくて事実婚だった、それでお袋も葬式に出してもらなかったんだって言ってました。

次々と起こる不幸な出来事に、健斗さんは「こんなことをしている場合じゃない」と専門学校の卒業を目前にしながら、退学届を提出。借金を返すため、居酒屋のバイトやピザ屋のデリバリーなど、朝から晩まで働き、たった数カ月で100万円を返すことができたのです。

「逆境こそ、俺の人生」

お父さんの突然死は、健斗さんの価値観に大きな影響を与えました。ありがとうを言えないまま亡くなってしまい、お墓参りをすることもできない状況に悔しさを感じながら、「いつ死んでも後悔のない生き方をしたい」と思うようになりました。

【写真】真剣にインタビューに答えるいのうえけんとさん

健斗さんが胸に手を当て「自分はどうしたいのか」を問うてみると、心の奥には「いつか好きな人と結婚したい」という思いがありました。それはすなわち、性別を変えるということでした。

それまでも何人かの女性と交際してきた健斗さん。しかし、周囲にトランスジェンダーをカミングアウトしていなかったため、誰かと付き合ってもそれを公にすることはありませんでした。しかし、結婚したいと思っていた当時の彼女は違ったのです。

めちゃくちゃオープンな女の子だったんですよ。友達にも「私が付き合ってる人は女性なんだけど、中身は男性なの。でも愛し合ってて、今すっごく幸せなんだ」って、無邪気にのろけてくれて。

こそこそ隠れて恋愛していると、トランスジェンダーであることも、女性同士で付き合っているこも、なんだか悪いことみたいに思えてしまう。でも、彼女が自分との関係を恥じなかったことで、自分という存在に自信を持つことができたんです。

【写真】インタビューに答えるいのうえけんとさんとライターのにしぶまりえさん

貧乏生活やお父さんの死、好きな人の存在がバネになり、「自分の力でお金を稼ごう」と移動販売事業を立ち上げました。借金にトラウマのある健斗さんは自己資金にこだわり、小さいながらコツコツと売上をあげていました。

しかし、またしても苦難が健斗さんを襲います。

頑張って働きすぎて、居眠り運転をしてしまったんです。移動販売の車って機材を積んでて重いんですよね。当たったのが軽自動車だったこともあって、少しの衝突でもかなり潰れちゃって。お相手の方の命に別状がなかったことだけは不幸中の幸いなのですが、事業を続けることができなくなり、示談金でまた借金です。

打ちひしがれる健斗さんは、自宅でひとり体育座りをしながら、自分の人生について思いを巡らせます。涙をこぼしながら、そのとき浮かんだ言葉が「GOJ」でした。その言葉を忘れないためにと、自身のメールアドレスにも「GOJ」と刻みました。

「GOJ」って何だと思います?「逆境こそ、俺の人生」です(笑)。どん底が何度も来るのに、その度に立ち上がってしまう。なぜだろう。あ、お袋の遺伝だ……そう思いましたね。

【写真】インタビューに答えるいのうえけんとさん

反面教師にしていたお母さん。しかし健斗さんが思い出していたのは、ゴミ捨て場で酔って倒れているお母さんではなく、子ども名義で勝手に借金を作るお母さんでもなく、「笑ってればなんとかなる!」と、どんなときも笑顔を絶やさなかったお母さんでした。

嫌なこともたくさんあったけど、思い返すといつも笑ってたんですよね。借金取りがバンバン来て、全然笑える状況じゃなかったのに。お袋は強いなって思いました。

それに、親が助けてくれる環境だったら、ここまで自立できてなかったと思います。本当にいい加減にしてくれってくらい逆境だらけだけど、卑屈になっちゃいけないなって奮い立たせました。

頑張っても頑張っても、人生は思い通りにならないことばかり。それでも健斗さんは、以前のように朝から晩まで働き、交通事故で作ってしまった数百万円の借金を数年で返すことができました。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるいのうえけんとさん

ホルモン治療を開始。初めての男性社会

がむしゃらに働きながら、健斗さんは22歳の頃、ホルモン治療を開始します。女性から男性に性別を適合させていくときの道筋を、次のように説明してくれました。

通常の流れだと、まずは精神科で性同一性障害の診断書をとるんですね。自認の性にズレがないと、性適合の治療が認められないからです。それが認められれば、次はホルモン注射です。筋肉注射がメインですけど、錠剤やパッチもあります。だいたい月2回くらいのペースで注射を打っていると、だんだん男性ホルモンが増えて男性っぽくなってくるんですよ。ヒゲが生えてきたり、筋肉質になったり。

戸籍上の性別を変更するときは、今の日本ではいくつか条件があるんですけど、その一つが生殖機能を永続的に無くすこと。それが性別適合手術と言われているものです。僕は、タイで子宮と卵巣、胸を全摘出して、戸籍上も男性になることができました。

ホルモン治療で満足する人、戸籍まできちんと変えたいという人、トランスジェンダーの人たちがどこをゴールに治療するかは人それぞれ。健斗さんの場合は、「好きな人と結婚したい」という思いが強く、戸籍を変えることにこだわりました。

ホルモン注射をすると生理も止まるので、女性を実感する場面がどんどん減ってくる。だからシンプルに「ここまででいいや」って人もいます。ただ僕は、やっぱりいつか結婚したいと思っていたので、社会的にも男性になりたかった。それに、今度は見た目が男になりつつあるのに、保険証の名前は女性だから、病院で名前を呼ばれると周りがザワつくことがあって。超パブリックなアウティング(性的指向や性同一性等の秘密の暴露)だなと苦笑いでしたね。

【写真】笑顔でインタビューに答えるいのうえけんとさん

容姿が男性的になっていくにつれ、健斗さんは環境の変化を実感します。身体や戸籍だけでなく、社会的に男性になっていく過程も面白かったそう。

初めての男性社会なわけですよ。男子トイレとか、男子更衣室とか、当然ですけど重い荷物でも自分で持たなきゃいけないし。それから、女の子の前だと急に格好つけてモテようとする人もいたり。その環境の変化はすごく面白かったですね。

カミングアウトをしたことで、生きる自信を持つことができた

健斗さんは、ホルモン治療や性別適合手術を受ける前の大切なステップの一つとして、周囲にトランスジェンダーであること、そして性別を変えることを一人ひとり電話で報告しました。昔から女性であることに違和感を抱えていたことを打ち明けると、中には「悩んでたのに気付けなくてごめん」と泣き出してしまう友達もいたそうです。

カミングアウトで自分のことを理解してほしかったわけではなくて、次会ったときに男になってたら単純にみんなビックリしちゃうと思ったんですよ。だから、これから声も低くなるし、胸も無くなって容姿も変わるけど、中身はこれまで通り変わんないから安心してねって伝えたんです。

みんな驚きはするんだけれども、否定されることはほとんど無かったですね。女性の頃の名前はユカなんですけど、「ユカはユカだから」って受け止めてくれて。

その反応をみて、健斗さんは心の底から自信が湧いてきました。

ああ、生きていける。そう思いました。

その自信を胸に、健斗さんは性別適合手術に臨むことができたのです。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるいのうえけんとさん

「トランスジェンダーの受け皿を作りたい」と立ち上げたG-pit net works

その後、健斗さんは性同一性障害トータルサポートする「G-pit net works」を立ち上げます。きっかけは、自身が治療を開始した2008年当時、情報収集に苦労したこと。匿名での情報発信が多く、情報の正確さや信憑性にもバラつきがあり、何を信じていいか分からない状況だったそうです。

身体の性別を変えることは、大きな決断。それゆえに不安もつきまといます。まだまだ偏見もあるので匿名情報は多いのですが、僕自身が顔を出して発信していくことで信頼できる情報を提供したいと思ったんです。性別のことで悩む人たちに、寄り添える存在になりたくて立ち上げました。

最初は事業ではなく、個人ブログで情報発信をしていたのだそう。すぐにトランスジェンダーの方々からの問い合わせが殺到し、きちんとしたプラットフォームが必要だと考えた健斗さんは、事業化に踏み切りました。現在では、治療ができる病院の斡旋や、戸籍変更のサポート、治療以前のジェンダーに関する無料相談など、トランスジェンダーに関するあらゆる悩みを解決する糸口を提供しています。

事業を立ち上げ数年経った頃、健斗さんは「G-pit net worksで働きたい」というLGBT当事者の声をよく聞くようになります。

トランスジェンダーが抱える悩みって、実は性別だけで切り取ったところで本質的な解決にはならないと思っているんです。必ず人間関係や、今所属している会社や学校のルール、さまざまな悩みが交わって、1人の悩みが出来ている。

100人いたら100通りの悩みがあるわけなんですけど、紐解いていくと「自分らしく生きられてないことが苦しい」って人が多いんです。

当事者の声から、トランスジェンダーが心地よく働ける社会の受け皿がまだまだ少ないと感じていた健斗さんは、「雇用を生み出したい」と考えるようになりました。それが、農家プロジェクトが始まったきっかけです。

2017年夏に開催されたこのプロジェクトは、お米作りを通して「LGBTフレンドリー」な場を地方からも発信していこうと茨城県笠間市で行われました。ゲイもレズビアンもトランスジェンダーもそうではない人たちも、「田植え」を通してお互いを知るきっかけになったといいます。

【写真】田植えが終わった後の乾杯をしている。みなさん楽しそうだ。

農家プロジェクトを共催した「やる気あり美」は、LGBTと社会との架け橋となる情報発信を行っている任意団体。主に同性愛をテーマにしたやる気あり美と、トランスジェンダーのサポートを行うG-pit net works、まさにセクシュアルマイノリティがオールミックスとなったプロジェクトでした。LGBTとそうではない人たちとの交流だけではなく、LGBT当事者間での懇親も深まったといいます。

この数年間の事業を通して健斗さんが実感したのは、LGBTフレンドリーの波が広がってきたとはいっても、年代や地域によって、まだまだ大きな差があるということでした。

人って、変化や自分と違うものを怖がる生き物じゃないかと思うんです。違うものに対する拒否反応は、特に日本は根強いようにも感じていて……。でもやっぱり「きっかけ」が必要なんだと思います。自分に興味がないものをあえて調べないですから。

だから農業もそうですし、やる気あり美がやってる料理会もそうですけど、楽しみながら気付いたらセクシュアリティの垣根を超えていた、みたいな機会を全国的にどんどん増やしていきたいです。

カミングアウトが一番の壁。それでも、その先には広い世界が待っている

「叶えられない夢がある」。健斗さんが今幸せを感じられているのは、心の底から願っていることが、叶わないと分かっているからだと話します。

正直に言うと男性の生殖機能も欲しかったし、本当の男になりたいです。でもそれは叶わないって分かってるから、今の自分があるんです。僕、大好きな言葉に「足るを知る」という言葉があって。性同一性障害に生まれて良かったなんて美しいセリフは言えないです。絶望ばっかりだったから。けど、叶わない夢があるからこそ、自分のありようを考えることもできたと思うんです。

【写真】笑顔でインタビューに答えるいのうえけんとさん

もし、過去の悩んでいる自分に、今の自分がアドバイスをすることができたら。健斗さんは「トンネルは必ず抜ける。未来を信じてもがけ」と伝えたいそうです。

トランスジェンダーにとっては、カミングアウトが一番のネックだと思うんですよ。でもカミングアウトって、ネガティブをポジティブに変えるだけのインパクトになるものなんです。でもこればっかりは、自分で決断するしかない。

社会のLGBTへの理解が進んでいっていることに、僕も救いを感じていて。社会は良い方向に動いているから、自分の世界を広げるための第一歩を頑張って踏み出してほしいです。その先には、必ず光が見えてきます。

孤独は、自分を育ててくれる大切な時間

健斗さんが自分の人生を振り返ったとき、「孤独」と向き合った時間は、今の自分と切っても切り離せない関係にあるといいます。

【写真】最後にとてもいい笑顔を見せてくれたいのうえけんとさん

孤独っていうと、ネガティブなイメージがあるかもしれないですけど、見方を変えると、自分と会話するためのポジティブな時間でもあると思うんですよ。人生において、すごく重要な時間。自分が本当に求めているものは何かっていう心の声は、孤独な時間にこそ聞こえてくるものだと思うので。

性別を変えたいという思いに気付けたこと、自分の中のポジティブさや忍耐強さに気付けたこと。健斗さんを健斗さんたらしめているものは、すべて「孤独」な時間から生まれたものでした。

【写真】微笑んでいるいのうえけんとさんとライターのにしぶまりえさん

寂しさを感じて、自分の味方なんて誰もいないんじゃないかと考えてしまう。そんな経験は、きっと誰にでもあります。

でもその孤独はきっと、「自分の心の声」を知るための手がかりになる。

何かに悩んでいる時間は、未来に向かって大きくジャンプをするために、膝を曲げてかがんでいる状態。大きく踏み込めば踏み込むほど、その後高く跳ぶことができるはず。

今感じている困難は、未来の自分が輝くための大きな原動力になるかもしれません。そう思うことができたら、ずっと遠くに感じていた出口が、心なしか近づいたような気がしませんか。

孤独は無理に打ち消さなくていい。なぜなら、自分を育ててくれる大切な時間だから。

さまざまな出来事の真っ只中にいるときはすごく辛かったはずなのに、波乱万丈な人生を、まるで渾身のネタを披露するかのように、明るくポジティブに話してくれた健斗さん。最後に記念写真を撮ろうとしていた私も、楽しくて一緒に大笑いしてしまいました。

【写真】笑顔のいのうえけんとさんとライターのにしぶまりえさん

きっと人は、自分自身を輝かせることで、周囲にも光を届けることができるのだと思います。健斗さんからの強くて優しいメッセージが、今悩んでいる人たちの明日に、光をもたらすことを祈っています。

関連情報:

G-pit net works ホームページ

G-pit net works 農家プロジェクト

(写真/馬場加奈子)