【写真】笑顔でこちらを見ているのぶともさん

ここ最近、実家に帰る度に気になるようになったのが87歳の祖母のこと。大きな病気をしているわけでもないし、“認知症”ではないのだけど、脳の前頭葉が萎縮しているようで、なんだか以前と言動が変わってきています。

同じことを何度も言ってきたり、自分だけ変わった食事を取ったり、家の離れで眠ったり。これが正しい!と思い込むと突き進み、家族の言葉に耳を傾けない。なんだかやたらマイナス思考で、「死んじゃう……」とつぶやく姿も見られます。

たまに帰省するだけの孫の私は「おばあちゃんが老いている……」と多少客観的に見られるけれど、ともに暮らす母は、イライラも募らせつつ、かなり参っている様子。

とにかく元気で、ステーキなんかもぺろりと平らげ、孫の友だちの輪の中に入ってきて、自慢のカラオケを披露する。そんな祖母の姿が見られなくなって、私はちょっと寂しい気持ちにもなっています。

祖父が60代で癌で亡くなっていることもあり、母をはじめともに暮らす家族も、離れて暮らす孫の私も、家族の「老い」に直面するのは初めての経験。私たち家族は、もしかしたら祖母自身も、日々変化していく「老い」を受け止めきれていないのかもしれない。

家族の老いと、どう向き合っていけばよいのだろう?

そんなことを考えているとき、ある映画に出会いました。2018年にドキュメンタリー映像制作を生業とする信友直子さんが撮った『ぼけますから、よろしくお願いします。』。認知症になる87歳の母と、耳が遠い95歳の父の暮らしを、娘である信友さんが丹念に切り取った物語です。

その4年後に公開された続編『ぼけますから、よろしくお願いします。〜おかえりお母さん〜』には、98歳になった父が認知症の母を介護する日々、そしてコロナ禍の看取りの様子がありのままに映し出されています。

【写真】映画のポスター画像。お父さまとお母さまが笑顔で並んでいる

©︎映画「ぼけますから、よろしくお願いします。〜おかえり お母さん〜」製作委員会

どちらの作品も、他人事とは思えず、自分の家族に思いを馳せずにはいられない。認知症になり老いていくことの苦悩、ドキッとしてしまうような露な感情、綺麗事ばかりではない家族の日常。それでも、60年以上連れ添ってきた夫婦と、その姿を見つめる娘の愛のようなものにすっぽりと包まれてしまうのです。

感情が入り乱れ一言ではまとめることはできない感想を携えて、私たちは監督である信友直子さんに会いに行きました。

【写真】遠くを見つめるのぶともさん

母の認知症、老老介護。「ぼけても自宅で支え合う暮らし」をありのままに描く

最初に信友直子さんのご経歴とご家族との歩みを簡単に紹介させてください。信友さんは、企業の広告部で社内コピーライターを務めたのち、テレビ制作の道へ。制作会社に所属し、2009年には自身の闘病を記録した「おっぱいと東京タワー~私の乳がん日記」を発表。2010年に独立をして、フリーのディレクターとして多くのドキュメンタリー番組を手がけてきました。

2013年頃から、認知症の母と介護をする父の「ぼけても自宅で支え合う暮らし」を撮り始め、「娘が撮った母の認知症」と題したドキュメンタリーとして、2016年(第1弾)、2017年(第2弾)に、フジテレビで放送。

大きな共感と反響を呼び、BS放送を経て、2018年には『ぼけますから、よろしくお願いします。』が劇場公開となりました。同作品は20万人を超える大ヒット、今も配信プラットフォームを通じて多くの人に届いています。2022年には続編が劇場公開され、監督が書き下ろした映画と同名の著書も2冊刊行されています。

信友さんが、「前向きで、社交的で、冗談好き。人生を楽しむ達人」と語る母の異変に気づいたのは、2012年春のこと。その後、2014年1月に「認知症」と診断される頃からカメラを回し続け、その進行と老いに苦しむ母、飄々と当たり前のように母を介護する父の姿を見つめてきました。母・文子さんは2018年に脳梗塞になり長期入院、2020年6月に家族に看取られ、永眠しました。

今改めて、母の認知症、両親の「老老介護」、信友さんが暮らす東京から実家の広島・呉への「遠距離介護」を振り返って、どんなことを思うのか。信友さんは、家族の老いと死に向かう過程とどのように向き合ってきたのか。家族や自身の老いをどんなふうに捉えているのか。じっくり語ってもらいました。

「家族を撮る」ことで、認知症の母の苦悩を伝える

【写真】インタビューに応えるのぶともさん

──映画には、普段なかなか触れることはできない、ほかの家族のリアルな生活やささやかな感情の機微が映し出されていて、娘である信友さんにしか撮れないものだと感じました。印象に残ったシーンはいろいろあるんですが、特に認知症になったお母さまが机の下にうずくまって「私はどうしたんかね」と苦悩する姿は、静かな衝撃がありました……!

まさにあのシーンは、私が認知症の母と介護をする父、家族を撮って世の中に伝えたい、伝えるべきだと確信した瞬間でもありました。

そもそも私は、20年くらい前に仕事で使うために家庭用ビデオカメラを買って、両親に練習台になってもらったことをきっかけに、家族を撮り続けていました。私が帰省する際にカメラを回すことは家族の楽しみでもあったんです。

【写真】のぶともさんがご両親が食事している様子をビデオカメラで撮影している

ご家族を撮影をしている様子©︎映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会

母の異変に気づいて、映像に残るのは嫌だろうと撮るのをやめた時期もあったんですが、母に「あんた最近撮らんようになったけど、お母さんがおかしくなったけん、撮らんようになったん?」って言われて。2014年1月に母が認知症と診断された頃から、再びカメラを回し始めました。母の言葉もあったけど、次第に「これは撮ったほうがいい」という職業意識も芽生えてきたんですね。

そのきっかけがあのシーンで、自分の変化に戸惑って「私はどうしたんかね」という母の言葉を聞くまで私は、認知症の人はわけがわからなくなっているから、周りの人が振り回されることはあっても、本人がつらさを抱えているとは思っていなかったんですね。

母が苦しむ姿を前に、認知症の本人はこんなにもつらいんだと、自分の勘違いに気づいて。認知症の人の家族が大変な思いをする物語はあっても、認知症の当事者の苦悩を描いた作品には触れたことがなかった。だからこそ、当事者の姿を、母のこの苦悩を、世の中に伝えた方がいいと強く思いました。

「なんでこんな大事な日におかしくなったん?」認知症初期の母の嘆き

【写真】若い頃のお母さまが赤ちゃんを笑顔で抱き抱えている

生まれて間もない信友さんをお母さまが抱っこしている昔の写真©︎映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会

──映画には、認知症であるお母さまの老いていくことへの恐怖や混乱がたしかに映し出されていました。でもその姿を、カメラ越しであっても、娘として見つめるのはなかなかつらいと思うのですが……。

当時はカメラを回しながら私も泣いていました。何が一番泣けたかって、2016年のお正月に、母が「なんで私はこんな大事なときにおかしゅうなったん?あんたが帰ってくる、こんな大事なときに」って言ったんですよ。

母が元気だった頃、私はお正月くらいしか帰省していなかったので、母にとっては“大事な日”だったんですね。母なりに娘を迎える準備もしてきたと思うのに、思い通りに体が動かず、「大事な日に私はおかしくなった」と嘆く。その姿に私も切なくなりました。

──認知症の症状が出て自分が“おかしくなっている”ということがご本人もわかるんですね。お母さまは、やりたくてもできない、ままならなさへの混乱や絶望を感じていらした。

そうなんです。そんな状況でも母は「今日の晩ご飯どうしようか」って家族のことを考えている。「何も買っとらんけん、どうしよう、直子が帰ってきとるのに」って。認知症になったとしても、やっぱり母は母なんだなあとも思いました。私はボロボロ泣きながら「直子がなんでもしてあげるけん」と言っていましたね。

──お母さまの意思や性格、信友さんを想う気持ちが、認知症であっても見え隠れしていたんですね。そこからさらに認知症が進行する過程に、信友さんはどう向き合っていたのでしょう?

最初はショックだったけど、やっぱり人間はだんだん慣れていくものでして。私が泣いていても、母はしばらく経つと忘れちゃうんですよ。嘆き疲れて眠って、起きたらケロッとしている。「あんたなに泣きよるん?」とか言われると私も可笑しくなっちゃって。母の嘆きに感情を振り回されるのも損だなと思うようになりました。

父と母の笑顔が消えた。「老老介護」の現実

──とはいえ、お母さまの認知症が進行する過程で、信友さん自身が「ちょっと鬱っぽくなった時期があった」とのこと。その時期はどういう状況だったのでしょう?

母の認知症が進むにつれ、家族がどんどん閉じていったんですよ。近所の商店街によく買い物に行って、来客も多くおしゃべり好きだった母が出かけず、人にも会わなくなった。父は「わしが元気なうちはわしが見るけん」と頑なで介護サービスに母を預けることに反対し、介護を全部ひとりで抱え込んでいた。「老老介護」の現実を目の当たりにしました。

【写真】インタビュアーとのぶともさんが話をしている

父と母、ふたりで家にいても刺激もないし、狭い世界に閉じこもってしまう。私が帰る度に、母の認知症が進行しているようだし、母も鬱っぽくなっていたんです。

父は耳が遠いから母が話しかけても反応しないことも多くて。母は「お父さんは私がおかしゅうなったけん、もう話し相手にもなってくれんのじゃ」、「もうええわ!お父さんとは口きかん!」とか言って、1日中コロコロで絨毯のゴミを取っていたりして。元気な頃の母は、父の耳元に寄って話してたけどそういう気も回らないから。やることがないと「なんで私はおかしゅうなったんじゃろうか」ばかり考えて、気持ちが沈んでいくんですね。

社交的だった母を知っているから、家に閉じこもってばかりで暗い母の姿を見るのがつらくて。帰省する度にショックを受けるので、帰りたくなくもなくなって。鬱々とした気持ちを発散するために、当時はグループファイトという格闘技系のレッスンにはまっていました(笑)。

──家族だけで介護を抱え込んでいると、一緒に参ってしまうことはありますよね。

ありますあります。介護サービスに頼らずいわゆる「老老介護」をしていた2年間、父と母に笑顔がなくなっていたんですよ。父は新聞や本を読んだりやりたいことがあるのに、常に母を気にしているから疲れてしまう。自分に余裕がなくなって母にも笑顔が向けられない。母は「私がおかしゅうなったけん、お父さんの機嫌が悪い」とか言って、負のサイクルに入っていたんですね。

家族だけで介護を抱え込まない。外に頼って、家族を開く

──その負のサイクルから抜け出したのは、介護サービスに頼って、家族が開かれたからでしょうか?

うちの場合はかなり特殊で、私が認知症の母を撮っていることを知ったテレビ局のプロデューサーが声をかけてくれて、家族の現実が全国放送で流れたんですよね。その番組の特集の中で、地域包括支援センターに取材へ行ったことがきっかけで、サポートの選択肢を知りなんとか父を説得し、介護サービスを受けることになった。

そしたらやっぱり、母がデイサービスに通っている間は、父も自分の好きなことができるので機嫌がいい。父が笑顔になると、母も安心して笑顔になるんですよね。

「遠距離介護」をする私も、第三者のプロが介入してくれる安心感があった。例えば母が怪我をしていたりしても、私との電話では「元気だよ」と言って教えてくれないことがあったんですよ。ヘルパーさんが週に1回来てくれるようになって、私はLINEでつながっていたので、母のささいな変化も随時教えてもらえるようになりました。

──それは心強いですね。

【写真】インタビューに応えるのぶともさん

だからね、私は講演会でも、認知症になったからといって家族が介護を全部しなくていいと言って回っているんですよ。たとえば私が仕事を辞めて母の介護をしたとして、親戚や近所の人は「いい娘じゃ」「親孝行だ」と言ってくれるかもしれない。でも内実はイライラが募って母に笑顔が向けられなければ、母もつらくなると思うんですよ。申し訳ない、居づらいって。

そういう介護よりも、外部のサポートとつながって、自分の時間を持って好きなことをして、帰ってきたときに「おかえり」と笑顔で迎える。そのほうが当事者にとっても家族にとっても健全だと私は思うんです。

──映画の中で信友さんは、お母さまが認知症と診断されてから「私が帰ってきた方がええかね?」と声かけをされていました。「家族だけで介護をしなくていい」というメッセージはあの頃のご自身に伝えたいメッセージでもありますか?

そうですね。あの時に「介護離職」をして帰ってこなくて本当によかった。もし仮に母が亡くなるまでの6年間仕事を離れて介護をしていたら、この作品も生まれていないし、私は今頃、生活に困っていたと思います。

実はあの声かけの背景には、認知症の姑を一人で介護した経験を持つ叔母からのプレッシャーがあったんです。認知症にまだまだ偏見があった1980年代、介護保険制度もまだなく、嫁である自分だけで姑を介護していた叔母に「あんたも帰ってきてお母さんの介護をしなさい」と言われていたんです。叔母には叔母の正義がありますから。

次第に、娘である私が母の介護をしたほうがいいのかなと思うようになって。でも父が叔母に「直子は東京で好きな仕事をしよる。わしらも直子の仕事が楽しみなんじゃ。うちのことはうちで決める!」って伝えてくれたんですよ。父は常々私にも「あんたは帰らんでええ、あんたはあんたの仕事をしんさい」と言ってくれていました。

──お父さまは、東京で好きな仕事をがんばってほしいと思っていたんですね。何が正解というのはないけれど、家族だけで抱え込まず、外に頼っていくことは大事なヒントになりそうです。

テレビ放送でご一緒した認知症専門医の今井幸充先生が「介護はプロとシェアしなさい」という言葉をくれたんです。他人にもできることは介護のプロに任せて、家族は家族にしかできないこと、本人に愛情を注いでください、と。その言葉は、老いていく母や父との向き合い方の指針になりました。

「これまでしてくれたけん、これからはわしが当番に」90代の父のお互いさま精神

──家族は愛を注ぐ。そうは言っても、毎日生活をともにしている家族だから、離れていても近しい関係性にある家族だから、老いを受け止め変わりゆく姿に向き合っていくことの難しさもあると思います。たとえば映画の中でお母さまが「死にたい!殺してくれ!」と泣き叫ぶシーンがありました。自分の家族が死にたい、殺してくれと叫ぶ場面に遭遇したら私はどうするだろう……想像もできません。

あのシーンは、私たちを困らせたいわけではなく、母なりの理屈があるんですよ。

“私はまだ寝ているのに、夫も娘も起きて自分のことをしている。それまでは一番に起きて家族の面倒を見るのが生きがいだった。なのに何もできなくなって役に立たない。そればかりか家族に面倒をかけている。私はここにおらんほうがいいんじゃないか。いっそのこと死んでしまおうか……”

これは私の憶測ですが、靄がかかったような頭で、そんなふうに思ってあの言動になったんじゃないかなと。

「他人の靴を履く」と言いますが、母の立場になって、母が何を考えているのだろうと想像力を働かせることは大事だと思います。

【写真】のぶともさんが手振りを添えて話をしている

──想像力を働かせる。頭ではわかっていても、家族だからこそ、冷静に受け止めるのが難しかったりもしますよね。

それはそうですよ。私はカメラを回していたから「おお、いいシーンだ」と客観的に「ヒキ」の視点で見ることができたけど、娘だけの視点で直視していたら相当苦しかったと思います。

もちろん娘だから「そんな情けないことを言って」と呆れることもありますよ。情けないを通り越して腹が立つことも。でも私の言葉や接し方で母がカーッと感情的になって荒れると、私も困りますから。自分が疲れて嫌な思いをしないためにも、母の認知症の周辺症状(記憶障害などの中核症状に付随して二次的に起こるもの)である妄想、暴言などが出ないように、母を落ち着かせることを最優先に考えていました。

母の苦しみを想像して、その苦しみを減らすような声がけは、父が上手かったんですよ。

──そうなんですね!一緒に生活している家族として、お父さまはどんなふうにお母さまと接していたのでしょう?

たとえば父は、90代にして今まで一切やってこなかった家事を始めたんです。それだけでもすごいと思うんですが、ニコニコしながらやっていたんですよ。洗濯なんかも鼻歌歌いながら楽しそうに。父が楽しそうだと母も気持ちが和らぐじゃないですか?

父が掃除機をかけているときに母が「私がせんようになったけん、お父さんにさせて悪いね」と言ったことがあって。そしたら父は「今まであんたがずっとしてくれとったんじゃけん、これからわしが掃除当番になるけん。信友家は一軒しかないじゃけん、どっちが掃除しても一緒よ」と声をかけたんですよ。

母への感謝の気持ちも伝わるし、掃除当番っていうのもなんだか可愛いらしい(笑)。それまで母が家事を完璧にこなしていたので、父の出る幕がなかっただけなんですよね。

──やっと自分の出番が来た!と。夫婦の長年の役割や習慣を柔軟に変えていけるなんて、素晴らしいですね。

母が認知症になったとき、私は結構おろおろしてたけど、父は全然揺らがなかったんですよ。私が「ショックじゃないの?」と聞いたら、父は「人は老いていくものじゃけん、しょうがない。わしが先に具合が悪うなったかもしれないところを、おっかあが先になっただけのことじゃけん」って。

母が「迷惑かけて申し訳ない」と言ったときも「わしが具合が悪くなったらあんたが面倒見てくれるじゃろ?あんたが先に具合が悪くなったけん、わしが面倒見るゆうだけのことじゃけん。気にするな、お互いさまよ」と言ってましたね。

──そんな風に言ってもらえたら、きっと心が楽になりますね。

ほかにも母が「私はこれも忘れとった。またおかしゅうなっとる」と自分を責めたときに、父は「あんたは病気じゃけんしょうがないよ。だから大事なことはすぐにわしに言いんさい。信友家はふたり居るんじゃけん、どっちかが覚えておけばいい。これからはわしがあんたの分も覚えておくから」って。

私は「お母さん、ボケてないから大丈夫」と声をかけてしまって「なんでそんないい加減なこと言うん」と怒られたことがあるんですが、本人が一番わかっているから。父のように嘘をつかずに受け止めてあげると、安心できますよね。

──いやあ、お父さまの姿勢、真似したいけど、簡単にはできないですよ。

父はぶれない母へのリスペクトがあるし、たくさん読書をして想像力を働かせる訓練をしてきたのかもしれません。父はよく「わしらは笑顔でいよう」と私に言っていました。「お母さんは“私がおったら家族の迷惑になるんじゃないか”って思っているから、”ここにいていいんだよ”ってメッセージを伝えよう」って。父も私も「お母さんには本当によくしてもらった」というのが共通の認識で、とにかく感謝しているんです。

──これまでしてくれたことに対する恩返しのような気持ちもあったのですね。

母をデイサービスに連れていくと、母も私をこんな気持ちで幼稚園に送り出していたのかな、なんて気持ちも湧いたりして。立場が逆転するわけではないんだけど、子育てしてもらった分を返しているような感じはありましたね。母に対する母性のようなものも感じました。

死に向かう過程で母を諦めた。認知症になった母は「愛する努力」が必要だった

──たしかに、できないことがある家族のお世話をしていくという点で、子育てと介護は似ている点もあるのかもしれないですね。ただ大きな違いは、子どもは成長していくけど、親は老いて死に向かっていく。その過程でお母さまに対する気持ちの変化っていうのはどんなふうに……

なんかね、母が死に向かう過程でだんだんと母に対する諦めがついたんですよ。たぶん元気だった母がある日突然ぽっくりと亡くなるとか、余命宣告をされて数ヶ月で亡くなるとかだと、受け止めきれずにかなりつらかったと思う。というのも若い頃は母が亡くなったら生きていけないと思っていたし、なんかもう本当に大好きだったんですよ、母のことが。母が死んだら毎日泣いて暮らすだろうって、失う前から失うことが怖かった。

でも、なんて言うかな、認知症になった母は私の“大好きな母”ではないんですよ。「私はおらんほうがええ」とか「死んじゃる」と子どもみたいに泣き喚く。元気な頃の母はこんなことは言わないのに、なんでこんなことを言うの?って。目の前にいるのは、私が50年間知っていて、大好きだった母ではないんですよね。母なんだけど、母じゃない。だから、諦める。もうあの頃のお母さんは戻ってこないんだって。

【写真】インタビューに応えるのぶともさん

それこそ認知症になった初期の頃は、例えば美容院に行くときなんかシャキッとして、元気だった頃の母が戻ってきたと思うようなことがあったんですよ。でも次第にそういう母の姿は見られなくなった。すごく絶望して、“あの頃の母に会いたい”と夜中に泣いたこともありました。でも泣いても目の前の現実は変わらず、あの頃の母は戻ってこない。自分で自分を納得させて、諦められるようになってきた感じです。

──母を諦める。そうすると、信友さんのお母さん像のようなものは、認知症になる前で止まっているというか、更新されることはなかったのでしょうか。

えーとね、母の映像って認知症になる前も、なってからもたくさん残っているんですね。認知症になってからの母の姿を見ても会いたいとは思わないけど、元気な頃の母の姿を見ると「お母さーん!」ってめちゃくちゃ会いたくなる。

昔の大好きだった母が、認知症になった母に上書きされてしまうのが嫌で、別人のように距離を取っていたんだと思います。こんなふうに言ったら悪いけど、認知症になってからの母は、愛おしいとは思えなくて、愛する努力が必要でした。

──愛する努力。それは、具体的にどういうことでしょうか?介護や看取るときに、義務や責任が生じ、愛するように努めていた、ということでしょうか?

「邪魔じゃろ、おらんほうがいい」と言う母に、意識的に「大好きだよ〜」と伝えたりしていました。とはいえ介護は家で過ごしていたときも父やヘルパーさんに頼っていたし、入院してからは看護師さんが面倒を見てくれていたので、私は会いにいくだけでしたから。それは義務とか責任とか「努める」ようなことではなく、愛情だったと思います。元気だった頃の母への恩返しをしているような感覚だったかもしれません。

ただ、母が認知症になってから6年間の中で、私の大好きな母が「少しずつ死んでいく」ような感覚があって。以前のように母とコミュニケーションが取れなくなって、その寂しさや悲しみとともに、目の前の現実を少しずつ受け止めていった。そうやって諦めていったから、認知症の母には未練がなくて。だからなのか、母が亡くなったときに、想像していたより悲しくなかったんですよ。

認知症になって死に向かう過程は、母の死に対する私の心の痛みを軽減してくれたと思っています。まるで母が私が悲しまなくてもいいように「私は今までのお母さんじゃないんだから、もう諦めなさい」と言っているような感覚があったんですね。

本人にとっても、家族にとっても、正解はわからない「延命治療」の判断

──お母さまが死に向かう過程は、信友さんがお母さまの死を受け止めていく過程でもあったんですね。映画の中で、お母さまが脳梗塞を発症し、入院をされて、延命治療の判断をされるときに信友さんとお父さまは「お母さまがいてくれるだけで嬉しい」といった言葉を残されていました。そのときはまだ死を受け止める準備ができていなかったということなのでしょうか?

あのときの私は、父のためっていう気持ちが強かったです。父が母の病院に毎日通うことを生きがいにしていたから。この生きがいがなくなったら父も弱ってしまうんじゃないか。父のためにももう少し母には生きてほしい、と思っていましたね。

──延命治療の判断も難しいと思うのですが、今当時を振り返って思うことはありますか?

私も父もどこからが延命治療なのかよくわかっていなかったんですよ。母が入院中に誤嚥性肺炎を起こして、口からものを食べられなくなった際、病院に駆けつけたときには鼻から管を通して栄養を入れていたんです。

2週間に1回くらいのペースで鼻に入れる管を入れ替えるんですが、痛いから母もボロボロ泣いていて。なんとかなりませんかね?と先生に相談したら胃ろう(手術によって腹部に小さな穴を開け、チューブを通して胃に栄養剤を注入する栄養補給法)という選択があることを教えてもらって。そのほうがいいねってことで胃ろうをやることにした。

流れるように選択していたけど、鼻から管を入れていた時点で、そして胃ろうも、延命治療だということがあとからわかったんですね。

アドバンス・ケア・プランニング(APC「人生会議」)ってわかります?人生の最終段階における延命治療など医療の選択について、患者主体で、医療関係者と家族で話し合っておくことなんですが。うちはしていなかったし、母が元気なうちに話してもいなかった。母が元気なときに家族で話しておけばよかったな、と思います。

──元気なうちに死を迎えるときの話はなかなかしにくいですが、大事なことなのかもしれないですね。

【写真】インタビューに応えるのぶともさん

父とは「お母さんは“延命治療なんかせんでも、食べられんようになったらもう死んでええわい”って言いそうだね」って話していました。でも父が「胃ろうにしてやろう」と言ったんですよ。父も母も戦前生まれなので、戦時中の飢えを体が覚えているから、「おっかあに『お腹が空いた』とつらい思いをさせとうない」と言って。なので、もし母が延命治療をしなくていいと言ったからといって、私たちがしない判断をしたかどうかは正直わかりません。

──難しいですね。話し合ってプランを立てても思い通りにいかないことも、いざとなったら気持ちが変わることもあるかもしれないし。延命治療は本人というより、残される家族のためのものかもしれない、と感じる部分もあります。

私だって今は「延命治療はしなくていい」と思っているけど、その時になったら「え?なんもしないの?もっと生きたい!」と思うかもしれないし。

今でも母を胃ろうにしたことはよかったのかどうか悩むことはありますけど。結局胃ろうにしてから1年生きたんですよね。母の身になって考えると、食いしん坊だったのに食べる楽しみもなく、自分で体を動かすこともできず、ただ寝たきりで過ごす時間はつらかったかなとは思います。

ただ一つよかったと思うのは、胃ろうにしたことで寿命が1年伸びて、コロナ禍になって私の仕事が白紙になったので、実家に帰って、家族3人で思い残すことのない看取りができたんです。

「おっかあ、今までありがとうね」家族3人で過ごした、思い残すことのない看取り

──「思い残すことのない看取り」と表現されましたが、看取りのときのことについて教えていただきたいです。

私としてはできる限り母のそばにいたいという気持ちがありましたから。でも仕事があったのでそうもいかなかったし、母の死に目に会えないかもしれないという恐怖もありました。でもコロナ禍で仕事がストップして。2020年3月頭に実家の呉に帰って「疫病が流行って東京での仕事がなくなったから、呉におるけん。何かあったらすぐ来れるから安心してね」って言ったんですよ、入院中の母に。

それを聞いて、家族思い、父思いだった母は「今なら直子がおるけん、私がおらんようになってもお父さんが寂しくないじゃろう」って思ったかもしれない。私に対しても「今旅立てば直子の仕事に迷惑もかからんじゃろう」って。最後まで私たちのことを想って、旅立ちも母の“計らい”だったんじゃないかな?なんて思うんです。

【写真】のぶともさん、お母さま、お父さまが笑顔で並んでいる

信友さんとご両親©︎映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会

──旅立ちにおける“母の計らい”はどんなものだったのでしょう?

3月15日からコロナで面会ができなくなったんですが、その間なんとか母は持ち堪えてくれて、面会ができるようになった2020年6月1日に危篤になったんです。父はそれまで外出を控えていたけど、母が危篤だから連れていった。何ヶ月ぶりかに父の声を聞いた母は危篤だったのに持ち直して。

それからは毎日15分〜30分くらい父と私で面会に行きました。母は結局6月13日までの2週間がんばって、その間、家族3人で特別な時間を過ごすことができたんです。

家族3人で過ごした6月1日から13日までの2週間は、家族にとっての宝物のような時間でした。病室で母に向かって昔話をしていると、私が知らない父と母の話も聞けて、家族の歴史を辿るようでもあった。私が母との楽しい思い出話をして「お母さん覚えてる?」って言うと、目も開いていないし言葉もないけど、手をぎゅっと握り返してくれてね。

父はずっと「おっかあに別れの挨拶なんかせん」と言ってたんですよ。「挨拶したらおっかあが“私はもう死ぬのかね”と思うじゃろ?」って。代わりに「わしゃ今度、100歳の祝いで市からお金をもらうけん、ハンバーグを食べに行こう」って、まるで明日退院が決まっている人に話しかけるようなことを言っていたんです。

父と母はファミレスでハンバーグを食べて、ドリンクバーでココアを飲むのが好きだったみたいで。娘の私もそのときに初めて知りました。

【写真】病室でお父さまとお母さまが見つめ合いながら手を握っている

病院でのお父さま、お母さまの様子©︎映画「ぼけますから、よろしくお願いします。〜おかえり お母さん〜」製作委員

──たしかに家族の宝物になる、とても豊かな時間ですね。

6月13日は先生が「今までは短時間の面会だったけど、今日は夜までいてあげてください」と伝えてくれて。あれだけ「挨拶はせん!」と言っていた父が、夜になって母に伝えたんですよ。「おっかあ、今までありがとうね。あんたが女房で、わしはほんまにええ人生じゃった」って。

そのふたりの姿を見て、すごく荘厳な気持ちが湧いてきて、感動したんですよね。私が生まれる前に、自分たちの意思で絆を結んだ人たちが今、こうやって別れていくんだって。父はそのあとすぐに「わしもすぐ行くけん、あの世でも仲良く暮らそうや」って伝えていました。

悲しいとばかり思っていた母との別れが、こんなにも穏やかで、すごいものを見せてもらったなという満足感と多幸感に包まれた。それは、旅立つ前に家族3人の時間を過ごせたからだと思うんですが。父も私も母の側にいて、思い残すことのない看取りができたんです。

家族を、人生を味わい尽くす

──お母さまの老いて死にゆく過程に寄り添い看取って、信友さんの中で、老いや死に対する捉え方に変化はありましたか?

父も私もどんどん歳をとって、弱ってきてはいるけど、それも「人生の味」だなって思うようになってきたかな。それまで死は恐ろしいもの、忌み嫌うものと思っていたけどそうではなくなった、というのはあります。

──人生の味。……お父さまの最期を想像したりもしますか?

いや、父の最期はちょっとまだ想像がつかない。今102歳なんですが、頭もはっきりしているし病気もない。あれだけ元気だと亡くなるイメージがつかなくて。だから母と違って準備ができていないから、父が亡くなったときに喪失感があるんじゃないかとちょっと怖いですよ。

【写真】お父さまとのぶともさんが笑顔で話している

お父さまと信友さん©︎映画「ぼけますから、よろしくお願いします。〜おかえり お母さん〜」製作委員会

──お父さまにはまだまだ元気に長生きしてもらわないと、ですね。信友さんご自身の老いについて考えることはありますか?

自分の老いを考えるとき、やっぱり私が一番怖いのは認知症です。祖母も母もアルツハイマー型認知症を発症したわけですから。

でも母が認知症になってから、割とべったり一緒にいて、老いて坂を下っていく過程を間近で見ることができた。人間、どうしたっていつかは降りなきゃいけないから。どう降りるかは別として。

母は認知症になって脳梗塞になって寝たきりになって、人生いいことばっかりじゃないなっていうことも、老いる姿も全部見せてくれた。そして最後に父の感謝の言葉を聞いて旅立って、幸せだっただろうなと娘ながら思ったりもして。母の老いも最期も全部味わい尽くした気がするんです。

だから最近は、自分が認知症になっても、どう変化していくのか、しっかり全部味わい尽くそうという気持ちが湧いてきて、好奇心を持って捉えられるようになった気がします。

【写真】笑顔で話をするのぶともさん

それに、自分が認知症になったら自撮りして記録を残そうって思っているんです。これまでの映画の編集をしてくれた方も「撮ってさえくれれば、僕が責任を持って編集をする」と言ってくれているので。認知症になった家族を撮ったドキュメンタリーは存在しても、認知症の本人が自分を撮ったドキュメンタリーはいまだかつてないと思うので。そう思うと楽しみなんです。

元気とはいっても父も102歳だから、最近は割と私も実家に帰ってるんですよ。月の半分くらいは実家で過ごして、定期的に父にもカメラを向けています。実は母が認知症になるまで、父は空気のような存在だったので、父の新たな一面を知って、こうやって父と過ごす時間をくれたのも母の計らいだったのかな、とも思うんです。

だから私は母の分も、これから父の側で、父の老いを味わい尽くせたらなと思ってます。それは私の特権だから。娘である私にしかできないことだから。

【写真】笑顔で話をするのぶともさんとインタビュアー

映画から流れる「語り」そのままの穏やかな声で、なかなか見えにくい家族の内情を取り繕うことなく、自然体で語ってくれた信友さん。そのオープンな姿勢に、取材に同行した編集部の誰もが安心して、どうしようもなさや弱さも内包する自分の家族のことを吐露していました。

認知症になった母を“元気だった頃の母”とは別人と捉え、少しずつ諦めていった娘の信友さん。認知症になった妻にも変わらぬ感謝とリスペクトを持ち続け、最後の最期までぶれない姿勢を貫いた父の良則さん。母と娘。妻と夫。それまで築いてきた関係性の延長線上にそれぞれの、家族の老いとの向き合い方があったのだと感じます。

家族の老いとどう向き合っていくか?そこにはノウハウもなければ、答えもないのだと思います。迷い葛藤し、時に逃げたり後悔もしながら、その関係性において、自分にできることをその都度していくしかないのかもしれません。

これから祖母が、母や父だって、老いていく過程でどう変化していくのか、想像もできません。知らない側面を知ること、見たくなかった姿やそこに伴う自分の感情に打ちのめされることもきっとあるのでしょう。それでも、生まれて、生きて、老いて、死んでゆく──家族や自分の、その過程を味わい尽くしたい。そんな気持ちになったら、なんだかとても、家族に会いたくなりました。

関連情報:
信友直子さん ホームページ
映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』ホームページ
映画『ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん〜』 ホームページ

(撮影/金澤美佳、編集/工藤瑞穂、企画・進行/松本綾香、協力/永見陽平)