【写真】笑顔で写るいいたかゆうたさんと弟のしょうたさん。ゆうたさんは、しょうたさんの肩に手を置いている。

自分が子ども時代を過ごした家族は一つしかない。だからこそ、自分が親として家族を築いていく中で、その違いに落胆したり、そうではない選択をすることに戸惑ってしまうことがあります。

勝手に抱く“母親像”にとらわれたり、“父親像”を夫に押し付けてしまったり。思い描いていた“家族像”から外れていくことに、不安を覚えることもあります。

離婚や再婚も、たまたまですが、私が生まれ育った家族にはなかった選択肢の一つです。

でも、世の中を見渡せば、離婚も再婚もめずらしい選択肢ではありません。再婚や事実婚により、血縁関係のない親子関係やきょうだい関係を含んだ家族形態である「ステップファミリー」は増えていて、私の身近にもいます。

それでもいざ、自分が選択することを考えると、思考の幅が狭まってしまいます。

もし離婚をしたら、娘から父親を奪ってしまうことにならないか?母子家庭で寂しい思いをさせてしまうのではないか?仮に再婚したとして、娘は相手やその家族と関係を構築できるのか?

自分に経験がないからこそ想像が及ばない偏見なのだけど、偏見から完全に抜け出すのはなかなか難しいもの。だからこそ、子どもとして親の離婚や再婚を経験した人の話を聞いてみたい。

そんな思いで会いに行ったのが、飯髙悠太さんと翔太さんの兄弟です。

悠太さんは、4歳の頃に両親が離婚し、母と4つ上の兄と3人暮らしに。その後10歳のとき、母親が再婚すると同時に、翔太さんが誕生。生後1ヶ月で母が離婚したため、翔太さんはほぼ生まれたときから、父親がいない環境で育っています。

父親が違う兄弟を含むステップファミリーであり、母と3人兄弟の母子家庭である飯髙家。悠太さんと翔太さんは、どんな環境で、どんな思いを抱きながら、どんな関係性を築いていたのだろう?

「子ども」の視点で、一つの家族のかたち、そこにある関係性をじっくり語ってもらいました。

両親の離婚、母の再婚、弟の誕生。「お父さん役をしよう」と決めた10歳の冬

──幼少期から遡って家族の話を聞かせてください。悠太さんが4歳の頃に、両親が離婚したとのことですが、そのときの記憶はありますか?

悠太さん:ほとんどないっすね。4つ上に兄貴がいるんです。離婚の際に、4歳の僕の親権は母が持つことが決まっていて、8歳の兄には「どっちについていくか決めていいよ」と母が選択肢を与えた。兄は「悠太がいるなら」って、母と暮らすことを選んだっていうのが曖昧だけど僕の記憶です。

──ご両親が離婚したあと、家族との暮らしはどんなふうに変化しましたか?

悠太さん:離婚してからも、母が働きに出ているときは父がうちに来て僕らを寝かしつけて、起きたらいない。そういう日が2週間に1回くらいの頻度であったので、両親が離婚したっていう感覚は当初はあまりなかったんです。

でも、保育園の卒園式に父が来なくて、うちはほかの家族とは違うんだなって思った記憶があって。小学生になってからは、運動会に父が来ない寂しさはありましたね。

──それは、お父さまが物理的にそばにいない寂しさでしょうか?

悠太さん:そうですね。両親に対しては、なんで一緒にいないんだろうって感覚で。幼少期のアルバムを見たら、父と母が一緒に映っている写真が全部剥がされていたんですよ。僕ら兄弟と父の写真はあっても、父と母の写真は1枚もない。大事なふたりが交わらない違和感は覚えています。

──親子としての関係は残っていても、夫婦としての関係は残っていなかった。

悠太さん:まさに。父とは時々会うことがあったんですけど、母がついてくることもなければ、口を出すこともなかったので。だんだん父と会う頻度も減って、誕生日とか墓参りとか、年に2回くらいになりました。

【写真】インタビューにこたえるゆうたさん

──そこから翔太さんが生まれて、家族になるまでの過程は……

悠太さん:僕が8歳の頃だったかな。母に仲がいい人がいることはわかっていました。一緒にディズニーランドとかにも行ったんじゃないかなあ。遊んでくれるおじさんって認識でした(笑)。で、9歳のある日、弟ができると告げられたんですよ。そのタイミングで再婚すると。

──そして、翔太さんが生まれた。

悠太さん:忘れもしない小学4年生の10月。電車を乗り継いで駅から病院までの道のりで迷って、徘徊してなんとかたどり着いたら翔太が生まれていて。なんだこれは?!宇宙人がいるって(笑)。

ほんとに弟ができたんだってシンプルにうれしかったけど、この先どうなるんだろうって不安もありました。自分の父とは違う、よく知らない別の父がいて。しかも、翔太の父は家業を継いでいたので、僕らと一緒に住んではなかったんですよ。

──そうすると、翔太さんが生まれてからの家族の生活は……

悠太さん:母が翔太の生後10日くらいで仕事に復帰したんです。で、生後1ヶ月くらいで離婚した。なので翔太の父と一緒にいる時間はほぼなかったから、僕の父という感覚はなくて。

翔太は生まれたときから父親がそばにいないから、当時14歳の兄貴と10歳の僕で「翔太のお父さん役をしよう」って話したのを覚えています。母が必死に働いている姿も見ていたので、おれらがやるしかないねって。

「父親がいない寂しさは感じなかった」母とふたりの兄、みんなに育てられた幼少時代

──翔太さんが幼い頃、悠太さんはどんなふうに関わっていたのでしょう?

悠太さん:母がエステサロンを経営していて、朝8時には家を出て21時頃に帰ってくる生活で。起きたときには朝ごはんも晩ごはんも用意されていて、いつ寝てるんだろうってくらい働き者でした。

翔太は生後3ヶ月くらいから保育園に通っていて、お迎えは兄貴と分担して行ってました。延長保育の先生も家に行ったことがたくさんあるし、母のサロンで一緒にごはんを食べたこともありましたね。翔太は母よりも一緒にいる時間が長い保育園の先生を母親だと思ってたくらい。

【写真】椅子に座り笑顔をみせるしょうたさん

翔太さん:さすがにそれは覚えてない(笑)。

悠太さん:もちろん母もしっかり子どもに関わってたんですけど、仕事が忙しかったんで。高校受験を控えた兄貴も翔太の面倒見てたし、おれも首が座っていない赤ん坊の翔太をドキドキながらお風呂に入れて……。めちゃくちゃ怖かったのを覚えてる。

──首が座っていない赤ちゃんは大人でも緊張しますから。そうやってみなさんで翔太さんを育てていたんですね。

悠太さん:翔太は母だけじゃなく、おれらも含めいろんな人に育てられたと思いますね。母のサロンのスタッフがお迎えに来て、兄弟みんなで家にお邪魔することもあったし。休みの日に旅行したりとか。スタッフの家族の年上の子どもたちと遊べるのが僕もうれしかった。

──翔太さんは物心ついてから、“父がいない”家族のかたちをどんなふうに捉えていましたか?

翔太さん:父親がいない寂しさは感じたことはなかったです。生まれたときから父はそばにいなかったし。学校でもひとり親世帯が珍しくはなかったので、特に何か言われることもなかったですし。僕には兄が二人いるって、誇らしく思ってたくらいです。

──お兄さんと悠太さんが翔太さんに関わるうえで、“お父さん像”のようなものがあったのでしょうか?

悠太さん:自分たちも“お父さん”をよく知らないのにね。小さいながらに、周りのお父さんを観察したりしてました(笑)。おれらはサッカーをやっていたのでイメージは監督。けっこう翔太には厳しく怒っていたよね?

【写真】インタビューにこたえるしょうたさんと、しょうたさんを笑顔で見つめるゆうたさん

翔太さん:よく怒られて、もう本当に怖かったです。僕が5歳のときに長男は19歳なので、ほぼ大人だったんですよ。

悠太さん:自分が運動会に父が来てくれない寂しさがあったので、翔太の運動会は必ず見に行っていました。自分が小6のときは友だちの家にも2歳の翔太を連れて行ってたし。友だちもビビるよね(笑)。翔太が2歳から小4くらいまでずっと同じ布団で寝ていたし。

──自身も遊びたい盛りの小中学生の頃に、幼い弟の面倒を見ることは簡単なことじゃないと想像するのですが、当時、葛藤はなかったですか?

悠太さん:もちろん自我と戦ってましたね。友だちと遊ぶ時間と翔太と過ごす時間を天秤にかけるシーンもあったし、自由に遊んでる友だちを羨ましいなと思うこともありました。まあでも、単純に翔太がかわいかったのと、たぶん、母への恩返しみたいな気持ちもあったのかな。

僕は小学校からサッカーをやってて、遠征とか合宿とか、母は思う存分やらせてくれた。必死に働きながら。それには感謝してたんで、できるときはできることをしようと思ってました。

翔太さん:長男も悠太も当たり前のようにそばにいてくれて、寂しい思いをすることがなかったので、今はすごくありがたいなって思っています。

悠太さん:でも、兄貴が就職で先に家を出て、おれも大学で都心に出て、翔太と母を家に残しちゃったんだけどね。ひどい兄貴だよね、父親の代わりになるとか言っておいて。

翔太さん:ひどいとは思わなかったけど、ひたすら寂しかったですね。ふたりがいることが当たり前すぎたので。僕が8歳のときに長男が、10歳のときに悠太が家を出て、ふたりがいないことに慣れたのは14歳くらい。その間はずっと寂しくてよく泣いてました。帰ってくる知らせを受けたらウキウキして。それくらい存在が大きかったんです。

「父が違うこと」を打ち明けた兄の安堵と、弟の変わらない気持ち

──翔太さんは血のつながりのあるお父さまとの交流はあったんでしょうか?

翔太さん:クリスマスと誕生日、年に2回くらいは会ってました。でも僕からしたら、よく知らないおじさんがプレゼントを持ってやって来る感覚なんですよ。父と言われてもあんまりピンとこないというか。父と会うときに、悠太がついてきてくれることもありましたね。

──悠太さんたち兄弟と「父が違う」という認識はありました?

翔太さん:小学校高学年くらいまでは気づいてなくて。気にしてなかったのかもしれないです。

悠太さん:おれらが隠そうとしたからねえ。子どもの頃は翔太だけ父が違うことに後ろめたさみたいなものがあって。翔太がショックを受けたらどうしようって。だから兄とも「お父さん」って言葉は発しないようにしていたし。

翔太さん:アルバムを見たのかな。兄ふたりと写っている“お父さん”が、自分が会っている“お父さん”と違う。気づいたときは衝撃ではあったけど、ショックではなかった。

兄ふたりと違って僕だけ運動神経が良くなかったんですけど、「だからかあ」って腑に落ちたりして。兄たちと父親が違うことに対して、嫌な気持ちにはならなかったです。

【写真】手振りをしながら話すしょうたさんと、腕を組みながら話を聞くゆうたさん

悠太さん:おれはずっと悩んでいたんだけどね。翔太になんて伝えようって。

翔太さん:悠太たちから「父が違う」って言われたのは、専門学校に通っていたときだったよね?

悠太さん:漠然と20歳になったら伝えようと思ってたんだよ。兄貴と「こう言われたらこう答えよう」って翔太を傷つけないような対策をいろいろ考えて、お酒の力も借りたのに、翔太は「もう知ってるよ」ってあっけらかんとしていて。拍子抜けしましたよ。

──そこから、それぞれの心境や関係性に変化はありましたか?

翔太さん:僕は特に変わらなかったです。数年前に気づいていたし、やっぱりそうだよねって。ただ父親が違うだけで、兄たちと暮らしてきた事実も、家族であることも何も変わらない。僕にとって、悠太は悠太だし。父が違う、だからなんなの?ってくらいの感覚でしたね。

悠太さん:僕は随分楽になりましたよ。翔太に隠し事をしなくてよくなったから。自分の親父に会うときの話もできるし。心の荷がひとつ降りたような感覚がありました。

その時々のベストを尽くして、信頼してくれた。母への感謝

──悠太さんたちが翔太さんに「父が違う」ことを伝えるとき、お母さまには相談したんでしょうか?

悠太さん:母は一貫して、父と子どもたちの関係はあるけど、私には関係ないっていうスタイルだったんで。私からは伝えないけど、あなたたちのタイミングで言いたければ言いなさいって。言っても言わなくても、僕ら兄弟の関係は変わらないと思っていたんじゃないかなあ。

──子どもたちと母である自分の関係と、子どもたちと父親との関係を割り切って、いい距離感を保ちながらも、悠太さんたちを信頼していたんですね。

悠太さん:母は父の悪口を言うこともなかったですし。僕らの前で弱音を吐くこともなかった。たまに母が一人泣いている姿をこっそり見たことはあったけど。その理由はわからないまま。本当にパワフルな人で、朝から晩まで働いて寝ている姿を見たことがなかったから。

翔太さん:仕事をしながら、家でも、料理に掃除、僕ら子どもたちのこと、ずっと動いてたよね。

【写真】住宅街を歩きながら話すしょうたさんとゆうたさん

──幼少期から振り返って今、お母さまに対してどんな気持ちを抱いていますか?

悠太さん:大人になって自分も親になって、母が僕らにやってくれたことがいかにすごいかってことが身に染みてわかって。完璧ではなかったけど、母は彼女なりにそのときできるベストを尽くしてくれた。

いわゆる“母子家庭”ですけど、そこに引け目はないし、子ども時代から人生やり直せたとしても、同じ家族に生まれたいですね。母のことも兄弟のことも大好きなんで。

翔太さん:思春期は反抗もしましたが、母親には僕も感謝しかないです。

「父が違う」弟へのうしろめたさが溶けて、変化した父に対する感情

──悠太さんとお父さまとの関係性についてもお聞きしてもいいですか。

悠太さん:一応自分の父だと認識はしていますけど、育てられた感覚はないですね。会う機会も少なかったですし。会いたい、みたいな感情も特になかったので。父は実家の近くに住んでいたんで、会おうと思えば会えたのに、会おうともしてこなかった。

ただ、自分が大人になって、父は病気で体が弱かったこともあって、もっとこの人と過ごす時間をつくらなきゃな、この人を知りたいなという感情が芽生えてきて。数回ですけど、父とふたりで旅行をしたり会う頻度も多くなりました。

【写真】インタビューにこたえるゆうたさんと、その様子を見つめるしょうたさん

──それはどういう心境の変化だったんでしょう?お父さまに対して。

悠太さん:20歳半ばを超えたタイミングで、じいさんとばあさんが亡くなって、この人もいつか亡くなるんだよなあって。兄貴は父と仲が良かったので、どこかうらやましい気持ちもあって。おれもあんたの息子だよってことをちゃんと残しておきたかったのかもしれない。

29歳のときに翔太に父親が違うことを告げて、うしろめたさがなくなって、父に対する感情を整理できたのも大きかったと思いますね。父が亡くなったときに、もっと知りたかったなという気持ちはあったけど、僕なりに最期の時間を過ごせたので、そりゃめちゃ悲しいですけど悔いはないですね。30歳をすぎてからはしょっちゅう連絡とってたし、年に4回は会ってたので。

翔太さん:僕は悠太の父に会ってみたかったけどね。どんな人だったんだろうって単純に気になる。

兄への尊敬と、弟への愛情。兄弟の枠におさまらないふたりの関係

──改めて、翔太さんにとって悠太さんはどんなお兄さんですか?って大きな質問で、なかなか面と向かって言いづらいかもしれないんですが……。

翔太さん:僕の中で悠太は、身近な人でいちばん尊敬している存在。高校生のときから目標はずっと悠太でした。一時期、悠太の服装を真似していたときもあったくらい(笑)。働き始めてからも、悠太だったらどうするのかな?って考えることがありますね。

悠太さん:ちょっとそれはよくないね。もっと上を目指さないと(笑)。

【写真】住宅街で向かい合って笑顔で話すゆうたさんとしょうたさん

──身近にいる人を尊敬できるってすばらしいですね。どうしておふたりはこんなにも仲が良いんでしょう。

悠太さん:いやでも、兄貴とはめっちゃ喧嘩もしたし、そんなに仲が良くない時期もありましたよ。大人になってからは仲良いですけどね。なんだろう、翔太とは仲が良いよね。10歳離れてるから喧嘩をすることもないし。ちょっと言語化するのが難しいですけど、単に兄弟って関係にはおさまらないような……友だちって感覚でもないし。

──お兄さんとの違いは、単に性格や趣味の相性ってわけでもないですよね?

悠太さん:相性はよくないと思いますよ。性格も好みも全然違うし。

翔太さん:友だちとしては仲良くなっていないと思う(笑)。

──父親の代わりになるという悠太さんの言葉もありましたが、親子でも友だちでもなく、兄弟の枠にもおさまらない。唯一無二の関係性なんですね。

悠太さん:そうかもしれないですね。一言では語れないというか。

【写真】住宅街を歩くゆうたさんとしょうたさんの後ろ姿

──子どもがいて再婚を考えるときに、再婚相手に子どもがいるとか、再婚相手との子どもを産むとか、きょうだいのかたちについて不安を覚えることもあると思うんです。でも、おふたりを見ていると、子どもたちは子どもたち同士でちゃんと関係を築いていけるのかもしれないと思えます。

悠太さん:選択をするときに、子どもたちのことを考えることは大事だと思います。でも、子どもはどれだけ大人が考えてもその通りにはならないから。新しい家族のかたちに子どもが不安を抱くようだったら、その分一緒に過ごす時間をつくって愛情を注ぐとか、子どもと向き合って、あとは子どもたちを信頼するしかないと思いますね。

──おふたりのお母さまのように、完璧じゃなくても、自分にできるベストを尽くして、あとは子どもたちを信頼して任せる。

悠太さん:年が離れた兄弟の僕らみたいに、一緒に育てようっていうのは難しいかもしれませんが(笑)。母が自分で全部抱え込まなかった、というか当時の彼女はそれしかできなかったんだと思うけど。翔太のオムツを変えるとか、寝かしつけをさせるとか、おれらにも子育てを分担したことで、芽生えた特別な感情ってのもある気がしますね。父性なのか母性なのか愛情なのか、わからないですけど。

家族にあるのは、父、母、兄、弟という役割ではなく「その人」との関係性

──例えば離婚を考えるときに、子どもから父親を奪ってしまうことにならないかとか、家族の役割にスポットを当ててしまうこともあります。でも飯髙家は、役割に当てはめずそれぞれが1対1の関係性を築いているのかもしれない。そんなふうに感じました。

翔太さん:そうかもしれないですね。うちは父は不在だけど、兄がいて。たまたまそういう家族構成で、母も兄もそれぞれがそれぞれのやり方で可愛がってくれた。

そもそも僕は父親がどういうものか知らないから、悠太たちが父親代わりっていうのも違う気がしてて。僕にとっての父親は、年に数回しか会わない父なんで。

──役割というよりは「その人」でしかない。

翔太さん:正直な話、たぶん養育費の関係で父とはほとんど会わなくなったんですけど、悲しくないんです。母と兄たちと、それぞれの関係性があるから、別に父の存在を求めてなくて。

──冷たい言い方にはなってしまうかもしれないけど、実の父とは血がつながっているだけとも言えますもんね。血のつながり以上の関係性が翔太さんにはある。

翔太さん:だから、兄と父が違う母子家庭で育った子どもの立場として言えるのは、家族の中で、役割を担うというよりは、一人の人としての関係性を築いていけば、たぶん大丈夫。僕は、これまで父親がほしいと思ったことは一度もないです。

──父親が欠けているのではなく、母と兄弟3人が飯髙家、なんですね。

悠太さん:そう。母親が朝から晩まで働いて、歳が離れた兄たちが弟の面倒を見て、でも、だからこそ別の感情、愛情?が芽生えて大人になっても仲がいい。それが飯髙家であり、おれら兄弟なんだよね。

【写真】住宅街でカメラを見つめるゆうたさん、しょうたさん、ライターのとく

“母子家庭”や“ステップファミリー”。そういったわかりやすい言葉にすっぽりとおさめてしまうことを憚られるほど、唯一無二な飯髙家の家族のかたち。そこには、父、母、兄弟──役割を超えた1対1の関係性が存在するように思います。

我が家は母子家庭でもステップファミリーでもないけれど、夫が長期出張でほぼ不在のため、父と娘が関わる物理的な時間が圧倒的に少ないです。そのことに対して、私が夫に父としての役割を求め、不満と心配を抱いてしまうことがあります。でもきっと、離れていても、私のあずかり知らないところで、夫と娘の関係性はちゃんと育まれているのでしょう。

娘と夫。私はそれぞれと1対1の関係性を育んでいけばいい。たとえ世の中の“普通”や自分が勝手に抱いていた理想とかけ離れていたとしても。その先に、自分たちだけの家族のかたちができていくのかもしれません。

悠太さんと翔太さん、笑って肩を組むふたりの姿を見つめながら、そんな淡い希望のようなものが胸に灯ったのでした。

(撮影/野田涼、企画・編集/工藤瑞穂、協力/阿部みずほ)