【写真】壁の前で笑顔で立っているこんどうあきさん

いいことがあった日も、悪いことがあった日も、安心して帰れる場所。私にとって家はそんな場所でした。

私は一人っ子なので、何でも話せる姉や、頼りになる兄の存在に憧れた時期もありました。親とは、特別仲がいいというわけでもないけれど、同じ空間にいるだけで、なんとなく安心できる存在。それが私にとっての“家族”でした。

家族の数だけ、家族のかたちがあります。親子の関係性も家族によってさまざまです。

月に2回くらい実家に帰ることもあるんです。「あんた帰ってきすぎ」って言われてますよ(笑)。

屈託のない笑みを浮かべてそう話すのは、市役所で児童ケースワーカーとして働く近藤愛(こんどうあき)さん。

実は愛さんと、近藤家のお父さん、お母さん、そしてご兄弟に血のつながりはありません。愛さんは、幼いときに特別養子縁組として近藤家に迎え入れられたのです。

生みの親と離ればなれになって暮らす境遇は、ときに「かわいそうだ」と思われることもあるかもしれません。けれど、血のつながりのない家族も“ひとつのかぞくのかたち”です。

ときにわかり合えなかったり、ぶつかったり。一緒に暮らす以上、きっとどんな家族にもこうした出来事があるはずです。それらを一つひとつ、みんなで乗り越えていくことが大切なのだと思います。

「かぞくは、一番安心できる居場所」と話してくれた近藤さんは、どのように家族との関係性を紡いできたのでしょうか。近藤さんがこれまで生きてきた道のりを、一緒にたどっていきたいと思います。

乳児院の前で見つけられた小さな命

「生まれてすぐ、へその緒の付いた状態で乳児院の前に置かれていたんだよ」。私の生い立ちは、そんな風に聞いています。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるこんどうあきさん

愛さんは、こんな風に自らの出自を語り始めてくれました。

愛さんはその後、引き取られた乳児院で半年ほど生活し、里子として近藤家に迎え入れられることになります。養親とのマッチングをはかる試験養育期間が終了し、愛さんが1歳半のときに、特別養子縁組で近藤家の第五子となることが決まりました。

戸籍にも「近藤家の次女」とあるとおり、特別養子縁組を結ぶと、血のつながっていない夫婦と子どもの間に法的な親子関係を築くことができます。近藤家にやって来た当初は、まったく笑わず、泣かず、寝ない子どもだったという愛さん。しかし、1ヶ月ほど近藤家で暮らす中で、どんどん自我が芽生えてきたといいます。

それからは、同い年の子と同じように人見知りやイヤイヤ期も始まり、愛さんはすくすくと成長していきました。

お母さんが最後のミッションと感じて愛さんを引き取ることに

愛さんを迎え入れた近藤家は、お父さんとお母さん、そして男の子3人、女の子1人の4人の子どもがいる6人家族でした。両親は愛さんを引き取る前から、ベトナム難民の子を預かったり、病気や出産で子どもの面倒を見れない親に代わって一時的に子どもを預かる短期里親をしていたのだといいます。

転機は、お母さんがレベル4の子宮体がんに冒されていると、人間ドックで発覚したことでした。レベル5が末期と言われていたので、いつ命が危険にさらされるかもわからない状況です。

突然のがん宣告に戸惑い、先行きに不安を抱えながら生活していたお母さんはある日、地元のテレビで「乳児院の前に赤ちゃんが捨てられていた」というニュースを目にします。

そのニュースを見た母は、「もしかすると、これが、長く生きられないかもしれない私に与えられた最後のミッションなのではないか」と思ったそうなんです。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるこんどうあきさん

使命感を感じたお母さんは、家族に「この子を引き取って育てたい」と言います。しかし、「自分の病気を治すことに集中すべきなのに、何を言い出すのか」と、お父さんや子どもたちからは大反対にあいました。それでも、お母さんは一歩も引かなかったそうです。

ついには、お母さんの固い決意に家族も説得を諦め、愛さんを迎え入れる覚悟を決めました。

「めいっぱい褒めて、めいっぱい叱ってくれた」

お母さんは、児童相談所に「あの子を引き取りたいんです」と頼みに行きます。しかし、すでに愛さんは乳児院で保護されており、「2歳になるまでに施設から出すことは法律的にも難しい」と言われてしまいました。けれど、熱心なお母さんの姿を見て、教会で出会った判事の方がサポートしてくれるように。そして、予定より早く、愛さんは里子として近藤家に迎え入れられ、特別養子縁組を結ぶことができたのです。

愛さんには、近藤家にやって来た当初、「明美(あけみ)」という名前が付けられていました。これは、生みの親ではなく、愛さんが保護された地域の市長が付けた名前です。

近藤家にいた4人の子どもたちの名前は、みんな漢字一文字でした。

将来、「なんで私だけ漢字二文字なの」とふてくされないように

そんな優しさと、「みんなから愛されるように」という願いから、お父さんとお母さんは、「愛(あき)」という名前をプレゼントしたのです。

一番年の近いお兄さんで17歳差と、愛さんは兄弟と年が離れていました。愛さんの引き取りに反対していたお兄さんやお姉さんたちですが、いざ愛さんがやってくると「可愛いなあ」と新しくできた妹の動きや表情を夢中で見守ったのだといいます。

【写真】質問に丁寧に応えてくれるこんどうあきさん

家に帰ってきたときは一緒に遊んでくれて、よく私の世話をしてくれました。年が離れているからこそ、兄弟という感覚よりも、親がたくさんいるという感覚に近いんですよね。

近藤家は、お父さんが出張で不在のことが多く、褒めることも叱ることもお母さんの役目でした。その教育はとても厳しかったそうです。

思春期は学校でトラブルを起こすこともあったのですが、涙を流しながら叱ってくれたこともありました。今思うと、めいっぱい褒めて、めいっぱい叱ってくれたことはとてもありがたかったと思います。

5歳のときに受けた真実告知

愛さんはこうして、両親や兄弟から温かな愛情を受けながら育っていきました。ですが、幼稚園や小学校のときのことはほとんど覚えておらず、なんとなく暗い記憶だけが残っているといいます。

体が弱くて休みがちだったからというのも理由の1つだそうですが、一番大きな理由は「真実告知」があったからでした。

「真実告知」とは、育ての親が子どもに対して、生みの親が別にいることや、生んだ親にはさまざまな事情があって子どもを育てられない、ということを告げるものです。愛さんのような当事者でなくても、ドラマなどでそういったシーンを目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

愛さんは、5歳のときに真実告知を受けました。

当時、私が大好きだったシンデレラの「ビビディ・バビディ・ブー」の歌のメロディーに乗せて替え歌を歌いながら、生みの親は亡くなったことと、「でも、あなたはここに来るべくして来たんだよ」というようなことを伝えられたんです。

お母さんが真実告知をしたのには、きっかけがありました。ある手違いで、幼稚園の名簿に、愛さんが近藤家に引き取られる前の名前が載せられてしまったのです。

遅かれ早かれ、周りにばれてしまい、他の子どもやその親から何かを言われるのは避けたい。もし、他人からそんなことを言われたら愛さんは傷つくに違いない。

そう思ったお母さんは、「その前に自分の口から伝えよう」と、真実告知を決意しました。

けれど、5歳の愛さんにとって、いきなり目の前に現れた真実を受け止めることは簡単ではありませんでした。

【写真】インタビューに答えるこんどうあきさん

幼かったので、真実告知を受けたときのことはほとんど覚えていません。けれど、母親が座る椅子に何度も駆け寄って、「お母さんは、ずっと私といてくれるよね?」って繰り返し聞いたみたいで。たぶん、5歳なりに相当なショックを受けて、家族との関係が変わらないか不安があったんだと思います。

当時の幼稚園の先生からは、「真実告知を受けてから、愛ちゃんは笑わなくなったし、真っ黒な絵ばかりを描くようになりました。」とも言われたそうです。

「私は血のつながりのない家族なんだ」幼いながらに理解したその事実は、愛さんの心に孤独感と不安を生みました。

受け入れてくれる友人との出会いで前を向けるように

血のつながりがない親子であることは、徐々に周りにも知られていきました。それが理由で愛さんは、小学校や中学校でいじめを受けたこともあったそうです。

多感な思春期になかなか自分を理解してくれる人に巡り会えず、寂しさに耐えることが多い日々が続きました。

そんなとき、ひとつの転機が訪れます。入学した高校のクラスには、これまでと違う、どんな人のことも否定しない、受容的な空気感が流れていたのです。自分の言葉に耳を向けてくれる環境なら、自分の生い立ちのことも受け入れてくれるかもしれない。そう思った愛さんは、自然と周りに自分の境遇を開示するようになったといいます。

私が自分の話をすると友人も家庭のことを話してくれました。その中には想像もできないほど過酷な家庭環境で育った子や、高校在学中に親が突然いなくなってしまった子もいて。けれど、私の友人はみんな明るく、強く生きている子ばかりでした。私の境遇に対しても、「愛が近藤家の子ってことは変わらないでしょう。今こうやって生きていて、幸せなんだから、いいじゃん」って認めてくれたんです。

【写真】微笑んでインタビューに答えるこんどうあきさん

自分の過去や生い立ちについて、悪く言うわけでも特別扱いするわけでもなく、ポジティブな意味で「そうなんだ。それがどうしたの?」と吹き飛ばしてくれたこと。そして、今の自分を丸ごと受け入れてくれたこと。

そんな友人のあり方に愛さんは救われました。こうして、家庭以外にも安心できる居場所をつくることができたのです。

学校以外に、習い事として通っていたバイオリンとハープの音楽教室も愛さんにとってかけがえのない居場所になります。

どちらの習い事にも共通していたのは、愛さんのペースを大切にしてくれたこと。詰め込みすぎると飽きてしまう愛さんの性分を先生が見抜いて、「無理して来なくていいよ」などと声を掛けてくれたのだといいます。

愛さんは、自身をまるごと受け入れてくれる優しい存在に支えられ、どんどん自分らしくいられるようになっていきました。

「生い立ちを生かせる分野へ」身近にたくさん接点のあった福祉の道に進むことを決意

友人と楽しく高校生活を過ごしていた愛さんに、進路選択のタイミングが訪れます。最初は獣医を目指していたけれど、理系科目が苦手で断念し、どの学部に進むべきか迷っていました。

そういったタイミングで知ったのが、志望校のAO入試でした。AO入試とは、学力試験では測れない適正を、志望理由書や面接によって測る試験です。枠数は少なかったものの、「とりあえず受けてみよう!」ということになり、そのときに自ずと自分の進む道が決まったのだといいます。

論文や面接で自分をアピールして狭き門を通らないといけない試験だったんです。となると、自分にしかない武器で勝負しなきゃいけませんよね。そのときに浮かんだのが、自分の生い立ちのことでした。「自分の生い立ちのことを生かせる福祉の分野に進もう」って思ったんです。

【写真】笑顔でインタビューに答えるこんどうあきさん

実は、生い立ち以外にも愛さんの生活には福祉との接点がありました。両親が、大阪府の西成区で行われる、日雇い労働者の方に向けた炊き出しに使う野菜を以前から送っていたそう。その姿を、愛さんはずっと見ていたのです。また、近藤家の隣は障害のある方が働く事業所で、愛さんもそこにときどき顔を出していました。

人生を振り返ってみると、生活の中に自然と根付いていた福祉の領域。福祉の場でなら自分の経験を活かすことができるのではないか。愛さんはそう考えました。そして、受験を見事クリアし、志望校の門をくぐったのです。

自分の使命を受け入れたら、自分にしかできないことが見えてきた

社会学部社会福祉学科に入学した愛さんは、里親や養子縁組の領域を中心に、自身のルーツに関連する分野への学びを深めていくことになります。

ただ、入学前からそういったテーマを学ぼうと決めていたわけではありません。きっかけは、大学1年生のときに、ある講義で「真実告知」が取り上げられたことでした。

正直、自分が養子であることや、真実告知を受けたことはほぼ忘れていたというか、普段から意識はしてなかったんです。けれど、真実告知の話を聞いたら自然と涙が出てきて。

講義が終わった後、愛さんは居ても立ってもいられず、講義を担当した教授の元に行って、自分が養子であることや真実告知を受けたことを話しました。その間、涙が止まらなかったといいます。

そのときに教授から掛けられた言葉は、「大変だったね」でも「辛かったね」でもなく、「あなたはここに来るべくして来たんだね」という言葉でした。そして、私にしかできないことや当事者しか言えないことがきっとあるはず、と言ってくれたんです。

「あなたはここに来るべくして来たんだよ」とは、5歳で真実告知を受けたときに、お母さんから言われたのと同じ言葉です。初めて聞いたときには受け入れきれなかった言葉ですが、時間を置いて、その言葉は当時より優しく愛さんを包んでくれました。

【写真】微笑んでインタビューに答えるこんどうあきさん

愛さんが今、こうしたインタビューに応じ、名前や顔を出して自らの生い立ちや考えを話しているのも、この言葉があったからです。

私がこういう風に生かされてきたのは何かしらのメッセージを伝える責任があるからなのかも、って今は思えるんです。私と似た境遇でも、いろんな事情で、名前や顔を表に出せない方もいます。私は、たまたま実名を出せない事情もない。それなら自分のことを話そうと思っているだけです。

身につけた「研究者」と「当事者」の2つの目線

自身の生い立ちと向き合い、里親や養子縁組を研究領域にしよう。そう、愛さんは決意します。けれど、当初お母さんは、こうした分野について学んだり、将来関連する仕事に就くことに反対でした。

もちろん、自分と似た境遇のケースに出会ったり、仕事で対応することもあるわけで。研究や仕事より前に、当事者としての自分の感情が出てきてしまって、冷静に判断ができなくなるんじゃと不安に思っていたそうです。

お母さんの反対に遭っても、愛さんの気持ちは変わりません。「私が取り組む意味があるはずだから」と、強い意志で押し通しました。

進学した大学院で得た何よりの財産は、「研究者」と「当事者」の2つの目線だといいます。

たとえば、「赤ちゃん縁組」をテーマにしたときに、当事者としては「赤ちゃん縁組を広げて、いち早く家族の元で育てられる子を増やしてほしい」という願いがあります。一方で、研究者としては「急いで縁組の数を増やすことよりも、それぞれの子どもに合う養親をちゃんと探さなければいけないし、そのマッチングを丁寧に行うことが大事」だと冷静に判断することができるのです。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるこんどうあきさん

愛さんは大学院を卒業後、市役所で児童ケースワーカーとして働いています。学校や病院など、子どもにかかわる関係機関から相談が寄せられたり、ときには親御さんから育児の相談を受けることも。そうした仕事に携わる中で、愛さんは「パターン化しないこと」を大切にしているそうです。

たとえば、若くして出産した方が貧困状態に陥って子どもを育てられなくなる、といったサイクルがよくあります。過去の事例を元に未来を予測することは簡単です。でも「こういったサイクルになってしまうから、こうした対応が必要だ」と思い込むのではなく、何か違う方法でアプローチすることができないかと常に考えています。

当事者としての思いを持ちながらも、このような俯瞰の姿勢を持って、愛さんは課題の解決に取り組んでいます。

真実告知は真実を伝えるもの、どうか嘘は付かないで

特別養子縁組や里親関係にある親にとって、避けられないのが、大切に育ててきた子どもへの真実告知です。「いつ子どもに真実告知をするべきか」と悩み、不安で胸を痛める親は多くいるといいます。幼い頃に真実告知を受けた愛さんは、そのタイミングなどについてどう考えているのかを聞いてみました。

子どもたちは十人十色なので、真実告知をいつすべき、と言いきることはできません。私は幼い頃に受けましたが、成人した後に初めて真実告知を受ける子もいます。ただ、私は、なるべく早い方がいいのかなと思っています。

とはいえ、幼い頃に真実告知をされても、子どもはすべての事情を理解できるわけではありません。伝え方によっては、大きく混乱させてしまうこともあります。「どんなことに気を付けて、真実告知を行えばいいと思いますか?」という問いに、愛さんはこのように答えてくれました。

真実告知だからといって、すべてを言わなければいけないわけではありません。子どもの年齢に合った言葉選びや言い方をしたほうがよいし、まずは一部分からの説明だけでもいいと思うんです。

例えば、親が犯罪を犯して育てられなかった場合は、「お母さん、ちょっと悪いことしちゃって今は会えないの」だけでもいいし、事情を伝えるのさえまだ早いと思ったら、自分が生みの親ではないことだけを伝えるだけでもいい。詳しいことはおいおい話していってもいいと思います。

ほんの一部分からでも幼い頃に伝えておくことで、その告知がクッションのような役割になり、成長してさらに詳しい事情を聞いたとしても受け止めやすくなるのではないかと愛さんは話します。一方で、「嘘をつくことはやめてほしい」と言葉を強めます。

【写真】インタビューに答えるこんどうあきさん

愛さんは5歳で真実告知を受けたときに、生みの両親は亡くなったから近藤家に引き取られたと聞かされていました。しかし、実は生きているということが、中学時代に明らかになったのだそう。

思春期にケンカをしたはずみで「生みの親が生きている」と聞かされたときは、驚いたし、何より嘘をつかれていたことに対してすごく腹が立って、悲しくて、心が荒れてしまいました。

結局、生みの親は見つからなかったので、自然と気持ちが鎮まっていきました。けれど、親子の絆を守るためにも、嘘だけはつかないようにしてほしいというのが、私の願いです。

実は、愛さんのお母さんは乳児院の当時の職員に尋ねたりしつつ、ずっと愛さんの生みの親を探し続けていたのです。「もし見つかったら、愛に言おう」そう思って心に秘めていたのだと教えてもらい、全てはお母さんの優しさからの配慮だったのだと愛さんは理解することができました。

真実告知はスタート、そこから始まる親子の二人三脚

親からすると、真実告知はエネルギーを使う大変な出来事に違いありません。伝え終わると、少しホッとすることもあるでしょう。けれど、それは1つの点でしかなく、そこから伸びていく線の方がもっと大事なのだと愛さんはいいます。

里親や養子縁組の家族にも、「真実告知がゴール」と思っている方は多くいます。けれど、それは1つの節目であるだけです。

私は、「真実告知はスタート」だと思います。その瞬間から、子どもと育ての親の二人三脚が始まるイメージです。二人三脚のスタートを早く切れるから、できるだけ早く真実告知をする方がいいと思っています。

親が全てを話し、子どもがそれを受け止めて終わり、というわけではありません。告知を受けてから、子どもにとっては葛藤が始まります。もちろん、幼い子も幼い子なりに、悩み葛藤するのです。

ここから子どもが自分の生い立ちを受け入れて歩んでいけるかどうかは、親や周りの人のサポートにもよります。

私は、親に愛情を注いでもらい、兄や姉に差別されることもなく、可愛がってもらいました。真実告知をされても、何も状況は変わらなかった。だから、徐々に告知を受け入れて進んでこれたんだと思います。でも、もし兄弟に差別されるような発言をされていたとしたら、どうなっていたかわかりません。

また、真実告知を幼いときに受けたとしても、自分の生い立ちに対する問いや疑問はずっと残るもの。愛さんも、反抗期のときには「血も繋がってないのにうるさい!」などとお母さんに言ってしまったことがあるそうです。反抗期を過ぎても、就職や結婚などさまざまなタイミングで、自分の生い立ちと向き合わなければならない時は訪れます。

こうした試練に、どうやって親子で向き合っていけるか。それが試される時間でもあるのです。

きっと、子どもは何度か、二人三脚の紐を解こうとすると思うんです。けれど、そこで親は、逃げようとする子どもの腕を握って止めてほしいんです。私は、母に止めてもらったから今があります。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるこんどうあきさん

何度紐を結び直したっていい。一旦休憩してもいい。だから、一緒に同じ方向へ向かって歩み続けてほしい。そう、愛さんは願います。

真実告知はスタート。

それは心の葛藤のスタートであり、自分を知る道のりのスタートでもあります。愛さんも、年を重ねるごとに、自分の過去を少しずつ知っていきました。

過去を知ることや向き合うことは、苦しくはありません。その都度、新しいことを知っていけるような感覚なんですよ。

大学4年生のときには、卒業論文を書く過程で、当時の地方新聞に愛さんが乳児院の前に置かれていたニュースが載っていたことを知ります。どうしてもその記事が読みたくて、図書館で新聞のバックナンバーを探し、やっと見つけることができたのだそうです。

自分がどのようにして生まれたのか、自分のルーツはどこにあるのか。特別養子縁組や里親の元で育てられた子どもにも、そういった出自を知る権利があります。もちろん、知りたいと思うかどうか、向き合うかどうかは人それぞれでしょう。その中で愛さんは、知ることを選んだのです。

生みの親への思い「生かしてくれてありがとう」

お母さんが必死で探していたものの、結局愛さんの生みの親が誰なのか、今どこにいるのかは分かっていません。出生時に親がわかっている場合、戸籍には生みの親や生まれた家の住所が記されています。しかし、愛さんの戸籍に記されていたのは、福井県庁の住所でした。

思春期のときには「私を産んでくれた両親が生きているかもしれない」と知って、愛さんは動揺しました。しかし、探しようがないという事実があったおかげで、心の落しどころを付けられたのかもしれないとも話します。今、生みの親に対してどのような感情を抱いているのでしょうか。

昔は、恨みつらみの気持ちでいっぱいで、「絶対許すもんか」って思っていました。けれど、今は「産んでくれて、生かしてくれてありがとう」と思えるんです。

子どもを産まない選択肢も、殺めてしまう選択肢も、誰にも見つからず助からない場所に置き去りにする選択肢もあったはずです。

けれど、生みの母は、冷えないようにと私の体をタオルで包み、ボストンバッグに入れて、乳児院の玄関にあったベビーカーの中に置いてくれました。今は、それが見つけてほしいという願いの表れであり、母からのせめてもの愛情だったのかもしれないと思えるんです。

【写真】微笑んでインタビューに答えるこんどうあきさん

きっと、この言葉が出てくるまで、いろんな感情が駆け巡り、葛藤があったはずです。けれど、愛さんは清々しい表情でこう語ってくれました。

愛さんの心の中にはずっと、「絶対に埋まらないワンピースがある」という感覚があるのだそうです。

以前お話させていただいた女優のサヘル・ローズさんも「自分が永遠にずっと探し続けているワンピースがある。その埋まらないワンピースを、無理に埋めようとするのではなく、どこかで見つかったらいいかなと思って過ごしてる」とおっしゃっていました。本当にそんな感覚なんです。

もしも生みの親に会えることがあったとして、このワンピースが埋まるのかどうかはわからない。愛さんは、ぽつりとそうこぼします。自分の出自を知って、過去のピースが埋まっていったからこそ、これから愛さんはそのワンピースをゆっくりと探していくのでしょう。

家族と過ごせる今の時間を大切に

愛情を受けて、近藤家で育った愛さん。愛さんにとって家族とは、揺るぎない自分の居場所だといいます。

「ただいま」「おかえり」って言いあえる存在であり、自分が「しんどい、もう無理」って思ったときに、ふらっと返れる巣のような場所です。

実家には、幼い頃の愛さんの写真がたくさんあるのだそうです。

私が引き取られてやってきた翌日の写真を置いてくれてるんです。「もぐ」って名前の猫と一緒に寝てるだけの写真なのに、何枚も(笑)。

他にも、はじめてハイハイしたとき、ピースしたとき、熱を出したとき、毎年の家族旅行の写真も。そのときの状況がメモに綴られた写真が、順番にアルバムに入れられて、大切に残されています。

家族には、これ以上何を望むんだろうって思うくらい、大切に育ててもらいました。

普段は地元を離れて暮らしているけれど、月に2回、実家に帰ることもある愛さん。居場所である家族の元に頻繁に帰るのには、理由がありました。

やっぱり、両親が老いていってることも感じるんです。もちろん、いつまでも元気でいてほしいというのが願いだけど、それ以上に今のうちに作れる時間を大切にしないとって思います。

実家に帰省する以外にも、年に2回ほど、家族でお母さんの故郷である広島にも訪れているそうです。愛さんのお父さんとお母さんは、過去に戦艦大和のドックがある造船所で働いてました。当時の話を、お父さんからときどき聞かされていたのだと愛さんは笑います。

【写真】笑顔でインタビューに答えるこんどうあきさん

いつか、父と一緒に戦艦大和のドックを見に行くことが前からの夢だったんですが、この前やっと跡地を見に行く夢が叶いました。働いていたときの話を自慢げに、嬉しそうに話してくれる父の横顔を見ていたら、血縁って本当に関係ないなってふと思ったんです。

愛さんがまだ幼い頃、お母さんが居間を覗くと、お父さんと愛さんが並んで横になり、ひじを付いてテレビを見ていたことがあったといいます。その姿を見て、「大きいアザラシと小さいアザラシがいる!」とお母さんは嬉しそうに言ったのだそう。同じ時間をすごすうちに、親子はどんどん似ていくのかもしれません。

家族で結んだ絆と支え合いの中で子どもの笑顔が生まれる

【写真】微笑んで立っているこんどうあきさん

いま、日本において、さまざまな事情により親と一緒に暮らせない子どもは4万5000人ほど。こうした子どもたちが、里親や特別養子縁組といった制度によって、家庭で暮らせる動きが広がることは望ましいことのように思います。

一方で、そうした動きが広がるほど、広がりの先にある「新しい家族関係のはじまり」にも目を向けなければと感じます。

「家庭に引き取られたら子どもは幸せ」という単純なものではなく、信頼関係をいちから築いたり、いつかは自分の出自と向き合ったりと、家族になった後も目の前にはいろんな出来事や課題が現れ続けてくるからです。

それに家族でどうやって向き合っていくのか。きっとその姿勢が大切になるのでしょう。

愛さんのお話を聞いていると、近藤家は家族を繋ぐ糸を大切に結び、ほどけてしまったとしても何度も結び直してきたからこそ、今の関係性があるのだと感じます。そうできたのは、「きっとわかりあえるはず」と信じる心や、「どんな壁も一緒に乗り越えるんだ」という決意があったからかもしれません。

ときに家族だけで背負いきれないものは、周りの人がサポートして、悩みを受け止めることができるような居場所を作ることも大切です。

それはきっと、特別なことではなく、何気ない人と人との支え合いであるはず。優しい支え合いの中で、すべての子どもが笑顔で暮らせるようにと願うばかりです。

【写真】最後にとてもいい笑顔を見せてくれたこんどうあきさん

soarと認定NPO法人SOS子どもの村JAPANは、「もう一つの“かぞく”のかたち〜これからの社会的養育について考えよう」と題し、子どもたちにとってより望ましい「“かぞく”のあり方」とは何か、読者のみなさんと一緒に考えていく企画を展開しています。

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<1>親と暮らせないこの子たちに、安心できる家庭をつくってあげたい。「子どもの村福岡」で里親をする田原正則さんと子どもたちの日々

<2>キックオフイベントのレポート:地域の多様なひとが「かぞく」や子どもの育ちに関わる社会に。SOS子どもの村JAPAN、よしおかゆうみさんと考えるかぞくのあり方

<3>福岡は「里親」先進都市って知ってました?まちぐるみで子どもを育ててきた地域の軌跡

<4>どの子どもにも「生きていてくれて、ありがとう」と伝えたい。児童養護施設等から巣立つ子どもたちを支える「ゆずりは」高橋亜美さん

<5>この保育園はまるで“家族”みたい。夜の歓楽街をやさしく灯す「どろんこ保育園」という親子の居場所

<6>日本でただ一つ、匿名で赤ちゃんを預かる「こうのとりのゆりかご」に託された思いとは?ひとりで妊娠・出産に悩む女性のためにできること

(写真/向直弥)